中学生日記

2017/03/19

※ツェッドさんが完全に当て馬みたいになってしまいましたので注意

※どう見てもザプレオ←ツェ ですがツェッドさんは意識する前です

※大学生×大学生←中学生

明日お前帰ってくんな、と言われてから二秒後。
「…………はい?」
「だから」
明日帰ってくんなって、と言った義兄が牛乳パックの口を開けた。


「……………どうしてですか?」
そう言って首を傾げたツェッド・オブライエンに、義兄は「何でってよ」と牛乳パックを手に取った。存外この兄は牛乳をよく飲むということを、ツェッドは家計を預かるようになってから知るようになった。
「牛乳、無くなったら買ってきて下さいよ」
普通に普通のことを言った自分に対して、「いちいちうるせえガキだな」とザップは辟易したように言った。ツェッド以外の誰が聞いても、身内の言葉とは思わないだろう。ツェッド自身は、この男のことを身内だとは大して思っていなかったので、問題なかったが。
「いーから明日どっか泊まって来い。友達くれーいんだろ。いなきゃ知り合いの女の家泊まらせてやっから」
「お断りします。もうすぐ中間考査ですから、明日であれば四時には家にいますよ」
ツェッドのその反論を、ザップは聞いているのかいないのか、ついさっき注いだ牛乳を勢いよく飲んでいる。普段だったら文句の方が先に出てくるのだから、この程度は予想してたんだな、とツェッドも思った。

十歳以上年の離れた兄がいる。そう言うと大抵クラスメイトには羨ましがられるのが常だった。いいなあ、そんなに年離れてるんじゃ優しいよね、とかどこか連れてってくれるでしょ、とか、そういうのが羨望の理由らしい。そうですね、とかそんなこともないですよ、とかツェッドは当たり障りのないことを言ってその場をやり過ごし、そしてその日の帰宅途中でいつも溜息を吐く。

―――本当にそうだったら、こうして嘘を吐く必要もないんだけれど。

正直に言えば、別段良い義兄でなくてもツェッドは構わない。ただ、友人に愛想笑いをしながら嘘を吐くことが、どうしても慣れなかった。
ツェッドの義兄であるザップ・レンフロは二十四歳で既に社会人だったが、一体どこで何の仕事をしているのかツェッドはさっぱり知らなかった。義兄とはいえ職業を知らないというのも変な話だったが、ツェッドがこの家に来たのはここ一年くらいのことだったし、しかもその時既に義兄は今のような就業状況だったから、詳細は分からないままだ。詳しい説明もないまま連れて来られ、しかも放任主義の義父、かつ殆どツェッドに興味がない義兄という三点の要因が重なった結果、今に至るまで聞きそびれてしまった。ただし、どうもあまり褒められた仕事ではないらしい。よく怪我をして帰って来るし、たまに電話をしているその内容を聞くと、ドラマや映画ですか、とでも言わんばかりの話をしているからだ。気になりはしたけれど、興味があるかないかと言われたらそんなになかったから、ツェッドは今に至るまでザップの職業を知らない。他人から聞かれたら『会社員です』ともっともらしい返事をしている。この家に来てから、嘘を吐くことが増えた。
一方、ツェッドは十二歳の中学一年生だった。毎日「行ってきます」と特に返事もない家に挨拶をして、登校して、学業と部活を熟して、それから帰宅する。たまに部屋に灯りが点いていることもあれば、暗いままのこともあり、稀に夕飯が用意してある時もあれば、自分で作らないといけない時もある。殆ど後者が多い。『家族』という共同体よりも、といつもツェッドは夕飯を食べながら思っている。
―――――道場みたいだ。
寺にいる修行僧もこんな気持ちなのだろうか、と思いながら食べたカレーはちょっと焦げていて苦かった。ツェッドはいつまで経ってもカレーを美味しく作れない。
放任といえば聞こえはいいが、恐らく世間的に見ればこれは『ネグレクト』というやつに準じるんだろうなあ、とツェッドは家庭科でその言葉を習った時に、そう思った。何しろ、家計の管理や自己管理は当たり前、保護者同意書が必要な時だけ、師匠もとい義父は黙ってサインをしている。保護者と言っても殆ど家にいないし、しかも連絡がつく方が奇跡といっていいくらい、連絡が取れない。だから書類も冷蔵庫に貼っておけば、いつの間にかサインが記載されている、といった具合だった。
だから彼と連絡がつかなかった五月初めの三者面談の時、ツェッドは仕方なく義兄を学校に引き摺って行った。「何で俺が」「あなたしかいないんだから仕方ないじゃないですか」と廊下で順番を待っている間にも二人で揉めに揉めたが、担任の顔を見た途端義兄は突然静かになり、しかも面談中に彼女を口説き始めたのでツェッドは思い切り彼の足を蹴飛ばした。冗談じゃない。


「んでよ」と言いながらザップはぱたんと冷蔵庫に牛乳を閉まった。
「勉強はおめえ図書館でしろよ。家よりその方が集中できんだろ」
「今の時期はどこの図書館もいっぱいなんですよ。皆さん考えることは同じなんです」
「んじゃ」学校居残れ、とザップはツェッドをびしりと指差した。自然、ツェッドは顔を歪めてしまう。
「…………………何でそんなに僕に家にいてほしくないんですか?」
あなたの方がいつも家にいないじゃありませんか、と言ったツェッドの向かいにあるソファに、ザップがすとんと座った。珍しいな、とそれに嫌な予感を覚えながらツェッドは持っていた教科書で少し顔を隠す。無意識のうちに防衛本能が働いたのだ。
「おめえがいちゃ集中できねーからだ」
「なににですか?」
「セックス」
ばさ、と教科書を取り落としてしまった自分を見て、ザップは面倒臭そうな顔になると、テレビのリモコンを手に取った。
「俺はぶっちゃけおめえがいようがいまいがどっちでもいーんだけどよ。相手が嫌がんだよなー。おめえの部屋俺のすぐ横だし」
何であーいう造りにしたんだか、と言いながらくるくるとチャンネルを回しているザップを見て、「ちょっと待ってください」とツェッドは喘ぐように言いながら、落とした教科書を拾い上げる。
「あ?なんだよ」
「な、なんだよじゃありませんよ」
何が、と心底不思議そうな顔でザップは呟くと、飽きたらしくぽいとリモコンを自分の横に放るようにして置いた。テレビはなぜか料理番組だった。
「?なんも不思議じゃねーだろ。セックスしたい、でもおめえがいると集中できない、そんじゃお前がどっかに行く。ほら」
理屈通ってんだろ、と言ったザップを呆れた眼差しで見つめてしまう。言っている意味も、それから主張もよくわかった。嫌だったが重々分かった。けれど、と思いながらツェッドは「待って下さい」と教科書を無意味にもぱんぱんと払いながら、義兄から目を逸らしたまま口を開く。
「…そ、そういうのは普通、家族に隠すものじゃないんですか?」
「家族だあ?やめろやめろバカバカしい。おめえと俺じゃ精々兄弟弟子だよ」
「弟子?」
何の弟子なんだ、と思いながらツェッドは「いやいやいや」と話題を軌道修正した。確かに義父のことを父とは呼ばず互いに師匠と呼んではいるが、どうしてザップが彼をそう呼んでいるのかツェッドは知らないし、ツェッドも義父に「そう呼べ」と言われてそうしているだけだから、弟子と言われても何の弟子かわからない。息子と言うよりはそっちの方が似合っていたが。
「ともかく駄目ですよ。本当に僕勉強したいんです」
「んじゃ友達の家でやれよ。お前女はいねーだろうけど矢鱈友達多そうだしよ」
「そんなに多くはないんですけど…、いや、やっぱりだめですよ。大体、友達の家で勉強って集中できないの見本みたいなものじゃないですか」
そう言い返したツェッドに「めんどくせーな」と自分を棚上げしたことを言って、ザップは伸びをした。どっちが、とツェッドは教科書で顔を隠しながら、舌を出した。
「あの、だいたい。そういうことをするなら別にここじゃなくてもいいんでしょう?ええと、そういうことをするのに専用の場所というか、そういう場所が」
そう言ったツェッドを一瞥もせず、「そりゃラブホはあるけどよ」とザップは全く臆せずに言った。
「………………。」
一応僕の年齢も考えてほしい、とツェッドは俯きながら教科書で顔を隠して彼の言葉の続きを待つ。情操教育に悪過ぎる義兄だった―――しかもその続きに、あまりいい予感がしない。
「金かかるし、それにほら。ここの方がムード出んだろ」
「…………そうなんですか…?」
普通の家じゃないですか、と辛うじて言ったツェッドに、「は」とザップは軽く笑うと、ツェッドのことをびしりと指差した。いつもそれやるけど、失礼ですからねとツェッドはそろそろ思うことすら諦めるようになった。口に出すのはとうの昔にやめている。
「そーいうのがいいんだって。分かってねえなガキは」
「………………。」
ツェッドは小さく溜息を吐くと、もう一度教科書で顔を隠した。


果たして翌日、ツェッドは重い足を引きずるようにして自宅に帰った。どうして自宅に帰るだけなのにこんな思いをしなくちゃいけないんだ?理不尽な怒りに駆られつつ、夕飯はどうしよう、と冷蔵庫の中を考えた。何が残っていただろうか?
各自で摂ることになっている食事だったが、ツェッドはなるべく自炊していた。と、いうのもなぜかこの家の大蔵省――――もとい出納担当がツェッドだからだ。元手は義父と義兄だが、曰く二人ともそういうことがからきしダメらしい。それを聞いてちょっとぞっとしてしまった。じゃあ、一体今までどうやって生きてきたんだろう?このマンションの家賃とか、いやそもそも、ここって賃貸なんだろうか?もうすでに購入してるのか?そこまで考えてやめた。自分自身の貯金だとか、保険その他とかのことも、ツェッドはあまりよく分かっていない。ともかく義父から一切説明がないのである。
閑話休題、義兄は殆ど自炊をしないので、コンビニ飯や外食が多く、すると確実にその出費が家計を逼迫する(一応義兄は生活費を入れてはいるが、なぜか毎月額が変わった)。だからツェッドは不承不承、自分と義兄が食べる分くらいの量を毎日作っては、いる。彼が帰ってこなければ翌日に回したり、稀に帰ってくる義父に出したりしている。夜食にしたりもするから、基本余らない。暫くそれを続けていたら、義兄も慣れたのかコンビニに寄ることは減った。言わなくても『家計を圧迫するな』という意図が通じてしまったことに微妙に嫌な気持ちになったが、とりあえず食費はそんなこんなで回るようになった。
「……はあ………」
嫌だなあ、と思いつつも自宅のエレベーターホールに到着した。無言でエレベーターの上下ボタンの『上』を押し、エレベーターがやって来るのを待つ。するするとすぐにエレベーターが降りてきたので、それに黙って乗り込んだ。暗い気分で開閉ボタンを押そうとした時だ。

「すいません待って待って!」

その声に慌てて開閉ボタンの『開』ボタンを押す。閉まりかけていたエレベーターのドアが、反対の動きを始めた。「すみません、」そう言った少年が、息を切らしてエレベーターの中に飛び込んでくる。「いえ」大丈夫です、と言いながらツェッドは今度こそ『閉』のボタンを押す。エレベーターのドアが閉まった。
「…何階ですか?」
息を整えながら俯いているその少年にツェッドは問いかける。「あ、ええと…」そう言ってその少年が、ぱっと顔を上げた。

