夏休みの地獄

2015/08/19

夏は暑い。そんなのとっくに分かり切っていることだとは思うが、ともかくとして今年の夏も非常に暑い。毎年経験しているそれなのに慣れる気がしない、と思いながら予備校から帰宅する途中のことだった。知り合いに会った。
知り合いと言うか、厳密に言えば高校の先輩で兄の友人だった。いや、今や友人ではないのかも知れないが、結局友人であることに変わりはない。たった今、たまたま交差点で知らない女の人と一緒にいるところにばったり会ったのである。
その時のことをミシェーラ・ウォッチはありありと思い出せる。
人混みから抜けてぷは、と息を吐いた瞬間目が合った。あ、と瞬きした途端に彼の腕にしなだれかかるようにしてきた女性が、目に入る。見たことも会ったこともない女性だった。彼女はこちらの視線を敏感に察したらしく、ちらりと隣に立つ兄の友人を不審げなまなざしで、見つめた。
どうも、と小さく口にしたミシェーラに、兄の友人ザップ・レンフロは気まずそうな顔で手を上げた。誰、と隣に立つ女性が柳眉を少しばかり顰めてそう、聞いた。ええと、とザップが言い淀んでいる間にそれじゃとミシェーラは帽子を押さえながら雑踏の中に足を踏み出した。あ、という小さな声が後ろから聞こえたが、振り返らなかった。

五分後。
どういう訳か駅前の喫茶店でミシェーラはザップと涼んでいた。踵を返した15秒後にはもうザップに腕を掴まれていたのだ。腕を掴まれた瞬間に思わずきゃあ、と小さく悲鳴を上げて後ろを振り向くと、息を切らして俯いているザップがいた。
ちがう、と聞いてもいないのに口を開いたザップを見上げて、ミシェーラはきょとんと眼を瞠って、小さく呟いた。『…暑くありませんか?』それを聞いた途端分かった奢るから、と別段頼んでもいないことを彼は言い出して、そのまますぐそこにあったチェーン店の中に、ミシェーラを引っ張って行った。
「…違う。浮気じゃない」
駅前のコーヒーチェーン店は地味に混雑していて、待ち合わせに飽いた人々がもしかして涼んでいるのかも知れない。店内の椅子やテーブルは少しばかり狭く設置してあるせいか、隣の人間の話だって耳に入ってくる。ザップがそんな風に呟いた途端、隣に座っていたカップルが少しぎょっとしたように、こちらに視線を寄越したからミシェーラは少しおかしく思った。
「……わたしは何も言ってないですよ」
「で――――でも、言うだろ。帰ったら」
「そりゃあ聞かれたら」
言いますけどね、と澄ました顔をしてアイスティーを飲むミシェーラに、むぐ、という顔をしたザップはぱしんと両手を合わせて頭を下げた。「…頼むから黙ってて」奢るから、と二度目のそれを言われてさてどーしましょう、とミシェーラは笑って、返事をする。

ザップと付き合っているのはミシェーラではない。
ミシェーラの兄が、ザップと付き合っているのだ。

そもそも事の発端はミシェーラからだった。見ていてじれったいなあ、付き合えばいいのになあ、と常々思っていたから兄ではなく、ザップの方にアプローチをかけたのだ。結果として何度も何度も何度もそれを否定していたザップも最終的にはミシェーラの兄と付き合うことになったのだから、最初からそうだったのだろうとミシェーラは思っている。最初から兄のことがすきだったのだ。
傍目から見てもザップは物凄くミシェーラの兄を大切にしていたが、その割に素直じゃないから多々問題が起きる。しかも彼は彼自身で金銭的にも男女関係的にも非常に問題を起こしやすい男だったため、その下りでも非常に兄が困窮していた。もう別れてやる絶対別れてやる別れてやると言いながら出かけて行く兄の姿をミシェーラは幾度となく、見たことがある。口だけだろーな、と思いながら翌日の帰宅を待つと、大抵兄はため息を吐きつつも機嫌よく帰ってくるのだ。同じ事を何度も繰り返している。

