春一番
2018/06/17
朝はそんなに好きになれない。
欠伸をしながら伸びをする。「……ベタやのー…」そう言って何ともなしに窓の外を見ると、霧がかかった街はいつものとおりに佇んでいる。街に佇むって言い方もなんか変だな、と思ったザップ・レンフロは自分の上にかかっていた毛布を乱雑に蹴飛ばした。
「あだっ!?」
「あ?」
ありゃ?と言った自分に自分で違和感を抱いた。俺こんな口調だったっけ?どーもコイツと一緒にいるようになってから口調がうつった。ガキじゃあるめえに、と横に寝ていたらしい少年を見下ろす。「いってー…!ちょっともー何すんすか…」家主を蹴飛ばすなんて、と言いながらレオナルド・ウォッチは毛布を引き上げて、再び被った。
「何でおめーここにいるんだよ」
そう、不思議に思って聞いたザップに、レオは(ザップからは見えなかったが、恐らく)怒った顔をして毛布をぎゅうと掴んだ。
「俺の家だからだよ…!!…どっか行くならどーぞ……」
俺今日はもうちょい寝る、と言ってレオはぐるんと毛布を更に被ると目を瞑ってしまった。そういえば昨晩コイツの家に泊まったんだった、とザップは漸う思い出した。寝起きのせいもあって頭が上手く働いていない。すっかり忘れていた。
――――いや。
本当に忘れていたのだろうか、と一瞬ザップは思った。忘れていたというよりも、慣れてしまったといった方がいいかもしれない。週の半分くらいと言うのは大袈裟だが、けれど決して言い過ぎではない程度にこの後輩の家にザップは泊まっている。最早、眼どころか脳ですら、この小さな部屋に慣れている。
「…おめー今日休みなの?」
「そっすよ…だからもーちょい寝ます…」
俺は疲れてんの、と言ったレオの口調は確かに眠そうだった。そういえば昨日も昨日とて、レオはライブラでの仕事の後にピザ屋のバイトに精を出し、殆ど深夜に自宅に帰ってきた。ザップは勝手にレオの家に侵入しゲームをやっていたので、そんなつもりはなかったが待っていたみたいになってしまった。昨晩のことを思い出してちょっとだけザップは変な気分になった。
――――あれ?嘘。待っててくれたんですか?
そう言って、勝手に家に侵入していたザップを怒らなかったレオを見るのは初めてではない。最初はぎゃんぎゃん犬猫のように文句を言ってきたレオも、ここ最近は諦めたらしく、ザップが勝手にレオの家に上がり込んでいても大して怒らなくなっていた。どーせなら窓を開けて換気しといてください、とまで言うようになってしまった。口調には諦観が滲んでいたが。
待っていたわけじゃなかった。ただ単にザップはレオのゲームをやっていただけだ。ただしレオが帰ってきた時間帯は、確かにザップはいつもであれば眠っている時間帯でもあったから、レオからすれば待っていたように見えたのかもしれない。ちげーよ、とザップが言い返そうとする前に、レオはなんだだったらザップさんのも買ってくればよかった、と言いながらがちゃがちゃと部屋の鍵を締め始めたので、何となく言う気が削がれてしまった。
――――俺のもって何だよ。
そう言ったザップの隣にレオはやってくると、しかし返事をする前にベッドに座るザップのことを見つめてちょっと照れたように笑った。ただいま、と言われてなぜかザップは怯んでしまった。まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったのだ。
――――………お帰り。
だからそう返事をした口調は非常に戸惑っていたものになってしまった。自分自身に舌打ちをしたくなったザップを他所に、レオは飯買ってきたから、と言って小さな椅子へちょこんと腰掛けると、夕飯には遅すぎる食事を始めた。しなびたレタスが挟んであるサンドイッチを見て、あれじゃー食った気しねえだろうに、とザップはなぜか矢鱈とまともなことを思った。
