サマー・ホリディ

2017/01/27


かきこうしゅう、という平仮名発音のそれを聞いて、そうですと頷いた。「マジかよ。休めよそんなん」「いや、俺は受験生なんすけど…」呆れた顔をした自分を不満げな顔で、大学生になった先輩が見つめてきた。

夏は暑い。猛暑と呼ぶには少し早い、けれど既にプール開きは終わっているのだから夏といって相違ない――――何で学校のプールにビーチパラソルがあったのかなあ、とふとそれを思い出しながらレオナルド・ウォッチは空き缶を駐車場の隅にあるゴミ箱目掛けて投げた。かん、という音がしてゴミ箱から空き缶が跳ね返る。あーあと顔を顰めてレオはそれを拾いに行くべく立ち上がった。
が、その前にぐいと腕を引っ張られてわあと声を上げる。「ちょ、な、何すかびっくりした!」「ちょお待てよ。んじゃ今年の夏はどーすんだ。海行くんじゃなかったのかよ海」「そら海は行きたいすけど」でも盆も講習が入ってるんで、と言ったレオに再度先輩のザップ・レンフロが顔を顰めてみせた。「だからサボれよ」「そーいう訳にいかないでしょ」
いいから一回離してください、とレオが腕を振り回すと、渋々といった様子で腕が離された。今度こそ空き缶を拾いに行くべく、レオは立ち上がる。

夜十時を回れば夏だって流石に真っ暗だ。駐車場の電灯は嫌な音を立ててちかちかと瞬いていて、道路の交通量も少ない。なのになぜか騒音は遠くから聞こえてくるのだから、街は不思議だ。空き缶をきちんとゴミ箱に入れたレオは、スクーターに寄り掛かっている先輩の許に走って戻った。「…じゃ帰りましょ。早よしないと駅前混みます」「…それはいーんだけどよ」海はどーすんだとザップはまたさっきと同じことを言った。ちょっとだけその声は、拗ねているようにレオには聞こえた。
「んー。海は俺の受験が終わってからにしましょう」
「ソレ来年じゃねーか。ヤだよ。行こうや」
「だから夏期講習があるんですって」
「一日くれーサボれよ」
ザップさんはよかったでしょうけど、とレオは言いながら首をちょっとだけ、傾げる。「頭いいし。そもそも俺は一般なんすよ。内部受験とはいえやっとくに越したことはないじゃないですか」「知るかバカ。日頃の勉強を大事にしろ」似合わねーっすよ、とレオは思わず笑ってそう言ってしまったが、ザップは仏頂面のまま、スクーターに引っかかっていたヘルメットをレオに投げて寄越した。

予備校に行くって言った時もこうだった、と先輩の背中を見つめながらレオは回想する。
六月後半から予備校に通うから放課後そんなに会えません、とレオは一応ザップにそう、伝えた。別段会う約束をしているわけではなかったが、暇な日、ザップはレオのことをわざわざ自分の母校となるレオの高校まで迎えに来るからだ。最初の内は頻繁だったそれも、彼も一応サークルに所属したり飲み会があったりといううちに少なくなったので、レオはちょっと安心した。口にはしなかったけれど、流石に殆ど毎日校門の前に彼がいるのは体裁が悪い。
体裁が悪いっていうか、とふとある日思った。
照れ臭いのかもしれない。何しろ付き合い始めてまだ一年にもならない。元々友達だったせいで、付き合っているという実感が、なぜかレオにはまだない。去年の冬頃にはたまに思うこともあった。―――俺、この人と付き合ってるんだなあ。ザップが雪の中、顔を顰めているそれを見ながらぼーっとそう思っていたら、屋根の雪が崩れ落ちてレオの頭に降ってきたから悲鳴を上げた。埋もれたレオを引っ張り上げてくれた先輩は、何やってんだよと呆れたように言ったもののおかしそうに笑っていたから、レオも雪まみれになりながらもつられて笑ってしまった。
その時の先輩はまだ高校生だった。今は既に、大学一年生である。
「…………。」
だからなのかなあ、と思いながらぽすんとザップの背中に寄りかかる。信号待ちの間だけ、と思いつつ横を向いて溜息を吐いた。毎日見ていた筈のザップの顔が見られなくなったことに、今更つまらなさを覚えている。去年も一昨年も、夏休みなのに大抵一緒にいたしな、と思って自分に呆れた。割に、海に行ったことはなかった。そのせいか、今年の春にレオは海に行きたいなあとぽつりと呟いたのだ。―――海?今から行っても何も面白くねえだろ、とザップは呆れたようにその時もレオの横で煙草をふかしていた。ちなみに当時彼は勿論まだ18歳だった。誕生日も迎えていない。迎えたところでまだ喫ってはいけない。
どーせなら夏に行こうぜと言われて、レオも毛布を被ったまま素直にこくんと頷いた。確かに、暑い最中に行った方が楽しそうだ。その時はそう思っていた。
実際に夏になった今、そんなことをしている余裕がなくなった。悪いなあ、と思いはしつつもレオだって一応人生の分岐点に立っているのだから、一日だけとは言えのこのこ海に行く訳にも行かない。夏期講習は毎日ある。
信号が青になったので、レオは顔を退ける。ザップは別段何も言わなかった。


んじゃな、と言いながらザップが手を上げる。「はい。あざっす」夏期講習中別段毎日ザップが迎えにきてくれるわけではない。ただ今日はたまたま予定が合ったらしい。校舎の前で待ってろと言われたので、レオは大人しく校舎の前でザップを待ち、それから彼がスクーターを停めた駐車場まで一緒に歩いて、スクーターに跨って、それから今のように自宅の前まで帰ってきた。
「…あ、お前明日もこれか」
「そーです。てか今月いっぱいそうです」
マジかよとザップは顔を顰めて言うと、あーあと溜息を吐いた。「…んじゃー俺の滾る性欲はどこにぶつけりゃいーんだよ」「せ、」性欲ってあんたと言いながらレオはぎょっとしてしまう。思わず辺りを見渡したが、既に夜十時を回っていたので辺りには誰もいない。蛍光灯がじじ、という嫌な音を立てていた。
「……だっておめーさあ、昼間は学校で夜はこれだろ?んじゃ俺といちゃつく暇ねーじゃん」
「…………そ、…そーかもしんないけど」
でも、ともごもご口を動かして言ったレオのことを仏頂面でザップは見つめると、また溜息を吐いた。けれどそれを聞いてもレオは不安になったりとか、焦ったりすることはなかった。なんだかその溜息は、レオに対して吐いているように聞こえなかったからだ。
「…レオ。ちょおこっち来い。こっち」
「え」
はあ、と言いながら一歩距離を詰める。何となく、予感はしたけれどそこで拒否する程、レオもそれが嫌なわけじゃない。
―――というより、とレオは軽く抱きしめられながら思った。
たぶん俺も触りたかったんだろうな。
久々に触った気がしたがその実そんなこともない。先週こうされたのをレオはちゃんと覚えているし、今日は週の半ばだ。ザップからは変わらず煙草の匂いがして、未成年の癖にとレオは自分もそうであることを思い、やっぱりその、懐かしさに負ける。ただし背中に回されたザップの手が這うように動いたのでぎゃあとそれには声を上げた。「…っ、ちょ、…や、やめてくださいよ。外っすよ」「俺はそんなつもりねーのにお前が勝手に声を上げたんだろ」ザップはそう嘯いて言うと、ついでとばかりに掠めるようにレオの頬にキスをした。わ、とまた小さくレオは声を上げてしまう。真っ赤になりながら頬を押さえたが、ザップはそこでレオから手をぱっと放した。
蛍光灯がまた嫌な音を立てる。はっとして電柱を見上げると、蛾が灯りの周りを飛んでいた。
ザップがそんじゃな、と言いながら手を振り、スクーターを発車させる。「あ、は、はい」また、と言ってレオも彼の後ろ姿に手を振る。言いながら気が付いた。―――またっていつだ。去年までは次の日もしくは来週学校に行けば絶対ザップに会えるのは分かっていたが、今や学校に行ったところでザップはいないのだ。
「………………………。」
今更それに気が付いたような気がしたが、その実そんなことはない。そんなこととっくにわかっていたことだった。馬鹿馬鹿しく思いながらレオはのろのろとマンションの入り口に向かう。管理人に会釈をしてドアを潜り、エレベーターホールでエレベーターがやって来るのを舞った。

