ハザード・エスケイプ(不可)

2016/07/04

黙って自分の筆記用具を手にする。どうして君が、といういつものように食い下がってくるその男性の声を聞きながら、本当どうしてだろうね、とレオは言いたくなった。
その男性に対峙しているのは自分ではなかったのだが。


ぼんやりと目の前の光景を眺める。何揉めてんの、と同じゼミの女生徒がまるで猫のように現れて、レオははっと顔を上げた。「……あ、いや、何でも…」「何でも?何でもある?」そう笑って言うと、一つ年上のその女生徒が首を傾げてレオの先輩の方を指差す。「…てゆかさっきのホントに?何であんな奴選んだの?」「あー…えっと…」首を傾げたせいで、彼女の髪が揺れる。トレイシーという名前の彼女は、レオの先輩であるザップ・レンフロと同級だった。
付き合ってるっていうか、とレオがトレイシーにもごもごと説明している間にも、男の胸倉を突き放すようにしてレオの先輩はこちらに歩いてきた。「…ったくおめーはよ。はっきり言えって言ってんだろいつも」彼の足によって椅子が蹴飛ばされて派手な音を立てる。
「…………。」
何も今ここで、とレオは顔を覆いたくなった。何でわざわざみんなの前でそういうこと言うの?ついさっきあった出来事を回想しながら、レオはペンケースを鞄にぽいと投げ入れた。「ねえねえ、やめなよ。人生損してるよそれ」そう言って真顔でトレイシーはレオの方に向き直った。そこなんですか?とレオが彼女に聞く前に、うるせえな、とザップは乱雑に言うと、自分の鞄を背負った。
「レオ。行くぞ」
「…はい」
自分の顔が青いのか赤いのかは分からない。それはいいんだけどさ、とそこでトレイシーは可愛らしくまた、首を傾げた。いいんだ、とレオは思ったが言う気力が無い。
「こないだ私が貸したお金返して。私今日バイトなの」
「金稼ぎに行くのに何で金が要るんだよ」
真顔でそう言ったザップをトレイシーは睨むと、ほらやめなよ、とレオの方に向き直った。「え」きょとんとする。
「こんなクズと付き合ってたら時間の無駄じゃない?よっぽど猫と遊んでた方が楽しいわよ」
「猫?」
鸚鵡返ししたレオの方にザップはやって来ると、うるせえよと悪態を吐いた。そこでやっと三人の後ろの方から呻き声がする。はっとレオはそちらに顔を向けたが、ザップはレオの顔をがしりと掴んでそのまま引きずるように、歩き出した。「わ、わわっ!ころ、転びます!」「知るか」行くって言ったろと言いながら、ザップは歩き出す。眼を押さえている手を何とか退けながら、レオは慌ててザップの方を見上げる。
どういう訳か満足げな顔をしていた。何その顔、と思ったがレオは指摘できず、結局黙ってそのまま先輩の横でそっと前を向いて、歩く。

先輩の表情とは裏腹に、自分の胸中には靄が溢れていた。


また告白された。いや、厳密に言えば告白とまではいかない。ただ単に誘われた、だけだ。けれどそれは今のことではない。今の授業の直前だ。今日は既に卒業した、つまりOBを交えての授業だったのだ。やって来たOBに、どういう訳か久しぶり、と言われてレオは呆気に取られた。曖昧に相槌を打ちつつ顔を見て思い出した。バイト先の予備校で何度か話したことがある男だった。ああどうもと挨拶して適当に喋っていたのだが、唐突に付き合っている子はいる?と聞かれてレオは嫌な予感に襲われた。大体、そんなことを久々に会った知人に言われる筋合いもない。一体この感覚を今年何度味わえばいいんだ、と思いながらも自意識過剰だと自分に言い聞かせて話を再開する。あははとか何とか適当に笑って誤魔化そうとしていたが、しかしながら唐突にそのOBがレオの手を掴んで、真剣な顔で言ったのだ。
――――授業が終わったらどこかにいかない?
その台詞だけだったら別段何の問題もなかったのに、手が掴まれているのがおかしかった。いえちょっとこの後は用事が、とレオが丁重に断りをいれたにも関わらず、そのOBは授業が終わった後もレオの手を性懲りもなく、掴んできたのだ。ねえレオナルドくんこれからどこかに、というそれを再度彼が口にした瞬間だった。レオの先輩が思い切りその手を叩き落とした。あとは大体冒頭に戻る。ザップが暴力らしい暴力は殆ど振るわなかったのは奇跡に近い。
だから、とザップが苛立ったように言ったのがレオの耳にだってちゃんと届いていた。『だからレオは俺と付き合ってんだって言ってんだろーが!』それをその人に言うのは多分初めてです、とレオは言いたかったが言えなかった。明らかに残っていた同ゼミ生はぽかんとした顔をしていたし、それは勿論講師のスティーブン・A・スターフェイズも同様だった。教授であるエイブラムス・T・ブリッツは何だそうなのか、と一言言うと、豪快にそりゃーめでたいなあと笑っていたが、その時点で笑っていたのは彼だけだった。どう考えても彼がおかしい。そのままずるずるとスティーブンを引き摺るようにしてエイブラムスは去って行ったが、教室にはレオとザップと、それからそのOB、あとはトレイシーを含めた数人のゼミ生が残っていた。トレイシー曰くこの教室でお昼食べるから、ということらしい。レオもたまにそうやって昼を取ることがあるが、今日はそんな気分になれなかった。ザップが件のOBと揉めている間にも、トレイシーの友人と思しき女生徒が物凄く好奇心に満ち溢れた顔でレオのことを見つめていたからだ。記者会見を開く芸能人の気分がレオには、分かるような気がした。


「…飯…はあー、学食は駄目だな。もー混んでるし」
そうザップは嫌そうに言って煙草に火を点けた。前は混んでる時にいるのを見たってビビアンさんが言っていたけど、とレオは回想しながらそうですかと小さく呟いた。また何となく、溜息を吐きたくなる。それが一体何に起因するものなのかはよくわからなかった。
「…別に俺学食でもいいんですけど。割引効くし、それに今だったら外もどこだって混んでるじゃないすか」
「んー…」
でもなあ、とザップは言いながらのろのろと別棟の方に足を向けた。「え。そっちの学食行くんですか?遠いですよ」「でも空いてんだろ」「そんなに混んでるのヤなんすか?」別棟は歩いて数分の位置にある。本校舎に通っている生徒からすれば数分は遠いし、しかも昼休みは一時間くらいしかないから時間も足りない。だから利用するのは四限、もしくは五限に授業が入っていない、歩いても構わないと思う変わり者の生徒か教師陣くらいだった。歩いて数分と言うのは、片道ならばともかく往復だと意外にも億劫なのだ。
「嫌っつーか。おまえが探しにくい」
「は?」
だってお前チビだからさ、とザップはどうでもよさそうに言って煙草の煙を吐き出した。「なんかこー、ぱっと見お前が視界にすぐ入った方が、やり易いじゃん。色々」「…………えーと」よく分からないです、と言ったレオに、それは別にいいとザップはやっぱりどうでも良さそうに言った。分かって欲しくて言った訳ではないらしい。
「それによ、あっちはあっちでモテなくて済むんじゃねえの。おまえも」
「え」
「人少なきゃ確率は減るだろ。フツーに考えて」
そう爆笑交じりに言ったザップを見上げて顔を顰める。それはそうだけど、そこで笑う意味がわかんねえよ。そう思ったが、レオはそれを口にせずにわかりました、と頷いた。幸いとでも言えばいいのか、レオは五限目が入っていなかったのだ。というか今日はこれで授業が終わりだ。ザップはどうなのか、レオは知らなかったけれど。

