甘さ1/1
2016/02/28
椅子を蹴飛ばしながら座った義兄に目を向ける。「…今日は遅くなるんじゃなかったんですか?」そう言った自分に、義兄のザップ・レンフロはうるせえといつもの如く悪態を吐いた。
二月はまだ寒い。けれど日が伸びたなあ、と思いながら窓の外を見る。既に日暮れは過ぎていたが、うっすらと山の端に太陽の光が見える。さっさと夕飯の支度をしてしまおう、とツェッド・オブライエンはテーブルから立ち上がった。
さて何があったかな、と冷蔵庫のドアを開けた時丁度自分の義兄が帰ってきた。どかどかと足音を立てながらキッチンの椅子を足で引くと乱暴に着席したのを見て言ったのが、冒頭のそれだ。
ツェッドの兄は兄だが血縁関係にない。というか一緒に住んでいる保護者ともない。全員無い。だから何だと言われると困るのだが、長じてから一緒に暮らすようになったせいも相まって、ツェッドは兄を兄と思ったことが殆どなかった。だからまだ、呼び方も余り定まらない。あなただとか、うちの義兄がとか、何だかふわふわした呼び方をしている。一方で義兄の方は一体何の恨みがあるのか、ツェッドのことを魚類とかさかなクンとか蔑称極まりないそれで呼んでくる。一応返事はするものの、その呼び名について納得はしたくなかった。
「夕飯は刺身にしろ刺身に。もしくはアレだ、生魚だ」
「どっちも同じじゃありませんか。嫌です。僕生魚苦手なんですから」
だから言ってんだよ、と椅子を揺らしながら義兄は憎らしいことを言うと煙草を咥えた。未成年という単語を理解しているのかどうかも怪しい、と思いつつツェッドは今日はカレーですと言いながら野菜を取り出す。
「カレーだあ?ざけんな止めろ。刺身にしろってば」
「ですから嫌です。食べたいならご自分でどうぞ」
「ふざけんなよバカ。ともかくカレーは嫌だ。絶対嫌だ」
一体何なんだ、と思いながらじゃがいもと人参を持ったまま立ち上がる。普段も文句ばかりの義兄だが、流石にこんなに執拗にわあわあ文句を言ったことはない。なのにどうしたんだ、と思いながらツェッドは首を傾げた。「なんですか?カレーに何か恨みでも?」「だってオメーのカレー」チョコレート入ってんじゃん、とザップは顔を顰めてそう言った。
「…?はあ。悪いんですか?育ての親にそう教わったんですが」
「育ての親とかデリケートな話題突っ込むな。色々やり難いわ」
そうは見えないんですけど、とちょっとツェッドは笑って玉ねぎを取り出した。「…けど丁度玉ねぎも半端だし…この間のルーが半分残ってるんですよ」「んじゃ肉じゃがにしろよ。材料一緒だろ」「白滝がないです」「いーよ別に。いらねえよ」僕は白滝がないと嫌です、何だそのこだわりは、などと言い合っていたところにするすると足音が聞こえた。あ、とツェッドは顔を上げる。
「お帰りなさい師匠。今日の夕飯は、」
そこまで言ったところであれ、とツェッドはきょとんとした。確かに帰って来たのは自分と義兄の保護者であり、なおかつ義父であり、師匠だった。けれども彼がその後ろに伴ってきた人物が目に入ったのだ。―――学ラン姿のレオナルド・ウォッチがそこにいた。
「…レオくん?」
きょとんとしてそう言うと、ザップががたんと椅子を引いて立ち上がった。そのままずかずかとこちらに向かって歩いてくると、義父にお帰りも言わず上からレオを睨みつける。
「…なんだよ。何来てんだよ。何か用か」
「…………………そ、…んな怒んなくても」
いいでしょ、と困った様に言ったレオを見ながら怒ってねえよとザップは乱暴に言って頭を掻いた。「…飯いらねえ」そう言ってくるんと踵を返してザップはすたすたと自室の方に歩いて行く―――筈だった、らしい。
