たまには言葉で分かり合おう
2020/06/17
※独自設定過多 ザップさん=教師 レオくん=高校生
―――――大嘘吐きめ。
はしゃいだ声に身を竦ませる。息を殺すのも大分慣れてきた。今だったら履歴書の特技欄に『息を殺すこと』と堂々と書ける気がする。そんな下らないことを、考える程度には。
「あのなだからよ。お前らが勉強しねーと俺が叱られんだよ」
何それえ、という甲高い声がチャイムと一緒に聞こえた。先生彼女いないなら付き合ってよ、という、何度となく聞いたそれを、耳にする。ごくん、と唾を飲み込んだ。
「だからな。何度も言ってんだろうがお前らに手ぇ出したら俺が首になんだよ。オラ早よ行け。予鈴だろ」
その追撃のせいか、えー、ばいばーい、という黄色い声が遠ざかっていく。
しかしそれを聞き届けてからも、レオナルド・ウォッチはその場から動けない。しっかりと自分の口を両手で押さえたまま、机の下に潜んでいる。
狭い理科準備室の端には、机が置いてあった。何の変哲もない、教室に並んでいるあの机と同じものだ。教室のそれと違っているのは、机上に白衣がだらしなく広げてあることと、引き出しの中には教科書の代わりに雑誌が突っ込んであることだろう。
何を隠そう、その机の下こそが、今レオが佇んでいる場所だった。白衣が広がっているせいで、よくよく見なければ誰かが机の下にいるとは気が付かない。かくれんぼには最適の場所だ。
佇むというか。
隠れるというか。
ドアが閉まる音がしたすぐ後に、誰かがレオの元へ歩いてくる。サンダルを引き摺るような独特の足音に、レオはそっと顔を上げた。ただし、まだ自分から机の下を動く訳にはいかない。油断は禁物だ。
「………もう行ったぞ。おーい」
レオ、と言うそれと同時に、目の前に垂れ下がっていた白衣の裾がかき上げられた。舞台の緞帳が上っていくそれに似てもいた。ただし、今のそれは舞台が始まる際の荘厳な感じも、ある種の神々しさもない。ただ乱暴にその辺にあったものを退けただけにしか見えなかった。
白衣の裾を掴んでいる男は、面倒臭そうにそのまま白衣を引っ張ってしまう。それに少し慌てながら、レオは口を開いた。
「……ほ……ほんとに…?前にそう言ってたら誰か戻ってきたことあったじゃないすか…」
小声でそう言うと、「全員行ったって」と怠そうに男は返事をした。本当なのだろうか、とレオは疑わざるを得ない。以前の失敗は、生かすためにある。
「大丈夫だっつってんだろ。早よ出てこいって。………あ、何だよ。お前そこでしてーの?」
流石にせめーだろそこは、と笑いながら、その男がちょこんとレオのすぐ隣にしゃがみ込む。そう言われてから、漸く、レオナルド・ウォッチは机の下から動くことにした。小さく溜息を吐く。
「…どいてください。出ますよ」
机は窓際の壁にぴったりくっつけるようにして置いてあるので、出る方向は三方向しかない。普通、机とは長辺が正面を向いているものだが、この教室に置いてある机は物置も同然なので、忌々しいことに長辺がぴったりと壁にくっ付いている。つまり、もう一方の長辺側から出るのが一番楽なのだ。短辺側からは出られないこともないが、身体を縮めるのは億劫だった。
「なんだよ。いーのか」
あっけらかんとそう言って、その場を退いた男を軽く睨む。当たり前だろーが。そう言いたかったが何とか堪えて、レオは机の下から這い出る。白衣がその辺にぐしゃぐしゃに放り投げられていることに気が付いて、「あのねえ」と文句を言うために口を開けた。
―――が、文句は声にならない。机の下から這い出ている最中に腕を捕まれ、そのまま身体を引き寄せられたからだ。声を上げる前にどすんと正面から何かにぶつかる。何かも何もなかった。レオのことを引き寄せた男の身体に他ならない。
「な―――」
何するんですか、と鼻を押さえてもごもごと言ったレオの口が、何の躊躇いもなく塞がれた。
「ん…っ」
慌てて息をする体勢を取ろうとしたレオを嘲笑うかのように、男はレオのワイシャツの中に、背中から手を突っ込んだ。ぎょっとしてしまう。「…っ、む、」こら、と言いたかったのに言えない。口は塞がれている。おまけに舌が絡め取られたので、余計に身体の支配権が自分から失われていく。やばい、とかまずい、とか考えている間に意識がどんどんぼーっとしてくる。ちょうど眠る前のようだったが、眠気の心地よさとは違う心地よさがレオを蹂躙し始めている。これが困る。拒めないのだ。眠気と同じで―――物凄く。
抗いがたい。
ちゅっと音はしなかった。ゆるゆると口が解放される。
「………、………なんだ」
やる気じゃんお前も、と笑った男の口と自分の口を唾液が繋いでいる。それを見て慌ててレオは口を拭う。
「…、な、なな、なんですかいきなり」
「何がいきなりだよ。ヤろーとしてたらあいつらが来たから中断したんじゃねーか」