「ありがとうございます」

開口一番そう言われて、ツェッドは面食らった。扉を開けたことか、とすぐに察して慌てて首を振る。
「いえ、全然大したことじゃないので。…それであの、何階ですか?」
ツェッドの質問に、「えっと」と少年は慌てたようにそう言って頬を掻いた。
「ろ―――、あ、丁度」
エレベーターの階数表示を見て、「同じ階です」と少年はほっとした様子でそう言った。
「あ、そうなんですね」
そう言ってツェッドは階数表示に向き直る。ツェッドが降りる階――ということはつまりツェッドの自宅がある階ということになる。知らない人だけどここの人じゃないのかな、とツェッドは思いながら、狭い箱がするすると上に上がっていくのに身を任せる。

その少年は、穏やかな顔つきだった。
糸目のせいもあるかもしれないが、ぱっと見た限り、温厚そうで、呑気そうで、お人よしそうだ、とツェッドは思う。ツェッドよりは年上だろうが、かと言って幾つくらいなのかさっぱりわからない。年齢不詳だ。やはりこれも、糸目のせいかもしれない。笑顔の癖に表情が読み難い。癖に、というのも変な話だが。
服装からしてどうやら学生らしかったから、高校生か大学生くらいかもな、とツェッドは予想した。だとしたら知っている可能性も大人よりは上がるが、記憶をひっくり返しても、この少年―――青年かもしれないが―――に、今まで会ったことはなかった。
そうこうしている間に、エレベーターが到着した。開閉ボタンを押したツェッドに、「ありがとうございます」と少年は朗らかに言って、エレベーターから降りる。「えーっと。そんで…どこなんだっけ」と言いながらスマートフォンを取り出した彼にぺこ、と小さく会釈をして、ツェッドは自宅に向かい始めた。
少年はどうやら、すれ違いざまにっこりと笑ったらしい。一瞬目の端に笑顔が見えた。どうもここに住んでいる人じゃないみたいだな、とツェッドはそこで気が付いた。このマンションが自宅だったら、流石に『どこなんだっけ』とは言わないだろう。
まあともかく、と肩を竦めながら、ツェッドは鞄の中にある鍵を取り出した。
たぶんもう会うことはないだろう。

「あれ?」

鍵を鍵穴に突っ込んだ時だ。その声に顔を上げる。
「?」
先ほどの少年がぽかんとした顔で、部屋番号とツェッドとスマートフォンを見比べている。手に持っているのは、どうやらこのマンションの鍵らしい。ツェッドと同系統のものだった。
「えーっと…ありゃ?ここ、…ええと」
あれ?と言いながらスマートフォンの画面を覗き込んでいる彼に、ツェッドは首を捻る。なぜか彼が不審者であるという考えには微塵も至らない。自分の年齢から考えても、もう少しだけ警戒してもよかった。けれどその時のツェッドにはどうしても目の前にいる少年が、悪い人間には見えなかった。
「あの、何か御用でしょうか」
そう言ったツェッドに、少年は慌てた様子で「ええと」とスマートフォンから顔を上げた。
「ここって、ええと、…ザっ……あ、レンフロさんのお宅では」
それを聞いてああ、とすぐにツェッドは頷いた。
「そうです。表札出てないんですけど、ザップ・レンフロはここに住んでます」
「あ、やっぱり……、………え?あれ?……じゃあ…」
どうも少年はツェッドの存在について聞いていないらしい、とツェッドはさもありなんと思いながら、「ええと」と言葉を模索した。何て説明すればいいんだろう。
「僕も住んでます。認めたくはありませんが、そのレンフロさんは僕の義兄です」
「え?あ――――義兄?」
ぎょっとした様子で言ったその少年に、「ええ。血縁ではありませんけど」とツェッドは淡々と頷いて、鍵穴に入ったままの鍵をぐるんと回した。かちんという音がしてドアが開錠される。
「僕はツェッド・オブライエンと言います。苗字は違いますし似てませんけど、一応あの人の、」
そこで少し逡巡した。ザップと話し合うのは別段なんでもないことだと思えたのに、なぜかそれを他人に向かって言うのはひどく勇気が要ることだったのだ。
「…………家族です。………戸籍上は」
それを聞いてだろう。益々ぽかんとした顔になった少年は、「そっかあ」と少し間を開けてそう言った。一体その四文字にどんな感情が込められているのかは、ツェッドにはわからなかった。ただ単に茫然としていただけかもしれないが。
「あの、それで」
ツェッドはドアにちょっと寄りかかって少年を見つめる。何となく予想はついたが、一応聞かずに家に入れるわけにもいかない。流石にその程度の防犯意識は持ち合わせていた。
「あなたは?」
「ああそうですね。すいません。僕は」
そこで少年は、なぜか少し猫背気味だった背筋を伸ばして、きちんとした姿勢を取る。そして、ついさっき、エレベーターの中で見せたような穏やかな笑顔になった。

「レオナルド・ウォッチです。えーと、ざ―――、あの、お義兄さんの、………………、えっと……友達………?かなあ……たぶん」

多分ってなんだ。てゆか、
そう思ったのが最初だった。どうしてそこで彼があんなに悩んだのか、後々になるまでツェッドに理由は分からなかった。
けれどその時、レオが見せた笑顔はさっき見た筈なのに、どうしてか矢鱈と印象的で。
ツェッドはその顔を暫く覚えていた。


鍵返しますね、と言いながら差し出してきたそれは、確かにツェッドの家の鍵だった。
「あのう。一応聞きますけど」
どこでこれを、と言ったツェッドにレオは困ったような顔になって、言い出しにくそうに口を開いた。
「ザ―――あ、あの。あなたのお義兄さんから借りました」
「…別にいいですよ。僕も彼のことを対外的にそうは呼んでいますが」
義兄と思ったことはありません、と言って出された鍵を受け取る。「…………ええと」中学生?と聞かれたのでそうです、と素直にツェッドは頷いてレオをリビングまで連れて行った。「…お茶でいいですか?コーヒーが?」「あ、いやそんな」お構いなく、と言ってレオは恐縮したように頭を下げた。
「………………。」
どうも違和感がある、とツェッドは思いながらとことことキッチンに向かう。義兄の友人に会ったことは殆どなかったが、その中にも彼のようなタイプは一切いなかった。同じクラスだったとしても友人になりそうにないタイプに見える、とツェッドは思いながらコーヒーを取り出し、自分じゃ飲まないから加減がわからないことを思い出した。「…………お茶でいいか」小さく溜息を吐いて緑茶を入れる。盆にそれを置いてリビングに戻ると、レオは緊張した様子でその場になぜか突っ立ったままだった。
「…あのう、どうぞ座って下さい」
「あ。ども」
お茶有難うございます、とレオは言ってぺこりと頭を下げ、ソファに座った。「………。」やっぱりなんか変だ、とツェッドは益々先ほどの違和感が強まったことに気が付く。どう見ても義兄の友人には見えないし、百歩譲ってそうだったとしても、自宅にまでやって来るような仲には見えない。もしかして、とツェッドは思いながら盆を持ち直し、あのうと彼に声をかけた。
「はい?」
「……何かうちの義兄がご迷惑を」
「え」
慰謝料か何かでしょうか、と真顔で言った自分を見て、レオはぽかんとした顔になったがすぐにおかしそうに吹き出した。「ち、違いますよ。言ったじゃありませんか。友達ですって」「……それじゃ」カツアゲとかに遭いましたか、と言ったツェッドを見ながら益々レオはおかしそうな顔になった。
「違いますってば。ええと―――あの人、僕の高校のOBなんですよ。それでちょっと知り合って」
そこから仲良くなったんです、とレオは言って笑った。「ええと…君は確か、去年でしたっけ。一緒に住むようになったって聞いてます」そう言ってレオはどうもと再三言ったそれを更に言って湯呑を手に取った。
「あ、はい。あ、…その」
そこで少しツェッドは狼狽えた。どうやら彼が言っているのは本当のことらしく、確かに義兄の友人らしい。カツアゲされたり慰謝料を請求にする人間がこんな風に和やかにしているとは思い難かったからだ。少し考えたのち、ツェッドはぺこりと頭を下げた。
「…改めまして。……義弟のツェッド・オブライエンです。いつもうちの愚義兄がお世話になっております」
そう言ったツェッドの耳に、かたんという湯呑をテーブルに置いたらしい音が聞こえる。
「あ、や、こ、こちらこそ」
初めましてとレオは言うと、なぜかツェッドと同様ソファから降りてぺたんと床に正座した。「そ、その。ざ、ザップさん……あ、ええと。お、お義兄さんにはいつもお世話になっております」そう言って頭を下げて来られたので堪らなかった。慌ててツェッドは手を上げて彼の行動を制する。
「やめて下さい。あの人はそんなに頭を下げるような人間じゃありません」
「え?」
「あ」
思わず本音を言ってしまったことに気が付いて口を手で覆ったが、遅い。レオはぽかんとした顔をしたが、結局またおかしそうに笑った。「………、………ええと」着替えてきますのでソファに座っていてください、と言いながらツェッドは盆を持って立ち上がる。なんだかちょっと、顔が赤くなった。


「ツェッドさんは」
「…六つも違うんですよ」
呼び捨てでもいいです、と言ったツェッドに、なんだかそんな感じしませんよとレオは言って苦笑した。「本当に中学生ですか?同じくらいか年上と話してるみたいです」ああでも見た目は中学生ですね、とにこにこしてレオは言った。褒められているらしい、と気が付いたが何だか照れるのも変な気がしたから、ツェッドはそれについては特に言及せずにレオの方を向いた。
「…レオナルドさんは大学生なんですよね」
そう言ったツェッドにああ、とレオは言うとちょっと困った顔で頬を掻いた。「レオでいいです。みんなそう呼ぶし」「…………。」確かに愛称で呼ぶ相手は友達に何人かいたが、六つも離れている少年―――今や青年と言った方がいい年齢だということを知ってはいた―――をそんな風に呼ぶのは少し緊張した。
「…ええと。レオさん」
「や、レオでいいですって」
「………………じゃあ、間を取って」
レオくん、と恐る恐る言うと、レオはきょとんとした顔になった。「…………。」まずかったかな、と思ったが、呼ばれたレオはすぐにはい、と笑って返事をしてくれた。
「……………。」
なぜか酷く緊張した。高々名前を呼ぶだけなのにどうして、と思いながらも気まずさに目を逸らしてしまう。一体自分が何に気まずさを覚えているのかもよく分からなかった。
レオはそんなツェッドの様子には頓着することなく、お茶美味しいですとにこにこと言った。
「…ええと、その…今日はどうして家に」
「あ、そうだった。えーと僕、ザップさんと会う約束してて」
「……家で?」
ここでですか、と言いながら思わず床を指さしてしまったツェッドに、そうですとレオは困ったような顔をしてこくんと頷いた。「…家に誰もいないから先に行ってろって鍵渡されて。ザップさんの仕事が終わるまで待ってますって僕言ったんですけど」その後の展開は予想がつく。恐らくうるせえないいから待ってろよ、とでも義兄が言って無理矢理レオに鍵を押し付けたのだろう。鍵を預かってしまった以上、どこかに行くのも気が引けて仕方なくここにやって来たとでもいうところだろうか。
「誰もいないって言ってたので、…ええと」
すみません、とそこでレオがまた頭を下げたので慌ててツェッドはやめて下さい、と手を翳してまた彼の動きを制した。年上という理由もあったし、大体彼がそんなに謝る謂れはない。むしろ謝るべきなのは義兄の方である。
「…僕に帰って来るなって言ってましたからね。了承したつもりはなかったんですが」
「帰って来るな?」
どういうことだ、という顔をしたレオを見てツェッドは返事をしようと口を開いた。―――が、同時にその件を思い出す。あれ?そういえば義兄が自分にそう言っていた理由は、とツェッドは昨日の夜のことを回想する。