ただいま、と言いながらリビングに入る。妹がソファの上で頭をタオルで拭っていた。「お帰りおにーちゃん。……ザップさん帰っちゃった?」
「帰ったよそりゃ。………ん?」
妹であるミシェーラ・ウォッチが自分を待っていたらしいと察して、それと同時にレオは彼女の発言に疑問を持つ。
「なんでザップさんが送ってくれたって知ってんの?」
そう言いながら鞄をその辺に投げ捨てたレオに、怒られるわよと妹である筈の彼女は苦笑して言うと、リモコンでテレビを消した。「泊まってけばいーのに」
さては鎌かけたな、と顔を顰めたレオをおかしそうにミシェーラはソファから見上げると、麦茶入れようかと言いながら首を傾げた。「いーよ。コーラ飲んできた」「あ、デートでしょ」「駐車場で喋っただけだよ」デートじゃない、と顔を顰めたまま台所に向かったレオの後ろから、今度は泊まって貰いなよと妹の声がやってくる。じょーだんじゃない、と言いながらレオは弁当箱をシンクに置いて水道の蛇口を捻った。水音を聞きながら、風呂は、とミシェーラに問いかける。言ったあと彼女がパジャマを着ていたことを思い出した。ということは。
「もう入ったわよ。おにーちゃん最後」
「…まーそーだよな。この時間じゃ」
あーあ、と言いながら、思い直して麦茶を入れ、レオはリビングに戻る。「あ、あたしも飲む」「はいはい」んじゃこれ飲んでてと自分に入れた麦茶を彼女に渡し、レオは再度自分用に麦茶を入れて、製氷皿から氷を出して更に麦茶の中に入れた。
「……あー疲れた」
そう言って妹の横に座ると、お疲れ様とミシェーラは笑顔で言った。彼女は確か今日、友達とどこか遊びに行っていた筈だ。
「ねえお兄ちゃん。なんでザップさん帰っちゃったの?」
「そりゃー帰るだろ。あの人にだって家があるんだから」
てか絶対ここに泊めることはないからな、と言ったレオに、何で、とミシェーラがきょとんとしてコップを揺らす。麦茶と一緒に氷も揺れた。「お前がいるところにみすみす野獣を泊まらせるわけないだろ。俺が」そう真顔で言ったレオを呆れた顔でミシェーラは見つめると、はあ、と溜息を吐いた。レオは当然なんだよと変な顔になる。
「…おにーちゃんさあ。なんでそーなの?あたしとザップさんどっちが大事なの?」
「え?」
そんなに俺と一緒にいたかったんだとレオは感動して麦茶をテーブルに置く。妹の方に向き直ると、物凄く慈愛に満ちていると十人が十人言うであろう顔で、彼女を見つめた。「…ミシェーラ、大丈夫だよ。にーちゃんはずっとお前のにーちゃんだから、」「あら有難う。あたしもいつかは結婚するけどおにーちゃんの妹であることに代わりはないわね」しかし笑顔で言われたそれにレオは硬直してしまった。
「ちょ、ちょちょちょ待てよ。お前まさか今日言ってた友達って、」
「女の子よ。そんなことはどーでもいいの。ザップさんかわいそーじゃない。今月に入ってからおにーちゃん達全然デートしてないんでしょ」
そんなことってなんだよ、とちょっとレオは眉を顰め、別にそれは、と言いかけてまた気が付く。―――なんでそんなことを。
「…あ、あのさ。なんでミシェーラが俺とザップさんのそーいうことを把握してんの?」
「?ザップさんが言ってたから」
「はあ?」
いつ会ったんだよと首を傾げたレオに、電話だから会ってないわとミシェーラは澄ました顔でそう言った。電話、と復唱してしまう。確かに電話なら顔は見られない。いや、それはどうでもいいのだ。問題は電話の内容だ。
絶句しているレオを見て、変な顔、とミシェーラはちょっと笑った。「あたしがちょっと用事あってかけたの。その時聞いたからお兄ちゃんが知るわけないもん。しょうがないわ」「用事?」「ひみつ」そうきっぱりと妹は言うと、タオルの下にある髪を揺らして澄まし顔でくすりと軽く笑った。
「……………。」
複雑な気分でレオは黙る。秘密ってなんだ。てかザップさんはそんなこと一言も言ってなかったけど、と麦茶を見つめる。いや別に俺にそんなこと言う必要はないかもしれないけどさあ、と脳内でぐるぐると考えていたが、そうやっていたら妹が欠伸をした。「…もー眠いからあたし寝る。おやすみ」「え。あ、うん。お休み。コップそのままでいーよ」俺もどーせ片付けるから、と言ったレオにありがと、とミシェーラは素直に言ってまたお休み、と小さく呟くと自室に戻って行った。無言で彼女の後ろ姿に手を振ると、はあ、と息を吐いてレオはソファに寄りかかる。深夜だから当たり前だが、静かだ。

―――デートって。

大体、デートと呼ばれる類のことをしたことがあっただろうか。ふとそれに思い至ってレオは回想する。確かに放課後一緒に帰ったりゲーセンに寄ったり、はたまたカラオケだったりファストフード店だったりに二人で寄ったことはあるが、休みの日に二人きりで遠出をしたことはない。ただ単に会ったことは何度もある。ただ最近は、レオが勉強で忙しくてしていない。「………微妙だな」そう呟いてはたと気が付いた。デート?待てよ。俺とあの人が?デート?そこまで思って、なぜか自分と彼がにこにこしながら手を繋いで遊園地を歩いている図が頭に浮かんだ。顔が青ざめる。
「………ねーよ…」
自分でそうツッコミを入れながら立ち上がった。「風呂入ろ…」独り言を呟きながらのろのろと自室に戻る。パジャマと下着を持ってこないと、と考えながら廊下を歩いた。

