ベイクドケーキ

2018/08/03

「カツ丼とサンドイッチと天婦羅饂飩一つずつ」
「和食縛り?」
いやサンドイッチは和食じゃねえだろ、と真顔で言った先輩のそれにかぶさるように、サンドイッチは向こうの棚で、と不愛想な声でカウンターの奥から声が聞こえた。


知らない白い天井を見ながら眠りにつくのも慣れてきた。結構俺って順応性高いんだ、と思ったのは恐らく昨日のこと、レオナルド・ウォッチが入院して三日が過ぎようとしていた。普段だったら長くても一日半くらいの入院で済むのだが、今回はそこそこ長引いた。何針縫ったのか聞いていないが、首のカラーが外せるようになったのは僥倖だった。幾ら何でも早すぎないかと上司は不思議がっていたが、レオからすればあの襲撃の後でレオ以外誰も入院していないのが不思議だった。ていうか怖い。
秘密結社―――名前はライブラという―――が、襲撃されたのはつい先日のことだった。既に事なきを得たものの、こう易々と侵入されるってどういうことなんだと嘆いていたスティーブン・A・スターフェイズの隣で、クラウス・V・ラインヘルツは一度目と同様に鍵屋に連絡を取っていた。防犯システムを再度見直さなくてはいけないのは、誰が見ても明らかだったからだ。ちなみにこの光景をレオは見ていない。既にその時意識がなかった。
天井にて洗濯物のようにぶら下がっていたレオの先輩は、事が片付く前にはきっちりと皆と同様意識を取り戻し、襲撃犯を追っていった。押っ取り刀で襲撃犯をボコボコにしたライブラのメンバーは、恐ろしいことにレオ以外誰も入院しなかった。どうなってんすか、とギルベルト・F・アルトシュタインの手で車に運ばれ、更に病院まで運ばれたレオはそのまま入院と相成った。眼が覚めたら隣でソニックが寝ていたので少しだけ驚いた。そして、レオはよく知らないが、今回の事件に一枚どころか百枚程噛んでいたのが、このレオの小さな友人だったらしい。確かに意識を失う前に見たのはこの音速猿、ソニックが事務所から跳ねてどこかに行く姿だった。
そんなこんながあって、現在レオは入院している。久々に眠る知らないベッドはレオの家のベッドよりも柔らかく、少し複雑な気持ちになった。入院しているから当然なのだが、朝は朝ごはんが、昼になったらちゃんと昼ごはんが来るし、夜になったら夕食もやってくる。夜は消灯時間になったら眠る。高々この三日間だけでも健康になった気がするのだから―――、これは流石に安い気がする、とレオは苦笑しながら本日を迎えた。
そして昼前になって突然やってきたのが件の先輩である。
『暇なんだよなー』
世界が大人しくてよ、と挨拶もなしにやってきたザップはレオのベッドの横にある椅子に乱雑に座ると、暇じゃね?と同じようなことを言って首を傾げた。『……ども。暇なんすか』『暇なんだっつってんだろ。おめえの耳は飾りか?あ?』『………。』明らかに向かいのベッドの住人が怯えた顔でカーテンを閉めたので、レオは読んでいた雑誌を閉じてベッドサイドに置いた。俺負債者かなんかだと思われてないといいな。そう思った。
昼前ということはつまりすぐに昼になるということで、現在レオとザップは病院内の食堂にやって来ている。ザップが腹減ったと言い出したからだ。
「おめーそんなんで足りんの?」
「一応病人なんすよ俺」
そう言って狐饂飩を盆にのせているレオを他所に、ザップは既にカツ丼を完食していた。早くね、と顔を引き攣らせているレオは漸く箸を手にしたところである。幾ら何でも早すぎる。流石飢餓状態でフライドチキンを一気に平らげただけのことはある。
「おめーいつ退院すんの?」
「あと四日くらいって言われてます。頭やっちゃったから一応詳しく検査した方がいいって先生が」
「ふーん」