そういえば、とのろのろと別棟の学食へ歩く道すがらレオは思った。
――最初はこの人も俺が告白されてるのを見たらただ笑うだけだったのに。
今やキレるようになってしまった。最初は爆笑しまくって、しかもその後飽きたから帰るとまで言っていたのに。途中から暴力が混じるようになったが、その理由は、周りからレオとザップがつきあっていると言う謎の勘違いをされたため、というものだった。そんな事実は勿論ないし、よくよく突き詰めれば今だってすぐにイエスそうなんですよ、と頷けはしない。
じゃあ今は、とレオは思った。
――――今は何で怒ってるんだろう。
「…………。」
無言でそっと隣に並ぶ男を見上げたが、いつもの如く怠そうな目線で前を向いている。「………。」目を元に戻した。聞き難い。聞いたところで、答えてくれるかどうか怪しいし、大体、とレオは思った。
聞いたところでどうしたらいいのか分からない。
「あ、レオ」
ぼんやりしていたレオの耳にその聞き慣れた声が入ってくる。「あ」ザップと二人で別棟への道を歩いていたが、その道は大体一本道で、道の横には街路樹が植わっていてまるで木のトンネルのようになっていた。丁度その道の先、大体5メートル強くらい前にウィリアム・マクベスが立っていた。
「ウィル」
小さくレオがそう言ったのが聞こえたのかどうかは分からないが、ザップが煙草をポイ捨てするのが目に入った。そういうことをすると、とレオが顔を顰めてザップさんと注意しようとした時だった。ぐいと胸倉辺りを掴まれたことにレオは気が付いた。
「へ」
そう言う暇はあった。別になくてもあっても大してこれからの事象に関わり合いはなかっただろう。レオの唇にいつもの、慣れた感覚がやってきた。「ん、……、……ん!?」途中ではっとしてばたばたと暴れたレオの唇はすぐに解放された。いつもの如く唇は舐められたが、余りにぽかんとしていたせいでレオは何も言えなかった。
「…………。」
ぼーっとしたまま横にいる男を見上げる。「…なんだ」つまんね、と本当につまらなさそうにザップは言うと、溜息を吐いてまたポケットをまさぐる。煙草を取り出す気なのだろう。突然何するんだ、と言おうとしてレオは思い出した。ばっと前に目を向ける。
無論そこには友人であるウィリアム・マクベスが突っ立っている。こちらに走ってくるところだったのだろう。手を上げてにこにこした顔のまま、まるで時間が止まったかのように動きが停止されている。
「…………………。」
引き攣った顔をして突っ立っているレオのことを見下ろして、オイさっさと行くぞとザップはがしりとレオの腕を掴んだ。「早よしねーとサッカー部の奴ら来るべ。今日練習してるっぽいし」「………、……。」無言でずるずると引き摺られるように、ウィルのところまで近づく。普通会話すると同じくらいの距離になる前に、レオは我に返った。慌ててザップの手を振り払う。何だよとザップが怪訝な顔になった。
「なん、なな、何だよじゃねえ!な、ななな何すんですか!!」
明らかに怒っていると分かる声の筈だ、とレオは思ったが、それに反して自分の表情は物凄く照れているというそのものだったから、怒った意味は半減されている。「……何って」キスだろ、とザップは怪訝な顔でそう言って首を傾げた。そこでそんな反応されても俺は絆されない、とレオは普通に腹が立って何となく、口を手で押さえた。
「っ、そーじゃありませんよ!何でわざわざこんなとこでするんですって言ってるんです!」
「あ?ああ、なんかほら、そこのガキが」
ひょいとザップはウィルを指差した。そこでやっとウィルの硬直は解けたらしい。ぎしぎしという音を出しそうな勢いで腕を下ろし、なぜか眼鏡を外してレンズを拭き始めた。口笛を吹いている仕草をしているところを見ると、自分は何も見ていませんとでも言いたいらしい。古典的な、とレオは言いたくなったがとりあえず友人は放置してザップに向き直った。
「…ウィルが何ですか」
「あ、なんだ。友達か」
「そうですけど。……?何すかそれが」
やはり自分が彼の名前を呼んだのは聞こえていなかったらしい。「いやな。またおめえに好きだ付き合って下さいとでも言うんじゃねーかと思ったから」先にこーしとけば手間が省けるだろ、とザップに言われて唖然とした。
「…ほんとにそんな理由で?」
「そんな理由って何だよ。おめえ俺がどんだけ身体張って守ってやってると思ってんだ」
真っ赤な顔で訴えたレオの横で、ザップは呆れたように言うと頭を掻いた。「あのガキだって矢鱈にこにこしてこっちに走ってくんだぞ。最近てめーに告白する奴はあんな顔してる奴ばっかじゃねーか」「そーいう人たちとウィルを一緒にしないでくださいよ!」「愛想がいいってことだよ」ザップはそう言うと、まあいいから飯行こうやと酷くどうでも良さそうに言った。
「…………………。」
むっとしたまま、レオはそっぽを向いてウィルの方に走った。「あ。おいコラ置いてくな」そう後ろから声が聞こえたが、レオは返事をしない。ウィルのところにはすぐ到達した。
「あっレオじゃないか!僕は今丁度そこでご飯を食べてきたところなんだ。偶然だね」
「…………いや、いいから。もうそんな誤魔化し意味ないから」
がくりと肩を落としてそう言ったレオに、真っ赤な顔をしてウィルはなぜか口を覆い、大きな目を瞬かせて言った。「…す、すごいね!僕パパとママ以外のキスって生で初めて見たよ」「やめてよ。もういーから授業行けって」「あー、冷たいなあ」そうくすくすとウィルは矢鱈楽しそうに笑った。レオは顔を真っ赤にさせたまま、最悪、と小さく呟く。何でキスしてるところを友達に見られなきゃいけないんだ?しかもどう考えてもあれはしなくていいことだったじゃないか。
「…てゆかなんだ。もう付き合ってるじゃん。何を悩んでるのレオは」
「……付き合ってないよ」
そうきっぱりと、ついにそう言ってしまったレオに、あんなキスしといてとウィルが呆れたように言った。「付き合ってないわけないじゃないか」「世界はウィルが思ってる程単純じゃないんだ」「あ、バカにしたな」してないよ、いいやしただろ、と言い合っている二人のところにザップもやって来た。
「おいレオ。行くぞ。飯の時間がなくなんだろ」
「………わかってますよ」
そう言った後に、ザップも、それからなぜかウィルも怪訝な顔になった。「…何拗ねてんだお前」「何拗ねてるの?」同時に言われてレオは仏頂面になる。一方、同時にそう言ったレオの友人と先輩はちょっと驚いたように顔を見合わせた。
「…ええと、どうも。ウィリアム・マクベスです。一回だけコンパか何かで擦れ違う程度に会ったことがあると思うんですけど」
レオとは友達です、と強調して言ったウィルに溜息を吐きたくなりながら、友達ですよと一応ザップにまた同じことをレオは伝えた。「……、……あー、アレだ。妹が。あの、女子大行ってるっていう」ザップは二秒程考えた後にそう言ってきたので、レオは顔を覆ってしまった。そういうことばっかり覚えてるんだこの人。ウィルはああそうですと呑気にもにこにこしてそう言った。
「あのさ、そんな呑気にしてる場合じゃないって。この人見境がないんだからホワイトの写真とか絶対見せちゃだめだよ」
思わずレオはそう言ってしまった。ウィルはぽかんとしたが、無論ザップは何だとコラと言いながらレオの頭を軽く小突く。レオはそれを無視して、顔を顰めた。「いやマジでホントに。ホワイトは可愛いし気を付けた方が」「だから何だとてめーコラ」「あたたたたたやめてくだ、痛いっすよ!」揉め始めた二人を見て、ウィルはきょとんとしたまま首を捻る。大きな水色の眼がぱちくりとしているのを見て、レオはよっぽどウィルの方が”モテそう”なのにと半ば以上八つ当たり気味に考えた。どちらかと言えば彼は女顔と言っていい。
「…?だって今二人は付き合ってるんでしょ」
そうウィルは不思議そうに言ったので、レオはう、と顔を引き攣らせる。さっき否定したじゃないか。そう思ったのにザップがレオを抓っていた手をぱっと引っ込め、矢鱈と楽しそうにそうそう、と軽く肯定した。ぐいと肩を引き寄せられてレオは顔を顰める。何のつもりなんだ、と思った。
「じゃ、大丈夫でしょう。君がいるんだし」
「………、……別に」
僕がいたってと言おうとして、やめた。馬鹿馬鹿しくなったのだ。そんなレオを一瞬不思議そうにまたウィルは見つめてきたが、すぐにザップに視線を移した。
「…ええと、あのう。レオと付き合ってるんですよね」
「ちょ、だからウィル」
ザップの手を無理矢理引き剥がし、レオは噛み付く様な勢いで友人の肩を掴んでしまった。「おー。そーだそーだ付き合ってる付き合ってる」物凄くザップは雑な言い方でそう肯定すると、腕を組んだままこくこくと頷いた。普段同じことを二回以上問いかけられるとさっきも言っただろと嫌そうに言う癖に、なぜ今回は怒らないんだ、とレオは疑問に思う。頷いている先輩を見ていたら、なぜか鳥の形をした水差しをレオは思い出してしまった。
「……よかった」
そこでなぜかウィルはほっとしたように笑うと、それじゃあよろしくお願いしますと笑って言った。何がだ、とレオもそうだがザップも思ったらしい。きょとんとした顔をしていた。
「…最近ほら、ええと。…レオに天災ばっかり起きるから」
ビビアンが言っていたそれを引用された。まあ僕もしたけど、とレオは思いながら怪訝な面持ちでウィルの言葉を待つ。友人は考えるようにちょっと首を傾げて、なので、と困ったような顔で笑った。なぜかそういう表情が、彼には酷く似合う。
「良かったです。レオは僕と同じで人に助けてって言うのが苦手だから」
助けてあげてください、とウィルは続けて苦笑した。
「………ウィル」
レオは戸惑ってそう、友人の名前を呼ぶ。呼ばれたウィルはちょっと照れたように笑った。「…だろ?ほら、君は…ええと、何て言うか。…とても格好良いからさ」ヒーローみたいにね、とレオからすればウィルは意味不明な事を言うと、それじゃと言ってリュックを背負い直すと、ぱっとまるで踊るように、レオたちが今まで歩いてきた方向に向かって足を運び始めた。
「それじゃ僕五限あるから。またね!」
そう言って手を上げ、ぱたぱたと走って行く友人の後姿を見つめる。「………。」何が何だかよくわからなかった。
ザップもレオと同様、黙って彼の後姿を見つめていたが、行くかと一言言ってすたすたと歩き始めたので、レオも慌ててその後を追う。横に並んだ。
「……あいつなんか……、…おめーと似てるな」
「え?……あ、ウィルが?」
「オウ」
似てたよ、と言われてレオは少し黙って考えた。似てる―――のだろうか。ついさっきあったやり取りだけで、ザップがそれを判断した理由はさっぱり分からなかったが、そうですか、とレオは言うにとどめた。うん、とザップは端的にそう肯定して、黙った。
―――似てるって。
「………あ、あの」
「あ?」
「別にあの、ウィルはそう…あの、俺よりよっぽど顔綺麗だけど」
「?何の話だよ」
怪訝な顔でザップがレオを見下ろしてくる。「えっとだから…、あの、…お、俺みたいになんか、告白されたりとかしてないすからね」「はあ?何だよソレ。それがどーした」そんな話聞いてねーぞ、と言われてレオはうぐ、と言葉を噤んだ。黙り込む。
「………?なんだ。顔あけーぞ」
「…何でもねえっす」
そう言ってすたすたと早足に歩き始めたレオの後ろから、あ、オイ待てよと声がかけられたが、レオは返事をしなかった。というよりできなかった。別に、と思いながら目を瞑りたくなる。別に似てると言われたからといって、あの人が俺とウィルを一緒にしたりしないなんて分かりきってることなのに。
学食について一緒に昼を食べる頃にはレオの心臓だって緩やかに、いつもと同じペースで動いてはいたけれど、それでも何となく隣に座る先輩を気にしてしまった。別段ザップは普通の表情で、普通に昼飯を食べていた。ウィルに言われた事なんて。
全然気になんかしてないように、レオには見えた。


