Dear my sister.
2015/06/15
「もうしぬ」
そんな台詞一生言わない奴だと思ってた。
で、と言いながら首を傾げた俺に、「で、じゃないです」と暗い声で後輩が言った。
「もうしぬ」
いやだから、お前そういうキャラじゃないだろ。
学内の茶店は閑散としている。流行っていないから、というわけではなく、単純に昼が終わった時間のせいだろう。外は晴れているし、しかも今日は金曜日なのだから、しけた学内にいるよりも遊びに行きたくなるのが学生の本音だ。ぶっちゃけたところ俺だってそうだ。何で授業もゼミも無いのにこんなとこいなきゃなんねーのか。
理由は一つ。目の前にいる後輩がここを場所として指定したからだ。学部と学科、あとは一応所属している研究室も同じ、一つ下の後輩だった。名前を、レオナルド・ウォッチという。
どれと言われれば凡庸な顔立ちで、なおかつぐっしゃぐしゃの陰毛みたいな頭をしている。性格は穏やかかつものすごく人がいい。頭がおかしい、って思う程度には。
そんな感じだから、いつもどっちかっちゅーとにこにこしていることが多い。ふわふわっていうかにこにこっていうか、春みたいな奴だ。ただ、どういう訳かすこぶる運が悪い。この俺ですら思う。世界はどうやら、不平等だ。
「…もうしにたい」
「俺は葬式に出ねーからな」
そう言うと、レオは「ひどいですよ」と言って拗ねた顔をした。ひどいじゃねえよお前だよひどいことを言ってるのは、と思いながら「で」、と俺はもう一度同じことを繰り返した。マジでお前が死んだら、俺は墓参りにも行かねーぞ。
「何で死にたいんだ」
「いや、そこは本題じゃないです。死にたいわけないじゃないですか。ただの軽口です」
レオはさくっとやけに軽くそう言った。無駄怒りさせんじゃねえよと思いながら、「ソーデスカ」と俺は頼んだコーヒーを飲んだ。別段美味くも不味くも無い。普通だ。
レオはいつもの無表情…というか、何考えてるのかよくわかんねー顔をしながら、首を傾げている。凡庸な顔立ちの癖に、糸目は表情が読み難い。言うと怒るから言わんけど。
「怒りません?」
「何だその質問。怒るよ」
「怒るんですか?じゃあ言えませんよ」
「はあ?めんどくせーなわかったよじゃあ怒らねえよ」
俺がそう言って煙草をポケットから引っ張り出すと、「ここ禁煙ですよ」とレオはひそひそと声を潜めてそう言った。「いいよ」と俺は手をひらひらさせてその意見を跳ね除け、構わず火を点ける。注意されたら消せばいい、と勝手なことを思いながら「そんで」と続きを促した。
レオは煙にちょっと嫌そうな顔をしたものの、俺を止めることはしなかった。まあ、止められてもやめねえしな。
「俺、先週合コンに行ったんですけど」
「…………は?」
「や、だから先週合コンに行ったんです」
「ちょっと待て」
咥えていた煙草の火を消して灰皿に投げ入れる。全然喫ってなかったが、構わなかった。
かちん、という携帯灰皿が閉まる音はライターの蓋の音に似ている。
「オマエ今何つった?」
「ザップさんさっき怒らないって言ったじゃないすか」
落ち着きましょう、と言いながらレオは両掌をこちらに向けて、引き攣った笑みを向けた。
「ご、う、こ、ん?」
「ややややあのですね、別に他意はありません。ただの付き合いです付き合い。人が足りないって突然言われてそんで俺もちゃんと断ったんだけどその、どーしてもって言われて」
断れなかったんです、というレオの言葉を聞く前に、とりあえず俺は立ち上がった。レオが明らかに『うわあどうしよう』という表情になる。
「…さっき怒らないって…」言いましたよね、と言われる前に俺はそのまま壁際に寄り、レオの顔の横辺りにばしん、と足をついた。アレだ壁ドンだ。ただし手じゃなくて足。俺は立っているがレオは座ったまま眉を下げた。