もし海に行ったら。
二人で行くことになるんだからデートなんだろうか、とふと湯船に浸かりながらレオは考えた。どこの湯なのかは知らないし、何の効果があるのかはわからなかったが、夕寝は入浴剤のため若草色をしている。
…海に行ったら何をしよう。海の家で焼き蕎麦とか買って、浮き輪とかで遊ぶのも楽しそうだ。ザップさんはナンパとかしそうだから見張らないと。日焼けしたら痛いかもしれないから、パーカーとか持ってかないとなあ。
「………いやだから」
ないって、とまたしても一人でツッコミを入れながら、それでもレオはぼーっと目を瞑りながら海―――というより先輩と遊びに行くことを考えた。「……っ、と…」そしたら思考の海に、それから湯船にも沈みかけていた。「…上がろ」果たして海に行ったからと言って自分たちがそんな風に遊ぶかどうかは分からなかった。ていうかさすがに海開きしてる海に男二人は目立つんじゃないかな、とぼーっとしながら、レオは風呂から上がった。


泊まり?とぎょっとして言ったレオに、そーよとミシェーラはクロワッサンを齧りながらそう言った。「今週末。あたしとお父さんとお母さん」「ま、待って。俺は?」そう情けない顔をして言ったレオに、レオは夏期講習があるでしょうという声がキッチンの奥から聞こえてくる。母親だ。益々レオは情けない顔をした。
「ま、待ってよ。受験生の上、八時間の夏期講習と戦う長男を置いて三人だけで海辺に泊まりに行くわけ?」
そう眉を八の字にさせて訴えたレオに、遊びに行く訳じゃないのよと母親は淡々と言って冷蔵庫のドアを閉める。妹の隣で新聞を読んでいた父親も、そーだよと上の空気味に肯定した。
父親曰く、父方の親戚の一人が階段から落ちて骨を折ったらしい。命に別状はないし、別段苦しがっているわけでもないのだが、怪我をしていることに変わりはない。だから両親の間で、その親戚の見舞いに行こうという話になったらしい。
「…で、たまたまそれが海辺の近くなんだって。ていうか日帰りで帰ってこれるなら帰ってくるわよ。ね」
横に座っている父親の袖を引っ張ってミシェーラはそう言った。父親はそうだよそうそう、と新聞に夢中になっているようでおざなりにそう相槌を打つ。「ねえ聞いてる?お父さん」そうむっとしたように言っている妹を通り越して、レオは母親の方に困惑した目を向けた。
そうよと母親はきっぱりとそう言うと、サラダとスープを父親の前に置く。そして自分とは余り似ていない、きりっとした目をレオの方に向けてきたのでうっ、とたじろいでしまう。幾つになっても母親からの視線は幼いころを思い出すからか、苦手だ。
私達も戦ってくるからレオも戦ってきなさい、と言われてレオは変な顔をする。「…俺はそりゃー戦うよ。夏期講習と。でもそっちは何と戦うわけ?」「あら。そんなの分かるでしょ」それに返事をしたのはレオの最愛の妹だった。なんだよ、とレオは変な顔をして正面に向き直る。父親は既に新聞に夢中になっていて、うんうんと流れ作業のようにふわふわした返事をしていたが、母親は、妹のそれにそうよと腰に手を当ててにっこりと笑った。
ミシェーラは二つ目のクロワッサンに取り掛かりながら、可愛らしく首を傾げた。

「お兄ちゃんがいない寂しさとよ。お土産買ってくるから」

待っててね、と笑顔で言った妹に反論できる術を。
レオは残念なことに所持していなかった。


というわけでさっさと週末はやってきた。まさに駆け足、と思いながらそれじゃあ行ってきますと慌ただしく出かけていった家族を送り出した後、レオも急いで予備校に向かう。言った通り、今日は一日予備校で夏期講習なのだ。涼しいけどやっぱり勉強は苦手だ、と思いながら午前中を終えて昼を食べにレオは休憩室へ向かう。
「あ」
「あ」
ドアを開けて自販機の前に立っているのは友達の一人だった。レオくん、とにこにこしてレオのところにやって来たのは、友人はリールというクラスメイトだった。
「リールさん。来てたんすか」
「うん。レオくんも来てたんだ」
お昼?と聞かれてそうですとレオは頷く。「かーちゃんが朝弁当作ってくれたんで。ここで」「ああ」それはいいね、と穏やかにリールは笑ってそう言った。

クラスメイトのリールと仲良くなったのは今年になってからで、高校三年生になったら同じクラスになった。元々同じ学年で文系だったからたまに顔は見たりすれ違ったりはしていたものの、こんな風に話す様になったのは今年が初めてだ。ただし、レオと違ってリールの方はレオを知っていたらしい。
―――銀髪の。
ケンカが強い先輩と付き合っているんだよね、と言われてレオは絶句したことを覚えている。ど、どうしてそれをと引き攣った顔で言った自分に、リールは苦笑して言った。
―――色んな意味で有名だから。
ね、とその時リールはたまたま隣にいた、こちらは前からの友人であるツェッド・オブライエンに同意を求め、そしてツェッドもそうですねとレオに申し訳なさそうな顔をしたものの、そう相槌を打った。絶句してしまったレオを他所にリールはちょっとだけ気弱そうな笑顔で、よろしくとだけぽつりと言った。
リールはともかく穏やかで、そしてレオが言うのもなんだがひどく謙虚だ。謙虚というより自己評価が低い。けれどなぜか、今ではそうでもない。リールさん最近変わりましたよねえ、と呑気にも言ったレオに、そうだねとリールもやっぱりのんびりとそう答えた。
―――レオくんと会ったからだよ。
そう言われたが、レオは何のことだかわからなかった。何かしましたっけ俺、と言ったレオに、なんでもないよ、とリールは和やかに笑みを浮かべてそう言った。別の日、ツェッドにちらりと聞いてみたが、ツェッドは苦笑して、本人に聞かれた方がいいと思いますよ、とそう返事をくれた。答えてくれなかったからツェッドさんに聞いたんだけど。レオはそう思った。だからまだ、その理由はわからない。不思議だ。