その返事を聞いて、レオは饂飩を啜りながら正面の先輩をちらりと見る。ふう、と息を吐いて天婦羅の海老の尻尾を睨んでいるザップはどう見てもこちらに興味がなさそうだった。―――が、そうでもないとレオには分かっている。非常に分かりにくいが、今の『ふーん』は興味がない訳ではなく、心配しているのを隠している『ふーん』なのだ。ぶっちゃけレオにもどう違うのか説明は出来ない。が、今のはどうやらそれだ、と当たりがついた。
「……、そっちはどーすか。事務所は」
「あー、鍵屋のおっさんがうるせーことうるせーこと。ありゃー幾らか吹っ掛けられてるな」
吹っ掛けるって言い方は酷いでしょう、とレオは苦笑しつつ油揚げを齧った。いつ噛んでも不思議な触感がする、とトウフなのか何なのか分からない感覚に目を瞑る。ヘルサレムズ・ロットにも増えてきたとは言え、日本発の食べ物はよく分からないものが多い気がした。異界産に比べれば勿論理解はし易いが。
「?何してんだオメー。要らねえなら蒲鉾寄越せよ」
「へ?」
はっと目を開けるとザップがレオの椀から蒲鉾をさっさと奪っているところだった。「あっちょ…っ、お、俺の蒲鉾」「病み上がりにはきついから辞めとけって」「まだ病んでますよ!いや怪我ですけど!」顔を顰めてそう言ったレオに、んじゃ余計いいだろとザップは笑ってぱくんと蒲鉾を食べてしまった。
「ああ〜〜…俺の蒲鉾が……」
情けない声で言ったレオには一瞥もくれず、ザップはむしゃむしゃと食事を続けていた。いつもこうだ、とレオは口を尖らせて残りの饂飩をのろのろと啜った。狐饂飩を食うのも久々な気がした。
違うな、ともくもくと油揚げの残りを齧りながらふと気が付く。久々なのは、目の前にいるこの男とこうやって向かい合い、のんびりした状況で食事をすることだ。そういえばここずっと忙しかったし、ザップはザップで入院したり修羅場っていたり、レオはレオでバイトだのなんだので忙しくしていた。不幸中の幸いなのか、こうして食事ができているのも怪我の功名かもしれない。大体、ザップがこうやって見舞いに来るのだって今回は今日が初めてだった。
「……あー美味かった。んじゃ俺帰るわ」
「へっ」
レオが丁度食事を終えた時、ザップも最後の海老天を齧り終わったところだった。病院にしちゃーここの飯うめーよな、と笑って立ち上がった先輩をまじまじと見上げて、レオはあのう、と言いながら小さく挙手する。
「なんだよ」
「…もしかしなくても……ザップさんがここに来たのは俺の見舞いではなく……」
「あ?腹減ったからだよ」
暇だったしよ、と何度目かも知らずそれを言われたので、レオは思わずがくりと肩を落とした。別に期待してたわけじゃないけどこうもはっきり言われてしまうと流石に悲しくなる。何が悲しいのかと言われれば、自分の脳がザップが見舞いに来るような先輩だ、と判断していたことだ。自分の食費を浮かせるために、レオの護衛とピザの強奪を同時に行っていただけのことはある。全然褒められた話ではない。
「はあ……いや仕方ないっす。それこそがザップさんです。クズの中のクズです」
「オイテメー褒めてるフリして貶してんじゃねえよ。殴るぞ」
そう言ったザップは手をいつものように振り上げたあと、レオの包帯を見て少し眉根を顰めた。流石に病人の頭を殴るのは抵抗があるらしい。すぐさま先輩は手の動きを切り替えて、レオの頬をぐいぐいと引っ張ってきたのであたたた、とレオは悲鳴を上げた。
「痛い痛い痛い!やめて!ここ病院!病院なの!」
「うっせーな。病院なんじゃ静かにしろや」