「……オメーな。立場分かってんな?あ?」
「分かってますよ分かってます!ごめんなさい!」
平謝りという単語が相応しい。顔のすぐ前で、両手を合わせてレオは拝むように頭を下げている。顔は見えないが、恐らく『申し訳ない』という表情をしている。その辺は多分、信じていい。というか分かり易いのだ。
なぜレオがこんなに俺に謝っているのか。
合コンに参加するのは他人の自由だ。一々他人に許可をとる必要性は皆無だし、そんな面倒臭いことしてられねー。
ただし、それは自分がフリーだった場合に限る。
「…百歩譲って参加が断れなかったとしてもよ。オマエそれは俺に言うべきだな?」
「その通りですごめんなさいごめんなさい俺が悪いです」
そこまで言って、レオがやっと顔を上げる。ちなみに俺の足はまだこいつの顔の横の壁についたままだった。申し訳なさそうに眉を八の字にして、すみませんと続けたあと、少しだけなぜか嬉しそうに笑った。
「…何笑ってんだコラ。泣かすぞマジで」
「え?やー、こういう感じかーって思っただけです」
「は?」
ザップさんも、とレオはまた笑った。「こういう風に怒るのかーって思っただけ」そう言う声も何だか弾んでいるし、何なんだコイツ俺は今お前に怒ってるんだっつうの。何笑ってんだよアー顔もなんかにこにし始めたし、照れてるみたいにカオ赤くなってるし、何嬉しがってんだよコラ。
そこまで思ったが結局俺はそれ以上何も言えなくなった。そんな嬉しそうにされると流石に俺だって一応、まあ、そりゃ、可愛いなとは思う。
これがちょっと所謂小悪魔系とかいう謎分類の女だったりすると、あーなんか誤魔化されてるなーでもカワイイナー別にいっかーと思いはするのだが、相手は何しろこの素直としか言いようがない後輩だ。本音でしかない。
いい加減引き延ばしすぎだ。なぜ俺が怒っているのか、という理由について。
まるで論文の書き方みたいでうんざりするが、つまり、俺たちはただの先輩後輩ではない。じゃあ一体なんなのか?それは、
――――それは、
「…ちょっと止めて下さい。ここは学内なんですよ」
カウンターからの声に目を上げる。気が付いたレオがそちらに手を振ると、そいつもちょっと手を上げる。そして直後、俺の方をじろりと睨んだ。「…足、下ろして下さい。壁が汚れるでしょう」顔を顰めたそいつは俺の義弟だった。茶店のエプロンが変に似合っている。
俺がうるせーよと悪態を吐くと、フツーにそれはマナーとして駄目でしょう、と非常に正論染みたことを奴は吐かしたので、俺は不承不承足を下ろした。幸い壁は汚れてはいない。
カウンターからのこのことやってきた義弟は、いい加減ああいうの止めてくださいよ恥ずかしいでしょう、と冷たく言い放った。何で俺の行動でお前が恥ずかしくなるんだ。俺がそう言うと嫌そうに義弟は口を開いた。「僕だって嫌ですよ。でも仕方ないでしょう、身内なんですから」好きでこんなこと言ってる訳じゃないですよいい大人に、と一息で言う顔を俺は憎々しげに見つめる。年中反抗期だ、俺が昔そう言った時はそれはあなたでしょうに、とこの野郎はぬけぬけと言い放ったのだ。悪かったな。
「はいレオくん。ご注文のミートソーススパゲッティです。
テーブルにスパゲッティが一皿置かれた。わーいとレオはにこにこと笑ってありがとうございます、と律儀に店員である筈の義弟に礼を言った。言わなくていいって。こいつの仕事なんだから。そう思いながら俺は再度椅子を引いて席に着く。
「…あの、本当に今更ですけどどうしてレオくんはこんな人とお付き合いしてるんですか?」