――――…別に待ってねえよ。
そう言ったのはレオが寝た後だった。意味がない。横ですやすやと寝息を立てている後輩兼友人兼―――なんだかよくわからない存在の少年を睨んだあと、ザップも毛布を被って目を瞑った。隣から聞こえる寝息はいつもの通り健やかだ。やっぱガキだ、とザップは思って眠りに落ちた。
ただいまとかお帰りとか、一々そんなことを言うのは苦手だ。
ザップ自身が自宅を持っていないせいなのか、幼い頃から定住ということに無縁だったせいか、何にせよそういうのは苦手だ。たとえば朝起きて横に愛人がいるのと、レオがいるのじゃ全然違う。愛人がいることには慣れていたが、レオがいるのは―――挨拶と同じで、嫌じゃないが苦手だと思うことが多かった。この辺が微妙なところで、嫌ではないが苦手というのがザップでしても気にくわなかった。苦手という二文字から連想できるのは嫌というそれに近い。なのにレオが横で寝ていることに対して、ザップは嫌だとどうしても言えない。それどころか、いた方がいいと思うことすらある。最初そう思った時自分自身にぞっとしてしまった。お陰でその日一日中レオとまともに口が利けなかったので、上司やら弟弟子やら同僚やらに不審げな顔をされてしまった。
確かレオはいつもと変わらないように見えた。
なんだかそれはそれでムカついた。
つまりザップにとって、この後輩は何から何までイレギュラーでイレギュラーじゃなかった。普通にその辺りにいると思いきや、いないことの方が多いし、やっと掴まえたと思ったら何だか全然違うところにいたりする。助けた傍から知らない奴らに絡まれるし、助けなきゃ助けないでこっちに弱音の一つも零そうとしない。可愛げはないし生意気だし、人の言うことは聞かねえしで碌なもんじゃねえとザップはいつも思っている。
――――他人に言われたら怒るでしょう、それ。
ある日弟弟子にそう言われてザップは顔を顰めた。何でだよ。ムカつかねえよ別に。そう言ったザップに、どうですかねと弟弟子にあたるツェッド・オブライエンは呆れたように言った。言った相手に即殴りかかるあなたが目に浮かぶようですよ、と冷めた口調で言った弟弟子は、ザップが言い返す前にさっさとその場を辞していた。一々やり難い、とザップは思う。むしろあの弟弟子こそがザップの人生においてイレギュラーだ。
そもそもそんなことをレオに言う奴がいるとも思えない。
そう思って再びザップは自分自身にぞっとしてしまった。俺は今何を考えた。気持ち悪っ。悪寒を覚えたまま愛人の家に行ってひとしきりいちゃいちゃしていたらそんなことは忘れていた。ほっとした。ここで問題なのは、レオに対して気持ち悪いと思ったり悪寒を覚えたりしていることではなく、自分自身の気持ちに対してそう思っている、ということだったが、ザップ自身はそんなことに全く気が付いていなかった。及びもつかなかったのである。
何にせよ、レオナルド・ウォッチとはザップにとってそういう変な少年だった。
普通だ普通だと言われている割に。
横で眠っているレオの頬をぺちぺちと軽く叩くと、なんですかとレオは嫌そうに言った。「俺眠いって言ってるじゃないすか…」そう言った声はやっぱり眠そうだった。よく夜に聞く声に似ている。
「朝飯食い行こーや。俺腹減った」
「……、一人でどーぞ………」
俺眠いから、とレオは言うと毛布を更に肩より上に引き上げる。「何でお前がいるのに一人で飯食いに行かなきゃいけねんだよ」そう言ってレオの肩を揺すぶったので、レオはやめてくださいよと悲鳴のような声で言った。
「ちょ、ちょっと…!だから俺、…眠いんだって…!昨日何時に帰ってきてたか、……、…待っててくれたんだから…」