――――おめえがいちゃ集中できねーからだ。
――――?なにに。
――――セックス。

「………………。」
変な顔をして黙ってしまったツェッドのことを、レオが不思議そうな顔で見つめてきた。「?どうしたんですか?」「………いえ」なんでも、と言いながらまじまじと目の前にいる少年の顔を見る。どう見ても男だし、どう見ても義兄がそういう相手に選ぶとは思えない。大体、彼だって友達だと僕に自己申告していた、とツェッドは思って改めて首を振った。
「?」
「……つかぬことを伺いますが」
他に何かうちの愚兄は言っていましたが、とツェッドは目を半眼にしてそう言った。胡乱げな眼差しになった筈だ。「え。……い、いや別に…」僕は何も、と何故か少し焦ったように義兄の友人は言って首を振った。
「そ、それより。ツェッドさんは部活とかは」
「今週末から中間考査があるので暫く休みなんです」
「ああ、そんな時期なんですね。…何部ですか?」
剣道部です、と一言で答えたツェッドに、格好いいですねとレオはあっけらかんと言った。「………格好いいですか?」「?格好いいじゃないですか」「………。」なんかこの人柔道とか合気道とか言ってもそう言いそうだな、とツェッドは酷いことを思いながら、レオナルドさんは、と首を傾げた。
「あ。…ええと、れ、レオくんは」
「はい」
「………サークルには?」
「僕は写真部です」
サークルじゃなくてクラブの方ですね、と言われたがツェッドにはよく違いが分からなかった。同じじゃないんだろうか。そう聞くと、ちょっと違うんですよねとレオはなぜかドヤ顔して言ってきたので、益々謎に思う。一体何に対してそんな顔してるのかが分からなかった。
「ん?待ってください。それじゃ今日こんなに早く帰って来たのは」
「考査の勉強のためです」
「おわ。そりゃあすんません。僕に構わず勉強してください」
そうレオに言われたが、客人をここに放置して自室で勉強するのは流石に気が引けた。そう言うと、レオは確かにとでも言いたげな表情になる。多分彼がツェッドでも同じことを言っただろう。
「…まあ、そうっすよね。大体僕ら初対面だし。そんな人間リビングに放置するのはちょっとなんか嫌っすよね」
「いや、そこはあんまり」
悪い人じゃないというのはこの短時間ですぐにわかったから、そうツェッドはきっぱりと言った。「……………、」レオはちょっと何か言いたげな顔をしたが、けれどもえーとと悩んだ声を出して上を向き、うーんと今度は唸り声を上げる。
「…あ、それじゃツェッドさん。申し訳ないですけどここで勉強するっていうのは」
「え?」
リビングで、と言ったツェッドに、はいとレオは眉を下げたまま言った。「…だったらその、あんまり…放置感ないし。あ、もちろんツェッドさんが嫌じゃなければですけど」「…………それは」僕はいいんですけど、とツェッドは言って頬を掻く。
―――でもそれって。
「…むしろレオナルドさ……ええと、レオくんが嫌じゃありませんか。人の家で、しかも初対面の僕がここにっていうのは」
「?いいえ」
全然、と言ってレオは首を振った。「僕は元々そんなに人見知りしませんし。それに、なんかツェッドさんが」「?僕が」そこで少しレオは眉を下げて申し訳なさそうな顔をした。その表情を見るに、後からツェッドは思った。既にあの時彼は自分と義兄の仲の良さを何となく把握していたのだろう。

「…ザップさんに似てるから」

だから大丈夫ですよ、と言われたそれを聞いて言うまでもなく。
ツェッドは顔を顰めてしまったのだが。


なぜここでこの連語を使うのがさっぱり理解できない、と眉をひそめながら参考書を捲る。ここでこの連語を使う必要性がある、と教科書にも資料集にも参考書にも書かれていたが、どうしてその必要があるのかがさっぱり分からなかった。しかもどこにもそれが記載されていない。それじゃあ次も間違えるに決まってるじゃないか、と眉間に皺を寄せながらぱらぱらとページを捲った。辞書もさらったが全く書いていない。
「………………。」
「あ、懐かしい」
教科書ちょっと変わったんですね、と言いながらレオがひょいと覗き込むようにしてツェッドの手元を見つめてきた。「え?…そう…ですか?」六年も経てば確かに教科書も改訂されるだろう。登場キャラクターだとか、文法の書き方だとかが少しずつと変わっていくのが普通だ。
「…ああでもここはあんまり変わりませんね。僕もこのあたり苦手でした」
「…………………………レオくん」
「?……あ、」
ごめんなさいと慌てた様子でレオは言うと、教科書をツェッドの方にぐいと押すようにして手を放した。勉強の邪魔をしたと思ったらしい。「あ、いえ。そうじゃなくて」ここ、と言いながらツェッドは教科書の本文を指さす。
「え?」
「…どうしてこの連語を使うのかが分からないんです」
「文法っすね。…分かるかなぁ」
そう苦笑してレオは教科書を見るためだろう、ツェッドの隣に寄って首を傾げた。ええと、と言っているレオの声が当たり前だがすぐ近くに聞こえてくる。「…………。」なぜか緊張した。
そこで気が付いた。どこかで嗅いだ香りがする、ということにだ。
「………………?」
好きか嫌いかと言われると、もう慣れてしまったのでそんな感情を持ち得てないと言った方がいい。ただ、その香り自体は毎日のように嗅いでいて、そして毎日ツェッドがベランダで喫ってください、と義兄に言っているそれと全く一緒だった。
――――義兄の。
「ああ、これはですね」
to不定詞だから、と言いながらレオが顔を上げる。当然、更に顔の距離が近くなった。「っ、」思わず仰け反ってしまったツェッドを見て、レオが不思議そうな顔をした。
「…………?」
きょとんとされると益々少年という言い方が似合いそうな外見だった。それを一瞬目の端に入れたあと、ツェッドはすぐに目を教科書に戻して、はい、と大人しく返事をする。少しだけ不思議そうな声で、前置詞と区別しないといけないので、と言いながらマーカーを手に取って、レオが教科書の文言を追いながら、説明を始めた。


六時を回った段階で漸く義兄が帰って来た。「レオー、帰ったぞー」当然のようにそう言いながらのこのことリビングにやって来た義兄は、ツェッドがそこにいるのを見て、うお、と驚いたように声を上げた。
「オイ何でここにいんだよてめえ。帰ってくんなって言ったじゃねーか」
「ザップさん!」
聞きましたよと言いながら、さっきからツェッドの古文を見ていたレオが立ち上がった。「オウ。ただいま」「おかえりなさい。いやそこじゃねえよ。あ、お邪魔してます」当事者の筈のツェッドが聞いても何が何だかよく分からないやり取りになっている。挨拶と怒りがごちゃごちゃだ。
「義弟さんがいるじゃないですか。何で誰もいないなんて言ったんです」
俺は一歩間違えれば未成年略取の疑いで書類送検ですよ、とレオが言ったので、ツェッドは目をぱちくりとさせる。「…レオくんは法学部なんですか?」「いえ?僕は英文科です」これは昨日のドラマで言っていましたとレオはふざけたことを言いながら、ザップの方にのこのこと近づいて行った。道理で教え方が分かり易かった筈だなあ、とツェッドはつい先ほどまで見てもらっていた英語のことを回想した。人に教えるには三倍理解が必要だとはよく言ったものである。
「帰ってくんなって言ったって聞きましたよ。酷いっすよ」
「ああ?だっていねえほうがいいだろ」
都合いーべ、と意味不明なことをザップは言った。「…………。」レオは苦虫を噛み潰したような顔をしたあと、ともかくと言って腰に手を当てた。ツェッドから見ても、あまりどころか全然迫力がない。動物に似ていた。
「そういうこと言わないでくださいよ。ツェッドさんはまだ十三歳なんすよ」
「大しておめえと変わんねえだろ」
流石にそれは言い過ぎです、とレオは言った後にツェッドの方をくるりと振り返った。なぜかまた、ツェッドはさっき覚えたばかりの緊張に襲われたことに気が付く。けれど一体、レオの何が自分をそうさせているのかがさっぱり分からなかった。
「…すいませんツェッドさん。僕はそろそろお暇するんで」
「はあ?待て待て待て。お前俺が帰って来たのに何でそこで帰るんだよ」
「だって俺もう二時間もいるんすよ。もう飯時だし」
「食ってけよ」
そいつが作るから、と義兄はツェッドを指さしてきたので、ツェッドどころかレオも脱力して俯いた。「…あ、あのねえ…」帰ってくるまではどうやらツェッドがいないと思っていたらしいのに、いると分かったらこれだ。怒りを通り越してツェッドは呆れてしまった。別に僕はあなたにご飯を作るためにここに住んでるわけじゃないんですけど、とツェッドは思った。

