幸せという名の、
2016/10/10
そこで電子音がいきなりマイナー調になった。
レオのゲームを勝手に進めていたが、どうやらそれに飽きたらしい。ザップがぽいと投げるようにベッドに置いたその本体画面には、ゲームオーバーの文字がでかでかと映っていた。当然、レオは顔を顰めてザップを見つめる。
「俺のパーティを全滅させないでくださいよ…」
「お前のパーティなんで賢者がいねーんだよ。絶望的じゃねーか」
そう言って恨めし気にこちらを向いてきたザップは、さっきまで座っていたレオのベッドに、ぱたんと寝転がった。勝手にやったのにその言い草かよ、とレオはとりあえずベッドに座ると頭をタオルで拭う。
「いつもミシェーラに任せてたんすよ。パーティのバランス」
だから、と言ったレオにザップは意外そうな顔を向けた。「え。ミシェーラちゃんゲームすんの?」「しますよ。てゆか俺がしてたの見てたらちょいちょいやるようになって」格ゲーとか俺より強いすもん、と言ったレオにザップが爆笑した。予想はしていたがそこまで笑うことないだろうに、とレオは思って再度髪をタオルで拭った。
夜は暗い。外の景色は真っ暗な割に煌々と明るい。どっちだと言われても困る。紐育の名残なのか、それとも霧の街独特のためなのか、いずれにせよレオの部屋の窓から眺める空は薄暗いようで明るい。任務でたまに見る夜空だってそうなのだから、どこから眺めてもこの街の夜は暗かったり明るかったりするのだろう。魔境と言われるこのヘルサレムズ・ロットにはぴったりだった。
ぱちりと部屋の電気を消すと、ザップが壁際に寄った気配がした。「……横入りますよ」「んー」その声のあと、レオは無言でベッドに潜り込んだ。
いつからなのかは定かではなかったが、たまにレオの部屋にザップが泊まるようになった。愛人がつかまらないとき。修羅場を起こしたとき。大抵はその二つの理由が主だったが、どっちにしろ回数は徐々に増えている。俺の家は簡易宿泊所じゃありませんけど、とレオはたまに嫌味どころか直截的な文句を言うのだが、ザップにとっては馬耳東風だ。大抵ふーんという一言で済ませらてしまう。
最初に揉めたのはベッドの主導権だった。
俺の部屋なんだから俺が使うべきでしょ、とレオは当初そう主張した。しかしザップはなぜか先輩なんだから俺に譲るべきだろと厚顔無恥にもレオにそう言ってきたのだ。冗談だろとレオは絶句しつつ、けれど最初は譲歩してじゃんけんで決めていた。が、それもなんかおかしいですよ、とレオはつい最近になって言うようになった。どうして俺が譲らなきゃいけないんだ?俺が家賃を出して俺が契約をして俺が住んでる家なのに。
そう正論を言ったレオに、わかったよとザップは根負けしたのか不貞腐れるようにそう言って、けれどそれじゃよと妥協案を提案してきた。
―――死ぬほど嫌だけどベッド半分にしようや。
それを聞いてレオは呆気にとられた。まさかとは思いますけど俺のベッドを真っ二つに、と言ったレオは軽く小突かれた。そうじゃねえよと言われて流石にレオもその発言の真意に気が付く。死ぬほど嫌だけどはこっちのセリフだ。そうは思ったが、言わなかった。
言ったらぶたれるのは目に見えていたし。
死ぬほどというのは、ちょっと言い過ぎだったという理由もある。
それから本当にベッドを半々で使うようになった。大抵ザップは壁際で、レオは反対側だ。狭い。とても狭い。シングルベッドに男二人はかなり狭いし、大体レオの部屋は基本的に狭いのだ。ベッドだってそんなに大きくない。
けれど何故かザップもレオに対して狭いとか邪魔だとか文句を言わなかった。よくよく考えれば、彼はいつも一つのベッドで基本二人『以上』で寝ているのだ。慣れているんだな、と最初の夜にレオは彼の寝顔を見てそう思った。すやすやと素直に眠っている先輩の顔を見たあと、肩を竦めてレオも眠った。自分だけ騒ぐのはいたく馬鹿馬鹿しかったし。