知ってるじゃないすか、とレオは言って眉間に皺を寄せつつぎゅっと毛布を握り締める。起きて堪るかという意思表示だろう。
けれどザップにはそんなことよりも看過できないことがあった。
「ま……、………。」
待ってなんかないのに。
待ってない、と言おうとした。なのになぜかザップの口はそれをやめてしまった。「…………。」その上、それ以上何も言えなくなりザップは困惑した。何で?言いたいことがあればすぐに言う性質だし、隠し事はそもそも向いていない。というか、今この状況で何を隠したいのかもわからないし、何を言いたいのかもよく分からない。――――なんだこれ。
たったひとつ、待ってなんかないという事実のせいでなぜか混乱してしまった。
「…………………。」
無言になったザップはのろのろと前に向き直る。横からは寝息が聞こえる。「…………はー…」訳が分からない。そう思って溜息を吐いた。
がりがりと頭を掻いて、枕元にあった煙草を手にする。しかしそこであのー、という眠そうな声が横から聞こえてきた。
「うお何だよ。起きてたんかオメー」
「……飯行かないんすか…」
レオはまだ眠そうな声だった。もしかして半分くらいは寝ているのかもしれない。「だからオメーも起きろよ。行くから」「……、…俺がいてもいなくても大して変わんないでしょ…」そう言ってレオは小さく欠伸をした。開けてるのか開いているのかよく分からない眼だったが、どうも閉じているらしい。眠る直前みたいな声をしている、とザップは思うと横に寝ている後輩を見下ろした。
「…んなことねーけど」
ぼそ、と言った言葉と一緒に横から寝息が聞こえる。「………はー……」意味わかんね、と一人で呟いた後また頭を掻くと、ザップはベッドから下りた。飯行こ、と小さく一人で呟いたそれは、なんだか自分自身に言い聞かせているみたいに聞こえた。
やっぱり変だ。最近おかしい。「…………あーあ」そう言ってなぜかテイクアウトにしてしまったサンドイッチを手に、ザップはレオの家に歩いている。朝も夜もない生活を送っているせいか、眼が覚めたら余り眠気を感じない。だから起きたら意識は基本はっきりしているし、したいことをしようとさっさと動く。なのに今日はどうしてか足が重い。浮かない気分だ。紙袋を持つ手すら重く感じる、と嫌々足を動かしてレオの家に戻った。がちゃがちゃと音を立てて鍵を開けたのに、ベッドの中はぴくりとも動かない。コイツ強盗が入っても気が付かねえんじゃねえのか、とザップは呆れたままずかずかと部屋の中に入った。
「…………ただいま」
無意味とは知っていたが、そう呟いてベッドの中を覗き込んだ。レオはやっぱり寝ていた。「………はー…」何してんだか、と呟いてベッドの横にすとんと座るとがさがさと紙袋を開けた。中には二人分のサンドイッチが入っている。ちっと軽く舌打ちをして、やっぱりテイクアウトにしたアイスコーヒーのストローを咥えた。そーいえばコイツの金だ、ということを飲みながら思い出してポケットに入れていたレオの財布を引きずりだすと、ぽいと机の上に放り投げる。軽い小銭の音がした。
「…………んん…」
その音のせいなのか、それとも動物的本能のせいなのか、後ろから声がした。「………。」ストローを咥えたまま振り返ったザップの眼に、ごしごしと眼を擦っているレオが映る。「…………。」起きるかと思いきや、レオはそのまま丸まるようにして再び寝入ってしまった。
「……氷が溶けるぞコラ」
そうぼそりと呟いたが、レオは寝ている。「…………。」プイと顔を背けると、ザップは食事を再開した。
何でこんなことをしているのかさっぱりわからなかった。確かに自分はそんなに一人でいるのは好きじゃない。誰かといたい―――というよりは誰かに触っていた方が落ち着く。しかしその誰かというのは今まで百パーセント愛人しかいなかった。朝食も、買い物も、バーで飲むのだって、愛人じゃなくてもいいから女の子と一緒に居る方が落ち着くし楽しい。その後ベッドの上でいちゃつくのだって楽しい。むしろそれがメインだ。