びゅんという目にも止まらぬ速さで血の紐が伸ばされた。あ、とツェッドがそれに気が付いた時には既にザップはフローリングに転んでいて、ばたんという大きな音が部屋に鳴り響く。管理人から叱られる、とツェッドはげんなりした。大抵そういう対応はツェッドがするからだ。
『………、……。』
吐き捨てるように義父は言ったが、レオには何を言っているか分からなかっただろう。少し義父の言語は特殊なのだ。ちなみに今は馬鹿めが、とそう言っていた。「い…ってぇなこのクソジジイ!!ぶっ殺、」途端に今度は足に巻き付いたままの血紐でザップが引き寄せられた。ぎゃああという明らかに顔を擦り剥きつつある悲鳴を聞きながら、ツェッドは頭を抱えた。床に傷が。引っ越しの時査定が。なんだかこんな心配をするとは、主婦にでもなった気分だった。そういう意識が義父にも義兄にも全く無いのだ。
「…あ、あの、ツェッドさん。お邪魔してもいいですか」
後ろで義父にぎゃんぎゃん文句を言っている最中、レオはそうこそこそとツェッドに言った。こそこそしている意味はよく分からないけれど、と思いながらも勿論とツェッドは頷く。「勿論どうぞ。僕はこれから買い出しに行くのでお相手できませんが」「え」そう言った途端レオはぎょっとした顔になる。「え。か、買い物すか」「?はい。商店街まで」別段スーパーでもいいんですがちょっと遠いですし商店街の方が安いので、と淀みなく言った自分にちょっと呆れた。高校生だけれどやっぱり主婦みたいだ。
「レオくんはうちの義兄に用だったのでは」
「え。あ、や、そ、…そーなんすけど」
そう言ってレオは困った様に眉を下げた。「……それとも」一緒に買い出しに行きますか、とツェッドは半分本気で半分冗談でそう言ってみた。レオはきょとんとした後、考えるようにちょっと首を傾げる。
「…行っていいなら」
行こうかな、となぜか苦笑してレオは言った。「当たり前ですよ」そう言ってツェッドも笑う。
友人のレオナルド・ウォッチは同級生で同じクラスの友達である。糸目のせいか柔和な顔つきで、性格も同様穏やかで優しく、その上ひどく珍しいことにお人好しで誠実という長所が備わっていた。それを彼は何とも思っていないらしいが、ツェッドからすれば驚くべき事だった。他人の悪意をものともしないわけでもないし、かと言って彼が全部が全部善人というわけでもない。なのになぜかレオナルド・ウォッチという人間はツェッドにとってどこか別の場所にいた。友達だけど、普通の友達ではない。―――たぶん。
僕は彼が好きなんだろうな、と思うことがある。親愛とか友愛とか、そういう言い方でもいいし、言ってしまえるなら恋愛でもいいとツェッドは思っている。レオはツェッドにとって色々な意味で特別なのだ。
しかしながら恐ろしい事実があった。レオはツェッドの義兄と付き合っているのだ。ツェッドは義兄のことが嫌いという程ではなかったが、大部分は呆れているし軽蔑している。なぜなら、義兄のやることなすこと殆どが破綻しているからだ。
たとえばついこの間、レオがゲーセンで中学生に絡まれた。ツェッドが気が付いた時には既に状況は決着していたのだが、自分より三、四歳は下であろうその中学生たちをボコボコにのしていたのは誰であろう、ザップだった。レオではない。レオはザップのことを必死で止めていたが、うるせえとなぜか蹴られていた。呆気に取られたツェッドの前で、普通にザップはそのまま中学生相手にカツアゲを始めたので慌ててレオと一緒に引きずるようにして、ゲーセンを出た。
―――相手は中学生ですよ。何考えてるんですか。
そう怒ったツェッドに対して、アホかオメーはと言いながらザップは煙草を咥え(無論義兄は未成年である)、レオのことをぐいと引き寄せた。
―――俺のモンに手ェ出そうとしたんだから死刑だ。
それを聞いてツェッドは無言で頭を抱え、レオは何とも言えないような顔になって黙っていた。
あれはたぶん、と今ならツェッドは言える。
