2017/03/01

嘘をついていいのはこの世でたった一日だけの筈である。


ただし人間がそれを守る保証はなく、毎日のように嘘はその辺を跋扈している。それはもちろん、ここヘルサレムズ・ロットでもそうだ。約束だよ、ええわかったわ、その言葉が本当に守られるかどうかは当人同士でもわからないし、どんなにか薄っぺらいものだということくらい、彼らだってわかっているだろう。それなのに人間は約束するのをやめられない。―――じゃないと。
何が本当なのか分からなくなってしまうからだ。

「……………………。」
「待て。オイ待てレオ。レオ!!」
その愛称で呼ばれるようになったのがいつから、レオは覚えていないが、物心ついたころにはとっくにその愛称は存在していた。そもそも名前負けしてるんだ、と外界にいた頃愚痴ったレオに対して、妹のミシェーラ・ウォッチは笑って言った。あら私はお兄ちゃんの名前好きよ、と。どうしてと聞くとお兄ちゃんだから、と理由になっていない理由を言われたのも覚えている。ともかく今、レオナルド・ウォッチは路地裏を物凄く速い速度で突き進んでいる。ざっ、ざっ、という道を蹴るような足音が自分の足元から聞こえてくるが、後ろからも似たような音が聞こえてきていた。ごみ箱を蹴飛ばすような音と、それから息せき切るような音も一緒に聞こえたが、レオはそれを無視してずかずかと道を突っ切っていた。
がしりと肩が掴まれたのは大体一分後だった。
「待てってば!!だからお前、」
「…………。」
瞬間、レオはぎろりと後ろから自分を追ってきた男を睨み付け、そして思い切り足を蹴りだした。「ばっ、」危ねえだろ、と言いながら相手がそれを避ける。流石ライブラ誇る戦闘員、などと思っている余裕はレオにはなかった。舌打ちを堪えると、続いてばしんと自分の肩に置いてある手を払う。
「いっ、…お前、」
「………………………俺は言いましたよね」
次やったら別れますって、と言った自分の声はびっくりするくらいには、低かった。その時そんなことをレオは思っていられる心境じゃなかったが、ともかく低かった。「………、言…ってたけどな、でもお前、」「で、ザップさんは言いましたよね。分かったわかったって言ってましたよね」俺が信用しないから証文まで書きましたよね、と言った自分の顔は、恐らく無表情であるに他ならないだろう。いやだからそれは、などともごもご言っている目の前の男が顔を引き攣らせていくのが目に入る。
レオは息を吸った。

「つーわけで俺はザップさんと別れます。さよなら」

そう言ってレオはぐるりと踵を返し、先ほどと同様路地裏を歩き始める。「だ…っ、ま、待てってば!!だ―――オイ!!レオ!!ざけんな俺は別れねーぞ!」その声が狭い道に響き渡るのを耳にしながら、レオは顔を自然に顰めてしまっていた。