きっぱりとそう言った男をレオは睨んでしまう。俺はそんな気ありませんでした。そう言おうとも思ったが、恐らく言ったらもっと大変なことをされてしまう。だからレオは、結局黙ってプイとそっぽを向いた。
「……もう昼休み終わります。俺教室に戻るので」
「五限はサボれ」
そう言って男が―――ザップ・レンフロがレオの顔を両手で掴んだ。「わっ!?」
教師の言う台詞とも思えない。そう思う前に驚いて叫んでしまった。
「…俺も五限は空いてっからよ。ちょうどいーだろ」
「ちょ、ちょっと。だからって流石に」
そういうわけには、と反論する前に口がもう一度塞がれた。
サイテーだ、と思いながらよろよろと起き上がる。
「………あ〜〜〜…」
とっくに時刻は五時間目が三分の一過ぎていることを示していて、つまりレオは五時間目をサボらざるを得なくなってしまった。今更出ても遅刻だから単位は取得できないし、大体今の今まで何をしていたんだ、と聞かれてうまく嘘を吐ける自信がなかった。
「あんだよそーしてんならコーヒー淹れろよ」
「………………。」
とっくに起き上がっていた教師―――ザップはそう言いながら煙草を咥え、椅子で雑誌を読んでいた。教師じゃねえのかよこいつ。そう思いながら、痛む身体を押さえてレオはワイシャツを拾い上げた。
またやってしまった。
学校ではこういうことをしない、と決めているのに、何度も何度もこの有様だ。俺がきちんと拒否しないのが悪いんだろうか、などとぐるぐるとレオが考えている間にも、だりーわと言いながらザップは立ち上がり、勢いよく窓を開けた。外から気持ちのいい風が吹き込んできて、そこで漸くレオはほっと息を吐く。空気が色々な意味で淀んでいる気がした。
「……うう〜〜〜…五限目が…」
「なんだよ。お前五限目と俺とセックスするのどっちが大事なんだよ」
「先生がそういうことさらっと言わんでくれますかね…」
じろりとザップを睨んだレオのことを見ながら、ザップは窓に寄りかかって爆笑した。
「お前毎度ソレ言うよなー。俺が教員だからってなんだっつーんだよ」
「………ああ…」
なぜこんな男が教師になってしまったんだろう。訳が分からない、とレオは溜息を吐いたが、自分だってその”こんな男”とこうやって毎週のようにこんなことしているのだから、同じ穴の狢と言われても仕方ない気もする。
元々は応接室に置いてあったという古いソファからのろのろと下りて、ポットへ向かう。電気ポットには湯が沸いたという柔らかな灯りが灯っていたが、気分はあまり柔らかくならなかった。授業に行かずコーヒーを入れている自分に、疑問を抱いてしまう。
「……ザップさんは嘘ばっか吐く…」
そう言って、カップ二つ分のコーヒーを入れた。
この理科準備室は特別棟の三階の端に位置していた。見つかり難いとはいえ、流石に姿を見られるリスクは犯せない。というわけでレオは窓の下の壁に寄りかかって、ちょこんと小さく座り込んでいた。いつもの定位置だ。
「お前なあ。俺程潔白な男いねーからな」
お前は得してんぞ、と笑いながら言われてレオは閉口する。嘘八百だ。潔白という言葉から最も遠い男、最も縁がない男の癖に。大体、それでどうしてレオが得しているのかさっぱりわからなかった。そもそも嘘なのだから得も何もないが。
「何が嘘だよ。俺はオメーには嘘吐かねえぞ」
「そりゃ俺に吐いたってしゃーないからでしょ?」
「わかってんじゃん」
煙草とコーヒーの香りが雑じって外に流れていく。サイテーだ、とレオは思いつつコーヒーを一口飲んだ。
「…なーにが俺がお前らに手ぇ出したらクビなんだよ、ですか。どの口がそれ言いますか」
「あ?」
なにが、と心底不思議そうな顔でザップは首を傾げたが、レオは無言でコーヒーを飲んだ。
付き合っているかいないかわからない。この男と「こう」なってから、幾度となく考えた疑問だった。
恐らく世間一般的に、こういうことをする間柄ならば付き合っている、と言ってしまっていいのだろう。けれどこのザップとはそんな話をしたことがない。だから明日から突然キスされなくなっても、セックスしなくなっても、おかしくない関係でもあった。
ふわふわしている。
この関係性において、はっきりとした名前が見つからない。教師と生徒というには既に色々と飛び越えてしまっている感があるし、恋人同士ですと言うのには抵抗がある。他に何て言えばいいのか、相応しい言葉がレオにはわからなかった。ただはっきりと言えるのは、この男が史上稀に見ない最悪の教師だということだ。
そもそもレオは生徒だ。未成年である。にも拘わらず易々手を出しているし、しかも学校内で人には言えないような行為に及ぶし、それどころかホテルに行ってもレオの財布を取り出す始末だし、レオを自宅に連れ込んではいるし――――そこまで考えて、ある日レオははっとした。あれ?俺ザップさんとセックスしかしていないのでは?