――――嬉しいけどそういうカオをしたら僕が困るからああなったんだ。
何だかそれを思うとレオに申し訳ない気になった。別段義兄はどうでもいいが、レオを困らせたい訳ではない。
それからついこの間のことだ。いつまで経ってもレオが五時間目にやってこなかったので、ツェッドは担任に言われて彼を探しに行った。通常だったら放置するところ、五時間目は大切な話をする予定のホームルームだったのだ。保健室にはいなかったと顔を顰めていた担任の言葉を信じ、うろうろとその辺を探し回った。恐らく自分が指名されたのはクラスで一番レオと仲がいいからだ。ちょっとだけそれを嬉しく思いながら、音楽室を覗いた。レオはたまに音楽室でホワイトという友人とピアノで遊んでいることがあるからだ。彼曰く弾けないらしいが、ホワイトが言うには可愛らしい手つき、とのことだったから真偽は分からない。未だにレオは恥ずかしがってツェッドの前では弾いてくれない。
レオくんいませんよね、とダメ元と分かるような発言をしながら部屋を覗き込む。音楽室は静まり返っていて、ピアノの上にメトロノームがぽつんと置いてあった。そもそもここだって全クラス音楽クラスが週一でそれぞれ使うだけなのだから、頻度としては吹奏楽部が使う方が大きい。肩を竦めてドアを閉じようとした、その時だ。もごもご、という誰かが呻くような声がしてぴたりと動きを止めた。バカお前なんだよ、だから次は絶対出ないとヤバイんです、という聞いたことがある声がそれぞれ聞こえてきて、ツェッドはぐるりと音楽室に逆戻りする。まさか、と思いつつピアノの後ろに置いてあった巨大な戸棚を恐る恐る、開けた。
『っわ!!つぇ、ツェッドさ、』
『……………あー……』
オメーが喚くから見つかったじゃねーか、と言いながらレオの口を押さえていたザップが肩を落とした。『ば、だ、だから俺言ったじゃないすか!次は絶対出るようなんだってば!』『オメーだってやる気だったじゃねーか』そう言ってツェッドが見ているにも関わらず、ザップはがぶ、とレオにキスをしたのでツェッドどころかレオがぎゃあと悲鳴を上げた。『ば、ばばばばバカじゃねーのマジで!!!もーいい!俺は行く!』すいませんツェッドさん、と真っ赤な顔でレオは言って戸棚から転がり落ちるように出ると、ダッシュで音楽室を出ていった。折角迎えに来たのに、と思わないでもなかったが、恐らく恥ずかしさで今ツェッドと顔を合わせたくないのだろう。そう思ったから自分は後から教室に戻ることにした。
『…あーあ。オメーが探しになんか来るからだ』
『………あなたねえ』
授業中ですよ、と呆れて言ったツェッドに知ってるよとザップは返し、折角いー場所だったのになーと肩を竦めた。『オメーにバレたからまた次は屋上じゃねーか』保健室はもうバレてんだよなー、と言いながらがっかりした顔をしているザップを、ツェッドはげんなりした顔で見下ろした。学校に何しに来ているんだ。『…レオくんを巻き添えにするのやめてくださいよ。彼も言ってたでしょ』五限目は大事なホームルームだったんですよ、と言ったツェッドのことをザップは怠そうに見上げた。
『…オメーは知らねーだろうけど、つか知ってたら殺すけど』
そう言われて何となく嫌な予感はしたのだ。何しろ義兄は怠そうな割に目がにやついていた。『…なんですか』けれど一応ツェッドはそう答える。
『レオだってけっこー好きなんだよ。俺とのセックス』
それを聞いて思い切り棚のドアを閉めた。オイコラ、という声を後にすたすたと音楽室を出る。なんだか無性に、腹が立った。
というわけで、ツェッドはザップのことを一部を除いて殆ど信用していない。全部と言えないのが微妙なところで、変なところで義兄はしっかりしていてそれも何だか腹が立った。どうせなら全部破綻していてくれたら、詰り様もあったのに。
