From my sister
2016/06/11
がし、と思いきり手を引っ張られて声を上げそうになった。しかししゃがみ込みながら、俺の口が音が鳴るくらい強く塞がれる。掌から伝わるじんじんとした衝撃に閉口して目を横に向けると、手の持ち主はこちらを睨むように見たあと、すぐに視線を元の位置に戻してしまった。何やってんだか、と肩を竦めて溜息を吐きたくなる。
口を押さえられてるから出来ないんだけど。
三日前のことだ。
俺はバイト帰りの後輩をスクーターで迎えに行ったところだった。もうすぐ冬だと言うのに今年は矢鱈と暑い。コートが無くても全然いける、とパーカーを脱いで鞄に突っ込み、駐車場で煙草を喫っていた。一昨年のことだが、漸く成人を迎えたので堂々と喫煙できるようになってほっとしたことを思いだした。それまでも別段そんなに隠れていた訳ではないが、やっぱり成人しておくに越したことはない。成人式にそう話していたら、なぜか来ていた高校の時の教師に思いきり頭を殴られた。
後輩が姿を見せたのはそうやって俺が回想していた時だった。別に俺だって毎度のように迎えにきている訳ではないけど、来たら来たでで後輩は喜ぶのでついつい足を運んでしまうというのが本音だった。レンタル屋にDVDを返しに行くだけだとか、コンビニに行きたかったからだと毎度の如く言い訳をする俺を見ながら、後輩はにこにこといつも嬉しそうに笑っている。そこまで邪気が無い対応をされると、何だかこちらが意地を張っているのも馬鹿馬鹿しくなってはくる。とは言え俺は一回もお前を迎えに来た、と言ったことはなかった。迎えに行くそれ自体が目的だとは、未だ言えていない。
ピザ屋の駐車場にのこのことやってきた後輩を見て俺はぎょっとした。どう見ても顔に生気が宿っていなかったからだ。死んでる。顔が青いとか目が死んでるとか、色々言い方はあると思うがいずれにせよ元気がない。俺は煙草を駐車場のアスファルトに押し付けると、おいどーした、と少し焦ってそう言った。
『…………ああ、ザップさん』
すいませんわざわざ、と後輩のレオナルドはやっぱり生気がない声でそう言った。
フルネームをレオナルド・ウォッチ。ぐしゃぐしゃの髪をした一つ下の男だった。高校の時からの後輩で、だからかれこれつきあいは五年くらいになるんだろう。
友人としての付き合いは六年くらいで。
そういう意味じゃない付き合いは四年くらいだった。
何がどう間違ってしまったのか、俺が高校三年の時にこの後輩と付き合うことになった。今まで友達だったのに、突然友達じゃない意味で付き合うことになったわけなのだが、大して関係性は変わらなかった。俺も今まで通りレオのことをパシったりボコったりするし、金を借りたりするし深夜に呼び出しするのはザラなのだ。レオだって今までもそうだったように、そうなったからと言って勿論文句を言わなくなった訳ではない。毎度のように、なんで一々俺を呼ぶんですか、とか返す当てがないのにどうして借金を重ねるんだ、とか同じようなことをぎゃあぎゃあ言っている。だから周囲から見ても違和感はないらしい。
他人が見てないところでは色々やってはいるのだが。
他人が見てないところでやるようなことはわざわざ口に出すようなことでもない。見られて構わないのなら、言っても構わないと同じだ。
レオはぐったりしたままこちらによろよろと歩いてきた。そのまま珍しく俺の前にやって来ると、迎え来てくれたんですかと死にそうな声でそう言った。普段だったらちげーよバカ、だとかついでだよ、だとか言って誤魔化すのが常だったが、この時ばかりはそうだよ、と思わず肯定してしまった。あ、と思った時にはもう遅い。レオは唐突に物凄く嬉しそうな顔をしてどもっす、といつものように笑った。普段だったらここで更に否定をするところなのだが、その顔を見たらどうでもよくなってしまったので、俺はそっぽを向いて誤魔化すことにした。
『…ちゅーかどーした。オメーさっき死にそうな顔してたじゃねーか』
俺がそう言った途端、レオは再び死にそうな顔になると目を覆った。げ、と俺は慌てて肩を掴んでおいだからどーしたんだ、と俯いた顔に近付く。『何だよ。バイトで何かあったんか』『……いや、』それは別に何も、とレオはぐったりした声で言うと、のろのろと顔を上げた。
『…かえりましょう…』
『いや、そこで伸ばすのかよ』
マンガじゃねーんだぞ、と俺は呆れてそう言ったが、レオはザップさん家で話しますと言うと勝手に俺のスクーターからヘルメットを取って被った。これには驚いた。大抵レオは俺が泊まれよと言わないと泊まらないからだ。そりゃたまに泊まりますということもあるが、そう言う時は大抵何かで深夜を回ってしまった時だとか、終電を逃した時だとか、飲み会の後だとか――つまり家に帰るのが面倒な時だ。今日みたいな普通の日は家に帰る。しかも明日だって別段休みではない。俺だってレオだって授業が普通に入っている。
レオは俺がびっくりしているのに気が付いたのか、困った様に首を傾げた。『…泊まったらまずいすか』『…いや、べつに悪かねーけど』そうですか、とレオは俺の答えを聞いたあと矢鱈暗い様子でそう言うと、また俯いた。一体何なんだ、と疑問に思いつつ自分のメットを手に取って被ろうとしたところで、突然ぽん、と背中に手を置かれた。なんだ、と思って後ろを振り向く。