悲しいことに答えは「イエス」しかない。別にいいけど…いやいいのかなぁ…だとしてもなんかもっとこう、と具体性の欠片もないことを考えながら、ここ最近は過ごしていた。
ザップは怪訝そうな顔をしていたが、ああ、と気が付いたように言った。
「なんだ。妬いてんのか」
「………………は?」
びっくりするくらい低い声が出たことに、レオは驚いた。あれ。俺ってこんなに低い声、出せたんだ?そう思ったのは自分だけではなかったらしい。ザップはレオのそれを聞いて、おかしそうに笑っている。
「お前なあ。妬くならもーちょい可愛げある妬き方しろって。俺以外にそんなこと言わないでください〜とかよ」
「…………………………。」
レそれを聞いたオは無言で立ち上がると、コーヒーが半端に入ったままのカップを机に置いた。
「あ?シカトか。内申下げるぞコラ」
「…………………。」
何度となく聞いたそれにも答えず、レオは再度ワイシャツをきちんと着直して、ぐしゃぐしゃになっていた髪を整える。
そしてきょとんとしているザップに向き直った。
「帰ります」
「は?」
「じゃ」
そう言った瞬間、レオは痛む身体を無理矢理従わせて、高速で理科準備室を脱出した。
「ちょ」
待てよ、というザップの声が後ろから聞こえた気がしたが、レオはそれを振り切るようにして廊下に出る。急いで階下に下りるための階段へ向かった。廊下は走ってはいけません、とは一体誰が言い出したのだろう。規則は破るためにあるのだ、と同じくらい、聞いた気がする。
ぱたぱたという足音が踊り場に、窓の外に、廊下の奥へと響いていく。確実に教師の走り方ではない、と誰であっても気が付くだろう。けれどレオは構わなかった。というよりも。
なんだか誰かに罵ってほしかった。いつだってやめようと思えばやめられる癖に。
引き摺ってるのは誰なんだ?
溜息を吐きながらシャープ・ペンシルを回している。「結局五時間目はどこ行ってたの?」もぐもぐとメロンパンを食べながら、友人が首を傾げた。
「………図書館」
「レオは図書館が好きだねえ」
友人はレオの言葉を全く疑う様子がない。それを見ていたら、再びの自己嫌悪と罪悪感に襲われた。この友人を含む同級生達が授業を受けている間、レオは人には言えないようなことをしていたのだ。しかも、同じ学校の教員と。
「………今裁判にかけられたら」
「うん?」
「僕は地獄に堕とされそうな気がする」
「なに?……なんだ。図書館じゃなくてまた先生と一緒にいたんだ?」
首を傾げてそう言った友人は、やっとそれに気が付いたらしい。罪悪感を抱きながら、のろのろと首肯する。
「…うん」
「なんだ。なんで僕にまで嘘吐くんだよ」
ホワイトになら分かるけどさあ、と言って天井を仰いだ少年は、同級生のウィリアム・マクベスという。彼の妹がレオと同じく写真部だったので、そこから紹介されて仲良くなった。去年はクラスが別だったが、今年はクラスが同じになったので、こうしてよく教室で会話をする。
放課後の教室にはレオとウィリアムしかいない。当然、授業は終わって生徒達は三々五々、部活やクラブ活動、はたまた帰宅などで姿を消した。
五時間目の終わりギリギリに教室に戻ってきたレオは、教員にどこに行っていたのだ、と問われて正直にサボっていた、と答えた。基本的にレオは真面目で通っているから、教師は困惑したようだったが、何か罰則を与えないと示しがつかないと判断したのだろう。原稿用紙一枚分、反省文を言いつけられた。
反省文は、いまだに二行しか埋まっていない。
「………俺は愚かだ…」
そう言いながら机に突っ伏したレオを見て、ウィリアムはもぐもぐとメロンパンを食べている。購買で買ってきたらしい。
「…、………、とりあえず反省文書いたら?」
「………反省すべきことが多くてわかんなくなってきた」
「あははは」
レオって分かり易いよねえ、とウィリアムは笑った。眼鏡の奥の大きな目が、おかしそうに細められる。
「………ていうかさ」
それを聞いて、レオははたとあることに気が付いて顔を上げる。俺が分かり易いっていうかさ。ていうかさ?