別れるとか別れないとか。
本来だったらそんな話をするのもおかしいのだ。何しろレオとあの先輩、ザップ・レンフロが付き合っているのかどうか、本人たちにも曖昧なのだから。何だかわからないうちに二人で一緒にいることが増えて、なおかつそれにとどまらずキスだとかそれ以上だとかを易々とするような仲になったのはそれなりに前だった。だからたぶん世間一般的に見れば付き合っているに相違ない。お互いにそういう認識があるかどうかは別として。
「ちょ…っ待てよ!!レオ!」
その声にレオはうるせえなと脳内で悪態を吐きながら振り返った。ぜいぜいと息を切らしている先輩と、仏頂面の自分が立っているのはレオの自宅の真ん前で、つまりレオはバイトが終わった直後、彼が浮気をしている現場を目撃したのだ。
しかも堂々とレオが勤めている店の前だった。夜景が反射しているいつものヘルサレムズ・ロットの街中に帰るべく、レオはお疲れさまでしたと店内に声をかけ、気まぐれでザップが好きだと言っていたピザをわざわざ購入し、それから家に帰る予定だった。まあ別に全然あの人が好きだからって言ってたわけじゃないってゆか俺もこれ好きだし、という謎の言い訳を脳内で繰り返しながらバイクに跨ろうとして、ふと店の向かい側に目をやった。本当に特に意味はなかったし、義眼が反応した訳でもない。なんとなく、とかふと、とか、そういった行動に特に意味はない。だからその時だってそうだった。嫌な予感も悪寒も寒気も何も、レオにはなかったのだ。
二秒後持っていたヘルメットを取り落とした。どう見てもザップに間違いない男がどこぞの美女と、頬ではあったものの――――キスをしていたからだ。
金色の長い髪を撫でているザップが、やはり彼もそうなのかもしれないが、ふと、だとか気まぐれだとかでキスの後に目を開いたのが見えた。そしてその眼球が、レオの方にやっぱりふと、だとか何となく、といった風に向けられたことにも気が付く。恐らく速さにして0.5秒後、ザップはすぐさま美女をがば、と引きはがして驚愕の表情でレオを見つめていた。道路一本挟んだとは言え、車の通りはあったとは言え、周りがきらきらとネオンサインで喧しいとはいえ、幾ら何でもお互いが何をしているのかが分からない状況じゃなかった。
不思議そうな女性をそのままにしながら、ザップは青い顔でレオを見ていた。既にゴーグルを装着していたレオはそこで、にっこりと笑ってぐいと手を自分の身体の正面に持ってくる。
びしりと親指を地面に向かって突きつけるのに要した時間は恐らく1秒も要らなかった。レオはその後さっさとバイクに乗って自宅に帰った。帰宅してからピザをソニックと食べて、それからシャワーを浴びてレオは普通に眠った。疲れてはいたのである。

