雨音
2015/06/09
「あ――――ヤりてー…」
煙草の煙を吐き出しながらそう呟いた。同じように隣で煙草を喫っていた男が、ぎょっとしたようにこちらを横目で見てから、すぐに逸らす。それを無視しながら、再度煙草を咥えて喫煙所から校舎前の広場を見つめる。昼過ぎの中途半端な時間のせいか、殆ど人がいなかった。
校舎の自動ドアが開いて目的の人物が目に、入った。その瞬間煙草を吐き出すようにして口から離すと、灰皿に押し付けて立ち上がる。適当に鞄を肩に引っ掛けて、喫煙所から出る。背後から先ほどの隣人の視線を感じたが、やはり無視した。何の脈絡もなく隣人を愛せよという某聖人の言葉が浮かんだが一笑に伏したくなる。
件の人物は自分が気が付く前にこちらに気が付いていたのか、一直線にこちらに向かってきてきた。やたらと目がいい、と考える間もない。ぱあっと輝く様な笑顔を見せた後輩が、手を上げた。
「あー、ザップさーん!すいま、」
それを最後まで聞くのも惜しい、と言わんばかりに手を乱暴に掴む。後輩はぎゃあとかいってえとか喚き声を上げたがそれも無視した。ぐいぐいと無理矢理手を引っ張って構内を歩く。早く、早く、早く。そればかりが脳内には溢れている。時間は有限だ。有限だけど―――そんなに急ぐ必要も、本来なら無いのに。
「い、ってえっスけど!?ちょ、ちょちょちょ何ですか!」
「うるせーアホ。さっさと乗れ」
駐輪所に停めておいた原チャリのヘルメットを投げると、ええ?と後輩のレオナルド・ウォッチは顔を顰めた。「だってこれからゼミじゃないですか」「サボる」一言そう言ってレオを振り返ると、だめですよと後輩は真面なことを言った。
―――自分だけ真面じゃない、みたいだ。
たまにそんなことを思う。
多分それはあっているのだ。
「こないだもサボって怒られたでしょう。ヤベーっすよそろそろ出ないと。来月合宿あるし」
「…だってソレ出てたら夕方になんじゃん」
最初からそういう予定じゃないすか、とレオは言うとメットを原チャリのハンドルに引っかけて、リュックをちゃんと背負い直した。「そんで、俺がザップさん家行くって話でしょ」そうレオは言うと、まるで子供をあやすみたいにね、行きましょうよと続けた。年下の癖に俺より当り前のことばっかり言いやがる、とザップは顔を顰めてハンドルに腕をついた。
「…行きたくねー」
「子供じゃないんですから。俺は行きますよ」
「…オマエがいないとサボる意味がない」
「はい?」
何すかそれ、とレオは怪訝な顔をした。怪訝な顔をした理由はザップには推測しかねた。なぜなら大抵ザップが授業やゼミをサボる時はレオを無理矢理引っ張っていくからだ。教授のスティーブンに見つかったとき、レオが何とかうまく逃げおおせたとき、クラスメイトのチェインに邪魔されたとき、その他何か妨害が入らない限りは本当に無理矢理引き摺ってでも連れて行く。だから、勝手にザップは思っていたのだ。
ザップがサボる時レオを連れて行く理由を、レオが既に理解していると。
よくよく考えればそんなことがあるわけなかった。ただ単にレオを無理矢理連れて行っているだけで一言も理由を言ったことがない。どうせ誰でもいいんだから俺じゃなくて友達とかいるでしょ、と何度も言われたそれにも真面な返事をしたこともない。レオがエスパーでも無い限り、自分が無理矢理引き摺られていく理由が分かる筈もなかった。
言ってなかったというか、言えなかったというか。
そのどっちでもなかったのかも知れない。意図的に自分で意識の埒外に追い出していた可能性もある。
ただ今日はそんな悠長な気分ではなかった。
顔を見る前からもう駄目だった。
「―――あのな、俺今すげーヤりてーの」
それを言った直後間が起きた。駐輪所には誰もいない。ザップとレオの二人だけだ。ザップは既に原チャリに跨っていて、レオはその隣に無表情で突っ立っている。無表情というより、固まっているように見えた。
「…………………………えーっと…はあ、そーすか。いつものことだと思うんですが…風俗でも何でも行って下さい。どーぞ」