サンドイッチを食みながら、それじゃあ今日は夜一人なんだねとリールは首を傾げてそう言った。「そーなんすよ。飯をどーしようかなって思ってます」「コンビニ?」「まあ、妥当っすよね。それが」今日はいつもと違って五時には終わるし、と言ってぽいとミートボールを口に入れる。冷めてはいるがこれはこれで美味しい、と思いながらもぐもぐと口を動かしたレオに、ご両親は何か言ってなかったのとリールは更にそう聞いてきた。
「かーちゃんが飯作ってくって言ってたんすけど、断りました」
「なんで?」
「だって朝からばたばたすることないでしょ。わざわざ」
弁当も作ってくれたのに、と言ったレオのことをリールはじっと見つめると、そっかとまたいつものように穏やかに笑って言った。「偉いね」「へ」ていうかレオくんはすごいよ、とリールはきっぱりと言ってまたサンドイッチを口に入れる。
「えら…い、…っつーわけでもないですよ。何つーか…ほら、自分でやれることならやっときたいでしょ。そんな立派な考えじゃないです」
そう言って笑ったレオを見て、そっかとリールは言うと、またいつもみたいににこやかに笑ったのでレオはきょとんとする。今そーいう顔するとこなんだ?ぶっちゃけ言った俺は少し恥ずかしいけど、とそう思った。一応毎日そういうことは思ってはいるが、そうもいかないのが現実である。しかも今レオは受験生だから、大体しなくてはいけないことと言えば勉強なのだ。
「あ、でもさ。今日は迎え来ないの?あの、」
レオくんの彼氏は、と言われてげほげほとレオは咽てしまった。「…あ。水を」そう言ってペットボトルの蓋をリールが開けて、レオに手渡してくれる。咽たままレオは一気に水を飲んで、それからまたちょっと咽たので、リールが大丈夫と言いながら背中を擦ってくれた。
何とか咳が収まって、それからレオはリールさんと低い声でそう言った。「?なに?」「な、何じゃありませんよ。やめてくださいってそーいう言い方は」「?」リールはきょとんとした顔をしたが、ああ、とすぐに合点した様子でそう言うと小首を傾げた。
「?恋人って言った方がいいのかな」
「そ、そうじゃありません。違います」
思わず俯きながら両手を彼に手を翳してそう言ってしまった。予備校の中は全体的にエアコン―――冷房が効いているからとても涼しいのに、なぜかレオは汗をかいていた。
確かにそれは事実だったけれど、自分でそう思うのと他人からそう指摘されるのは全く意味が違う。前は付き合っていた女の子のことを他人に言及されても別になんとも思わなかったのになあ、とレオは不思議に思っている。自分自身のことなのに、なんだかザップのことだと普通と勝手が違うのだ。
ともかく、とレオはハンカチがなかったので服の袖で口を拭うという行儀の悪いことをしながら(しかも半袖だったので余計だ)、リールに顔を向けた。「あ、あのっすね。そりゃー俺とザップさんはまあ、あのー、……、…そんな感じですけど」「そんな感じ?」きょとんとしたままリールはそう言って、おかしそうに噴き出した。確かにこの言い方はなんなんだ、とレオも思ってはいたのでそこにはツッコミを入れない。ただし微妙に気まずかったので視線だけは下の方に向けた。
「…嫌っちゅーわけじゃないんすけど」
「うん。…顔が赤いから照れているだけだね」
「……………。」
何を言っても藪蛇になりそうだったので、レオはええとと言いながら顔を上げる。多分言われた通り、熱が顔に集まってきた感覚がするので確かに顔は赤いのだ。「…今日は来ねえっす。サークルがあるとかで」時間も早いし、と言ったレオはのろのろと残りのサンドイッチに取り掛かった。残っているのはチーズとハムのサンドイッチだ。
「あ、そうなんだね。迎えに来てくれたら一緒にご飯行けたのに」
「あ。それもそうすね」
そんな発想はなかった。だからそうなるほどと合点したように言ったのだが、リールはまたしてもきょとんとしたような、驚いたような顔でレオを見つめた。「?」なんすかと言いながらもぐもぐとサンドイッチを飲み込んだレオに、いやあと言いながらリールが頭を掻く。「…レオくんはたまにドライというかクールというか。彼が好きなのはわかるんだけど」「………あ、あのう。そういうのだからやめてくださいって」レオは照れてそう言ったのだが、リールはなんていうかさ、とちょっと不思議そうに言った。
「…あんまりそーいうの言わない感じだよね。ていうかそもそもレオくんは」
一緒にいたいとか言わなさそうだね、と言われて今度はレオがきょとんとする。―――一緒にいたい?確かにそんなことを言ったことはない。というかそれは直球に過ぎる、とぼーっとレオは考えながら自分だったら何て言うか考えた。「………。」恐ろしいほど何も思いつかない。一緒にいたいと思ったことがないわけじゃないのに、よく考えたらそれを口にしたことが―――レオはない。たぶんない。あるかもしれないが思い出せない。
「…ない……ですね。てかそれは俺、彼女いた時も言ったことねーっすわ」
「……ああ」
なるほど、とリールは何かに納得したような顔をした。「?」どういうなるほどなんだ、とレオは思ったが、リールはどこか諦観した表情でメロンパンを齧っている。「…ツェッドさんはやっぱりちょっとレオくん贔屓だね」「はい?」なんでそこでツェッドさんが?という顔をしたレオをスルーして、リールはメロンパンの欠片がくっついた自分の口元を拭った。それを見ながら、困惑しつつレオは口を開く。
「だ―――だってなんか、去年の話になりますけど…たとえば昼休みとか?一緒にいるとするじゃないすか。そんでなんか、…ご、五時間目も一緒にいたいなあとか思ったりすることも、ないわけじゃないっすよ。俺も」
「うん」
物凄く遠回りに言ったそれに特にツッコミを入れることもなく、リールはのんびりと相槌を打って頷いた。ごくん、とレオは知らず唾を飲み込みながら話を続ける。
「……でもなんか、ウザいじゃないですかそれは。今まで一緒にいたやんけっていう」
「…逆にレオくんはそれ、あの”基本的にはいい人”に言われたら鬱陶しいなあとか思うの?」
そりゃ俺は思いませんけど、と情けない顔になったレオを見て、ほら、とリールは言いながら続いてロールパンの包みを開けた。てゆか”基本的にいい人”って、とレオはその表現にちょっと苦笑する。確か最初にザップを紹介した時に、レオは彼をそう評してリールに伝えたのだ。無論すぐにザップには頭を殴られた。
「…それじゃあ彼はもっと思わないんじゃないかなあ。てゆか一回言ってみなよ。一緒にいたいとか」
結果はこちらまでどしどしご応募下さい、とふざけて言ったリールに顔を顰め、ヤですよとレオはきっぱりと言った。「うぜえって言われるに決まってますから」「…………。」少し謎の間が空いた後、そんなことはないと思うけど、とリールはなぜか誰かに同情的な口調でそう言うと、ロールパンを千切った。なんか俺に同情してるわけじゃないみたいだけど、っていうか今の話の流れで誰に同情する必要があるのかな、とレオは思いながらも弁当箱の蓋を閉じた。