そうやって日々を過ごしていれば、流石にレオに告白してくる男子だって減るのだ。悲しいかな、女子からはさっぱり告白される様子はない。喜ばしいけど喜ばしくないぞ、と何だかよくわからないことを思いながら、レオは鞄をひょいと背負う。「そんじゃまた」そう言って手を振ると、おーとかそいじゃなというサークルの先輩や同級生たちから声がかかる。レオは写真サークルに所属していた。
学校の外に出ると既に陽は落ちていて夕暮れも終わりそうだった。早く帰らないとなあ、と思いながら駅に向かう。今日も昨日も無事に終わり、平和に過ぎ去っていたからレオはやっと安心していた。心の安寧だ。漸く毎日を普通に過ごせる、と思ってすたすたと駅へ向かった。
けれど、とレオは未だ自分を占めている憂鬱を思い出す。告白の回数は減ったが、なぜか逆にザップからキスされる回数は増えている。前々からそうではあったが、告白された時以外にもキスされている。その回数が増えているだけだ。
―――だけっていうのも。
おかしいけど、と溜息を吐きつつ俯いて歩く。「……なんかなぁ」ずるずるとこういうことされてるけど、とそう思った。やっぱりザップとの関係は何だか曖昧だし、そもそも関係とかいう言葉を使うのもレオは嫌だった。普通に、ただ気が合うから友達になっただけなのに。「………。」本屋に寄ろう、と駅前までやって来てから思いつき、本屋に寄って帰ることにした。駅の構内を通り過ぎ、北口から南口に向かう。構内にある本屋でもいいけど小さいんだよな、ととことこ歩く。レオが見るのは基本的に写真とかカメラに関する本だったから、小さい書店だと扱っていない場合もあるのだ。
駅を通り越して南口に出た。広間ではギターを弾いて歌っている人やそれを見ている女子高生、会社員や自分と同じく大学生と思しき人々が歩いている。そろそろ帰宅ラッシュだと気が付いて、やっぱり本屋でちょっと時間をずらそう、と思ってレオは本屋へと向かう。
そこであ、と気が付いた。
ザップがいた。なんかあの人と偶然会うこと多いな、と苦笑いしたくなりながら目を向ける。ザップさん、と言おうか言うまいか悩む前に、もう一つの事実に気が付いた。
ザップのところに足早に歩いてきた女の子がいた。「………。」レオやザップと同世代に見える。外見は、一言で言えば派手だった。派手だけれどどう見ても美人だし、スタイルはいいし、つまり彼女として連れて歩くにはこれ以上ないだろう。ザップは女子の前でよく見せる、柔らかい微笑みを浮かべてわざとらしいくらい大仰に、首を振っている。多分待ったとか待っていないとか、そういう話だろうとレオは見当をつけた。なぜかその時矢鱈とレオの頭は冷静だったのだ。
そのまま二人は寄りそうようにして歩いて行った。「………、」二人が向かう方向に目を向ける。居酒屋が立ち並ぶ場所に他ならなかった。レオは無言でのろのろとそれから眼を逸らし、またのろのろと自分の目的地である本屋に向かった。
思いの外受けているダメージは少ない。自分ではそう思った。「……大体、」そこでダメージを受けるのも変な話なんだ、とレオは思う。なし崩し的に始まって、なし崩し的に今の関係になっているのだから、自分と彼は。
「…別に付き合ってもないんだし」
付き合ってほしいと俺は思ってるわけじゃない、とまるで自分に言い聞かせるようにしてレオは本屋の自動ドアを潜った。いらっしゃいませ、という店員の声はレオの耳を面白いくらいに、通り抜けていった。


どうしたの、という友人の声にぼーっとして顔を上げる。「…え」「え、じゃないよ。どうしたの?ノート写すんだろ?」「……あ、うん…」そうだった、と言いながらのろのろとシャーペンを動かす。「早くしないと授業始まっちゃうよ?」「…授業中にやるよ」「………どうしたの?本当に」レオがそんなこと言うなんて珍しい、と言ったウィルにそんなことないよとレオは否定し、黙りこくる。ただし手はきちんと動かしていた。意味が分からない文章を書き写したところでテストに役立つかどうかは疑問だったが、無いよりはマシの筈だ。
「……あ。レオ」
「んー…?待ってまだ流石に書き終らない…」
「違う。休講だ」
「え?」
嘘、と言いながら顔を上げる。教務課の職員らしきスーツを着た男性が、疲れたような顔でホワイトボードに本日休講と書かれた紙を貼っている。すみませんが××先生は急病でお休みになられました、という嫌そうな声を聞いて、何もそんなに嫌がることないだろうに、とレオは思った。
ともかく休講だ。こういったことはよくあることだったが、嬉しい事に変わりはない。「僕今日この授業だけだったから意味ないんだけど」なんだよ、と言いながらウィルは立ち上がった。「あーあ。僕サークル行く。レオどーする?」「あ、これ写したい…んだけど、サークル行くんだよね」「ああうん、全然いいよ」明日授業一緒のあるし、と言ってウィルは肩を竦めて席から立ち上がった。教室の規模で言えば講堂に匹敵する大きさの教室だったせいか、入り口で生徒たちが混雑を起こしている。「あー。もうちょっとしたらにしよう」苦笑して言ったウィルに、そうだねと言いながらレオも急いでシャーペンを動かした。
二、三分もしないうちにそれじゃと言ってウィルは去って行った。「うん。ノートごめん、また明日」「いいって。…あと」「ん?」大丈夫、と聞かれてレオは顔を上げた。手を止める。
「……なにが」
「…ほら、この間言っただろ?レオは僕に似てるから」
助けてってちゃんと言いなよ、とまた謎めいたそれを言ってウィルは苦笑して、この間と同様踊るようにひょいと階段を降りて教室の入り口兼出口に向かった。「…………。」無言でその青いコートに包まれた背中を見つめて、何が、とレオは小さく呟く。聞こえていないのは誰でも分かっただろう。けれど言わずにいられなかった。勿論、返事は誰からもない。