「…そういえばあの女性の方は?どーしたんですか」
「え?あー…いや、別に。さっき会ったばっかだし。わかんねー」
「…相変わらずですねえ」
わたしに会わなかったらそのままでしたよね、とミシェーラが言うと、そんなことねえよとザップは嘯いてアイスコーヒーを、呷った。「…だからマジで黙ってて」
そう言って再度ザップはぱん、と音が出るくらいに合掌をしてお願いしますと続けた。「…んー………」少し悩んだ素振りをした後、それじゃあとミシェーラは口を開いた。
「黙っててあげます」
そう笑って言うと、がば、とザップは顔を上げると綺麗な顔をものすごく嬉しそうに笑顔にしたあと、もう一度頭を下げた。
「あざーす!!サンキューまじで!!」
そんなにばれたくないなら最初からしなければいのに、と思わないでもない。というか、そもそも浮気という行為はしてはならないのだ。
「…どーせあてつけでしょ。お兄ちゃんが夏祭り一緒に行ってくれなかったから。そーいうのはよくないですよ」
そうミシェーラが笑ったまま言うと、うぐ、とザップは口ごもって目を泳がせたあと、結局拗ねたように口を尖らせた。「…ちげーよべつに。カンケーねーよ」

近所で毎年開催する花火大会は夏祭りも兼ねている。出店や神輿、それから盆踊りも行われるかなり規模が大きい祭りのせいか、近隣どころか遠方から人がわんさかくる祭りで、ミシェーラは毎年友達と出向いていた。
一昨日、今年もその祭りが開催された。そこで、ザップとミシェーラの兄――レオナルド・ウォッチは揉めた、らしい。何でも元々レオはザップが夏祭りなんぞに興味が無いと思っていたらしく、先にクラスの友人と行くという約束を取り付けてしまっていたのだ。真面目な兄のことだから、先約を反故にするのはちょっとということで後から言ってきた恋人の誘いを丁重に断ったのだろう。早い者勝ちみたいなものだ、とミシェーラは思う。それで、揉めた。つまりケンカだ。
「…おにーちゃん一昨日からずーっと元気ないですよ。お祭りで買ってきたりんごあめとたこ焼き私に全部くれたし」
私もお祭り行ってるって知ってるのにね、と言うミシェーラに、またザップは少し拗ねたような顔をすると、だってアイツ電話しても出ねえし、と続けた。「…つーか元気ねーのは俺だっつーの。先に断ったのはレオなんだから」「断りたくて断った訳じゃないでしょう」「…そーだけど」そーだけどさ、と繰り返してザップはため息を吐いた。
「外でいちゃいちゃしたかったんですか?」
「…べつにそーいうわけじゃ……、…いや、つーかそこ突っ込むのか」
「だって発端は私からだし」
そうだけど、とザップはため息を吐いた。「…でも付き合ってんのは俺とレオの意思だろ」プイとそっぽを向いてそう言うザップに、そうですけどね、と笑ってミシェーラは返事した。

予備校に行ってくる、と言うミシェーラに、よろよろと部屋の奥から出てきた兄はやはり元気がなかった。『…送ってく』そう言う兄はゴーグルとメットを手に、ミシェーラの分のメットもひょいと差し出した。いいよ、とミシェーラが言うと頼むからとなぜか兄は拝むようにこちらを見て、こう言った。
『…なんかしてないと気がまぎれないから』
それなら、とミシェーラは兄”を”伴って予備校へ向かった。予備校の入り口で兄はミシェーラを下ろすと、迎えは何時くらいがいい、と首を傾げた。
『帰りは寄るとこあるから、大丈夫よ。まだ明るいし』
『…あ、そっか…?』
そんじゃな、と兄は力なく手を振ると、そのままバイクで帰って行った。気を付けてよというミシェーラの声にはうん、と少しだけ笑顔を見せた。多分そのまま、帰ったのだと思う。というのもミシェーラだって今まで予備校で勉強していたから、今兄がどこにいるのかは分からないのだ。
「それじゃ、家来ますか?」
ミシェーラがそう言うと、ザップは顔を顰めてこちらを向いた。「…今行ったら夕飯強請ってるみてーじゃん」何を今更、とミシェーラはまた笑ってアイスティーのストローから口を離した。「…おにーちゃん喜びますから。ね」そう続けると渋々と言った様子でザップはうん、と頷いた。
世話が焼けるなあ、と思いながら伝票を手に立ち上がる。「あ」慌てたように続いて立ち上がるザップにいいですよ別に、と苦笑しながらそう言った。無論自分の分しか払う気は無かったが。
「私の結婚式の時にお祝儀を奮発して下さい」
「レオが泣きそうなこと言うなよ」
そう言われて、おかしくなって笑った。