『………泊まってだいじょーぶですか?マジで?』
『大丈夫だって。なんだよ聞いといて』
『…だって』
なんかあんまりって顔してたし、とレオは拗ねるように言うとゴーグルをつけた。『俺から泊まるっつーの初めてじゃないすか』『…そりゃ』そうなんだけど、と俺は続けて頭を掻いた。露骨に喜ぶのも何だかバカみてーで嫌だったのだ。しかしそれを口にするのもやっぱりバカみてーで嫌だったので、俺は結局何も言わずいいから行くぞと誤魔化してスクーターに跨った。はい、とやっぱり後ろからはしょんぼりした声でレオから返事が来て、俺は少し罪悪感を抱く羽目になった。
レオは俺の部屋に着いた途端ぱたんとうつ伏せにベッドに寝転がってしまった。やっぱりこれも珍しい。大抵他人の部屋では遠慮をするタイプだからだ。一体何がどーなってここまで落ち込んでいるんだ、と思いながら俺は施錠をして、それから湯を沸かした。ベッドのところに俺がやって来ると、レオはのろのろと起き上がって座って下さい座って、とぽんぽんとベッドの上を叩いた。だからそのテンションは一体なんなんだ、と思いながら俺は何だよと怪訝に思いながら、座る。ぎし、とベッドが音を立てた。
途端にレオが俺の膝に頭を乗せたからぎょっとした。『おい、』『………あー…』全然柔らかくない、とレオは当たり前のことを言うと、泣きそうな顔で俺を見上げた。発言については殴ろうと思ったが、顔を見た後、俺は手を出すのは止めた。レオが物凄くがっかりした顔をしていたからだ。俺もいい加減単純に出来ている、と自分に突っ込みたくなったがそこは放置、ともかくどーした、と下を向いてレオに話しかけた。
『……………………ザップさん…』
なんだよ、と言いながら手を伸ばしてレオの頬に触る。大学生にしては柔らかい頬だと思ったが、俺だって男子大学生の頬に詳しい訳ではないのでこれが普通かそうじゃないのかは分からない。レオは少し擽ったそうな顔をしたが、やっぱり顔に生気は無かった。
『…どーした。今日は何かあったんだろ。昨日は元気だったじゃねーか』
『………言っても怒ったりしないすよね』
『?何でオメーが落ち込んでる理由で俺が怒るんだよ』
怒らねえよ、と俺は怪訝な顔でそう言った。そこでレオはのろのろと起き上がって、ほんとですねと念押しするように、そう言った。一体何がどーなってそこまで怯えてるんだ、と俺は思いながらうんと頷く。
レオは起き上がったもののやっぱり暗い顔つきで、また俯いた。ザップさん、とまた俺の名前を呼んだがその声は既に泣きそうだった。コイツがここまで追い詰められるのは物凄く珍しかったから、一体何だと俺も思わず神妙な顔になってしまう。…まさか引っ越しとかじゃねーだろうな。だったらどうしよう。だったらもう大学生だしどうせなら一緒に住めば…とか何とか俺は物凄くくだらないことを考えていた。実際引っ越しだったら恐らくレオはじゃあ俺一人暮らしするよと言いそうだ。
『………ミシェーラが』
――――ん?
その第一声を聞いた時点でなんだかもう疑わしかったのだ。
『…デートするって………!』
がば、と顔を上げたレオの顔は既に泣き顔だった。唐突に溢れだした涙に呆気にとられる暇もなく、レオが俺の服をがし、と思いきり掴む。『デートするって!言うんですよ!明後日!俺の妹が!俺の!』俺のミシェーラが、と再度言ったあとレオは再度顔を覆った。
『俺の妹が!俺の可愛い妹が!!デートするって!!!』
『……………………。』
俺は無言でレオのことを見つめていたが、そういえば煙草を中途半端に喫っていたから物足りない、ということに気が付いてもそもそとその辺に置いてあった煙草を手に取った。ライターどこだっけ。ぼーっとしながらそう思う。
『今までクリスマスもバレンタインも誕生日だって俺が一番に祝ってきたのに!なのにこれからずっと俺は二の次になるんですよ!俺の妹だったのに!』
『………………。』
ライターは確かパーカーのポケットだ、と気が付いて俺はベッドの隣に投げ捨ててある鞄に突っ込まれているパーカーを引き摺りだした。ぐしゃぐしゃだけどスウェット生地だしまあ皺になることはない。大体が皺になったところで何だと言うのだ。
『きっと今年から大晦日に俺と一緒に初詣とか行ってくれなくなるんですよ。お兄ちゃんとは元旦に行くからいいでしょとか言うんです。今年の夏祭りだって俺が遠目で見た限りでは友だちといましたけどもしかしたらクラスの男子が、』
『レオ』
そこで俺はやっと口を挟んだ。挟めた、と言ってもいいかも知れない。レオは何ですか、と別段言葉を遮られたことは不服ではない様子で、顔を上げた。泣き顔は悲しげな顔になっていた。
『…あー、…風呂どーする?』
俺がそう言って首を傾げた途端、レオがもう一度顔を覆った。
そのあと俺はまだ絶望しているレオを放置して風呂を入れ、次いでレオを風呂に押しやって次に自分も入浴し、ベッドでぐだぐだ絶望しているレオと一緒に寝た。ベッドの中でもレオはめそめそと煩かったので、俺は最終的に分かった分かったと仕方なく話に向き合うことを、決めた。それまで俺は一切妹ちゃんの件には触れなかったのだ。