それになんだかレオもあんまり狭さを感じなかった。
理由はわからないけれど。
はっとして目が覚めた。「………、」妹の話をしたせいなのか、それともこれがレオの定期的なサイクルになっているのかわからないが、彼女の夢を見てしまった。
「……………………、」
そっと外を見ると、ちかちかと遠くのビルの屋上が瞬いているのが見えた。光は音もなくゆっくりと動き出したので、ビルなのか他の生き物なのかは分からない。
夢を見るのは構わないし、妹の夢を見るのが嫌いな訳ではない。むしろ暫く顔を見ていないから、夢の中で会えるならそれはそれでレオは嬉しいと思う。思うけれど。
けれどまた、あの時の夢だった。
「………………。」
夢というよりもそれは現実なのだ。過去にあったことを繰り返しているに過ぎない。枕元に置いてあった時計を見ようとして―――やめた。そんなことをしたら益々眠れなくなる、とレオは判断してそっとうつ伏せになり、肘をついて外を眺める。光に照らされた霧が見えた。
――――あたしにそういう声で話すのやめてよ。怒るわよ。
つい先日、電話でそう言われたことを思い出して、ちょっと笑ってしまった。もう怒ってるだろ、と言ったレオにそうよとミシェーラはやっぱり怒った口調でそう言ったのだ。だからお兄ちゃん、と彼女が言ったその声も、言い方もありありとレオの中には残っている。
――――幸せから逃げないでよね。
――――怒りとか不幸とか、あとはそうね、悲しみとかからは別に逃げていいわ。
――――けれど絶対に幸せから逃げないで。
そっちは逃げていいのかよ、と困惑して言ったレオに対して、いいわよとミシェーラは澄ました声でそう返事をした。そう言ったところでどうせお兄ちゃんは逃げないから、と拗ねたように続けられ、そんなことないけどとレオは一応そう言った。そこまで自分に自信はない。逃げる自信も、逃げない自信もない。その時にならないと分からないとレオは思った。
――――だから次に会った時はその話をしてちょうだい。
それを聞いてきょとんとした。どの話だよ、と言った自分にその話よ、と彼女はもう一度同じ声で言った。屹然とした、あの時のような声で。
――――お兄ちゃんの幸せの話よ。
「……………幸せってさー…」
恥ずかしい言い方だ、とレオは遠い地にいるであろう妹に苦笑して、やれやれと溜息を吐く。もう散々話したじゃん。ここに来て、ライブラに入って、色んな事件に関わって、馴染みの店が出来たこととか、いろんな人と会ったこととか、友達が増えたことだとか。前を向ける言葉をかけてくれる人が大勢出来て、頼れる人が沢山出来て、それに一緒に飯を食べる人も出来たし。
なぜか今隣で寝ている人もいる。
――――充分だ。
もう、それはレオの中にとっくにあるのだから。
「…………………綺麗だなあ」
外を見てそう呟いた時だった。
「さっきからうるせーなもー…」
その声にぎょっとして慌てて横を見つめる。壁の方を向いて寝ていたと思われたザップが、いつの間にか仏頂面をこちらに向けていた。「わっ。あ、すんません。起こしました?」「…おめーがぎゃあぎゃあ喚いてるからだ。一人で」「喚くってほどじゃあないでしょ」そうは言ったものの、すんませんとレオはぺこりと頭を下げる。ザップは半眼でレオのことを見つめていた。
「…もう静かにしてますから」
「………寝ねえのかよ」
「え」
おまえ、と言いながらザップは目を擦った。そんなことをしたら目が冴えるのでは、とレオはちょっと不思議に思いながらはあ、と生返事をする。「…眠くなったら寝ます」またかよ、とザップは言うとごろんと今度こそ身体ごとレオの方を向いた。なんだかそれだけでもちょっとベッドが更に狭くなったような気がする。距離が近くなったように思えるからだろう。