終わった、とぐったりしながら予備校のドアをくぐる。いつもは夜十時を回っているが、今日は夕方だから外はまだ明るい。本屋寄って帰ろうかな、と思いながらレオはのこのこと駅に向かって歩いた。予備校までは遠くも近くもない距離だから原チャリでもいいけれど、母親が余りそれを好まないから不承不承レオは基本、電車を使っていた。
(…………まあ)
ザップさんがいると違うけど、と思いながら駅前の本屋に寄って参考書をちょっと見て、あとはカメラ雑誌を立ち読みして一冊買うとレオは帰途に着いた。帰宅ラッシュのせいで押し潰されそうになりながら呻いて家に向かう。よろよろと自宅ドアの前に辿りついたとき、漸くそれに思い至った。
「あ。コンビニ寄るの忘れた…………」
マジかよ、と自分自身にげんなりしながらその場に思わずしゃがみ込んでしまった。思いのほか八時間の勉強は身体にも精神にも堪えたので、夕飯はコンビニの弁当にしよう、とレオは午後の授業を受けている最中にそう思ったのだ。こんな計算絶対将来俺は使わねえ、と思いながら必死で解いた数式に赤ペンでバツをつけるのは非常に虚しいものがあった。
つまりレオは疲れていたのである。勉強は非常にカロリーと精神力を消耗する。かと言って夕飯を食わないという選択肢はレオにはないし、今から外に食いに行くのも嫌だ。出前を取る分の金はないし、自分で何か適当に作る余力もない。ということは、やっぱりコンビニに出向くしかない。歩いて五分くらいの距離にはあるにはあるのだ。つまり往復十分だ、とレオはぐったりしつつ立ち上がる。行きはよいよい帰りはぐったりだっつの、とふざけたことを思いながら、再度家の鍵がかかっていることを確認してエレベーターの方に歩こうとした。

するとちょうど隣の部屋のドアが開いたので、レオはわっと声を上げる。「…それじゃどうもありがとう。またね」そう言った声にやけに聞き覚えがあったので、レオは怪訝な顔になる。聞いたことはあるけれど―――聞いたことがない声だ。クエスチョンマークを出してその場に留まっているレオの前で、隣の部屋のドアが閉まった。

「……あ、レオ。なんだ今か?丁度よかった」

そう言った男の顔を見てレオは絶句してしまった。「な、……はあ?」なんで、と言ったレオになんだその顔は、と言いながらその男がこちらにすたすたと歩いてきた。
「おめーよ。愛しい俺に会った顔がそれか?あ?もーちょいあんだろバカ」
「い、愛……ってなんすか!?なんであんたがここに!?」
そう言ったレオにそりゃあよ、とレオの先輩は言うとポケットから当たり前のように煙草を出して、口に咥えた。「おめえに会いにきたんだって」「え?なんで?」そう言ってしまったレオの頭がぱしんと叩かれたのでレオはいて、と小さく声を上げた。
「アホ。理由がなきゃ来ちゃいけねえのかよ」
「そ、そーじゃないけど……」
だって、と言いながら頭を押さえているレオを見て、ふんとザップはいつもの如くバカにしたように鼻を鳴らした。「オウいーからおめえん家入ろうぜ。暑くてしゃーねえよ」「あ。…や、俺これからコンビニに」飯買いに、と言ったレオを見て、ちょっとザップは考えるような顔になった。「………んー…」怪訝な顔をしているレオを無視して、ザップはまあいい、と謎のことを言った。何がまあいんだ?と聞く前にレオのポケットに手を突っ込んできたので堪らない。ぎゃあとレオは声を上げる。
「わっ。わわっ!?く、くすぐ…ってひ、左手!どこ触ってんすか!やめ、…っこら!」
「…………なんかおめーちょお痩せてね?」
ザップはレオの文句をスルーしてそう言うと、レオの鍵をポケットから引っ張り出してレオの家のドアを開錠した。顔を真っ赤にして固まっているレオを見て、何してんだよ、とザップがきょとんとした様子で首を傾げる。ドアが開いた。
「入れ入れ。何のお構いもできませんが」
「………そ、それは」
俺のセリフでしょ、と言いながらザップの手からレオは鍵を奪い取った。


隣には若い男の人が住んでいたような気がするけど、と言ったレオにああそーだな、と言ったザップが勝手に冷蔵庫を覗いている。「?でもなんか、女の人の―――」そこで気が付いた。あの声がザップのようでザップに聞こえなかったのは、彼が猫を被った(と言っていいのかどうかレオにはわからない)声を出していたからだ。女の子を口説いているときの彼の声をレオは去年何回か聞いたことがあったが、誰なんだと思うような声を出すからいつも驚いてしまう。知らない人の声みたいなのだ。
「…………。」
無言で弁当箱をシンクに置いたレオに、ザップは振り返らずに返事をした。「あー、なんかありゃー彼女っつーか…身内か?掴みどころがねえ女だったな」「………はあ」そうすか、と言って蛇口を捻ったレオの後ろからぱたんという冷蔵庫のドアが閉まった音が聞こえた。
「………んー。まあたぶんどーにかなるな」
ザップはまた謎のことを言うと、レオ、と言いながらとことことこちらにやってきた。レオは蛇口を捻って水を止める。「………なんすか」「ちょおお前そこ………、……ん」なんだオイ、とザップは怪訝な顔をして首を傾げた。
「何だその顔。どーした」
「………別になんでもないですけど」
「なんでもねえって顔しろよ」
そんじゃ、とザップは笑うとレオの腕を掴むと、そのまま引っ張るようにして歩いた。「…………。」なんなんだ、とレオは思いながらも抵抗する気力もなかったのでそのまま引き摺られるようにザップの後を追う。ダイニングキッチンなので普通にキッチンテーブルの椅子に座らせられた。
「あのー、俺、……飯…」
買ってこないと、と言う前にぐしゃぐゃと髪が撫でられた。「わっ。ちょ、わわっ。な、」何すか、と慌てて言いながら顔を上げる。ザップはおかしそうな顔をしてそのままレオを一回ぎゅうと抱き締めると、待ってろと端的なことを言ってすたすたとキッチンの方に回った。「…………、……え?」何が?と聞く前に既にコンロに火が点く音がした。


カメラ持ってきますと言って自室に走ろうとしたのに止められた。「あんでだよ。食えよ冷めるわ」「さ、冷めない!この程度じゃ冷めないからお願いします!カメラ!カメラ持ってくる!」「めんどくせーなスマホでいーだろ」「だめです!カメラがいい!!」じたばたと暴れたレオの襟首が仕方なさそうに放されたので、レオは物凄く急いで自室に入り、机の上に置いてあったカメラを引っ手繰るように掴んで再度キッチンに戻った。ザップが仏頂面でテーブルに着席している。
「はいザップさん!笑って!笑ってください!」
「オメーのそのテンションはなんなんだ。こえーわ」
そう仏頂面のままザップは言ったが、レオは無視して写真を二、三枚撮ると自分もテーブルに戻る。「…………。」無言でパシャパシャと夕飯を撮っていると、ザップに頭を叩かれた。
「あたっ」
「オイいい加減にしろ。女子か。夕飯なうとか絵文字付きで呟いちゃうのかてめーは」
「や、なうはもう古いです」
知らんわと言いながらザップがスプーンを手に取った。「あ、ま、待って待って!俺も食う!」「おめえの分は別にあんだから取らねえよ」呆れた顔でザップにそう言われたが、レオは急いでカメラを横に置いて自分もスプーンを掴んだ。
「い…っ、た、だきます………!!」
そう言って笑ったレオを見て、ザップは変な顔をする。なんだその顔、といつもだったら思うところだが、それどころではない。レオはへにゃへにゃした笑顔でスプーンで炒飯を掬った。

