その手を取って
2018/02/11
※古式ゆかしき(?)遊郭パロです
大変寛大な方向け 全員知らん人
欠伸をしながら道を歩く。「………かったるい…」そう言ってもう一つ欠伸をしながら空を仰いだ。既に夕暮れは色を変えて夜になろうとする頃合だ。烏の声より、豆腐売りの声より、店じまいを促す声よりも目立つ声が隘路から聞こえてくる。群青色の空が藍色に、そして更に闇の色にゆっくりと姿を変え始め、空には星が瞬き始めてきた。
ぽつぽつと街灯が道に灯っていく。橙の灯りは雛祭りの時に見るぼんぼりにそっくりで、たまにそれを見ると自分は雛あられが食いたくなる。情緒もなにもない。「………お。やってるな」目当ての店を見つけると、下駄をからから鳴らしながら道を突っ切って暖簾を上げる。いらっしゃい、という言葉が途中で途切れ、溜息が聞こえて苦笑したくなった。
「………また来たのか。ザップ」
「客に言う台詞じゃねーっしょ」
それ、と言いながら笑って暖簾を潜ると、それもそうだな、と番頭席に座っている男が言いながらも再度溜息を吐いた。口調と行動が合っていない。それだって客に見せる態度じゃあねえよな、と思いながらザップ・レンフロは土間をずかずかと我が物顔で進んで座席にすとんと腰を下ろす。算盤を弾いていたらしい男は、やれやれと肩を回すとぱらりと帳面を捲って筆を取った。
「……それで?本日のご指名は」
「ナンバーワンで。空いてるんでしょ?」
「…最近うちの姫達は殆ど全員お前にかかずらってばかりだからなあ」
スティーブン・A・スターフェイズは畳の上に置いてあった鈴を手に取った。しゃらしゃらとそれを手で揺さぶって鳴らしている間に、店の奥から幼子が転げるようにしてやって来る。お待たせいたしましたという声に振り向きもせず、スティーブンは手を挙げて二階の方向へと指をさした。
「…お客様だ。松の間にご案内するから支度しておいで」
かしこまりました、と高い声で幼子は頷くと袖を翻しながら奥に引っ込んでいく。顔を一度も上げなかったが、どうも緊張から真っ赤な顔をしているということはザップにも分かった。耳まで赤けりゃ嫌でも分かる。
「…幾つっすかありゃあ。また阿漕なことして連れてきたんでしょう」
「人聞きの悪いことを言うのはやめてくれ。あの子は人買いが先日どこにも売れやしないと言ってうちの店前に置き去りにしてったのを引き取ったんだ。…まああと数年もすれば幾人かは客も取れるようになる」
スティーブンのそれにザップはひっでえなあと呆れて言った。「棚ぼたじゃねえすか。金払ってねえのに花になる種手に入れたっつうことは」「煩いなあ。うちが引き取ったんだからもううちのものなんだよ。放っといてくれ」ひらひらと煙たそうに手を振られたが、いつものことだったからザップはあまり気にしなかった。いつも腹の底が読めない男ではあるのだが、やっぱり真っ黒なんじゃねえかとザップはこういうやり取りをする度に思う。ただし、こうでもないとこんな店では色々と勤まらないのだろう。庇うつもりは毛頭ないが、そんなことくらいはザップにも分かった。
「ずっと小間使いさせとくと他の子たちから色々な意味でやっかまれるしね。…大体、今日お前が指名したうちの花だって」
元々うちの前に捨てられてた子だったんだぞ、とスティーブンが言ったそれと同時に階段の上から、玉暖簾を掻き分けて一人の少年が姿を現した。
「ちょっとダメですよスティーブンさん。個人情報をお客様に―――、……って、あ」
いらっしゃいませ、と笑った少年に、よおとザップは眼を向ける。「最近よく来ますねえ。暇なんすか」「オイてめーいい加減にしろよ毎度毎度。上客に向かってその態度は何なんだよ」そう言ってザップは下駄を脱ぎ捨てると座敷に上がる。普通の客がそんなことをしたら、問答無用でスティーブンは店の外に蹴り出すか、もしくは用心棒を呼んでくるが、ことザップに関しては話が別だ。上客という理由もあるが、基本的に何を言っても話を聞かないとここ三年ほどの付き合いでとっくに分かっているからだ。
一方、少年はわわわと言いながらザップに対してお手上げの状態になった。「ちょ、ちょっと落ち着いて下さいよ。そんなことしにきたんじゃないでしょ!?」「そーだな。だからこれは暇潰しだ」笑って言いながら少年の首にがしりと腕を回すと、いたいいたいと少年が喚き出す。そのまま畳の上で二人で取っ組み合いまがいのことが始まったが、スティーブンは二人を放置して算盤を弾いていた。そしてそうやっている間に。
お待たせいたしました、という禿の声が聞こえてくる。
そして夜が幕を開けた。
遊郭という場所が一体いつから生まれたのかザップは興味がないし、特に知りもしない。ただ非常にこの場所が彼にとって馴染み深く、そして幼い頃からずっと通ってきた場所だということに変わりはなかった。たまたま自分の継いだ家が代々続く富豪であるということもザップのそれに拍車をかけたのだろう。十二、三になる頃には家にあった金子を勝手に持ち出して遊郭に来るのは普通になっていたし、既に十年以上経つ二十四になった今でも大してそれは変わっちゃいない。ただ、家業を嫌々手伝っているということもあるから一応自分が稼いだ金で女を買うようにはなった。ほぼ毎日来ても実家の金は尽きるどころか毎日増えているのだから、正直なところ金は浴びる程あった。働かなくても一生生きていけるのだろう――ただそれを義父が許さないだけだ。富豪の割に義父は非常に禁欲的かつ固い男だったので、たとえば時代劇でよくあるような、政府高官だとか代官だとかの裏取引や、悪人たちとの取引ややり取りは一切ないらしい。どうかしてる、とたまにザップは義弟に漏らすことがあるのだが、義弟は大抵溜息を吐くだけでそれに返事をしてくれない。これで分かる通り、義弟とそんなに仲は良くなかった。
煙管を口から離して煙を吐いていると、失礼致します、という慇懃無礼な声が外から聞こえた。「…オウ」そう一言だけ言うと、からりと障子が開いて少年が顔を出した。
「あや。寝てないんですか」
「…だからおめーよ。その態度は何なんだコラ。こちとら常連の金づるだぞ」
「自分で金づるはないでしょ」
そう苦笑して座ったまま座敷に入って来たのは、つい夕刻玄関で揉めた、レオナルド・ウォッチという少年だった。さっきのように顔を合わせればケンカや世間話をする仲ではあったが、一体この店で彼がどういう立場なのか、ザップはよく知らなかった。ザップ自身がこの店に通うようになってから三年程経つが、既にその時は店で働いていたようだったし、どうも幼い頃からこの店にいるらしいレオは、大抵スティーブンと一緒にいる。最初はスティーブンの子供か甥なのかと思っていたが、話を聞いたら違うときっぱりスティーブンに否定されてしまった。あまりザップは興味がなかったが。
出会った日のことは今でもはっきりと覚えている。
ザップはたまたまその日、前日夜半から飲んでいたのでそのまま店の座敷に泊まって眠っていた。起きた時もまだ酒が残っていたせいで気分が悪く、水がほしいと思いながら起き出したのだ。半分以上寝ぼけていたからここがどこなのか、自宅なのかそうでないのかということもよくわかっていなかった。だからずるずると花魁が着ていたらしい上着を引っ掛けながら布団から外へ、そして部屋から廊下を歩き出した。気持ちわりーし喉乾いた、と思いながら目を擦り、そして階段へ差し掛かった時だ。
どうやら階段の半ばくらいで足を踏み外したらしい、というのは後から知った。視界が逆様になった感覚と、ぎゃあという悲鳴がザップの耳に入って来たのが最初だ。うるせえな、と思った程度で、ザップ自身は階段から落ちた痛みはあまり感じなかった。元来身体は丈夫過ぎるくらい丈夫だったのだ。『い…っ痛い……!てゆか重い…!!』退いてください、という声にのろのろと階段と自分の間に挟まれているらしい”それ”を見る。
『ど、…お、お客さん、』
どいてくださいよ、と言ったその少年こそがレオナルド・ウォッチだった。
涙目で頭をぐしゃぐしゃにしながらこっちを見つめて来る少年の顔をザップは思い切り踏ん付けていて、ついでに言えばレオの着流しの片袖は破れてひらひらとはためいていた。『…………うえ』気持ち悪、と呟いてザップがばん、と手で口を押さえた瞬間、レオの顔も同じように真っ青になったのをザップは覚えている。
「…ほんっと最悪でしたよ。あのあとザップさんが口すすいで青い顔で言った一言がごきげんようジョニー・ランディス、でしょ。誰だっつー話っすよ。酔い過ぎ。もっと上手い飲み方して下さい」
「お前ほんとしつけーな。もー忘れろよそんな話は」
忘れません、とレオは口を尖らせてザップが差し出した猪口に徳利から酒を注いだ。「…今日はどうすんすか。ご一泊で?」「あー…どーっすかな…最近うっせーんだよ」ツェッドさんですか、とレオは笑って言うと徳利を盆に置いた。通常こういった酒宴は花魁の”仕事”が終わる前にするものだが、ザップはどっちでもいいので好きにさせていた。今日は特に意味もなく、後だ。既に花魁は座敷の奥に引っ込んでいて床に就いている。そういう時、普通だったらこうして接待をするのは禿かもしくは見習いの遊女たちになるのだが、ザップの場合は基本レオだった。
別にレオが特別気が利くわけでもないし、配慮は出来るがプロフェッショナルと呼ぶ程でもない。なのになぜかザップにとってはレオが一番丁度良かった。たとえばプラスにマイナスがあるように、太陽に月があるように、どうしてかレオがいないとしっくりこないのだ。つまり認めたくはないが、気が合うということらしい。店側もそれを重々承知してレオを寄越しているのだろう。
「ツェッドさんは心配なんですよ。ザップさんが遊んでばっかりいるから」
「オイてめーよ。だから俺は客だっつってんだろコラ。いー加減にしとけよ?もー来ねえぞ」
「その台詞はもう百万回聞きました。別にいいですけど代わりにうちの太夫は別の人に身請けされちゃいますからね」
そうレオは言うとべえと舌を出して徳利を手にとった。ムカつくことしか言わねえ奴だ、とザップは顔を顰めて再度猪口をひょいと突き出した。レオが黙ってそれに酒を注ぐと同時に、座敷で三味線の音と共にくるくると美しく舞っていた芸子が袖を翻して正座する。頭を座敷に擦り付けるようにして挨拶をする彼女たちを見ながら、ほれとザップはレオに金子を差し出した。
「おわ。またですか。いつもありがとうございます」
「いーよそんなん。てめえ着服すんなよ」
「しませんよ!」
もう、と真っ赤な顔でレオは言うと、静々と廊下に下がっていく芸子と共に廊下に出る。しゃらしゃらという金子が擦れるような音がするところを見ると、廊下で早速彼女たちに金子を渡しているのだろう。あんなことを言ったが、ああやって渡された金子をレオが一枚も自分の懐に入れていないということはザップだって重々承知していた。あれは一応レオの分も含めて毎度渡しているのだが、彼にはそんな意識がないらしい。
「…おめー変わってるよなー。てゆかアホだよな」
「何で今俺を貶したんすか」
怠く呟いたザップに、レオはいつも不思議そうな顔をする。ザップの言っている意味をさっぱりわかっていないその様子も、ザップは嫌いじゃなかった。むしろ、それこそがレオナルド・ウォッチなんだろうなと思ったりもする。
この少年のことを何も知らないのに。
結局ザップはその日店に泊まると、明け方になって起き出した。「あー………怠い…」そう呟きながらがりがりと髪を掻き上げて布団から出る。酒宴のあともう一回最近気に入っている花魁を呼び出して遊んだあと、今度は何も飲まずに眠った。店が開く前に帰らねえと魚類が煩い、と義弟のことを考えながら座敷の障子を開ける。すると廊下に待機していたらしいレオがこっくりこっくりと座ったまま舟を漕いでいた。
「…………うお」
ちょっと驚いたのでそう声を上げたが、レオはすやすやと眠り込んでいる。「…………。」風邪引くだろーに、と思いながらぽいと自分が引っ掛けていた上着をレオの肩に軽くかけると、そのまますたすたと廊下を歩いた。店自体もまだ寝んでいる頃合だったから、寝ずの番をしている店番にでも朝飯を頼もうと思ったのだ。恐らくその為にレオが廊下に控えていたのだろうが、寝ているから全く意味がなかった。あとで番頭にチクってやる、と心が狭いことを思いながら店先に顔を出す。くし、と小さくしたくしゃみのせいで、店番がこちらに気が付いた。「………あれ。なんだ」あんたすか、と言いながら畳を歩くザップを見上げてきたのは、昨晩会話したばかりのスティーブンだった。
「僕で悪かったな。あれ?少年はどうした」
「寝てますけど」
「……あ〜〜…」
まったくもう、と言いながらスティーブンはぱちぱちと算盤を弾いて溜息を吐いた。「…どうも昔からあの子は朝に弱いんだよなあ。もーちょっと鍛えないと」「どう鍛えるんすかソレ」そう笑ったあと、スティーブンの横に置いてある盆の上にあった急須をザップは手にとって、湯呑に乱暴に注ぐ。別段それには言及せず、それでと言いながらスティーブンはさらさらと帳簿をつける作業を再開した。
「お前はなんだ。朝飯か?」
「だからあんたね。それ客に対する態度じゃねえって」
「言っておくが基本うちは朝飯出すことなんかないんだからな。お前限定だ」
そらどうも、とザップは笑うと湯呑に注いだ茶をぐいと飲み干す。温くて丁度よかった。「…あーだりー……あ、俺今日も来ますから。空けといてくださいよ」「何?またか。ここんところお前ばっかりで…他の客との兼ね合いがどーにもなぁ」それ客に言う台詞じゃねえだろって、とザップはまた同じようなことを言って笑った。実際この店は大店といっていい部類だったから、ザップの他にも幾人もの上客を抱えている。ただその中でも恐らくザップが抜きんでて金子を落とす確率が高いのだろう。だから通常やらない朝飯のことだって、レオをつけることだってスティーブンは許可しているのだ。ザップは知らなかったが、恐らく他のことでも特別扱いされていることはいくつかあるはずだ。大体、こんな風に彼と気さくに口を利けるのも客の中ではザップくらいだった。
そうやってぼんやりしてい時だった。ばたばた、という非常に騒がしい音が聞こえてきたので、ザップは自然に階段の上を見る。同時にスティーブンが眉を顰めてすっくと立ちあがった。
「あ、わ、お、おはようございます!ザップさんすいません俺、」
「少年!」
飽くまで静かにスティーブンが鋭くそう言ったので、慌てたようにレオが自分の口を塞いで階段から転がり落ちるようにして下りてきた。「わっスティーブンさん!はざっす!」そう言ったレオの首根っこをがしりと掴むとずるずるとスティーブンは番頭席まで引きずって来る。にゃあとレオはまるで猫のような声を上げると、苦しいとじたばたしながら引き摺られてきた。
「静かにする!今はまだ朝だ。まだ他にお休みのお客様もいる!ついでに言うとこいつも一応客なんだからもう少し畏まれと僕は言っているだろう」
一応ってどーいうこっちゃ、とザップが憮然としている間、レオは慌ててその事実に気が付いたり思い出したりしたらしい。すいませんといいながら慌てて座敷に正座した。「…それから。また寝ていたらしいな」「………ごめんなさい」そう言ってレオはしゅんと落ち込んだ様子で項垂れた。スティーブンは小さく溜息を吐こうとしたらしいが、それをぐっと踏みとどまったようにザップには見えた。溜息はある意味言葉よりも効果的だからだろう。
「……、………今日はこいつだったからいいけどな。他のお客様だったらどうなってたか分かるか?用向きを申し付けようとしてたら寝ていました、じゃ話にならないだろう」
殆ど出がらしになった茶を飲みながらぼーっと外を見てそれを聞いていたザップだったが、流石にその時点で顔をスティーブンに向けた。
「ちょっと待って下さいよ。こいつだったらってどーいう…っつーか俺も客なんすけど」
「ちょっとお前は黙っててくれ。今教育的指導中だ」
「どーいうことすかソレ」
おかしいだろ、とザップが顔を顰めている間にも、レオはすみませんでしたと小さく言うと頭を下げた。「……ごめんなさい」「…次やったら反省室だ」いいな、と言われてレオははい、と小さく返事をして漸く顔を上げた。その顔が誰にでもわかるくらいは萎れていたので、ザップはちょっと目をぱちぱちと瞬かせる。
レオは項垂れた様子でザップの方を見ると、ザップさんと言って頭を下げた。「…申し訳ありませんでした。次は気を付けます」「……………。」それを黙って聞いた後、ザップはかん、と音を立てて湯呑を盆に置く。既に帳面に戻っていたスティーブンが変な顔をした。
ザップは頭を下げているレオの傍にひょいと近づくと、無理矢理顔を上げさせた。「うにゃっ」「……お前もそーいう顔すんだな」そうザップは言いながらまじまじとレオのことを見つめた。
「へ…」
「…いやなんかよ。いつも俺の前じゃへらへらしてっから、知らなかったけど」
お前もやっぱ落ち込むんだよな、と言いながらレオの頬をぺたぺた触った。あんまりその行動に意味はなかったが、レオはきょとんとしながらはあ、と小さく肯定する。「…あ、あのー。怒ってないんですか?」「?どこに怒る要素があんだよ」そうザップは言うとぱっとレオの顔から手を離す。わあ、とまたレオは声を上げた。何となくザップはそのままレオの頭に手を伸ばしてぐしゃぐしゃと掻き回したので、レオは今度は痛い痛いと悲鳴を上げた。
「なあスターフェイズさん。こいつ俺以外にもあーいう当番すんの?寝ずの番的な」
「?そりゃするよ。仕事だからな」
そう当然のように言ったスティーブンに、そんじゃさと言いながらザップはレオの頭からやっと手を離す。「あたたた」小さくレオがそう悲鳴を上げていたが、ザップはそれに頓着せず、そして特に何も考えずそれを口にした。
「それ俺の時だけにしてくださいよ。したら寝てもいーじゃねえすか」
「は?」
「え?」
当然、スティーブンもだがレオも驚いたような声を上げた。「だからよ。俺が来た時だけあーいうのさせりゃいーじゃん。したら寝ても問題ねえし、練習にもなんだろ」そう言ってザップは盆の上に置いてあったまんじゅうを勝手に手に取ると、ぽいと口に放り投げる。恐らくスティーブンの夜食だったのだろうが、ザップにとってはどうでもよかった。
レオはあまりのことにぽかんとして黙っていたが、スティーブンは眉間に皺を寄せてそういう訳にはいかないだろ、と当然すぐにザップのその提案を断ってきた。そのあたりまではザップにも予想がつく流れだったから驚かない。「…いいじゃねえすか。どーせ大して重宝がられてもねえだろ」「あのな、そーいう問題じゃないんだよ。仕事なんだから将来的にも慣れないと…っていうかお前何気に酷いぞそれは」そうスティーブンに言われたが、いいじゃないすかとザップは繰り返した。
「こいつが将来使い物になんなかったら俺が引き取ってやっからさー。代わりにコイツ俺専属にしてくださいよ」
「……………………………。」
ザップのそれにスティーブンは更に顔を顰めた。「……少年をお前にくれてやるほど僕は落ちぶれちゃいないぞ」どういう意味っすか、とザップも顔を顰めたあと、あの、と言いながらレオがザップの腕をそっと掴んだ。
「だ、大丈夫ですザップさん、俺もうちょっと頑張れますから。そこまでして頂くのは流石に悪いです」
「……………んー…」
その顔を見て、幾らすか、と言いながらぐるんとスティーブンの方に向き直ったザップに、スティーブンは益々苦虫を噛み潰したような顔になった。「……話はあとだ。…ともかく…それじゃ今夜も番は少年だな?本来だったらそこまで聞く義理もないんだけどな…」まったくもう、と言いながらスティーブンは溜息を吐く。ぱたんと帳面を閉じる音と、それから算盤の球がしゃらんと美しい音を立てた。
すんません、と言いながらレオがザップのあとをとことことついてくる。「なにが」「…や、さっきっすよ。庇ってくれたんでしょ」「はあ?」かばった、と繰り返したザップの横に追いついて、そうですよとレオは眉を下げて八の字にすると、情けない顔でそう言った。
「俺が居眠りしてたの助けてくれたじゃないですか。…怒ってもよかったのに」
「ああ…あれか。………待てよ。何で俺がおめえを庇わなきゃなんねんだよ」
やめろよ、と本気でそう顔を顰めて言ったザップに、レオは呆気に取られたような顔を見せる。実際、ザップは別段レオを庇ったつもりでもなんでもなく、ただ思ったことを言っただけだった。確かにああやって叱られていたのがレオじゃなかったらあんなことまで言わなかったかもしれないが、反対に、レオだから丁度いいと思って言った言葉でもある。最近どころか、ずっとレオが寝ずの番だったら色んな意味で楽でいいとは思っていたのだ。だからしめしめと思ったという向きが強い。好都合だった。
―――ん?