何を買いに行くんですか、白滝をと言っているツェッドとレオのところに、さっきまでぎゃあぎゃあ喚いていたザップがやってきた。「あ、カレーは中止にしますよ。仕方ないから僕は白滝を、」「俺も行く」言葉を遮られるようにしてそう言われて、一瞬ぽかんとした。レオはぎょっとした様子でうろうろと視線を彷徨わせたあと、結局またザップに戻して首を傾げる。
「…怒ってるんじゃないんですか?」
「あ?怒ってねーってさっきも言ったろ。何度も言わせんなボケ」
明らかに機嫌が悪い。何もしてないのにレオくんが罵られる意味はなんなんだ、と顔を顰めてレオの肩を引くと、途端にザップがこの野郎とでも言いたげに口を開いた。…が、開いただけで結局文句を言いたそうな、けれど言えなさそうな顔になるとそっぽを向く。意地張りだなあ、とツェッドは肩を竦めた。
「放っといて行きましょう。…いつもすみません。何か」
「あ、や、そんな。ツェッドさんが謝ることじゃあ」
「こんなのでも一応義兄なので」
はあ、と溜息を吐かんばかりにそう言ったツェッドのことを睨んで、ザップはいーから行くんだろと怒った様に言った。「あなたが割り込んできたせいで出発が遅れたんですよ」「うるせえ」そう言ってツェッドとレオの間を無理矢理通り抜けて行く義兄の後姿を見て、ツェッドは今度こそ溜息を吐いた。もう少し素直だったら救いようもあったのに。
ツェッドさんが作る肉じゃがには白滝が入ってるんですねえ、とレオは言いながら蒟蒻を見ていた。「俺ん家絹さや入ってます」「ああ、うちはちょっと違いますけど、グリンピースならシチューに入れます」「あー、給食のやつと同じだ」俺の家カレーには入れるけどシチューは、などとツェッドとレオが話している後ろでザップはぼーっとしている。「…白滝買いに来たんだろ」そうですけど、ときょとんとした顔で振り向くと、物凄く退屈そうな表情で義兄は腕を組んだ。分かり易い。
「…あの、そんなに暇なら籠を持って下さい。ついでに今週分の食材買っていくので」
「お前俺が来たときばっか油とか醤油とか買ってくじゃねーか」
「それが何か」
口が減らねえ、と憎たらしそうに言ったが、結局ツェッドから籠を受け取ってザップはそれを手に持った。レオは学ランの下にパーカーを着ていたが、ザップはカーディガンを着てその上にジャンパーを着ている格好だったので、学生のお使いみたいにも見えた。実際その通りと言えば、そうなのだが(ちなみにツェッドはとっくに帰宅していたので着替えていた)。
既に商店街には到着していたが、ここまでの道のりでのレオとザップといったらなかった。ツェッドを間に挟んで何やかやと話を振るのだが、お互いには話そうとしない。多分、ケンカか何かしたんだろうなとツェッドは誰でも分かるようなことを思った。名探偵でなくても、あのやり取りを見ればこれくらいは分かる。原因はさっぱり分からないが、恐らく毎度似たようなことで彼らはケンカをしているので、今回もそうだろうとツェッドは勝手に思っていた。
「でもツェッドさんすげーすよね。毎日飯作ってるんでしょ」
「慣れてしまいましたし別段嫌いではないので」
でもそんで成績落ちませんもんねえとレオは教師みたいなことを言った。「俺こないだの物理やばかったです」「この間…ああ、でもこの間のはちょっと意地が悪かったですよね。重箱の隅をつつく系ばかりで」そう言いながらふと思い出した。
「そういえばこの人は物理はなぜか得意なんだそうですね。化学は苦手なのに」
「あ?」
俺かよ、と言ったザップにあなたしかいないでしょうとツェッドは肩を竦めた。レオはどうしたものかと逡巡していたらしいが、結局そうみたいですねともそもそと返事をした。ザップはそんなレオを見はしたが、レオと同様そうだよともそもそ言って、黙った。「…………。」今日は結構重症だな、とそこでツェッドは漸く気が付いた。いつもだったらもうこの辺でお互い気まずいのに疲れてくるから、普通になるのに。今日はどうも長引いている。