信じられないことが起きた。
ザップがレオに夕飯を作ってくれたのだ。
ぶっちゃけレオからすれば信じ難いことだった。一緒に飯を食べたことは何度もあるが、大抵どっちかの家の夕飯か、何かの帰りがけの外食か、昼休みの弁当か購買か、そして稀にレオが作ることもあったが本当にそれは稀だ。調理実習の時に作ったやつをザップが勝手に食べてしまった時くらいだ。だから今日みたいにザップがレオに飯を作ってくれたのは、初めてだった。
コンロに火が点いた後、ぽかんとしているレオを他所にザップは手際よく夕飯を作ってくれた。炒飯くれーしかできねえかんな、と言われてレオはぼーっとしたままこくんと頷き、ぼーっとしている間に湯気が立っているそれが目の前に置かれた。
そしてやっとレオは我に返り、思わず立ち上がって目の前にいる先輩をまじまじと見つめてしまった。なんだよ、と言ったザップに対して取った行動がさっきの猛ダッシュだ。普段レオは”ミシェーラがレオのために作ってくれた食事もしくはお菓子”を除けば食事の写真を撮る方ではなかったが、今回ばかりは撮らねばならないと謎の義務感に突き動かされてしまった。現像して印刷してアルバムに入れよう、などと考えながらもぐもぐと炒飯を食べているレオを呆れたように見つめて、なんだその顔、とザップはやっぱり自分も炒飯を食べた。
「あー…うめーっす。めっちゃ美味いっす。あざす。ありがとうございます。ありがとうございました。あざます」
「そんな言わんでも分かるわ。落ち着け」
「……美味いっす…」
へらへらして言ったあと、わかったっつのとザップは乱暴に言ってプイとそっぽを向いた。「…………、」照れた、とレオはちょっと驚いた。大抵褒めるとそーだろそーだろよきにはからえとでも言うような男なのに、この反応はかなり珍しい。だから思わずレオは手を止めてじっとザップを見てしまった。
そして気が付く。
「……、あれ?なんでザップさん俺に飯作って……や、待ってください。まず、何で隣で浮気してたんですか?」
そう言ったレオにちょっと待てとザップは勢いよくこちらを向いた。「どーいうこっちゃそりゃ。なんだよその浮気っつーのは」「現行犯を押さえられてなに言ってんすか」そう言ってスプーンを口に入れたレオに、あのなあとザップは眉根を寄せてそう言った。
「浮気じゃねーよバカ。あちーのにおめえがいねえから仕方なく隣人に涼を取らせて貰ったんだつうの」
「隣に女性がいるって何でわかったんです…てゆかどうやって上がり込んだのかそれが謎なんすけど…」
そこは色々あんだよとザップはどうでもよさそうに言った。たぶんエレベーターで一緒になってそこからナンパに移ったんだなとレオは思うと、はいはいそれで、と続きを促した。「ちょ、マジで涼んでただけでなんもしてねーかんな。大体いつもは男がいんだろ?流石に俺だって女が、しかも美人がたまたまいる部屋なんざわかんねえよ」「へー……」そうですか俺が勉強してる間美人と一緒だったわけですね、と棒読みで疑わし気な顔をしたレオに、おめえなあとザップは呆れたように言った。
「俺が大好きなのはわかるけどよ。そこは俺を信頼するとこだろ」
「だ、誰が大好きだなんて言ったんです」
思わずそう言い返したレオに、ザップは仏頂面で言った。「こないだヤってるとき言ってただろ」「い、言ってねえよ!?」「まあそりゃーいい。ともかく俺は浮気してねーかんな」「……………。」分かりました、と言ってレオはもぐもぐとまた炒飯に戻った。たぶんこの感じだとほんとだな、と思ったせいもあるし、確かにあんまり疑うのもよくないなあとレオは思ったのだ。ただフツーに考えて、初対面の女の子一人の家に上がり込むって常人にはできないよね、とは思った。
「今日はレオ一人だからってミシェーラちゃんが」
「み、」
ミシェーラ?と言ってレオはスプーンを取り落としてしまった。ザップはそーだよと言ってたまごスープが入っている器を手に取った。「こないだ会った―――っつうか」ミシェーラちゃんが学校に来た、とザップに言われてレオは更に手を固まらせた。
「ど、どうして。なんであいつがザップさんに」
「オープンキャンパスだってよ」
「あ。………まさか」
この間友達と遊びに行く、と言っていたのはそれではないだろうかとレオは思った。遊び――というよりオープンキャンパスがメインだったのだろう。その後どこかに寄りもしたのだろうが、あの日だと何となくレオは確信した。何となくなのに確信というのも、何だか変だけど。
つまりザップではなく彼女は言うなれば大学自体に用事があったのだ。そしてたまたまザップと会ったのだろう。にしたってどんな偶然なんだ、とレオは溜息を吐きたくなったが何とか耐えた。「…そんでよ。おめえが今週末は一人だって言うから」「あ。ああ…そーっすね。今三人で海沿いに」そこまで言ってちょっと黙る。突然黙ったので、当然ザップが怪訝な顔でレオを見つめた。ただし手は動かしていた。
「?どーした」
「………いや、えーと。…海」
行けなくですみません、と言ってぺこりとレオは頭を下げた。

海に行きたくないわけじゃない。というよりレオだってむしろ海には行きたい―――けどそれを時間が許してくれないのだ。一日が二十四時間なのが悪いんだ、と地球に悪態を吐きながら毎日予備校に通っているし、学校でも勉強しているし、そして待ちに待った夏休みだって結局一日予備校である。受験生だから仕方ないかもしれないが、かと言ってレオだってザップと一緒にいたくないわけじゃないのだ。
リールとも話したが。
―――いたくないわけじゃない。言わないだけだ。