そして翌日が今になる。普通に朝の身支度を終えたレオはバイトに向かい、それから夕方ちょっとライブラに顔を出した。後輩で友人でもあるツェッド・オブライエンと共に事務方の作業をこなして、それから珍しいことに何も起きなかったので挨拶をして今しがた帰ってきたばかりだった。正確に言えば、帰り道でこの男とばったり遭遇したのだ。そこから早足で、時には走って帰ってきて辿り着いたのが我が家なのだが、レオの後ろから喚きながらこの男がやって来たのは予想外だった。今日彼は事務所に顔を出さなかったので、最後に会った――と言っていいのかどうかは謎だったが、ともかく顔を合わせたのは”あれ”以来だった。
「…なんですか。俺はもう疲れてるんで眠ります」
「ちょっと待て。待てってば。あれは違う。違うんだって」
「…あれがどれなのか俺にはわかりませんし」
早よどっか帰ればいいでしょ、と言いながらレオは自宅のドアを開けた。がちゃりという音の後、後ろ手にドアを閉めようとしたが当然と言わんばかりに先輩が足をドアの隙間に滑り込ませてきたので、レオは顔を顰めた。無言でぐいぐいとドアを引っ張ったので、当然先輩はいてててと声を上げる。
「おまっ…ば、っかじゃねーの!?いてーよ!!」
「帰ればいーでしょって言ったでしょ。おやすみなさい」
「だ―――だから!話を聞け話を!!」
そう言ってがしりと今度はドアを掴んできたザップを見上げて、レオは顔を顰めたものの仕方なく中に入れた。どうぞ、といつもだったら言うところ、今日は何も言う気もしなかった。昨日のピザの残りでも食おうと思いながら施錠して、先輩がいる室内を振り返る。
途端だった。
思い切り腕を引かれるのはこれが初めてでもなんでもなかったが、流石に突然だったから驚いた。ぎゃあ、という悲鳴を上げたのは、ただし引っ張られた腕が痛かったからだ。「いっ、」いってえと言う前に抱き締められていることに気が付いた。
「……………………………………。」
「マジで。マジでごめん悪かったからマジで。許せレオ。ついでにあれは浮気じゃねえ。だから別れるとか言うのはなしだ。いーな?」
許せって、というそれに対しても、今この状況に対しても全くレオは心が動かなかった。というより俺さっさと寝たいんだけど、という欲求の方が先に立っていたので、あのうと少し間を空けて先輩に話しかける。ちょっとだけ、ザップが弾んだ声でなんだ、と言った。恐らくレオがまともに会話をしたのが久々だからだろう。
「…離してくれませんか。俺風呂入って寝るんで。あと飯も食いたいし」
「……………………え?なに?そんだけ?」
「いや、何に対してそー言ってんのかさっぱりわかりませんけど。ザップさん泊まるんなら床で寝て下さいね。俺ベッド使うから」
そう言って無理矢理ザップの腕から抜け出すと、レオはのこのこと室内に進んでいく。「ちょ…っと待て!なんだよまだ怒ってんのかよ!」「深夜でかい声出さないでください。俺が怒られるでしょ」じゃなくてもザップさん泊まった日って隣から壁ドンされることが多いのに、とレオは憮然としながらリュックをぽいとその辺に放り投げ、冷蔵庫の中から水を取り出した。ごくごくと座りながらそれを飲んでいると、ちょっと待てよと言いながらザップが玄関先からやって来た。とは言えそんなに部屋は広くはないのだが。レオは無言でちらりと横に突っ立っている男を見上げたが、返事をせずにペットボトルを冷蔵庫にしまった。ぱたん、と冷蔵庫が大人しい音を立てる。
「あ―――、いや、だからよ。……わ―――悪かったって。な?な、だから許せって」
「………………。」
こんなにひどい謝罪初めて聞いた、とレオは思いながら立ち上がると、横にいるザップをちらりと見た。いつもと大して変わらないかと思いきや、それなりに焦った表情はしている。「…………。」レオは無言でプイと先輩から顔を背けると、すたすたと部屋の中央の方に歩いて行った。「レオ!」だから、という声にも返事をする気が起きず、さっさとシャワーを浴びようと溜息を吐いた。ばさばさと服を脱ぎ始めたレオのところまでザップはやって来ると、ありゃ、と意外そうな顔になった。
「え?なに?ヤんのか?あ、…あーなるほどそーか。わかった今日は俺が奉仕してやっから」
正常位で、と言われた直後だった。ぶん、と自分の腕が動いたのは意思とは別のなにかだった。どれと言われれば怒りなのか悲しみなのか、それとも考える前に腕が動いていたとでもいうべきか。ともかくレオは半分脱ぎかけただった上着を思い切り隣にいた男に向かって投げつけた。
ぶっという声が上がる前にレオは動いた。左足を踏み切るとそのままタックルにも似た状態で先輩の腹に向かって右足をぶつける。蹴るというよりはぶつけるという言い方があっているとレオは思った。げほ、という咳き込んだ音と一緒にベッドの上に二人でごろごろと転がった。壁に先輩の背中が思い切りぶつかったから、隣人が驚いたかもしれない。
「いっ……、…て、っめこら、」
何すんだよ、と言ったザップの声はいつも通りだった。成人していないとはいえ、ほぼ成人している男に腹を蹴られたのに何のダメージも負っていない。今度こそ、流石ライブラの構成員だ、とレオは――――やっぱり思う余裕がなかった。
「あのな俺今日飯食ってねーからいーけど下手したら、」
吐くだろ、と言いながらザップがレオの下で投げつけられた服を退けた。その姿が。
ぼやけてよく見えない。