なのに今の自分はどうだ。後輩の少年に朝食を一緒に食おうと強請ったり、その願いが聞き遂げられないとくれば、こうやって彼の分も朝食を買って寝ている彼の横で一人で虚しくサンドイッチを頬張っている。もぐもぐとサンドイッチを齧りながら後ろを振り返ると、レオはすやすやと眠っている。会話すらできない。
「……………………。」
ただザップが憤りを覚えているのは、レオが寝ていることでも返事をしないことでも(寝ているから当然だが)何でもない。自分自身がどうやらこの後輩と一緒に朝ごはんを食べたかったらしい、ということに気が付いたからだ。何でだよ、と自分に小さく心中でツッコミを入れながら、ザップはサンドイッチをごくんと飲み込んだ。昨日レオが食べていた萎びたレタスが挟まれているサンドイッチとは似ても似つかない。ちゃんと朝一番に作られたらしいサンドイッチだった。
むにゃむにゃというわざとらしい、けれども真実眠っていたと思しき声が聞こえてきたのは大体3分後だった。
「……、……んー………」
腹減った、と言いながらレオが欠伸をしてごろんと寝返りを打った。「……、………ってわあ!?」すぐにぎょっとした声でレオが跳ね起きたので、うるせえなあとザップは悪態を吐いて後ろを振り返る。レオはびっくりした顔で毛布に包まったままこっちを見つめていた。
「あ、あれ?飯は?」
「今食ってんだろ」
「あれ?ほんと…、なんで?」
寝起きがそんなによくない彼にしては珍しく、この状況を理解したらしい。つまりどうしてわざわざテイクアウトにしてまでこの部屋に戻ってきたのか、と聞きたいのだろう。「だからオメーが起きねえからだよ」そう苦虫を?み潰したような顔で言ったザップに、だって、とレオは戸惑った様子で言った。
「それならそれで外で食えばいーじゃないすか。何で戻ってきたの?」
「るせーな。店が混んでたんだよ」
「店が混んでた?」
そんなことあるんですか、とレオはある意味酷いことを言ったものの、一応納得したらしい。「…ふーん……あー…ねむいけど…」起きよう、と言ってレオはベッドの上で伸びをして、それから今朝のザップと同じようにぼーっとした様子で窓の外を見つめた。すぐにぱっとこっちを振り返ると、ベッドを降りてすぐに洗面所へと歩いて行く。ぱたぱたという音を聞きながら、ザップは黙々とサンドイッチを齧っていた。
「……俺もなんか買ってこよーかなー…」
腹減ったー、と言いながらレオがタオルをぽいと籠に放り込んだあとこっちに戻ってきた。コーヒー飲みたい、と独り言らしきそれを言ったあと、湯を沸かすためなのか何なのか炊事場へと歩いて行く。無意味な往復運動である。欠伸をしながら再びレオがこっちに戻ってきたそれを見て、ザップは面倒になった。
何が面倒になったかと言われたら答えは一つである。
取り繕うのが面倒になった。
「レオ」
「はーい?」
なんですか、とまだ眠そうな顔でこっちを見たレオに向かってぐいと紙袋を突きつけた。わあ、とレオはちょっと驚いた様子で声を上げると、しかしすぐに反射的になのか、紙袋を受け取った。「……え?これ…」なんすか、と言って首を捻った後輩に、ザップは溜息を吐きながら立ち上がる。しかしどうもその溜息は、レオに対してではなくどうやら自分自身に対してだ。
すとんとレオの横に座ったせいか、レオは益々怪訝そうな顔をした。「?」間抜け面め、と思わないでもなかったが、その実嫌いじゃない。―――嫌いじゃないねえ、と自分に呆れながら食えば、とザップは言ってもぐもぐと自分のサンドイッチを齧った。
「え」
「いーから食えよ。萎びちまうぞ」