ない筈だった。

「何がって何がだ」
「え?」
顔を上げる。そこにはなぜかレオの先輩が鞄を片手に突っ立っていた。「わあ!?」大袈裟とも言える態度でそう言ったレオを怪訝そうに見つめて、何だよと言いながらザップがレオの隣の席に座る。「休講だってな。ちょーどいいや。ちょお来い」「え。どこでそれを?」「さっき出てった奴らが話してんの聞いたんだよ」なるほどとレオが納得する前に、ザップが勝手にレオの鞄を掴んでいた。慌ててシャーペンをペンケースに仕舞い、ノートを閉じる。ザップから鞄を受け取ると勉強道具類を中に突っ込んで、立ち上がった。「どこですか?学食?」「まだ飯にははえーだろ」一限目だぞと言われてそれもそうだけど、とレオは思う。基本ザップと二人で向かう学内の場所と言えば学食が主だったからだ。
――――ふと先輩の横顔を見て思い出した。つい昨日の夜のことだ。「………。」あの女の子とは付き合っているんだろうか、と考える。綺麗な子だったな、と思って溜息を吐きたくなった。どうせならああいう子に告白されたい。だったら一も二も無く首を縦に振るのに。絶対そうだ、と思ってザップと共に教室を出た。
「あのーザップさん。どこ行くんですか?」
「んー。どこがいーか」
「?何すかソレ」
意味が分からない、という顔をしたレオと一緒に歩いている先輩は、なぜか通り過ぎる教室の中を一々覗き込むようにして見ている。「んだよ一限なのに結構授業やってんな」「そりゃまあ学校すからね。…ん?じゃあ空き教室を探してるんですか?」「おうそーだそーだ」よくぞ見抜いた、と言われて頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。痛いです、と顔を顰めてザップの腕を退けるようにすると、それじゃ三階の奥空いてますよとレオは言った。
「あ?そーなんか?」
「元々この授業そこでやる筈だったけど、受講人数オーバーでこっち移ったんすよ。だから空いてます」
「嬉しいんだかめんどいんだかわかんねーな。ソレ」
先生からすれば嬉しいんじゃないですか、と益体の無いことを会話しながら二人で三階に向かった。この時点で一体自分の身に何が待ち受けているかなんて、レオは全く想像だにしていなかった。というか誰も想像なんか、できなかっただろう。