しかしそこまで思った辺りでちょっと疑問に思った。確かにその通りではあったが、どうして自分が一介の少年にまでそこまでするのだろう。「…………。」懐に手を入れて腕を組みながら考えたが、自分自身のことなのによくわからなかった。確かにレオは気が合うし会話していて楽しいが、花魁でもあるまいにそこまでさせる必要性も感じられない。前にも言ったが、別段レオが特別気が利くとか、仕事ができるというわけじゃあないのだ。自分が好きで好きで仕方ない、いい匂いがして柔らかく抱き心地がいい女ならともかく―――目の前にいるのはくしゃくしゃ頭で年齢の割には幼い顔をした少年である。
ザップがそうやって悩んでいる間にも徐々に空が白んできたので、日の光がレオにも、それからザップにも当たり始めていた。つい先ほどのやり取りが終わったあと、朝食を終えたザップが帰宅するところ、レオが送って行きますと言い出したのだ。確かにこうやって送りがつくのは珍しいことではなかったが、基本そういうのは腕が立つものがする役目なので、レオがこうしてザップと共に家までやって来るのは初めてだった。
「…てゆか俺は番頭もどーかと思うぞ。客の前で説教すんなっつー話」
結局ザップはそう、関係のないことを言った。考えるのが面倒になったし、そもそも答えを出したところで別段自分に利があるとは思えなかった。このあたり、商売人の考え方なのかもしれない。
レオはそれを聞いて困ったように頬を掻いた。
「…あー……あの人ももうザップさんのこと身内っぽく思ってるんですよね…」
すんません、と困った声で謝ったレオにデコピンすると、わあとレオが悲鳴を上げた。「痛いですよ」「痛いですよじゃねえよ。手前もそうだけどスターフェイズさんも何であーなんだよ。俺は客だぞ客」分かってますけど、と言いながらレオは額から手を下ろす。
「…つーかぶっちゃけ俺はマジでおめえの話してたつもりだったんだけどな。あの人幾らで動いてくれんだよ」
「え?……え?俺?」
「おめえ以外誰がいんだ。寝ずの番が毎度オメーだったら俺も楽でいいわ」
理由はわからなかったがそれはそれで事実だ。だからそう言ったザップに、レオは戸惑ったような声と、ぽかんとした表情でザップの方を見上げた。
「…………えーと」
それは褒めてくれてるんですか、と微妙な表情になって言ったレオに、そんなわけねえだろとザップは言い返して、けれどちょっとおかしくなって笑った。「…………。」レオはそのまま黙ってザップを見上げていたが、結局ザップと同じように笑い始める。レオの横顔に朝日が当たる頃合になって実家には到着し、そんじゃなとザップは手をひらひらさせて家に入る。
「あ、ザップさん!」
慌てた様子でレオは別れ際にそう言うと、がしりとザップの半纏のたもとを掴んできたので、危うくつんのめるところだった。「うお!?あ…っぶねーなオイ!何すんだよ!」「あっ。す、すいません!…あの、」今夜もどうぞ当店をご贔屓に、と言ってレオはぺこりと頭を下げた。
「………………おう。また行くから」
待ってろよ、とザップは笑ってレオの頭を店でしたみたいにぐしゃぐしゃに撫でまわす。にゃあ、といういつもの悲鳴がレオからは上がった。
いい加減にしてくださいよ、と米神に青筋を立てながら義弟が言った。
「そうやって財源を湯水のように使ったらすぐ落ちぶれますよ!わかってるんですか!?」
「あーうっせーなもー。おめえさっさと接客して来いよ」
「手代さんにお任せしてます!今日こそ!ちゃんと!話し合いますよ!!」
煩い、と同じことを思いながら顔を顰めてザップは廊下に腰を下ろす。そのままでいいから聞いて下さいね、と座敷に座る義弟のツェッド・オブライエンが怒り心頭の口調で言ってきた。ここずっと夕方から明け方まで家にいないということは、とっくにツェッドにバレていたらしい。当初は放置しておこうと思ったらしいが、流石に一週間続いたので彼の堪忍袋の緒も切れたようだ。午から元気な奴だ、と思いながらザップは煙草盆を引き寄せて、煙管を咥えた。
「あなた跡継ぎだという自覚はあるんですか!?いい大人なのに子供みたいにサボるなんて!」
「冗談じゃねえおめえがやれそーいうのは。万が一俺になったら隠居するぞ」
「冗談じゃないはこっちの台詞ですよ。どう考えてもあなたが継ぐのが筋というものです」
「……………。」
頭固いっつーか融通利かねえっつうか、と思いながらザップはのろのろと座敷を振り返る。ぱらぱらと帳簿を捲っている義弟は、いいですかと言いながらぎろりとザップの方を睨んできた。「いくつか縁談もきてるんですよ。遊んでないで二、三人お会いして下さい。結婚しろとは言いませんから、こちらにも体裁というものがですね」「オイ」待てよ、と言いながら青い顔で廊下に上がったザップに、きょとんとした義弟の眼が向けられる。
「なんですか?」
「なんですか、じゃねえよ。待てよ。俺に縁談とか来てんのかよ」
「そりゃあ来ますよ。遅いくらいですし…むしろ引く手数多ですよあなた」
羨ましい限りですね、と言った義弟の瞳は帳簿に向けられており、しかも口調が嫌味たらたらといったそれだったので、自然とザップは顔を顰めてしまう。何つう分かり易い奴、と思いながら不承不承盆を引き摺りつつ座敷に戻る。
「……全部断れ。俺は受けねえぞ」
「はあ。気持ちはわかりますがお会いするだけしてみて下さいよ。僕もこんなこと言いたくありませんけど、」
「んじゃ言うなバカ」
「………………。」
ツェッドは溜息を吐いて帳簿を閉じた。昨日まで真っ黒だった帳簿が突然赤くなるとも思えず、どーせ今日も黒字だろとザップは思うとプイと顔を義弟から背ける。子供っぽい反応甚だしかったが、ツェッドはそれには特に何も言わずに頭が痛そうな顔をした。「………頭痛が痛いです…」「奇遇だな。俺もだ」そう言うとザップは話は終わりとばかりに立ち上がる。どこに行くんです、と疲れた様子で義弟が聞いてきた。
「団子屋」
「……午後までには帰ってきて下さいよ。得意先がご挨拶に来て下さるんです」
「そーいうのはおめえとボロ雑巾でやっとけよ」
「師匠に向かってそれは幾らなんでも」
酷いですよ、という義弟の声を背中に受けながらすたすたと廊下を歩いていく。めんどくせえことばっかりだ、と思いながら財布を確かめて通用口にある下駄を引っ掛ける。お出かけですか、という女中や丁稚の声にひらひらと手を挙げて外に出た。
団子屋からの帰り道だった。どこに目ェつけて歩いてんだコラ、という破落戸の声が店と家の間から聞こえてきて、ふとザップは眼を向ける。毎日義弟はザップに怒ってきていたが、今日は珍しく本気っぽかったしさっさと帰ってやるか、と厚顔なことを思いながら帰途についている最中だった。ひゃあ、という小さな悲鳴に非常に聞き覚えがあったのが第一の理由だった。
「ご…っごめんなさいすみませんちょっと俺もよそ見してまして…っというかその、」
苦しいんですけど、と呻き声を上げているのはどう見てもレオナルド・ウォッチだった。「……………。」何してんだあのバカ、と思いながらそちらに目を向ける。細い路地のようなところで、レオが破落戸らしい巨体な男に胸倉を掴まれていた。
「や…っめてくださ…、…ちょ、まじで、俺、いきが、」
苦しいです、とレオが息も絶え絶えに言った時だった。やれやれとザップは首を押さえながら男の手をがしりと掴む。「…あ、」ざっぷさん、と少し驚いた様子で咳き込みつつレオが言った。なんだてめえ、と非常に分かり易くこちらに詰め寄って来た男を見上げながら、放しとけよとザップは言った。
「こんなガキに絡んで粋がっても仕方ねえだろ」
男が返事をする前にザップの方が先に動いていた。そのまま男の右手を捻りあげたと同時にみしりという音がして、男が呻き声を上げながらその場に転倒する。別段武家の家に生まれたわけでもないのに、ザップの義父は腕っぷしはその辺の道場の師範が束になってもかなわないという専らの噂で、自然とザップもツェッドもその辺の破落戸よりは遥かに腕が立つようになった。自然と言っても少年時代に毎日のように修行のようなことをさせられたので嫌と言っても無駄である。鍛錬の結果自然に強くなったと言っていい。その辺、やはり自分たちの義父は変わり者ではあった。そもそも本当に商家の出なのかどうかすら怪しいとザップは思っている。
レオはこほこほと咳き込んでその場に座り込んでいたが、ザップが問答無用でレオの手を引っ張って立ち上がらせたので、慌てた様子でそのまま歩き始めた。レオを引き摺るようにしてそのままザップは隘路を奥に進む。このまま突っ切れば別の大通りに出るためだ。
「…おめえよー。道歩くだけで絡まれんなよバカ」
「ざ、…ざっぷさん、なんで、」
「俺はいつもの……ちゅーかおめえは何で今起きてんだ」
今日は午後からじゃねえのかよ、と今朝方までレオと会話していたのでそう聞いたザップに、ああとレオは気まずそうに頭を掻いた。基本的にレオがいる店は夕方から開店するので、昼間起きている者は少ない。特にレオは明け方までザップの座敷にいたし、家まで送りをしてくれたから、今は就寝時間の筈だ。
レオは言い難そうではあったものの、口を開いた。「…いや俺結局寝てたから。そんで」「寝てねえだろ。寝ずの番だったろ?」「いや、寝ましたよ。ほら……そのー、廊下で」「………あー…」なるほど、とザップは納得する。スティーブンが言ったのか、それともレオが自主的に労働に従事しているのかは定かではないが、居眠りをしていたので深夜に働いたと見做されなかったのだろう。恐らく後者だな、とザップは思いながらすたすたと路地裏を抜け、ぱっとレオの手を離す。すんませんというレオの声に振り返った。
気が付かなかったが、今朝見た時とは違う着流しを着ていた。見ただけで何となく上等なものだと分かったので、なんだお前とザップは首を傾げる。「使いかよ」「あ、はい。帰りです」ふうん、と言いながらザップはおもむろにレオの肩をばしんと叩いた。わっとレオがびっくりしたように声を上げる。
「ちょーどいいや。ソレの帰りだろ?付き合えよ」
「え?ど、どこに」
「茶店」
ええ、とレオは困ったような声を上げた。「でも俺スティーブンさんが店で待ってて」「いーっつうにそんなん。大体これが俺以外の上客だったらおめえ大人しくついてくんだろ」「それはそうですけど」そう言われてオイ、とザップは顔を顰めて振り返る。どういう意味だと思ったのだが、レオは予想外にもおかしそうな顔をしていたのでちょっと虚を衝かれた。
「…んじゃ団子が美味い店にしてくださいよ」
「もう団子は食ったんだよ」
そう言ってザップはレオと一緒に茶店に向かうことにした。
美味そうに団子を齧りながら、ねえザップさん、とレオはちょっと首を傾げた。「ザップさんって嫁さん娶らないんですか」そう言われて咽てしまった。「わっ。茶…すんませんお茶のお代わりを」お願いします、と立ち上がってレオが手を挙げたため、はいただいまと愛想がいい給仕が急須を持ってきた。
「どーもありがとうございます。はいザップさん。お茶です」
「……、……、…………お前なあ」
あんで手前までそゆこと言うんだよ、と言って湯呑を煽ったあとにレオの額を軽く小突くと、あた、とレオは声を上げた。勿論偶然だろうが、ついさっきまで義弟にされていた話題と一致する。流行ってんのかよとザップは心にもないことを思いながら大福を齧った。
「だ、…だってザップさんの家だったら引く手数多でしょ?それにいい加減腰を落ち着けてほしいってツェッドさんも言ってましたし」
「あいつはいつもそう……ん?………なんだ」
あいつも何だかんだ言っておめえの店に来てんのかよ、とザップはにやりと笑った。「僕はいいですとか何とか言ってたくせになんだよあのヤロー。死ぬほどからかってやる」「ちょっとちょっと何言ってんすか。違いますよ」なにが、と言いながら正面の席に座っているレオを見つめると、レオは憮然とした様子で茶を啜っていた。
「こないだの夏祭りの集まりで会ったんですよ。ツェッドさんが師匠さんの代わりに顔出してて、俺もスティーブンさんの代理で出席したんで」
「夏祭りだあ?なんで花街のおめえらとウチの魚が会うんだよ。おめえらんとことはまた話は別だろ」
いつもはそうですけど、とレオは言ってひょいと団子を手に取った。「夏祭りは別ですよ。夜中までやってるし、近隣からも知らない人沢山来るから、後々面倒ごとを避ける為に一緒にやっといた方がいいんです」ふーん、と言って大福の残りを口に入れたザップを見て、そんでとレオは続けた。
「そん時ツェッドさんに聞いたんすよ。言われてみれば確かにそーだなーって思って。何でザップさん結婚しないんすか」
ザップさんなら選べるくらい相手はいるでしょう、とレオは真顔で言うと団子を齧っている。粒あんが口の横にくっ付いているのを見つめながら、そらそーだけどよとザップは怠く返事をした。
「…めんどくせーじゃん。俺一人に縛られんのヤなんだよ」
まだ遊びてえし、と言いながら湯呑を手に取ったザップに、レオが呆れた顔になった。「幾つっすかアンタ。八つ九つの子供じゃないんだから」「るせーな。…ちゅーかおめえこそどーなんだ。おめえの年齢でももう嫁とってもおかしかねえだろ」そう言いながら何となくザップはレオから目を逸らした。自分が言っていることは確かにその通りだったが、レオが誰かと結婚している図はどういうわけかザップの脳内には具体的に浮かんでこなかったのだ。
レオは少し驚いた顔をしていたらしいが(糸目のせいで分かり難い)、首をちょこんと傾げた。「……俺の立場じゃまだまだだと思うんですけど…なんかそれより以前に」相手もいないし、と言いながらレオは溜息を吐いてぱくんと団子をまた口に入れる。ザップはそれを聞くとちょっと考えた。
「…ちゅーことはおめえ童貞か」
「ぶっ」
タイミング悪く団子を喉に流し込んだところだったらしい。ごほごほ、とレオが咳き込み始めたのでザップは笑って湯呑をぐいと手渡してやった。さっきと立場が反対だ。レオは咳をしながらそれを受け取ると、一気に茶を飲み干して机に置く。口を袖で拭うと、ちょっと、と真っ赤な顔でレオは言った。
「な、なんでいきなしそこに持ってくるんですか!?しゃ、しゃーないでしょそんな暇なかったんだから!」
「オウなんだよマジでそーなんか。…うわおめえ悲惨な人生送ってんな…」
あんなとこに住んでる癖によ、と言われてレオは益々顔を赤くした。「う…っるさいなぁもー!それとこれとは話は別なの!いーんですよ別に!そーいうのはちゃんと好きな子ができた時にちゃんとするんですから!」「………童貞は夢みてるよなぁ…」そう言ってザップは呆れた顔のまま大福をもう一つ手に取る。レオは真っ赤な顔のまま、急須に入っている茶を湯のみに注ぐともう一回茶を口にした。
うすうすそうじゃないかとは思っていたがまさか本当にそうだとは思っていなかった。確かにレオは見た目はスティーブンの呼称通り少年と言っていい風貌だったが、実際はもう十九歳なのだ。しかも花街に住んでいるし、彼の番頭の周りをいつもちょろちょろしているから既にそういうことは一通り経験済みなのかともザップは思っていた。どうもその辺までは流石にスティーブンも面倒はみていないらしい。―――というよりも。
「…よっぽど大事にされてんだな。お前。宝もん扱いじゃねーか」
そう呆れて言ったザップに、きょとんとレオは顔を向ける。「?…スティーブンさんですか?」みなまで言わずにそれが伝わったことに意外に思う。どうやらレオ自身も何となくそれを肌で感じているらしい、とザップにも分かった。
レオは少しだけ困ったような顔をしたが、そういうわけでもないんですけど、と言って俯いた。
「…まあ……あの人もたぶん同情してくれてるんすよ。ああ見えて優しいから」
「…優しい?待てよ。お前目だけはいいんだろ?大丈夫か?」
「ひ、酷いですよ。言いたいことはわかりますけど」
そう言ってレオは困ったような顔をしたが、結局苦笑した。笑ってんだから同じだっつうに、とザップは思ったあとふと気が付く。「…お前ってやっぱはなっからあそこに住んでるわけじゃねえんだな」そう言ったザップに、ああとレオは相槌を打ってこくんと頷いた。