「え?……え?」
なにが、と言いつつもレオは恐る恐るといった様子で紙袋を開けた。その態度なんだよ、とザップは言いたくなったが堪える。これまでの経験上、レオはレオで防衛本能というものが発揮されているらしかった。「……サンドイッチだ」そうぽつりと言った後、後輩はひょいと紙袋の中からスモークチーズが挟まったサンドイッチを取り出した。
「………えっと……まさかとは思うんですけど」
俺に、と言ったレオの声は感情が読み取り難い。ザップは無言でもぐもぐとサンドイッチを噛んでいたので返事をしなかった。というよりしたくなかったのだ。「え?な…なんで?マジで?嘘でしょ?」返事はなくても何となく状況を察したらしい。レオはマジすかー、とびっくりした声を上げ乍ら、ザップのことをまじまじと見つめて、それからまたサンドイッチに目を戻した。色々と忙しい。
「え?これザップさんの奢り?」
「いやおめーの金使った」
「ってオイ!!!」
そこだけきっぱりと言ったせいなのか、レオに壮大に突っ込まれた。「何してくれてんじゃ!!人の金!」「ああ?広場の方まで言ってやった俺の手間賃と手数料と労働代に比べりゃ安いもんだろーが」そう言ったザップに、マジかよもー、とレオは言ったものの諦めたのか、それについてはそれ以上何も言わなかった。
「……そんな俺と一緒に飯食いたかったんすか」
サンドイッチを一口齧ったレオが言ったのは、美味いとか有難うございますとかではなく、その言葉だった。ザップは当然顔を顰めてべえと舌を出す。
「ちげーよ」
「はあ。そっすか」
「…………………。」
自分で否定した癖に納得されたらされたでなんだかムカついてしまった。そこお前そやって納得するとこなのかよ。怒るとこじゃねーの?どうなの?そう思っているザップを他所に、美味いですとやっとレオはサンドイッチについて感想を呟いた。「…ザップさんっていつも朝飯食うんですか?」不思議そうでもなく、淡々というわけでもなく、そういえば思いついたという様子でレオがそう言った。ザップは当然予想外の質問だったのでちょっと目を瞠る。
「……決めてねえ。腹減ったら食うし」
何となく目を逸らしてそう言った。基本、朝昼晩と時間を意識して食事をとるわけではない。レオが来てからというものの、昼は昼だと意識して食事をとることが多くなったが、それでもやはり朝と晩は何となく腹が減ったから食っているというだけに過ぎない。腹が減ったとしても目の前に抱きたい女がいればそっちに気を取られてしまうのである。
「あはは。ザップさんらしいけど健康に悪そうですねえ」
苦笑してそう言ったレオは、いつも愛人とこで食ってるんじゃないですか、と続けた。「………。」サンドイッチを食んでいるせいなのか、それとももっと別の理由があるからなのか、ザップは何となく黙ってしまう。結局不自然でない程度に間を空けてザップは口を開いた。「………そら出されたら食うに決まってんだろ」食いもんだしよ、と言ったザップに、そっすかとレオはまた素っ気なく言った。
「…………おめーは」
ぱくんとサンドイッチに挟んであるチーズごと、それを飲み込んだ後にそう聞くと、レオは俺、と言いながら自分を指さした。お前以外に誰がいるんだよ、という顔をしたせいなのか、それとも言わなくてもそれが伝わったのか、レオはまあ俺しかいないっすねと自分自身でその問いに答えた。「んー。暇と金と何か家にあれば食います」分かり易い答えをそう言ったレオは、でも今日は、とまるで歌うかのように続けた。
「…暇も金も何もありませんでしたけど」
そう言った後、ちょっとだけザップの後輩は首を傾けた。髪が揺れる。いつもザップが陰毛頭だと馬鹿にしている髪が、まるで風に吹かれたかのようにザップには見えたが、それは実際のところ――――違った。とは言えそれは後々からザップが気が付いただけで、その時は全くそれに気が付かなかった。