教室に入った途端すたすたとザップは窓のカーテンを全部閉めた。「?あのー」何してんです、と言ってのこのことザップの方に近寄る。「映画でも見るんですか?」そう言ったレオのことを振り向いた先輩と目が合う。途端にレオはなぜか嫌な予感がした。嫌な予感。これほど今年、四月以降覚えた予感はあっただろうか。今までそれと共に背筋が撫でられるような、氷水を浴びせられたような感覚も味わっていた。けれどその時はなぜか、それはなかった。代わりに。
――――なぜかレオの心臓がどきり、と一際大きな音を立てたことに気が付く。
ぐいと腕を引っ張られたのはまるで決まりきった出来事のようで、レオは悲鳴も上げられなかった。むぐ、という自分の声と一緒に椅子の上に倒される。巨大な教室のせいで、椅子と机は三連続きで繋がっている。ベンチに近い。「…高校と違ってよー」「え、な、何っ…あ、」がぶ、という音と一緒に首に噛み付かれた。逆だ。首に噛み付いた音ががぶ、というそれだった。
「…大学って保健室行き難いよな。常にだれかいるし」
それは職員だ、と言う前にまた口がふさがれてもごもごとレオは声を上げる。上げられていない。「…っ、ん、」ぷは、と口が開放されたあと、毎度の如く口の横が舐められた。「ひゃあっ!?」「……おまえ」ホンット慣れないね、とザップは自棄におかしそうに笑った。なぜかその笑顔は無邪気だったが、幾ら邪気がないとはいえ、とレオはザップを見上げる。
――――幾ら何でもこれからされることが分からない程レオだって鈍くない。
「ちょ、ま、な、何ですかいきなり!て、ててててゆかここは、がっこ…」
「だって金ねーからラブホ行けねーし。今から一々帰んのめんどいじゃん」
でも俺は今ヤりてーんだよとザップは朝だと言うのにそんなことを言って、いいからもう黙れよ声響くだろ、とそれがいかにも大事なことであるというように、言った。確かに重要なことではあったが、この場にそぐわないことであることは間違いない。
「め、めんどいってあの、…や、ま、待って待って待って!な、」
何で俺と、と言ったレオにザップがきょとんとした顔を見せた。「あ?何でってオイ。何だよ今更。付き合ってんだろ俺ら」「な、ちょ、ちょちょちょ待って下さいよ!」「なんだよ」うるせーな、と言いながらザップにまたキスされた。「ん、」むぐむぐとそれを受けながら、自分の着ているトレーナーの下に手が突っ込まれた。びくっと背中が反る。そのまま肌が撫でられたので、口が離れた瞬間に声を上げた。
「ぎゃあ!?」
「おいうるせーってば。人いねー訳じゃねえんだから静かにしろよ」
「だ、な、ななっ、何ですかだから!や、ややややめろ離せ!」
「………なんだよおい」
何で暴れんだって、と言いながら心底不思議そうな顔でザップが身体を起こした。ぜいぜいと息を整えながら、レオはのろのろと少しだけ上半身を起き上がらせる。自分の顔は多分、いや絶対に真っ赤だ。
「な、…っ、なん、なに、何すんですかいきなり!」
そう言って自分の服をずるずると元に戻す。「?いきなりじゃねーだろ。もう散々キスしてどんだけ経つと思ってんだ」遅い方だって、と言われてそうじゃないとレオは首を振る。ザップは益々不思議そうな顔になった。そういう顔をすると少しだけ幼く見える。
「ま、まずあの、俺ら付き合ってないでしょ」
「は?」
何じゃそりゃと言いながらザップが起き上がったので、レオも起き上がる。自分の鞄を手に取って抱き締めるようにした。一応楯のつもりである。
「付き合ってんだろ。何度それでおめえに対する告白を躱したと思ってんだよ」
「…、だからそれっすよ。そ、…それが元々目的じゃないですか。…ザップさんは、その、…俺が困ってたから、…そーいうこと言って助けてくれたんでしょ」
そこは感謝してます有難うございます、とぼそぼそと言いながら目を逸らす。ザップは怪訝な顔をしていたらしいが、まあそうだけど、と一応肯定して頭を掻いた。どうやら照れているらしいが、それが一体何に対して照れているのかはレオには分からなかった。
「…………、あの、だから…正式にっていうか。なんか、…す、好きで付き合ってる訳じゃないじゃないすか」
「はあ?」
ザップが物凄く驚いた、と言うかのような声でそう言ったので、だってそうでしょとレオは鞄を抱き締めたまま、顔を上げる。「そ、そうでしょ?」「おい嘘だろ?だっておまえ、」俺のこと好きだろとザップが真顔で言ってきたのでレオは絶句してしまった。
「な、はあ?誰がそんなこと言ったんですか」
「いや言われてはねーけどよ。んじゃなんでおめえ俺からのキスは嫌がんねえんだよ」
「そ、れは…ええと、……た、助けてくれてるのになんか、その」
悪いかなって、ともそもそと言いながら俯く。そんなこと思ったことは一回もない。嫌だったら嫌だとレオは言うのだから、つまりこれは大嘘だ。今思いついた。けれど思いの外理屈にぴったりと合うから、レオは自分で言っていて驚いてしまった。確かにそうと言えばそうなのだ。恩があるからと言ってしまえばそれまでだ。
ザップはやっぱり物凄く驚いた、とでも言いたげな顔で固まっていた。「…おいマジか。マジかそれ」「…ま、…マジっすよ」そう言ってのろのろと顔を上げる。鞄を上にずらしたのは何とか顔を隠せないかと思ったからだ。無理だ。心臓がどきどきと五月蠅い理由は分からなかった。
「……………マジかー」
そうザップは言うと、はあ、と溜息を吐いた。そこでどうして溜息を吐くんだ、とレオは思う。「…んっだよそれー。いいよ別にそーいう…なんだよ。いいからもう」「?」なにが?と聞き返す前にぐいとレオはまた顔をいつものように上げられた。「わっ!?」「だから静かにしろってば」そうザップは顔を顰めて言うと、レオにまたしてもキスをしてきた。いつもと全く同じ、柔らかい唇の感覚があってびくりと肩を強張らせる。すぐに唇は離れたが、レオはぽかんとしてザップを見上げていた。
「………、…あの。今俺言ったこと聞いてました?」
「聞いてた。んでキスした」
「ど、どうして」
「んー」
なんか俺はオマエが好きっぽいんだよな、とザップは何でもないことみたいにそう言って腕を組んだ。「……は?」当然レオはぎょっとしてそう言う。
「だっておまえ、なんかキスしても嫌がんねえし、てかむしろ好きそーだったし。こりゃいけるだろと俺は思ってたんだけど、なんだよ。何でおめーは俺が好きじゃねえんだよ」
「は。は?ま、待って待って待って下さい。ついてけないです」
「何でだよついてこいよ。俺はお前が好きなんだってば」
「………………。」
呆気に取られて固まったレオを見て、なんだよと言いながらザップは首を傾げた。「好きだって。付き合ってるんだし」「………、や、あ、あの」それは順序が逆なのでは?そう思ったのでそう言ったが、ザップはどっちでもいいよと投げやりに言った。
「どうでもいいだろそれは。今この時を大事にしろよ」
冗談のようにそう言ってザップは笑った。「…そ、……、…どうして俺なんです」レオは泡を食ったままそう問いかける。ザップは思いもよらないことを言われた、とでも言うかのような顔になった。
「…わかんねーよ。でも昨日とか一昨日とか、あったろ?誰かがおまえに触ってんの見るとムカつくんだよ。だから多分俺」
お前が好きなんだろ、とザップはどうでもよさそうにそう言った。そこでなぜそうやってどうでも良さそうに言えるんだ、とレオは思いながら狼狽える。まさかこんな展開、誰が予想したんだとでも言えばいいのか。ここ最近ずっと色々な輩から好きですと言われ続けていたのに、こんなに狼狽えたのは初めてだった。
「…あの」
ごくんと唾を呑みこんでそう言ったレオを見て、ザップは何だよと眠そうに言って、実際に欠伸をした。何で――レオだってこんな言い方はしたくなかったが、俺に片思いしてる筈なのにこんなに余裕な態度が取れるんだ?おかしい。そう思いながら、鞄を抱き締めたまま口を開く。反対に自分からはどんどん余裕がなくなっていく。元々殆どなかったのに。
「…それはなんかおかしいですよ。多分ザップさんそれは、なんか、…ええと、…錯覚じゃないですか」
「凸レンズ」
一瞬何を言われているか分からなくなる。数瞬の後に中学の時に習った理科のことだ、と気が付いた。それは錯角だ。「ふざけないで下さいよ」こんな時に、とだからそう言ってしまう。レオは座ったまま、少しずつザップから後じさりつつ違うと思いますと必死に言った。当然、ザップは何がだよと怪訝な顔をする。
「…ざ、ザップさんが俺を好きって、……それはなんか変ですよ。たぶん、…なんか、流されてるんすよ。この流れに」
「流れって何だよ。川か?」
「な……、…ええと、流れは流れです。………、だってザップさん」
俺以外にこういうことしてる相手いっぱいいるでしょ、と言ったレオに否定するでもなく、こくんとザップは頷いて、もうレオに何かするのは諦めたのか煙草をポケットから取り出した。「…まあいるな。わんさか」「……でしょ。だからなんか…そういう人の中に俺がいたら、」便利でしょと言おうとして流石にやめた。幾ら何でもそれは酷い、と自分でも思ったのだ。幾ら何でもそこまで外道じゃないと思いたいとも思った。
「……えーと。…えーととにかく、…なんか、…一応俺達仲はいいし、…そんでなんかでも、俺が誰かと付き合うとかそういうことになったら」
「…なんだよ」
「…たぶんその、そっち優先になるし。ザップさんとそんな沢山遊びに行けなくなると思うし連絡もつき難くなるだろうし」
だから多分その辺が嫌でそうなんですよ、とレオは物凄く曖昧なことを言った。伝わったかどうかも分からない。自分を好きっていうのは勘違いですよとレオは言いたかったのだ。―――確かにザップから自分へ好意はあるかも知れないが、それは多分、レオが思っているのと違うし、ザップが口にしたそれとも違うと思った。好意というよりは、独占欲とかそういうのに近いんじゃないかとレオは思う。そして独占したいという気持ちは、イコールで恋愛にはならない。
「……………。」
煙草の匂いがする。そろそろと無言で顔を上げたレオの前で、ザップは窓の方に目を向けて煙草を喫っていた。ここは禁煙なのに、と思いながらレオは黙る。自然俯いた。「……そーか?」ザップはそう一言言ってきた。子供みたいな聞き方だった。
怒られるかな、と思っていただけにこの反応は意外だった。けれどレオは少しも逡巡せず、そうですよとすぐに肯定する。そうに決まってる、と思いながらそう、言った。まるで自分にも言い聞かせるみたいな言い方だった。
「…そっか」
そうザップは端的に言うと、おもむろに椅子から立ち上がった。
「…俺次授業入ってんだけどおめーは」
「………え?…あ、…お、俺もです」
慌ててそう言うと、んじゃ行くかとザップは言って伸びをした。煙草を携帯灰皿らしきそれにぽいと入れるとかちんという音がする。「………。」ぽかんとしているレオを見下ろして、何だよと不思議そうな顔になった。
「…え、あ、いや…」
べつに、と言いながらのろのろと椅子から降りる。「なんだよ。ああ、とりあえずおめーがモテてる間は言い訳に使っていいって。でも一回使うごとにあとで何か奢れよ」ザップはそう言ってひょいと鞄を背負った。
「………、…はあ…」
そう言ったレオを変な顔で見下ろしたが、結局ザップは肩を竦めてんじゃ俺は行くぞと言いながら歩き始めた。「あ、ま、俺も行きますよ」慌ててそう言って椅子から降りて先輩の後を追う。「おめえ今日サークルは」「顔出しますけど」「そーか」いつもの如くそう会話をして、レオはザップと途中で別れた。そいじゃな、と言って手を振って歩いて行く先輩の後姿はいつもと全然変わらなかった。
流石にまだ二時間目が始まる時間帯ではない。普段だったらもう少し話したりして時間を潰すのだが、流石にあんな会話の後じゃザップだってそんな気になれなかったのかも知れない。「………。」ぼーっとしてレオは階段を降りると、次の授業をやる予定の教室に向かった。中には誰もいなかったので、ドアを開けて適当な椅子に座る。鞄を机の上に置いてぱたんとその上に突っ伏した。
「…………………………。」
弄られた身体が今更のようにざわざわした感覚に襲われる。好きだと言われたことが脳内でもう一度再生されたが、何とかそれを振り切るようにレオはぎゅうと眼を固く瞑った。そんなわけがない。そんなことが起きる訳もない。…万が一、自分がザップを好きになったとしても。
「……あの人が俺を好きになるのはなんか変だ」
小さくそう呟いたが、どうしてそれが変なのか言えと言われてもレオには言えなかっただろう。「………。」あっさりと納得して授業に向かった先輩のことをぼんやりと考えながら、チャイムを待った。