そう言ったザップがやっと手を離したので、レオはひっでーなもう、と膨れっ面になりながらも盆を持って立ち上がった。そのまま二人で連れ立って盆と皿と椀を片付けて食堂の出口に向かう。昼時だからか少し混雑していたが、ザップはレオのことなんぞ目もくれずすたすたと先に歩いて行ってしまうので、ああ、とレオは再び嘆きたくなった。一応こっちは怪我人だっつーのに。いや一応も何も怪我人だって、とセルフツッコミを入れながらザップの後を追った。ぷは、と人混みを抜けた瞬間にザップらしき背中にぶつかる。「うぐ」「うわ。何してんだよ」そう言ってザップはそのままレオの肩を掴むと歩き出した。「ちょちょちょ待って待って待って!歩きにくい!」「オメーホントにうっせーな。マジで怪我人かよ」「こ、この包帯が目に入らないんですか!?」それこないだ見たジダイゲキじゃん、とザップは笑って言った。そのまま人混みを抜けるまで、ザップはレオの肩を掴んだままだった。歩きにくいことこの上ない。
「やっぱ俺ゲームしてく」
「へ」
玄関先でそれじゃあ、と挨拶しようとしていたレオに、ザップはおもむろにそう言った。「ゲーム?」「そーだよ。俺のお前に預けたまんまじゃん」「そーですけど。俺の家ですよ」あれは、と言ったレオに、んなことねーよ、とザップはどうでもよさそうに言うとすたすたとレオの病室の方に歩いて行く。「んなことあるでしょ?ないですよ」そう言って慌ててレオはそのあとをついていった。早歩きになると隣に並ぶ。
「だって俺先週末ザップさんが泊まりに来た時に充電しとけよって言われたから逆にムカついてしてねえっすもん。そのまま俺の枕の横に置いたままですよ」
「あっテメーだから電源点かなかったんだな。充電しとけっつったじゃねーか」
「てゆか大体アレ俺のハードですからね。俺が厚意で貸して差し上げてるだけなんですからね!」
「いやもうあれは俺のだ。オメーのモンは俺のモンだ」
いつものように自分勝手なことを言ったザップと一緒にエレベーターに乗り込んだ。「俺のですよ」「だから、お前のモンは俺のモンなんだよ」「どーいう理屈なんですか?」そう言ったと同時くらいにエレベーターが途中階に到着する。扉がのろのろと開き、廊下から異界人達が姿を見せた。俺痩せ過ぎちゃってさあ、マジで、と言いながらどう見てもレオの五倍はあるかという横幅の男達が乗り込んでくる。あれで痩せ過ぎなら標準はいったい、とレオが唖然としているうちに、勿論エレベーターはいっぱいになった。ブザーが鳴る以前にこのエレベーター墜落しないよね、とレオはそれが心配になった。なんだか少し軋んだ音が聞こえてきたような気がしたのだ。しかし幸いブザーも鳴らず、墜落することもなく、狭い箱は扉を閉じた。
すぐ横にいたザップは面倒臭そうな顔をしていたが、無言でレオのことをぐいと引っ張ってきたので、レオは慌ててそちらに寄った。引っ張ると言うよりは抱き寄せられる格好に近い。「…………。」「…………。」「…………。」「…………。」すぐ目の前では異界人の男達が朗らかに会話をしている。少し沈黙が起きた後、漸くレオの無言の視線と訴えに気が付いたらしく、ザップがレオの方を見下ろした。
「なんだよオイ。しゃーねえだろせめーんだから」
「何も言ってねーじゃねえすか」
「言いてえって面してんだよ」
「してないですよ」
そう顔を顰めた後にエレベーターが次の階に到達した。流石に限界だったのか、それとも元々このエレベーターが古いのか、ポーンという音と共にぐらりと床が思っていたより揺れた。「わっ」そう言ったレオとは裏腹に、ザップはレオを庇うように更に自分の方に引っ張ってくれた。当然のように目の前にいる二名の異界人もぐらぐらと揺れたからだ。サッカーボールに似ている気がしないでもない、とレオは後々思った。
「……、ど、」
どうも、と言いながら手を突っ張って先輩から離れる。「おー」何でもないことのようにそう言ったザップは、扉の開閉ボタンを押すために一歩進んでボタンを押した。「………ども」「?さっき聞いたぞ」きょとんとしながら戻ってきたザップの横腹を軽く殴ったので、何だよと不思議そうに先輩は言った。