たとえて言うなら。
――――たとえて言うならば。
「…ザップさんがいましたね」
笑ってそう言った後輩の顔をまじまじと見つめてしまう。けれどもレオはすぐにザップではなく、ぱっとサンドイッチに目を戻すと慌てたように零れ落ちそうになっていた具を舌で舐めた。「あぶねー。落ちる落ちる」受験生の前では絶対に言えないことをそう呟いたレオは、そのままもぐもぐと食事を続ける。
暫し無言が続いたが、レオはそれを食事中だったからと解釈していたらしい。ザップは無言で立ち上がると、のろのろと窓の方に移動する。そのまま窓枠に座ると外を見た。レオは勿論食事をしているからこっちを向いていない。
ごちそうさまでした、という後輩の朗らかな声が聞こえた時も、ザップはまだ窓の外を見ていた。霧がもやもやと漂っているこの街の景色を既に何千回と見ている身としては、最早飽きたという言葉では言い表せない程度には、見ている。けれどその時のザップはどうしてもレオの顔が見られなかった。「………………。」もそもそとサンドイッチを食みながら外を見つめる図は、どうやらレオには不思議なものに映ったようだ。ザップさん、と後ろから話しかけてきた彼の声には、誰がどう聞いても不思議そうな感情が滲んでいた。
「俺もー食い終わったけど。このあとどっか行くんすか」
予定があるかどうかということだろう。「…………ねえよ」そう小さく言った声は、けれどちゃんとレオに届いたらしい。そっかあとレオは少し不思議な返事をした。普通であればそうですかとかわかりましたとか言う筈だ。しかしザップはその時それを聞いている余裕がなかった。
「…そんじゃーあのー…ザップさん。お願いがあるんですけど」
お願い、というそれにぴくりと反応する。しかしレオはそれに気が付いているのかいないのか、ザップの背中にそのまま話し始めた。「無理じゃなかったらでいーんすけど、椅子が欲しくて」椅子、とザップは外を見たまま繰り返した。「そーなんすよ。この椅子やっぱ元々ゴミ捨て場から拾ってきたやつだからだと思うんですけど、足が弱ってて、ぼちぼち折れそうだから」新しい椅子が欲しいんですよね、と言って少しレオが笑った気配がした。
「…………………なんで俺なんだよ」
そう言ってしまったのは何かの意地だった気もする。俺じゃなくてもいいだろう、とザップは思って言ったわけじゃない。ただ、恐らくレオにはそう聞こえたのだろう。えーと、と少し困ったような声が聞こえた。
「俺だけだと色々吹っ掛けられるんですよ。だから」
「オイてめー。人を番犬扱いかよ」
そう言って振り返った顔は多分顰め面だったのだろう。レオと眼が合う。眼が合った瞬間なぜかレオはちょっと安心した顔になった。「いーじゃないすか。朝飯分」「買ってきたのは俺だろーが」そう顔を顰めたまま言ったザップに、レオは少し悩んだ顔になったものの、そのままとことことこちらに歩いてきた。少し仰け反る。
「…なんだよ」
そう言った自分の声はどうも拗ねているように聞こえる。しかし自分でも一体何に拗ねているのか、よくわからない。説明が難しい。「…何でザップさんねえ」そう、レオは自問自答するかのように言うと、ザップ越しにひょいと窓の外を見つめた。「おい」自然、後輩と窓に挟まれるような恰好になり、ザップは更に仰け反る。余りに仰け反ると窓枠の向こうに落ちかねないが、流石にそんな失態を犯すような人生は送ってきていない(筈だ)。
「…おいレオ。危ねえよ」
「…霧が濃いですねえ」