「あっちが分かりにくいんだよあっちが」
「……、……、……むぐ、………先生?」
そうそう、と言いながらシャーペンをノックする。
「あっちから始めた癖にさー、俺に好きも嫌いも何も言わないし、どーいうつもりなのか全然わかんないじゃん。俺はおもちゃじゃねえっつうの」
勝手過ぎなんだよ、と言いながら、原稿用紙を睨みつける。四百字詰め一枚の反省文は、今回に限っては途方もない量に思えた。嫌々ながら、心にも思っていない言葉を書き連ねる。なんだかそれにも罪悪感が湧いた。
うーん、とウィリアムがメロンパンを齧りながら、首を傾げる。いかにも、「不思議だ」と思っているのが見て取れたが、レオは幸いなことにウィリアムを見てはいなかった。原稿用紙を、注視している。
「僕にはよく分かんないけど」とウィリアムは口を動かしながら、そう言った。
「レオは先生のこと嫌いなの?」
「好きだよ」
そうはっきりと答えてから、はっとして手を止めた。「あ、なんだ。好きなんだ?」――――友人の声が。
遠くから聞こえる気がする。
自分自身の返答に呆然とする。え?今、今、なんて言ったんだろう。そんなことは考えるまでもない。
「好きだよ」と反射的に答えてしまった自分自身に唖然とした。反射と言うのはたちが悪い。自分の意思が反映されるよりも先に、本能が勝手に反応してしまうからだ。今回のそれも、そうだった。考えるよりも先に、答えが勝手に口から飛び出した。
のろのろと顔を上げて、ぼうっとしながら口を開く。
「…………え?お、俺………好きなの?あんな最低な人を?」
ウィリアムは苦笑する。
「僕にはわかんないって。でも今好きだって言ったんだから、好きなんじゃないの?」
それを聞いて、レオは黙り込んでしまう。あまり、考えたくなかった。
「…………反省文書こ」
「あ、逃げた」
僕はいいけどさあ、とおかしそうに笑う友人の声を聞きながら、レオは反省文を進めていく。学業をすべき時間帯を無為に使ってしまったことは、などという思ってもみない文章の羅列は、今のレオの胸中と同じだった。ふわふわと浮いている。着地出来ない。
――――やめようと思えばやめられるのに。
拒んでいないのは自分なのだ。
終わった、と息を吐いて天井を仰いだ。
「……暗い」
窓の外を見ながらシャーペンをペンケースにしまう。文章を書くのはどちらかと言えば得意なのに、今日は全く集中できなかった。思ってもみないことばかり書いたせいかもしれないが。
「お疲れ」
「……ありがと。ごめん、つきあわせて」
ペンケースを鞄に片付け始めたレオを見て、ウィリアムは「気にしないでよ」と朗らかに笑った。笑うと益々妹にそっくりだった。
「…帰りジャック&ロケッツ寄ってこーか?」そう言いながらぱらぱらとメロンパンのカスを窓の外に払っているウィリアムに、「うん」とレオは頷いた。なんだか、色々とやっていられない気分だ。大人はこういう時にビールとかを飲みたくなるのだろうか、とふと思う。自分も、大人になったら分かるのだろうか。
「あ、ウィル。でも食える?さっきからメロンパン二個も食べてたじゃん」
そう聞いたレオに、んー、とウィリアムは悩まし気な顔になった。
「たぶん無理だからなんか飲むだけにする」
「………なんかごめん」
「なんでそこでレオが謝るのさ」
僕は今メロンパン流行中だから、とウィリアムは本気とも冗談ともつかないことを言って、鞄を肩にかけた。
この優しい友人は、嘘を吐くのも怒るのも、何もかも他人のためだ。お兄ちゃんは優し過ぎるのよ、と彼の妹がたまに怒っていることがあるが、レオにもその気持ちはわかった。ウィリアム自身が怒っているところを、レオは見たことがない。
二人で廊下に出る。しん、と静まり返った校舎には、自分達以外誰もいないように思えた。遠くから吹奏楽部の演奏らしき音が聞こえて来るので、無人ということはないだろう。けれど、そうと思える程度には静まり返っている。思っていたより反省文を書くのにかかってしまっていた。そろそろ校舎も閉まる筈だ。
「…遅くなっちゃってごめん」
「だからぁ、僕が好きで待ってたんだから、気にしない………ありゃ?」
ウィリアムが、途中で言葉を止めた。
「何?」
そう言ってレオは隣にいるウィリアムを見つめたが、彼の視線の先はレオではない。まっすぐ廊下の先を見つめている彼に気が付いて、レオもその視線の先を追った。