チーズケーキですよ、と言ったレオにその時の先輩は嘘だろ、と言ったのだ。『チーズケーキって焼いてあんじゃん。これ焼いてねえぞ』『や、だからこれはレアチーズケーキなんすよ。ベイクドじゃなくて』『あ?』マリオとルイージみてーなもんか、と言われて少し唸ってしまった。言い得て妙にも聞こえる。
『俺もよくは知んねーすけど、こっちはきっと焼かないんでしょ。レアって言うだけに』
『ふーん。ああまあそーいや』
チーズの味はすんな、と言ってひょいとザップはレオの方におもむろにレアチーズケーキが刺さったフォークを突き出してきた。反射的にレオはそれを見てぱくんと口に入れる。もぐもぐとそれを噛みながらはっとした。今俺何した?てゆかこの人もなんだいきなり。そう思って怪訝な顔をして正面にいる先輩を見る。
ザップは窓の外を見ていた。場所はどこぞの喫茶店で、確か張り込み中に嫌々二人で入った場所だった。対象を見守る場所で都合がいいのがそこだったのだ。二人で入るのは少しばかり可愛らしいところに見えたし、そもそもレオもザップも余り喫茶店には入らない。ダイナーやハンバーガー・ショップにはしょっちゅう入っていたが、こういう店には滅多に来なかった。
何か頼まないと不自然だということになり、レオは本日のケーキを頼み、ザップは眼を眇めるようにしてメニュー表を見た後、クラブハウス・サンドイッチを一つ頼んだ。領収書切っとけよと言われたレオははいはいと言いながらメニューを畳む。『てゆか何でケーキなんだよ』『いやずっと食ってねーなって思って』そう言ったレオに、はー、とザップは呆れたように言って足を組んだ。そこで呆れられる理由がよく分からない、とレオは思ったが特に何も言わなかった。
『ザップさん甘いモン好きじゃないんすか』
『好きじゃねえわけじゃねーけど。わざわざ頼まねえよ』
『こないだ事務所にあった俺のエクレアまで食った人の台詞とは思えないですね』
『エクレアっつーより』
お前のだったからなあ、とザップは悪の化身のように笑ったので、レオは膨れた。いつも俺のもんばっかり、と言い返そうとしたところで丁度本日のケーキであるレアチーズケーキが運ばれてきた。そこでマリオだのルイージだのという話をしている間に、ザップがさっさとフォークを手にしてレオの頼んだ筈のケーキを食べたのだ。エクレアと同じだ、とレオは思った。いつもレオのものばかり奪おうとする。
窓の外を伺っていたザップはフォークを引っ込めると、今度は自分でケーキを食べた。『…焼いてあるやつの方が甘くなくね?』なあ、と言われてぼーっとしていたレオは、はっとしてあ、と小さく声を上げた。
『?』
『あ、ええと。…そ、そっすね』
こっちのがソースかかってるし、と言って慌てて自分が頼んだ紅茶に入ったスプーンでぐるぐると紅茶を掻き回した。特に意味はない。だよなあ、という眠そうな先輩の声がした。