「そりゃそーですよ。色々あって十年くらい前からあの店にはいますけど」
「じゅ……うおマジかよ。そんなにいんのかお前」
確かに長くいそうだとは思っていたが、そんなに長い年月だとは思っていなかった。驚いてそう聞き返してしまったザップに、はいとレオは首肯する。
「だからザップさんのことは知ってましたよ。大店の放蕩息子だって評判だったし」
そう言われてげほごほと咳き込んだのは、またしてもザップの役割だった。対照的にレオは爆笑し始め、何すかもう、と言って湯呑を突き出してくる。この野郎、と思いながら慌ててそれを受け取ると、一気に飲み干して乱暴に机にがつんと湯呑を置く。「て…っめマジかよ。三年前が初対面だろコラ」そう言ったザップに、初めて会ったのはそうですけどと笑って言った。
「でもザップさん色んな意味で有名だったし、うちの店じゃ何も起きてないけど向かいとか裏の店じゃ刃傷沙汰何回か起こしてるでしょ。だからうちに来始めた時なんか、あんたの泊まってる部屋には絶対行くなってスティーブンさんに俺何度も言われてましたもん。危ないからって」
マジかよ、と言ったザップにマジっすとレオは簡単に肯定した。「あの時ばかりは用心棒何人か雇うかどうにかしようかってクラウスさんとスティーブンさんが相談してましたからね。毎夜毎夜」
「……………。」
非常に信頼がなかった。確かにレオの店に通い始めたころ、ザップはその辺の店で何度か色々な遊女や妓女たちと刃傷沙汰を起こしまくっている(ちなみにたまに今でも同じようなことは起きる)。そのたびに数回は刺されているので、義弟が半ば嘆いて半ば怒って医師を手配しているのだ。もう次やったら本当に知りませんからね、と言いながらも義弟は街で一番の名医を毎度つれてくるから、どうもその辺り、認めたくないがザップと似ているらしい。つまりお互いに素直じゃないのだ。ちなみに義父は毎度捨て置けと言って顔すら見に来ない。
ちなみにクラウスというのがあの店の主人の名で、あの店以外にももう何店舗か店を持っているらしい。その組織形態の実態はよくザップは知らないし興味がない。しかも忙しさゆえに殆ど店に顔を出さないので、実質あの店を取り仕切っているのはスティーブンなのだ。ザップはたまに顔を合わせることもあるが、生真面目な一本気のある男だったので、似合わねえなと思った記憶がある。店にも、スティーブンにもだ。そう言ってみたらスティーブンには分かってるよと結構激怒されたのも覚えている(ちなみに隣にいたレオどころかクラウスですら狼狽えていた)。それなりに地雷だったらしいから、ザップは結構意外に思った。あの男にも弱みと言うものがあるらしい。
「…だから最初に顔を踏まれた時よくわかりましたよ。近づくなって言われてた意味が」
「うるせーな。だからおめえはいつまであん時のことを根に持つんだよ」
そう言ってがしりとレオの頬を挟むようにして掴んだので、むぎゅ、とレオが悲鳴を上げた。「うみゅ、いた、むぐ」「てっめえな〜〜オイ忘れてるかも知んねーけど俺はお客様だかんなお客様。その辺分かってて口利いとけよ?あ?」ごめんなさいごめんなさい、とレオはどうやらむぐむぐと動かない口で言ったらしい。ふんと鼻を鳴らしてぱっと手を離すと、いってえと言いながらレオは自分の頬をぺたぺたと触った。
可愛くねえガキだ、と今更のようにザップは思うとごくんと茶を飲んだ。確かに気は合うし、レオが寝ずの番だと色々融通が利くし楽だから都合がいいが、この減らず口だけは毎度ムカついている。出会った経緯が経緯だけに仕方ないのかもしれないが、自分を客とも思わぬ態度は一体なんなんだ、とザップは思う度にさっきみたいにそう言っていた。もーちょい素直にザップさんザップさんとくっ付いてくれば少しくらいはまだ、と思ってはたと気が付いた。
…………可愛げ?
そんなものが果たしてこの少年に必要があるのだろうか。別段レオはザップにとって使用人でも下男でも、はたまたお気に入りの芸子でも遊女でもなんでもない。無理矢理分類するとなれば友達と言えるのかもしれないが―――にしたって可愛げが要るかと言われれば、要らないだろう。女でもないのに。
変な顔をして考えているザップに気が付くこともなく、レオはそういや結婚と言えば、とちょっと首を傾げた。「スティーブンさんも嫁さん取らないんすよね」「あ?」思考の海からザップも顔を上げて、レオのその疑問に耳を傾ける。
「…だってもう番頭に…っていうか俺が出会った時から番頭でしょ?なのに女中さん一人しか家にいないし。…俺が言うことじゃないけどあの人だって結婚しようと思えばザップさんみたいに引く手数多なのに」
「…そらその女中が女なんだろ。内縁の妻っちゅーやつでよ」
そう言ったザップに、レオは首を振って否定した。
「いや違うんすよ。その人既婚者で、しかも通いだし」
「あ?まじか」
あの人人妻に手ェ出してんのかよ、と真顔で言ってしまったザップにだから違うんですよ、とレオは顔を青くして首を振った。「ど、どこで聞かれてるかわかんないんすよ。やめてくださいって」俺ら殺されちゃいますよ、とレオは本気か嘘か分からないことを言うとザップに顔を近づけると、声を潜めて呟くように話を続けた。自然、ザップもレオの方に顔を近づけた。
「…じゃないっすよ。マジでそういうんじゃなくて…俺も何回か会ったことあるけど、そーいう雰囲気じゃないんです」
「童貞に何がわかんだよ」
そう呆れた顔で言うと、レオは顔をまた真っ赤にしてやめてくださいよ、とザップの口を塞いできた。「…………。」半眼でレオを睨んだが、その意図を察しただろうにレオはザップの口から手を離さなかった。「だ…っだから、違いますってゆか確かにそーだけど俺もあーいう店で何年も働いてるんだから分かりますよそんくらいは!そーいう雰囲気じゃないの!」もう、と怒ってそう言ったレオの手はいまだザップの口を塞いだままだった。
「………………………。」
別に苛々したわけでもないし、何を思った訳でもない。ただちょっと―――からかってやろうと思っただけだ。「…………、」塞がれたままの口だったが声は自由にならずとも、自由が利くものは多々ある。舌をぐいと動かして、自分の口を塞いでいるレオの手のひらをべえと舐めてやった。
最初に目に入ったのはなぜかレオの肩だった。
びくっとわざとらしいくらいにその肩が動いたのが視界に映る。それと同時に小さく、聞いたことがある筈の声がザップの耳に入ってきた。
聞いたことがあるはずだったのに、ザップはその声を、なぜか初めて聞くような気がした。
「ひゃ…っ!」
小さくそう言ってレオは眼を瞑ったらしい。「………、」思わず目を瞠って固まってしまった自分とは対照的に、レオはぱっとザップの口から手を離した。ついさっきまで真っ赤だった顔の理由は知っていたが、果たして今その顔が赤い理由が同じ理由なのか、ザップには判断がつかない。ただしレオが慌てたように自分の手を押さえて困ったような表情になったので、ザップの方が戸惑う羽目になってしまった。
「な…、………な、なな、なに、なにすんすかあんた」
「……………………………いや」
だってお前が、と動揺を隠しながら言ったザップに、見つけましたよという低い声が聞こえてきた。「………ん?」そう言った直後ばしんと頭が思い切り殴られて、ぎゃあとザップのみならずレオも驚いた様子で悲鳴を上げる。
「午後になったら得意先が来るから帰ってきてくださいってあんなに言ったじゃありませんか!!どーして茶店で油を売ってるんですか!!」
僕の立場にもなってください、と言った義弟がいつの間にかそこに突っ立っているのを見た時、普段だったら激怒していただろう。なのにその時のザップはどういうわけか助かった、とそう思った。
「…ツェッドさん」
手を押さえたままぽかんとして言ったレオに、その時漸くツェッドは気が付いたらしい。「…レオくん………、……あなたねえ。駄目でしょうにレオくんの仕事の邪魔をしちゃあ」そう呆れた様子で言った義弟を見ながらザップは立ち上がった。うるせえなといつもだったら言うところ、ザップは黙ってすたすたと店の入り口に足を向ける。「あっ。ちょっと、」「…金頼むわ」そいつの分も、とけち臭いのか太っ腹なのか分からないことを言いながら、ザップはそのまま店を後にした。ザップさん、というレオの声を後ろから聞いた気がしたが、そのままザップは返事をせず家に帰った。
後々追いついてきたツェッドと共に帰途に着く最中延々と説教を受けたが、一ミリもザップの脳内には入ってこなかった。そんなことよりも。
ついさっき見たばかりの真っ赤な顔をした少年の顔の方が気になって気になって仕方ないことに、ザップは帰宅してからも戸惑いを覚える。「………なんでだよ」自分自身にそうツッコミを入れて、不承不承商談に臨んだ。
いらっしゃい、という声の後に聞こえる筈の溜息は聞こえなかった。「…なんだザップ」珍しいなそんな顔は、と言うスティーブンの声の後ろでぱちぱちという算盤の音がする。銭儲けのことしか頭にねえわけじゃなかろうに、と思いながらザップはどうもとスティーブンに手を挙げた。
「…空いてますか。上」
「………何だか苛々してるなあ。刃傷沙汰でも起こしたら叩き出すからな」
んなことしませんよ、と言いながら番頭席の横に乱暴に腰を下ろす。「約束通り少年は空けてあるぞ」「何で今それを言うんすか」明らかに苛々した口調で返事をしたザップを、変な顔でスティーブンが見つめてきた。今日は珍しく眼鏡をかけているせいか、ちょっとだけ目が大きく見える気がしないでもない。
「…なんだ。ケンカでもしたのか?なんだかあの子の様子もおかしかったし」
「え」
レオっすか、と言いながら思わず声を上ずらせたザップを見て、うんとスティーブンは頷いた。「使いがいやに遅いとは思ってたん……、……おい。待てよザップ。まさかお前」あの子に何かしてないだろうな、とそこでスティーブンはぱたんと帳面を閉じてザップの方にわざわざ向き直ってきた。じろりと眼鏡の奥の瞳が鋭さを帯び始める。
「な、なにか?何もしてねえっすよ別に」
「本当か?…あのな少年はお前と違って真面目で素直ないい子なんだから絶対変なこと教えるなよ。正直僕はお前と付き合ってほしくなんかないんだからな」
「………………。」
客に対して何ちゅう言い草だ、と絶句しているザップをじっと見た後、スティーブンはプイと帳面に顔を戻した。「…とりあえず部屋は空いている。ただ少しうちのお姫様方の準備に時間がかかっててな。ぼちぼち待つのが嫌じゃなけりゃ入っててもいいよ」「あのー、いつも思ってるんすけどスターフェイズさん」なんだ、と言いはしたものの、スティーブンは顔をあげなかった。
「…俺が客だってわかってます?」
そう憮然として言ったザップに、ちょっとだけスティーブンは眼をしぱしぱと瞬かせて、漸く顔を向けてきた。思ってもみなかったことを言われた、とでも言いたげな表情をしていた。
「………そりゃあ勿論存じ上げてますともお客様。お得意様であらせられる」
「ぜってー嘘だろアンタ」
そういうふざけた会話のせいかもしれない。ちょっとだけ気分が晴れたから、そんじゃ先に部屋にいますよと言ってザップは二階に向かった。本来だったら客が待たされることなんか絶対にないし、しかもザップのレベルとなれば尚更だ。明らかに軽んじられている扱いだったが、別段ザップは怒りを覚えなかった。何だか昼間の件が後を引いていて、そんな気分になれなかったというのもある。松の間に入ると勢いよく障子を開ける。向かいの店が見えたが障子は閉まっており、道に灯っているぼんぼりが目に入った。夜道にきらきらと輝くそれは、毎日祭りを開いているような光景だった。煙管を口に咥えてぼんやりと外を見る。荘厳な、ともすればけばけばしい衝立に煙草盆、それから衝立の奥にはすでに布団が設えてある。「………。」やっぱ早よヤりてーな、とついさっきまでのことを忘れたかのようにザップはぼんやりとそう考えた。
失礼します、という声に咽たのは初めてだった。「あのー…えーと、お暇をつぶしに……、……ってわっ、」ザップさん、と言いながら慌ててレオがぱたぱたと座敷に入って来た。「む、咽たんですか!?ちょっと待って下さい水を、」「い…っ、いい、いいってバカ、」大丈夫だよ、と言ってがしりとレオの腕を掴んで一番ぎくりとしたのはザップだった。思っていた以上にちゃんとレオの手は男だったし、そもそも昼間掴んだばかりなのだからそんなこととっくにわかっていた筈だった。なのにその時、ザップは今更目の前にいる友人が十九歳の男だということを知ったような気になった。
「……大丈夫ですか?」
そう言って心配そうに首を傾げたレオは、昼間見た時とは違った着流しを着ていた。恐らく接客用なのだろう―――上等なものだというのは、午と一緒で見ればわかった。
「…ってめ、なんだよ……俺が待ってんのはおめえじゃねえんだけど」
思っていた以上に普通に口が利けたのでほっとする。ついさっきまで思っていたことなんか些細なことに思えたし、昼間のことだってちょっとふざけただけだ。そう言い聞かせるようにして自分の中で唱えつつ、そう言ったザップにそうなんすけどとレオは困ったような顔で頭を掻いた。
「ついさっきうちの番頭からも言われたと思うんですけど、ちょっと立て込んでて時間がずれこんじゃってて…なので本当に申し訳ないんすけどもうちょい待って頂けないでしょうか。その間俺が小咄でもひとつ」
「はあ?それマ…、………いやおめえ小咄なんか覚えてんのか?」
「はあ。まあ…一通り勉強はしてますから」
そう言ってレオはちょっとだけ得意げに笑った。確かにスティーブンの普段の様子だと、レオに一通りのことは仕込んでいるのだろう。にしても少々過保護に過ぎる気もしねえでもねえ、とザップは思うとふうんと言いながら窓の桟に寄りかかる。
「ほんじゃ一発エロいの頼むわ。そーいうのも習ってんだろ?」
やっぱりこれも、昼間と同様でちょっとからかってやろうと思っただけだった。場所が場所なだけに、小咄だろうが暇潰しだろうが、そういう方面の方の遊びが多くなるのは仕方のないことでもある。仕事なのだから昼間とは違ってまさかレオも狼狽えはすまいとザップは踏んだのだが。
「…………えーっと…まあ……」
そう言ったが早いか、レオが微妙に顔を赤くしたので思わずザップは固まってしまった。そこでお前そーいう反応なの?と聞きたくなるくらいぎこちない様子でぎくしゃくとレオは座り直すと、そいじゃあその、と言いながら袂から扇子を取り出した。
「…あー、…その、こ、小咄をひとつ…………」
「………………。」
徐々に顔を赤くしながらレオはひとつ、ふたつと小咄を話し始めたが、表情や口調の割に手付きだけはしっかりとしていて、見た目のせいもあるだろうが変にギャップがある。しかも話している最中にどんどん顔が赤くなっていくので、なんだかザップも直視しづらくなってきた。無言で外を見ながら煙管を咥えているものの、聞いているこっちがなぜか恥ずかしくなってくる有様である。
「………えーとそいじゃ…続きまして…」
「待て。待て待て待てわかったもういい。もーいい」
そう言ってザップこそ顔を赤くしそうな勢いで窓から身を起こして手を振った。案の定レオの顔は風邪を引いたかのように真っ赤だったのでザップは脱力する。一体何年ここで働いてんだよと言いたくなった。
レオはえーと、と言いながらまるで頭から煙を出しそうな勢いで扇子をぱちぱちと無意味に開いたり閉じたりしていた。「そ、…それじゃもう一本…」「オイバカよせだからいいっちゅーに。やめとけ」熱でもあるのかと訝しむ程度には顔が赤かったので、ひょいとザップはレオの前にまで移動してぱちんと額に手を当てた。わっとレオが声を上げてこっちを向く。
「な…っななななんすか!俺は頑張りましたよ!?」
「いや分かってるわ黙ってろ童貞。お前流石にもーちょい免疫つけてこいよ」