「………………………………あ」

直後ザップが引き攣った表情になった理由をレオは知らない。
ただし自分の両眼がぼやけた視界になり始めた理由くらいは知っていた。

「………、…じゅ、…」
十七回目ですよ、と言ったレオのそれにザップは狼狽えたような顔になった。「…な、」なにが、というその声も明らかに狼狽していたのだが、レオはそんなことに気が付く余裕がなかった。「…ど、…どーせあんたは覚えてないし、…てゆか俺も覚えてないから適当だけど」適当なのかよと言いながらザップがそろそろとレオに腕を伸ばした。もう拒む元気もなかったので、レオはそれを無視した。それをいいことかどうかはわからないが、そのままザップはレオを引き寄せて、黙って抱き締めた。
「……せ…世間一般がどうなのか知らないし、……、…ぶっちゃけ俺がザップさんの立場だったら…っ、…こんなんされたらめんどくせーってなるけど、」
そう言った声が泣き声だと分かるようになったので、レオは自分自身に辟易した。何でこうなるんだ。俺の涙腺はこの人に会ってからほんとに、ずっとバカだ。そう思いながらごしごしと眼を擦った。「……つ、付き合ってもないのにおかしいですけど…」「ちょっと待て」そこでザップからツッコミが入ったので、レオは顔を顰めながらのろのろと顔を上げた。目から落ちている涙が頬を流れていて鬱陶しいことこの上ない。そしてそのぼやけた視界の中には、むっとした表情のザップが見えた。
「お前俺と付き合ってんだろ。ふざけんなよ何が付き合ってもねーだよ。付き合ってるだろ」
「………え。…つ、付き合ってるんですか?」
「付き合ってるだろ。おめえは付き合ってもねー相手とキスしたりセックスしたりすんのか」
「……………。」
俺はできるけどおめえはできねえだろ、と続けて言われて呆気に取られた。いやできますよ。全然出来るって。何言ってんだこの人。てゆか最初は俺たちだってそうだったじゃん、と思ったがレオはそれを口にしなかった。その時のそそれと、今ザップが言った意味は違うような気がしたからだ。
「………悪かったって」
泣くなよ、と言ったザップの声は非常に困窮していた。いつもそうだが、レオが泣くとこの男はいつもこうなる。最初は怒っていたが、なんだか徐々に困るようになった。レオはその理由を知らないが、一回だけ映画を見ている最中に聞いたことがある。
―――――あのー、いつも思うんですけど何でそんな顔するんですか?
―――――は?
嫌そうな顔をしてレオから目を逸らしていたザップは、レオのそれにやっとこちらを向いた。が、レオがまだ泣いているのを見てげんなりした顔をすると、溜息を吐いてごしごしとその辺にあったレオのパジャマで顔を拭い始めたので痛い痛いとレオは文句を言った。とにかくこの男はやることなすこと乱暴なのだ。
―――――だって別に痛いからとかで泣いてるわけじゃないのに。
―――――どーでもいいだろそれは。
―――――それ?
それってなんです、と言ったレオにザップはまだ嫌そうな顔をして、理由はどうでもいいんだよ、とわかるようなわからないようなことを言った。ただおめえみてーなガキが泣いてるの見るのはなんかヤだろ、と言われたその意味はさっぱり分からなかった。子供が泣いてるのが嫌いってことか、と思ったがどう考えてもレオが子供に該当するとは思えなかったし(先輩もレオのことをガキ呼ばわりするが、それはレオが嫌がると知っての悪口だからだ)、しかもザップが赤ん坊や幼子が泣いているのを見て狼狽える図というのは全く想像がつかなかった。むしろうるせーなコラと文句を言いそうだ。予想に過ぎないが、だとしたら最低だ。
だからレオはいまだに自分が泣くのをザップが嫌がる理由を知らない。ただ、ザップは大抵そういう時黙っている。自分が慰めるのを下手だと思っているのかもしれない。確かにそういう行為は彼には似合わなかった。
似合わないけれど。
―――それが真実だとは限らないのに。
後ろ髪に這わされた手が動いた。指がどうやらレオの髪をいじくり始めたらしいが、いかに神々の義眼を持っているレオもそこまでは見えない。目がない。「………。」黙っているレオのことをまた軽く抱き締めながら、レオ、とザップはほとほと困ったように言った。