それがどうだったのか、と言われると上手く返事は出来なかった。だた、それがきっかけなのは確かだ。その時から、何となく先輩の視線を気にすることが増えた。視線だけではない。所作だとか、言い方とか、手付きだとか、色々だ。あとでな、と言われた後に軽く叩かれる肩だとか、任務が終わった後に手を振ってる時の顔だとか、ぐでんぐでんに酔っぱらった時に絡んでくる手付きだとか、ともかく色々なところにそれは起きる。うまく説明できない何かが起きる。レオ、と名前を呼ぶ時ですらそうだ。むず痒くなるような、心臓が跳ねるような、はたまた空に落ちていくような感覚がする。そのくらい、ザップがレオに向けてくる態度や声や手付きや触り方ははっきりしていた。
あんなに分かり易いそれに、レオ自身が気が付かないわけがない。
いつもは素直じゃない癖に、そういうところばっかり素直だ、とレオは思う。ただ、信じられないことに恐らく本人はそれに気が付いていない。全て無意識の中でやっていることらしい、とレオはある日察して絶望した。嘘だろ。じゃあ俺どうしようもないじゃん。動けないじゃん。いろんな意味で、と思いながら横で眠ってるザップを見て、レオは息を吐いた。寝よう、と小さく呟いて床に布団を敷き、レオはそこで寝た。
だから―――だからきっとこれだって無意識なのだろう、とレオはのろのろと廊下を歩きながら思う。ザップはエレベーターから下りる直前くらいからレオの腕を掴むと廊下に出た。そのままレオの病室に歩いて行く。掴まれた右手首が矢鱈と熱く感じてレオはひどく困った。機嫌がよさそうなこの男を見るのは何度も何度もあったが、今機嫌がいい理由は―――恐らくレオとこれからゲームが出来るからだ。その理由を察してレオは物凄く困った。こっちが顔を赤くしないようにするのが難しいくらいの、機嫌のよさだった。
「あ。ほれ見ろ」
あるだろ、と言ってザップがひょいと取り出したゲーム機は、なぜかベッドサイドにある棚の引き出しに入っていた。「えっ。なんで?」そう言ってベッドに上ったレオを他所に、ザップはすとんとベッドに座るとほれ、と言いながらもう一台をぐいと突き付けてきた。そのもう一台は元々レオが家から持ってきてほしいと頼んでいたものだったので、あって不思議はない。ただ、ザップが手にしているそれは、玄関で言った通り家に置いてきてあったはずだ。
「な…なんで?てゆか充電…」
「もーしてあるって。ほれやるぞ」
「なん……、……あっ」
もしかして、と言ったレオになんだよとザップは言いながらボタンを連打している。スタート画面は飛ばせないですよとレオは顔を顰めて言った後、じっとザップを見つめた。当然ザップはなんだよ、と再び言う。しかしその声は誰がどう聞いてもおかしそうだった。
「…ザップさん、」
俺の家勝手に入ってゲーム機持ってきたでしょ、と言う筈だった。というか、それしか今この時点で言うことはない。なのに。