「…えーと。…白滝は終わったので」
明日のカレールーを買いたいのですがと言ったツェッドに、はいとレオが返事をした。ザップは黙ってそっぽを向いている。さっきまでカレーは嫌だとかなんだとか言ってたのにな、と思わないでもなかったが、蒸し返すのも嫌だったのツェッドはレオと一緒にカレールーの売り場に行った。
そこでやっとツェッドは気が付いた。と、いうよりも思い出した。
「…あ。今日はバレンタインでしたっけ」
そういえば、と言わんばかりにレオを振り向くと、レオはなぜか引き攣った顔で固まっていた。「…え。な、なにか」どうしたんだと思いながらそう言うと、いいえ別にとレオは慌てた様子で言いながら首を振った。何だろう、と怪訝に思っていたら、その後ろにいる義兄はもっとひどい顔をしていた。「…………。」これは、とそこでツェッドは再び漸く、気が付いた。
「…バレンタインがケンカの原因なんですか?」
そこでレオとザップが同時にちがいます、ちがうと泡を食ったようにそう言ったのでもう遅かった。その”ちがう”はイエスと同義である。「……………。」黙って二人を見つめたツェッドに、慌てたようにザップがちげえよと再度言った。
「な、―――なんだよテメーが下手なこと言うから」
「ざ、ザップさんだってそうじゃないすか。もっと誤魔化しようがあるでしょ」
「ねえよバカ。てゆかなんだよ。いーだろチョコくれー寄越せよ!」
「や、やですよだから!俺は男なんだからおかしーでしょ!」
「おかしくねーよ!付き合ってんだからいーだろ!」
「い、いくねえ!それを渡した時点で何かが終わる気がするんです!」
唐突にお互い会話を始めた二人を見て、ツェッドは溜息を吐いた。「…そんな下らないことでケンカをしていたんですか?」そう言ったツェッドにレオは気まずそうな顔になり、ザップは何だとコラといつもの如くいきり立った。
「だ、だっておかしいんですよこの人。去年どころか今年も女の子にいっぱいチョコ貰った癖に俺から欲しいとか。どー考えても変でしょ。いーじゃないすかもう貰ってんだから」
「だから言ってんだろ!テメーからは貰ってねーんだよバカ。つかいーだろそんくれー。チロルでも何でもいーから寄越せって」
「嫌です!ミシェーラとホワイトからしか貰ってねーのに何でアンタにあげなきゃなんねーんだ!」
「オメーのチョコ取得状況はクソどーでもいーんだよ!大体毎年オメーはいもう………、……ん?」
今なんつったおまえ、とザップはそこで突然がなるのを止めた。へ、と呆気に取られた様子でレオはきょとんとする。「…?ミシェーラとホワイトからしか貰ってないのに何でアンタにあげなきゃなんないんだって、言いましたけど」「…………ホワイトってあの、」双子か、と言った義兄の声はいつもよりちょっと上擦っていた。
そこでツェッドもホワイトについて回想する。全体的に細いけれど元気が良い、隣のクラスの女子だ。今義兄が言った通り双子で、兄と妹の妹の方だ。ちなみに兄はウィリアムといってレオとツェッドと同じクラスだった。なぜかレオはブラックと呼んでいるから、もしかしてホワイトも渾名なのかも知れない。ツェッドは彼を本名で呼んでいる。
ホワイトはレオと同じ写真部だからなのか彼と仲がいい。ピアノの下りもそうだけれど、部活なのか放課後に一緒に校内を歩く二人をよくツェッドは目撃していた。その度にウィリアムは複雑そうな顔をしていたので、ツェッドからすればレオが彼女と付き合っていないことが不思議だった。そのくらい仲がいいのだ。
ザップが声を上擦らせたことに気づいているのかいないのか、レオは普段通り話を続けた。