ただいま、と言う声に返事はなかった。「…あれ?おにーちゃーん。あ、ザップさん今お茶入れるんでリビングでもどこでもいーんで待ってて下さい」「あー、うん…」のこのことザップがリビングに入って行く。既に勝手知ったる人の家状態なので、案内は不要だった。
「お兄ちゃん」
とんとん、と部屋をノックしたが返事がない。寝てるのかな、とドアを開ける。
レオはいなかった。
「…ありゃ?」
小さくそう呟いてとことこといったん台所に入り、お茶を入れてリビングに戻る。ソファに座ってぼんやりしているザップがいた。はいどーぞと言いながら麦茶をテーブルに置いて、盆を持ったままソファに座った。「…うーん」その声にザップが怪訝な顔をする。
「…お兄ちゃんいないんです。どこ行ったんだろ」
「え?そーなの?」
「そーなんです。…バイクの鍵はあったんで、遠出はしてないと思うんですけど」
コンビニかな、と呟いたそれは独白に近かった。
「…知ってるとは思いますけど、大抵ザップさんと喧嘩したあとは用事無きゃずーっと家で寝てるんですけどね。…今日はどーしたのかな」
ざざ、と開いた窓から風の音がする。続いて途端に蝉の声が聞こえてきた。カナカナカナ、というそれは蜩の鳴き声で、既に夕刻近いことを示している。
「…テレビでも見ます?」
何となく沈黙になってしまったのでおもむろにテレビを点けると、通り魔のニュースですと言う不安を煽るニュースが流れた。××市では若者が刺されて重体、犯人はいまだ逃走中、ですとアナウンサーが無機質に読み上げている。××市は隣の隣にあたる市だった。
ちりん、と風鈴が鳴った瞬間だった。
ミシェーラの携帯が着信を告げた。お互いびくりと反応して音源を探す。ソファの上に投げるように置かれていた携帯を拾い、慌てて画面を見るとそこには兄の名前が表示されいた。なんだか矢鱈とほっとする。「お兄ちゃんです」そう言うとザップも脱力したようにほっとした様子で息を吐いた。特に何も起きた訳ではないのに、何だか雰囲気に飲まれていた。
「もしもしお兄ちゃん?」
そう言ったが電話の向こうからは無言しか聞こえない。というか何も聞こえない。「…お兄ちゃん?」そう繰り返したがやはり無言だった。「もしもし?」再度そう言ったところでやっとザップが怪訝な目をこちらに向けた。「…どーした」そう彼の声がしたが、ともかく電話の向こうにミシェーラは再度話しかける。
「もしもし?お兄ちゃんでしょ?」
『…、…、……ま、……さん…』
ざざ、というノイズが混じった音声が聞こえる。いや、聞こえない。「…おにいちゃん?もしもし?」そこまで言ったところでやっとノイズが聞こえなくなった。今だ、と確信してお兄ちゃんと再度呼びかけた。
『もしもし?』
しかし電話の向こうからは知らない男の声が聞こえてきた。ん?と首を傾げる。ザップが再度怪訝な顔をした。
「ええと…お兄ちゃん、じゃないですよね」
『ああ、うん…ええと―――妹さん?でいいのかな。それともお姉さん?』
「妹です」
誰、と言う声に目を向けるとザップがソファの隣に移動して来ていた。「…レオじゃねーんだろ」そう言うザップにこくんと頷く。わかりません、と送話口を押さえて小さく言うと、ぱっと手を離してもしもしと再度呼びかけた。
『ああ―――えっとね、今ちょっと…二人でいるんだけど、お兄さんが潰れていて』
「潰れて?どういうことですか?」
『いや、慰めてたらちょっと―――あ、起きられる?だいじょうぶかい?…ああ、やっぱりやめた方が―――』
もしもし少し待っててほしい、というその声の背後から兄の呻き声がした。おにいちゃん?と再び話しかけたが当たり前のように返事はない。待っててほしいと言われたのだから、恐らく電話機自体をどこかに置いてレオの方に会話相手は向かったのだろう。
「…どしたの。つか誰」
「わかんないです。なんか慰めてたらどーとか言ってます」
途端にザップの眉が顰められた。「…ちょい代わって」そうザップは低い声で言って手をこちらに伸ばしてきた。「…ケンカしないで下さいよ」そう言うとしないって、と手をぶんぶん振られる。しかし既に目が剣呑な光を放っている。ちょっと黙った後もーちょっと私が話聞きます、とミシェーラは要求を突っぱねた。ザップは顔を顰めたまま、しかし仕方なさそうに黙って手を下ろした。
『…いじょうぶかい?寝てた方がいいって。…ん?大丈夫大丈夫。言わないよ。……』
電話機の向こうからはそう言う声がした。既に何だかもう怪しい。言わないって言ってるってことは何かを隠しているということじゃない、とミシェーラは怪訝な顔をしたままもしもし、と無意味と知りつつ呟いた。案の定返事はこない。
『…いいよ。泊まれば?いや、俺は別にかまわないから』
それはわるいです、という弱弱しい兄の声が背後からやっと聞こえてくる。大丈夫だよそれも黙っておくから、という穏やかな声のあとに、兄の返事は聞えなかった。