呆れてそう言うと手を下ろす。やっぱり熱はなかった。「…………。」レオは顔を赤くさせたままちょっと俯くと、すみませんと言って頭を下げた。それが一体何に対しての詫びなのか分からず、ザップは自然と黙りこくる。
「…あ、あの。俺あんまり出来ることがないので…こ、こーいうことこそ頑張らないととは思うんですけど、その、あのう…」
真っ赤な顔でそう言ったレオに、ザップは一瞬きょとんとする。どうやら小咄をうまく伝えられなかったと思っているらしい。実際それはその通りだったが、別段ザップもそこまで小咄に期待していたわけでもない(それはそれで酷かったが)。と、いうよりかは。
「…別にいーよ。おめえの声聞いててヤじゃねえし」
「へ」
声?とレオは言って首を傾げた。「…ガキの声だけど」女みてーだしよ、と続けてプイと外を向いた。―――嘘だ。レオの声は流石に声変わりもしているし、流石に十と九つの年齢を迎えているのだから女のようには聞こえない。ただ、たとえばこの店で寝過ごしている時にたまにレオに起こされることがある。ザップさんザップさん、と静かに、けれども穏やかに起こしてくるこの少年の声が、ザップは嫌いじゃなかった。むしろ起きるどころかもう少しその声を聞きながら眠りたいと思うような、柔らかな声だからだ。―――もうちょっと。
ここにいたいと思うのは、レオが起こしに来るときばかりだった。
「…えーっと…そいじゃその、も、もー一回なにか」
「やめろバカ。それはいいよアホ」
そう顰め面でザップは言うと、窓からレオに向き直る。当然レオはなんですかソレ、と一応怒ったような口調で言うと頬を子供っぽく膨らませた。
「バカとかアホとか言うことないじゃないすか」
もう、と言って顔を真っ赤にさせたままレオは怒ったように言うと腕を組んでプイとそっぽを向いた。いかにも子供っぽい。それを見てザップは思わず笑ってしまい、ザップさん、とレオに更に怒られることになった。
ほんじゃ陣取りか、と言い出したのはザップだった。「え〜〜〜…マジでやるんすか?」「お前そゆこと言うと番頭に言いつけんぞ。ちゅーか女はいつ来んだよコラ」そう言うとレオはうっと明らかに困ったという顔になり、愛想笑いを浮かべてすみませんでしたお客様、と慇懃無礼にも言って頭を下げた。
あの後、暇なのでこいこいだとか五目並べだとかをして二人で暇をつぶしていたのだが、そういえばとザップはふと気が付いた。こういう場に来たことは死ぬほどあるのに、お座敷遊びというものをしたことがない。芸妓を呼ぶどころか、さっさと娼妓達と行為に及んでいたためである。だから一回くらいしてみたい、とレオにそう言ってみたのだ。驚いたことにレオはそういうことだってきちんと仕込まれてはいるらしい。出来るは出来ますけど、と渋々頷くとお座敷遊びと呼ばれる類の幾つかを説明してくれた。決まりが一番簡単そうだと思ったのが陣取りだったのでザップはそれを選んだのだ。
それじゃあと言いながらレオが新聞紙らしきものをどこからともなく持ってきた。「…ちゅーかそもそもこれは二人一組作ってやるもんなんすけど…」一人対一人で何が楽しいんすか、と言いながらもレオは新聞紙を広げた。
陣取りの決まりは非常に簡単で、折った新聞の上に代わる代わる乗っていく。乗る度に新聞を半分に折っていくので、どんどん乗る面積が小さくなっていくのが面白さの一つと言える。最終的に新聞紙から落ちた方が負けなのだが、そもそも二人一組、更に言えば二組以上でやるのがこの遊びの醍醐味なので、一人対一人では大して面白くもない。二人がどうやって新聞紙の上から落ちないか、試行錯誤しながらやるのが面白さの神髄なのだ。
「いーからやんだよバカ。それともてめえ野球拳にしてやろうかコラ」
「お、男二人でそれをやってどこの何が面白いというんです…」
ぞっとした顔をしたレオを一発殴って、いーからじゃんけんだほら、と言いながらザップが手を出すと、レオも反射的に手を出した。じゃんけんぽいという掛け声と一緒に出した勝負結果は、レオがパーでザップがグーだった。「んじゃ俺先行で」そう言うとレオはひょいと新聞紙の上に乗った。
「はい乗りました。下りまーす」
そう言ってひょいとすぐに畳に足をつけると、ぱたんと新聞紙を半分に折る。「…………。」続いてザップがその上にまた足を乗せてすぐに下りる。「んじゃ乗ります」そう言ってまたレオが新聞紙を折って自分で上に乗った。「はい次ザップさん」そう言ってレオが新聞紙の上から退くと、ぱたんとまた半分に新聞紙を折った。
「…………なあレオ」
「はい?」
「クソつまんねーなこれ」
「だから言ったじゃねーか!!」
びしりとツッコミを入れたレオの前でザップはあーあと言いながら畳の上に座り込んだ。確かに二人一組以上じゃないとつまらないこと甚だしく、さっきまでやっていた花札や碁の方がまだましだった。まったくもう、と言いながらレオは新聞紙をぱたぱたと片付けている。
「…あー…しっかしもう半刻は経ってねーか。一体手前んとこの姫達は何してんだよ」
「す、すみません。ちょっと今日は団体さんが来たもんですから…」
そう言いながらレオが新聞紙を手に立ち上がった。
そこで不思議なことが起きた。畳の上はどう見ても畳の上で、こういった店の松の間だからけば立っているということもないし、もちろん新聞紙がでこぼこした畳の上に置かれていたということもなく、つまり畳は非常に綺麗な一級品のものを利用している。更に言えば、レオが座っていた場所も、ちょうど立ち上がって足を置いた場所も別段畳と畳の隙間―――畳べりがあったわけでもない。強いて言えば、足袋に包まれているレオの足の動かし方が、畳の眼の方向と同じだったということくらいだろうか。ただしザップはそれを理由に転んだ人間を、今まで見たことがなかった。
つい、この瞬間までは。
わっという声と一緒にレオの身体が傾いだのが目に入った。「あ…」何してんだよと思ったと同時に腕を伸ばす。どさ、という音と一緒にぐえっという自分の変な声が座敷に響いた。
「……っ、てえ……」
丁度レオが自分の上に覆い被さるような形で倒れ込んでいた。「………お前なあ…」丁度レオの腕が自分の腹にぶつかったらしい。大したダメージはなかったが、驚いたは驚いた。あてて、と言いながらよろよろと顔を起こしたレオは、はっとした表情になって慌ててがばっと起き上がった。
「わっ。わわわす、すみませんすみません!だ、」
大丈夫でしたか、と言いながらレオが起き上がろうとしたが、変な体勢からだったので逆にバランスが崩れた。あっという声と一緒にまたレオの身体が傾いだので、このバカとザップは苛立ちながらレオの肩をがしりと掴む。わあと言いながらレオはザップの右腕に捉まった。
「…おっ…前なこの……何はしゃいんでんだよバカ!アホか!危ねえだろ!」
「……、あ、…わー…び、びっくりした…」
そう言ってレオは漸くよろよろと顔をあげた。「…す………すいません…」そう言ってぺこりと頭を下げたので堪らなかった。丁度目の前に顔があったので、額にレオの頭ががつんとぶつかったのだ。そして恐ろしいことに、この少年は非常に石頭だった。
「いっ、」
「あ゛っ」
げ、という顔をしたレオが顔をあげる。「…………、決めた」ギッシギシに泣かしてやる、という言葉と一緒にレオを思い切り畳の上に転がすまでそう時間は要らなかった。「ぎゃあ!?ちょ、…ちょっと待って待って待って!お願いしますごめんなさいすいません!平和的解決を俺は望んでいます!」「うるせえ黙れこの陰毛頭!!絞め落とす!」「ソレ俺死んでんじゃね…、…ごめんなさいごめんなさい!痛い痛い痛い!」じたばたと座敷の上でそうやって転がり、とりあえずレオに技をかけて虐めることにした。痛い痛い、と喚き声をあげているレオの声を聞きながら、ふとザップは昼間のことを思い出した。
―――だからやっぱり。
その時も別段他意はなかった。昼間のあの反応がもう一度見たいなんてことは微塵も思っていなかったのは確かだ。ただ単に、とりあえずレオを酷い目にあわせようという最低なことを考えながらしたのが、最初だった。
目の前にレオの首筋が見える。
歯を立てたわけでもなく、口で吸ったわけでもない。ただ単に昼間と同じように。
舌でそこを舐めた。
さっきとは反対に、とっくにレオを押し倒すような格好になっていたせいで、昼間と違って最初に目に入ったのはレオの耳だった。けれどそれよりも気になることがあった。びくりと引き攣るように動いた身体よりも、ザップの肩を押していた手よりも、目の前にある白い首筋よりも。
「…っひゃ…、っ!」
小さくそう言ったレオの声がすごい速さでザップの耳に入ってくる。
思わず動きを止めたザップに、既に顔を赤くしたレオが顔を向けてきた。「ちょ…っな、なに、何すんです、」か、というそれを聞く前にもう一回ザップは動く。石鹸の匂いがするところを見ると、既に風呂は済ませたらしい。べえ、と出した舌で舐めたそこは別段なんの味もしなかったけれど。
「っひゃう」
小さく聞こえた声はどうしてか甘く聞こえた。
「………、…あ、…ちょ、…や、ま、待ってくださいザップさん…、」
レオは微妙に顔を引き攣らせてそう言うと、逃げるようにそっとこちらに手の平を向けてきた。「…あ、あの…も、もーちょいすればそのー、…うちの上玉が来ますから…えーと…」もうちょっと我慢して下さいよ、と言ったレオの声は引き攣っていた。こちらに向けられた手が僅か震えている。
「…………、………もーちょいもーちょいってよー…」
いつ来るんだよ、と言いながらレオの髪を掻き上げると、くすぐったそうにレオは身を竦ませたが、それはそのう、と言いながらわたわたと無意味に手を動かした。「…も、もーちょいなので…あのー…、…あっ」耳に触った瞬間にレオが小さく声を上げる。ぐいと更に弄るとひゃあとまた声が上がった。
「…お前、」
ここ好きなんか、と言いながらぐいぐいと耳を引っ張ると、痛い痛いとレオは顔を真っ赤にしてそう叫んだ。「ちょ、ちょっとマジでほんとに、あの、や…っ、…だ、だめだって、…あの、も、もうちょっと待って…」「…だからそのもーちょいっつーのはいつになんだ?あ?」そんでお前はさ、と言いながら耳から手を離したためか、レオがほっとしたような顔でこちらを見上げて来る。
その時のレオの目がいけなかった。
熱に浮かされたような視線を見るのは初めてじゃない。ここの店にいる幾人かの花魁だって、そういう目をザップに向けてくるのは珍しいことじゃなかった。自覚はなかったが、どうやら自分は女性に好かれる性質らしいと理解したのは十代に入った頃で、その結果が刃傷沙汰なので始末にはおけなかったが―――ともかく、今のレオみたいに熱に浮かされた視線を受けたのは、ザップだって初めてじゃなかった。
その筈なのに、その瞬間ごくりとザップは唾を飲み込んでいた。ザップさん、と小さくレオの口が動いたのだって、赤い顔がまるで林檎みたいに見えたことだって、その表情に拍車をかけている。
頬を撫でるのにそう時間は要らなかった。「…っ、」緊張した様子でレオが目をぎゅっと瞑ったので、どこかにいる冷静なザップがおいおいとツッコミを入れてきた。そこでお前そーやってどうすんだよ。やめろとか言って蹴飛ばすのが定石だろうに、というそれをどこかで考えながら、そっと指をレオの口に伸ばす。唇を撫でた後にぐい、と親指をその間に差し込むと、まるで猫みたいな声が上がった。
外から聞こえるのは夜の街の歓声と嬌声で、静かに鈴の音や三味線の音も聞こえてくる。春になったばかりだからか、桜の花びらがひらひらと夜の街から部屋の中に入って来た。
「………………ん…」
小さくレオがそう言ったのが耳に入る。ごくんともう一回唾を飲み込んだザップの下で、レオが真っ赤な顔でこちらを見ていた。
「……ザップさん………………、」
無言でぐっと顎に指をかけた瞬間だった。とんとん、という障子を叩く音にびくっと二人で竦み上がった。廊下から丁稚らしき高い声で、申し訳ありません、お支度が整いましたと聞こえてくる。
「………あ、は、…はい…っ」
そう言ってレオはもそもそとザップの下から抜け出した。「………。」自然にザップも起き上がると、その場からずるずると座ったまま窓の傍に移動する。レオはザップに背を向けたあと適当に着流しを整えたらしい。すぐに立ち上がるとぱたぱたと騒がしく部屋の出入り口に足を向ける。「…そ、それじゃお待たせしました。すぐ呼びつけますので」お待ちください、と言いながらレオが障子の向こう側に消えていく。ぱたんという音とともに障子が閉じられ、部屋にはザップただ一人が残された。
「……………………、………、〜〜〜〜…、……俺………」
何してんだ、と言ってぐったりと窓枠に額をくっ付けるのにそう時間は要らなかった。相手はレオだ。レオナルド・ウォッチなのだ。十九歳の男で、少年で、友人で、別段ここの花魁だとか娼妓だというわけでもなく、―――ともかく男なのだ。俺はそっちの気はないはずだ、と今更のように言い聞かせながらザップはのろのろと顔をあげる。すぐ目の前にある橙色の灯りが灯っているぼんぼりを見て、けれどもすぐに思い出してしまった。
ついさっきまで見ていたレオの真っ赤な顔だ。
「……………………………………。」
そこでしゃらんという簪の音と共に障子が開いた音がした。お待たせ致しました、という鈴を転がすような声と共に入って来た花魁を見た瞬間、ザップは今までのことを全部忘れることにした。
夜中に目が覚めるのは大して珍しいことでもない。既に花魁は自室に下がっており、ザップはまたしてもこの店に泊まっているところだった。義弟にバレたら煩いどころの話ではなかったが、昨日今日で怒られたからと言って彼の言うとおりにするのは癪だ、とザップはひねくれたことを思っていた。
水差しから水を注いで一口飲むと、ふわあと欠伸をする。少し目が冴えた。「………んー…」今日の当番は、と思って気が付いた。当番も何も、レオにしろと予め言ってあるのだからレオが廊下にいるに決まっていた。「…………。」本日あったことが微妙に思い起こされたが、まあいいやとザップは面倒になって廊下に足を向けた。からりと音を立てて障子を開ける。
しかし何か御用でしょうか、と言ってそこに座り込んで礼をしているのはレオではなかった。「……あれ?」つい先ほど、恐らく花魁の準備ができた時に知らせに来た丁稚だろう。レオは、と端的に言うと、レオナルド様はと丁稚は几帳面に答えた。
本日はお休みになられました、申し訳ありませんと機械のように答えられる。「…………。」恐らく誰かにそう言えと言われているのだろう。「………番頭か」小さくそう言うとやれやれとザップは部屋にとって帰り、そして上着を一枚引っ掛けてまた戻って来た。
御用で、と丁稚に畏まって言われたがなんでもねえよとザップはずかずかと廊下を進む。「…あとでおめえが怒られねえようにはしとくからよ。そこにいろ」そう丁稚に言いつけて階下に降りる。スティーブンやレオの態度は確かにザップを殆ど客と見なしていなかったが、他の花魁や妓女、丁稚、奉公人たちの態度はそうとは限らない。どころか、ザップが大店の得意客だと百も承知と言わんばかりの丁寧すぎる態度ばかり向けてくるのだから、その辺は教育が行き届いているのだろう。ただし教育をしている立場の者の方が酷い態度なので今一解せなかった。
「……スターフェイ………、………あ?」
今夜も番頭席に座っていると踏んでいたが、本日番頭席に座っているのはスティーブンじゃなかった。「…レオ」そう言ってとんとんと階段を下りてきたザップに、ひえっとレオが大袈裟に声を上げる。しかしすぐに深夜だということを思い出したのか、口をぱしんと塞いだのでザップは呆れた表情になる。
「…おめーよくそんでこの仕事やってられんな。夜の仕事でそこまで喧しくちゃ叱られるじゃ済まねえだろ」
「……だからよく部屋に呼ばれるんですよ」
そう拗ねたようにレオは言うと、ぱちぱちと弾いていたらしい算盤をかしゃんと音を立てて元に戻した。「…なんだ。勉強か」「…や、帳簿つけてたんです。スティーブンさんに頼まれて」そのくらいは出来るから、と言いながらレオは筆を筆置きに置いた。そしてちょっと気まずそうな表情になるとザップからそろそろと目を逸らす。