『わーったよ。オマエがどんだけ妹ちゃんを大事にしているのかはすげーわかった。他人の俺が分かるんだから、妹ちゃんも分かってんだろそんくらい』
『………、わ、わかってても…』
いずれは俺のものじゃなくなるのに、と悲しげな声でレオは言った。そもそも今だって妹ちゃんはレオのものなんだろうか?そう言ったら多分こいつはどうにかなってしまうので、俺はそれを口にするのは止めた。
『…で?大体がそのデート相手っつーのは誰なんだ。クラスの男か?』
『……それがわかんないんすよ…』
でもデートすることは確実なんですとレオは悲しげに言った。何でそれが分かったんだ。コイツまさか妹ちゃんの電話を立ち聞きか盗聴でもしたんじゃねーだろうな。俺がそう思ったのが伝わったのか、レオはミシェーラがそう言ってたんですよと暗い様子でそう言った。『で、俺が相手は?ってさりげなさを装って聞いたんですが』そう言ったが絶対嘘だと俺は思った。コイツにそんなことが出来るわけない。他人ならともかく、相手は妹ちゃんなのだ。
『相手は教えてくれませんでした。秘密って言ってました』
『…ちゅーことは、』
相手は女子かもしれねーじゃん、と俺は呆れてそう言った。へ、とレオはぽかんとして口を開けた。女子は友人の女子と遊ぶことをデートとふざけて言うことがある。そう言ったらそーなんすかとレオは寝ながら首を傾げた。
『そーなんだよ。女はいーな。大っぴらにふざけてそーいうことが言えるから』
『………はあ…………そっか、そっかー…』
だったらいいなあ、とレオは少し安心したようにそう言った。
『美容院行ったりとか服新しく買いに行ったりとか爪きらきらしてたりしたけど、女子と遊ぶかも知れねーってことすねー』
少し沈黙が起きた。なんですか、とレオが怪訝な様子でそう俺に聞く。『…いや…』それは結構な確率で黒だ、と俺は思ったが口にするのはやめた。大体、よくよく考えてみたら女子と遊びに行くのをレオに隠す意味が分からない。結構どころかほぼほぼ黒じゃねーか。でもやっぱり、それをレオに言うのは憚られた。折角少し元気を取り戻したというのに、発狂するかも知れない。
『…うん。まあともかくそーいうことだ。寝るぞ』
『はい。……あ、ザップさん』
なんだ、と俺は目覚ましをかけながらそう聞いた。『迎えきてくれてあざます』『………、……。』今それを言うのか、と俺は顔を顰めてお休みと返事もせずにそう言った。おやすみなさい、と隣から聞こえてくるレオの声は普通よりちょっと嬉しそうだったから、まあ、一応良かったとは言える。
それがどうして今みたいにになったのか、俺には皆目見当がつかない。やっと俺の口を塞いでいた手がぱっと外されて、俺はぷは、と息を吐いた。「おいレオてめ、何す、」「黙って!」再度手で口を塞がれてむぐ、と俺は呻いた。隣にいる後輩は俺どころか駅前の時計塔を注視している。
「……………。」
俺とレオは駅前にいる。この寒空の中、ベンチの近くでしゃがみ込んでいた。晴れは晴れだがついこの間の天気とは打って変わって気温が低い。風はそんなに吹いていないが、にしても秋ではなく冬の入り口とも言える温度だった。俺はスタジャンだったがレオはコートを着ている。前は閉めていないとは言え、中にもセーターを着ているのだからやっぱり寒いのだろう。ぼんやりしながら俺は駅ビルにかかっている広告を眺めていた。秋物全種10%オフ、と書いてあるが何だか似たような広告を夏にも見た覚えがあるな…そーいえば俺最近服とか買いに行ってねーな…まあ服買う金があるなら飲み代に…などとぼーっとしていたらレオの手が再度外された。ふう、と俺は肩を竦めて立ち上がる。レオも同時に立ち上がったが、未だ視線は時計塔付近に向けられていた。
「…なあレオ。寒いんだけど。俺どっかで時間潰していい?」
「駄目です」
何で、と俺はげんなりしながらそう言った。レオはともかく何で俺までお前の妹のデートの尾行に付き合わなきゃならんのだ。
つまり上記の一言に尽きる。俺とレオはレオの妹ちゃん――ミシェーラ・ウォッチのデートの尾行に来ている。最低である。この最低は色々な意味での最低を内包した最低なのだが、一つは俺にこの目的を黙っていたことだった。付き合っている相手に珍しく呼ばれて行って、その実こうだったとくれば、誰だってげんなりするに決まっている。大体俺はそんなにデート自体が好きではないのだ。面倒臭いし色々と人目を気にするし、家でだらだらしてた方がよっぽどいい。
「何でも何もないすよ。俺一人だったら不審者でしょ」
「オイコラ。じゃあ付き合うの俺じゃなくてもいーじゃねーか」
「ザップさんからすればそうかも知れないけど、俺はザップさんがいいです」
「………………お前さー、」
たまに思うけどわざとやってんの、と俺がぐったりしてそう言うと、レオは怪訝な顔で何がすか、とそう言った。絶対わざとやってるよコイツ、と思いつつ俺はわかったよと言ってその場で溜息を吐いた。駅前にある割に目立たない銀色のベンチは、普通のベンチと違って立っている人間用に出来ているらしい。ちょっと高さは高めに作られていた。俺はそこに寄りかかりながら空を仰ぐ。快晴である。