けれどそれよりも、ザップに言われたことの方がレオには気になった。
「…またって」
「…まただろ。何度目だよ」
その夢、と言われて、思わずごくんと唾を飲み込んでしまった。
一回だけ。
一回だけ、自宅にザップを泊めた時にそれは起きた。今よりも格段にその夢という名の現実に近しいところにいたレオは、悲鳴こそ上げなかったものの、酷く魘されていたところをザップに起こされたのだ。うるせーよバカ、といういつもの罵詈雑言は全くなかった。聞いたことがないザップの声でレオ、と呼ばれて、レオは身体を引き攣らせながら目覚めたのだ。
夢を見た直後に誰かの顔を見るのは初めてだった。
そのせいもあって、どうしたと聞かれてレオは正直に夢の内容を話していた。もしかして許されたかったのかもしれない。全然、自分達とは関係ない場所にいる誰かに、お前は悪くないと言われたかったのかもしれない。だから堰を切るようにしてその話をし終わった後、レオはひどく後悔したのだ。言うんじゃなかった、とそう思ってすみませんとザップに呟くように謝った。
先輩は変な顔をしていた。何で謝るんだよ、と言われたがレオはそれには答えず、すみませんともう一度言って寝ます、と言って黙った。その時点でレオは俯いていたから分からなかったが、ザップはその後すぐにベッドから降りると、冷蔵庫からボトルの水を持ってきてくれた。ほら、とそれを渡されて水を飲んだ後に、もう一度謝ろうとしたレオをザップは止めた。
―――…俺はその場にいなかったけどよ。
―――やめてください。
そう撥ね退けるように言った自分の声は震えていて、いたく情けなく聞こえたからレオは泣きたくなった。自分から手を出しておいて、掴まれようとしたら振り払うような、そんな気にもなる。そんなことをしたかったわけじゃないし、ザップが珍しくレオに気を使っているということくらい、レオにだって分かっていたのだ。分かってはいたけど。
――――オメーが自分で自分のこと許したくねえんだろ。
ザップはぽつりとそう言った。
――――そんじゃそれでいいんじゃねえの。
そう言われて漸くレオは顔を上げた。ザップは少し気まずそうな顔をして、レオを見ていた。別にいいだろ、と続けて先輩は言うとそこでやっとレオから目を逸らしてくれた。
――――だからお前、ここにいるんだし。
――――…それって、
どういう意味ですか、と呟いたレオに、どーいうってよ、とザップは珍しく困惑した様子で言うとレオの方にまた向き直った。レオにじっと見つめられているのが嫌だったのかもしれない。気まずそうな顔のまま、それでも彼はレオから目を逸らさなかった。
――――俺はおめーがここにいてよかったよ。
そう一気に言ったかと思うと、呆気に取られているレオの腕を引っ張って、ザップはベッドに潜った。わあ、と声を上げたレオを見て、そこでザップはいつもみたいに笑って言った。
―――…そーいう顔の方がよ、
おめえらしいよ、と言われた後になんだか今度こそ泣きたくなって、レオは俯いて目を瞑った。その日珍しく先輩はレオの様子を見ながら眠ったらしい。レオは先に寝てしまったからはっきりとは分からないし確証はないが、恐らくそうなのだ。何しろ翌日ザップは一日中眠そうだったし、欠伸ばかりしていた。割にレオが近づくと普通そうな顔をしていたのだから、分かり易かった。
その時の言葉を、レオはなぜか思い出してしまった。「……………。」溜息を吐いて仰向けになり、目を腕で覆ったレオの横でおい、と先輩の声がする。「…ごめんなさい。静かにするんで」「そうじゃねえよバカ。お前これ朝までコースだろ」「………、」徹夜するんだろ、という意味なのだろう。レオはのろのろと腕を離してザップの方を向いた。
「…いや、眠くなったら寝ますから」
「だから寝ねえんだろそれで」
「…………………。」