視線の先は昇降口だ。薄暗い玄関には、緑色の非常灯が煌々と灯っている以外は、目立つものはない。――――通常ならば。
その時、レオは通常ではないものを発見した。
「おせーよバカ」
そう言いながら、堂々と煙草を咥えた教員が下駄箱の前で佇んでいた。煙が緩々と玄関より先に漂っていく。
「先生」
驚いた様子でそう呟いたウィリアムに、ようと言いながらザップが手を挙げた。
「なんだお前。さっさと帰れよ。もう校舎閉まるぞ」
「あ、はい。今から帰ります」
そう律儀に返事をしたウィリアムはとことこと下駄箱へと近づいていく。
一方レオは足を止めてしまっていた。
「…………。」
無言のままその場に佇んでいるレオを振り返って、ウィリアムが不思議そうな顔をする。「レオ?」
「………、」
当然、いつまでもそこにいるわけにはいかないので、のろのろと足を動かす。どういうわけか、まるで地獄に向かっているような気がした。
裁判はまだなのに。
「あんなーお前ら何してんだよ。もう下校時刻だろ」
「あと十分ありますよ」
そう笑って返事をしたウィリアムに渋面を向け、まあお前はさっさと帰れ、とザップはさっきと同じことを言った。「はい」帰ります、と素直に頷いたウィリアムを他所に、ザップは「おい何してんだよ」とレオに向かって言った。
「ほらオメーも帰んぞ。さっさと来い」そう言って自然に腕を掴まれて、レオは反射的に返事をしようとした。
「あ、は……はっ」
慌ててレオはその手を振り払う。「あんだよ」ザップは煙草をぽいとその辺に捨てると、ぐしゃぐしゃとサンダルで踏みつぶした。バレたら確実にヤバい案件だったが、レオどころかウィリアムですらこの光景はよく見るそれだったので、誰もその場でツッコミを入れる者はいなかった。
レオが手を振り払ったせいで、ザップは露骨に顔を顰めた。「何すんじゃコラ」
「い、いやいやいや。俺もそりゃ帰りますよ。チャリで。駅まで」
ね、と言いながら慌ててすぐそこにいたウィリアムの腕を掴む。何となく、何かにすがりたい気になったのだ。
しかしそれと同時に、再びレオの腕もザップに掴まれていた。うぐ、とレオは顔を顰める。
「僕はバスでも自転車でもいーけど。帰るのは間違いないね」
「ね?ほ、ほら。帰りますよ。腕放して」
そう言って、掴まれている左腕をぶんぶんと振り回したが、ザップは鬱陶しそうに眉を顰めただけで、レオの腕を離そうとはしなかった。
「おいやめろ。腕がいてーだろ」
「それは俺の台詞なんですけど!?」そう言って、仕方なくレオは動きを止める。それと同時に、ウィリアムの腕を離した。自分が痛い、ということはウィリアムも痛いかもしれない、と思ったからだ。人間、冷静でないときにする行動は、力の加減ができないと相場が決まっている。
「…………えーと。僕は一人で帰った方がいい?」
恐らくザップの様子を見てだろう。ぽつりとウィリアムが呟いた。「や、全然そんなこと、」慌ててレオはそう友人に弁明のような、釈明のような―――どちらともつかぬことをしようとした。
「おうそーだな。帰れ帰れ。コイツはこれから俺の個人授業だから」
けれどそれを遮るように、ザップがきっぱりとそう言ってしまった。
「は!?」
ぎょっとしてザップを振り返ったレオに、「いーだろ」とザップは面倒臭そうに言った。
「だってどーせコイツ知ってんだろ?俺らのこと」
「し、知ってってあの」
それはその通りだったが、そういう問題ではない。色々なことに色々な意味で脳が追い付かなかった。
一方でウィリアムはのんびりとした様子で微笑んだ。対岸の火事、というよりはまるでそれがあるべきことのようだ。いつだったか、受け入れ力が物凄い、と彼に対して思ったことを、レオはこの時も思い出した。
「じゃあ、やっぱり僕は帰った方がいいですよね?」
「ちょ、ちょっと待って」
帰らないで、と慌ててレオはウィリアムの腕をもう一度つかむ。掴む、というよりは絡めるようにした。逃げられたら困る、とそう思っていた。友人は、当然逃げるという意識はないだろうが。
ザップはそれを見て、眉間に皺を寄せた。「なんだよ。浮気かオメー」割にそう言う口調はおかしそうだったので、半分以上ふざけている。
「う……、浮気って、あの、」
