アンラッキー・デイ・アフター

2022/04/18

ともかくその日はついていなかった。朝一番に愛人なのかそうでないのか、記憶が定かでない女に包丁を突き付けられ、何もないところで転び、路地裏でのカツアゲは警察に見つかった。とどめに賭場での賭けに大負けしたので、ザップ・レンフロは、決めることにした。

「そりゃーまた。ご愁傷様でした」
そう言って洗濯物をかき集めている後輩は、レオナルド・ウォッチという。「おめーよ。もーちょいなんかあんだろ言うべきことが」「ははは。そらどーも。珍しいっすねとしか言いようがありませんよ」そーいうの運の良し悪しじゃなくて避けるのに、と呑気そうに言ったレオは、ベッドの上に集めた洗濯物を投げるように置いている。乾ききった洗濯物がぐしゃぐしゃにかき集められているのを見て、皺になるだろうにとザップは思ったが、皺になるような洗濯物がそもそもこの家にあるわけもない。

外は暗い。知っているような知らないような女に追いかけられた朝から既に半日以上経過している。どころかもう一日か、とザップは思うと窓の外を見る。夜のヘルサレムズ・ロットは昼や朝とは同じようでいて、少し違う。混沌さが倍以上増していることもそうだし、霧が益々濃くなることもそうだし。それから人間の生存率が常より格段に下がるのもその理由だ。ただしザップは大してそれを気にしたことがない。元々昼も夜もないような生活をしてきたせいで、一日の始まりは自分が起きた時で、一日の終わりは自分が眠る時なのだ。
そんでー、というレオの声が少し遠くから聞こえた。顔を上げると、後輩はどうやら洗面所の方から更に洗濯物を持ってきたらしい。干したあと暫く放置していたのだろう。くしゃくしゃになったタオルをレオはぽいとベッドの上に放り投げた。
「…っと。なんでウチなんすか。ザップさんが楽しめるようなもの何もないっすよ」
そう言って不思議そうな顔になったレオを見て、ザップは別に、と一言言った。「………べつに?」レオはそう言ってすとんとベッドに腰掛ける。確かに、とザップもそう思った。何が別になのか今一分かり難い。というか、自分でも別に、の後に何を言おうとしたのかはよくわからなかった。
「…あー、…そらーほら、お前が運悪いから」
「は?」
意味が分からない、という顔をしてレオがタオルを一枚手に取った。「運が悪い?それじゃ相乗効果で二倍になっちゃうんじゃ」「じゃなくてよ。今日の俺の不運をおめーに吸い取ってやるっつーか押し付けるっつーか」「ええ〜〜〜〜…」何すかソレ、とレオは言ってちょっと笑った。
「ジャパニーズ藁人形的なアレですか?…こないだ映画で見ましたけど、アレって本当に効くんすかね」
屈託のない様子でそう言って、レオは不器用な手付きでタオルを更に一枚畳むと、ベッドの上に重ねた。「………。」それを見ながら、ザップはゲーム機を弄っていた手を止める。
「…怒んねーんだ」
そう言った理由は、本当に言ったそのままだった。怒らないのか、と疑問に思ったからだ。自分だったら絶対に不運だねなどと言われたら怒っている。それが事実であれば益々そうだろうし、事実でなければないで何となくムカつく。そういう、曖昧な理由ではあったけれど。
レオはザップのそれを聞いても、さっきと同様きょとんとした顔で洗濯物を畳んでいた。「?はあ。そこ怒るとこなんすか。てゆか大体俺、運悪くないですもん」そう堂々と言ったレオは、バスタオルをばさばさとまるで干す時のように振り回した。ごわごわするなあ、とでも言いたげに顔を顰めている。この少年はいつも柔軟剤を使わない。持っていないから使いようが無い。
「…わりーだろ。何言ってんだ」
そうザップが言ったのは本心だった。道を歩けばカツアゲに遭遇し、街で眠っていればボールは飛んでくるし見知らぬ生き物は前を歩く。なけなしの金でコーヒーを飲んでいる時に出会った、今では友人と言えるソニックは、そもそも当初レオのカメラをパクったところから仲良くなったらしい。どう考えても運が悪い、とザップは思う。
ザップがそんなことを考えているとは勿論レオは露知らないだろう。そんなことねーっすよ、と淡々と否定した。「だってそしたら俺この街で今の今まで無事でいられるわけないじゃないすか。とっくにくたばってますよ」そう言われてあ、と思わず言ってしまう。ほらね、とでもレオは言いたげに笑うと、バスタオルをきちんと畳み始めた。その覚束ない手つきを見ながら、そんな発想はなかったな、とザップは思う。―――そしてある意味それは。
怠慢とも油断とも言えた。「………そーか?」だから執拗くそう言ったのは、それを誤魔化すためだ。眼を背けることなんかで、”そんなこと”からは逃げられもしないのに。