「…用向きがあるなら上につけといたでしょう。彼に、」
「おめえがいいっつったのに」
何で下にいるんだよ、と言いながらレオの横に腰掛ける。レオは顔をあげずにまた算盤をかちゃかちゃと弄りだした。「…いやその、…だ、………だってえーと…」「お客様に向かってなんだその態度は」そう言ってぐいと肩を引っ張ると、わっとレオが声を上げた。
こちらを向いた顔が、つい数時間前と同じく真っ赤だということに気が付いてザップは唖然とする。「………………………なんだよ」その顔、と言った自分の声が微妙に緊張していることに気が付いて、ザップは自分自身にも唖然とした。いやいや俺こそなんだよこの声は。そう思っているなんてこと、レオが知るわけもない。慌てた様子でいやこれはその、と言いながらレオはぱたぱたと手を振った。
「ち、ちが…そ、…だ、だだ、だって、…ざ、……っザップさんが」
「お………俺が何だよ」
「………、な、………」
何でもない、と子供っぽく言うとレオはプイと正面を向いてしまった。「…な、」なんでもねえってなんだよ、と言いながらレオの方に更に身体を寄せたが、レオは無言でぱちぱちと算盤を弄っている。
「……おいレオ。無視すんなっつーにコラ」
「……………まだ夜なんすよ。…それとも誰か呼びますか」
「今は女よりおめーがいい」
そうきっぱりと言ったことに、特に意味はなかった。ただ思ったことをそのまま言っただけだった。普段だったらそう思ってしまった自分にうげえと顔を顰めていたことだろう。ただ、その時出てきたそれは、本当にするするとまるで息を吸うかのように自然に出てきた言葉だった。だからザップは普段だったら絶対しているだろう、自分自身に引くということをせず、黙っている。
ただしレオはそうじゃなかった。
かと言って引いたり、顔を青くしたわけじゃなかった。ザップにも信じがたいことだったが。
のろのろとレオが顔を上げる。「…………、…俺?」そう言ってザップの方を見たレオの顔がまた真っ赤だったので、ザップは思わず笑いそうになってしまう。そんなに一々真っ赤になってたんじゃ心臓が持たないだろう。そう思いながら、やっぱりザップは笑ってしまった。
そっとさっきみたいに手をレオの頬に寄せると、またレオはくすぐったそうに眼を瞑った。
「……ちょ、…ちょっと………くすぐったい…」
「…お前もそーいう声出せんだな」
「………え……?」
ぼーっとした声でレオがそう言った。「…だからよ」そういう声、と言いながらぐいと顎に指をかけた瞬間、レオがぎゅうっと眼を瞑ったのが目に入る。「……………、」レオ、と小さく名前を呼ぶ前に顔を近づけた。
ぱしんと言う音がしたのが耳に入ったのはその時だった。
「ただいま少年。いやすまなかった遅く―――――、……………、………………。」
「レオナルドくん、すまないこんなに遅くま………、………。」
固まったのは自分だけじゃなかったのが僥倖だったのかどうか、ザップには判断がつかなかった。ともかく、入口の戸の向こう側、夜の街から店に帰って来た男二人がそこに突っ立っている。一人はぽかんとしていたが、もう一人は持っていた荷物をばさばさと取り落として白い顔になっていた。
「あっ。く、クラウスさんスティーブンさん、……え、えーと………お、」
おかえりなさい、と誤魔化すように言ったレオの顔は笑顔だったが。
それに負けず劣らずスティーブンの顔にも張り付いたような笑みが、青筋と一緒に浮かんでいたのをザップは見逃さなかった。
「お前にはやらん」
きっぱりとそう言ったスティーブンの横で茶を啜っている。「………何がっすか」「知っている癖に聞くんじゃない。レオだ」そう言ったスティーブンも緑茶を口に入れると、乱暴な手つきで湯呑をがん、と机に置いた。
「………別にあんたのものっちゅー訳でもないでしょうに」
「少なくともお前よりは僕のものに近いだろう」
そう断言されると何となくむっとした。「…あいつが聞いたらどんな顔しますかね。ソレ」「…残念だが少年は僕のことが大好きだからな。お前にするみたいに嫌がったりはしないだろうな」
「………別に俺のことを嫌がってるわけじゃありませんからね。ただあいつは照れてるだけで、」
そこでぱちんという扇子で叩くような音がしたので二人で顔をあげた。「…やめたまえ二人とも。不毛だ」そう言ったのは、つい先ほどスティーブンと共に店に帰って来た店の主人―――クラウス・V・ラインヘルツだった。
既にレオは自室に引っ込んで休んでいる。ザップもそのまま部屋に戻ってもよかったが、スティーブンに肩を掴まれ、更に奥の部屋に引っ張ってこられたので今に至っている。帰ってこなきゃあのまま、とぼーっと考えている自分を見透かした様子で言ってきたのが、つい先ほどのスティーブンの第一声である。
「…ザップ。…君はその――――レオと付き合っていたのかね」
「あ?いや別に。全然そーいうわけじゃねえけど」
「ほら聞いたかクラウス!こいつは全身全霊かけて遊んでるんだ!少年は弄ばれて泣くだけだ!金は惜しいがやっぱりこいつを出禁にしよう!」
落ち着きなさい、とクラウスは困ったように言うとスティーブンの肩をぽんぽんと叩いた。「…すると君は一体どういうつもりで先程…彼とああしていたのだ」「…そりゃーなんか……」そう言ってザップは頭を掻く。
「…したくなったから」
「クラウス!聞いたかクラウス!こいつやっぱり少年を弄んでだな、」
「スティーブン」
落ち着きなさいと珍しくクラウスはやれやれとでも言わんばかりにスティーブンに湯呑を差し出した。大抵こういう役割はスティーブンがすることなので、非常にこういった図は珍しかった。「…………。」やっぱりこの人レオのことになると目の色が変わるよな、とザップは呆れてその図を見つめている。
「…君はもう休みたまえスティーブン。今日は歩き回って疲れただろう」
「いやでも僕はもう少しこいつを氷漬けにしてだな」
「スティーブン」
休むんだ、と有無を言わせぬ迫力でクラウスが言ったためか、スティーブンは唐突に口を噤んだ。「……、…クラウス」「大丈夫だ。…彼が本当に悪辣な人間であったならば」そもそも君はレオと会話もさせないだろう、とほほ笑みながらクラウスがスティーブンの背中をぽんぽんと叩く。まるで赤子をあやす様な手付きだった。それにしても悪辣ってなんだよ、とザップはツッコミを入れたくなる。
「………………わかった」
不承不承、渋々という様子ではあったものの、そうスティーブンは納得した様子で立ち上がった。衣擦れの音とともに、彼がいまだに鋭い視線でこちらを睨みつけてはきたが、ザップは何も言わなかった。それを見てなのか、それとも元々半ば諦観気味であったのか、スティーブンは無言で奥の部屋に下がっていった。休むとは言ったが、果たしてあの様子では彼が眠るのかどうかはわからなかった。
「……さて、ザップくん」
「なんだよ」
話をしよう、と朗らかにクラウスは言うと、自ら急須に湯を注いで、ザップの空になった湯呑に熱い茶を注いだ。「飲むといい」「…もう飲んだよ」そうだったな、とクラウスはまた笑うと、自分の湯呑に口を衝ける。「…レオナルドくんのことを聞いてもいいだろうか」そう言われてザップはちらりとクラウスに目を向ける。和装の紳士はいつもと何も変わらず、威圧感も恐ろしい迫力も何もない。
それなのにザップは何となく姿勢を正してしまった。
「…聞くも何も。それ目的で俺は客だっつーのにこんなとこに拘束されてんだろ」
「…拘束…しているつもりはなかったが……」
すまない、と馬鹿正直に頭を下げられたのでザップが焦った。「ちょ、ば、バカいーよそーいうことはしなくて。旦那みてーな奴が俺に頭下げるなよ」「?それはどういう意味だね」そう言いながらクラウスが顔を上げる。何だか毒気が抜かれてしまったので、ザップは何でもねえと言うと手を振った。どうもザップはこの男の、こういうところが苦手だった。会話していると後ろめたくなる理由はわからないが、つまりクラウス・V・ラインヘルツとはザップにとってそういう男なのだ。
「…ザップ。君はレオナルドくんのことが好きなのか」
「……好きじゃねーよ。嫌いでもねえけど」
「………………そうなのか」
それじゃあ君は、と言いながら少しクラウスは首を傾げた。「…なぜ玄関先で彼と口付けしようとしていたんだ」「だ、そ、そーいうことをクソ真面目に言うなよあんたは」「?」事実だろう、と言われてザップはまたクラウスから目を逸らす。気まずかった。
「……そらまあ、…なんだ。そーいうことをしようとはしてたけど、…別に俺あいつとどうこうなるつもりはねえよ。男だし」
俺は女が好きだから、ときっぱりと言ったザップに返事はなかった。「…だからさっきのあれはなんちゅーか…気の…」迷いってーか、と続けたあと何かを誤魔化すかのように茶を呷る。がん、と乱暴に座卓に湯呑を置いたが、クラウスはそれでも何も言わなかった。
「…気が合うのは確かだけどよ」
「了解した」
ぼそりと小さく呟いたザップのそれの後、クラウスは納得した様子でそう言った。のろのろとクラウスの方に目を向けたが、別段クラウスはいつもと変わらぬ表情でザップの方を見つめている。てっきり怒っていると思っていたので、少し拍子抜けした。
「ならばすまないがザップ。彼はこの店の大切な仲間なのだ。…もう少しすれば恐らく婚姻も結ぶことになる」
「げほっ」
そこでむせてしまった理由はわからなかったが、ともかくザップは気管に茶を入れてしまっていた。ごほごほと咳き込んでいるザップの横にすかさずクラウスはやって来ると、丁寧に背中を摩ってくれた。「な、…なに…」婚姻?と復唱するとそうだ、と言いながらクラウスはまた湯呑を差し出してくれた。反射的にそれを受け取ったが、頭の中はそんなことにかかずらってなどいなかった。
「…もう年頃…というより適齢期も過ぎている。彼の立場からすれば本来そうしたことは常識外れではあるのだが」
「………………………。」
レオの立場はこの店の中では言わば手代―――クラウス、スティーブンのすぐ下ということになるが、それでも普通は番頭の役職に上がるまでは結婚しない。確かにレオの年齢を考えれば結婚していてもおかしくはなかったものの、立場上、してはならないのだ。ただそれはただの世間一般的な常識であって、そうしてはならないという法律や決まりはない。
「…実家にも帰してやりたいし―――妹御にも早く会わせるべきだとは思うのだが…」
それを聞いてザップはクラウスを怪訝な眼差しで見つめた。「…いもうと?」あいつ妹いんのか、と聞いたザップに、クラウスは驚いたような眼で見返してきた。自然と眼が合ったので、彼の綺麗な翡翠色をした眼にザップの驚いた顔が映っているのがしっかりと見える。
「…聞いていなかったのか」
「知らねえ。………聞いたことねえし」
そう言ってクラウスから目を逸らすと、そっとクラウスは立ち上がり、またザップの向かい側に座った。「…そうか。ならば私が言う話ではなかった。すまない」忘れてくれ、と言うとクラウスは頭を下げた。だからやめろって、とザップは顔を顰めてしまう。そう易々と頭を下げるような男ではないので、つまり本気で悪いと思ったり本気でザップに頼みをしているということなのだ。真面目だよな、と今更のようにザップは思うと、旦那、と焦ったように名前を呼んだ。しかしすぐにクラウスは手をこちらに翳してくる。
「…………………。」
無言でザップを見つめてきた瞳を見て、口を噤んだ。聞くなと言われているのがありありと分かった為だ。これでは聞いたところで彼が口を割るわけもない、とザップにも分かった。こうなったクラウスは梃子でも口を割らない。「…すまない」一言そう言うと、クラウスはそれで、と話を再開した。
「…君が本気でレオナルドくんを好きだと言うのならば、私やスティーブンが何を言ったところで無駄だろう。しかし君が、」
そこで一度言葉を切ると、クラウスは少し考え込むような顔になった。「…もしレオをただの暇潰しでからかっているというのならば」「………、」らしくない、と思ったのは確かだった。そんな言い方を、たとえば相手が悪人だったとしてもクラウスはするような男ではない。だから不審に思ってザップはそっと目を彼に向ける。しかしクラウスはわずか俯いていたので表情はよくわからなかった。
「……彼にはもう…そういう手出しをしないでほしい。…レオは……私たちの大切な家族なのだ」
普段そういう物言いをする奴にザップはふざけたこと吐かすなとか、もしくはからかったような言い方で返事をする。へえ家族、家族ねえ、などと言ってしまったりもする。けれどもその時、ザップは何も言わなかった。言おうと思えば言えただろう。けれどそんなことを言うべきではない、とザップだってわかっていた。
「…分かった」
そう言った後湯呑を座卓に置くと、そうか、とクラウスは少し間を空けて言った。「……申し訳ない」「そこであんたが謝る必要はねーだろ」思わず呆れてそう言ってしまったザップに、そうか、とクラウスは今度は不思議そうに言った。そうだよ、とザップは言うと欠伸をする。そういえばまだ時刻は深夜を回り、夜が明けるか明けないかの頃合だった。つまり普通だったらまだ寝ている時間だ。
「……戻るよ」
そう言ってザップは立ち上がった。二階に戻るという意味だったが、少し端的に言い過ぎたかな、と思ってクラウスを見下ろす。しかし彼にはきちんと通じたらしい。「よく休むといい。遅くにすまなかった」「………お休み」そう言うとザップは踵を返して階段の方に向かった。「………結婚…」結婚ねえ、と繰り返した意味は自分でもよくわからなかったが。
ただし少しだけ、その言葉に引っ掛かりを覚えたのは事実だった。
最近どうしたんですか、という義弟の声は怯えているように聞こえたので、ザップは何だよと言いながら後ろを振り返った。「遊びにも行かない。賭場にもいかない。女性たちとも遊んでない。加えて店の手伝いはしっかりするなんて」どういうことですか、と言ったツェッドの顔も少し怯えていたのでザップは思わず吹き出してしまった。「…お前なあ。お義兄様が真面目になったからってなんだよその態度は」「………。」ふざけたザップとは裏腹に、ツェッドは変な顔でザップをじっと見つめてくる。不信感たっぷりといったその様子に、ザップは顔を顰めて義弟から目を逸らした。「…とりあえずオメーこの辺一帯追加しといたほーがいいぞ。そろそろ値上がりかかる」「え。今の時期に?」「こないだ西の方で嵐があっただろ。取れ高がわりーからぜってー値が上がる」「……………。」ツェッドはやはり無言のまま、まじまじとザップを見つめた。なんだよ、という意味でザップはツェッドを振り返る。
「…い、いえ………わかりました…」
師匠に報告してきます、とふらふらとした足取りで義弟はその場を去って行った。「………転ぶなよ」そう小さく言ったが勿論ツェッドには聞こえなかっただろう。はい、といういつもの返事もやってこなかった。
「………はー………」
息を吐きながら倉から出て伸びをする。外は晴天とも言える日和だったが、ザップの胸中は何となくもやもやとした曇りの日のようだった。「…あほらし」そう言って溜息を吐いた後、煙管を喫いたくなったので縁側に向かう。久々に真面目に仕事をしたので少々疲れていた。
別段仕事をしている理由はない。気まぐれだった。ただあの日家に帰ってきてから、三週間ほどザップは真面目に実家の仕事を手伝っている。常連にもきちんと挨拶しているし、朝はちゃんと起きて使用人にも師にも義弟にも挨拶をし、それから一日の仕事に取り掛かっている。夜は夜で飯を食う前に何となく素振りをして、それから夜はきちんと眠っている。どこかに出歩くということもない。昼間仕事のついでに茶店に寄るとか蕎麦屋で昼を食うとかはあったが、それくらいで夜中に居酒屋や賭場に行くことは全くしていなかった。
理由は自分でもわからなかった。
「………………。」