ザップが丁度こっちを向いた。その灰色の目とレオの目が合う。ばちん、と音がするわけでもなく、稲妻が走ったわけでもなく、身体に電流が流れたわけでもない。なのに銀色の髪の隙間から見えるその眼を見た瞬間だった。
エレベーターで抱き寄せられたことを思い出す。

「俺のこと好きですよね?」

そう言った。そう、はっきりときっぱりと言ったレオの顔は恐らく物凄く赤かったし、少し身を乗り出した身体の中にある心臓だって、物凄く早鐘を打ち始める。意識より先に身体が反応するなんてことあるわけないと思ってたのに、と泣きたくなった。

「…………………、」
ザップは唖然とした顔でこっちを見ていた。さっきまでボタンを押していた指は固まっているし、組もうとしていたらしい足は変な位置で止まっている。「…………、な、」何言ってんだ、と言われる前にレオの方が先に身を乗り出した。
「俺は、」
「…………、」
うっという顔をされると少しだけ傷付いた。その表情の意味はよく分からなかった。「……あの、…まあ、何つーか。…ザップさんのこと、」嫌いじゃありませんと言った瞬間だった。ザップが足を下ろした。
「待て」
「へ?」
低い声に顔を上げる。「待てよ。何だソレオイ」「は?……え、い、いやだってそーですよね?俺のことどー見ても、」好きでしょと言ったレオに、ちげーよバカとザップは怒ったように言った。というか怒っていた。
「そこじゃねえよ。何だよ嫌いじゃねえって。お前バカか?そこは俺も好きですっつーとこじゃねえか」
「は?」
ぽかんとしてそう言ったレオに、ザップはぶちんと乱暴にゲームの電源を切るとぽいとベッドに置いた。身を乗り出していたレオは少し仰け反ると、掛け布団を掴んでザップに困惑した顔を向ける。ザップはベッドに横向きに座っていたが、そのままベッドに手を突いてじろりとレオの方に顔を寄せてきた。
「どー考えてもそーだろ。オラ言えよ。言ったら付き合ってやるからよ」
「は?いや待って下さいよ。それはこっちの台詞でしょ。ザップさんが俺のこと好きなんだから俺が付き合ってあげる立場じゃないですか」
「はっ。オメーごときが何言ってんだ。百年はえーよ」
明らかに馬鹿にしたように言われたので、勿論レオもむっとした。その返答は先輩はレオを好きだと言っていることの裏付けに他ならなかったが、それよりも言い返すことの方が大事だ。「その俺ごときを好きな人に言われたくありません」「ああ?それとこれとは話が別だろーが。バカ。バーカ」「バカっつー方がバカです」「殴るぞ」べえ、とレオは舌を出すことによって返事をした。
「…おし殴る」
そう言ってぎゅっとザップが手を握り締めたのが目に映ったが、レオは高を括っていた。さっき殴らなかったし今回も殴らないだろう。てゆか俺一応も何も入院する程度には酷い怪我人だし、と思っていた時だった。握られていた手がこちらに向けられたあと、ぱっと開かれたのが見える。あ、やっぱりと思いながらも少し身構えた。別に殴られなくても頬を抓られるのは痛い。
頬に伸ばされた手を避けようとした時だった。がし、と思い切り顔が掴まれた。「わっ!?」声を上げた後だった。視界に映っていた筈の天井が、病室が消える。代わりにむぐ、という変な声がした。
自分の声だと気が付いたのはずっと後のことだったと思う。
「……、……ん…!?」
口が塞がれていると分かるまで、そんなに時間は要らなかった。というかすぐに分かった。「ん!?んー!!」じたばたともがいて手を振り回したせいか、面倒臭そうにザップがレオの後頭部を押さえた。「んぐ、」それと同時に無理矢理捩じ込まれた舌に口内を弄繰り回される。わ、わ、と思っている間に視界も何もかもぐるぐると回っている感覚に陥ってきた。酔っている時と似ている気もするし、ジェットコースターに連続で乗った時のようにも思える。
「……、……ん、」
小さく声がしたが、それは自分ではなく先輩の声だった。息を吐いたレオとは裏腹に、ザップは仏頂面でこっちを睨んでいた。けれど別に怒っている様子には見えない。色々と納得し難いというのがしっくりくる顔だった。ただ、レオがそう思えたのは一連の出来事が終わってからで、その時はそんなことに気が付く余裕は全くなかった。
「…にゃ、…なにゃ、…にゃぐ、なぐるって、」
言った癖に、と息も絶え絶えで言ったレオを見て、ザップはちらりと後ろを向いた。そこでレオもはっとする。ここは別段個人病棟でも一人部屋でもないのだ。大部屋――六人が一緒くたになっている部屋である。当然、向かいにいる入院患者が唖然とした顔でこっちを見ていた。巨大な目がぎょろぎょろとレオとザップを映している。
ザップはふん、と鼻を鳴らして、しかしレオからすれば信じがたいことににやりと笑った。どう見ても悪人面だった。
「……見てんじゃねえよ。金取るぞ」
そういたく分かり易いことを言ったザップは、カーテンを乱暴に引いた。視界が白一色なり、ぼーっとしていたレオは慌てて覚醒する。「だ、ば、バカですか!?あんたはいーけど俺はまだ入院しなきゃで、」「そこかよ」おかしそうに笑ったザップのそれに、はっとした。あ、なんかよくわかんないうちにキスされてる。てゆか好きだとかそーいう話もぐちゃぐちゃになってるままだけどナニコレ。混乱している間にも、ほれ、と言いながらザップに顎をぐいと押さえられた。
「うえ?にゃ、にゃんれすか?」
「何ってお前言ったじゃん」
そう言ったザップはなぜかさっきとは売って変わって機嫌がよさそうだった。「お、俺が?」「オウ」言ったよな、と言ったザップの手がさらりとレオお髪を撫でた。それにすらなんだか身体が総毛立つような、ざわざわするような、変な感覚に支配される。ぞくぞくした。
眼が合った瞬間、再び心臓がどきりと音を立てる。