「…泣くなよ。もーしねえよ」
「…………………それ」
言うの何度目か分かってます、と言いながら顔を上げる。うぐ、と明らかにザップは痛いところを突かれた顔をしたが、いやそりゃおめえ、と言いながらレオから目を逸らした。「…あー、…ほら、…じゅ、」十七回目なんだろ、とぼそぼそと言った声が聞こえて、レオはきょとんとする。先輩の目はレオではなく部屋の隅の方を見つめていたが、物凄く焦っているのがありありと分かった。
「……………悪かった」
ごめん、と言った後今度こそぎゅっと抱き締められたのでレオは黙った。「…………。」ザップの身体からは香水の匂いも、シャンプーの匂いも、それから石鹸もボディソープの匂いも何もしない。いつもと同じ、煙草の匂いがした。
「………………………愛人に浮気を責められた時の言い訳をしてください」
「は?」
一分くらいそうやって二人で黙っていた。そして一分後、漸く口を開いた自分が言ったのはその一言だった。当然ザップは面食らった声で腕の中にいる自分を見下ろしてきたので、レオはそこから目を逸らす。「…愛人にも今みたいに浮気を責められたことあるでしょ。そういう時みたいに言い訳してくださいよ」「はあ?なんでだよ」「しなきゃもう俺ザップさんとこーいうことしません」そう言い放つとザップはうっと呻き声を上げた。どうやら”別れる”という漠然とした条件よりこっちの方が彼には覿面らしかった。
「……女って…えーと。…ちょっと酔っぱらったから泊めて貰っただけで…何もしてねえとか…あとは…あー……無理矢理奪われたとか…あとはえーと。…ちょっとした気の迷いとか…」
そんな感じ、と言ってザップはこちらを見た。「……なんか…思ってたよりフツーっすね」「なんだよソレ。普通だよそりゃ」てか浮気の奇抜な言い訳なんかねえだろ、と言ったザップにレオはやっと、苦笑いしてそうですね、と言った。それを見てちょっとだけザップはほっとしたように息を吐くと、ごめんともう一回言ってレオの頭を撫でた。
「…………悪かったって。だから、」
「何で言い訳しないんすか」
そう言った自分の声は泣き声じゃなかった。だからレオはやっと安心してほっと息を吐いたが、ザップは途端に虚を衝かれたような表情になる。レオはそれを見ながら、ごくんと唾を飲み込んでもう一回口を開いた。
「…何で言い訳しないんです。愛人には言い訳するんでしょ?」
「し―――…いや、そらするけど…」
お前言い訳してほしーのか、と言われて怪訝に思う。そんなこと言ってねーし。何でそういう発想になるんだ、とレオこそ変な顔になった。「…いや、別に俺願望言ってるわけじゃないし…」「あ?…いや、…まあ…そーだろうけど……」そう言ってザップは気まずそうにレオから目を逸らした。全然訳が分からなかった。何でそこで気まずそうにするのかも、目を逸らしたのかも。ついでに言えばさっき虚を衝かれたような顔をした理由も、レオには全く分からなかった。
「…てかおめーもさー」
俺が浮気したら怒るんだな、とザップは今更のように言ってレオのことを退けた。「わわ」声を上げてごろんと横に転がってレオの横で、ザップは起き上がると煙草を咥える。かちんという音と一緒に煙が室内に漂い始めた。
「…あのー。今更じゃありません?もうこれ、」
「十七回目なんだろ」
そう言ってザップはふうと煙を吐き出した。「…禁煙なんですけど」そう言うと渋々といった様子でザップは立ち上がり、窓を開けて窓枠に無理矢理腰掛けた。危ないっていつも言ってるのに、とレオは思ったものの口にはしない。もうそれこそ、十七回どころかもっと言っていることだからだ。そしてそれをザップが聞いたことは今までに一回もない。
「…言い訳しねーんすね」
そう言ってザップに背を向けた自分に、ザップは何も言わなかった。「…………。」愛人には言い訳をするのに、レオにはしないということは、つまりそーいうことじゃないんだろうか。そう思ってレオはなんだか益々泣きたくなった。―――言い訳するような相手でもないってことだろ。
「………おまえに言い訳するじゃん」
たとえばよ、とザップがぽつりと言った。煙の匂いを嗅ぎながら、レオはころんと転がってザップの方に顔を向ける。ザップは窓際で夜空を見ながら煙草を咥えていた。