「ちょっと待てコラ。どーいう意味だそれは」
そのままの意味ですよとやはり義弟は冷たく言うと、はいご注文のクラブハウスサンドですと御座なりにどん、とテーブルに置いた。テキトーである。ていうか、俺に対しての態度がレオと違い過ぎるのだ、このアホは。
ツェッド・オブライエンという義弟は、俺の親(というか師匠)がどっかから拾ってきた、物心ついてからの弟だった。ビミョウな年頃の頃に出来たせいもあって弟という認識が殆どない。それはあっちも同じようで、俺は兄さんだとか兄貴だとかそんな風に呼ばれたことは一切ない。あなたとか君とかそんな変な呼び方しかされた記憶しか、なかった。俺もあんまり家にいなかったし、それはそれでいい。変に兄弟ごっこなんかして気まずくなったり生暖かいホームドラマをするのも嫌だった。
そんな義弟は学内のこの茶店でバイトをしている。たまたま今日はコイツのシフトの日だったのだろう。タイミングわりー。今までのやりとりで理解できる通り、こいつと俺の仲は良いとは言い難かった。気が合わない。反りも合わない。趣味も合わない。恐ろしいくらい何もかも合わない。
共通項はレオと仲がいいという、それくらいだった。
「…魚類てめーな、お前ホントマジでふざけんなよレオに何度それ聞くんだよ。いーかこいつは俺が好きなの。だから付き合ってんの。…待て、お前やっぱりレオが好、」
「あ、それじゃお食事の後はそちらにカウンターありますんで。お戻しはセルフでお願いします」
義弟は全く俺の話を聞かずに、というか食い気味にさらっとそう言った。人の話を聞く聞かないっつーか、俺の存在をスルーしている。どうしようコイツマジで殴ろうかな。俺が拳を握りしめた時、レオがまあまあと言いながらスパゲッティを啜った。スパゲッティを食いながら仲裁すんなよ。結構なおざりなのは慣れているからだろう。
俺はべえと義弟に向かって舌を出すとサンドイッチを一個掴んで手の平を奴に向けた。「いーからもう帰れ帰れ。仕事しろ」「貴方に言われなくてもそうしますよ」はあ、と溜息を吐いて義弟はごゆっくりとそれだけ言ってすたすたとカウンターの方へ去って行った。むかつくくらいスマートな奴だった。
「…ザップさんは何でツェッドさんにあんな冷たいんすか?弟でしょ」
「弟だろーが何だろーが気が合わねえんだよ。あとお前あいつとあんま仲良くすんな」
「なんで」
怪訝な顔をするレオを見て少し言葉に詰まった。全然気づいてねーのこいつ。あのアホがお前を好きになったら厄介だからだっつーの。そう思ったがこの考えはいたく面倒だと俺は思って何でもない、と呟いてそっぽを向く。レオは首を傾げたが結局そーすか、と納得した様子でスパゲティを食べ始めた。
――つまり、俺とレオは付き合っている。友人とか先輩後輩とかそういう意味じゃなくて、だ。恋人だ。カレカノ(厳密に言えば違う)だ。高校からずっと付き合っているのだから、三年から四年になるのだろう。
「…んで?結局お前何で合コン行ったんだよ。つーか言えよ俺に」
「う。それはすみません。悪かったです」
「次やったらお前俺の言うこと何でも聞けよ」
「それはいつも聞いてるじゃないですか」
レオがむっとした顔でそう言った。そんなことないだろ。お前俺の言うこと全然聞かないじゃん。俺がそう言うとそんなことないです、とレオはもぐもぐとミートソースを口の端に付けながらそう言った。「ちゃんと一昨日だって迎え行ったじゃないですか」
そういえば一昨日、俺は雀荘でだらだら麻雀を打っていたのだが気が付いたらもう深夜だったのだった。仕方ないから帰ろうと思ったがなぜか原チャリの鍵がなかった。原チャリ自体は駐輪場に停めてあったが、なぜか俺はその日鍵を自宅に忘れていたのだった。アホかー、と自虐的に思いながら駅前でレオに電話をかけた。とっくに終電はなくなっていたのだ。