別にレオに夕飯を作るのが嫌なわけじゃなかった。
むしろそれはそれで、別にいいとツェッドはその時思っていたのだ。

当然の如く、レオはあのねえザップさん、とまるで年下の兄弟を窘めるような口調で言った。「ツェッドさんは今週末中間考査なんだそうです。そんで今ザップさんは帰って来たんでしょ?それじゃフツーに考えてザップさんが作るのが常識でしょ。大体まだ彼は未成年ですよ」中学生に毎日晩飯作らせてるんですか?と言ったそれには流石にザップが気まずそうな顔になった。ただし一瞬だった。一応常識と言う名のそれを知ってはいるらしい、とツェッドはちょっとだけ意外に思った。冷静にならずとも、中学生である自分が殆ど毎日夕飯を作っている現状は世間の常識に照らし合わせれば、特殊な事情でもない限り変なのだ。
「………だって俺飯作れねーし」
「いや作れねーしじゃねえよ甘えんな。幾つですか」
「あ、甘…お、おめー流石にそれはひでーだろ」
「酷いのはどっちだって話っすよ」
ツェッドさんのご飯が毎日おいしいのはわかりましたけど、と言ったそれに一瞬沈黙が起きた。―――ん?そこでツェッドは今度こそ古文の教科書をぱたんと音を立てて、閉じる。
「…ええと、レオナル―――、あ、ええと、レオくん。なんでそういう結論に」
そう言った自分の方を見て、レオが不思議そうな顔になる。「?この人が毎日食べてるんでしょ?しかも自分で飯作れるのに作らないってことは」ツェッドさんのご飯が好きなんですよこの人、とレオは言って呆れたように溜息を吐いた。
「子供なんです。意地張ってばっ、い、」
いててててて、という悲鳴が上がった。レオの後ろからザップが彼の頬を捻るようにして抓りあげている。「……余計なことしか言わねえなこの口は。円周率でも言った方が世間の役に立つんじゃねえのか?」「い、痛い痛い痛い!やめてくらはい!」じたばたとレオが暴れたせいか、ザップはすぐにレオの頬から手を離した。ただしレオの頬は真っ赤になっていたから、よほど強く抓られたのだろう。しかし、そんなことよりもとツェッドは思ってしまっていた。
「…あの、そんなこと一回も言われたことないですし。大体今その人、夕飯作れないって」
そう言ってましたけど、と言いながら立ち上がってツェッドに、レオは涙目でああ、と苦笑して言った。「作れないことないっすよ。ツェッドさんみたいに美味しく作れないって言いたいんです多分」「ちょ、レオてめえ黙れ。てゆか俺はんなこと、」「それにこの人そういうのは、」滅多に好きだって言いませんからね、とレオは付け加えると、そこでなぜかじろりとザップを睨むようにして見上げた。途端になぜかザップは黙る。一体レオが言ったそれが、義兄にとって何なのか分からなかったが、ともかく彼はその一言で呆気なく、まるで達磨のように黙ってしまった。
「………。」
そっぽを向いて黙っているザップを放置して、レオはとことことツェッドの方にやって来た。「すいません邪魔して。それじゃ帰りますから」「え、いやそんな。むしろ僕こそ勉強を見てもらったので」「わかってよかったですよ」えへへ、とレオは笑って頭を掻いた。

その顔を見たらまた何だか変な気分になった。
なんだか名残惜しいと思ったのだ。
今日初めて会ったのに。

それじゃあ、と言って玄関で靴を履いたレオのことを、当たり前のような顔でザップは下まで送っていった。帰り気ィつけろよと玄関口で彼が言うのを聞いてツェッドはぎょっとしてしまう。そんなことを言う男だと思ってもみなかったのだ。
義兄が帰って来る前にツェッドは既に夕飯の準備をしていた。レオは去り際に、いくら美味しいからってツェッドさんにばっかりやらせるのは普通に考えておかしいですからね、と再三ザップに言っていたのだが、彼が帰って来るのを待つのは遅くなるし、大体があれだけで義兄が夕飯を作るようになるとはツェッドには思えなかった。
夕飯はシチューにした。義兄はシチューはおかずになんねえじゃねえか、と言った割に二杯食べたので、確かにレオくんの言うことは一理あるのかもしれない、とツェッドはその時やっと知った。


中間考査は無事に終わった。まずまずの出来だったな、と思いながらその日ツェッドは部活を終えて自宅に帰っているところだった。成績はどちらかと言えばいい方だったが、別段得意なわけではない。「………。」レオくんが教えてくれたとこが出たからなぁとふとついこの間やってきた義兄の友人を思い出した。
たぶんもう会うことって何かない限り、絶対ないんだろうな。
そう思ったらなんだかちょっと気分が沈んだ。義兄が彼をつれてきたのはあれが初めてだったし、しかもその時自分が家にいたのだから二の舞を避けようとするだろう。あの時なぜザップがツェッドを自宅に帰らせたがらなかったのか、理由はさっぱりわからなかったが、それとは別にレオと会う機会は失せたに等しい。大体、義兄の友人とそんなに会う機会は普通ないのだ。
「………………。」
はあ、とちょっと溜息を吐いた。僕よりツェッドさんの方が大人みたいですね、と言った彼の顔は確かに年齢に反して幼かったが、それでも自分よりも年上だったのは間違いなかった。ああいう人が兄だったらよかった、とツェッドは思いながら帰途についた。

コンビニの出入り口のドアが開いた拍子に音楽が鳴った。今もこの曲って鳴ってるんだ、と近所のコンビニをふと見つめる。道路の反対側にある割に音楽がここまで届いたのは、道路に車が全く走っていなかっただろう。
――――あ。
嘘、とその時ツェッドは思わず足を止めていた。コンビニの出入り口にある自動ドアを潜ってとことこと出てきたのは、レオだったのだ。
右手にコンビニの袋を持っているところを見ると、買い物をしていたらしい。腕時計を見た後に頭を掻いて、さてどうしたものか、とでも言いたげな顔になった。無論反対側にいるツェッドには気が付いていない。
「………、」
言葉が出てこなかった。ガードレールの向こうにいるのは義兄の友人で、しかもついこの間初めて会ったばかりの人なのに。
なぜかその時ツェッドはまた、この間と同じく緊張に襲われていた。

レオが足を動かしたのが見えた。「あ、」くるりとその足をツェッドの自宅とは反対方向に向けて、歩き出そうとしている。――――、
その時考えるより先に声が出ていた。

「――――レオくん!」

あ、と思ったのはその後だった。思わず口を両手で覆ったが、剣道をやっているせいかツェッドの声は道路にだってよく通る。アスファルトに自分の声が反響して聞こえたせいで、自然に顔が熱くなった。
音速は340メートルだ。
ついこの間学校で教わったそれを思い出しながら、恐る恐る正面にいるはずのレオを見つめる。
「………、」
レオはびっくりしたような顔をしていたが、もちろんツェッドに気が付いていた。ひらひらと手を振って、ひょいとその場から道路の左右を見渡している。「………、」ツェッドの方をもう一度見ると、今度はよくわからない動作で手を横に振った。意味が分からない、とツェッドが思っている間にレオは急いだ様子で道路を渡って、ツェッドのところまで走って来た。
「………あ、ど、」
どうも、とツェッドが言う前にひょいとレオは意外にも身軽にガードレールをその場で飛び越えた。「わっ」「だめですよ。道路に身を乗り出しちゃ」危ないじゃないすか、とレオは言いながら歩道の反対側にツェッドを押しやった。どうも先ほどのよく分からない動作は、下がってと言いたかったらしい。
「………………あ、そ、その。お…お久しぶりです」
「ああ、そうですね。久しぶりっす。テストは終わりました?」
黙ってこくんと頷くと、お疲れさまでしたとレオは笑った。「………。」なんだかその顔を見るとやっぱり変な心持ちになる。何て言えばいいのかよくわからない。
「僕は今帰りなんですけど、…その、」
レオくんはどうしてここに、と言いながら首を傾げる。「ああ、僕の学校隣の駅なんすよ」「え?」隣の、と繰り返したツェッドに、そうなんですとレオは頷いて言った。
隣の駅には確かに大学があったが、隣駅と言っても歩いて十分ほどの距離しかないからすぐに来れる。何でこんな近距離に駅を造ったのかさっぱり分からない、とはもっぱらの噂だった。
「そいで今日僕、ザップさんと待ち合わせしてるんですけど、時間半端に余っちゃって」
あと一時間どっかで時間潰さないといけなくて、と言いながらレオはこちらを向いた。今は六時を回っているから、これから恐らく二人で夕飯でも食べに行くのだろう。となると今日は義兄の分は作らなくていいな、とツェッドは頭の中では冷静にそう計算していた。
「ツェッドさんは―――部活の帰りなんですよね」
「あ、はい。なのでこれから」
家に帰って夕飯を、とそこまで言って何となく口を噤んだ。自分で思うのも変な話だったが、中学生らしくない気がしたし―――少しだけ気恥ずかしいものがあった。普通中学生が帰ってすることと言えば、ゲームだったり睡眠だったり、あとはまあ、学生の本文となる勉強かなあ、とツェッドは気まずい顔をして頬を掻いた。
レオはそんなツェッドの様子を黙って見ていたが、そうなんですかと小さく言って、ちょっと首を傾げた。「…それじゃあ夕飯は一人ですか?」「え。ああまあ―――たぶん。師匠…ああ、義父もたぶん帰ってこないでしょうし」どこで何をしているか知りませんが、と言ったツェッドのことを見て、レオはそうですかと二度目のそれを言った。
「…んじゃ行きましょうか」
「え」
ぽかんとしたツェッドの手をレオは軽く掴んで、すたすたと歩き始めた。駅の方向だ。「え?え、あの、」レオくん、と言った直後くるりとレオがこちらを振り返ったので、ツェッドはちょっとごくんと唾を飲み込んでしまった。
「…慣れてきましたね、呼び方」
お兄さんは嬉しいです、とふざけた様子でレオは笑うとそのまますたすたと駅に向かって歩き出した。「………………、」その後姿を見て、なんだかツェッドは心臓がどきどきとうるさく早鐘を打ち始めたことに気が付いた。―――あ、あれ?まるで外練習の時に外周を走った直後みたいだったが、今は普通に歩いていただけだし、むしろこっちに向かって走って来たのはレオだった。なのにどういうわけか、ツェッドの心臓はいつもよりも速いペースで音を立てていた。


嘘だろ、という聞き覚えのある声が聞こえたので会話が止まった。
「………おい。おいおいおい何っで今日もそいつがいんだよ」
げんなりした顔をしてすたすたとこちらにやって来たのは、義兄だった。仕事帰りらしいが、なぜか手荷物が一つもないしスーツでもない。やっぱりフツーの会社員ってわけじゃないんだな、とツェッドは思いながら甘い、コーヒーとも思えぬコーヒーを飲んだ。
「だって夕飯一人って言うから。いいじゃないすか別に」
「いいんだよいつも一人なんだから」
「うわっ。信じられねえこの人」
最悪、と吐き捨てるようにレオが言ったので直後ザップが頬を抓り上げた。痛い痛いと喚いているレオを他所に、そんで魚類おめえはとザップは胡乱げな顔でツェッドを睨むように見つめた。
「スタバにつられてのこのこやって来たっちゅーわけか。このクソガキ」
「やめへくらはいよ俺がつれへ、ちゅーかいてててはな、離せってば!」
そこでやっとザップはレオの頬から手を放すと、顔を顰めたままレオの横にある椅子に座った。そこは二人掛けのテーブルが幾つか並んでいる場所で、たまたまツェッドとレオの椅子の横は空いていたのだ。
「…奢って貰いました」
「ああ?おいレオてめえ」
俺に金貸さねえ癖になんだよ、とザップは誰がどう聞いても最低なことを言ったので、ツェッドはがくりと俯いてしまった。僕が聞いてもそれは最低なセリフだってわかりますよ、と思いながら顔を上げる。「そ、そこはあのう…身内としてお礼を言ってほしいんですけど…」「なんで手前のことで俺が礼を言わなきゃなんねんだよ。大体こいつが手前に勝手に奢ったんだからいーんだよそんなんは」ぐいとレオに向かって親指を突きつけるようにしてザップがそう言ったので、言わなきゃよかったとツェッドは後悔した。身内の恥を晒しているようなものである。
レオはこの間のように頬を押さえながら、ザップさんと呆れたまま、そう言った。
「ツェッドさんいつも飯一人だって聞きましたよ。師匠さんいないんでしょ?それじゃ時間合う時は一緒に飯食ってくださいよ」
何で夕飯一人で食わなきゃなんないんです?とレオは憮然とした様子で言った。どうやら彼の中で、夕飯は家族と一緒にとるものというのが普通らしい。
ザップはふんと不貞腐れた様子で鼻を鳴らすと、勝手にレオのコーヒーを奪った。「いんだよ別に。てゆか大体家族っつー感じじゃねえんだって」「あ、も、もういいです。ちょっと黙って下さい」慌ててそう言ったツェッドを他所に、はあ、とレオは溜息を吐いてツェッドの方に向き直ってきた。
「…気にしないでくださいね。あの人が信じられないくらいクズってだけで、本当はお兄ちゃんというのはああいう感じじゃないんです」
「おい」
聞こえてんぞ、と言いながらザップがレオを睨んだ。