ただ、と少しミシェーラは首を傾げる。この人の声―――矢鱈と優しい。
優しいのはいいことだけど、とは思う。ただし聞いたことがある優しさだった。
既視感が、ある。

再度、もしもしという声が電話から聞こえてきた。
「もしもし?…ええと―――どうなってますか?兄は」
『やっぱり無理そうだ。俺が送ってこうとは思うんだけど』
「泊まるんじゃないんですか?」
そう切り込むと相手がきょとんとした気配が伝わってきた。泊まるというそれを聞いた途端にザップがはあ?と隣で喚き始める。「ちょっと待て。何だそりゃ。誰だそいつ」その声を無視して誰とも分からぬ電話の相手と会話を続ける。
『…聞こえたのかな』
苦笑交じりの声に、ええ、と淀みなく返事する。「泊まるなら泊まるで言ってくれて構いませんよ。成人してないとはいえ兄も大学生ですから」そう言うとまた苦笑された。大人だねえ、というそれにどうもと答える。
「…それとも兄が隠したがってるんでしょうか?」
間を空けて、私じゃない誰かに、と続けたところでザップがぎくりとした顔になった。「み、……」そこまで言いかけて、結局ザップは黙ると困惑したように俯いてまた顔を上げた。なんだか捨てられた犬のような顔をしている。

『……聡い妹さんだ』
そのあと、声の後ろからそうでしょう、という力ない、しかし何だか浮かれた声が電話からは聞こえた。飲んでるのかな、と思いながらミシェーラは口を開く。未成年に飲酒はご法度だというのに。
「…別段わたしは構わないんですけどね。兄がどこの誰の家に泊まろうが」
おい、という声が隣から聞こえたが無視した。「ただ私じゃない人は困るみたいなんです。代わります」そう言ってはい、と笑顔で携帯を差し出すとザップは顔を顰めたまま奪い取るように電話を受け取った。

電話の向こうと会話を始めたザップの声を聞きながら既視感の正体に気が付いた。
あの声、ザップさんの声と似てるんだ。
雰囲気とか、優しさの方向が。
――――兄を好きな声だ。