正確に言えばザップはレオから目を逸らしていただけで、夜空を見ていたわけじゃなかったが。
レオにはそこまではわからなかった。

「…そーすっと俺のキャラが崩壊すんだよ」
「は?」
何を言ってるんだ、とレオは思って変な声を上げてしまった。むしろ言い訳しない方がおかしくない?と思ったのは口にしなかったが、それはあまりにびっくりしてしまったからだ。いつもだったら何言ってんすかアホですかとか言いながら軽く殴っているところだ。それはそれで酷いけれど。
「…言い訳っつーかまあ嘘だろ。嘘じゃねえこともあるけど」
「……………。」
今回はどうだったんだ、という意味を込めて視線をザップに向けたが、ザップはレオと眼が合った途端ぎくりとしたようすで顔を背けてしまった。「………。」ダウト、と思っているレオに向かって、ザップの声がやってくる。
まるで音楽みたいに。
「…言い訳しておめえが納得するとも思えねえしよー。……それになんか」
そーいうことでおめえに嘘はつきたくねえ、と言われてレオは呆気に取られた。…何それ。変な顔をしているであろう自分に、やっとザップが視線を戻してきた。「…だから」キャラ崩壊って言っただろ、と言いながらザップが煙草を外にポイ捨てするのが目に入った。
「あ、」
危ないでしょ、とレオが起き上がった直後だった。ザップが窓を閉めた音がした。
さっきと全く同じだった。
――――抱き締められるのはいまだに緊張する。
「なあだからよー…別れるとか言うなよ。悪かったって」
「…………そんで許したら俺は希代のお人好しでしょ…」
いいですよもう、と言いながらザップのことを押すと、いいですってどういうことだよ、とザップが言った。「おめえ俺を捨てる気だな。レオの癖に」「す、」捨てるってあんたね、と思わずレオは笑ってしまった。むしろこっちが捨てられたようなものなんですけど、と思いながらレオはいいっすよともう一回言った。
「え?」
「…だからまあ、…いいっすよ。……俺は希代のお人好しですから」
十八回目はありませんから、と言っている途中で息をするのが難しくなった。抱き締められるのは、さっきもそうだったがやっぱり緊張する。頭を撫でられたり、背筋を撫でられたり、それから耳元で名前を呼ばれるのも慣れることがない。きっとそれは十七回どころかずっとそうだ。百回でも二百回でも、そうなのだ。


結局こうやって毎回流されて、宥めすかされて、それから誤魔化されている。「……………いーけどべつに」十八回目は絶対ないから、と言いながら先輩の腕の中で眠ることにした。安心したらしく、レオより先にすやすやと寝息を立てているザップは非常に機嫌がよさそうだったから単純なものだ。俺の人のこと言えないけど、とレオは溜息を吐いて目を瞑る。十七回目の涙がしみ込んだシーツは替えたから、洗剤と、それから。
ザップの煙草の匂いがした。