物凄く間が開いたあと、レオはぼそぼそとそう言って指を矢印のようにしてあさっての方に向ける。いつものことと言うのはザップが数えきれない程の女性と浮名を流しているからだろう。それは事実だし、しかもザップは今付き合っていると言えなくもない女性がいたから、彼女を呼び出しさえすれば今の欲望は事足りる筈だ。普通は。
でも今は普通じゃない。
普通でもないし、そういうことでもないのだ。
ちげーよ、とザップは言うとポケットから煙草を引っ張り出して口に咥える。火を点けると煙がふわふわと空に向かって上っていった。「違う?じゃあ何をやりたいんですか?」首を傾げたレオはまた怪訝な顔をしていた。ザップは煙草を口から離して煙を思いきり吐き出す。煙と臭いがその辺に漂った。
「お前とセックス」
だからゼミサボろーぜ、とザップは言ってまた煙草を咥えた。
「……………………………は?」
危機的本能なのかも知れない。レオは半歩だけ原チャリから遠ざかった。無表情ともいえる糸目と凡庸な顔立ちには、何の感情も読み取れない。感情が今の状況に追いついていない。何が起きているのか、何を言われたのかわからない。そんな顔だった。
「………え?い、いま?なんて?」
「だからお前とセックスしたいからラブホ行こーぜ。別に俺ん家でもいーけどホテルのが近いし」
「…………、…………い、いやいやいや?ちょ、ちょっと今ザップさんが何言ってるか分かりません」
「何で。日本語だろ」
そういう意味じゃないです、とレオは言いながら顔を白くしてまた半歩下がった。ここで逃げられたら意味ねーし、と思いながらザップはがしりとレオの腕を掴む。ぎゃあとレオはいつもよりも怯えた声で悲鳴を上げた。つまり拒否されているということだが、思いの外傷つかなかった。予想通りだったからかも知れない。
「るせーなコラ。いーからオマエ後ろ乗れよ」
「の、の、乗る訳ないでしょう!何言ってんですかマジで!頭打ちました!?」
何って今、ともう一度繰り返そうとしたザップに向かって、あーいいですごめんなさいごめんなさい、と言ってレオは片方の手で耳を塞ぎぶんぶんと首を振った。顔が漸く表情を作り始めていたが、どう見ても怯えていた。
ザップが手を離さないせいか、レオは腰を引き気味にしながら後じさりする。「あ、あの?俺はゼミに行きます手を放して下さい」「だからサボろーぜって。セックスしたいから」「だ、な、だ、だから!俺は男ですよあんたいったい何言ってんですか!」
遂にレオが壊れたみたいに泣きそうな声を上げて叫んだ。何って、とぽかんとしながらザップはレオを見つめる。どう見ても混乱していたが、泣きそうな声の割に拒否する姿勢が声くらいしか見当たらない。いつも飲み会で無理矢理飲まされた時や、試験前で見せる顔と同じように見える。そんなもんなんだ、とザップは思って煙草を口から離した。煙がまた空に上っていった。
―――そんなもんか。
とにかく逃げるとか、俺を蹴るとか、ふざけんなよって怒るとか、混乱して泣くとか。
そういうの無いのか、お前。
「…オメーとセックスしたいって言ってんだけど」
レオはそこでやっと無理矢理手を振り払って怯えたように二歩後ろへ、下がった。あーあ、とザップは煙草を持ったまま、笑う。「…してくんねーんだ」そう言うとレオは何言ってんですかあんた、と同じようなことを小さく呟いてくるりとザップに背を向けて走り出した。ゼミに行くんだろうな、とあたりを付けてその後姿に、声をかける。
「おーいレオー、俺の分も資料貰っといてー」
「だったら出てくださいよ!」
振り向きもせずそう言われた言葉は、かなり混乱しているようにザップには聞こえた。「…つめてーの」小さくそう言ったザップの声は恐らくレオには聞こえなかっただろう。ただ、レオは一瞬だけザップの方を振り向いた。ひらひらと手を振った途端に顔を引き攣らせてまた正面を向く。あーあ、とザップは思った。
あーあ、やっちゃった。
「…はいどーぞ」
鍵を開けると、自宅アパートの玄関には後輩が突っ立っていた。何してんだコイツ。そう思って後輩の姿を認めた途端に変な顔をしてしまう。「…何でオマエいんの?」「資料持って来てくれって言ったのあんたじゃないですか」