「オイコラてめー誰だよ。レオそこにいんだろ。殺すぞ」

完全にケンカをふっかける始まりである。あーあという顔をミシェーラがしているのを無視して、ザップはほぼ切れた声で相手に話しかけている。これはまずい、と思いながら携帯の横をそっと弄ってスピーカーをオンにした。音が大きくなったせいで、うお、と言いながらザップが電話から耳を離す。
「べつにそこまで、」
「いーから。もしもし?すみませんちょっとこの人こういう人なんです」
「な…あ、いや俺の事はいーんだよ。レオは?レオ出せってレオ」
『…お前はいつも騒がしいなあ』
喜色を含んだ声にザップが怪訝な顔になる。「…グレゴール?」そうザップが言うとそうそう、よく分かったなと爆笑交じりの声が電話から聞こえてきた。どうも知り合いらしい。
「な―――おい。何だよ。テメー今それどこだ。まさかホテルじゃねーだろーな」
『お前なんでいつもそーいう発想なんだ。俺ん家だよ』
「余計わりーよバカふざけんなよ。そこにレオいんだろ」
『いないよ』
明らかな嘘にふざけんなってば、とザップが畳みかけた。「お前マジでそいつに手ェだしたらぶっ殺すからな。今から行くから動くんじゃねーぞ」そう言ってぽいと携帯をミシェーラに突っ返すとザップは立ち上がった。
「迎え行ってくる。茶ーありがと」
そうとだけ言ってすたすたとリビングからザップは風のように出て行った。あ、と慌ててあとを追いかける。「ちょ―――、ま、ってください!わたしも!」行きます、と続けたあとで駄目、と靴を履きながらザップが振り返ってそう言った。
「待ってろ」
「何で」
「バイクだから」
あぶねーだろ、と言外に含まれたそれは分かったが、それでもミシェーラは食い下がった。
「嫌です。行きます」
「だって帰りどーすんだよ。レオと俺とじゃ三人じゃん」
「私は歩きで帰ります。バスだってあるでしょうし」
「そーいうわけにはいかねーだろ」
「じゃあ誰かに迎えに来てもらったりとか、ともかく色々手はあるでしょう」
「…面倒だろ。いーから待ってろって。ちゃんと送るから」
喧々諤々とごちゃごちゃ少し言い合ったが、結局ミシェーラは伝家の宝刀を使うことにした。「…今日あったことをお兄ちゃんに言いましょうか」
そう呟いた途端ザップはぎょっとした顔になり、苦渋の決断と言った様子でわーったよと頭を掻きながらそう言った。
「…どんどんレオに似なくなってね?」
そう言いながらエレベーターに乗り込んだ兄の友人は、駐輪場があるB1階の階数ボタンを押しながらため息を吐いた。そんなことないですよ、と嘯きつつエレベーターの壁に寄りかかってザップの後姿を見つめる。それにしたって脅された直後そんなことを言うとは、と思った。
「…ザップさんはお兄ちゃんが好きですねえ」
少し間が空いたあと、るせーよと言う照れたような声で返事がきた。
だったら浮気なんかしなきゃいいのに、と思わないでもなかったが。


到着したそこは学生専用のアパートだった。入口にはマンションと書かれているがどう見てもアパートだ。駐輪場にはレオのバイクが停めてあった。明白である。
「…ここですか?」
それでも一応首を傾げて訊ねると、そーだよとザップが顔を顰めてバイクの鍵をかける。「ここで待ってろ。仮にも男の一人部屋なんだから」そう言われたがここまで来てそれは嫌だ、とミシェーラは再度食い下がった。
「だからだめだってば。俺がレオと親父さんに怒られるだろ」
「言わなきゃわかんないでしょ」
ザップの腕を掴んでアパートの入り口に向かったところで、やっとザップはわかったよとげんなりした様子で言った。「…部屋わかんねーだろ」そう言いながら先に歩いて行くザップは、少しだけ落ち着いたように見えた。