レオには妹がいるらしい。ツェッドより年上の十六歳で、ちょうどいま高校一年生なのだとレオは相好を崩して写真を見せてくれた。確かに彼が相好を崩すのが分かるくらい可愛らしい女の子で、車椅子に乗っている姿が何枚か彼のカメラには収まっていた。足が生まれつき悪いのだ、とレオは一言だけ言ったけれど、ツェッドはそれには言及しなかった。何をどう言えばいいのか、よくわからなかったからだ。
けれど、と妹の話をにこにこしながら話しているレオを見ながら、ツェッドは思った。
―――いいお兄ちゃんなんだろうな。
どう見てもそうとしか言えなかった。だから―――だからツェッドはクリームが大量に乗ったコーヒーを受け取りながら、いいな、とそう思ってしまった。
―――やっぱりこういう人が。
兄だったらよかった、と溜息を吐くのを堪えていまだぶつくさとレオに文句を言っている自分の義兄を見つめる。仕事帰りなのに全然疲れていない。サラリーマンってもっと疲れてるもんじゃないのだろうか、とツェッドはぼーっとそう思った。サラリーマンじゃあないのだろうけど。
「ともかくおめえ帰れよ。俺のなけなしの金を渡してやるからどっかで食って来い」
「う、うっわあ………今道徳の授業で槍玉に挙げられる意見言いましたよアンタ」
「なんだよ道徳って」
ザップさんには無いものです、とレオは言うと飯どこ行きますとなんでもない様子で首を傾げた。「おいちょっと待てよ。本気でそいつ連れてくんか?」「だからぁ、いいでしょ別に。てゆか何がそんなヤなんすか。家族でしょ」「……………。」そんなに揉めるなら別に僕はいいんだけど、と思いながらツェッドはストローから口を話した。
「…あの、別に僕はいいですよ。家帰ってご飯作りますし」
「え」
レオが眉を下げたのが目に入った。それを見たら何だか自分が物凄く悪いことをしたような気になってしまい、ツェッドは少し狼狽した。「…あ、や、その、…別にレオくんとご飯を食べたくないわけじゃ」「………。」レオは少ししゅんとした顔をしたまま、ザップの方に視線をやった。途端にザップがうっと顔を引き攣らせたので、ツェッドは驚いた。
「…………っおま、…、……あ〜〜〜……」
わーったよ、とザップは諦めたように言うと煙草をポケットから出した。「…上にある中華でいーだろ」そう言ってライターで火を点ける。かちん、という音と一緒に嗅ぎ慣れた煙草の匂いがした。
その時だった。くい、と軽く制服の袖が引っ張られたことに気が付いてツェッドははたと顔を上げる。レオが一瞬ツェッドのことを見て笑った。――――あ。その表情を見て、ツェッドは気が付いた。どうやらレオはこれを見越してあの表情をしていたらしい。
「……………。」
これは、と少しツェッドは驚いた。―――なんか、最初見た時は全然この人の友達には見えないし、お人よしそうだしって思っていたけど。そう思ってごくん、とツェッドは唾を飲み込む。今までとは、違う理由でだった。
「……レオくんって、うちの義兄の扱いが上手いんですね」
そう、ちょっとだけ驚いた声で言ったツェッドに、レオはふふふ、と似合わない含み笑いした後、ピースをツェッドに向け、にやりと悪戯っぽい笑顔を作った。
「…免許取得してますからね」
どこで取れるんだよ、という義兄の声に被さるように、お客様ここは禁煙ですという店員の声が店内に響いた。


免許かあ、と思いながらがしゃがしゃと食器を洗っている。「…僕も欲しいなあ…」「何が」わっと声を上げてちょっと横に退けると、ザップが悪びれもせずに湯呑をシンクに置いた。「…………。」無言で義兄を見つめると、なんだよとザップは言ったものの、二秒後にわかりましたお願いします、と嫌味たっぷりの口調で言って冷蔵庫に向かう。「…追加料金は二万円です」「たけーよ。おめえどこでそんなん覚えてきたんだ」あなたの影響です、と言った後に可愛げねえな、という笑い声が聞こえた。
「………………。」
あの日以来、本当に義兄と夕飯を食べることが増えた。正直今まで一人だったこともあったし、この家に来るまでも似たようなものだったから、一人で夕飯を食べることが寂しいと思ったことはなかった。昼は給食だったから友達と食べているし、そもそもそんなに食事中に喋るタイプではない。だから義兄と一緒に夕飯を食べるようになっても、そんなに会話をすることはなかった。ホームドラマなんかでは、今日学校で何があったとか、こういうことがあったとか話すらしいが、ツェッドもザップもそんな話をしたことがない。
ただいつも義兄は夕飯を食べた後、ごちそーさんと言って食器を流しに置いていく。それは前々からで、どうもその辺は師匠の教育らしいのだが、それに加えて最近、必ず彼は夕飯に文句をつけるようになった。これが辛いとかこれは甘いとか、何でグリンピースを入れるんだとか、カレーのルーはどこそこのメーカーを使えとか、ともかくなんでもいいから味に文句をつける。文句を言うくらいなら自分でやってほしい、とツェッドは思うのだが、文句をつけた後にザップはやっぱり必ず、同じことを言うのだ。
――――次はそう作れよ。
つまりそれは次このメニューを作った時もツェッドと夕飯を食べるということである。最初にそれを言われた時点でツェッドはそのことに気が付いてしまったので、大人しく頷いた。頷いた後になんだか顔が上げられなくなってしまい、非常に困った。ちょっとだけ、照れたのだ。別に褒められたわけでもなんでもないのに、どうして照れなきゃいけないのか自分でもよく分からなかった。
ちなみにザップとだけでなく、レオと食事をとることも増えた。休みの日だったり、それから義兄が家に帰ってこない日だったり、そういう日にタイミングよくレオが現れるのだ。そんなにタイミングよくそんなことが起きるわけないので、偶然を装っているということはツェッドもわかっていた。でもそこは空気を読んで知らないふりをしている。一応子供だって気を使う。

ザップが冷蔵庫を閉めたと同時にツェッドも食器を洗い終わったので、振り返る。「あ、俺明日飯いらねえ」「あ、はい」わかりました、とこくんとツェッドは頷いた。夕飯を作るのはもはやツェッドの役目になりつつあり、そしてザップは最近夕飯を食べるか食べないか、その件をちゃんとツェッドに言うようになった。会えていない時はメールでくる。たしかにこの方が献立は考え易いけど、とツェッドは思う。―――けどこれって絶対。
―――レオくんが言ってるんだろうな。
ふと彼のことを思い出した。ひと月くらい前に中華を一緒に食べたばかりだ。会計の時になって自分の財布から出そうとしたツェッドを止めたのは、信じられないことに義兄だった。出世払いしろよと恩着せがましく言うと、苦虫を噛み潰したような顔でザップはツェッドの分を支払っていた。俺が出しますよ、と横でレオが言っていたようだったが、そーいう訳にいかねえだろとザップは顔を顰めて財布を出していた。その辺の折り合いが一体どうついたのか、ツェッドは知らないし、その日の夜ザップに聞いたがガキは黙ってろと言われたので聞かないことにした。何でもかんでも子供扱いされるのは嫌だったけれど、その辺はあまり突っ込まない方がいいと思ったのだ。
「…あのー」
「あ?なんだ。あ、もうマヨネーズがねーぞ」
「あ、それじゃ明日買ってきます。……レオくん」
そう言った瞬間ザップは微妙に変な顔になった。これまでに全然見たことがない顔だったので、これは一体どういう感情なんだろうとツェッドは考える。けれど見たことがないのだから考えてもわかるわけがない。「…元気ですか?」「あ?…あー、ああ、まあ…」ぼちぼち、と言うとザップは冷蔵庫を閉じた。なぜか義兄はツェッドから目を逸らしている。意味がよく分からなかった。
レオとはそれなりに会ってはいたものの、そこはそれ、あちらは大学生、こちらは中学生なのでそんなに頻繁に会うことも難しいのだ。しかもレオはツェッドの予定をなぜか把握してはいたが、ツェッドはレオの予定を把握していない。なので会う時はレオが基本的にツェッドに会いにやってくる。だいたい、ツェッドはレオの連絡先すら知らない。
「?考査の結果が出たのでお礼を言いたいんですけど」
「え」
「テストです。英語がすごく良かったので」
前にレオくんに教わったところが満点でした、と言ったあとそうかとザップはぼそりと言って、ツェッドから目を逸らしたまま無言で頬を掻いた。「………?」その動作の意味するところがさっぱり分からず、ツェッドは怪訝な顔で義兄を見る。義兄はきまり悪そうな顔をして、ツェッドを見ながら偉そうに腕を組んだ。
「……よーやった。褒めてしんぜよう」
「別にあなたに褒められたくて頑張ったわけじゃあ…あの、ともかく」
レオくんにお礼を言いたいんです、と言ったツェッドに、ザップは遂に狼狽えたような表情になった。「?え?ど、どうしたんですか?」何か変なこと言いましたか?と言ったツェッドに、いや、とザップはまた目を逸らしてそう言った。
「い、…いーよ俺が言っとくって。おめえがめちゃくちゃ感謝してたって」
「直接言いたいんです。僕彼の電話番号もメールアドレスも知らないし」
「あー………、い、いやだからな。お前の面倒を見るっつーのは俺の後輩として当然のことだからよ。気にすんな」
「気にします」
そうきっぱりと言ったツェッドを嫌そうな顔でザップが見つめてきた。一体なぜそんな顔をしているのか分からない、と思いながらツェッドも眉根を寄せる。ただしこれは義兄の様子に不信感を抱いたからだった。
「?…あの、僕がレオくんに会うのは何か問題なんですか?」
「…問題っつーか…今はな〜〜〜………あー…」
「?」
今ってなんだ、という顔をしたツェッドを見ながら、ザップは溜息を吐いた。「…大人には色々あんだよ」「子供扱いしないでくださいよ」「子供だろ」次の面談も俺じゃねえか、とザップは嫌そうに言うと顔を顰めた。顰めたいのはツェッドである。案の定、今週末にある三者面談にもザップが来ることが既に決定していた。一学期のことを思うと目まいがしたが、師匠にさっぱり連絡がつかないのだから仕方がない。三者面談のお知らせと言う藁半紙に印刷されたそれを差し出したツェッドに、ザップは嫌そうな顔を隠そうともしなかった。けれどこの日の三時からなら行ける、と文句も言わずにそう言われたから、それにはちょっと驚いてしまった。ぽかんとしているツェッドに、あんだよとザップはちょっとだけ、なぜか照れたような顔になってテレビの方に向き直った。つい先週始めのことだ。
「……ともかくいいっての。俺が言っとくから、おめえは気にすんな。勉強しろ」
「してますってば。してるからレオくんに、」
そこでツェッドは別段何も考えていなかった。そのままするすると、勝手に言葉が出てきたような、と後からは思った。その時は全く気が付かなかったが。