ザップは変な顔でレオを見ていたが、いいよと一言言った。「…海は逃げねーだろ。来年の…春休みにでもつれてってやるよ」「?そんじゃ泳げないっすよ」「…でもおめー今年の春に行きてえって言ってたべ」そう言われてレオはちょっと驚いた。たしかにそれはその通りだったが、ザップがそれを覚えているとは思わなかったのだ。海に行くきっかけを。
ザップはちゃんと覚えていた。
「あ、………あのー」
「あ?なんだよ」
「う、海じゃなくてもいいんで俺、……ザップさんと、」
そう言ってレオは徐々に顔を俯かせた。これはちょっと顔が見られないぞ、と思いながらもぐもぐと炒飯を食べて、言う。「……どっか行きたいっす。…べつに」コンビニでも銀行でもなんでもいいです、と言ったあとに沈黙が起きた。レオは顔を真っ赤にしていたが俯いていたからたぶんザップには見えない。ただし途中でレオは気が付いた。耳は見えてるはずだ、と思って我に返り慌てて顔を上げてしまった。そこで何で顔を上げたのか、後から考えてもレオにはわからない。たぶん混乱していた。
ザップはこっちを見ていなかった。
「……へ」
明後日の方を向いているがチャーハンを食べている。「………あのー」ザップさん、と言ったがうるさいと訳の分からないことを言われた。人が決死の思いで言ったのに、とレオは赤面したままだったが顔をむっとさせ、ひどいじゃないすかとレオは言おうとした。―――が、その前にザップがこっちを向いて皿をどん、とテーブルに置いて立ち上がったので言いそびれた。「え」そう言う前にぐいと顔を引き寄せられて唇に噛みつかれたので、むぐ、と声を上げる。
「…………っ、」
すぐに唇は解放されたのでレオは泡を食って手で口を押さえる。いっつもいっつも突然、といつもは口にすることを思いながらザップを見ると、先輩はなんだか変な顔をしていた。
嬉しいのにそれを必死に隠そうとしている顔だ、ということにレオは気が付く。さすがに。
そのくらいがわかる程度には一緒にいる。
「……………あ、…あのー…」
恐る恐るそう言ったレオに、うるせえとザップは乱暴に言うと皿を掴んでスプーンを炒飯の中に乱暴に突っ込む。顔は普通なのに先輩の耳が真っ赤だということに気が付いて、レオは思わずまた、俯いてしまった。


流石に銀行はないや、と思いながらぼーっとテレビを見ていると、そろそろ俺帰るわと言いながら隣にいたザップがソファの背もたれから身を起こした。「え。もう?」「もうっておめーな。十時回ってんじゃねーか」そう言われて気が付いた。確かにリビングの時計は夜十時を過ぎている。もう公園で花火もできない時間帯だ、とレオは今この状況と全く関係ないことを思って自分も伸びをする。
「電車っすか」
「いやスクーター。学校から直で来た」
そういえば彼は確か今、テスト期間だったはずだ。そーすか、と言いながらレオはちょっと自分の声が沈んでいることに気が付いて、慌てて首を振った。
ザップは食器まで洗ってくれたので、むしろレオは怯えた。いいですそこまで俺がやるからと言ったレオにちょおお前黙れとザップは遂にキレてそう言ってきたので、仕方なくレオは黙って彼が食器を洗っている後姿を黙って見ていた。麦茶入れましたと言ってコップをテーブルに置くと、ザップは無言でレオの頭を軽くぽんと撫でてきたので、たぶん礼を言われたんだろう、とレオは解釈した。いちいち分かり難い。
かといってその分かり難さがレオは好きでもあったし。
大体、分かり難いのはあんまり問題じゃない。
「おめーはちゃんと戸締まりしろよ。書斎の窓の鍵いっつも閉め忘れてんだからそこちゃんと閉めろ」
「な、何でアンタが俺より俺の家の鍵事情に詳しいんだよ。怖いっすよ」
真顔でそう言ってしまったレオにちょっと笑って、そんじゃなと言いながらザップはソファから立ち上がった。「あ。はい」慌ててレオも立ち上がってテレビを消し、玄関に向かう。

夜は一人だな、と今更のように思って廊下を歩いた。「……………。」じっと先輩の背中を見ながら、レオは思ってしまった。
―――廊下が。
終わんなきゃいいな、と思った直後当たり前だが玄関に到達する。「…んじゃ」そう言ってザップが靴を履こうとしゃがみ込もうとした時、慌ててレオはなぜか彼の服を掴んでいた。ザップの着ているTシャツに皺が寄る。「あ。ま、待って待って。俺下まで行きます」「あ?いーよ別に。めんどくせーべ」「めんどくさくないっすよ。行きます」そう言うと、ザップも観念したようにわーったと頷いた。今この時レオは知る由もなかったが、ザップはあまりレオを深夜一人で外に出したがらない、らしい。後々レオはそれを知って女の子じゃあるまいに、と文句を言うのだが、確かに一人で夜外に出るとコンビニの前なんかで絡まれたりするので、あながち間違ってもいないのだ。更にレオはこのことを何年も後に知ることになるが、既にこの時ザップは同級生のチェイン・皇や義弟のツェッドには過保護だと呆れられている。だから地味に改善には向かっている、らしい。レオにはもちろん、知るところではない。
「…ザップさん明日もテストですか?」
「嫌なこと思い出させんなボケ。明日はねーけど明後日ある」
げんなりしたようにザップは言うと溜息を吐いて靴を履いた。レオはのろのろと靴紐を結んでいたが、なにやってんだとザップに言われてきちんと結び直す。「…縦結びになっちゃいました」「どーでもいいだろ。解けねえなら」そう言ってザップが立ち上がったので、仕方なくレオも立ち上がった。
「……やっぱおめーここでいいって。戻る時一人だろ」
「?そりゃー一人ですけど。ってか戻っても一人っすけど」
事実を言っただけだったが何となく変な沈黙が起きた。「あ。いや。こ、高校三年にもなって何をっちゅー話っすね。あはは」焦ってレオはそう言うと、苦笑しながら頭を掻く。
「……………。」
別によ、とザップは言うと食後の時みたいにレオの頭に手を乗せた。「…いーだろ。そらレオはガキの…今もそーだけど、ともかくチビの頃からとーちゃんだのかーちゃんだの…ミシェーラちゃんとここに住んでんだから」そんじゃそー思うのはあたりめーだろ、とザップはどうでもよさそうに―――恐らくわざとだ―――言った。

触れられているところから。
じわりじわりと熱が生まれる。
そしてレオは先輩と目があったことに気が付いた。今更のように、レオは思った。
ごくんと息を呑む。
―――やっとその時、レオは思ったのだ。

がし、とザップの腕を掴んだのでザップがうお、と声を上げた。「なんだよ。びっくりすんだろ」ザップがそう言ったがレオは顔を下に向けていたので、彼がどんな顔でそう言ったのかはわからなかった。思わず、目を瞑る。
「……い、……いかないで、…ください…………」
そう言った後、また沈黙が起きた。靴箱の上に置いてある水槽のモーターと、それから水泡の音がするだけだ。大きな窓がないせいか、ドアが厚いせいか。
家の外の音は本当に全然、聞こえない。
「…………………へ?」
ザップのその声は本当に驚いているそれだった。レオはまたしても息を呑んで、それから予備校で思ったことが脳裏に蘇ってきたことに気が付く。

――――一緒にいたいと思ったことがないわけじゃない。
ないわけじゃない、とか言うレベルじゃない。そんなわけがない。そんな。
曖昧な言い方でごまかせるような感情じゃない。