怒った様にそう言うレオの背後からは雨の音がした。ザップはあのあとすぐに家に帰って寝ていたのだが、どうやらその間に雨が降ってきたらしい。レオが押し出すようにして渡してきたクリアファイルを受け取ると、本当に雨の音しか聞こえなくなった。
「……あの」
「何だよ」
「………昼間の」
昼間、と鸚鵡返しをしたが只の時間稼ぎだ。聞きたいことは分かり切っている。レオは黙ってしまったのでザップはなに、とぶっきら棒に聞いた。何もなにもないのに。レオが聞きたいことなんか百も承知だった。
レオは何も言わなかった。口を開く様子もないし、俯いているから表情も見えない。自分より背が低いし、三和土にいるから余計だ。
―――何してんだか。
自分とそれからお人好しの後輩に呆れながら肩を竦めた。
「……これサンキュな。なんか雨ヤベーみたいだし、さっさと帰れ」
そんじゃ、と言いながらドアを引く。あ、と焦ったレオの声が耳に届いたが無視した。何も言うことなんか無いだろうに。そう思いながら後ろ手でドアを閉めようとした、その時だ。
みし、という嫌な音が聞こえた。
嫌な音に嫌な感触。覚えがあるようでない感覚は、自分で自分をそうしてしまったことはあったとしても他人にしてしまったことは無いからだ。
レオの手がドアに挟まっていた。
「………っておわ―――!?うわーおま、ちょ、バカ何してんだ!」
慌ててドアを開けると後輩がいってえ、と小さく呻きながら手を押さえている。指の付け根が赤くなっていた。思わず手を掴むとまた後輩はいたたた、と顔を顰めて呻いた。バカじゃねえの、と悪態を吐きながら手を診たがどうも内出血している。自分も顔を顰めてそのままレオを家の中に入れた。
ばたん、とドアが閉まる。
ドアを閉めた瞬間鍵が閉まる音がする。自分ではない。レオだ。直後掴んでいた手を離すとそのまま絆創膏と保冷剤を探した。レオはお邪魔しますと律儀にもそう言って靴を脱いだ。
雨の音は遮断されたかと思いきや、ただ小さくなっただけだった。
薬箱などという立派なものはなかったから、適当にネットで調べて適当な応急処置をした。どもっす、と言いながらレオは手にぐるぐると布を巻いている。包帯はなかったからタオルを切った。幸い指の感覚はあるししびれも無いらしいから、恐らく時間が経てば治るだろうとザップは布を巻いているレオを見ながら、言った。テキトーだ。レオはども、とそれだけ言った。
雨は止まなかった。既に午後六時半を回っているが、止む気配はない。天気予報によれば明日までずっと雨らしい。洗濯物は暫くお部屋に干して頂いた方がよいでしょう、という気象予報士は、天気とは異なり朗らかな声でそう告げていた。
「…オマエさー、やめろよマジであーいうの。怖いから」
そう言いながら戸棚に絆創膏だけ投げ入れるザップに、レオはすみませんとそれだけ一言言った。「…いいからもう、帰れ。病院行けたら行けよソレ」後ろを振り向かずにそう言ったがレオからは返事がない。返事くらいしろよと思わないでもなかったが、昼間のことがあったから当然かもしれない。分からなかった。
分からないと言えば、なぜレオが自分のところに来たのかもわからなかった。
普通あんなことがあったら危機感を覚えるなり嫌悪感を覚えるなりで、わざわざ来たりしないだろう。
くるりと振り向くとレオは無言でこっちを見ていた。何だよ、と顔を顰めるとあの、とレオは困った様に口を開いた。だから何だって、と言いながらザップはベッドに座る。狭いワンルームにはベッドと小さな机があって、レオはベッドの前のフローリングに座っていた。狭いせいで距離が近くなるのは仕方ないことだった。
「…昼間のことなんですけど」
それが、とザップは何だか面倒臭くなってしまってベッドに寝転んだ。その辺に落ちていた雑誌を手に取ったが読む気は当然起きなかった。適当にページを開いてぼんやりとただページだけ見つめた。寝転ぶだけでぎしぎしと安物のベッドは軋んだ音を立てた。「………マジで言ってました?」そう言われて嫌だったが仕方なく後輩の方に顔を向けた。首を傾げているレオの顔はいつもと変わらない。居酒屋でこれがいいとかあれがいいとか相談する時の顔と同じだし、麻雀を打ってるときに訳知り顔で後ろから指摘してくるときの顔と同じだし、そうやって一緒に遊んでいる時の顔と同じように見えた。