『ハイ?どーしたんすかザップさんこんな夜に』
『迎え来て』
『はあ?どこにいるんですか今』
駅名を告げると何で今そんなとこにいるんです、と呆れ声が聞こえた。しかし背後ではばたばたと動きをしている音がしているのだから、恐らくこいつはもうその時点で迎えに来てくれるつもりだったのだろう。
経緯を告げるとアホですねーマジで、と言いながらもレオはあと15分時間潰してて下さいよ、とだけ言ってマジでバイクでやってきてくれた。よー、と俺が手を上げるとマジもー何なんすか止めて下さいよ、とレオは苦り切った顔で言って、それでも俺にメットを投げてよこした。
『オマエ何してたの?』
『フツーに家で寝るとこでしたよ。父さんと母さんにばれないように家出るのマジ大変なんですから』
『わりーわりー。わかったキスしてやるから』
いりません、と顔を顰めるレオを後ろに移動させる。『あ、運転してくれるんすか』そう言うレオの頭をぽんと撫でると何すか、とそこでやっとレオは嬉しそうに、笑った。こういうのをいっこ年下の、しかも男に使うのは本意ではないがまあ、それは可愛かった。思っても絶対口にはしない。
『…なーお前さー。俺と住む気ねーの?』
『え』
信号で止まった時にそう聞くと、レオはそうお定まりの感嘆詞を口にした。少し間があってからえ、ともう一回それが聞こえて俺は笑いたくなる。何だっつーの。きっといつもみたいに絶句して顔を真っ赤にしてるに決まってる。見たかった。
『………アー…すんません』
案の定戻ってきたのはその言葉だ。いつもいつも同じことを言われると分かっていながら俺も聞くのだから、犬女に言わせれば性格が悪いらしい。いいよ、と俺はポケットから煙草を引っ張り出す。苦笑を交えてそう言えたのは、それなりに俺も大人になったということにしてほしい。何しろもうこの問答も何度目なのか分からないくらいしているのだ。
『…あ、あの、俺ちゃんとザップさん好きですよ』
レオは恐る恐ると言ったようにそう俺の後ろから言った。コイツがこんな風に好意をはっきり口にするのは珍しいから、俺は結構驚いた。驚いたけれど、それを態度に出すのも何だか悔しかったから、平静を装って返事をする。『あ?なんだ今更。知ってるよ』
『………ほんとですか?知ってます?』
知ってるっつうの、と思いながら後ろを振り向く。ここの信号はやけに長いからまだ赤のままだが、フツーは俺もこんなことしない。特に今、後ろにはレオが乗っている。
ただ知ってます、と言ったレオの言い方がなんかいつも聞いてるそれだったからだ。いつも聞いてる、というのはこんな風に外にいたりだとか、学内を一緒に歩いたりだとか、研究室でうげえと悲鳴を上げているときとか、そういう時のことじゃない。
ベッドの上だ。
袖が引かれる。ん、と思った時にはキスされていた。少し驚いて思わず俺は目を見開いてしまう。対してレオはぎゅうっと目を瞑ったままだった。いつも糸目だから変わんないように見えるけれど。一瞬だけ重なった唇が離れると、レオは前見て下さいよとぼそぼそ言って俺の背中にメットを被った頭を押し付けた。
誤魔化されている感はあるのだが。
『…知ってるって』
小さく呟いたそれはレオに聞こえたのかどうか。ただ腰を掴む手はいつもより強かった。
それがあったのが、先述通り一昨日だ。
「ほら。俺すげーいい後輩じゃねーすか。ヤベー後輩の鑑」
「アホかそうじゃねーよそういう意味じゃねーっつの。ただのパシリじゃねーか」
「俺をただのパシリだと断言しました?今」