すんません、と言ったレオに、ザップがむっとしたような顔を向けた。その表情の意味するところはさっぱりレオにはわからなかったが、けれどももう一度すみません、とレオは言ってまた天井を見つめる。
「…おやすみなさい。大丈夫です。寝ます」
「………………おめーさ」
今何で謝ったんだよ、と言うザップの声にレオは返事をしなかった。したくない。「聞いてんのかよ」その焦れたような声に耳を塞ぎたくなる。やめてくれ。
たぶん今、それが一番困ると思った。
別に慰められたいわけでもないし、最初の時のように許されたいわけじゃない。かといって責められたり、怒られたり、叱られたいわけでもない。優しくされたいのも違う。かと言って放っといてほしいのかと言われても頷けない。わからないわけじゃなかった。レオが今一番望んでいることは。
「……レオ」
――――今一番望んでいることは。
同時に今一番望んでいないことでもある。
無言でのろのろとまた先輩の方を向く。「………べつに何もしねえよ」ぶっきら棒にザップはそう言って、そっとレオの前髪をかき上げるようにして触った。恐らく今言った何もしない、というのは慰めたりとか、怒ったりとか、そういう意味なのだろう。けれどだからなのか、ザップはどうしたらいいのか少し悩んでいるようにも見えた。
沈黙が起きる。
外から救急車のサイレンが聞こえてきたところで、レオが口を開いた。「……………………ザップさん」「…あ?」なんだよ、と言ったザップはちらりと横目でレオを見たが、その顔はどう見ても機嫌が悪そうだった。怒っているというよりは、機嫌が悪い。眠いのかもしれない、とレオは恐らく的外れだと自分でも思いながらそう思った。たぶん、そういう理由ではない。けれどその理由を考えてザップを思いやれるほど、今のレオには余裕がなかった。
「…ザップさんって、…どーいう時に幸せだなって思います?」
「は?」
何じゃそりゃいきなし、と言いながらザップは呆気に取られた表情でレオの方を向いた。そりゃ確かにこの流れじゃな、とレオは思ったが、けれどザップはこの雰囲気を払拭するに丁度いいと思ったらしい。そーだな、と珍しく素直に考えるような顔になると、ああ、とどうやらたどり着いたらしい答えを言うべく口を開いた。
「女抱いてるときとかパチンコ当たったときとか飯食ってるときとか」
「…一個にしてくださいよ」
「一個だあ?」
めんどくせーな、とザップは言ったかと思うと欠伸をした。そういえばこの人は寝ていて、俺のせいで起きたんだった。なにも無理にレオに付き合う必要はない、とレオは思ってそろそろと口を開いた。「…あの、すんません。寝ていっすよ。俺ももうたぶん眠れるから」そう言ったレオの額にずい、と手が伸びてきた。あまりに一瞬のことで思考が追いつかず、え、と思った途端にデコピンされた。
「あて」
「一個ってよー、…んー…」
いたいです、と小さく言ったレオの方に、ザップはぐるんと身体ごと向けて言った。「何がいたいですだよバカ。遺体はキャンプ場の湖の傍だ」「そ、それはこないだ見た映画でしょ」やめてくださいよ、とそのホラー映画を思い出しながら思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「おめーが見たいって言ったんじゃねーか」
「ザップさんがいるなら平気だと思ったんですよ」
そう言うと、なぜかザップは少しぎょっとした顔になった。そこでなんでそんな顔をしているんだろう、とレオは思いはしたものの、それでと呟くようにして言って話の先を促した。
「……あ?あー、……、…………んじゃ」
それ、とザップは意味不明なことを言った。「え?」「だからソレだよソレ」「ど、どれですか?」全く意味がわからなかった。レオじゃなくてもわからなかっただろう。それってどれだよ、とレオがもう一度言う前に。