ただ何となく、自分が八つ当たりをしているような気がしていた。果たしてこの行為が八つ当たりなのかと聞かれると、上手く答えられはしない。傍目から見たらそんなことはないと言われるだろう。特にツェッドなんぞはじゃあずっと八つ当たりしててくださいよ、とでも言いそうだ。
だからレオとも三週間くらい会っていない。
一月も経っていないのだから、本来そんなことを思うまでもない。けれどもあの日までザップは毎日のようにレオの顔を見ていたし、レオと会話していたから当然かも―――しれなかった。あの少年はいつの間にかザップの日常に当たり前のように入り込んでいたのだ。「……引っ張り込んだっつーほうがいいか…」そう小さく言うと溜息を吐く。煙がふわふわと庭に霧散した。それを見たあと無言で俯くと煙管を咥える。最後に見たレオの顔は、おやすみなさいと真っ赤になって階段の後ろの方に歩いていくそれだった。
「……あいつももー結婚したりしてな…」
「誰がですか?」
その声にびくりとして顔を上げる。「だ、な…おまえいつから」「今です。…結婚といえばあなた」縁談がきています、と義弟はさっきと打って変わって淡々と言うと、ぐいとザップに何かを突き出してきた。なんだよ、と言いながらそれを受け取る。本のような形をしていたが、それにしては頁が少ない、と思いながらザップはそれを開けた。中には見知らぬ女性の写し絵と紹介文のようなそれがセットになっていた。所謂釣書というそれだ、と気が付いてザップは顔を上げる。当然眉間に皺を寄せていた。
「おい。俺は会わねえぞ」
「妥協して下さい。結婚しろとは言いません。会うだけ会ってみて下さいよ」
お相手も同じかもしれないでしょう、と言いながらツェッドはザップの横に腰を下ろして腕を組んだ。「…僕も余り…こういうのは好きじゃありません。あなたはどうやら好きな方がいるようですし、結果が見えているのにこんなことをしても時間が勿体ないというか…」「おい」義弟の言葉を遮ってそう言ったザップに、はい、と言いながらツェッドが顔を上げる。
「なんですか?」
「なんですか、じゃねえよ。なんだよソレ」
「は?」
好きな奴ってなんだよ、と言ったザップの声は上擦っていた。「いねーよそんなん」「え?…あ、ああ。あなたがですよね?……はあ、そうですか」それならいいですけど、とツェッドはどうでもいいと言わんばかりの態度でそう言うと、プイとザップから目を逸らした。呆れたような、どうでもよさそうな物言いだったのは恐らく本当にそうだからだ。自分もそうだが、義弟も特段こちらに興味がないのである。基本的に互いに実家のこと以外では不干渉だ。
「……いねえよ。そんなん」
そう言った自分にツェッドは特に返事をしなかった。「…昨日レオくんに会いました」しかしそうぽつりと言われて、思わずザップは持っていた煙管を取り落としそうになってしまった。あ、と声を上げて慌てて何とか煙管を掴み直す。しかしこれでは動揺したということがありありとわかる。ただ、別に動揺したことがばれるのは構わなかったが、原因がレオだとバレる方がザップは嫌だった。
「…あなたと暫く会ってないと言っていました。……元気ですかと」
「…………それがなんだよ」
「…僕は元気ですよ、とだけ言っておきました。レオくんはそうですかって言ってましたけど」
友達なら、と言いながらツェッドは立ち上がった。「…普通に会いに行ってもいいんじゃないですか。…彼言ってましたよ。暫く会えないと寂しいもんですね、って」そう言ってツェッドはくるりと羽織を翻し、玄関の方に歩いて行ってしまった。
「……………。」
けっと無意味な悪態を吐くと、ザップはまた煙管を咥えた。確かにあの店にどころか、遊郭がある界隈に一切足を運ばなくはなった。ただその理由をザップは把握しかねている。なぜ突然女たちに触らなくなったのか、さっぱりわからない。触ろうと思えばいつでもどこでも触れるし、あまつさえ抱くことすらできる。なのにどうしてなのかザップはそれをする気が今、起きていない。「………病気だ」そう呟いたあと、はあ、と何度目かの溜息を吐いてザップはがりがりと頭を掻いた。
そして更に二週間後。ザップはなぜかつい二週間前に釣書の中で見たばかりの女性と腕を組んで街を歩いていた。「………。」なぜこんなことに、と仏頂面で後ろにいる義弟を振り返った時のことを回想する。「………。」ツェッドは澄ました顔でひらひらと袖を振っていたので、この野郎とザップは再度彼を睨み付けたばかりだった。
今朝がた突然、この場所でこれこれこういう会合をしたいんです、と義弟に言われた時はまだ不審に思わなかった。なんだそーなのか、と言ったザップに、なのであなたも一緒に来てください、と義弟が言ってきた時も、そんなに不審には思わなかった。基本外で取引や商談が行われる時、よほどでないと彼らの師匠は一緒に来ない。基本的に店のことは既にザップとツェッドが仕切るようになっていたからだ。ただザップは基本的に商談や会合には参加しないので、その点で不審だと言われれば不審だった。ただ、些事と言われれば確かにとも言えることだったので、ザップはそれ以上義弟を追求せず、わかったとそれだけ言って沢庵を食うことに執心した。朝飯だったのである。
蓋を開けてみたらこれだった。牛鍋屋で話をしている間にいつの間にかどこかで見たことのあるような女性が現れて、我が愚女もこのあたりは不案内なもので、とすらすらと商談相手の主人が言い始めた辺りから雲行きは怪しくなり、それじゃあなた案内してきてください、と立て板に水とばかりにツェッドが言い始めた時点で雷雲になった。おい、とザップがツェッドの袖を掴んで睨み付けたが、すみませんなあと主人が笑ってきたために、何だか断れる雰囲気ではなくなってしまったのだ。
この辺はよく歩かれるのですか、と聞かれてザップは返事に窮する。「…まあ」そりゃあ、と言いながらのろのろと店を見て回った。見合いなんぞしたことがなかったので、一体どういうものが正式な作法なのかザップには分からない。自分には結婚するつもりなど毛頭なかったが、相手がどういうつもりなのか、ザップには皆目わからないのも理由になるだろう。下手な態度を取って結婚してほしいと言われたら困る。
「…………。」
だから自然に無言にはなってしまう。一応腕を組んではいるが、ザップは釣書に書かれていた名前も覚えていないのだ。そもそもこんなふうに誰かと二人で連れ立って歩いたことがザップには殆ど無い。基本的に会う女性は遊郭の女ばかりだったし、それ以外であっても会うのは彼女の家ばかりだ。連れて歩いたり連れ出されたり、二人で遊んだりしたことがない。
だからあの時レオと茶店で会ったのは例外だったのかもしれない。「……………。」顔が見たい、と自然にその時思ってはっとして足を止めてしまう。隣にいる名も知らない女性が不思議そうな顔をした。「……あ、……いや…」店でも入っか、と無理矢理笑顔を浮かべて呉服屋を示すと、はい、とにっこりと彼女が笑った。ウインドウショッピングは、いつだってどこだって基本なのだ。
呉服屋の暖簾を上げた瞬間だった。いらっしゃいませ、という店員の声と共に、ザップの眼に物凄く見慣れた顔が飛び込んできた。
「――――あ」
ザップさん、とぽつりとつぶやいてこちらを見上げているのは、ついさっきまで回想していたレオナルド・ウォッチだった。「………あ…」レオ、という前にそう言ったザップを見て、お知合いですか、とたおやかな声で見合い相手が言った。「………あ、いや…」そう言ったザップと、それから腕を組んでいる彼女を見て何となくレオはこの状況を察したらしい。「…いえ、前にちょっと僕がお世話になっただけで、知り合いって程では。すみませんお邪魔して」失礼します、とレオは礼儀正しく言って笑うと、暖簾を潜って店を出て行った。
「…………………、」
お知り合いじゃあないんですの、という不思議そうな声を聞きながら後ろを振り返る。レオはもう暖簾の向こう側に行ってしまって見えない。「……悪い」そう小さく言って腕を離すのに、そんなに時間は要らなかった。え?という驚いた彼女の声が聞こえたが、それを気にかけている余裕がない。「…悪い。向こう回れば牛鍋屋だから先戻っててくれ」そう言って振り返り、彼女に向かってそう言った。眼をじっと見つめて手を握ってそう言ったせいか、こくんと彼女はぼーっとした様子で頷いたので、ザップはそこでにっこりと笑った。
「…すまねえ。親父さんには謝っとくから」
そう言ってぱっと手を離したあとのことは知らない。ただ最後に見た彼女の顔は、なんだか子供みたいにぼーっとしていた。
そのまま暖簾を潜るどころか、引っ掴む勢いで掻き分けて道に出る。
――――――顔が見たいどころか。
「………レオ」小さくそう言った後に左右を見渡したが、既にあのくしゃくしゃの頭は雑踏の中に掻き消えてしまい見つからない。「…っだよあの……、…あ〜〜〜…」店の方向はこっちだから、とあたりを付けて道に足を踏み出した。顔が見たいどころの話ではない。実際に顔を見たら、それどころじゃないとザップには嫌というほど分かってしまった。
勘がいいのは昔からだったが、その日もそうだった。橋の上をとことこと歩いているレオの後姿を見つけたので、いた、とザップは息を吸った。「――――レオ!!!」そう怒鳴った瞬間、周りにいた人々が怪訝そうな顔でこっちを振り返ったが、ザップは無視した。しかしレオは当然ぎょっとした顔でこちらを振り返る。口が明らかに『な』だとか『うそ』だとかいう形をしていた。
息を切らしそうな勢いで橋の上を渡ったザップを見て、レオは唖然とした顔をしていた。「え…っ…い、いや待って…あの、」あの人は、と言いながらザップの後ろを見たレオの肩を掴む。「わっ。ザップさん、あの、」さっきの人は、と言われた瞬間にレオを抱き締めた。
「………………………へっ」
え、と小さな声が上がったがザップは無視した。「……え………っえ!?ちょ…っは!?」なんですか、と言いながらじたばたと手を動かしているレオをもう一回ぎゅうと抱き締めたせいか、レオは硬直した様子で暴れるのをやめた。「…………、……あ、あのっ、あのですねザップさん」一回離して下さい、という声は意外に落ち着いていた。「…………………。」無言で顔を顰めながらそっと身体を離したが、腕はレオの背中に回したままだった。
「……どうしたんですか。…なんかありました?」
そう言ってこっちを見上げている少年の顔はちょっと心配そうだった。「…………。」いつもは子供っぽい反応しかしない癖に、とザップは益々顔を顰めたくなる。さっきもそうだったが、変に理解がある反応をされたらされたで何だかムカついた。
「て、ていうか久し――――」
「好きだ」
口から突然言葉が衝いて出てきたみたいだった。それを口にした時は全く意識なんかしてなかったのに、直後ザップは理解した。「………あ」そう言った時には、既にレオは硬直してこっちを見上げていた。「………、……な…」レオはそう言って一歩後ろに下がろうとしたが、ザップが腕を回しているせいで下がれないことに気が付いたらしい。「あっ…ちょ、ちょちょちょはな、離して下さい!腕!」「てっめこのヤロ暴れんなよ!!」「あっ…暴れるわ!!離せ!はーなーせー!」真っ赤な顔をしたレオはそう言って暴れると、ザップの腕を器用にも掻い潜った。
「あってっめこの、」
「な、なな…っなんですか!?いき、いきなり…っ顔見せなくなったかと思えば…っ」
そんなこと言って、とレオは言うと今度こそ道を一歩下がった。ついさっきの態度は何だと言わんばかりのそれに、ザップは何だコノヤロウ、と言いたくなる。虚勢を張っていたことを見抜けなかった自分にも腹が立った。
ちなみにここは勿論往来なので、周りに人はそこそこいる。けれどどうやらケンカか何かとでも思われているらしい。ザップはともかく、レオは視線が痛そうだった。彼は余り注目されることに慣れていない。
「……、…その、…い、いいからとりあえず、あの人のとこ戻ってあげてくださいよ…!!」
「返事は」
「え」
へんじ、とレオは顔を赤くしたまま復唱した。「そーだよ返事だ。今好きだっつったろ」「………、…あ、…えっと……、」困惑した顔をしたあと、レオははっとした顔になるとなぜかザップの後ろの方を指さした。
「い、いーからほら…!!お店!見合いなんでしょ!?早く戻って上げてください!」
「あ?いやちょっと…」
待てよ、と言ったがレオはそのままぱっと身を翻すと、物凄い速度で店の方向に走って行ってしまった。「……………。」追いつけない速さではない。けれどザップは挙げた手をのろのろと元に戻して溜息を吐いた。「………あー……」そう言った声が後悔なのか何なのか、自分でも分からなかった。
ぜってーうるせえな、と思っていたのに、なぜか義弟は今日のことについて全く怒らなかった。「お疲れ様でした」そうとだけ言って家に帰るなりまた仕事を始めたから、身構えていたザップが拍子抜けした。無言で彼が仕事をしている図をぼーっと眺めていると、ツェッドがむしろ居心地が悪そうにこちらを向いた。
「……なんですか?言いたいことがあるなら言って下さいよ」
「…………ねーけど。怒んねーんだなって思ったんだよ」
「女性を置いて店を出て行ったことですか?」
そう言ってぱらぱらと帳面を捲ったツェッドに、そーだよとザップはどうでもよさそうに言った。「あの後フォローを入れてたじゃありませんか。むしろ彼女はあなたへの印象がかなり上がったようですけれど」「……そーいうつもりはなかったんだけどな…」なんかそうなっちまったんだよ、と言いながらぱたんと座敷に寝転がると、土間にいるツェッドがこちらを向いた気配がした。
「…レオくんには会えたんですか?」
「…………別に会いたきゃいつでも会えんだろ」
何でお前がそれを知ってるんだ、とかうるせえとか言い返す言葉はいっぱいあったが、その時ザップは珍しく素直にそう言ったのだ。ツェッドは少しの間無言だったが、そうですか、と続けて視線を手元に戻したらしい。視線を感じなくなった。「………おめーこそ結婚しねえのか」そう言ってザップが反対にツェッドの方を向くと、しませんよとツェッドは即答した。
「あなたが身を落ち着けるまでは、僕も身を固める気なんか起きませんから」
「めんどくせーことばっか考えてんな…いーから好きな女でも出来たらさっさと結婚しろよ」
そう言って顔を顰めたザップに、それは勿論、とツェッドはきっぱりと言った。「あなたのようにうかうかしてたら誰かに取られてしまうかもしれませんからね」「お前意外にガツガツいくよね」そう少し呆れて言いながら起き上がった。この辺も似ているかもしれない、と自分で思ってしまって顔を顰めた。
「………、……まあいーか」
そう言って立ち上がったので、ザップのことをツェッドが無言で見上げてきた。その顔はいつも見ている無表情のそれだったが、何となくザップは彼が言いたいことを理解してしまう。「………店に迷惑かかんねーよにはするよ」「別に構いませんよ。どうでも」どうでもっていうことはないだろうに、と草履を突っかけながら後ろを振り返る。ツェッドは算盤を手にしていたから、こっちを振り返りはしなかった。
「どうぞ好きにしてください。こんな店」
どうにでもなりますよ、とツェッドはザップからすれば信じられないことを口にした。思わずその場で足を止めてしまったザップを、ツェッドがくるりと半身だけ振り返る。「…こんな店というのは言い過ぎでした」「……おめえさあ」たまに俺に似てるよな、と遂に口にしてはならないことを口にしてしまったので、自分で言ったことなのにザップは顔を顰める。勿論、ツェッドも同じく嫌そうな顔をした。
寺より神社の方が好きだったりするのかと言われればそうでもない。ただ単に、神社の方が近かっただけだ。ぼーっとしながら神社の境内にある狛犬に寄りかかりながら煙管を咥えている。「……おせーな…」そう言った後、がらりという音と共に社務所の扉が音を立てて開いた。
「ザップ!!境内で煙草をやるなと何度言ったら分かるんだ!!」
「………うっす」