余りのことに途中で絶句してしまった。何が浮気だ。浮気って言うのは付き合っている人々や、結婚している人々の間で起こることであって、などと考えているレオを他所に、ウィリアムは「あはは」とおかしそうに笑った。
「いやー、僕どっちかというと年上が好きなので」
「いやそこ冷静に対応するんだ!?てゆかそれ俺は初耳だな!!」
「お前焦ってるわりにツッコミは的確だよな」
いつも、というザップのそれに返事をする余裕もなく、ともかくとレオはザップに向き直る。そして首を振った。
「だ、だめですよ。帰りません。いや帰りますけど、俺はウィルと帰ります」
「ああ?だから浮気かテメー」
「先生、僕年上が」
「いやお前の趣味はどーでもいいんだよ。お前が幾ら年上好きでもコイツがお前好きじゃあ浮気だろーが」
思いの外正論と言える指摘が飛んできて、レオはさっきとは違う意味で絶句した。た、確かに。予想外の指摘に納得してしまう。浮気と言うのは、何も行為だけを指す言葉ではない。定義がどういうものか知らないが、たとえば知人の誰かとふざけて手をつないだだけでも、「浮気だ」と怒る者はいるだろう。その是非はともかくとして、定義は人それぞれだ。
ウィリアムもレオと同じように、なるほどと納得した表情を見せた。
「それもそうですね。…えーと、レオ。僕のこと好きだったんだ?ごめんね。僕は年上の女性が好きで」
明らかにふざけた様子でそう言われたので、レオは「あのねえ」とウィリアムに言い返そうとする。妹に振り回されがちなせいで、レオのことは反対に振り回すのが好きらしい。
しかしレオが言い返すよりも、ウィリアムの方が早かった。
大きなレンズの向こう側にある双眸が、ゆっくりと細められる。
「大体、レオだってさっきは先生が好きだって言ってたのに」
きっぱりとそう言った声は、普通の声の大きさだった。静かとはいえ、そんなに校舎の中には響かない。ただ、その場にいるレオにはしっかりと聞こえたし、ザップの耳にだって届いただろう。
「……………、ウィ、」
ウィル、と思わず本名を呼んでしまったレオの声は、自分自身でもはっきりと分かるくらいには、動揺していた。
「ん?」
何、と不思議そうに言ったウィリアムの眼には、純粋な疑問しか浮かんでいない。よくよく考えたら、彼からすれば、ザップとレオは付き合っているのだから、こんなことは当然のことなのだ。
まさか、お互いに好意を確かめてもいないなんて、そんなこと。
思っても見ないだろう。
「…………………だろ」
物凄く長い間を空けてだったが、先にそう言ったのはザップだった。「……え」小さな声で、レオは恐る恐る、後ろにいるザップを振り返る。
ザップはレオのことを見ていた。
いつも教壇の上で見る怠そうな顔ではなく、かと言って資料室や準備室で見るような余裕たっぷりの顔でもない。それは、レオにとって何度も何度も見たことがある、教師の顔でも、ザップ個人の顔でもある。
けれどこの表情は、初めて見る顔だ。
こんなに嬉しそうな顔をしているザップを、レオは見たことなかった。
「………………!!」
慌ててレオはぱっとザップから目を逸らし、口を噤んだ。というより、何を言えばいいのか分からなくなったのだ。ついさっきまで、あんなにぽんぽん文句が飛ばせたのに。
「あたっ。レオ、腕が痛い…」
「あのな。ちゅーかお前は帰れ。妹が心配してんぞ」
「でも先生。レオが」
腕、と言うウィリアムとザップの会話を聞いても、レオは友人の腕を放せなかったし、顔も上げられなかった。
代わりなのかなんなのか、心臓がひどく喚いていて、それに心底困惑したし。
冗談じゃねえよ、と自分自身を罵りたくなった。
ありがとうございました、と言いながらウィリアムが車から降りていく。
「いーからさっさと帰っとけ。あとお前これぜってースターフェイズさんには言うなよ。旦那にはいーけど」
車内でも散々そう言っていたザップは、やっぱりウィリアムの家の前まで着いた時もそう言った。
「ホワイ……メアリには?」
「そんくれーは自分で考えろ」
顔を顰めてそう言ったザップに、「はい」とウィリアムは苦笑した。ああこれは喋るな、とレオは顔を覆ってしまう。恐らく下駄箱での出来事も全て話される。と、いうよりも、彼は妹限定で隠し事が苦手なので(ちなみに他者に対しては病的に上手い)、言わなくてもバレるだろう。止めても無駄だ。
「…んじゃ、レオ。また来週。あとハンバーガーも来週」