「会いたいんです」

そう言った後はっとした。―――会いたい?自分で言ったそれに驚いているツェッドのことを、ザップは、今まで見たことがないような顔をして見つめてきていた。「……………。」顔を上げてその表情を見て、ふとツェッドは気が付いた。
―――なんか、崖っぷちに立ってるみたいな顔をしている。
今まで見たことがない理由はこれだ。ザップはともかくツェッドに対して全く弱みを見せようとしないのだ。何かがあってツェッドが焦ったりすると余計にそうで、アホだな落ち着けよバカ、と酷い悪態を吐きながらもいつも泰然としている。感情を爆発させるのはすぐだし、テンションの差は著しいし、落ち込まないわけではない。
なのにツェッドに対してはそうだ。それの意味するところを、ツェッドはいまだに知らないけれど。
「………。」
黙っているツェッドに向かって、ともかくとザップは気を取り直した様子で言った。「…いーよ。レオには俺が言っとくから」そうとだけ言ってザップは風呂場の方に足を向けた。風呂入れてくるから早よ入って寝ろよ、と言うそれはいつもの義兄の声と全く遜色なく、それが逆にツェッドの違和感を強くした。普段そんなことを言うような義兄ではないからだ。



有難うございました、と言いながら頭を下げる。「………。」疲れた、と息を吐きながら立ち上がり、先輩たちの後をついて部室に入る。さっさと家に帰ってご飯を作ろう、と思いながらちょっと息を吐いた。なんか毎日ご飯のことを考えているような。別にいいけどなんだかそれってどうなんだろう、と思いながら鞄を背負う。お疲れ様でした、と言いながら部室を出て校門を潜ったところで、気が付いた。
「やー、記事作るなら文章の勉強をと思って―――」
この声、とはっとその方向に顔を向ける。
レオがいた。
歩道で誰かと立ち話をしている。その誰かの顔を確かめる前に、ツェッドはそこに駆け寄っていた。「あ、」ツェッドが名前を呼ぶ前に、レオがこちらに気が付く。
「ツェッドさん」
いつも見る笑顔と全く同じように見えたが、ツェッドはふと気が付いた。―――あれ?
なんだか元気がない。ひらひらと振られている手も、笑っている温厚そうな糸目もいつもと似たような感じなのに―――なぜかツェッドは気が付いた。数える程度しか会っていないのに、どうしてなのかは自分でも分からない。けれど思った。レオはどうやら、元気がない。
「ツェッド」
そこに立っていたのは、教師の一人であるクラウス・V・ラインヘルツだった。「あ、どうも。こんにちは」ぺこりと軽く会釈をしたツェッドに、部活は終わったのかねとクラウスが穏やかにそう話しかける。
「あ、今………あの、」
お知りあいなんですか、と言いながらとことことレオの横にやって来たツェッドに、ああ、とクラウスが頷いた。「俺の三年時の担任だったんすよ。クラウスさん」久々に来ましたわ、とレオは言って懐かしそうな顔で学校を見ている。どうやら彼の通っていた中学校は、ツェッドと同じ学校らしい。すると彼は自分の先輩ということにもなるのだ。

その後、五分程三人で会話してからクラウスに挨拶して帰途に着いた。もう暗いから悪いがツェッドを送って行って欲しい、とクラウスがレオに言い出したので慌てて止めた。なんだかそれは格好悪いと思ったのだ。いいですよやめて下さい、と焦って言ったツェッドを見て、クラウスはきょとんとした顔をしていたが、レオはおかしそうに笑っていたので益々恥ずかしくなった。確かに去年までは小学生だったのだけれど、もう送り迎えが必要な歳でもないのに、とちょっとだけ、クラウスを恨めしく思った。
レオはコンビニに寄って、ツェッドに肉まんを買ってくれた。なんだかいつも奢って貰ってばかりのような気がして、ツェッドは大丈夫ですよ、と一応言いはした。「いーんですよ。昨日バイトの給料日だったから潤ってるんです」そうレオは笑って言うと、食ってくださいよと言いながら肉まんを差し出してきた。肉まんじゃ断るわけにもいかない、と思って有難うございますとツェッドは肉まんを受け取った。よくよく考えると、コンビニの中華まんを食べるのは初めてだった。
「…レオくんといると、初めてすることが多いです」
「え?」
なにが?とぽかんとしたレオは、ツェッドの横でもぐもぐとどうやらピザまんを齧っている。歩きながら食べるのは行儀が悪いという暗黙の了解が働いたのか、二人でコンビニの前で中華まんを頬張っていた。正直、行儀の悪さという点では似たり寄ったりという気もしたけれど。
「…レオくんと一緒にいると、初めてああいうコーヒーを飲んだり、中華屋さんに行ったり、義兄と夕飯を一緒に食べたりとか……あ、あと満点を取れたり」
そこまで言って思い出した。自分はレオにお礼を言いたかったのではなかったか。満点、と繰り返したレオの方を向いて、ツェッドはこくんと頷いた。
「あ、は、はい。満点取れました。レオくんから教わったところが全部丸で」
その部分の配点もとてもよくて、と言いながら何となく俯いてしまった。「…………。」礼を言わねばと思ったのになぜ先に功を説明してしまったのだろう、と自分のしたことを不思議に思うと同時に、ちょっと決まり悪くなった。
有難うございます、と言おうとした時だ。ぽん、という衝撃にびくっとした。
「それは元々ツェッドさんが頑張ったからですよ。俺はちょっと手伝っただけですから」
「………、」
そろそろと顔を上げると、レオは嬉しそうな顔をしてこちらを見ていた。「…よく頑張りました」凄いですね、と言ってレオはそのままツェッドの頭をくしゃくしゃと軽く撫でてきた。「………………。」またしても心臓が、あの時みたいに早鐘を打つ感覚に襲われる。意識する間もない。どきどきと本当に煩かったので、自分以外にも聞こえているんじゃないかとツェッドは大いに焦ってしまった。
「………あ、」
「ん?」
そう言ってちょっと首を傾げたレオからぱっと目を逸らして俯いた。なぜかわからないけど今自分の顔は真っ赤だ、と自分でも意識しながら目をぎゅうと瞑る。声を絞り出すようにして、口を開いた。
「…ありがとうございます」
そう言ったあと、レオはいえいえ俺は何も、と言ってそっと手をツェッドの頭から下ろした。「……………。」なぜか名残惜しいと思ってしまい慌てて首を振る。そんなツェッドを見て、レオはちょっと不思議そうな顔をした。

コンビニからの帰り道、そういえばとツェッドは今更その事実に気が付いた。「レオくんはどうして僕の学校の前にいたんですか?」「え?あー…ああええと…」ちょっとこの辺に用事があって、たまたまクラウスさんと遭遇したから、とレオは気まずそうに言った。そこで気まずそうにする意味はツェッドにはよく分からなかったが、そうなんですかと相槌を打って頷く。別段その行動に不審な点はない。
―――ただし。
「…元気がないみたいですけど」
何かありましたか、と言ったツェッドに、横を歩いていたレオはえ、と驚いた声で言った。表情もびっくりしたと言わんばかりのそれで、まじまじと見つめられてしまいツェッドは慌てて目を逸らした。なぜか緊張していた。
「…そんな顔に出てました?」
やはりそうだったらしい。ツェッドはちょっと悩んだ後、いいえと小さく否定して首を振った。「…レオくんを見ていたらそうなのかなって」そう言うと、レオはまたまじまじとツェッドを見つめてきたので、更にツェッドは気まずくなった。そんなに見られるとやっぱり、理由は分からないけど緊張する。
「…そーいうとこは全然似てませんね」
「え」
ザップさんにですよ、とレオは言って苦笑した。「…………。」なんだか変な気分になった。嫌――とまではいかないが、何でもかんでも彼を引き合いに出されるのは、複雑なのだ。既にツェッドは義兄のことを嫌いとは言えなかったけれど、それでもそれとこれは話が別だった。
無論レオはツェッドがそんなことを考えているとは露ほども知らない。肩を竦めてちょっと息を吐いた。「…あの人気がついても口にしないっすからね。切羽詰まらないと」俺がいつでも横にいると思ってるんですよ、と言ったレオの口調は苦々しそうだった。そんな言い方するんだ、とツェッドは驚いた。今までレオがそんな風に話しているところを見たことも聞いたこともなかったのだ。加えてどうしてか、その『あの人』という呼び方にちょっとどきりとする。なぜそうなったのかは分からなかったけれど。
「…あのう。えーと…上手く言えませんけど…」
元気出してください、と言ったツェッドを見て、レオはちょっと眉を八の字にして笑った。「有難うございます。…ツェッドさんは」優しいっすね、と言われて少し変な気分になった。なんだか褒められているようで、――褒められてない。むしろ。
「…………僕は」
そんなに彼に似てますか、と言ったその声は自分の声なのに自分の声じゃないみたいだった。初めて聞いたと言っていい。自分の――――声なのに。
自分自身の声だから当然かもしれないが、聞いていてあまり気分がいいとは言えない声だった。どちらかと言えば、何かを押し殺したような声ではあったが、その『何か』は正負で言えば負の感情だった。ただ、それが一体どういう理由から生まれたのかツェッドには説明ができなかった。
はっとして顔を上げると、レオがこちらを見つめていた。初めて会った時と同じくらい、何を考えているのかよくわからない表情をしていたのでツェッドは困惑した。
「……………ごめんね」
レオがぽつりとそう言った。「…そういう……、……あんまり、そういう言われ方は嫌ですよね。すいません」「え」そう言った自分の声は少しだけ、いつもの声と近かった。
「……俺の基準が」
基本あの人だから、とレオは言ってまた申し訳なさそうな顔になると、ツェッドから目を逸らして前を向いた。「……でもそれはぜんぜん…ツェッドさんからしたらどうでもいいことだし、」そう言って言葉を切ったレオは、少し考えるような顔をするとちょっと髪を掻き上げるようにして、頭を掻いた。
「……ツェッドさんからすれば、…比較されてるみたいで嫌ですよね。みたいっちゅーか」
そう言った後レオはまたツェッドの方に顔を向けた。
「…ごめんなさい。せっかく心配してくれたのに」
「………………。」
別にそんな顔をさせるつもりじゃなかったのだ。だからツェッドの方こそ謝りたくなった。口を開いた自分を、レオは察したのかいいんですよ、とそれこそ穏やかで優し気な声で制しすると、笑った。「…それから」その声は、今まで聞いていた暗いような、落ち込んでいた声とはちょっと違っていた。
レオと会ってそんなに経っていないのに、なぜかツェッドには分かった。嬉しそうな声だった。