何言ってんだか、と思う。
「…嘘だよっつったらお前どーすんの」
「……や、べつにどーもしませんけど。帰ります」
「…そんじゃ、」
マジだよって言ったらどーすんだよ、とザップはまた起き上がる。雑誌をその辺に放り投げてベッドから降りた。そのままレオの目の前に座るとレオは顔を少し引き攣らせて、後ろに下がった。おせーよ、と思いながらあのさ、とザップは口を開く。
「オマエ危機感無さすぎだって。ドアに指突っ込んでまでウチ来たかった理由がこれか?電話かメールにしろよ」
「だ、だ、だって。そしたらアンタもう俺と会ってくんないんでしょ」
「は?んな訳ねーだろアホ。ゼミも授業も同じのとってんだろ」
「だってゼミは変えられるじゃないですか。ザップさんよくサボるし」
「なんでそんなめんどくせーことすんだよ。しねーよ。会うだろ」
「会ったとしても、」
前みたいじゃないんでしょ、とレオは言った。「…もうだって今もそーじゃないですか」漸くまた俯いてしまったレオの手はぎゅうと握られている。
言われた意味がよくわからなかった。
今も”そう”とは、恐らくレオが言うところの”前みたいではない”ということなのだろう。漠然としている。前と言うのが一体いつから前なのか、その前みたいという言葉の意味だとか、ともかく言っていることがさっぱり分からない。具体性に欠けていた。
「…イミわかんね。ともかく帰れ。傘くれー貸すから」
「……ほら」
ほら?と首を傾げるとレオは顔を上げた。「…ほら。前と違いますよ、ソレ」それって何だよ。さっきからお前の言葉は意味がわかんねえよ。そう思ったのが伝わったのかどうか、レオはまた口を開いた。どういう訳か少しだけ、その顔は笑顔に見えた。
「…俺のこと見ないじゃないですか」
雨の音が聞こえる。
下の階から苦情がきたらとか、床の硬さだとか、そんなことは考えなかった。無性に腹が立ったから、と後から聞かれればそれを答えただろう。ばたん、という音と何かに頭がぶつかる音、テーブルの上にあった携帯が床に落ちた音がした。
「いって…っ、……っ!や、なに、何す、」
「るせえよこのアホ、知らねえよ!」
無理矢理キスをするとなぜか塩の味がした。噛みついた舌は逃げるように暴れたが、既に捕まっているのだから逃げられない。パーカーの下に手を突っ込んだところで太腿辺りを蹴飛ばされた。レオの左手のタオルは暴れたせいか解けかかっている。唇を離した途端に、血の味がした。
「……ば、っかじゃねーのマジで…………だから言ったんだよ、帰れって…」
言いながら脇腹から滑るように手を動かす。「ひゃっ!ちょ、や、ま、待って」待ってって、と頭の片隅で思う。
――――一生待っても来ないだろ。
首筋に歯を立てると更に声が上がった。雨の音が掻き消すかと思ったがそんなことはなかった。雨の音どろではない、今耳にはレオの声しか入ってこない。自分の肩を掴んでいるレオの手が熱い。舌で首を舐めあげた瞬間に小さく声が聞こえた。
「…っあ!や、ですって、あの、ざ、」
名前を呼ばれる前にもう一回とばかりに唇に噛み付いた。うぐ、という呻き声とも叫び声とも取れる声に耳を塞ぎたくなる。あーあ、と思った。あーあ、もうだめだ。だってこんな都合がいい状況、俺の本能が見逃す訳ないじゃん。だってこんな機会もう一生ねーよ。だったら今しかないじゃん。善は急げ思い立ったが吉日好機逸すべからず、何でもいいけどたった一つ、分かっていることがある。―――もう。
もうだめだな。
唇を離すと唾液が伝った。げほ、と少し咳き込むようにしたレオの頬に触る。そこで気づいた。後輩の目の端に。
涙が浮いていた。
「…………あー……」
頬に置いていた手を離す。「……え」怪訝な、というより困惑気味のレオの声が聞こえた。そのままぱたんとレオの上に倒れ込んだ。わ、と小さな悲鳴が聞こえる。
床は冷たかった。
雨の音が聞こえる。
「………………………帰れマジで。俺が死ぬ」
「し、しぬかと、おもったのは、こっちなんれすけど、したが」