「……ん。ごめんね。ありがと」
そう言って助手席から手を振ると、ウィリアムは笑ってマンションの入り口へと走って行った。
「………あ〜〜〜…」
呻いて再び顔を覆ったレオを横にして、なんだよとザップは矢鱈と機嫌が良さそうに笑った。爆笑に近い。
「俺の運転じゃ不満か?贅沢になりやがって」
「不満じゃねーすけど……、…こっから俺の家遠回りですよ」
そう言いながらぐったりとレオはシートへ寄りかかった。椅子を倒す作業にも、慣れっこになってきてしまった。
下駄箱でのあれやこれから、結局レオとウィリアムはザップの車で自宅まで送って貰えることになった。
と、いうかレオが「じゃなきゃ一緒には帰らない」とザップに執拗に要求したからだ。こんな時間まで一緒に待っててくれたウィリアムを放置して、一人でさっさと帰ってしまうなんてこと、レオには耐えられない。友人はいいよと笑っていたが、絶対ダメ、とレオは彼の腕を放さなかった。
ザップは渋々その要求を受け、ウィリアムも一緒に彼の愛車に押し込むと、こうして自宅まで送り届けてくれた。当然、教師がいち生徒を個人的な事由で送り届けるのはまずいので、さっきのように口止めは怠らなかった。
「………先生」
小さく溜息を吐いて、そして顔を上げてそう言ったレオに、ザップは顔を顰めた。
「その先生っつーのやめろっつってんだろ」
先生の癖に、とレオは思いながら「ザップさん」と言い直した。
この教師は二人きりの時ばかり名前で呼ばれたがるので、レオからすれば気が気ではなかった。普通の学校生活の時でも名前で呼びそうになるからだ。慣れとは恐ろしい。
「…あの。俺ん家あっちですけど」
「知ってるわ」
そう言いながら、ザップはあっちと言ったレオの自宅方面とは反対方向にハンドルを切った。
「あの、だから俺の家、」
あっち、と再びレオは言ったが、ザップは悠々とアクセルを踏んでどんどん先に進んでいく。
「……未成年略取ですよ」
「あのなー、付き合ってる相手を自宅に連れてくのが何で誘拐なんだよ」
呆れたようにザップは言った後、おかしそうにまた笑った。それを聞いて、深々と溜息を吐く。
「自た………、………えっ」言われたことに気が付いた直後、はっとして、そう呟いてしまった。
「なんだよ」
ザップが車を徐行させる。交差点の信号が黄色から赤に変わっていた。すぐ前の車も緩々と速度を落としている。外はもう、薄暗いどころか真っ暗だった。
「お、俺たち付き合ってたんですか?」
思わずそう言ってしまったレオの横で、「はあ?」とザップはぎょっとした様子でそう言った。信号を睨んでいた顔が、こっちに向けられる。
「あたりめーだろ。じゃあお前何でセックスとかキスとか俺としてんだよ。てゆか授業サボってまで俺とセックスしてんのにつきあってねーってお前それ」
そこで一瞬ザップは言葉を切った。車が前のそれに続いて、完全に動きを止める。横断歩道を帰宅中の人々が歩き始めていた。
「俺は遊びかよ」
「こっちの台詞だ!!」
思わず大声でそう叫んでしまった。
「何でそーなんすか!遊びなのは俺じゃなくて、ざ、ザップさんじゃないですか!」
「俺がいつそんなこと言ったんだよ」
「え?」思わずそう言って考えてしまう。遊びだって――――言われたこと。いや、確かに、確かにないけれど。
「………言われてはないですけど」
「だろ。んじゃ遊びじゃねーだろ」
ふん、と鼻を鳴らしたザップはそう言うと、レオの額をぴんと指で弾いた。「あたっ」と悲鳴を上げて額を押さえる。
「…………ちゅーかよ」
何で俺の方が遊びなんだよ、と言いながらザップは前を向いた。しかし信号はいまだに赤い。歩行者用の信号が、ちかちかと点滅を始めていた。
「…だ……だって、その、……俺、ザップさんに好きだって言われたことないし…」
「そりゃ俺もそーだけどな」
「……………じょ、……女子といちゃついてるし……」
そう呟いてからああ、と呻きたくなった。これだ。妬いてるのか、と言われた後にあの場から逃げ出したのは、まさにこのせいだ。
指摘されたのが図星だったからに他ならない。
ザップは呆れたようにハンドルに腕を置いて、「アホか」と呟いた。
「俺が手ェ出してる生徒はオメーだけだぞ」
そら女子高生に騒がれんのはわりー気分しねーしよ、とザップはふざけた口調で言った。「ちゅーか流石に俺でも未成年に手ェ出したらパクられるっつーことくれーわかるわ。だからお前だけなんだよ」