「……お前の好きなザップさんは、」

お前のことが好きなんだってよ、と言われた後にベッドが軋んだ音を立てる。銀色の髪の隙間から見えた天井は、いつもの白い色だった。


退院してから最初に食べたものは、どうしてかチーズケーキだった。レアではない。ベイクド・チーズケーキだ。どうかなあ、と不安そうに首を傾げたK.K.に、レオは美味しいですけどときょとんとして答えた。
「ホントに?いーのよレオっち…!不味かったら不味いってきっぱり言ってくれて…!!」
そう言いつつも眉間に皺を寄せながら、泣きそうな顔でそっぽを向く彼女に、そんなことないですってと笑ってレオは言った。「美味いですって。全然旦那さんもお子さんも喜ぶと思いますけど」「ホントに〜?」夫と子供にチーズケーキを焼いてみたいが、今までやったことがないから自信がない、と試食を作ってレオに味見を頼んだ彼女のやり方は、レオからすればとても好ましいと思う。こーいうとここの人かわいーよな、と口にしたら怒られそうなことを思うと、美味しいですってとレオは繰り返した。ホントかなあ、とK.K.は言いながらじっと皿の上のベイクド・チーズケーキを睨んだ。
どうも疑り深い。
「前に何かあったんですか?全然うめーですって」
「中まで火、通すの結構難しいしさー。それにスティーブン大先生は不味くはないけど特別美味くもないってさっき言ってたし」
まあその後蹴飛ばしたけどさあ、と言って溜息を吐いた彼女に、仲良いよねとレオは苦笑した。いい大人なのに子供みたいなやり取りをしているのは、仲がいい証拠とも思えた。
そしてちょうどその時だった。ばたん、という事務所のドアが開く音がしたので、二人で自然に顔を上げる。「ちーっす。あれ?」姐さん、とびっくりしたような顔でザップがこっちに歩いてきた。
「どしたんすか。珍しい」
「あたしがいちゃー悪いってーの〜?」
「………なんだどーした。機嫌悪いじゃねえか」
そう小声で言いながらレオの座るソファの背凭れに腕を置いたザップに、聞こえてるわよとK.K.は言った。聞こえるように言ったんすよ、とザップは口を尖らせて言うと、レオがフォークを持つ手ごとひょいと自分の方に引き寄せた。「わ」小さくそう言ったが、無意味に等しい。そのまま先輩はレオの食べかけのチーズケーキを食べてしまった。
「……あーやっぱ俺こっちのが好きだな。大して甘くねえし」
「砂糖そんなに入れなかったしね」
そう肩を竦めて言ったK.K.に、姐さん作ったんすかとザップは驚いたように言った。「そーよ」「マジで?すげーっすね」売ってるやつみてー、とザップが笑って言った直後、レオもそうだったがK.K.はびっくりした顔になった。ザップは今度は戸惑った顔をした。
「えっ。な、なんですか」
「……アンタも素直に人褒めることあんのねー」
「あ、俺もそう思いました。俺も」
「オイてめえレオ」
姐さんもどーいう意味すかと顔を顰めたザップを見て、ありがと、とK.K.は言って立ち上がった。「…じゃ、次本番だわ。あー緊張する」「大丈夫ですよ」そう言ったレオに、レオっちもありがと、とK.K.は笑って手を振ると、そのまま事務所を後にした。お疲れっすと挨拶したザップは、複雑そうな顔をしつつもレオの横にすとんと着席する。