舌が痛いですよとレオは舌足らずな口調で言うと、ザップさん、とザップの事を呼んだ。それを聞いて更に思った。あーもうだめだ。もうだめだな、と。何がだめなのかは漠然としていてよく分からなかったが、何かが破綻していくだろうというのは自分でも分かっていた。何かというのは関係性なのか、感情なのか、それともほかのことなのか。それともその全部なのか。それすら分からない。多分誰にも分からなかった。
「…あのー、重いです。あと退いてくれないと俺もかえれません」
「………もう蹴っ飛ばしてでもいいから帰れよ…」
俺が泣きたいよと物凄く勝手なことを言うと、レオは泣いていいっすよべつに、と呆れたように言うと、ザップの後頭部に手を置いた。「…なんかもっと、優しくしようとか思わないんですか?」「だって優しくしたらオマエ逃げんじゃん…」「なんでですか。痛い方が逃げたいでしょ」「…逃げればいいじゃんモー…」支離滅裂だった。もう何が何だかよく分かっていない。自分でも、何をどうしたいのか、何がどうなってるのか、今後とか前とか先とか後ろとか、考えるのが嫌になった。ただ、目の前の後輩が欲しかっただけだというのは分かっている。分かっているのに。
手に入らないということも分かっていたのだ。
「…ザップさんって俺が好きなんですか?」
「…しらねー。セックスしたいだけだし」
「……フツーそういうのって好きだからしたいんじゃ…」
「だってフツーじゃねーじゃん。俺もお前も男じゃん」
「そーですけど。…大体あんたカノジョいっぱいいるじゃないですか」
「いるけどそーいう子たちとヤっててもお前とヤりてーなってそれしか最近考えてねーし。俺もーやだ。死にたい」
それがどういう意味の死にたいなのか分からない。ただこの状況がずっと続くなら死にたかった。不毛だし疲れるし、しかもその対象が大体毎日顔を合わせる後輩なのだ。平気な顔をして隣に並ぶのはもう、不可能に近かった。限界だ。
「…死にたいってこたーないでしょ」
レオは少しおかしそうに言うと、ねー重いですよ退いて下さいよ、とまた言った。仕方なくのろのろと身体を起こすと、寝転がったままのレオがこちらに手を伸ばした。なんだよと嫌そうに言うと、起きられません、とふざけたことを言う。起きられない訳ねーだろ、と思いながらも怪我していない方の手を掴むと、レオはよっと、と言いながら身体を起こした。髪はいつもより更にぐしゃぐしゃで、パーカーの裾は捲れているし、首には鬱血の痕がついていた。
嫌な思いでそれを見つめると、レオは少しだけ困った様に首を傾げた。
「…え。お、終わりですか?」
「萎えた。いい。帰れ」
ぷいとすぐにそっぽを向いてベッドへ歩くと、今度こそとばかりにばたんと寝転がった。壁の方を向いて目を瞑る。もう何だかどうでもよくなってしまった。レオとの今後の付き合い方だって、今付き合っていると言えなくもない彼女のことも、明日のゼミのことも、今この状況の解決も何も終わっていないのに。帰って来てから今までほとんど眠っていたから眠くなんぞないのに。
ぎしり、というベッドの音がした。目を開けるが勿論壁しかない。レオが後ろに座ったのだ、と気が付いてものすごく腹が立ったがそれも勝手な話だ。
「…俺キスすんの初めてだったんすけど」
「しらねー。俺は初めてじゃねーよ。ていうか帰れよ」
ザップさん、とレオに名前を呼ばれた。それが嫌だった。この後輩の呼び方はひどく耳触りがいい。レオは誰に対してもそんな風に呼べるのだろうけれど、ザップにとってそんな風に名前を呼ぶのはレオたった一人だった。さっきもそうだったが、呼ばれた途端にやっと罪悪感が起き上がってきてザップは閉口したのだ。直接身体に触れるよりも、それがたぶん、とザップは思う。それがスイッチだ。
「……まだ死にたいですか?」
困ったようにレオはそう言った。お前が困ってどうするんだ、とザップは思う。困るより怒るべき状況だし、こんな問答する必要は全くない。むしろ彼の立場的に帰るべきだった。またいつどうなってさっきみたいなことが起こるとも分からないし、ザップだってしないと断言できなかった。
「…死にてーよ」
「…それ、どーしたら死にたくなくなるんすか」
「お前とセックスしたら」