二階に着いてすぐのところのドアをザップがノックすると、はいはいという声が玄関先から聞こえてガチャリとドアが開いた。「お前ほんっと早い…………あれ?」
新しい彼女か?と首を傾げた人物は、ザップと同じくらいかもしくはそれより背が高く、温和な顔をした男性だった。電話の相手だ、とミシェーラは理解する。肩くらいまで伸びているブロンドの髪を項辺りでまとめており、均整のとれた体つきをしている。年齢はやっぱり、ザップと同様か少し年上に見えた。何より顔が端正だった。
「ちげーよボケ。いいからレオ返せ」
「だからいないって」
「い、る、ん、だ、ろ。そーいうのいいから返せ。俺のだ」
ん、とそこで男性――グレゴールと先ほどザップは呼んでいた―――は首を傾げた。「…その子じゃないのか?」「だから違うって言ってんだろ。この子がレオの妹ちゃんなんだよ」「あー、そうなんだ。初めまして」合点した様子でグレゴールは笑うと、どうもお嬢さんと非常に時代錯誤に、ただ丁寧にミシェーラに話しかけた。女の子慣れ、というよりはそれが礼儀だと思っているようだ。
「…どーも。兄がお邪魔しているようで」
「ああええと…うん。そーだね。いるね」
「てめーコラ」
お前には黙ってろと言われてるんだ、と肩を竦めたグレゴールは溜息を吐いて、わかったよと呟いた。「つれてくるからここで待ってろ」「なんでだよ。入らせろ」「だめだって。…服を着せるのが大変だからね」そう言った瞬間にザップががん、と音を立てて半開きのドアを蹴った。びく、と大きな音に反応したミシェーラの方にグレゴールが一瞬だけ気遣う視線を見せたが、ザップは全く気が付かない。位置的に見えないからだ。
「………開けろ。じゃねーとお前ここでドアぶち破るぞ」
「…冗談が通じないなあ」
女の子の前ではもっと穏やかにしろよ、とグレゴールが呆れたように言うとザップはそこで漸く足を下ろしてこちらを向いた。振り返った兄の友人は、いつもの表情だが、いつもの目ではなかった。薄い青いアッシュグレーが、見たことないくらい綺麗に光っている。しかし、それと同時に揺れてもいた。焦燥と何かが、一緒くたになったような目だった。
「…悪い」
小さく呟いたその言葉にミシェーラは首を振った。だいじょうぶです、という意味だったのだが、ザップはそう思わなかったらしい。「…ごめんって。大丈夫だ。怒ってねえよ」そう言うザップの目は、やっといつもの目と同じに戻っていた。
「…待ってろよ。連れてくるから」
そう笑ってグレゴールはぱたんとドアを閉めると室内に入って行った。
「…………誰なんですか?」
ポケットに手を突っ込みながら、ザップはドアを睨んでいたが、その背中に話しかけるとこちらを振り向いた。先ほどの剣呑な雰囲気は既に失せていて、いつもの彼と全く遜色ない。それにほっとした。
西日が差しこんでいる廊下の手すりに寄りかかりながら、グレゴールだよとザップは説明にならないことを呟いた。そう思ったのが顔に出たのか、直後付け加えられる。「ボクシング部の部員で、えーと…まあ、飲み友みてーな」前からのお知り合いなんですよね、とミシェーラが首を傾げると、顔を顰めたままザップは頷いた。
「…入学した時の新歓で知り合った。学部とかは全然別なんだけど、なんか気が合うから」
たまに飲んだりするんだとザップは続けた。「…で、まあそりゃ俺はレオと一緒によくいるから、必然的にアイツも知り合うわな」そこまで言ってザップはため息を吐いた。ミシェーラはきょとんとする。
「…どーしたんですか?」
「……アイツと俺趣味が似てるんだよ…」
「はあ。それが」
それがな、とザップはげんなりした様子で続けた。「…女の趣味が似てたんだ」
そういうことか、とミシェーラは納得する。「…まー確かに。電話口で聞いた声がザップさんに似てました」「似てないだろ」「そういう意味じゃないんですけど」確かにそうですねえとミシェーラが呟いたそれにザップが怪訝な顔をする。少しばかり焦燥感が含まれたそれを見ながら、指を顎にあててミシェーラは小首を傾げた。
「…あのひと、多分お兄ちゃんが」