***

それで言わなかったんですか、という弟弟子の声は驚いていた。「どうしてです」「どうしてってあのな…言ったところであいつも信じねーだろ」そう言ってりんごをポイと放り投げたので、わわっと慌てた様子でツェッド・オブライエンがそれを受け取った。
「…馴染みだった方がこの街から故郷に帰るからってわざわざ会いに来てたんでしょう?それで別れの挨拶をしてたってことじゃないですか」
「そーだな」
そう言いながら今度はオレンジを手に取った。さっきと同様に乱暴に投げると、ツェッドは今度はそれをきちんと受け取って籠に入れる。「…十七回目なんだとよ」「…その…あなたが浮気をした数でしょう?」「レオも流石に覚えてないからテキトーらしいけどな」そう苦笑して言うと、ツェッドは変な顔をした。真面目な割に表情は豊かだよな、とザップはひどいことを思った。こういうところは、言いたくなかったがレオと似ている。
「それが何なんですか?」
「……俺からすれば一回も百回もねーわけよ。ワンアウトで終了だっつの」
「…レッドどころかイエローで退場ですか?」
バスケじゃファール一つ目でだな、と笑ってもう一個オレンジを手に取った。「ほれ」「投げないでくださいよ」そう言いつつ、ツェッドはきちんとオレンジを受け取った。
「……数の問題じゃねえだろ。…あいつがさー…」
そーいうのに気が付く時ってくるんかね、と言いながら弟弟子に背を向ける。「…………あの、」あなたもしかしてと言いながらぱたぱたとツェッドがついてくる足音が聞こえた。スーパーマーケットのBGMは案外煩かったが、平日かつ昼間のせいか殆ど店内に客はいなかったのだ。なんだよ、と言いながらポケットをまさぐったあと、ここは禁煙だと思い出した。クソめんどくせえな、と怠く思ってポケットに手を突っ込んだまま歩き出す。
「………十七回どころか、…その、………」
ゼロ回なんじゃありませんか、と言われてザップは一瞬足を止めそうになった。「…………。」これだからこいつは嫌なんだ、と苦々しく思いながらぐるりと後ろを振り返る。
「…なんでだよ」
「……いえ、なんとなく。……本当にそうなら、その、…余計なお世話だとは思いますけど」
言った方がいいのでは、と言いながらツェッドが恐る恐るといったように首を傾げた。どうもザップとレオのことについて口を挟むのは悪いと思っている、らしい。大体ツェッドはこの手の話の時、そういう態度を出してくるが、意味がわからんとザップは思う。別段ザップとしてはなんとも思わないし、大体ツェッドの意見を自分が聞くとは思っていない。新聞の投書欄を読むような気持ちで聞いている。たとえばそれが興味本位だとか、一石を投じてやろうとかいう意味だったらザップだって怒ったり無視したりするだろうが、ツェッドのそれはそうじゃないことが分かり切っている。ただしそうだろ、と言われてもたぶんザップは頷かない。ひねくれているのだ。
「……言ったらあいつがどーなると思う」
そう言ってひょいと塩を手に取って、今度は投げずにツェッドが持つ籠に入れた。「…レオくんが…ですか?えーと、…それは………」そこでツェッドは合点した顔と、呆れた顔が一緒くたになった表情をした。どうもこちらの意図を察したらしいが、その顔はムカつくぞオイと思ってザップは弟弟子を睨んでしまった。
「……レオくんを泣かせたくないからなんですか?」
「んなこと言ってねーだろバカ。俺を聖人にすんな」
「…聖人というより…」
レオくんが悲しんだりするのが嫌なんでしょう、とまるで道徳の授業のようなことを言いながら、ツェッドがとことこと後ろからやってくる足音がする。んなわけねえだろ、とザップは嘘を吐きながらすたすたと鮮魚コーナーを通り過ぎて、ほら早よ会計してこいとレジを指さした。ツェッドは黙ってザップをじっと見つめたあと、わかりましたと溜息を吐いてそう言った。「………そーいう優しさは」
あなたに似合いませんけどね、というそれを聞いて知ってるわとザップは思う。そうだ。似合わない。本当に似合わない。自分だったら絶対に、反対にレオを責めてる筈だし、浮気だって実際していないんだからそれをこれでもかとばかり主張するはずだ。ただなぜかいつも責められている間にそうしようと思う気はなくなってしまう。理由はわからない。本当にわからない。自分が誰かといることに対して嫌がっているレオの顔を見るのが好きだという理由じゃなければいい、とザップは思いながらツェッドのことをスーパーの駐車場で待った。―――もしそんな理由だったら、本当にその時は。
…………本当に。

お待たせしました、と言いながらツェッドが戻って来たのを見て、おせーよバカと言いながらザップは車止めから立ち上がった。


書いてみたもののザップさんこんなことしないよな〜〜となる 恋に狂ってもこういうやり方はしなさそうです 書いたけど