付き合えません、と言う自分の返事は既にまるで流れ作業のように聞こえる。「…あの、すいませんけど仕事中なんで」そう言ってレオはすたすたと歩き始める。待って待って、という声と一緒に男がレオの後を追ってきた。溜息を吐いて振り返る。これでもうこの男に声をかけられるのは三度目だ。分かったから、と全然わかっていない様子で男はそう言うと、レオの手に何かを押し付けてきた。紙だ。メールアドレスと電話番号らしきそれが鉛筆で走り書きされていた。
「………。」
これをどうしろと、と言う顔をしたレオのところにオイレオ、とバイト先の先輩が声をかけてきた。「配達時間だぞ。早よ来いや」「あ」はい、と言いながら仕方なく押し付けられた紙を無理矢理ポケットに突っ込むと、店の奥に引っ込んだ。
「…あざます」
そう言って溜息を吐いたレオに、しつけーなあいつ、と苦笑しながら先輩は言うと缶コーヒーをレオに投げて寄越す。実を言えばとっくにレオの配達時間は終わっていたから、さっきのはレオを助けるための方便だった。
「…すいません」
そう言ったレオを見ながら、ああそれじゃよ、と先輩はバイクのキーをくるくると回しながら豪快に笑った。
「シフト代われ。明日」
「え、明日?いいすけど…随分急っすね」
多分いける筈なんだよと先輩は燃えるような口調で言った。「いいよな?いいだろ。よし」「……。」まあこりゃ多分女の人だろうな、とレオはあたりをつけてはいはい、と頷いた。ピザ屋のバイトにもそろそろ慣れてきたが、まさかここまでやって来るとは、とレオは溜息を吐く。何度目なのか、数えるのも面倒臭い。「…あーあ。いいなあ俺も彼女が欲しいっすよ」
そう乾いた口調で言ったレオに、でもお前、と先輩は怪訝な顔をした。「アレじゃねーの。たまに来てた、あのほっせー兄ちゃんと付き合ってんじゃねえの。イケメンの」「………。」突然虚ろな顔をしたレオに、何だよと先輩が首をひねった。明らかにザップのことだとレオには分かったし、付き合っていると言うそれがバイト先にまで周知の事実であるということにも眩暈がする。
「…付き合ってねえっす。大体、俺もあの人も男ですよ」
「そこはスルーしてやったじゃねえか。え?おまえそっちじゃねえの?」
「違いますよ。それに俺、別にあの人と付き合ってる訳じゃありません」
「付き合ってるっつってたじゃねーか」
あのにーちゃんは、と言われてうぐ、と思わずたじろいだ。「…あれは方便で。嘘っす」「何だよそうなのか?」んじゃお前次合コン呼ぶわと言われてあざますとレオは素直に礼を言った。とにもかくにも、確かに彼女は欲しい。―――欲しい、…筈だよなとレオは思いながらまた溜息を吐いた。


お疲れ様でしたと言いながら店を出る。件の先輩はまだあと二時間ほど定時まで時間があるらしい。「あーあ。腹減った」ピザ食ってくればよかったかな、と嘯いたことを思いながら駅まで向かった。ふと、ポケットの中にある紙を思い出して顔を顰めてしまう。かと言ってその辺に捨てるのも個人情報だしな、とザップからあめーんだよとでも言われそうなことを考えて、レオは改札を潜った。

ホームでベンチに座り電車を待つ間に考えた。
「……………。」
この間、ザップから好きだと言われた事を考えている。

変だとか、おかしいと思ったのは本当だった。ただし何がおかしいのかレオにはよくわかっていない。けれど、彼が自分を好きだと言ったそれには素直に頷けなかった。そうですか僕もです、と言えたらどんなにいいか、と溜息を吐こうとしてはっとする。何がいいんだ。全然よくない、と慌てて首を振った。確かに庇って貰って助けて貰っていることについてはものすごく感謝している。ザップがいなければ危なかったことだって何度かあるのだ。
けどそれとこれとはまた別だ、とレオは思った。駅のホームの電光掲示板がちかちかと光っているのを見つめながら、再度鞄を抱き締めるようにした。
――――割に俺キスは嫌がってないよな。
それを思い出して何だか自分にげんなりした。気持ちいいから拒否してないのか、それとも流されるままに拒否していないのか、それとももっと他の理由があるのだろうか。「……。」気持ちいいからが一番可能性が高い、とレオは思ってがっかりする。やっぱり彼女が欲しい。健全な生活を送りたい、と思いながらぐったりと俯く。
だいたいとそこではたと今更のように気が付いた。自分はザップとしかそういうことはしていないけれど、あの人は俺の他にいっぱいいるじゃないか。てゆかこないだ好きだとか言ってきた時も俺以外にいっぱいいるとか言ってたじゃん。フツーそういう時っていないって言わない?嘘でも。
「…………。」
何だかムカついた。別に付き合っている訳ではない―――筈なのだからレオが腹を立てるのはお門違いだと言われればそうだけれど、自分を好きだと言う割に余りその辺に真剣みがないのだ。いやに軽い。別に好きに軽いも重いもねえよと言われたら、レオのように初心者からすればそうですかとしか言いようがないけれど、何だか複雑な気分になる。
結局自分がどうしたいのかもよくわからない。
「……………はあ」
そんなこと考えたって仕方無いや、とレオは肩を竦めてまた鞄を抱き寄せる。よしんば彼が自分を本気で好きだったとして、とたられば論をレオは考えた。
「……俺はどーなんだ」
小さく言った後に溜息を吐いた。何が何だかよく分からない。あの後、さっきの男を数に入れず二回程レオは告白されているが、言われていたにも関わらずザップを理由には使わなかった。奢るのが嫌だとかそういう理由ではない。大体言わなければ流石にザップにだって、ばれない。
俺は女の子が好きですから、というそれを楯に逃げて今に至っている。楯と言うより真実だ。そんなに執拗い相手じゃなかったからよかったが、今日は別だ。ポケットの中に入っている連絡先がレオの心を重くした。貰ったところで絶対に連絡なんかつけないのに。
「…厄落としに行こうかな」
そう、小さく呟いた後だ。そこでレオの隣に座ってきた男がいた。「………。」まさか、と思いながら恐る恐る横を向く。ついさっきレオに連絡先を渡してきた男だと気が付いて、嘘だろ、とレオは思わず顔を引き攣らせた。流石に怖い。そう思って立ち上がろうとしたが、その直後腕と肩を掴まれ、身体を無理矢理反転させられて男の方を向かされる。「わっ!?」やめてくださいよ、とレオは引き攣った声でそう言った。怖い。仕事は終わったんですよね、と言われていや終わったけど、とレオは思う。終わったけど、そういう問題じゃないのだ。
「……………えーと…」
身体を仰け反らせる。「…あの、本当に。俺全然、…女の子が好きだし」でも、とそこでその青年は言った。
あの先輩と付き合ってたって聞いて、というそれを聞いて顔を顰めてしまった。既に過去形になっていることだとか、その事実じゃない事実だとかを言われたことにより益々げんなりした。「………付き合って…あー、…ええと…」何て言えばいいのか困った。ここで付き合っていますと言うのは抵抗があるが、それは自分自身の胸中の問題である。目下、この状況から逃げたいのならば付き合っていると言えばいいのだ。
けれどやっぱりそれは言いたくない。理由に使っていい、と言われたけれど。
その嘘はもう言いたくない、とレオは思った。

ホームにアナウンスが流れる。三番線に電車が参ります、という無機質でもない声を耳に入れながら、黙っているレオの肩が掴まれた。「……あの」痛くはないがいい気分はしない。眉根を寄せたまま痛いです、と嘘を言いながら、恐らく同じ歳くらいの男を見つめた。次に来る電車が発車する前に何とかしなくてはならない、という強迫観念に駆られているらしい。がたんがたん、という音と一緒に電車がホームに滑り込んできた。
「……その、……あの人とは付き合って……」
少し黙る。付き合ってます、と言えばいいのになぜか言えない。なぜかも何もない。言いたくないのだ。その嘘は、理由は、最早口にしたくない。
口にしたところで何だか空しくなるだけだとやっとそこでレオは気が付いたのだ。
本当に付き合ってる訳じゃないし。
―――言い訳にしか言えない程度の仲だし。
だいたい、と脳内で冷静な自分が呆れたように呟いている。…ザップさんには別に、

汽笛と一緒にがたんごとん、という音がする。
電車が滑り込んでくる。警笛の音と、がたんがたん、という線路を走り抜ける音が益々大きくなった。暗くもない駅に、煌々と更なる光を纏った電車がやって来る。
逆光で自分の顔が相手に見えないのが幸いだ、とレオは思いながら口を開いた。
…そう、彼は別に。

―――――俺だけじゃない。

「……あの人とは、その…、…ええと。…付き合ってはな―――、」
途端だった。自分のことを掴んでいた手がぐい、と変な方向に曲がるようにして引き離されたのが目に入る。え?と思う前に目の前から小さく悲鳴が上がった。
電車のドアが開く音がした。

「………、……このバカ」

だから簡単に触らせんなっつったろ、と言うその声にのろのろと目を向ける。ぜいぜいと息を切らしながら、ザップがそこに立っていた。

ふと、いつかの図書館でのことを思いだした。
あの時もザップは授業中だったのにわざわざ授業を抜けてレオのところにやって来てくれていたのだ。今みたいに。
必死で息を切らしながら。