直後の出来事によってごくんとレオは唾を飲み込んだ。
身体を引き寄せられたのは初めてだった。
「……、…あ、…あの、」
「あーうるせえなんも言わんでいい。俺は今からてめえの話を聞かねえ」
ザップは乱暴にそう言って、レオが呆気に取られた隙を取ったわけでもないだろうが、レオを抱き寄せたまま、おめーさ、と呆れた様子で言った。
「…そんな真面目に生きてて疲れねーのか」
「………………、…真面目、…っちゅーわけじゃ」
「うるせーな。さっき聞かねえって言っただろ」
じゃあなんで今質問したんだ。流石にそう思ったレオからザップは視線を逸らして、さっきのレオみたいに窓の外を見た。外からは何かの機械音や、車の音が聞こえてくる。「…前も言っただろ。別におめえが自分を許したくなきゃそんでいいだろ。許さなくていいんだよ」「…………でも」たぶん一生許せないです、と小さく言ったそれに、ザップはさっきのように特に文句を言わなかった。沈黙が降りる。レオはぼんやりと先輩の顔を見つめていた。
綺麗だなあ、とそう思った。
黙っていれば、と注射を脳内で付け加えた後、自分の眼から涙が落ちたことに気が付いた。横を向いていたせいなのか、それとも眠気のせいなのか、はたまた現在の状況のせいなのかは分からなかった。けれども数滴だけの涙はレオの頬とシーツを濡らした。
「…別にいんじゃねーの。そんで」
「え」
一生許せなくても、とザップはいたく怠そうに言うと、のろのろとレオの方に視線を戻して小さく言った。既にその時レオの涙は零れ落ちていて、特に新しいそれが生まれる兆しはなかった。本当に、たった数滴だけの涙だったらしい。
「…たぶんお前、…ミシェーラちゃんに許されても許さねえんだろ。てゆか」
あの子はおめえのこと許すもなんもねえと思うけど、と言われてレオは視線を下に向けた。その通りだということは、恐らくレオが誰よりも分かっている。
「……よく言うだろ。一生を誓うとか、一生涯大事にするとか、一生、」
そこでザップは言葉を切って少し悩むような顔をした。
「……愛してるとか」
そう呟いたあとにザップは変な顔をするとレオからプイと視線をまた逸らした。悩むような意味は、恐らく言葉を探していたからだろうとレオは推測したが、その後された表情の意味はよくわからなかった。なぜか苦渋の決断をしているような、そんな顔だった。
「……………結婚式でよく、聞きはしますけど」
ぽつりと言ったレオに、だろ、とザップはなぜか辟易したように言って、それから窓の外から視線を戻した。そのせいなのかどうか、レオの枕が勢いよくへこむ。外の景色には飽きたのだろうか。
「…ソレと一緒でよ。別にいいんじゃねえの。そーいうの以外でもいいだろ。一生許さねえとかサスペンスとかで聞くじゃねえか」
「…………。」
それとこれとは話が別のような、とレオは思った。だから素直にそう言うと、同じだろ、とザップは呆れたように言ってレオの方にまた視線を戻した。さっきから忙しい。「…だっておめえよ、万が一おめーの立場にお前じゃない奴がいたら」一生そいつを許さねえべ、と言われてレオは呆気に取られた。そんなことを想像したことはなかった。なかった――――けれど。
こくんと頷いたあとにほらな、とザップは呆れたように言った。「…理屈じゃねえんだからいいんだよそんなんは。一生許さなきゃ許さねーでいいだろ。ぶっちゃけ俺は問題はそこじゃねーと思うわ」「……問題?」問題って、と言ったレオを見ずに、ザップはのろのろと口を開いた。
「…そーいうのを忘れなきゃいんじゃねーの。許すとか、許さねーとか。…さっき言ったみてーによ、一生誓うとか一生大事にするとか、内容っつーのは何でもいいんだよ。………それより」
お前が決めたこと一生忘れなきゃいいだろ、とザップは言って黙った。
レオも黙っていた。