違うっつの、と俺は顔を顰めたがレオはそーですかそーですか、と続けてもぐもぐとスパゲティを口に入れた。「いーっすよ。別に。便利ですよどーせ」「アホ違うっての拗ねるなよ。愛してる愛してる」「もう俺はそれに誤魔化されませんからね!」ぎゃあぎゃあと一しきり揉めたあと、俺はレオの口元にあるミートソースを指で拭ってやり、ともかくとして食事は終わった。
「おい魚類。コーヒー寄越せー」
「当店はコーヒーセルフサービスです。そちらのコーナーでどうぞ。現在ランチタイムなのでお代わりご自由です」
「怠慢だぞコラー」
澄ました声の義弟に文句を言いつつ立ち上がると、俺も行きますとレオも立ち上がった。そんな訳で二人でコーナーに向かった。よくよく考えてみると少し気恥ずかしかった。
「…次回のことは、とりあえずいい。そん時考える。合コンで―――いや、待て。お前それ誰の誘いだ。つか相手はどこだ」
「浮気じゃないんだからそんなに怒んないで下さいよ」
「オマエ俺がおんなじことしたらおんなじこと言うだろ」
「そりゃザップさんだったらします」
だってモテるじゃないですか、とレオは何とも言えない微妙な顔をしている。何だその顔、と俺がコーヒーを入れていると、俺の立場からすれば複雑なんですよとレオは顔を顰めて言う。そういうもんなのか。よくわかんねえ。
「誘ってくれたのはブラックです。人足りなくなっちゃったんだよ頼むよって」
「あー…あの、妹が可愛い」
「そーいうとこばっか覚えてますよね」
ブラック、それからホワイト(ファミリーネームは知らないが、どうも双子らしい)の兄妹はレオの友達だった。大学から仲良くなったらしい。特にブラックとは気が合うのかよく一緒にいるところを見かけることが多い。こんにちはとにこやかに挨拶してくる様は青少年然としていて、良家の坊ちゃんといった感じだ。対して妹の方は、何というか、少しばかり俺は警戒している―――一体何をと聞かれて説明するのはムカつくから言わないが、ともかくそういう対象だった。外見は結構可愛い。ツインテールに金髪、加えて緑の目とくればモテない筈はないのだが、どうしてかレオと一緒にいるところをよく見る。何でこんな奴が気に入ってんだか。俺が言うのもなんだがそう思う。
何にせよ俺たちが付き合っていることは知らないのだから、確かにレオを誘うのも分からなくもない。コイツ頼まれたら断れねーし。
「で、相手は英文の子たちですよ。合コンっていうか飲み会ですほぼ」
「ほー。楽しかったか?」
「嫌味だなあ。そりゃまあ楽しくないことはないです」
「ほー」
そうかそうか、と言いながらぐりぐりと頭を小突くと止めて下さいよと言いながらレオは笑った。何でそこで笑う。俺は今怒ってんだっつの。とりあえず話の先を促しつつ席に向かうと、レオは俺の後ろをとことこ歩きながらそれでですよと唐突に声を低くした。しにたいとか言っていたあのトーンだ。
席に着いてから俺は怪訝な顔をしてコーヒーを啜った。レオは俯き加減で口を開いた。一体何をそんな暗くなってるんだか。
「…そこにですね、」
「うん」
テーブルの上に乗っているレオの拳が震えていた。さっきまでにこにこしていた癖に、一体いつの間にこんなんなったんだこいつ。大丈夫なのかと思いながら俺は先を待った。レオがこんなに負の方向に感情を揺らすのは珍しいのだ。
ごくん、と俺がコーヒーを一口飲み込んだ直後レオは口を開いた。
「……ミシェーラがいたんです………!」
―――――ん?
俺は一瞬脳の動きを停止させ、コーヒーをテーブルに置く。ことん、という音がした。レオはと言えば拳を震わせ俯いたまま、俺どうしたらいいんでしょうかザップさん、と続けた。え?何が?何がどーすれば?
いや、むしろ俺が何をどーすれば?