「…な、なんで?」
電車から降りてきたのかと思ったが、息を切らしているのだからそうではないのだろう。階段からやって来たのだ。「…お前のバイト先行ったらもう帰ったっつーから。あの、天パの」声でけー奴、と言われてさっきまで会話していた先輩のことだと合点する。「んでぼちぼちやばそーな奴が店まで来てって聞いたんだよ」そう言ってぐいとザップは泡を食っている男を無理矢理立たせると、後ろに追いやるようにした。痛い痛いと悲鳴がまたしても上がる。そのままレオと男の間に、ザップは立った。
「…今なら通報しねーどいてやる。行け」
そう言って、ザップはいつもより更に剣呑な目でその男を睨んだ。人を殺しそうな視線をしている。
「……てかそもそもこいつは俺と付き合ってんだよ」
勝手に触ってんじゃねえ、と言うそれになぜかレオは口を挟めなかった。いや、状況を考えれば挟まなくて正解なのだ。けれどもしこれが今みたいな状況じゃなくて二人きりとかだったら、絶対にレオは言っていただろう。付き合ってないじゃないですか、と。
まるで悲鳴みたいに。
一方青年は、だってもう別れたって聞いた、とぼそぼそと狼狽えた様子でそう言ってきた。しつけーなとでも言いたげな顔でザップは頭を掻くと、デマだよときっぱりと言った。
「別れるわけねーだろ」
バカじゃねえの、と初対面の男を罵ると言う神業を成し遂げながら、ザップはぐいとレオの肩を掴んだ。「っ、」びくっとレオは身体を強張らせたが、ザップはレオのことを放そうとしない。「…好きなんだから」その一言にはっとして思わずザップのことを見上げた。
ザップはレオを見ていない。
目の前の男に向かって、宣言するように口を開いた。

「…俺はレオが好きなんだから別れるわけねーじゃねーか」

ふん、とそこでザップは鼻を鳴らすとそのままレオの肩を掴んで歩き出した。「わ、ちょ、転ぶ転ぶ転ぶ!」「何でだよちゃんと歩けよ」「アンタが肩を、」何とか転ばずには済んだがともかく無理矢理引き摺られるようにして歩いているから上手く歩けない。しかもレオの脳内では先ほどザップが言った言葉がぐるぐると渦を巻くようにして蠢いている。
電車から降りてきた人々は少しだけ怪訝そうな顔でこちらを見ていたので、ちょっと声を落とした。確かに傍目からすれば、学生同士のケンカだ。
「………。」
そっと後ろを向こうとしたが、それに感付いたのか、ザップが振り向くなと怒ったように言った。慌てて引き摺られるようにして、階段へと向かう。
「だから仏心出すなっつーの。おまえが毎度そんなんだから俺が走り回る羽目になんだぞ」
「……、…あの」
どこ行くんです、と言ったレオに、ザップは俺ん家だときっぱりと言った。「駅前にバイク停めてあっからそれで帰る。お前後ろ乗れ」「え?待って下さいよ。何で俺がザップさん家に」そう言いながら漸くちゃんと足が動くようになる。縺れていたら転んでいた、と顔をちょっと顰めて何とか鞄をきちんと背負い直した。
「…お前は錯覚とか言ったけど」
「え」
ついこの間のことだと気が付くのにそんなに時間は要らなかった。「…今言ったの聞いてただろ。お前も」肩を竦めながら、ザップはレオの肩を掴んでいた手を今度はレオの手首に移動させる。ぐい、と引っ張られるようにしながら階段を上った。「…こないだも言ったけどな。俺は女の方が好きだよ。でもおめーはなんかそーいうカテゴリにいねえんだよ」「カテゴリ?」「二分野と一分野」そう言われてえ?とレオは混乱したままの頭で聞き返した。ザップはそれについてはスルーしたまま、返事をしなかった。
改札を潜る。そのままザップはレオの手を掴んだまま歩いて行く。スクーターの停車場にだろう。
「……レオが俺じゃねー奴と付き合ったらなんかムカつくだろ」
そうザップが言ったのが聞こえた。「……そ、」そんなに俺の幸せが、と言った後にアホかという声と同時に頭を殴られた。流石に自分でもこれはない、と思ってはいたのだが。
ザップは仏頂面でおめーなと苛立ったように言った。
「俺がここまで言ってやってんのに何に拘ってんだ?いい加減そうですそうです俺もザップさんが好きなんです、って言えよ」
ぐるりとこちらを振り返ってそう言ったザップに思わず絶句してしまう。呆気に取られているレオを見ながら、ザップは足を止めた。自然にレオも足を止める。駅前の広場には深夜だからか殆ど人がいない。タクシーの運転手と、スーツの大人たち、それからたまに高校生が歩いている。
「…だって」
のろのろと、困惑したまま口を開いた。捉まれている手が熱い。
「……、…ザップさん俺じゃなくてもいっぱいいるし」
そう言うとザップはきょとんとした顔になった。「?なにが」「…それになんか、い、言ってる意味よくわかんないし」「いや無視すんな。何がだよ」大体、とレオは会話のキャッチボールならぬドッジボールを続ける。避け続けているから今頃外野が大忙しだ。おい、とザップは当然不満げにそう言った。けれどレオはそれも無視した。
「…何がアンタだけなんですか」
「あ?」
何じゃそら、と言ったザップに中華屋で、とレオはもそもそとそう言う。「…俺だけだろって。…分かってろってよくわかんないことを」ザップさん俺に言ったじゃないですか、とレオは言いながら俯いた。外野は楽になったかも知れないが、内野でボールが止まっている。
「……ほら」
そやってさ、と言う声にまた顔を上げる。ぐい、と途端に引き寄せられた。口の下に指がやってきたことに気が付いて、狼狽える。一体今夜何度狼狽えればいいんだ?そう思いながら自然に目を瞑った。ぎゅう、と痛いくらいに瞑ったけれど、予想していた衝撃は全くこなかった。―――あの時と同じだ、と頭の片隅で気が付いた自分がいる。
そろそろと眼を開けた。
見慣れた先輩がいる。「………レオ」名前を呼ばれるのは何度目かなんて覚えてない。今年どころか初めて呼ばれたのは高校の頃で、その頃のレオは飽きずにザップと一緒に授業をサボったり、どこかに行ったり、ゲーセンで遊んだりしていた。
その頃みたいに、ザップは僅か照れたように、けれど笑った。

「…好きだって」

その一言を聞いた途端に身体が引き攣るような感覚に陥る。心臓がドラムを叩くように暴れ始め、血液がまるで逆流したように、流れ始める。どんどん大きくなってきた心臓の音と一緒に、自分の熱だって上昇していることにレオは気が付く。「……、」なのに口はきけなくなった。どうしよう、と思った。あんなに四月からこっち、散々好きだ好きだと色々な輩に言われているというのに。
その時はこんなこと起きなかった。こんなに。
口がきけなくなったり動けなくなったりなんてこと、絶対になかった。

「………ほらな」
好きだって言われた後そーいうカオできるのって、とザップは苦笑気味に、けれど嬉しそうに笑った。思わずレオはそれを見て息を呑む。
「………………俺だけだろ」
その後また肩を引っ張られて抱き寄せられた。「……、…。」ここは駅前で夜とはいえ人通りも多くて、しかも大学の傍だから知人友人に見られる可能性が高いんですけど、と普通だったら思うところ、そんなことを思っている余裕がレオにはなかった。「………、…。」無言でどきどきと五月蠅い心臓を何とか飼い慣らそうとする。無駄だった。
大体、そういう顔って言われても、とレオは思う。自分じゃ分からない。わからないけれど鏡を見る気は起きない。―――そう、わからない、けれど。
「………………、……付き合ってから」
どのくらい経ちましたっけ、と言った自分の声が少し震えている。「……んー。そーだな。大体三、四か月じゃねえの?」間は空いたが、ザップはそう淡々と答えた。ごくんと何度目とも知らぬ唾を呑みこんで、レオはのろのろと考える。
「……それじゃ」
一年経つまであと八か月くらいですよね、とレオは言ってザップの服をぎゅうと掴んだ。そうだな、と少し笑いが混じった答えを聞いて目を瞑りたくなったけれど何とか耐えた。耐えて、そっと顔を上げる。そうだ。自分がどんな顔をしてるなんて分からないけれど。