「…ありがとうございます。心配してくれて」

優しいですね、と言って笑ったレオを見て、なぜかツェッドは何も言えなくなった。代わりに自分の心臓がまるで短距離走を終えた後のように喚き出したことに気が付いて不思議に思う。思うと同時に、なぜか焦燥を覚え始めた。一体何に焦っているのかわからずに自分自身で困惑する。―――焦ってる?いや、とツェッドはすぐに気が付いた。焦っているわけじゃないし、別にたった今走ってきたわけでもない。じゃあ。じゃあなんで。
なんでこんなにどきどきしてるんだろう。
「………………レオくん」
はい?とレオはきょとんとして首を傾げた。が、それはツェッドも同様だった。どうして今自分がレオの名前を呼んだのか、自分でも全然わからない。敢えて言うのであれば、レオの名前を呼びたくなったというのが理由になるけれど、突き詰めて考えてもその理由はわからなかった。
―――分からなかったけれど。
「…あ――――、あの、……僕、はその…、…レオくんとこうしていると、…す、すごく楽しいです」
「?」
唐突にそう言ったためか、レオはちょっと驚いたような顔になった。けれどすぐににこにこと笑って、僕もですよとそう言ってくれた。ちょっとだけ照れたような顔は、元々幼い彼の顔をさらに幼くさせたので、少し歳が近くなったような錯覚に陥る。「………あの、…えーと、…だ――だから」もごもごとよくわからないことを呟きながら、ツェッドは混乱していた。自分が一体何を言いたいのかわからない。自分でこうなんだからレオだってわからないだろう、と思って完全に焦りながらレオの方を向く。
けれどレオはにこにこしたまま、はい、と小さくそう言って頷いた。
「…うん。わかってますよ。ツェッドさんは僕のこと心配してくれてるんですよね」
優しいですね、とさっきと全く同じことを言ったあと、レオがひょいとツェッドの方に手を伸ばしてきた。「え」ぎくっとしたが最早遅い。柔らかく自分の頭を撫でられたその瞬間だった。ツェッドは、今のこの状況が何が何だかよくわからなくなった。
本当はそんなことない。ちゃんと冷静な自分は存在していて、レオに頭を撫でられているということもわかっていたし、これが初めてじゃないんだからということもわかっていた。―――なのに。…それなのに。
「………………あ、…」
なぜかツェッドはレオの手を掴んでいた。わっとレオはびっくりしたような声を上げたが、どうしましたといつもの如く穏やかに言って、ツェッドを見つめる。彼の背後から車のライトがきらきらとレオを照らしていた。

穏やかな顔でツェッドを見つめるレオだとか。
ザップのことを叱るレオだとか。
それから、初めましてと言われたときのことが。

なぜか一瞬で脳裏に蘇った。「…レオくん、」「はい?」きょとんとした声もなぜかあまり耳に入ってこない。代わりに自分の心臓がどきどきと煩く鳴っている音がして、レオに聞こえませんようにとツェッドは必死で願っていた。すう、と息を吸ったはいいものの思わず俯いてしまう。それと同時に目を瞑った。

「僕は…、僕、…レオくんが、」

その言葉は意識して出たものではなかった。殆どその時、ツェッドの身体は自分の言うことを全然聞くどころか、意識すらしていなかった。一体その時何を自分が考えていたのか、ツェッドにはわからない。本当に、その時のツェッドは何かに操られているみたいだったのだ。自分の意思という、何かに。

「―――――、す、」
目を固く瞑って口を開く。けれどその後、自分が一体何を言うつもりだったのかツェッドにはわからなかった。自分じゃない何かが勝手にツェッドにそれを言わせていた。そんな気分だった。
そして。

「レオ!!!」

その声にぎょっとしたのはツェッドだけじゃなかった。むしろツェッドどころか、レオの方がぎょっとしたらしい。そんなに長くもないレオの髪が翻ったのがツェッドの視界に映る。よほど速く振り返ったのだろう。
「…あ、」
自然にぱっとレオの手を離したあと、レオと同様ツェッドも彼の後ろに目を向ける。暗くなりつつある夜道の中、こちらに走ってきたのはツェッドの義兄である、ザップだった。
「…こ…っのバカ!!てめえいい加減にしろよ!電話出ろ!!」
そう言ったがいなやザップはレオの頭をばしんと叩いた。「な、」何してるんです、と言った自分を完全に無視して、ザップはお前なあとレオの肩を掴んで乱暴に言った。
「だから言ってんだろ!あれは仕事だって!!別になんもねえっつーの!」
「そ、……それはべつに、…気にしてねえっす」
頭をぶたれたと言うのに、レオは全く痛がりもしなかった。そんなに軽く叩いたようには見えなかったので、大丈夫なのかとツェッドは恐る恐るレオを見遣る。しかしその前にいる義兄がむしろ痛そうに手を引っ込めたのを見て、レオが石頭なのかと理解した。そんなツェッドの理解を他所に、二人は好き勝手に話している。
「何が気にしてねーだよバカ!あのな何度でも言うぞ。してねえからな。俺はここ最近おめえにしか触ってねえよ!」
「だ、……っだって、…駅前で、………誰かと…」
「だからそれは仕事でだっつーに!あ〜〜〜、…あーそりゃ、…言わなかった俺もわりーけどよ、」
悪かったよ、と義兄はツェッドからすれば信じられないことを言うと頭を掻いてそっぽを向いた。「…………。」この人謝るのか、と驚愕している自分を他所に、レオはでも、と小さくそう言ったらしい。「あ?」なんだよ、とついさっき謝ったばかりのザップは仏頂面でレオを見つめる。感情の起伏が激しい人だなあ、とツェッドは今更のように思った。
「…でも、……ザップさんだってどーせいるなら、…その、…俺よりそーいう…かわいー子と一緒にいた方が、…いいでしょ」
「はあ?」
「…………だって」
俺といるときより楽しそうだし、とレオはよくわからないことを言った。「………。」黙って聞いてはいたが、それは仕方ないことではないかとツェッドは思う。何しろ義兄は修羅場を何度も何度も引き起こすし、過去入院した時看護師に手を出し過ぎて病棟を移動になったくらいの女好きだ。誰がどう聞いても、友達といるよりは女性と一緒にいた方が楽しいだろう。
しかしザップはそれを聞くと、眉を吊り上げて明らかに怒っていると分かる表情になった。そのままレオの肩を引き寄せて、その上レオのことをぎゅっと抱き締めたので、ツェッドはぽかんとしてしまった。――――え?

「…どーいう目ぇしてんだおめーは。…あのな、…いーか一回しか言わねえからな」
――――ま、待って。
「……お前がそー見んのは勝手だけどよ。…俺は、…」
――――だから待って。

ツェッドの混乱を他所に、義兄はすう、と息を吸った。

「……お前と一緒にいるのが一番いい」

―――――、
ついにツェッドの思考が停止した。分かり易い混乱に陥った自身の脳を放置して、身体は正常に機能しているから、両眼はしっかりと目の前の二人を見つめている。「……………お、」俺だってそうです、と言った泣きそうなレオの声が聞こえると同時に、レオがザップに腕を回したのが、目に入った。
同時に、遂に夕日が沈んだらしい。あたりが真っ暗になった。
けれどなぜか、辺り一面のそれはツェッドの眼には入ってこなかった。ツェッドの眼は、その時目の前にいる義兄と、それからレオにしか向けられていなかった。あたりは夕闇ですらなく、群青色のそれに包まれつつあるのに。金星がちかちかと瞬きつつあるのに。
抱き合っている二人の姿が、まるでいつか遠足で行った美術館で見た壁画のように。
額縁の中のもののように、ツェッドには見えた。



「お前が電話に全然出ねーから」
「ザップさんの着信が深夜ばっかりだからですよ」
「折り返せよ」
「眠かったんです」
口が減らねえ、どっちがと言い合っている二人の声を背後に、ツェッドは溜息を吐いてコーヒーを入れた。「…いい加減にしてくださいよ。夜なんだから」苦情がきたら僕が謝らないといけないんですよ、と言いながら盆にのせたコーヒーを二人の前に置くと、ザップはけっとそっぽを向いたがレオはすみませんと恐縮したように頭を下げた。
あれから。
何だお前いたんかという驚いたようなザップの声で、ツェッドは我に返った。同時にレオも後ろにツェッドがいることを思い出したらしい。わあと慌てた様子で言いながらザップから離れたので、なんだよとザップは文句を言ったものの、それ以上は何もしようとしなかった。顔を真っ赤にしているレオと、それから安心した様子の義兄を見て、とりあえずとツェッドは悩んだ末に、言った。
『…家に来ますか?』
そして今になる。ツェッドが学生服から私服に着替えている間、どうやらずっとこの二人は言い争いをしていたらしい。ありがとうございます、と再度頭を下げて言ったレオは、ツェッドの入れたコーヒーを受け取って飲み始めた。
「…で」
「え」
僕には説明を受ける権利があるのでは、と言いながら、顔を上げたレオではなくザップの方を見る。ザップも黙って既にコーヒーを飲んでいたが、ああ、と面倒臭そうに返事に聞こえない返事をした。
「…こいつと俺付き合ってんの。三年くれー前から」
「………………。」
やっぱり、という顔をした自分とは対照的に、レオはすぐさま顔をツェッドから背けて黙ってしまった。背けると言うよりも完全に背を向けられたので、そこまでしなくともとツェッドはちょっと悲しくなる。「…あのー、レオくん」「ごめんなさい」直後レオはそうきっぱりと言ってきたので、ツェッドは面食らってしまった。
「…今ザップさんが言った通りです。すいません。…その、…あー、…あの、」
明らかにレオは狼狽えた様子で言うと、唐突にぐるりとツェッドの方に向き直り、そしてコーヒーをリビングのテーブルに置いた。元々彼もツェッドもフローリングに座り込んでおり、ザップだけがソファに座っている状態だったのだが、更にレオは頭をぶつけんばかりの勢いで土下座に近い格好で頭を下げた。
「お、…お義兄さんとお付き合いさせていただいておりますれ、レオナルド・ウォッチです…………!!!よ、よろしくお願いしま、」
「今更何してんじゃおめーは」
呆れたように言った義兄がレオのことを蹴飛ばしたので、ぎゃあと呻いてレオはごろごろとカーペットの上に転がった。「あっ。ちょっと」乱暴はやめてください、と言いながらツェッドはレオのことを起き上がらせる。すみません、とレオは言うと再度座り直した。
「あの、さっきからレオくんは何をそんなに謝っているんですか?」
そう不思議そうに言ったツェッドに、え、とレオも不思議そうな顔をした。「むしろ僕が謝りたいですよ。こんな人と付き合って大丈夫なんですか?」「オイ魚類てめえ」どーいう意味だ、と喚き出したザップを無視して、ええと、とレオはちょっと驚いたような顔をして頬を掻いた。
「…や、その…俺みてーな感じの人が……その、…お義兄さんと付き合ってるってなんか、」
ツェッドさんの立場的にヤじゃないすか、とレオは困ったように言った。「…男だし。しかも別になんかすごい綺麗とかそーいうわけじゃないし。…将来的にやっぱ、その…本当は義姉ができるはずだったんだし…」そう言ってレオはまた、恐縮したように俯いてごめんなさいとツェッドに頭を下げた。「…オイレオ、」レオのそれを聞いて、ザップが苦々しい顔でそう言ってきたが、ツェッドの方が早かった。
そっと肩に手を置くと、思っていたよりもレオの肩は小さかった。もしかして自分と同じくらいかもな、とツェッドは思うと、のろのろと顔を上げてきたレオのことを見て、僕は、と口を開いた。
「…僕はレオくんと一緒にいられるのはとても楽しいし、…好きです。色々なところにつれてってくれましたし、勉強も教えてくれましたし。…それに、…話してるととても…、…うまく言えませんけど、……ともかく僕は、…あなたが好きです」
途端に義兄が眉を吊り上げたのが見えたが、ツェッドはあえてそれを無視した。目の前にいるレオはぽかんとした顔をしてこちらを見ていたが、すぐ照れたように俯いて、それはどうも、と小さな声で言った。「…………。」さっきとは違うなあ、とツェッドはつい一時間ほど前、外で見た彼の表情を思い出しながらそう思う。けれどすぐに口を開いて話を再開した。
「……だからそんなこと言わないでください。もしレオくんが、…その、…将来家族になるとしたら、僕はとても嬉しいです」
むしろこっちがよろしくお願いします、とツェッドは言うとそこで立ち上がった。「え」そう言ったレオの横を通り過ぎ、義兄の横にすとんと着席する。なんだよ、という顔をした義兄の頭の上にツェッドはぽんと手を置いた。
「…乱暴でだらしなく頭も悪く粗雑で最低な義兄ではありますが」
どうかよろしくお願いします、とツェッドは言うと、呆気に取られているザップの頭を無理矢理下げさせて、次いで自分の頭もぺこりと下げた。「おわ」同時に隣から義兄の声が聞こえてきたが、思っていた文句はこない。黙って頭を上げると、レオはぽかんとした様子でツェッドのことを見上げていた。
「………………レオくんはずっとそうですね」
「え」
呟くように言った自分を見て、レオは慌てたような顔になる。その顔を見て、レオと初めて会った時のことをツェッドは思い出した。人懐っこそうな、穏やかそうな、そしてそれは本当にそうだった。出会ってから、たった一か月くらいしかまだ過ぎていない。けれどもう、ツェッドはレオのことをとっくに信頼していたし。
―――とっくに。