「ミシェーラがそんな…合コンって………あっちはあらお兄ちゃんとか言いながら手をひらひらさせてきたんですけど俺もうマジ信じられなくて何でいるんだよとか問い詰めたかったのにあいつテーブルの端で俺声届かなくて」
「………、…レオ」
「そんでなんかもーあいつ可愛いじゃないですか?ミシェーラ超絶可愛いでしょ?だからほらすげー周りに男が寄るんですよ。俺の妹に触んなよとか言いたいけどミシェーラが眼力で来るなって言ってきてて俺近づけなくてでもあれ俺の妹なんですよ可愛い可愛い世界で一番可愛い」
「…………レオー?」
「しかも何を勘違いしたのか一人ミシェーラに言い寄ってたやつと途中で抜けたんですよ途中で!俺はずっとそっち気にしてたんですぐわかったんですけど出た瞬間俺も店を出てちょっと待てとミシェーラを止めたわけですね?にーちゃんが見てるぞと。そしたらもーめっちゃあいつ怒ってフツーに喧嘩になってそれで」
「…………えーと…レオ―、」
「お兄ちゃん煩い過保護!って言ってそいつとどっか行っちゃってそんで深夜家に帰ってきてまた俺と喧嘩して揉めて、そっから俺と口利いてくんなくなってミシェーラ…俺の生きる希望なのになんかもう俺生きててどうしたらいいのかなって…しかももう口利かずに一週間ですよ?父さんまでなんか俺が過保護だとか言い出すしもう」
「……………。」
兄が妹を心配して何が悪いんですか!と言ってがば、っとレオはやっと顔を上げる。必死だった。久々にこいつのこんな必死な顔を見た。
「俺どーしたらいいと思います!?ねえ!」
どーしたらって。
いや、どーしたらって………。
レオの必死な顔を見つめながら、今この場で言うべき一番相応しい言葉を言おうと、口を開いた。多分顔は呆れていたのだと思う。何しろ合コンのことなんぞその時の俺は一切頭の中に無かった。ふっ飛んでしまったのだ。
「あのさー、レオ、」
ただ、そこまで言ったところで俺の言葉は掻き消されてしまった。
「妹離れすればいいでしょ」
俺が言おうとしたそれと全く同じ言葉が聞こえた。ああ、と俺が目をやるとそこには勿論とも言うべきか、レオの妹ミシェーラ・ウォッチが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「み、」
ミシェーラ、とでもレオは言いたかったのだろう。しかしミシェーラちゃんはそれを許さずにつかつかとこちらに近寄ってくると、有無を言わさない様子でレオのことを見下ろした。「……私まだ怒ってるわよ」そう言って俺の方を向いてミシェーラちゃんはにっこりと笑う。
「どーもザップさん。お久しぶりです」
「どーも。先々月の飲み会以来」
「先々月?」
俺の言葉にレオが反応した。それを無視してミシェーラちゃんはここいいですかと俺とレオが座っているテーブル席の一つを指差す。断る理由は勿論何もなかったので、どーぞと俺は一応椅子を引いた。女子には優しく。
ありがとうございます、と笑うミシェーラちゃんの許にのこのことカウンターから魚類がやって来た。「はい、ご注文のアイスティーです」有難うございます、とこれまたにっこりと笑ってミシェーラちゃんは魚類に会釈した。どうも俺がレオの叫びを聞いている間にカウンターで注文していたらしい。魚類もぺこりとお辞儀をすると、一瞬だけレオの方を気の毒そうに見てまたカウンターに去って行った。
「せ、先々月?ちょっと待って下さい。そんなんありました?」
レオが慌てた様子で俺にそう訊ねてきたので、俺はあったよと簡単に言った。「研究会の発表打ち上げ。オマエちょーど風邪で寝込んでただろ」レオはああ、と合点した顔になったあとに何でお前が、とやっぱり慌てた様子で隣に座るミシェーラちゃんに聞いた。
「研究会の先生が偶々わたしの演習発表の教授だったの。打ち上げだけど一応発表内容も説明するって言うから行っただけ」
「待て。俺は聞いてない」
どうしてお兄ちゃんにわざわざ言う必要があるのよ、とミシェーラちゃんは呆れた様子でそう言うと、ねえザップさん、と俺に同意を求めた。途端にばっとレオは俺の方を鬼のような顔で睨むと、何で俺に教えてくれなかったんです、と非難染みたことを言ってきた。俺に非難される謂れは無い。ていうか、教える必要あるか?