「………一年経ってないけど、…ケーキ食いに行きませんか」

そう言った自分の顔はたぶん真っ赤だろう。「…お、…お祝いに」そこまでが限界だった。そう言った後に俯いてレオはザップに思いきり抱き付く。泣きたくなったのはどうしてなのか分からない。
ザップはいつかみたいに爆笑して、俺はケーキより、と言いながら無理矢理レオの顔を上げさせた。どうしていつも俺が嫌がることばかり、と思いつつも不承不承真っ赤だと思しき自分の顔を上げる。矢鱈子供っぽく、けれども嬉しそうな顔をしたザップがレオを見下ろしていた。
「…おめーの家でピザが食いたいね」
「……、……えーとそれじゃその、……ご要り様の際は」
是非当店を、とふざけて言った後にやっとレオは笑えてきた。そんな自分の顔を見てだろう、ザップが一瞬だけ目を見ひらいたが、やっぱり自分と同様おかしそうに笑うと今度こそと言ったように、ぎゅうとレオを抱き締めてくる。「…っ、苦しいですよ…」そう言ったレオの声はやっと震えが収まったけれど、なぜか泣きたい気分なのはそのままだった。



廊下を走っている。結局幾つになってもこの行動の輪廻からは逃れられないんだ、と複雑なことを考えながら腕を振る。レオ、という声にぱっと顔を上げた。階段の踊り場にザップが立っていた。何というエンカウント率、と思わず眉間に皺を寄せる。何だよそのカオ、と言いながらザップがこちらに目を向けた。「…っ、一回退いてください!」そう言いながら踊り場に飛び降りたレオの後ろを眇めるように見たザップの眼が、いつかみたいに剣呑な光を帯びた。
「…待て。待て待てあいつぶっ飛ばしてから、」
そういきり立った先輩の腕を掴んだままレオはまたしても階段を飛び下りるように、降り始める。「レオてめ、」あぶねえよ、という声に返事をする余裕もない。後ろから自分を呼び止める声がしたが返事はしなかった。代わりにザップが死ねボケ、という酷い暴言を吐いているのが耳に入る。溜息を吐きたい、と普段だったら思うところ、なぜかレオはおかしくなって笑ってしまった。

「何笑ってたんだよ」
そう言ったザップに唐揚げを奪われた。「あっ。また俺の唐揚げが!」「お前は俺のなんだからお前の唐揚げも俺のだね」そう言ってもぐもぐと唐揚げを食んでいるザップは、だからよと硬直しているレオに顔を向けた。
「勝手に檸檬かけんなっつったべ。何でお前俺に許可とんねんだよ」
俺檸檬ねえ方が好きなんだよ、と言ったザップにレオは引き攣った顔を向けた。開いた口はふさがらない。塞ぎようもない。
「………、……あのー…」
「あんだよ」
何か文句あんのかとでも言いたげな態度でザップがレオを睨む。「……、………えーと。一つ確認したいんですけど」「なんだよ?」レオのその答えはザップにとって予想外だったらしい。多分ありますよとかそのまま文句言うと思ってたんだろうな、とレオは予想しながら箸を止める。
「……そ、…その……、…ザップさんって」
そこまで言って何だか言いたくなくなってしまった。あんだよ、とザップがまた言いながら首を傾げる。言いたくはないが言いかけてやめられるのがどれだけ気になることか、ということくらいレオにだって分かっていた。だから仕方なく眉間に皺をよせ、渋々と言ったように口を開く。自分から言い出したのにな、と思いはしたが。
「…………、……あー、…あの、…俺以外にもそう言う感じなんですか」
「あ?どーいう意味だよ」
お前以外?とザップは意味が全く分かっていないようでそう言って首を傾げる。「いや流石に俺だって無機物にはそーいうこと言わねえよ?」「むきぶつ?」「?冷蔵庫とか携帯とか」「冷蔵庫とか携帯?」何を言っているんだ、という顔をお互いにしたのだと思う。
「…………。」
「…………。」
結局何だか面倒になって、レオはその話題を打ち切った。別にわざわざ、とも思う。
―――わざわざ口にして傷つくこともない。
そう思いながら味噌汁を啜ったレオの横で、ザップはまだ訝しげな顔をしていたが、経過は別としてレオと同じ考えに至ったらしい。何も突っ込んでこなかったのでレオはほっとした。
ついさっきも告白されて断ったが追いかけられたので、レオは逃げた。言葉が通じないなら武力行使、といける程強くないし、大体そんなことわざわざしたくない。なら三十六計だと判断してすぐに逃げる。大事に至らないのであればそれが一番なのだ。「…にしても」その声にはたと目を向ける。
「…しつげーよな。何であいつらは諦めねんだ?」
「…なんかその言い方、俺が巨大な組織に狙われてるみたいですね」
「あり得るな。輪姦に気ィつけろよお前」
真顔でそう言われてぞっとしてしまった。そんな意味で言ったんじゃないのに、と顔を引き攣らせたレオを見て、なんだよとザップは言って首を捻る。「じょーだんだよ」「じょ、冗談に聞こえません」ぞっとしたままそう言うと、ザップは少しばかり眉間に皺を寄せて、食事中だったかテーブルに肘をついた。
「……おまえさあ、言えよ」
「は、はい?なにを」
「だからさ、付き合ってくれとか思い出が欲しいとか言ってくるアホどもにだよ。僕には超絶格好良い恋人がいるので付き合えません、って」
「………………。」
色々な意味で黙った。そんなレオから目を逸らし、ザップは緑茶が入ったプラスチックのコップを手に取る。「…おめーまだなんかごちゃごちゃ言ってんだろ。女の子が好きだからとかそういう対象じゃありませんとか。んじゃ俺は何なんだよ」「ざ、」ザップさんは例外ですよとレオは言って唐揚げに向き直った。沈黙が降りる。それを機に、レオは大体、と言いながら箸と口を動かした。
「そ、そんなこと一々言うのもなんか、……やじゃないすか」
「…………何でだよ」
拗ねた声だ、とレオは気が付いてのろのろとザップに目を戻す。やっぱり拗ねた顔をして先輩はお茶を啜っていた。「…なんでだよ」二度目のそれに、レオはまた唐揚げの方に向き直った。箸でお浸しを掴んだ。
「…言い訳みたいだから」
小さくそう言うと、ザップはきょとんとした様子で、何じゃそらと言った。「…だから、言い訳みたいじゃないすか。そういう時に、そういうことを言うと」別に俺は、とレオは言いながら箸で出し巻き卵を分断した。
「…そういう理由でザップさんと付き合ってる訳じゃないです」
声が震えないかどうか心配だったが杞憂だった。こういうのって一気に言った方がいいんだな、とレオはその時やっと気が付く。一々、悩んだり躊躇ったりしている時間はぶっちゃけ、無駄だ。さっきも思ったけれど階段だって何だって、飛び下りてしまった方が楽だった。だから。
天災がきたらすぐに逃げよう。
何しろ天災だ。敵わない。敵う訳もない。
それに、とレオは思う。ぐいと肩を引き寄せられて息を呑んだ。「…んじゃ」どういう理由か食後に聞きたいね、と矢鱈浮かれたザップの声が耳に入る。「ま、」待って下さいと言う声は飲み込まされた。せめて歯磨きをさせてほしいと一瞬考えてしまい、いやいやと慌てて眼をぎゅっと瞑った。そんなことどうでもいい。どうでもいい、筈だ。
「…なんか、……ザップさんって」
「あ?」
なんだよ、という声と一緒にまた口の横が舐められた。「っ、わ」息を吐く暇もない。またザップがおかしそうに笑ったのが目に入り、ちくしょーこの人全然変わんねえ、と四月からの出来事を回想する。本能の赴くままとは彼のためにあるような言葉だった。
だからある意味天災より酷い。彗星到達隕石落下、台風雷洪水嵐、火山噴火に地割れ竜巻何でもいい。自分みたいな一般人はそれに右往左往するかない。たとえば今まで雨が降っていたら傘を差しのべるでも迎えにくるでもなんでもなく、それじゃ嵐を起こしてやるよとでも言うような人なんだ。どうせやるなら派手にやれよという顔が目に浮かぶ。

「……、…天変地異みたいですね」
「なんだそりゃ」

いいえ何でも、と言いながらも少しだけ自分の頬が緩んでいることに気が付いて、慌ててレオは最後の唐揚げを口に放り込む。どーいう意味だコラ、というザップのそれを無視しながら、そういえばケーキを食べに行ってない、ということに今更気が付いた。






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