「あ、そーですそーです。妹の方。今日の部活でブラックだけの予定だったけどレオにもあげるねって」
そう言われて貰いましたとレオはえへへと照れたように笑った。「まあ義理だって分かっちゃいますけど、そんでもやっぱ女の子から貰うチョコって嬉しい、」それを言っちゃまずい、と思ったツェッドの警告は間に合わなかった。唐突にザップがどん、と思いきりレオを食品棚に押し付けたのだ。お陰で棚にあった食品ががたがたと揺れて音を立て、棚自体もゆらゆらと傾ぐように、動いた。ああ、と悲鳴をあげたくなる。
レオは突然陥った危機的状況にぎょっとしていたが、なんすかと珍しく強気に眉を吊り上げてそう言った。「ざ、ザップさんだってたくさん貰ってるんだから、…俺だって貰っていーじゃないすか」「…………オメーのそれと」俺のは意味がちげーだろ、と言ったザップのことをレオが見上げる。
「…違くないでしょ。だって貰うの断んないじゃないすか」
「……断って泣かれたらめんどーだろ」
「…断る気が最初からないんでしょ」
はあ?と義兄が声を荒立てる。「…あのう。ここはお店なので声を…ってゆかそーいうのってこういう場所でやる話じゃ…」そう言ったツェッドのそれは思いきり無視された。分かってはいたけどああもう、と思いながら頭を抱えたくなる。
「…んじゃオメーは何で断んなかったんだ」
俺がいるだろと恥ずかしいことを全く臆せずにザップが言う。レオは少し無言でザップを見つめていたが、だってとちょっと俯きながら、言った。「…俺そんっなチョコもらったことないすもん。アンタと違って」「だから俺がいるだろって言ってんじゃねーか」「…だって」ザップさん別に俺にチョコくれないでしょ、とレオは小さな声で、しかしツェッドには届く程度の声でそう言った。沈黙が起きる。
「…………なんだそりゃ」
「だって、…何で俺ばっかアンタにあげなきゃいけないんですか?ずるいですよ」
「ずるいってお前」
拘ってたのはそれかよ、と呆れたようにザップは言うと棚から身体を起こした。レオはむっとした様子でザップを見上げる。「…別に俺だって見返りとかそーいうのが欲しいわけじゃねーすよ。…でもザップさん、…モテるし」それは確かに事実だった。ツェッドからすれば全く理解しがたい話なのだが、義兄は平均と比べて、かなりモテる。女生徒どころか教生から教師、はたまた他校の生徒やはたまた全然学校とは関係ないOLとも関係があると噂されている。しかもそれは大抵事実で、その上噂よりもっとひどい時もあるのだ。これでもレオと付き合い始めてマシにはなったが、今でも聞くのだから相当である。
「?それが何だっつーんだ」
事実とは言え厚顔無恥にも否定をしない義兄を見て嘆きたくなった。もう少し、謙虚とか、せめて謙遜とかを覚えて欲しい。恥をかくのは身内なのだ。ツェッドがそう懊悩している間にも、レオは話を続けた。「…だ、だから。……なんか、…そりゃ俺だってあげようとは思ったことありますよ。…でもたとえば俺があげたチョコはザップさんにとっては1/100でしょ」だから俺だってフツーにムカつくじゃないすか、と早口で言ったレオのことを、ザップはぽかんとした様子で見下ろしている。
「…………なんだそりゃ。何でそーなんだ」
「だ――だから。毎年ザップさん、チョコたくさん、」
貰ってるから、と言う前にザップがレオの顔をがしりと掴んだ。うにゃっとレオが変な声を上げる。「…そら数の上じゃそーかもしんねーけど、俺が今付き合ってんのオメーなんだから」1/1じゃん、とザップは何でもないことみたいにそう言って首を傾げた。「…レオだけなんだから、そーじゃね?」そこまで言って、だよなと唐突に義兄はツェッドの方を見て同意を求めた。
「え」
「え、じゃねーよ話聞いてたろ。俺がコイツにチョコ貰ったとしてさ、」