「…レオくんは、出会った時からずっと本当のお兄さんみたいです」

そう言って笑ったツェッドに、レオはまた照れたような顔をしたが、結局嬉しそうに笑った。
一方隣でザップは変な顔をしていたが、結局黙ってツェッドの頭をぱしんとはたくに留めてきたので、たぶん、とツェッドは寝る前に思った。――たぶんあれは照れてたんだ。いったいそれがどういう意味での照れだったのか、ツェッドにはわからなかったけれど。けれど、その時ツェッドはまるで兄が二人出来たみたいだな、とそう思ってしまったのも、事実だった。



本当にすみません、と言った自分にいいんですよとレオは苦笑した。「それより頑張ってきてください。あと、道中気を付けて」「はい」お土産楽しみにしててください、と言ったツェッドの後ろからオイコラという義兄の声が聞こえた。
「早よしろやバカ。てめえが大将なんだろ」
遅れて行ったら格好つかねーじゃねえか、と言ったザップがヘルメットを投げてよこしたので、慌てて受け取った。「あっ…ぶな、ちょっと、投げないでくださいよ!」「やかましわクソガキ。いーから早よ乗れ」先生に見つかったら代わりに怒られてくださいよ、と口を尖らせて言った自分に、知らんわとザップは本当に知らん顔でそう言った。
あれから二年経った。中三になったツェッドは、受験の前の最後の試合のため早朝から学校に向かうところだった。遠方なので一泊せざるを得なくなったため、その間レオにザップのことを頼んだのが冒頭の会話である。前日からレオは泊まりに来てはいたし、たぶん言わなくてもレオくんはご飯作りに来てくれるとは思うけど、とツェッドはベランダで手を振っているレオにひらひらと手を振った。行くぞ、という声と一緒にザップのスクーターが走り始める。
「…ったく何でこんな早朝から行くんだよ。しかも新幹線だあ?ガキが贅沢しやがって」
「仕方ないでしょう会場がそっちなんだから。それよりこれに勝ったら全国一位なんですから、そっちの方を応援してくださいよ」
おーがんばれがんばれ、という投げやりな声援にはあ、とツェッドは溜息を吐いた。いや別に応援に来てほしいわけじゃないですけどね。そう思いながら気を取り直し、間に合いますか、と義兄に尋ねる。今回は学校に一度集合する必要があるのだが、前日珍しくザップが送っててやると言い出したので、驚きつつもその言葉に甘えることにしたのだ。流石に徒歩よりはこっちの方が早い。
「……あのー。レオくんと同棲しないんですか?」
ふと、ずっと不思議に思っていたことを言ったツェッドに、げほごほとザップが咳き込んだような声を上げた。なにも飲んじゃいないだろうに、と呆れたツェッドの目に、信号が赤になったのが映る。ほどなくしてスクーターは速度を落としてのろのろと停車した。
「お、…お前な。どこでそーいうの覚えてくんだよ」
「?だってもう…何年ですか?五年くらい付き合ってるんでしょう」
レオくん実家住まいですけど、と言いながらツェッドは首を傾げる。「…あなたは早くレオくんと二人で住みたいんだろうなと思って」「…………………あー」変なとこばっかマセやがって、と言われてどーいう意味だとツェッドは思う。別にそんなつもりないんだけどなあ。てゆかぶっちゃけこれから僕は本格的に受験勉強に入るので、自宅でいちゃいちゃされるとリビングにも行きづらいんですよね。そう思ったけれど、流石に口にはしなかった。
「…あのなー。お前今幾つだよ」
「は?僕ですか?」
今年で十五ですけど、と言ったツェッドに、そうだろとザップは嫌そうに言うと、スクーターを発車させる。信号は既に青に変わっていた。
早朝のせいか車は殆ど走っていない。どころか、朝霧が漂っていて辺りは白く霞んでいた。まるでロンドンかどこかみたいだな、とツェッドはテレビで見たそれを回想する。
「…で、来年は幾つだよ」
「や、そりゃ十六ですよ。だって今年十五ですから」
「だろ。んで高校だろまだ」
だから、とザップは意味不明なことを言った。「は?」「…だからだって。…ついでに言えば」お前の飯は美味くねえ、とザップは更に訳が分からないことを言ったので、ツェッドは混乱した。何言ってるんだろうこの人。てゆか一昨日は不味いとか言いながら僕が作った八宝菜をお代わりまでしてたじゃないですか。
まじーから俺くらいしか食わねえだろ、と言いながらお代わりを要求されたことを回想していたが、しかしザップが話を続け始めたので、はっとしてはい、と返事をする。「…美味くねーから。……美味くなるまで待っててやる」「え?」「…だから」帰ってきたらまた飯作れよっつってんだよ、とザップは苛々したように言うと、学校の前にスクーターを停車させた。
「……………。」
ぽかんとしながらスクーターから降りて、それから無理矢理積んでいた防具を下ろす。「……あの」「オイいーか。土産は葛餅にしろよ」「……………。」思わず顔を顰めて黙ってしまった自分に、ザップはそれから、とアイドリングをしたままツェッドの方をまっすぐに見つめた。
どうしてかその時、霧が少し晴れた気がした。

「…ぜってー勝ってこいよ。………おめーは俺の義弟なんだから」

いけんだろ、とザップはきっぱりとそう言った。
――――そんなこと。
言われたことなかった。だから呆気に取られて思わずツェッドは言ってしまった。「お、…義弟?」「だ、お、お前な。そこはスルーしていんだよスルーして」アホか、とザップは珍しく照れたように言うと、そんじゃなと言って逃げるようにスクーターを発車させた。「あ、は、―――はい!」勝ってきます、とその後姿に慌てて叫ぶと、ザップは後ろを振り向かなかったが、代わりにひらひらと手が振られたのが目に入った。
「………………よし」
行こう、とそれを見ながらツェッドは呟くと、防具を手に校庭を歩き出す。葛餅っていくらくらいするんだろう。そもそもお土産って買って大丈夫なんだろうか。レオくんにも葛餅で大丈夫かな。――――レオくんも。

…たまに思い出すことがある。そしてそれを思い出すのは、決まってレオのことを考えている時か、レオと一緒にいる時に限っていた。…あの時。
あの、夕焼けの中でレオと二人で歩道を歩いていたあの時のことだ。
あの時一体自分が何を言うつもりだったのか、ツェッドには今やさっぱりわからなかった。もうちょっとで分かりかけたのはあの時の一瞬だけで、口を衝いて出そうになったのもあの時だけだった。掴んだ腕の感覚や、レオの笑顔や、それから自分の心臓が痛いくらいにうるさかったことだってきちんと覚えている。けれどそれが一体どうしてだったのか、ツェッドにはわからなかった。一体自分がレオに何を言いたかったのか、全くと言っていいほどわからないのだ。
「……………………まあ、いっか」
分からないってことは大したことじゃないんだろう。ツェッドはそう思いながら校庭を歩き始める。ザップの言った通り、ツェッドは団体戦の大将だったので、中々に責任感がある立場だったから、少し緊張してはいた。試合前のこの感じって慣れないんだよなぁ、と何度も思ったことを、今日も思う。学校を見ると、ちょうど太陽が昇るところだったらしい。陽の光がゆっくりと校庭と校舎を照らし始めていた。夜明けだ、とツェッドは一つ欠伸をする。
「……………………。」
きらきらと輝き始めた世界を見ながら、ツェッドはふと、あの時のことをまた思い出した。

――――…ありがとうございます。心配してくれて。優しいですね。

自分の心臓が、まるでぎゅっと締め付けられるような痛みを感じていた、あの時と。
ツェッドさん、と自分のことを呼ぶレオの声と笑顔を同時に思い出す。
寂しいような、懐かしいような、そしてとても心地いいその感覚のことを、ツェッドは何て言えばいいのか知らなかった。けれど、どうしてかたまにその痛みのせいでぼんやりしてしまうことがある。その理由はわからないし、自分がどうしてそんな気持ちになるのかもわからない。「……行くか」肩を竦めてそう呟いた後、ツェッドは既に整列が始まっている校舎前に歩き始める。

世界に太陽の光が輝き始めた。あの時、きらきらと車のライトを後ろから受けていたレオの顔は、逆行でよく見えなかったし、見ていたとしても今のツェッドに思い出せるかどうかは怪しかった。恐らく自分の家でもう一眠りしているであろう彼のことを考えて、ツェッドは苦笑して小さく呟いた。

「…………行ってきます」

…だから、もうその気持ちは誰にもわからない。
レオにも、それからザップにだってわからないだろう。もちろんツェッド本人にだってわからない。

けれど、けれどたまにさっきみたいにツェッドは思い出すことがある。あの時、レオに会いたいと思った時の感情や、自分のことを頻繁に呼んでいた彼の声だとか、レオに軽く頭を撫でられた時のことだとか、そういうことを思い出す度に、泣きたくなるのはツェッドしか知らない。理由はわからない。けれど。

それはずっとツェッドしか、知らない。





片思いが好きなんですが片思いの上失恋させてしまっているので申し訳が無い
淡い初恋…だった…くらいの話を書きたかった次第です ごめんツェッドさん
タイトルはドラマから