「…ともかく俺は待ち合わせ相手見届けたら帰るぞ。オマエだってそこまで暇じゃねーだろーし、大体妹ちゃんに悪いと思わねーのか」
「………ザップさんたまにまともなこと言いますよね…」
たまにとは何だ、と俺が頭を小突くと痛い、とレオは小さく呻いたが、視線をこちらに戻して溜息を吐いた。「…そりゃ、俺だってこれが褒められた行動じゃないってことくらいは分かりますよ。ミシェーラにバレたら絶対口利いてくれなくなるだろうし」そう言う様子はかなりしょんぼりしていて、弱っているのが誰でも見て取れる様子だった。何だか絵面的に俺が苛めているようにすら見えてくる。
「…でも心配なんです。俺はずっとミシェーラが一番だったから」
あいつのこと本当に大事にしてくれる相手ならいいけど、とレオは俯いたままそう言って、肩を落として俯いた。「……マジで、別に俺がアイツの付き合う相手を選びたいとか、そういう訳じゃないんです。俺が、…妹に…ミシェーラに全部全部、色んなこと貰ってばっかりで、何も返せてないですし。俺がここにこうやっていられるのも、大袈裟かもしれないけどミシェーラがいたからなんですよ」だから、とレオは珍しく長いともいえる話を、続けた。
「…だからほんとに心配なんです。俺の…、…俺の大事な妹だから」
「………………。」
俺は無言でレオの頭をぽんと叩いた。レオが顔を上げる。「…わーったよ。…あのな、オメーがどう思ってようが妹ちゃんがオメーの妹ちゃんだっつーのは変わらねえし、大体がそんなに卑下することねえだろ。同じこと妹ちゃんに言ってみろよ。怒られるぞ」ぐしゃぐしゃとレオの頭を掻きまわすと、いつもだったら怒るのに、後輩はぽかんとして俺の方を見上げただけだった。
「………ありがとうございます」
「アホ。別に礼言われるようなことしてねえよ」
呆れてそう言うと、レオはやっと笑った。やっぱり落ち込んだりしているよりは、こういう顔の方がいいに決まってる、と俺もつられて笑ってしまった。
後々思うに、レオが言ったことは真実なのだろうが、だからと言って果たして妹のデートの後を尾けるというのはやっぱり最低だった。心配なのは分かりもするが、だとしたらまあ、もうちょい他にやり方もあったと思う。しかしこれは俺が後に思ったことで、その時はここまで深く突っ込んで考えなかった。ちなみにこれは伏線でも何でもない。ただのツッコミである。
ふと視線を時計塔の方に向けると、妹ちゃんが手を上げているのが見えた。お、と俺が言ったのに気が付いたのか、レオがぱっと瞬時に目を動かす。「おい。あんま派手に動くとばれるぞ」そう言って肩を引っ張ってレオを押さえた。
「…どこだ?手ェ上げてる方向にいるんだろ?」
「人がいっぱいいてわかんな……、…んー…?」
レオは目がいいが、どうも人が沢山いるから誰が待ち合わせ相手なのか分からないらしい。そうしているうちに、やっと妹ちゃんの許にのこのこと人混みを掻き分ける様にして歩いてく奴が目に入ってきた。
「……………ん?」
「……………え?」
俺とレオは多分同時にそう、呟いた。
申し訳なさそうに手を上げて時計塔の下に現れたのは、俺の義弟であるツェッド・オブライエンだったからだ。
暫くぽかんとしていた俺たちのことを知る由もなく、二人は連れ立ってどこぞに歩いて行く。はっと先に気が付いたのは俺だった。
「おい。オイレオ生きてるか?レオ」
「………、……え?そしたら…ザップさんは俺の義理の兄弟ってことに…」
「飛躍し過ぎだろバカ!落ち着け!」
そうは言ったものの俺も微妙に焦ってはいた。まさかこの場に俺の義弟が現れるとは思ってもみなかったせいだ。「落ち着け。今からそんなんでどーすんだ」そう言って肩を揺さぶったところ、やっとレオは覚醒した。「な、ななな何でツェッドさんが?なんで?どうして?」何でも何もない。待ち合わせ相手がただ単にアイツだったというだけだとは思うが、恐らくレオが言いたい意味はそういう意味ではないのだろう。俺は無論知る訳もないから知らねえよと端的に言って、そっと時計塔の下を見つめる。
既に二人は時計塔の下から歩き始めていた。多分このまま駅ビルにでも行くのだろう。いや、駅ビルを通過してどっかにでも行くのかも知れないが。ともかく行く先は駅ビルの方角だった。
「…で、どーすんだ。一応待ち合わせ相手は分かったぞ」
「……………。」
レオはぼーっとしたまま二人の行先を見つめている。まだ混乱しているらしい。
俺の義弟であるツェッド・オブライエンとレオは非常に仲がいいから、恐らくそういった面でも困惑しているのだろう。同じ歳だし、つまり学年も一緒だし、確か高校のクラスは三年間ぴったり一致している。気が合うんですと魚類(義弟のことだ)も言っていたし、たまに二人で遊びに行ったりもしていたんだからそれは本当なんだろう。だから余計レオは混乱している。
「………どーしよう」
小さくそう呟いて俺の方を振り返ったレオは、分かりやすく混乱という文字が顔に書いてあった。「…ど、どどどどーしよう?」「落ち着けってば。……でもまあいいんじゃねえの。どっかのアホよりお前の友達なら」普通こういう場合、”レオの友達”ではなく”俺の義弟”という言い方をすべきだとは思ったが、何だかそれは嫌だったからそういう言い方をした。レオは普通だったらツッコミを入れてくるところ、それはそうですけどとスルーして、困ったように頭を抱えた。混乱しているせいだ。