―――そもそも。
この少年がこんな街に用事もなく来るわけもない。その原因からして酷く運が悪いとザップは思う。レオが自分からその出来事を語った時、ザップもたまたま傍にいた。この少年は僕が動けなかったから、とそう弱々しく言って、泣いた。だからその時から、とザップは折に触れて思うことがある。
たぶんもうレオの中ではその出来事は運が悪いとか、悪くないとか、そういうカテゴリにないのだろう。
自分が動けなかったとか、決められなかったとか、選ばせてしまったとか、そういう風にしか見ていない。
―――それに出会ったことを恨みもしないで。

そうですよ、とレオが言いかけたのを遮った理由は特になかった。「いやわりーよ」「……何すかその頑なさは。悪くないってば」そうレオが言い返しながら顔を上げる。ザップは弄っていたゲームを無意味にまた弄っていたが、その時たまたま顔を上げていた。
「いーかレオ。それはだな」
「え?」
そう言ってレオが首を傾げる。ザップは口を開く。
「俺がいたからだ」
きっぱりとそう言った自分のことを、レオははい、という口の形を作って見つめていた。「……はい?」実際にそうも言った。「いーか陰毛頭。お前が今の今まで無事に生きてこられたのはおめーの運がいいわけじゃねえ。この俺がいてやったからじゃねーか」そう一気に言ったザップをぽかんとした顔でレオは見つめていたが、結局傾げていた首を元にもどして、何すかそれ、とおかしそうに言った。何すかソレってなんだよ、とザップが言い返す前にレオは遂に噴き出していた。
「…んじゃやっぱり悪くないじゃないですか。俺の運」
レオはひとしきり一人で笑ったあとそう言ったので、ザップは顔を顰めた。話が通じていない、と思ったからだ。
「お前人の話聞いてた?わりーよ。それを俺がカバーしてやってんだっつーに」
「……ほら、それじゃやっぱり。むしろ運いいです」
そう言われてもなにがむしろなのか、意味が分からない。だから怪訝な顔をしたザップに、レオはまた笑って言った。「…ザップさんに会えたんすよ。それじゃあ全然、」悪くないですね、と早口でレオは言った。「…………、」ザップは思わず固まってしまう。まさかそんなことを言われるだなんて、思ってもみなかった。そんな発想は、やっぱりザップの中になかったのだ。
さっきのそれとは、また違った意味で。
口を開こうとして気が付いた。「………………、……レオてめえ。言っといて照れんなよ」「ぶっ」とは言え、ザップがそう言ったのは、自分の頬がちょっと赤いのを誤魔化すためでもあった。肩を落としながら、ゲームを起動する。横では自分と同様、少し赤い顔をしたレオがタオルを握り締めながらザップの方を睨んでいた。
「だ―――だってそんな顔されるなんて思ってなかったんですよ!な、……なんだよもー」
「それはこっちの台詞だっつーのボケ。………あー…」
あーあ、とちょっと笑いを込めながら、呆れたようにザップは呟いてしまう。「………。」レオはトレーナーをしっかりと握っていたものの、赤い顔をしたまま再度洗濯物を畳む作業に戻った。
ちらりと眼の端に映ったトレーナーは皺だらけだった。


朝から散々な一日だった。刺されそうにはなるし、警察には捕まりそうになるし、そして毎日のことだが金は失われた。ぼーっと外を見ながらそれを回想していたザップの横で、後輩はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。部屋は暗いし外も暗い。けれど深夜なのにこの街はいまだ起きている。
「…………ま、どーでもいーか」
本当に今日はついていないし運が悪い。自分が何座だったか忘れてしまったが、きっと運勢は十二星座中十二位だ。絶対そうだ、と益体のないことを考えながらザップもレオの横に潜り込む。レオの寝息が聞こえた。「…………。」そう、運は悪い。決していいとは言えない一日どころか、最悪の一日だったとザップは思う。
「…………………、」
目の前にはレオが眠っていた。
自分が眠る時が一日の終わりだから。「………おやすみ」小さくそう言って欠伸をする。そして眼が覚めた時が朝になる。
本当に最悪の一日だった。なのに―――なのにどうしてか今の気分はすこぶるいい。どころか、本当はもっともっと前から気分自体は非常に良かった気すらする。たとえば顔を見ただけで、たとえば会話をしただけで、たとえばたった一回名前を呼ばれたそれだけで。

最悪なんて二文字は帳消しになっていたりする。




ビタミンBといううすい本の中で描いた短編の文章版です。