「………帰んないでください」

そう言って真っ赤になっている顔を上げた後、まじまじとこちらを見ているザップと目が合った。灰色の目が驚いたようにレオを見返している。「…………、………あ、……ほら」俺も、とそこでレオはまた予備校でのことを回想した。
―――一緒にいたいって自分が言うなら。
「………、……あれっすよ。…えーと。た、」
滾る性欲でしたっけ、と言いながらレオは自分の顔が引き攣っていく感覚に声が震えそうになる。ザップはレオの顔を見たまま固まっていた。「……お、俺も?そ、そそ、そーいうの、」どこにぶつけりゃいーんでしょうね、と言って引き攣った笑いを浮かべた直後。
舌が噛まれてレオは声を上げることになった。

靴紐は縦結びも何も関係なく、緩く結んでいたせいですぐに解けた。靴が脱げて靴下だけになった自分の足を見ながら、ザップにしがみ付きながら、よかったとレオは思った。泥で玄関先を汚したら母親に怒られる。そんなことはどうでもいいとばかりにザップに何度も噛みつかれ、その度にレオは声を上げてしまって辟易した。いつも見ている筈の水中の熱帯魚がきらきらと輝いていて、玄関の電灯をなんとか消してくれないかな、とレオは無茶苦茶を思ってしまった。


海みたい、とぼーっと呟いたレオに何が、とザップが怪訝な顔をした。お湯で先輩の前髪も、自分の髪も少しへたっている。「………いや、湯船………」「あー。色か。おめえの家入浴剤使ってんだな」「………ミシェーラが」好きなんすよ、と言ってぶくぶくと青い湯船に沈んだレオに、ふうんとザップは相槌を打った。
「……海とか銀行とかコンビニ以外になんかねーのかよ。行きてえ場所は」
「え?」
風呂から上がってザップが髪を乾かしてくれた。ドライヤーが止まってからもなぜかわしゃわしゃとタオルで頭を拭われて、レオは痛い痛いと文句を言う。たまにされるが何でされるのかよくわからない。
「…行きたい場所………ってか、いや、銀行は別にいいっす。用事ないし」
「んじゃなんでさっき言ったんだよ」
言葉の綾です、と言ったレオにソレ綾か?とザップが怪訝な顔になる。「…んー。行きたい………、………ザップさんと行きたい場所かぁ…」「そんっな悩むのかよオイ」「んじゃ逆に聞きますけど」ザップさんはどっかあるんですか、とレオは首を傾げて自分のベッドに勝手に寝転がっている先輩に聞いた。
「……んー。レンタル屋のR指定コーナーでおめえがどういう反応すんのかが見てえな」
「それは行きたい場所じゃねえ!ただの嫌がらせだ!」
真っ赤な顔をして言ったレオに、冗談だとザップは真面目腐った声で言うと、ばさばさと勝手にレオの漫画を読み始めた。「…もー………」そう言ってベッドに座ったレオの後ろから、ああ、とザップが言った声が聞こえてくる。
「あ、ありました?」
「レオの行きたいとこでいい」
「て、テキトーだなー。ないんでしょ」
そう言って後ろを振り向いたレオに、ザップは仰向けになって天井を向く。銀色の髪が自分のいつも使っているベッドに広がっているのを見ると、ちょっと変な感じがした。
「……ないっつーか」
お前がいるから、とザップはよくわからないことを言った。「え?」「だからおめーがいるとこでいいんだよ。俺は」「?…俺が行きたいとこって」さっきも言ってた、と言ったレオにそーじゃねえよ、とザップは乱暴に言うと、ばたんと音を立てて本を閉じた。「ちがう」そう言われてレオは首を傾げる。違う?どういう意味だ。
「ちが………?どういう、わっ」
途端に灯りが消えてレオは驚いた。いつの間にかザップが天井から下がる紐を引っ張っていたらしい。ブラインドの隙間から、夜景の灯りがちらちらとレオの目に映り、電灯の紐の先にくっついている蛍光塗料付きの飾りが弱々しい光を放ち出す。「び、びっくりした…」そう言った後に腕を引っ張られてレオは更に驚いて声を上げる。わあ、というそれにすぐ近くで先輩のおかしそうな笑い声が聞こえた。
「わ、わわっ。な、なん……、……ざ、」
ザップさん、と言う前にパジャマ代わりのTシャツの下に手が突っ込まれてぎゃあとレオはまた声を上げる。「ば、ばばば、…っな、い、」いきなり、と言いながら思わず目を瞑ると、ザップの手が止まった。
「な、………なんすか」
焦らされていると思いレオが目を開けてそう言うと、ザップはじっとレオを見て笑った。「………んー。そんじゃ」いきなりじゃなかったらいーんだな、と続けて言われ、レオが反論する前に口を塞がれる。「っん…っ!」舌を軽く弄られて、解放されてからレオはなんとか、息も絶え絶えになりながら一言だけ、呟いた。

「………、……い、一回だけっすよ」

玄関でも風呂でも盛っといてなに言ってんだ、とやたら嬉しそうに言われてレオはまた目を瞑る。あーあーそうですよだって暫く触ってないし触られてもないし、だいたいあんただってそーじゃねーか、と真っ赤になりながら悪態を吐きたくなる。余裕がなくてそんなことが言えない。口が塞がれててそんなことが言えない。言いたいけどそんなことを。
言わせてくれないのがレオの先輩なのだ。



翌日先輩は予備校までレオを送って行ってくれた。「…日曜も勉強ってお前」変わってんな、と言うそれに俺も好きでしてるわけじゃないから、とレオは顔を顰めてそう言うと、それじゃと言いながらゴーグルを外した。
「えーと。次はいつかわかんないすけど」
「……………俺は今日」
午後から空いてんだけどな、と言われてレオはきょとんとする。「?はあ。そうですか」「……そーですかってオイ」なんかねーのか、と言われてレオは考える。午後から空いてる。午後から空いてる?それじゃあ、――それじゃあ。
「……じゃ、ザップさん迎えに来てくれますか。…今日は俺、二時までです」
「………………………まあ」
及第点だな、と言われてレオは意味が分からずに首を傾げる。及第点ってなんだ。何て言えば百点なんだ?そう思っている間にザップはそんじゃ後でな、とレオの頭を一回軽く撫でてヘルメットを被り直した。
「あ、はい。また」
二時過ぎに、と言ったレオに先輩が笑う。スクーターが発車した後も、何となくレオは先輩の後姿をぼーっと見つめて、信号の向こう側にスクーターが通り過ぎ去っていくのを見てから漸く予備校にのこのこと入っていく。―――また、

「…またあとで」

小さくそう言ってみたらなんだかちょっと嬉しくなった。見通しが立つとか、時間が決まってるとか、そういう理由なのかどうかはわからない。ただ。
予備校の駐車場で煙草を喫ってレオを待っているであろうザップのことを想像したら、レオはまた笑えてきてしまってその日あんまり勉強が手に着かなかった。


ちなみに。
昨晩の夕飯はどうしたの、という母親の質問に、えーとえーととレオが返事に窮しているのをにやにやとして妹が後ろから見ていたのを、レオは知らない。