好きです、と言う声と同時にドアが開いた。その為、ドアの音でミシェーラの声は聞こえなかった。
おまたせ、と笑って出てきたグレゴールの肩にレオが引っ掛かっている。途端にザップの目が吊り上がった。
「オイてめーマジで何してんだよ。酒飲ましてんじゃねーよ」
「俺が飲ましたんじゃなくて気が付いたら飲んでたんだ。ビールが三缶消えた」
「同じだろボケ。飲ませて何する気だったんだっつーの」
そう言いながらザップはレオを受け取ってそのままお姫様抱っこした。兄がお姫様抱っこされているシーンを見るのは別段初めてではなかったが、見たということは黙っていた方がいいのだろうな、と何となくミシェーラは思った。兄にも一応プライドと言うものがある。
「…別に何をしようってわけじゃないって。ザップはいつもそればっかりだなー…ただコンビニでたまたま彼と会ったんだよ。で、なんだか元気がないから」
そのまま誘ったんだとグレゴールは続けて、笑った。「珍しく頷いてくれたから。お前のことはいーのって聞いたらいいですあんな人って言うからさあ」
俺の家呼んだだけだよとグレゴールはにっこりと笑みを浮かべた。「ケンカしたんだろ」「…るせーな」そう言い合っている二人の会話を聞きながら、疑問が浮かんだ。いいですあんな人?おかしい。レオは確かにザップとケンカ中だが、そういうケンカではなかった。ザップが一方的に怒り、レオは反対にがっかりしていたような――そんなケンカだった。なのに、いいですあんな人、とは。普通に考えてあのテンションでそんなことを言うような兄ではない。
「…あのう。グレゴールさん、兄とどこのコンビニで会いましたか?」
「え?えーと。あっち。駅前の」
それはミシェーラの予備校近くのコンビニだった。恐らくレオはミシェーラを送り届けたあと、途中でコンビニに寄ったのだろう。そこでグレゴールと出会ったのだ。
「………ザップさん。今日のあの女性とは何時くらいから一緒にいました?」
「あ?なんで今それ……えーと…確か昼過ぎくらい…」
噛みあった、とミシェーラは思ったが同時に額を押さえて俯いた。「え。何。どーした」そう言うザップの声に、あのですねとミシェーラは俯いたまま続ける。
「たぶん、お兄ちゃんザップさんの浮気現場を見ています」
「え」
「…オマエ浮気してたの?また?サイテーだな」
呆れたように言ったグレゴールに、通常だったら食って掛かるところだろう。しかしザップはそれどころではないらしい。「え。な、なんで」面喰った様子でこちらに向かって目をぱちくりと瞬かせた。
「今日お兄ちゃん予備校の近くまで来てたんですよ。私を送りに」
「…おう。それが」
「わたしの授業が始まった時間が一時。つまりその十分くらい前には私を送ってきてくれてたんです。で、帰るでしょ。で、多分途中でお兄ちゃんは見たんです。ザップさんがあの人と一緒にいるとこを」
「…………………………………マジで?」
非常に長い間の後、ザップはそう言って、おかしくもないのに笑った。恐らく余りに考えが追い付かない出来事のせいで顔が引き攣ったのだ。ミシェーラはそんなザップを無視して、今度はグレゴールに向き直る。名探偵にでもなった気分だった。
「グレゴールさん」
お兄ちゃんと会った時間帯覚えてますか、と聞くと、ええととグレゴールは少し考える素振りをしたあとにああ、と思い出したように呟いた。「確かえーと、一時くらい…うん、一時は回ってたかな。連続テレビ小説終わっちゃったなーって思いながらコンビニに入ったから」
「…ほら」
時間が面白いくらい一致します、とミシェーラが続けるとザップは沈黙した。沈黙のあと、腕の中にいるレオを見つめる。無論今やレオは泥のように深い眠りについているので、返事どころか反応どころか声すらあげない。寝息を立てている。
ぎしぎしとザップはまるでロボットみたいに動くと、ミシェーラの方を見下ろした。「………どーしよう」引き攣った声にため息を吐く。「…どうしようもなにも」「そう。どうしようも何も、だろ。真摯な態度で謝れよ」続けられたグレゴールの言葉に、ザップは無反応だった。