それを聞いて、レオは黙ってのろのろと顔を上げた。
「……あのう。俺も未成年ですけど」
「知ってるわ」
当たり前のようにそう言ったザップは、やっと変わった信号を見て、「おせーっつうの」と悪態を吐いてアクセルを踏む。レオはそれを見ながら、首を傾げてしまった。
「…矛盾してません?」
「しゃーねえだろ。もう手ェ出しちまったんだから」
一回も百回も一緒だろ、とザップはよくわからないことを言った。一緒なんだろうか?全然違う気もするし、同じ気もする。そ、そういうものなんだろうか?疑問しか生まれない。
「………なんで?」
「なにが」
ザップこそ不思議そうにそう言って、ハンドルを右に切る。道の両端に立っているライトが煌々と道路を照らしていた。二車線の道路は帰宅ラッシュなのか、速度が速い車が多い。
「……なんで俺なんですか?」
「好きだからだろ」
お前が、とザップは続けて静かに言った。
「………なんで?」
二度目の「なんで」に自分自身でも子供みたいだな、と思ってしまう。実際、子供であることは間違いなかったが、ザップと会話していると、どうしても大人と子供とも、教師と生徒とも思えないことばかりのせいかもしれない。それはそれで問題かもしれないが、ともあれその時はそう思った。
そういえば、この人は先生で、大人だったけど、俺は生徒で、子供だった。今更のように、そう思う。
「またそれかよ。んじゃ聞くけど」
お前こそ何で俺なんだよ、とザップはなぜか笑った。おかしそうに細められた灰色の眼に、ライトの橙色が映っている。
「………………なんでって…、」
確かにそうだ。何でだろう。最低だ、とかクズだ、とか何度も何度も思ってるし、本人に伝えている。今日だって何度もそう思った。授業をサボらせる教師なんて、最低最悪以外の何物でもない。教育委員会どころか、同じ学校の教師の誰かにチクれば一発で懲戒免職だろう。
大体、レオだって嫌ならやめればいいのだ。「嫌です」と拒否して、たとえば別の教員に訴えたりとかして、そこまでしなくても徹底的に拒否すればいい。要は二人きりにならなければいいのだから。
なのになんでそれをしないのか。
そんなことは、最初からもう分かっていた筈なのだ。
「………好きだからです」
そう呟いた後、レオははあ、と息を吐き出して、更にずるずると車のシートに寄りかかった。
「ほれ見ろ。ぬゎーにが『なんで』だよ。お前も俺と同じじゃねーか」
「……………………すいません」
そう言った直後、漸く色々なものが緩んだ気になった。張りつめていた何かなのか、それとも無意味に張っていた意地なのか、女生徒にはしゃがれてまんざらでもなさそうなこの男に対しての何かなのか。うまく表現はできなかったが、漸くはっきりした。ああ、そうだな、と自分でも思う。
原因は全部、この男のことが好きだったせいだ。
何を考えているかわからない、と思っていたが、それは自分自身にも当てはまることではあったのだ。何しろ、ここに至るまでお互いに「好きだ」と一言も言ったことがなかったのだから。
同じなのに、全然違ったし、違っていたのに、同じだった。
「なーおい。夕飯どーするよ」
「ザップさんの家行くんでしょ。んじゃなんか作って下さいよ。こないだみたいに」
「ヤだよめんどくせー。ピザにしよーぜ。お前金あるだろ」
「当たり前のように俺の財布当てにしないでください」
そんな金はありません、とレオは冷たく突っぱねた。
「ハンバーガー行くとか行かねえとか言ってただろーが」
「それとこれは話が違うでしょーが」
やいのやいのと話し合いなのか、それとも口喧嘩なのか、どちらとも取れぬことをしながら車は夜の車線を走っていく。
「んじゃカレーにしましょ」
「おっ。GoGo壱か」
「そこはダメ。見つかるから」
「はあ〜?」
んじゃどーすんだよ、というザップの声を聞きながら、再びシートに寄りかかる。
「…んじゃ、やっぱザップさん作ってくださいよ。カレー」
「バカ材料がねーよ」
「近くにスーパーあるじゃないすか」
「めんどくせーわバカ」
なんで一々俺を罵るんですか、と言いながら笑ってしまう。何がおかしーんだよ、というザップは、それでもスーパーの方に車を走らせ始めたから、レオは余計に笑ってしまった。
終