エイブラムスさん、と言いながら手を挙げたザップの許に、ずかずかと凄い勢いでエイブラムス・T・ブリッツが突き進むようにやってきた。「だーもう!神前を何と心得る!」そう言って彼に煙管を奪われた。「あー」何すんだよ、と言いながら顔を顰めたザップに、ばかもんとエイブラムスは言うと、そのまま煙管を咥えた。
「………お前…もう燃えさしじゃあないか。味がしねえぞ」
「おい…神前はどーしたんだよ神主の癖に…」
呆れてそう言ったザップに煙管を返すと、お前はいつも喫っとるなあ、と言いながらその辺に転がっている箒をエイブラムスは拾った。神社にこういう言い方も変かもしれないが、大して繁盛してねーんだろうなとザップは来るたびに思っている。参拝客が来たところなんて一回も見たことが無い。どうやってエイブラムスが食いつないでいるのかが謎だった。
「…最初に店に行ったときにさあ」
「?」
箒を拾ったためか、その辺を履き掃除し始めたエイブラムスにそうザップは言った。「…貰ったんだよ。そこの女に」「ああ」そういうことか、と言いながらエイブラムスが合点した顔になる。遊女が差し出した煙管を客が受け取るというのは、彼女のことを気に入ったという意味になる。ただしその時、ザップはそれを全く知らなかった。ただ差し出されたから手に取っただけだ。けれどその女のことが好きだったのは事実だったから、そのまま暫く通っていた。ただし半年後くらいに刺されたので、そこで付き合いはお流れになってしまった。女は怖い、と最初に学んだのはそこだったのだろう。かといって店に通ったりしなくなることは全然なく、今に至るのだが。
「お前も中々感傷的なところがあったんだな。ずっとその煙管を使っておる、とそういうことか」
「いや?その女に貰ったやつはどっかで失くしたか捨てたかしたよーな気ィすんな。折っちまったんだったか」
「………………………。」
その方がお前らしいな、と言ったエイブラムスは再び履き掃除に戻った。落ち葉を掃く音を耳にしながら、境内の入り口を睨んでいる。「……おせえ…」そう言って煙管を煙草入れにしまったザップの髪を風が揺らした。そしてその時、紅葉の葉が擦れる音と一緒に、誰かが走って来る音がした。
「…………。」
無言で顔を上げる。鳥居の向こう側から、全速力と思しきそれで走ってきた少年の姿が見えた。「…………おせーよ!」そう言って腕を組んだザップのところに、息を切らしながらレオが転がるように走ってきた。
「おう。なんだレオ。来たのか」
そう言ってこちらを振り返ったエイブラムスに、どうもとも言わずレオはぐったりと膝に手を突いて息を切らしている。「………なんだそんなに急いで。そんなに焦ってもこいつは逃げねえぞ」そう言ったエイブラムスは、ちょっと待ってろ、と言うとすたすたと社務所の方に歩いて行ってしまった。がらりという戸が開く音を耳にしながら、おせーぞとザップはもう一回同じことを言った。
「だ、……しょ、しょーがないでしょ…!こっちは使いの隙間になんとか……、……も〜〜〜…!!」
疲れた、と言って顔を上げたレオは、よろよろしながらこっちに歩いてきた。「………久しぶりですね」「今日会っただろ」「それが久しぶりだっつってんですよ」そうレオは言うと、怒ったようにザップを見上げた。ように、というよりはとザップは首を傾げる。
「…何で怒ってんだよ」
「怒りますよそりゃあ。俺を弄んだまま放置したでしょう。やり逃げですよ」
「や……、…何もしてねーじゃん!まだ!」
「まだってなんすか」
ぞっとした顔をしてレオが一歩後ろに下がる。「オイ待てよ。俺は同意なしに何もしねーよ」「…………。」なんかその言い方も怖いんですけど、と言いつつもレオは一歩こっちに踏み出してくれた。「………そんでお前。返事しに来たんだろ」「………来ましたよ」そう言ってレオは顔を上げた。
待ち合わせをしたわけじゃなかった。ただ、前に一回ここでレオと休んだことがあっただけだ。あの時みたいに破落戸に絡まれているレオを助けたはいいものの、上手く逃げられるような場所が中々見つからなかった。その時レオがあっちに神社ある、とザップに抱えられたまま舌を噛みそうになりつつも教えてくれたのだ。それで二人でこの神社にやってきた。物凄く寂れた神社だったので、誰もいないものだとザップは思っていたが、本日のように社務所から出てきたエイブラムスを見かけて、”営業中”だということを知ることになった。そもそもどこの神社だって、神主が常駐しているとは限らないのだけれど。
既に時間は夕刻に近い。ザップはともかくとして、さっきレオが言った通り彼は使いの隙間を縫って何とかここにやって来たのだろう。別に示し合わせたわけじゃないが、ザップはレオが来るまでここにいるつもりだった。
そしてレオはちゃんとやってきた。
待ち合わせでも何でもないのに。
「……俺はザップさんと付き合えません。ごめんなさい」
そう言ってレオは頭を下げた。「……好きって言ってくれたのは…その、…えっと…びっくりしましたけど、…う…嬉しかったです。…ありがとうございました」「………。」別に礼が言われたかった訳じゃねえんだけどな、とザップは無言で頭を下げているレオを見つめた。思っていた以上に、余り衝撃はない。予想ができていたことだったからかもしれない。
「……でも、…その………、……俺は…えっと…まだぜんぜん…番頭にもなれないし、…ザップさんは…店があるでしょ。だから」
そっちのこと一番にしてあげてくださいよ、と言いながら顔を上げたレオは笑っていたが―――ザップはそれに眉を顰めた。「…待てよ。なんだそれ」「え」唐突にザップの声が低くなったせいか、レオがきょとんとした顔になる。
「家とか番頭とかどーでもいいだろ。何言ってんだおめーは」
「へ?…え。い、いや…どうでもはよくないでしょ…」
「どーでもいい……、いや待て。その前にお前、なんだ。気持ちわりーとかねえんだ」
今更のようにそれが不思議に思えて首を傾げたザップに、レオははあ、と曖昧に言って首を振った。「えっと…はあ。それは別にありませんよ。ザップさんだし」「…………。」無言でぱしんとレオの頭を叩いたせいか、あたっと小さくレオは悲鳴を上げた。不思議そうな顔でこっちを見上げてきたレオに、それによ、とザップは腕を組んだ。これも不思議に思ったことだ。
「…からかってるとかそーいうことは思わねーんだな」
「そゆことする人と俺友達になりませんよ」
ザップさんはそーいう嘘は吐かないでしょ、とレオは言って少しむっとした顔になった。「………どーいう嘘なら吐くんだよ」「金はないとか浮気はしてないとか遊んでないとかそーいう嘘っすよ」「…………。」的を得ている。だから反論できなかった。
「………まーそれはいーよ。んでお前なんだよ。家がどうとか番頭がどーとかよ。どーでもいいだろそんなこたー」
「だからどーでもはよくねえっしょ。だめでしょもーちょっと跡継ぎとして自覚を持たなきゃ」
「何で魚類みてえなことお前にまで言われなきゃなんねんだよ」
顔を顰めてそう言ったザップに、だってとレオは情けない顔をした。「そーいうもんでしょーに。俺とあんたじゃ立場が違い過ぎるんですよ」それを聞いて明らかにむっとした顔をしたからだろう、だいたい、とレオは少し早口で言った。
「す、好きだとかそーいうのは疑ってませんけど。ザップさんいつから俺のことが好きなんですか?どーせこないだ茶店で俺のこと苛めてからかった辺りからでしょ?」
「うっ」
図星という顔をしたせいだろう。ほら、とレオは言うとちょっとむっとした顔で腕を組んだ。「俺の身にもなってくださいよ。どんだけ緊張したと思ってんすか」「おめえが俺の口を塞ぐからだろ」「しかもあの後強姦しようとしてくるし」「ご、」ごーかんってなんだよ、と言ったザップに強姦でしょうとレオは言って眉を吊り上げた。
「俺はいいとは言ってませんし嫌だってはっきり言いました。そんでも事に及ぼうとするのは強姦です。同意なしなんだから」
「だ……、……っておめーがわりーんだよあれは」
「俺の何が悪いってーんですか」
「お前がエロい声出すから、」
そこまで言った瞬間レオにばしんと手で口を塞がれた。勢いが強すぎて、口にぶつかった手がばしんと音を立てたので、ザップは反射的に眼を瞑ってしまった。しかも結構痛い。「え……っエロいっつーか、あの、あれは…!!ザップさんが変なことを、」してくるからだ、という声を聞いているうちに、ザップはまた聞きたくなった。
―――あの声だ。
そう思ってべえと舌をそのまま伸ばしてレオの手のひらを思い切り舐めた。甘いような気がしたが、流石に気のせいだろう。そうザップが思っているとは勿論いざ知らないだろう、レオの声がする。
「…っひぁっ」
びくっと身体を震わせてそう言った後、はっとした様子でレオはぱっと手を離した。「あっ…な、ななっ…なにすん、」「…んでおめーは同じ轍踏むんだ。バカかよ」そう言ってぐいとそのままレオの手を引っ張ると、ひっと小さくレオは息を呑んだ。
顔がちょっとだけ赤い。
「……同意がありゃーいいんだろ。…俺はお前が好きだしおめえのこと抱きてーと思ってんだよ」
はっきり言ったせいか、レオはその場で硬直してしまった。「……、…だ、……」だきたい?と繰り返されて、そーだっつうのとザップは面倒臭いと思いながら肯定する。同じことを何度も繰り返すのは好きではない。
「…だからお前俺のもんになれよ。好きだっつってんだろ」
「…………………、……や、…だ、だめ。だめですだめです。無理っす」
そうレオは言ってぶんぶんと首を振った。割に顔は物凄く赤く、握っている手がめちゃくちゃ熱い。大体、とザップは思った。駄目だとか無理だとか言う言い方がもう気にくわない。嫌なら分かるし、言われたらザップだって引くかもしれない(あくまでかもしれないというところが非常にザップだったが)。けれどその”駄目”だとか”無理”だとか言う言い方に引っかかった。、
「おいてめーいい加減にしろよ。なんだその煮え切らねー態度は。嫌なら嫌っつえよバカ」
「い、嫌なわけないでしょ!?こっちはもう一年くらい前から、…………、…………あっ」
「……………………あ?」
当然ぎょっとした声を出したザップのことを見上げたまま、レオは引き攣った顔になった。「あっいやー…えーっと………、………その……」そう言ったあとに後ろにレオは下がろうとしたらしい。しかし勿論ザップはそれを許さなかった。手首をつかんだままじっとレオのことを見つめて言われたことを考える。
「………お前俺のこと好きだったの?」
「いや違っ、その……、…えーっと……、………あ〜〜〜〜〜!!!」
言うつもりなかったのに、という嘆きと共にレオが勢いよくその場にしゃがみ込んだせいで、ザップの手がレオのそれからぱっと離れた。頭を抱え込んで座っている少年をまじまじと見つめながら、ザップもそっとレオの前にしゃがみ込む。「……マジで?」そう言ってレオの頭をぺしぺしと軽く叩くと、レオは少し間を空けてマジですと肯定した。
「……マジかよ。何で言わねんだお前」
「……俺はザップさんと違ってそんな度胸ないんです。…その、…ザップさんは…たぶん俺がそんなこと言ったからって俺に引くとか、冷たくなるとか、そーいうことするような人じゃないと思いますけど」
「……………………。」
ぼちぼち評価が高いような、と少し面映ゆくなりながらもおう、と相槌を打った。自分ですら実際そんなことがあったらどうするのかなんて分からないが、レオからすれば自分はそういう人間らしい。「…でもザップさんが俺のこと好きになるわけがないじゃないですか。だからそやってはっきりふられるのはヤだったんです。それに」俺とあんたが立場がちがう、とレオはまたそれを言った。立場だのなんだの、とザップは苛立ちながら目の前にいる少年を睨む。「…………………レオ」顔上げろよ、と言ってぺしぺしとまたレオの頭を叩いた。レオは顔を上げない。レオ、と焦れてもう一回呼んだが、レオはそれでも顔を上げなかった。
「…ったく…んじゃそのままでいーよ。聞いてろ」
「…………………。」
返事はなかったが、ザップはそのまま口を開いた。
「…たとえばお前と俺が、ここじゃねえどっかで会ってたとする。どこでもいーけど、…たとえばバケモンと人間がぐっしゃぐしゃに住んでるような街でだ」
「………何すか。そのたとえ」
やっとレオはそう言うと、続けて小さな声ではあ、と相槌を打った。「…そこでもしお前が俺と出会って、一緒の店とか…店じゃなくてもいいけどよ、ともかく先輩後輩みてーになって一緒に働くようになってだな」「…………はい」少しレオの声がおかしそうに聞こえたので、ザップはほっとする。ぽん、とレオの肩に手を移して引き寄せるようにした。
「………俺が同じこと言ってたらおめーはどうしてたんだよ」
「………………………………、………そりゃ…」
小さくそうレオが言った声がする。「…………。」名前も呼ばず、ザップは黙ってレオの返事を待った。風がまた吹いてザップの前髪を揺らし、ざわざわと木々が音を立てる。境内に散らばっている紅葉がひらひらと宙に舞った。
「……一緒にいたいです」
そう言った声が半分くらい泣き声に聞こえたので、ザップはぎょっとした。「うわ。お、おいお前」泣くなよ、と言って慌てて両肩を掴んだザップに、やっとレオは顔を上げてきた。「………、……一緒にいたいです」同じことを言ったレオの顔は泣き顔ではなかったが、泣き出す直前みたいなくしゃくしゃの顔だったので、結局ザップは慌てた。「ば、だから」泣くなよ、と言いながらぺしんと頬を両手で叩いたせいか、いってとレオは悲鳴を上げた。
「ななっ、何すんすか!?いてえよ!」
「てめーがそやって泣きそうな……、……あ〜〜もう……!!」
髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた後にもう一回肩を引き寄せる。「わっ!?」「……んじゃそーしたらいいじゃねえか。…俺はお前が好きで、おめえも俺が好きでよ」他になんか問題があんのかよ、と言った後に腕の力を強めたせいだろう。レオはごくんと唾を飲み込んだ。
「……好きだよ」
「……………う、あ、あの…っそれ、も、もう俺何度も聞いてるんですけど…」
「何度も言っちゃわりーのかよ」
悪くはないけど、とレオは言った後に、そろそろとザップを押してきたので、仕方なく腕の力を緩める。腕を回したままのザップと、座り込みながらレオは向き合いつつ困った顔をして、けれども笑った。「……そっかぁ。ザップさん、俺のこと」好きなんですねえ、と言ったレオの顔が嬉しそうだったので、そこでやっとザップは安心する。だからそのままレオのことをもう一回抱き締めた。
「おーいレオナルド!やっと見つけたぞ柄杓が――――、………ん?」
ザップお前、と言いながら社務所からばたばたと豪快な音を立ててエイブラムスがこちらに歩いてきた。「なんでそんなとこに転がっとるんだ。神前で何をしておる」ケンカか、と言いながら手を突き出しているレオを見て、エイブラムスが首を傾げる。「えっあ、い、いや?な、ななな、」なんでしょーね、と真っ赤な顔で直前に自分を突き飛ばしたレオを殴るべく、ザップは勢いよく立ち上がった。
「ちっす」
暖簾は前と同じで手に馴染みやすい。入口だからか気を使って上等な布を使っているのかもしれねえな、とどうでもいいことを思いながら入口から中に入った。当然のように番頭席に座っていた男が顔を上げる。
「いらっしゃ…………、…………何の用だ」
「露骨過ぎんでしょ」
苦笑しながら土間を歩き、すぐにひょいと上に上がる。無言でスティーブンはすぐ横にいた丁稚に目配せをした。途端に丁稚は立ち上がると、ザップに一礼をして階段を上って行く。「…………指名は」明らかに不満そうな顔でそう言ったスティーブンを見下ろしながら、決まってんでしょとザップは笑った。「レオで」「…………あの子はそういう対象じゃない。遊びに来たなら帰れ」「……いっつも思ってんだけどあんたさあ」そう言って彼の横に腰掛けると、スティーブンは嫌そうな顔をして筆を手に取った。どうも予算か何かの計算をしていたところだったらしい。