「えーっと…それ以外で」
「……ねーよ…」
それしかねーもん、と言って更に目を瞑った。「スキとかキライとかめんどくせーじゃん。でもセックスだったらヤったかヤんないだけで簡単だし、俺一回やったら満足するもん」
「いや、しないでしょ」
冷静なツッコミに思わずのろのろと後ろを振り向いた。レオは呆れたようにベッドからまた降りると、すぐ横に座って腕と顎をベッドの上に乗せた。「するわけないでしょ」レオは再度そう言うと、今キスしたじゃないですか、と続けた。「それじゃ駄目なんですか」
キスとセックスは違う。そうザップが言うとそれじゃどうして俺じゃないと駄目なんです、と呆れたまま続けた。もっといい人いっぱいいるでしょうに、と。そんなの、とザップは思った。そんなの知ってるし分かってるし、実際にしてるけどでもお前がいい、と続けるとレオは変な顔になった。
「……なんで?」
なんでって、と今更なことを聞くとザップは思った。なんでって、そんなの俺が聞きたい。世界の何かを決めてる何かがあるならば、全知全能の神がいるならば教えて欲しい。何でお前じゃないと駄目なのか。だから口を開いてすぐに答えた。
「しらねーよ…。わかんねーけどお前じゃないとヤなんだよ」
そう言った途端レオは絶句という様子で、口を二、三回ぱくぱくさせると声を上擦らせた。
「だ、だからなんで」
「わかんねーって……」
何だかもう泣きたかった。両目を手で覆う。
それって好きだからじゃないのか、と言われてもそうだ、とはなぜか言えない。そうなのかどうなのか自分では分からない。ただ自分のものにしたいだけだろと言われたら、むしろそっちの方が即答できる。そうだと言える。自分のものにして。
―――それでいったいどうしたいのか分からないのに。
また雨の音が耳に入ってくる。
「……そんじゃ、」
レオが口を開いた。思わずそっちを見るとやっぱりいつもと変わらない表情で、レオは淡々と言った。
「そんじゃ、なんでなのか分かったらいいっすよ。セックスしても」
―――――は?
思わず両目から手を退ける。レオはその辺に転がっていたリュックを引っ張って中から潰れたサンドイッチを引き摺りだした。「これツェッドさんがどーぞって。ここ置いときます」そう言うとジッパーを閉めて立ち上がる。リュックを背負い直して帰ります、と一言言った。
雨の音が聞こえなくなった。
雨は降っているのに。
「ちょま、待て。レオ」
「……あー、やっと」
半身を起こしたザップにレオが漸く、笑顔を見せた。実に今日の昼過ぎ、校舎から出てきた時以来だ、とザップはそこで気が付いた。すると高々半日くらいだ。たったのそれだけなのに、物凄く久々だと言う気がした。
「今日、俺の名前呼びましたね」
にっこりと笑ってレオはそう言うと、そいじゃ帰りますんで、と普通に言うと手をひょいと上げた。「また明日。ゼミ、明日こそ出ないとスターフェイズ先生がキレますよ」
くるりと身を翻してレオは玄関に向かう。その間ザップは先ほどの言葉を頭の中で反芻していた。
―――なんでなのか分かったら。
―――いいっすよ。
いいわけない。
何がいいんだ。
レオ、と名まえを呼んだ時には既にレオはドアを閉めていて、外からがちゃがちゃと鍵をかける音がした。そう言えば前に酔い潰れて連絡が一切つかなくなったことがあったせいで、レオには無理矢理合鍵を持たせていた。やっぱり同じようなことがあったとき限定、という約束で。
「…あー……」
何だよそれ、という勝手なことを呟いて再度ベッドに突っ伏した。何でなんかなんて分からない。ただ本当に、レオだけがいいだけなのに。何でなんてそんなこと、分かる訳がない。
そう思いながらぎゅうとシーツを握りしめる。雨が降っている。でも音は聞こえない。
レオが持って来てくれた資料がクリアファイルに挟まったまま無造作にテーブルの上に置いてある。明日のゼミで必要になるだろう、と思いながらどんな顔をして会いに行けばいいのかわからなかった。自分でしかけた癖に、どうやったら幕を引けるのかが分からない。どうやったら。
―――レオじゃなきゃならない理由がわかるのだろう。
雨の音は聞こえない。
唇からはまだ血の味がした。
終