「だってお前風邪で寝てたじゃん。回復したころ俺はもーそんなん忘れてたし。つかわざわざ言う事でもねーだろ」
「け、研究室って待てよ…そしたらまさかこないだのあいつは」
そういう言い方しないでよね、と顔を顰めてミシェーラちゃんはアイスティーを飲んだ。「あのね、この間の彼とは気が合ってもーちょっと静かなところで話そうってなったからあそこを出ただけで、あのあともフツーのお店に行っただけよ?」
「それが常套手段じゃんか。ていうか何で合コンに参加したんだよ」
「?そりゃ、かっこいー男性がいたら付き合いたいでしょう」
「ちょ、ちょっと待て!そういうのはお前にはまだ早い!」
あのねお兄ちゃん私もう20よ、と呆れた顔でミシェーラちゃんは言うと溜息を吐いた。
レオはねえちょっと今の聞きましたザップさんと俺の腕を掴んでぐらぐら揺らし始めた。お陰で視界がぶれて俺は呻きたくなった。「…聞いた聞いた…」「まだ早いでしょー絶対!まだ!20歳ですよ20歳!」「………。」視界の揺れがやっと収まる。レオは必死な顔でこちらを見上げていた。さっきから死にそうだ。
「と、ともかくそういう…なんというかチャラついた集まりに参加するのはやめなさい」
腕を掴んだままながら、レオはぼやっとした主張をミシェーラちゃんに伝える。澄ました顔の妹ちゃんは、アイスティーのストローをぐるぐる回して肩を竦めた。
「お兄ちゃんは参加してたじゃん」
「俺は、……えー…っと…」
そこでレオは初めて困った様に言葉を詰まらせたが(そもそもここまで困らなかったのがおかしい。レオの主張はどう考えても破綻している)、隣にいる俺のことをはっとしたように見上げた。何だと言うのか。俺は兄妹喧嘩に巻き込まれることが初めてでは無いにしろ、最終的に結果は見えているから口を挟まなかった。
レオはうん、と一人で頷いてミシェーラちゃんに向き直った。
「兄ちゃんはちゃんと恋人がいるからいいんだよ。そういう集まりに行ったとしても本気じゃないから」
レオはそうきっぱりと言うとどうだとでも言わんばかりに俺の腕を、少し引っ張った。
俺の頭は少しばかり、傾いだ。
「……………。」
「…………………。」
俺と妹ちゃんの間で静かな沈黙が起きた。あれ?とレオはきょとんとした様子で俺とミシェーラちゃんを見比べている。「…え?あれ?あ、あのー…ど、どーしました?」静まり返った空気のせいか、微妙に引き攣った顔でレオが俺の方を見上げている。俺は正面を向いていたが、何だか無性に煙草が喫いたくなった。
「…………………じゃ、言わせてもらうと」
ミシェーラちゃんは半眼で呆れた様子のままレオのことを睨みながら、言った。
「お兄ちゃんとザップさんは高校生の頃から付き合ってるけど。それで20歳はまだ早いって言える?」
ぐ、とレオが呻いたのが目に見えるようだった。
だってあれしか思いつかなかったんですよ、と悲鳴にも似たレオの声を背景に俺は駐輪場に向かって歩いている。「すみませんすみません、俺が悪かったです!」そう言いながらレオがぱたぱたと慌てた様子で俺のあとをついて来ていた。
「…オマエ俺との関係をあーいう風に利用するのか。そーかそーか」
「だからごめんなさいすみません!俺が悪かったです!すみません!」
「…べっつにー」
怒ってねーし、と俺が言うとほんとすみませんとレオは俺に手を合わせて頭を下げる。「その、そういうつもりは無いんですホントに。マジで」
実のところ俺はそんなに怒ってはいなかったのだが、レオはあのあとミシェーラちゃんに説教されたのが効いたのだろう。ただ一応仲直りは出来たようだ。しくしくと嘆いているレオを横に立ち上がると、ミシェーラちゃんは俺に向き直った。『愚兄ですけどよろしくお願いします。それじゃあまた』出来た妹だ。どこぞの魚類にも見習わせたい。
俺としては利用でも何でもいい。ただちゃんと他人にそうやって俺とのことを言えるんだな、と少し意外に思った。こいつはともかくこういうことを隠したがる。まあそりゃ世間体を取り繕うのは結構大事なことだが、たぶんあいつは男女で付き合っていたとしてもなんかこういう感じなんだろうな、と俺は思っている。自分が他人を好きであるということをあまりおおっぴらに言うタイプではないようだった。