「…あいつの何なんです。恋人だとか親だとか言うんなら俺も分かんねえでもねえよ。でも高々弟子…っつーか店の丁稚みてえなもんでしょう。執着しすぎなんじゃねえっすか」
「……………。」
スティーブンは嫌そうな顔のまま、隠そうともせずザップを見つめた。今日も眼鏡をかけている、とザップは関係ないことに気が付いた。「…悪いか。確かに僕はあの子の親でも恋人でも、ましてや実の家族でも何でもない。ただこの店に来てから親か兄か…なんでもいいけどな。…そういうのの代理をしていただけだよ」だから、と言ってスティーブンはまた手元に目を戻した。
「…お前からしたら異常に見えるかも知れないな」
「いや別に大して異常だとは思わねえけど」
フツーじゃねえの、と言いながら膝を立てたザップを、スティーブンが変な顔で見つめてきた。どうも予想とは違ったことを自分は言ったらしい。「………んでまあ、俺みてーな奴に任せておけねえっつうのは分からなくもねーよ。俺にあるのは顔と家柄と才能と金と腕っぷしくれーだし」
「お前がそれを自分で言うような奴じゃなかったら僕だって何も言わなかったぞ」
怒りを通り越したのか、呆れた顔でスティーブンは言って眼鏡を直した。「…それでどうした。今日は何の、」「言ったでしょ」レオは、と言って立てた膝に腕を乗せ、更にそこに顔を乗せて言ったザップを、スティーブンは無言で睨んだあと、緩々と口を開いたがすぐにザップから目を逸らした。「……何の用だ。あの子はそういう担当じゃない」「俺が女抱きに来る以外でここに来るのはそんなにおかしいんですか」「……………、」そこでスティーブンが何を言おうとしたのか、ザップは知らない。ばたばた、と階段から下りて来る音が聞こえたからだ。
「………スティーブンさん!」
その、年齢に比して高い声を何度も何度もザップは聞いている。眠っている時に、階段から下りた時に、店の暖簾を潜った時に。だからもう、その声を聞かない時間があるなんて考えられなかった。
だめですとか言い付けられてるんです、と半泣きになりながら二人ほど丁稚がレオの腕や足を押さえていたが、レオはそれを無視して何とか階上から下りてきたところらしい。「…なん…、…ザップさんが来てるって、あ、」玉暖簾を潜ったレオはすぐにザップに気が付いたようだ。ぱちりと大きな眼が見開かれたのを見て、ザップは手を挙げた。
「よう。来たぞ」
「ちょっとまだ俺なんの準備も……、……あ、てゆかちょっと」
離して、と眉を下げて自分を抑えようとしている丁稚を困った顔でレオは見つめて言った。「…いーよ。離しておあげ。それからお前たちは上を準備してきなさい。梅でいい」そうスティーブンが溜息交じりに言ったが否や、丁稚たちはそろそろとレオから手を離した。すみません、申し訳ありませんでした、とレオにそれぞれ謝りながら上にとたとたと上がっていく。「君たちも仕事なんだから」気にしないで、とレオはそう言って二人が上に行くのを見送ったあと、とことことこちらに歩いてきたあと、ザップの横にすとんと正座した。顔つきが昼間のそれとはまったく違う。なんだか戦に挑むような顔をしている、とザップは思った。
「おう。いい面になったじゃねーか」
「元がいい人に言われると嫌味にしか聞こえませんよ」
そういう意味じゃねえんだけど、と思っているザップを他所に、レオはぐるんとそのままスティーブンの方を向いた。さっきと同様、誰がどう見ても意を決した顔をしている。「………スティーブンさん。お話があります」「………なんだ」さっきよりも格段に嫌そうな顔をしたスティーブンは、そう言って眼鏡を外した。
「…先日聞いた縁談の話は受けられません。断って下さい」
「縁談?」
「…………………我儘を言うんじゃない」
お前ももう身を固めた方がいい、と言ったスティーブンのそれを無視して、ちょっと待てよとザップはレオに詰め寄った。「縁談ってなんだよ」「ザップさんは黙っててください。大体あんただって見合いしてたじゃないですか」「あれは魚類に騙されたんだよ」「ツェッドさんはそんなことしません」なんだその信頼の比率は、とザップは渋い顔をしたが、レオはザップを無視してスティーブンにきっぱりと言った。
「僕ザップさんが好きです。あとなんかわかりませんけどこの人もどうやら僕が好きみたいなんです」
「どうやらってなんだよ。好きだっつっただろ」
「そ、そーいうことさらっと言わんでくださいよ!」
やっとレオはこっちに目を向けてそう言うと、すぐにザップから目を逸らした。「…その、…なので……ともかく僕結婚しません。すいません」レオはそう言って頭を下げた。スティーブンは無言でレオのことを見つめている。その眼が非常に辛そうなそれだということにザップは気が付いたが、言及はしなかった。武士の情けだ、と思ったが果たして自分の立場がいったいどういう状態なのか、ザップにも説明はできなかった。
「………ザップ。お前はどーなんだ」
「へ?」俺、と言いながら自分を指さしたザップに、そうだとスティーブンは嫌そうな顔で頷いた。レオが顔を上げる。「今言ったじゃないすか。俺もレオが好きだって」「違う。じゃなくて、お前自分の店があるだろう。そっちはどうするんだ」結婚もしないで継げないだろう、と言ったスティーブンのそれにザップは脱力した。
「……あんたもそーいう下んねーこと気にする口かよ」
「…………………。」
じろりと剣呑な眼を向けられたが、ザップは怯まなかった。レオは無言で不安そうに成り行きを見守っている。それを見てなぜかザップは笑いたくなった。なんだ。こいつはこれが不安だったのか、と少しだけおかしくなる。今や自分の中に不安という二文字はどこにもない。
「どうでもいいでしょう。そんなの」
「どうでもはよくないだろ。何人の人間を預かってると思ってるんだ」
「んじゃこー言やいいんですか。レオのことだってちゃんとするし、店は店でちゃんと継ぐとかよお。そんっなこたどーでもいいでしょうに」
「……………僕は真面目に話をしてるんだ」
そう言ってスティーブンは再度じろりとザップを睨んだ。ふん、とそれを見てザップは鼻を鳴らす。こっちだって重々真面目に話をしているつもりだ。
膝を元に戻して胡坐を掻いた。「…んじゃ言いますけどね。俺はぶっちゃけ店より店子よりこいつの方が欲しいんだよ」そう言った瞬間、レオがぎょっとした顔をした。「えっ。ざ、ザップさんそれは」言いすぎでしょ、と言ったレオをちらりと見た後、手を伸ばしてくしゃくしゃと軽くレオの頭を撫でる。「わっ」「……欲しいもんは手に入れたくなるのが俺の性分だっつーことくれーあんたも知ってるでしょ。…それに」ぐい、とレオのことを引き寄せたので、わっとレオが小さく声を上げた。
「…今言ったでしょう。俺はこいつが一番欲しいだけで、ほかに欲しいもんもあるんですよ。金も女も、ついでに言やー毎日酒だって飲みてえし博打だって打ちてえ。……もう一回言いますけど、俺は」
腕の中のレオを一瞬見たあと、目の前にいる男を見てザップは笑った。不敵に見えるかもしれないそれを、スティーブンが見返してくる。
「………欲しいもんはぜってー手に入れたくなる性質なんでね。…アンタに何言われようと、」
コイツはもう俺のもんだ、ときっぱりと言ったザップの腕の中で、レオがぷは、と息を吐きながら顔を上げた。「………、……ザップさん」「なんだよ。今いーとこなんだぞ」邪魔すんなよ、と笑ってまたレオの頭を掻き回したせいか、レオはやめてくださいよ、と非難気に言った。
「…………………………は〜〜〜〜〜〜………」
何でよりによって、と言いながらスティーブンはがくりと肩を落とし、肘を机について項垂れた。「…お前なんだよ…………時期がきたら僕がいい子を見繕って見合いに……あ〜〜〜〜〜もう……!!」「いーじゃないすか。これでもー一生上客持ちっすよ」そう言ってべえ、と舌を出したザップとスティーブンを交互に見比べた後、レオはええと、と言いながらじたばたとザップの腕の中で暴れた。やめろ、という意味でぺしんとザップはレオの頭を叩いて動きを止めさせる。
「あたっ。……あのー、その、そんでスティーブさん……」
僕らのことは、と恐る恐ると言った様子で言ったレオに、スティーブンは前髪を掻き上げながら、苛立った眼を隠そうともせずにこっちに向けた。「……いいか僕は認めたわけじゃないぞ。……ただ…」人の気持ちは自由だからなあ、と言ってスティーブンはまた溜息を吐いた。「…少年が縁談が嫌だと言うなら聞くしかないし、…そのボンクラがいいと言うなら僕にだって止める権利はない。……は〜〜〜〜…」ボンクラってなんだよ、と言い返そうとしたザップではなく、レオがほっとした様子で息を吐いた。「………よかったぁ…」刃傷沙汰になるかと思いました、と言ったレオに、そんなことしないよとスティーブンは言って、けれど疲れた様子で目を瞑った。
「…僕の負けだ。………ちなみにザップ。少年のどこが好きなんだ」
「えっ」
そう小さく声を上げたレオの顔がじわじわと赤くなる。ザップはんー、と言ってレオの頬をむにむにと弄りながら、少し首を傾げた。「……なんつーか……」そう言って少し黙ったザップに、レオが無言で視線を向けてくる。
ああ、とそこでザップは顔をスティーブンに向けて言った。
「首舐めた時の声がすげーエロかったから」
抱いたらどんな声すんのかと思ってよ、と笑って言ったザップの腕の中でレオは硬直したし。
目の前にいるスティーブンは瞬時に青筋を立てた。
そして一秒もせずにザップはスティーブンに蹴り飛ばされそうになり、慌てて辛うじてそれを避ける。「おわっ!?ちょ、…な、なんだよ!?何怒ってんすか!?」「煩い!!死ね!!やっぱりだめだ!!お前にはやれん!!」「はあ?なんすか突…、…おいレオ!おめーも何とか言ってやれ!」そう言って蹴りをどうにか避けているザップを見たレオは、にっこりと笑って胸の前辺りに右手を持ってきた。
びしりとその中指が立ったのを見て、おい、とザップはぎょっとする。「なん、…だよおま、ちょ、落ち着けってスターフェイズさん!」「煩い!帰れ!もーお前は客と思わん!」「ちょ…っやめろっつーの!」「はー…俺もー寝まーす。おやすみなさい」そう言ってのこのこと奥の部屋に引っ込んでいこうとするレオの後姿を見ながら、もう一回彼の名まえを呼んだ。「おいレオ!待てコラ!」しかしレオはお休みなさいともう一度言って、すたすたと奥に引っ込んでしまった。
煙管を咥えるといつもの味がした。「…禁煙しないんですか?」そう言って縁台に座ったレオは、用意されていた団子を手に取ると齧った。「なんで。しねーよ」「ですよねー」どうやらただ聞いただけだったらしい。なんなんだ、と思ったザップはふと気が付いた。
「…おめえ食うの下手だよなあ」
そう言ってぐいと口の横にある餡子を指で拭うと、わっとレオは声を上げた。「あ…ついてました?」「ましたよ」そうふざけた口調で言いながら指を舐めたザップを変な顔で見たレオは、にしても、と目線を上に向ける。「…壮観ですねえ。綺麗です」「そーか?俺はもう飽きた」「飽きたって」出資者の癖に何言ってんです、とレオは苦笑して言うとごくんと団子を飲み込んでいる。
もうすぐ冬になる。勿論それはこの街も例外ではなく、毎年雪が積もるこの通りに雪洞を設置することになったのは今年が初めてだった。町内会なのか何なのかで決まったそれには宣伝と集客という目的があったが、勿論出資者がいなければ話にならない。そこで頼まれたのがザップの家だった。既にザップが花街に毎日のように足を運んでいるというのは、昔から街の人々に周知されている。それでなのだろう。
別段断る理由はなかったので、いーんじゃねと二つ返事をしたザップだったが、思っていた以上に盛況になった。祭りをしていないにも関わらず、夫婦やら恋仲の若者やらが毎日のように歩いていく。遊郭の通りだっつーのに変な話だ、と言ったザップに、まあ遊郭ってばかりじゃないから、とレオは気まずそうにぽつりと言った。それを聞いて気が付いた。確かに、遊郭だけではなく所謂休憩所のようなものもある。なるほどそれでか、と納得したザップとは裏腹に、レオはちょっと顔を赤くしていた。一体何年ここに住んでんだとザップは突っ込みたくなる。
「…お前今日夜番か」
「や、今日昼でした。なので今日はふつーにこれからお休みです。寝ますよ」
「寝るのかよ」
俺が来てやってんのによ、と言ったザップにレオはちょっと困った顔をした。「…そりゃーまあ…その、そーなんですけど……でももー今日団体来たから疲れちゃって…」「ん〜〜〜…んじゃ帰るわ」「えー」帰るんですか、と眉を下げたレオに、帰るよとザップは言って煙管の灰を煙草盆の上で払った。
「…別にいーですけど。ザップさんはどーせ俺の身体目当てですもんね。いーっすよいーっすよ」
「おいてめー人聞きわりーこと言うなや。てめえの身体目当てとか俺の趣味が疑われんだろボケ」
そう顔を顰めて言ったザップに、ツッコミどころはそこなんすかとレオは呆れた様子で言って、けれど結局笑った。「………………。」その横顔を見ながら、ザップはまた煙草を煙管に詰めた。
認めるとか認めないとかいう話は元々なかったようなもので、ザップからすれば、誰かの許可を得ているからレオとこうして一緒にいるわけではない。ただ、一応挨拶をしてはおこうと思ってスティーブンにああ言っただけだ。あれから一月ほど時は流れたが、別段レオとの関係にスティーブンが口を出してくることはなかった。ただしたまにザップは睨まれることがある。
ザップもザップで、普通にレオのいない時にもいる時にもレオの店に遊びにやって来る。女を抱いたあとに普通にレオは廊下にいたりするし、怒られたことは今までに一回もない。だからなのか、大して前と関係性が変わったようにザップには思えなかった。一応好き合っている癖に、未だにキスの一つもしていないのは、冷静になってみると驚天動地も甚だしかった。ただああ宣言してしまったせいか、ザップは今の関係のままで別段構わないとも思っている。自分はレオが好きだったし、レオもザップが好きらしいし。
だから毎日顔が見られて、傍にいられて、一緒にいられる今が一番丁度いい気もする。
「…ねえザップさん」
「んー。なんだよ」
「…………………好きですよ」
唐突に言われたそれに、げほげほとザップは咽てしまった。「な、……なん……っ、……、」突然、と思いながら必死に咳をしているザップを見て、あーあーとレオは困ったように言ってそっとザップの背中を摩った。「何してんすかこんなことで。まったくもー」かっこわりー、と言われたそれに怒る気力がまだ湧いてこない。げほげほ、と咳き込んで涙目になりながら、この野郎とザップはすぐ横にいるレオに心中悪態を吐いた。煙管を煙草盆にはとっくに置いている。
「…………てめ、なん……、と、突然卑怯だぞコラ」
「別に攻撃したわけじゃないんだからそんなこと言われても…や、深い意味はないっすけど」
そう言ってレオはちょっと上を見上げた。「…言ったことなかったなーと思って。ちゃんと」「………。」そーかよ、と言って息を吐いたザップの横で、はい、とレオはぽつりと言った。「…好きですよ。ザップさんのこと」「…さっき聞いたわ。ボケ」「………何度も言ってわりーのかっつったのはザップさんですよ」「………………。」覚えてんだよなあ、と思いながらもう一回煙管を手にした。
煙が雪洞の光に照らされている。
「………………なあ」
「はい?なんすかザップさん」
「…………俺も好きだよ。お前のこと」
そう言って一気に煙を吐き出した。隣から声は聞こえない。ただし代わりに、レオが持っていた湯呑が少しだけ傾いだのが見える。「………零すなよ」そう呆れた様子で言ったザップの横から返事はやっぱりない。「…………………ひ、卑怯だ…」そして少し経ってから、そんな小さな声を耳にしてザップは思わず吹き出してしまった。
終
いいわけ
某描き下ろしのザップさんが大変に傾いていたのでという理由で書いた話
全員別人な上なんでこれをBBBでやった?という話ですが許してください 気が狂っていたので
(2025/06/30)