俺にはレオだけなんだからそーだよな、と義兄は淀みなく言った。それを聞いた瞬間、レオは真っ赤になった顔でぱくぱくと口を金魚みたいにさせている。酸素は十分の筈だけと、と思いつつもツェッドはやれやれと肩を竦めた。
「…だと思いますけれど。僕も」
ほら、とそこでやっとザップは今日初めてツェッドの前で、笑った。ただし顔はレオを向いている。
「…全然可愛くねークソ生意気でうるせー堅物でしかも義兄貴の俺のことを一ミリも敬わねえ俺のクソ義弟がそー言ってんだぞ。俺の言う事は大してオメー信じてねーけど、コイツの言うことなら」
大抵信用してんだろ、とザップはツェッドへの暴言を入り混じらせて、レオにそう、言った。ぽかんとしたのはレオだけではない。ツェッドもだ。―――俺のって。
初めてそう言われたかもしれない、とツェッドは頭の中でその部分を復唱してしまった。暴言が入っていて非常に分かり難かったが、確かにザップはツェッドのことを義弟だと言った。呆気に取られてしまう。
「………、…はい……」
レオは結局そう頷いて、おかしそうにへにゃっと笑った。「…何笑ってんだクソガキ。泣かしてやろーか」「俺が泣く原因大抵アンタなんすけど」そうやっていつもみたいに話し始めた二人を見て、ふうとツェッドは溜息を吐いた。毎度毎度こうやって飽きもせずケンカしてすぐに仲直りするのだ。こちらの身にもなってほしい、と思いながらもう会計しますよとツェッドは二人に告げた。
「あ、待て魚類」
そうザップは言うとすたすたとツェッドを通り越して、棚の端にあった何かをひょいと掴むと籠に入れた。「なんですか?」そう言ってのこのことザップが持つ籠を見る。板チョコが一枚入っていた。
「…レオくんにですか?」
とことことやってきたレオのことをちらりと見ながらツェッドは首を傾げる。「ちげーよバカ。もーそーいうのいーわめんどくせーし。これでいーからお前」カレー作れや、とザップは面倒臭そうに言ってぐいと籠をツェッドに突き付けた。
「は?…嫌だってあなた言っていたじゃないですか」
「あの時は嫌だったんだ。今は別にいーよ。作れ」
俺は今日カレーが食いたい、と無茶苦茶を言い始めたザップを見つめてツェッドはまたしても溜息を吐いた。折角メインは肉じゃがで付け合せはとまで考えていたのに全部台無しである。レオが困ったような顔で、すいませんとなぜか謝ってきた。
「レオくんのせいではないんですからそれは、」
「あ、レオ。オメーも夕飯食ってけ」
「え?や、でも」
そっとレオが視線をこちらに寄越す。いつものように、穏やかな顔で、けれどもちょっとだけ困っている顔だった。そりゃあ俺だってやぶさかじゃないけどいいのかな、だって献立を考えてるのはツェッドさんだし。聞かなくても分かる。そんな顔だった。
「…構いませんよ。…それじゃレオくん」
玉ねぎ切るの手伝って下さい、とちょっと首を傾げて言ったツェッドのことを、レオは笑って見上げた。「はい。俺玉ねぎ切るのすげー得意すから」初耳だぞ、言ってないですからと話している二人を他所に、義兄から籠を奪ってツェッドはレジへと向かった。さっさと会計をして、帰宅してカレーを作ろう。明日の予定が今日に繰り上がっただけだから、肉じゃがはまあ、明日作ればいいだろう。玉ねぎはレオくんが切ってくれるとして、それじゃあ義兄には何を頼もうか。頼んだところで何かやってくれるとは限らないけれど、頼まないのは腹が立つし、などと思う。
鍋に入れた野菜を煮込む。果たしてチョコレートを入れたり入れなかったりで味が変わるかどうか、ツェッドは分からない。そんなにグルメでもないし、多分入れなくてもザップも師匠もレオも気づかないだろう。けどまあ、と思いながらぱきんとザップが籠に入れたチョコレートを砕いた。
「…いいか。バレンタインだし」
そう言ってぐるぐるとかき混ぜたカレーを見つめながら、そろそろご飯をよそってください、と義兄に告げた。