けれどお互いが寝ていないのは明白で、レオの眼にはちゃんとザップが目を開けているのがきっちりと見えていたし、レオもレオでぼーっとしてはいたが、きちんと起きて自分を抱き寄せている先輩を見つめていた。
「……あの」
「あ?なんだよ」
最初に口を開いたのはレオだった。ザップは苛立ったような、半ば怒ったような声でレオに返事をしたが、どうしてそんな声なのかは今一わからなかった。照れ隠しなのかもしれないが、その原因である今の状況がなぜ生まれたのかレオにはさっぱりわからない。
考えてみたら変なのだ。同じベッドに寝るならまだしも、抱き寄せられている。
けれど今はそれはいい、とレオは思いながらのろのろと口を開いた。
「………………今かも」
そうぽつりと言ったレオに、ザップが怪訝な視線を向けた。「なにが」「………、………次、電話で喋ったとき」「は?」意味わかんねえよ、とまたしても怪訝な様子で言ったザップのことを見つめながら、レオは殆ど独り言のそれを呟いた。本当に、呟くという言い方がぴったりだった。
小鳥はさえずって、馬はいななくように。
星が瞬くように。
ザップがレオのことを見つめている。
「…………今…」
そう言ったあと今度こそ涙が落ちた。途端にザップがぎょっとした顔をしたが、それを無視してレオはぎゅう、と先輩の肩口に自分の目を押し付けた。「だ、な、…お、……おい」珍しくひどく焦った先輩の声が聞こえる。けれどレオはそれもまた無視して黙って泣いた。何で泣いているのかは説明できなかったし、大体自分でわかっているかどうかも怪しい。けれども困惑した様子だった先輩がぽんと軽くレオの背中を撫でてきたとき、はっきりとレオは思った。幸せになりたくないわけじゃない。けれど許されたいわけでもない。自分でも何をどうしたいのかわからない。憤りがぐるぐる渦を巻いてレオの中で蠢いている。
「………今がなんだか知らねーけど」
呆れた様子でザップがそう呟いたのがレオの耳に入った。ぎゅう、としがみ付くとなぜかちょっと先輩の心臓が跳ねた気がして、少し怪訝に思った。けれど特にレオはザップから離れなかったし、ザップもレオを離さなかった。
「…前も言ったろ。…今っちゅーなら、…今、……俺はおめーがここにいてよかったよ」
そう小さく呟くと、ザップはなぜか忌々し気に舌打ちしてほらもう寝るぞ、とそのままぐしゃぐしゃとレオの頭を掻き回すように、撫でた。「い、」いたいっす、と言いながら顔を上げたレオを見て、ザップはやっとほっとしたような顔をする。「…ソレ」「…………、……え?」だから、とザップはレオのことを見ながら、少しだけ眠そうに笑った。
「…ソレだって」
おやすみ、と直後投げるようにザップは言うと、レオの頭をぽんぽんと二回撫でて目を瞑った。「……おやすみなさい…」そう言ってレオはじっと先輩のことを見つめていたが、ザップは本当にすぐに寝てしまった。恐らく本当に眠かったのだろう。悪かったな、とぼんやりと思いながらレオも目を瞑った。
―――ソレだって。
そう言われた意味はさっぱり分からなかったが、ザップだってレオが呟いた意味を分かっていないのだ。お相子もいいところだった。むしろ両成敗って言った方がいいかも、とレオは思いながらそろそろと忍び寄って来た二度目の睡魔と手を繋ぐ。今だとか、ソレだとか、今夜の自分たちの間には圧倒的に言葉が足りない。けれどそんなこと、大した問題じゃないようにレオには思える。
「…今だよ」
小さくそう言ったのは寝ぼけていたせいなのか、それとも夢でまた妹に出会ったのか、レオは覚えていない。けれどたった一つ言えることがある。たった一つ、分かっていることがある。
ザップの腕の中は別にレオを許してくれる空間だとか、レオに優しい空間だとか、そういう場所じゃない。けれど。
けれどその腕の中はとても温かかった。
どんな過去にも負けないくらい。
終