今更、とでも言いたげな顔をしたザップの肩からひょいとレオは手を退けると、きちんとザップの前に立った。「…じゃ、霧が濃いからってことで」ちょこんと首を傾げて言ったレオに、ザップは唖然として口を開けてしまう。「は?」しかしすぐに思い出した。ついさっき自分を番犬に使うようなことを言っていたじゃないか(実際には言っていないが)。
「……………。」
胡乱気な視線に気が付いたのか、レオはえーと、と少し困ったように言った。「だって理由つけるならそれが一番いーかなあと思ったんですよ。じゃないとどうせザップさん納得しないでしょ」そうレオは言って、苦笑気味に頬を掻いた。
「…ぶっちゃけ理由ねえっすもん。……だってザップさんだって」
俺と一緒に飯食いたい理由ってないでしょ、と言われてきょとんとした。―――そうかもしれない。一々理由なんか考えない。強いて言うならそこにレオがいたからだ。ただそこに。
レオナルド・ウォッチがいるから。
「………はー…」
しゃあねえな、と言いながらひょいとそこから立ち上がったせいで、今度はレオがわっと小さく悲鳴を零して仰け反った。「びっくりした」「びっくりすんなよ」こんなことで、と言うとぽんとレオの頭を軽く叩いた。
「わっ」
「椅子よりソファにしろよ」
「えー。狭いっすもん」
無理です、と笑って言う声が後ろから聞こえる。「俺はソファがいいんだよ」「俺の部屋っすよ」てゆかコーヒー入れてからにしましょうよ、というレオの声には返事をしなかった。
待ってねえよ、とぼそりと言った自分にレオは知ってますよ、と返事をした。自分は昨日のことを今更返事したようなものだったが、レオがどういうつもりで返事をしたのかはわからない。
小さなリサイクルショップで小さな椅子を購入し、会計をしている最中だった。レジを正面から見ているレオとは反対に、ザップはその横で売り物の小さなソファに寄りかかり、煙草を咥えながら店の入り口を睨んでいる。
「…でもお帰りって言ってたじゃないですか」
そうレオが意ってきたということは、どうやら彼は昨日のことを言っていたらしい。
「…バカかオメーは。ただいまって言われたらお帰りって返すのが常識だろ」
そう言ったザップにレオはおかしそうに笑った。「ですか?」「…ですよ」そう言って溜息を吐いた割に、朝覚えていた機嫌の悪さはとっくに失せている。やっぱりコイツが変なんだ、とザップは思いながら釣銭を数えているレオを見て立ち上がった。
「……なあ」
「はい?」
顔を上げたレオの横に置いてある小さな椅子を血でぐるぐると巻いて持ち上げると、わっとレオは小さく悲鳴を上げた。「え?持ってってくれるの?」「金払え」「意味わかんねえ」そう言いながらついてくるレオがひょいと手で椅子を掴んだ。
「いーっすよこんぐらい。軽いし」
そう言われたから素直に血を解いた。レオはひょいとそれを肩に乗せるようにして歩き出すと、なんだかんだでもう昼っすよ、と街路の時計を見て言った。ここにくるまで一度事務所に寄ったせいだろう。二人で家を出ようとしたところで連絡が入ったから事務所に向かい、ちょっとしたミーティングをして事務所を後にした。こんなことで呼ぶのかよ、とぼやいたザップの背中が蹴られたので、レオは爆笑していた(そのあと無論ザップはレオを殴った)。
「ねーザップさん。寿司食いましょうよ寿司。昼」
「あ?……何オメー」
そんなに俺と飯食いてーのかよ、と言ったのは朝の焼き直し――というより朝のやり返しだ。半ば笑って言ったそれに、レオはきょとんとした顔になった。
ちょっとだけ間が起きる。
「………そっすね」
「え」
ぎくりとした。答えにもそうだし、その時のレオの顔もそうだ。
今朝と同じだ。
――――たとえて言うなら。
春一番。
にっこりと笑ってそう言ったレオは足を止めて、行きましょ、と言いながらとことこと寿司屋の方に向かって歩いて行く。「………ちっ」今度こそ舌打ちをしてザップはそのあとをのろのろと追いかけた。
終