対して俺は別に他人がどう思おうが何だろうがどーでもいいので、隠そうとしたことは無い。ただ流石にレオが両親に話したと聞いた時には焦った。え?それ、お前いーの?慌ててそう聞いたことは記憶にある。
――――通りでザップさんの話が多いと思った、って母さんが納得してましたよ。
レオはそうあっけらかんと言ってまた家においでって父さんが、と言って笑った。そんな簡単でいいのか。いいの?世界はそんなに優しかったのか。そう思って俺も師匠に話してみたが興味無さげにそうかと言われただけだった。もうマジで全然興味無い。寧ろ魚類の方が固まってしまってそっちの方が厄介だった。何でどうしてちょっと待って下さい、と動揺する魚類をやり過ごして登校した。
「…ミシェーラが」
「あ?」
俯いているレオにメットを渡すとレオはのろのろと受け取った。「…お兄ちゃんはザップさんみたいに大事にしてくれるひとが見つかったからいいけど、私はいつ見つかるかわかんないでしょって」だから合コンだって参加したいし飲み会だって出たいの、って言うんですとレオはメットを持ったまま、困った様に言って少し笑った。
「…そう言われたらなんかどうも、反論しにくくなりました」
「……ほー」
妹ちゃんから俺はそう見られているのか。それは結構意外だ。別段そんな風にしているつもりは、正直無い。レオに気なんか使ったこともないし、俺は好き勝手生きているから、こいつのことをそんなに大事にしている意識は無かった。
―――そう見えるのか。
それって結構、ヤバイような気もする。普通にしている筈なのに。傍目からはそう見えるって、なんか、やばい。どういう意味のヤバイのかと言われると答えにくいが、つまり俺はもうそれが普通になっているってことなんだろう。じゃあ、万が一。
――万が一レオがいなくなった時どうなるのか想像もつかない。
「…すみません」
はたとレオの方を見ると、レオはしゅんとした表情でメットで口元を隠していた。「…マジで俺、そんなつもりないですから」まださっきのことを引き摺っているのだ。まあ俺も少し苛め過ぎたかもしれない。
俺は肩を竦めてほら乗れよ、と一言言った。レオが恐る恐るといったように顔を上げる。
「…もう怒ってないんですか?」
「最初から怒ってねーって。さっさと後ろ乗れよ」
靴欲しいつってたろ、と言う俺にハイ、とレオは慌てて頷いてメットを被った。元々今日は外で飯を食ったあとに靴屋に行く予定だったのだ。キーを突っ込んでエンジンをかける。途端に後ろから抱き付かれて思わずわっと声を上げてしまった。
「な、お、オイ!?どーした!びっくりすんだろ!」
「………………やー…いやなんかもー…」
俺愛されてますねえ、とレオは言って笑った。何を今更のたまうかこのガキ。アホか、と俺はプイとレオから目を逸らして正面を向いた。アー何だこの青春してる感じ。嫌いなノリだ。もっとこー…何というか…いや、まあいい。もーいいか。思うにコイツの感情の振れ幅は結構俺を基点にしている。
―――そりゃ愛してるから仕方ない。
信号にて。
「アーでもマジでミシェーラがなー。朝帰りとかするようになったらマジでどーしたらいいんでしょう俺」
「お前もしてんだろ。お前はよくて妹ちゃんは駄目っつーのはおかしいだろ」
「俺は男だけどミシェーラは女の子ですよ。危ないでしょ。おちおち家も出れないですよ」
「…………、…レオ、てめーもしかして」
はい?とレオは俺の方にちょっと顔を近付ける。声が近くなったから分かっただけで俺は信号を睨んでいた。もしかして。いや、もしかしてというよりは確信に近い思いで口を開いた。
「もしかして、ミシェーラちゃんが心配で俺と一緒に暮らせねーのか」
「あ、そうです」
「……………………………………………。」
やっぱお前さっさと妹離れしろよ、と怒鳴ってスクーターを走らせ始める俺に、ええー?とレオの不思議そうな声が後ろから重なった。
終