「…そーいやオメーは貰ったのか。バレンタインだぞ」
しゃもじを持ったまま、そうやってからかうように言ってきた義兄に、ちょっと目を向ける。なんだよとザップは言いながら手についた米粒を口にいれていた。「…そーいうの躊躇なく聞けるのってあるイミ凄いですよね」「あ?なんだ僻みか?まあ来年待ちだな。来年」そこまで言われて肩を竦める。
「…貰ってないとは言ってませんけど」
「何!?オイ誰だ。どこのどいつだそんな物好きは」
酷い言われようだな、と思いながらぐるぐるとお玉を動かして、鍋の中を見つめる。玉ねぎと人参とじゃがいもと豚肉と、それから溶けてしまったがチョコレート、それから、今日はレオの家に倣ってグリンピースが入っている。それを見つめながら、ちょっと微笑んだ。
「…昼ごはんの時にレオくんが」
途端に義兄が手を止めてのろのろとツェッドの方を、見つめてきた。
「――――…なに?」
今朝コンビニで買ったんすよと言いながら、レオはツェッドに一つだけチョコレートをくれた。よくある、小さな包装をされている一口サイズのチョコレートだ。けれどチョコレートに変わりはない。これはよくあることだったから、別段バレンタインでなくても起き得ただろう。けれども。
「…残念でしたね。僕はレオくんからチョコレートを貰いました」
あなたと違ってね、と言いながらお玉を持った手を止める。当然義兄はぶちんと切れた様子でぎゅうとしゃもじを握りしめた。
「…ってめえええ!!殺す!!」
そう掴みかかってこようとした義兄をひょいと器用にかわし、やめてください、いいややめねえてゆかそのチョコ寄越せ、もう食べちゃいましたよ、吐けよなどとやりあいながら夕飯を食べる準備をした。義父が煩いと止めに入るまで、やり合いは続いてしまった。
「ツェッドさんどーもごちそうさまでした。美味しかったです」
「いえ。グリンピース入れたカレーも美味しいですね」
そう玄関先で話しているところに、早よせいと言いながらザップがレオの手を掴んで立たせた。わわ、と声を上げてレオはちょっとふらついたが、そのまま自然にザップに掴まって体勢を整えた。「よっ…と。…それじゃツェッドさん」
また明日、と言いながらレオは手を上げた。「はい。また明日。…あ、レオくん」はい?とそこでレオは半分開いたドアに半身を滑らせたまま、こちらを向いた。ちょっとおかしく思いながら、口を開く。
「…ホワイトデーをお待ち下さい」
「ええ?…はあ、ええと、…そーすね」
待ってます、とレオは笑ってひらひらと手を振った。はい、とツェッドも同様に手を振ったが、直後レオの視点が十センチ程下にずれた。つまりザップがレオの上から思いきり腕を圧し掛からせたのだ。「…オイコラ何が待ってますだ」「じょ、冗談なんだからそんなに目くじら立てないで下さい!」そうですよ、と呆れてフォローに入ったツェッドをぎろりと睨んで、ザップはうるせえバカと何のひねりもない悪口を言った。小学生だ。
「オメーのそれは無効だ無効!つか逆にオメーだろ!俺とレオにチョコ寄越してきたのは!」
「はい?」
そんなことしました?とレオとお互い顔を見合わせる。「…だってオマエ、カレーに」チョコ入ってんだろ、とザップは呆れたように続けてオラ行くぞとレオの手を引っ張った。わわ、という声の後にドアがバタンと閉まる。ちょっと待って転ぶ転ぶ、と言いながら引きずられていくレオの声がした。
「…………慌ただしい」
そう言って鍵を閉める。がちゃり、という音を聞きながら考えた。チョコを寄越すっていうか、それはあなたのリクエストだったんですが。そう思いながら肩を竦めた。論理的なことを彼に求めるのが無為だ。
「…ま、それなら」
僕がホワイトデーを楽しみに待ちますか、と思いながら食後のお茶を入れに、台所に向かった。
終