「人が折角うめーって言ったのによ」
「まーまーいいじゃないすか。これも日ごろの行いですよ」
そう言って残っていたケーキをもう一回フォークで切り分けたレオは、ぱくんと口に入れた。懐かしい味がする。たまに実家で妹も作っていたな、とふと思い出した。「寄越せよ」「さっき食ったじゃないすか」「さっきはさっきだろ」そう言われたので、仕方なくレオははいどーぞ、と言ってぐいとフォークに刺さったチーズケーキを差し出した。
ちょっと間が起きる。
「…起こしてくれてよかったんですけどね」
もぐもぐとチーズケーキを頬張っている先輩の横で、レオはそう小さく呟いた。フォークを握ったレオの手は、再びさっきのように先輩の右手に掴まれている。そっちを見るのは少し気恥ずかしかったので、レオはぼんやりと正面を向いていた。
「何が」
「………病院っすよ。あの日が初めてじゃないんでしょ」
来てくれたの、と言いながらそっと視線を横にやると、ザップは嫌そうな顔でレオから目を逸らした。「…性格わりーことすんなや」「ザップさんに一番言われたくないです」そうレオは口を尖らせる。ゲーム機があの場に置いてあったということは、一回は病院に来ているということになる。まるであの日初めて来たようなことを言っていたし素振りもそうだったザップだったが、それは嘘だ。この男はレオが目覚める前からあの場に何度か足を運んでいたらしい。ホント素直じゃない、と自分を棚上げしてそうレオは思った。
はあ、とザップは小さく溜息を吐いてぱっとレオの手を離した。「…だったらどーした」「何でそこで怒るんです」そう苦笑いしながら言って、レオは隣を見る。ザップは怠そうな顔で正面を向いていたが、すぐにポケットから煙草を取り出した。そのまま口に咥える。
「…言っとくけど俺別におめーが好きだとか言ってねえからな」
「はあ。そうですか?」
俺はザップさんが、と言ってチーズケーキを口に入れた。少しだけ間があったあとに、レオはフォークを口から抜く。
「…………………。」
無言で横を見ると、ザップは明らかにこっちを気にした様子で黙っていた。眼は僅か泳がせつつ、意識をこっちに向けているのがありありと分かる。それを見て思わずレオは噴き出してしまった。おい、とザップが怒ったようにそう言ってレオの頬に手を伸ばしてきたが、レオはそれを避け、ぱしんと自分の右手でザップのそれを受け止めた。ザップがちょっとだけ目を見開く。
息を吸う。

「……好きですよ。少なくとも」

レア・チーズケーキよりは、と笑って言ったレオを見て、ザップは変な顔をした。「……比較対象がソレかよ」「あ、じゃあ言っちゃいますと」世界にレアチーズケーキとザップさんしかいなかったら、と言ったレオにザップは益々変な顔になった。世界にたった一人しかいなかったら、という問いは何度か聞いたことがあるが、自分とケーキしかなかったらという例えは初めてだったのだろう。
「ザップさんを選ぶ程度には好きです。はいこれでどーですか」
「……………微妙だな〜〜〜……」
俺は今でもお前がいーけどな、と肩を竦めた先輩は、そのままぐいとレオの手を引っ張る。「わっ。え?あの、」今なんて、という前に煙草が混じったチーズの味が口の中に広がった。


レオくん以外入院しなかったんじゃないかなーという妄想の果て