「…………だからか…」
「あ?なにが」
「ついこないだ一緒に服見に行ったんすよ。別に余りこだわるほうじゃないけど、って言ってた割に真剣だと思ったんだよな…もしやデートなのかとは思ったけど俺はツェッドさんが自分から言ってくれるのを待とうと…」
最後の辺りは独り言になっていた。女と出かけるために服を新調するというのも、何だか子供みてーだな、と俺は思ったがまあ格好を付けたい気持ちは分かった。そもそもそれが今日のためかどうかわかってもいないが。
どっちにしろ待ち合わせ相手は分かったのだ。さっきまで俺も混乱に襲われていたが、すでに落ち着きを取り戻していた。とりあえず一服しようと煙草を咥える。
「…ザップさんここ禁煙です」
レオはなぜかそこだけ矢鱈冷静に言うと、どうしよう、と再度言って俺の方を見上げ、俺の手から煙草を取り上げた。俺は顔を顰める。
「さっきから何度同じこと言ってんだよ。…まあ大丈夫だろ。魚類ならヤバイことにはなんねえよ。せいぜい手ェ繋ぐ程度だろ」
「手!?手を!?俺の許可なく!?」
「いや、何でオマエの許可がいるんだ。だからもー……あーわかったわかった」
溜息を吐いて俺はひょいとベンチから身を起こした。レオはとっくに身を乗り出して、というか寄りかからず時計塔の方を見ていたのだが、俺が突然動いたことに驚いたのか変な声をあげて固まった。「へ」
そんなレオの手を掴んで、俺は行くぞと言いながら足を踏み出す。わわ、という幼いとも言える声が俺の後ろからは聞こえてきた。
「ど、どど、どーすんすか!?」
「どーもこーもねえよ。早く行かねえと見失うぞ。もーめんどくせーし直接聞きに行きゃいーだろ」
「ええええ!?」
レオの悲鳴が聞こえたが、無視をする。電子音のとおりゃんせを聞きながら横断歩道を渡り始めた俺の隣に、やっとレオがやってきたので俺は手を離した。流石に大学生男子が手を繋ぎながら歩くのは不自然過ぎるし、目立つ。ぶっちゃけ俺は気にしたことはないがレオが煩いのだ。
「ま、待って下さいザップさん!聞き、聞きに行くって、」
「めんどくせーだろ。尾けるより聞いた方が早い。何なら電話するか?」
そう笑って言う俺の横で、レオは情けない顔をしながらうう、と唸って俯いた。「…直接…?だってそれで付き合ってるって言われたらどーすりゃいいんですか?」「どーするもこーするも。おめでとうって言やいいだろ」呆れてそう言った俺を、レオは情けない顔のまま無言で見つめた。横断歩道を渡り切り、駅ビルに入る。多分こっちだろう。ぱっと見た限りでは二人の姿を駅ビルを通り越した向こう側に認めることはできなかった。
「…どーしよう本当に付き合ってたら」
「だからいーだろ。おめでとうだろ」
「…………それはそーなんすけど…」
複雑でしょ、と顔を顰めたレオと一緒にエスカレーターに乗った。見た限り一階には二人はいなかったし、地下は生鮮食品売り場だったので上だと踏んだのだ。果たして二階から六階までのどこにいるかは足で探すしかないのだが、そんなに広くない駅ビルだから運さえ悪くなきゃすぐに見つかる筈だ。
「何が複雑なんだ。妹の幸せを祝ってやれ」
「そ、そういうのはまた別なんすよ別。それは嬉しいけど、…あー…だってザップさんだってツェッドさんがミシェーラと付き合ってたらなんか複雑でしょ」
言っている意味は分かったが俺は思いきり顔を顰めた。「やめろ。俺はアイツが誰と何をどーなろうと知ったこっちゃねえ」そもそも兄弟の恋愛事情をそんなに気にする奴がいるか?ぶっちゃけ俺はどーでもいい。親なら分からなくもないが、兄弟ってそこまで気にしねーだろ。そう言ったら、そーいうモンすかとレオは首を傾げた。
「…男兄弟だからじゃねーの。いや、今まで会った中でオメー程妹のことを溺愛する兄に俺は会ったことねーけど」
「で、溺愛ってほどじゃ…ただ俺はミシェーラが大事なだけで、」
「着くぞ」
二階三階はとっくに見終わっていた。四階は書籍と文具の階だったので、レオの妹ちゃんはともかく、俺の義弟はここにいる可能性が一番高い。何しろ本の虫だ。
「…あ、俺ジジイに本頼まれてたんだ」
本屋に来た瞬間ふとそれを思い出した。頼まれたのは今朝方、俺はたまたま実家に用事があって帰っていた。レオに唐突に連絡を貰って外に行こうとする俺に、本を買ってこいとジジイはいつもの如く傲岸不遜な態度でそう言った。金が無いから嫌だ、と俺は言ったがその直後ぽいと本の代金と全く同じ額の金とメモが投げられて慌てて受け取った。魚類に頼めよと俺は再度顔を顰めてそう言ったが、あいつはもう出かけておる、と奴は言ってさっさと部屋に引っ込んでしまった。一体何を買って来いと言うんだ、と俺は嫌々メモを見つめる。”週刊テレビガイド”という文字が見えて脱力してしまった。何?暇なの?ゲートボールでも行けば?そう思ったが口に出したら蹴られるのは目に見えているから無言で家を出た。
「本?何ですか?」