ついに蜩の声も、聞こえなくなった。



自分で見るのと人から聞くのって全然違うよ、と溜息を吐いた兄を見上げてコップを傾ける。「…ザップさんとは仲直りしたの?」コップと同様首を傾げたミシェーラに、兄は顔を顰めてそれはいいだろ、と不貞腐れたように、言った。
それもそうかも知れない、とミシェーラは思ってお茶を飲んだ。件の出来事から既に三日が経った今日、夏休みも終盤に差し掛かった。反面大学生である兄は来月終盤まで夏休みらしいから、その分膨大なレポートの提出があるのだと嘆いていた。
「…えーと、映画?ロケ地に行ったんだよね、今日は」
「あ、そうそう。やー、なんかやっぱ感動だよな、スクリーンに映ってたそれが眼前にあるってーのは。しかもそこが全然映画フューチャーしてなくて?なんかもーマジそのまんまで残ってんだよ。周りが盛り上げてないっつーのがあの映画っぽくていいっつーか」
途端に笑顔で語りだした兄がキッチンの椅子に座り始める。映画とか写真とか、ともかく好きだよね、と思いつつお茶淹れようかと首を傾げる。うん、と兄は穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、何となく想像がつく。今日一緒に出掛けた相手とか、件のケンカの決着だとか。それから、さっき言ってた一言もだ。

―――自分で見るのと人から聞くのって全然違うよ。

たぶんお兄ちゃんザップさんの浮気現場見るの初めてだったんだろうな、と余計なお世話とも思えるそれを思いながら急須に茶葉を入れた。結構ショックだったから、それであんな感じになっちゃんったんだろう。
あのあと、バイクはそのまま置いて三人で家に帰ることになったが、ザップは無理矢理義弟のツェッドを呼び出してミシェーラとレオを迎えに来させた。俺はコイツと話をつけると剣呑な目でそう言うザップに、警察沙汰は勘弁してくださいよ、とツェッドは顔を顰めるとレオを背負って、それからミシェーラと一緒に家まで送ってくれた。ごめんなさいと何度も言うミシェーラに、ミシェーラさんが謝ることじゃないでしょう、と苦笑するツェッドと夜道を一緒に帰った。
「…ザップさんはなんか言ってた?」
そう言ってお茶を出すと、兄はうぐ、と顔を顰めてこちらを見つめた。「…俺言ったっけ?一緒に行ったって」「ううん。知らなかった」澄ましてそう言うミシェーラに、がくりと肩を落としてお前そーいうのやめろよと兄は顔を覆った。素直な兄だった。
「…なんか俺がはしゃぎまくってたから一歩引いて俺を見ていた」
「あ、そーなんだ。でもそーいうこと出来る人なんだね」
「…よく思うけどミシェーラのザップさんに対する評価はけっこう厳しいよな」
「あら、大事な兄の恋人だもの。しょうがないでしょ」
「そーいう言い方はやめろよ…」
くすくす笑うミシェーラに、兄は顔を顰めたままそう言うと、まあでも、と続けた。
「…一緒に行けてよかったかな」
そう言って何かを誤魔化すみたいに茶を一気に飲むと、あち、と言いながら兄は立ち上がった。がたん、と椅子が鳴る。「…もー眠れよ。お休み」早口でそう言いながらキッチンを出て行く兄の後姿を見て、やれやれと肘をテーブルに付く。いつもこうなんだから、と思いながら欠伸をした。世話が焼ける。


翌日の夏期講習の帰りに、再びザップと遭遇した。あ、と人混みから何とか抜けて道を渡ろうとしていたら眼前にまたしてもザップがいたのだ。これはと思っていると彼の隣からひょいと兄が顔を出したので、少しほっとした。
「わっ。ミシェーラ…あ、授業終わったのか。今」
「うん…おにーちゃんとザップさんは…デート?」
そういう言い方はやめろ、と二人に異口同音で言われてきょとんとする。更に二人は何だよと同じように言いながら顔を見合わせたから笑ってしまった。

そろそろ夏が終わりそうだった。
それで多分、秋にも同じようなことが起きるんだろうなあとか、結構洒落にならないことを思ってたりする。