ちょっと余裕が戻ったらしいレオがきょとんとしてそう言った。いや、現実逃避なのかもしれないが。俺はそう思いつつ、メモをぐいとレオに突きつけて溜息を吐いた。「雑誌。なんか…ほら、番組表とか載ってるやつ」「ああ」そーいうの買うの珍しいすね、と言うレオに俺じゃないと俺は苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。
本屋なんぞ生協くらいしか行ったことがないと言えば大袈裟だが、ともかくそのくらいの頻度でしか行かないので、どこに何があるかさっぱり分からなかった。レオは多分こっちの方ですよ、と言いながら俺の服を引っ張って指をさした。雑誌が並んでいるが、雑誌も雑誌で種類が多くて俺はげっそりした。そんなあるの?しかしテレビ雑誌コーナーでもそれは起きた。何でたかだかテレビ番組の雑誌がこんなにあるんだ、と呻く俺にレオは笑ってこれでしょ、と言いながら雑誌を引っ張り出してくれた。
「え?…でもこっちもガイドって書いてあんぞ」
「それはCS専用だから、こっちでしょう。これ地上波もBSもCSも載ってるし」
そいじゃ買ってきましょう、とレオは言って顔を上げた―――途端だった。途端にレオの顔が引き攣ったので俺は何だ、と思って慌ててレオの視線の先を見つめる。
お約束のようだったが、雑誌の棚のすぐ向こう側の通路に魚類と妹ちゃんがとことこと歩いていた。ぱっと見何だか本当にカップルみたいに見えて、何だアイツそれなりに頑張ってんな、などと俺は呑気にもそう思った。しかし途端にレオが俺の腕を引っ張り出したので、はたと気が付いた。
「ざ、ざざざザップさん!レジ!レジ速攻!」
「バスケみたいに言うな。わーった落ち着け落ち着け、ばれるぞ」
しかしそこまで言って気が付いた。そもそも俺たちは既に二人に質問するためにやって来たのだから、バレても何の問題も無い筈なのだ。そう思って俺は普通にレオのことを見下ろして、今聞き行きゃよくね、と淡々と言った。
「え」
「そもそもそれを聞きに来たんじゃん。俺も一緒に行ってやるから行こーや」
「え。ええ。で、ででででも」
「何がでもだ何が。ほれ」
行くぞ、と俺は雑誌を持ったままずるずるとレオを引き摺る様にして、歩き始めた。そもそもこんな無意味なことをしているより、折角レオと二人で外に出ているんだからどっか一緒に行きたい。別に家に帰ってもいいけど。
魚類と妹ちゃんはまた別の本棚の方に向かっている。魚類は分かるが妹ちゃんも本が好きなのか、とレオに聞くと人並ですよとレオは震える声で言った。そこまで怯えなくともいいだろうに。何なんだ。大体、妹なんざいつかは誰かのものになってしまうのだから、親じゃあるまいに怯えることもないだろう。そうは思ったが、多分俺には分からない何かがあるんだろうと思いはした。
「…これですか?」
「僕は一番これがよかったです。人によって多寡違いはあると思いますけれど」
「いえ、ツェッドさんがそう言うなら間違いないと思いますし――」
何だか分からないが、そういう会話が書棚の向こうからは聞こえてくる。俺はずるずるとレオを引き摺ったまま、一体何をしているんだろうとばかりに棚の向こう側に顔を出した。「よお」そう言った途端、二人がわ、と声を上げる。
「ザップさん。びっくりした」
「……え?何であなたが本屋にいるんですか?」
妹ちゃんも魚類も驚いているようだったが、驚くポイントがそれぞれ違うらしい。俺は目を吊り上げて魚類に何でそこで驚くんだよ、と悪態を吐いたが魚類は澄ました顔で何を今更、と言っただけだった。
「…あれ?お兄ちゃん?」
妹ちゃんのその指摘に魚類もきょとんとする。「レオくん?」きょとんとした声に、レオは俯いたままど、どーもとよろよろと手を上げた。恐らく罪悪感と居た堪れなさとそれから色々な何かで顔が上げられないのだ。
「?…デートですか?」
きょとんとしたまま、妹ちゃんが首を傾げた。途端に顔を上げてレオが首を振り、違うときっぱりとそう言った。コイツはいつまで経ってもこうだな、と俺は呆れてそーだよとレオを無視して肯定した。
「ちょ、ザップさん!」
「そっちと一緒だ」
そう俺が言って二人を指した途端、レオが口を噤んだ。多分こいつは今、今日一番緊張している筈だ。俺はと言えばさっさとこの件を終わらせてレオとどっかに行きたかった。
俺の言葉を聞いて、二人は怪訝な顔をしたあとにああ、と合点した顔になって顔を見合わせた。若者らしくねえリアクションをする、と俺は呆れて何だよそれ、と思わず詰ってしまった。「何でそこであなたが怒るんです」魚類は呆れてそう言うと、違いますよときっぱりとそう、続けた。
途端に俺の服を掴んでいたレオの力が緩んだ。「違うのかよ」俺が首を傾げると違います、と呆れたように魚類がそう言った。
「そういう決めつけは、僕はともかくミシェーラさんに失礼でしょう」
すみませんうちの愚兄が、と困った様に魚類は後ろを振り向いてレオの妹ちゃんに謝った。「あ、いえいえ。むしろすみません、私こそ」「いや、あなたが謝ることでは」そう謝り合戦を始めた二人を尻目に、俺はレオに小さく話しかける。
「…だそーだとよ。よかったな」
「…………、………。」
レオは無言で俺の服に掴まると、何だか意味不明なことを言いながらぐったりと俺の背中に寄りかかった。容量がいっぱいになってしまったらしい、と俺は判断してんじゃなんで二人でいんだよ、ととりあえず聞いた。何だかここまで来て聞かないのも変な気もしたのだ。
「彼女が参考文献で何かいいのがないでしょうかと言う事だったので」
「ツェッドさんに教えて貰おうと思って」
そう、魚類の言葉を引き継いで妹ちゃんは笑った。「お兄ちゃんはあんまり要領得ないし、チェインさんはそーいうの苦手、って言ってたので。それじゃツェッドさんにと思ったんです」「ああ、そーいう…だってよ、おい」大丈夫かオマエ、と俺が後ろを振り向くと、こくこくとレオは俯いたまま頷いた。まだ言葉を発する段階までいきつかないらしかった。
「?お兄ちゃんはどーしたんですか?」
「体調でも悪いんですか?」
「色々あるんだよ」
俺はそう言ってごまかすと(二人は怪訝な顔をしていたが)、んじゃ俺は本を買ってくるとそう言って手を上げた。「オラ行くぞレオ。いつまで死んでんだよ」「………、はい…」そうふらふらと返事をしたレオの手を掴むと、二人に手を上げて俺はその場を後にした。
「ほれ見ろ。杞憂だったじゃねーか」
「……………、……よ、よかった…のかなあ…」
流石に手放しで喜ぶのは罪悪感があるらしい。俺は苦笑しながらオマエそーいうとこあるよね、と言いながらレジで金を支払った。本当に釣りが出ない、と俺は舌打ちを堪えつつレシートを受け取った。そのままレシートを雑誌が入った袋に突っ込むと、レオと一緒に本屋を出た。
駅ビルを出てから、俺が煙草を喫うまでレオはぼーっと駅ビルを眺めていた。たぶんまだ二人は本屋であーでもないこーでもないと話しているのだろう。
「…どっか行かね?」
「………え?」
慌てたようにそこでレオがこっちを振り向いた。「だからどっか行こーぜって。折角外出てんだから」「…あ、えーと…はあ……」そうですね、と言ってレオはやっと脱力した様子で息を吐き出した。なんだよ、と俺は思わずおかしくなって笑ってしまう。
「…なんか……すげー疲れた…」
「こっちの台詞だアホ。もーこれからは直で聞けよ直で」
「はい……あの、ザップさん」
あ?と俺は煙草を口から離してレオを見下ろす。「…すんません。有難うございました付き合ってくれて」今更何を言う、と俺はおかしくなっていーよと笑った。まあ、それを言うなら俺だって散々麻雀のメンバーだとか迎えに来てだとか頼んでいるのだから、お互い様もいいところだし、そーいうのは一々礼だの詫びだの言う事でもないような気がした。
「んで、どこ行く。なんかあるか」
「あー…俺新しいリュックが見たいんですよ。そういえば」
「オメーのアレもうすげーボロいもんな」
そうだけどそういう言い方はないでしょ、とレオは顔を顰めたが、俺がレオの頭をぽんと叩いた途端に何だかおかしそうに笑った。気が抜けたのかもしれない。
コイツが言うのは本当のことで、確かに妹ちゃんが死ぬほど心配だったのだろう。馬の骨に引っ掛かるよりはまあ、俺の義弟なら多少はマシだ。ただ、そういう問題じゃないとレオは何度も言っていたことから考えるに、やっぱりレオからすればそういう問題じゃないのだろう。俺には今一よく分からなかったが。
「んじゃー行くか。駅南でいーだろ」
「あっちなんかありましたっけ?」
「なんかはあるだろ」
そう言って俺とレオは連れだって歩き出した。歩き煙草は怒られますよ、とレオが言うので仕方なく喫煙所にあった灰皿に煙草を押し付けて駅を通り抜ける。はくし、と途中でレオがくしゃみをしたので、ちょっとは風が吹いて来たらしい。そろそろ冬が来るのだ。
「…オマエこっち歩け」
「え?なんで?」
「なんでも」
そう言って俺は無理矢理レオを風下に立たせたのだが、レオはどうも理由がわかったらしくやたらにこにこして俺の方を見上げたから、ちょっと閉口した。ていうか照れた。さり気なくという芸当は、どうもレオに対してだけ難しい。
ただいま、と言って俺は雑誌を投げるように師匠に渡した。ご苦労、と憎々しいことをクソジジイは言うとするすると部屋に入って行く。だから暇なのか?と俺は思いつつ台所に向かった。ふと見れば、冷蔵庫の前に魚類が突っ立っている。
「おわ。何だお前帰って来てたのか」
「ああ、お帰りなさい。はい、僕はもうとっくに」
夕方には、と続ける魚類に、何だよお前もーちょっと頑張れよ、と俺は笑ってそう言った。「何がですか?」怪訝な顔で魚類はそう言う。何がじゃねえよと俺はにやにやしながら魚類を押し退けて、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「今日はデートじゃねーなら次回はデートできるようにしろっちゅーことだって」
「?……ああ、ミシェーラさんのことですか?まさか」
「まさかもかかしもねえだろ」
「それは全然韻を踏んでませんね」
呆れたようにそう言った魚類は、だから本当に違いますよと続けて、冷蔵庫にあった茶をコップに注いだ。「だいたい、」そこまでは良かったのだ。そこまでは俺も何を照れてんだよと爆笑したい気分だった。
「彼女、既に恋人がいますよ」
――――ん?
瞬間、気管に牛乳を入れてしまった。げほげほげほ、と咳き込み始めた俺を見て、呆れたように魚類は冷蔵庫を閉じると、俺の手から牛乳を受け取り、テーブルに置いた。とん、と静かな音がする。
「…い、今何つったお前」
「…?なぜあなたが焦っているんですか?ですから、彼女はもうとっくに恋人がいらっしゃいますよ。今日は午後からその方に会う予定だったそうです」
僕もまだ直接会ったことはありませんけどね、と淡々とそう言って、魚類は茶と牛乳を冷蔵庫にしまった。ぱたん、というドアが閉まった音を聞いて、俺は何とか口を拭きながら顔を上げた。「………マジで?」「本当ですって。僕も彼女も元々午後あの周辺で待ち合わせる予定だったので、丁度いいからって午前中会ったんです」僕はサークルの打ち合わせがあったんですと魚類は続けると、俺を不思議そうな顔で見つめた。
「…おま、それ、レオに言ってないよな?」
「勿論」
当たり前とでも言わんばかりに、肩を竦めて魚類はそう言った。「彼女は別段言ってもいいとおっしゃってましたけどね。言ったらどうなるか目に見えてます」「…………あー…もしかしてアレか。こないだの合コンの」「はい?」首を傾げた魚類に何でもない、と俺は首を振った。詮索しても無意味なこと甚だしかったし、大体がもう付き合っているのなら外野が何か言う話でもない。
「…うおー……レオが知ったらぜってー泣くよ。どーすんだよ」
「その時はあなたが慰めればいいでしょう」
魚類はそうさらっと言うと、夕飯を作りたいので退いて下さい、と真面目くさってそう言った。俺は無言でその場からのろのろと退くと、リビングへ足を向ける。今日は食べて行くんですか、という魚類の声に食ってくよと乱雑に告げた。帰る気力がなくなった。
窓から外を見れば夕日はとっくに沈んでいて、星が光る夜空がある。レオとは明日も会うけど一体俺はどんな顔をすればいいんだ、と義弟を憎々しく思いながら溜息を吐いた。
―――その時はあなたが慰めればいいでしょう。
それが出来たら苦労はしない。慰めたところでレオが泣くのは目に見えているし、第一アイツがこの世で一番大事にしているのは妹ちゃんなのだ。それを思うと少し遣る瀬無く思って俺は煙草を咥えた。ベランダで縁台に座ると火を点ける。
「……はー…」
溜息と一緒に煙を吐いた瞬間、タイミング良く携帯が着信を告げた。ぼんやりしていたせいもあってびくりとしながら俺は携帯を見る。メールが届いていた。誰だ、と思いながらメールを開封すると、レオからだった。
【今日ありがとうございました。付き合わせてすみません。】
そう書いてあった。今日散々聞いたって、と思いながら画面を見つめる。「…はあ?」その続きを読んで、思わず笑ってしまった。
【もしザップさんが同じことしたくなったら俺が付き合うので言って下さい。俺に言って下さいよ!】
そんなことあるわけねーだろ、と思いながら携帯を隣に置いた。基本返信はしないから、それも返信をするつもりはなかった。なかったのだが、どうしてか俺は携帯をすぐに手に取って、珍しく返信を打った。
【しねーよバカ】
それだけ打って返信した。馬鹿馬鹿しい、と思って大窓に寄りかかった途端、今度は電話着信を告げる音が鳴ってぎょっとする。何だよ、と慌てて画面を触る。「もしもし?」『もしもし』レオからだった。むしろこのタイミングでレオじゃなかったら驚くだろうな、と俺は思う。
『しないって何すか。俺を呼んで下さいよ』
「バカちげーよそこじゃねーよ。俺がレオと同じことするわけねーだろ」
『え?そっち?…何だ。そーすか』
何だじゃねえよ、と思いながら俺は笑って、んじゃまた明日な、とそう言った。あ、とレオが焦ったような声をあげるので、何だよと不思議に思ってそう聞く。あの、とレオは困った様に言うと少し間を空けた。
『……明日、授業終わったらどっか行きません?』
「?今日行ったろ。どっか行きてーとこでもあんのか」
『や、別にそーいう訳じゃないんすけど。…なんか、その。今日は…違うでしょ』
レオはもそもそと電話口で聞き取り難い声でそう言った。歯切れが悪いと言った方がいい。何を吐かしてんだ、と俺は見えもしないが首を傾げてどーしたんだと再度そう聞いた。
『…だって今日は、なんか、ちゃんとしたデートじゃないでしょ』
呆気にとられた俺を察したのか、レオはそんじゃまた明日、と一方的に言うとぶちんと電話を切ってしまった。「…な、」思わず携帯を見つめたが通話終了、と画面に出ているだけで全く意味もない。何だアイツ、と俺は思わずまた笑ってしまった。多分今頃電話を放置して悶えているに違いない。
翌日、俺とレオは二人で出かけたが、お互い目的がなかったのでだらだらと歩くだけになった。たい焼きを買っているレオの後姿をぼーっと見ながら、さてと俺は思案した。レオが真実を知った時、上手く慰めることが出来るだろうか。
「ザップさーん、こし餡とつぶ餡どっちがいーすかー?」
その声にはいはい、と手を上げて俺は屋台へ向かった。
終