帰りの機内にて
2018/01/12
ハロー、私のトータスナイト。
絶対連絡してよ、と言ってそっと手を離した兄の顔は見えない。けれどどんな顔をしているかくらいは、ミシェーラ・ウォッチにも想像がつく。「………うん」そう言った声が半ば以上苦笑気味だったから少しむっとした。「あ、ごめんごめん。ちゃんとするよ。マジで」慌てたように言った兄の声を耳にしたあと、ほんとかしらと婚約者に顔を向けると、トビー・マクラクランはどうやら噴き出したらしい。
「ちょっと。トビーはどっちの味方なのよ」
「それは勿論」
生涯君だよ、と笑みを含んだ声で言った彼の様子は、今までと全く遜色なかった。
知らない土地にいる兄は知っている人だったとミシェーラは思う。知っている人、という言い方はなんだか他人行儀だ。つまりどこにいようが、何年離れていようが、兄は兄だった。ミシェーラの知っているレオナルド・ウォッチだったとそう思ったのだ。仕事だから送りには行けないけれど、と言った兄の声も、ホテルで自分の名を叫んだ兄のそれも、故郷で何度も耳にした兄の声と同じだった。
「………疲れてないかい?」
その声に窓から顔を戻した。「やだ大丈夫よ。そんなに疲れてるように見えた?」「そうは見えないけれどね」少し間が空いた後に、少しだけ、とトビーが口にした。
「…寂しそうには見えるよ」
そう言われてミシェーラはふと気が付いた。―――さみしい。そうか、これは寂しいって気持ちなんだ。久々に味わったから自分の中でその寂寥感を上手く言い表すことができなかったけれど、寂寥感という名の通り、これは寂しいというそれだったと今分かった。
何年かぶりに出会った兄の顔を見ることは出来なかった。ただそれは今の寂しさと何ら関係のないことだ。未だに兄のレオナルド・ウォッチはミシェーラの身に起きたそれに罪悪感を覚えているようだったが、けれどそれも仕方のないことだとミシェーラも思う。気にしないでの一言で済むような話ではないし、それに責任を感じなくていいと自分が言うのも変な話だった。たぶん、言えば言うほどあの優しい兄はそれをずっと気に病み続けてしまうのだろう。そういう男だ。そしてそういう兄だからこそ。
ミシェーラは彼のことが大好きだった。
「……お兄ちゃん、どうだった?」
「……ずいぶん漠然とした質問だ」
それもそうか、とミシェーラは笑って言うと、じゃあ、と言いながらトビーの方に顔を向ける。機内は酷く静かだった。「…格好良かったでしょう。私のお兄ちゃん」「ああ、それは確かに」君の言った通りだった、とトビーは笑って言ったらしい。少し笑みを含んだ声を聞いて、ミシェーラは少し無言になった。どうも彼の声は、普通の人より感情が読みにくい。理由はよく分からないが、真意がつかめないと思うことが多かった。「…本気でそう思ってるんでしょうね」だから思わずそう言ってしまったミシェーラに、思ってるよ、という苦笑交じりの声で返事があった。
「…と、いうより。ロビーで言ったじゃないか」
そう言われてちょっと考える。ロビーということは、恐らくつい先日兄と待ち合わせしたあのホテルのロビーのことだろう。「……あ」
――――君の言うことだ。
「……そうだったわね。…ごめんなさい」
「いや。恐らくまだ僕の愛が君に届いていないということなんだろう」
「それはそーかもね」
そう言うと、またちょっと間が空いた。「……そう…なのかい?」恐る恐るという風に言われた彼の疑問に、思わず吹き出してしまった。きょとんとした気配が伝わってくる。やっぱりこの人面白いなあ、と出会ってから何度目とも知らぬそれを思って、少し首を傾げた。
「…冗談よ。充分届いてるわ」
「それはよかった」
ほっとした様子でトビーが言った。―――こうやって、無条件に自分を信頼してくれる彼のことがミシェーラは好きだ。他人を好きになる理由はいろいろとあると思うし、信頼というのは他者との関係性においてとても大事なことだと思いもする。ただ、きっとそういうことが理由で自分は彼のことが好きなわけではないのだろう。出会ってからこっち、ミシェーラは彼のことを好きだと思うことは何度もあったし、愛されていると思うことも何度もあった。けれど、その理由はよくわからないままだ。彼の声から感情や心理を読み取るのがうまくできない理由と同じで。
好きになった理由はよくわからない。
ただ、理由なんて別にどうでもいいことだとも思う。
「……君のお兄さんは……不思議な人だったね」
「そう?至って普通のお兄ちゃんよ」
そう言ったミシェーラに、君は中々手厳しいよ、という苦笑交じりの声でトビーは言った。手厳しい?そうだろうか、と自分の発言を省みているミシェーラに、ただし、とトビーは言った。「…とても…なんというか……素敵な人だった。君が言っていた以上の騎士だったよ」素敵という言葉は中々使いにくいとミシェーラは思っていたが、トビーが使うとひどく自然に聞こえた。少し胸を張って笑みを浮かべる。
「そうでしょ。ずっと私の騎士だもの」
世界で二番目くらいに格好良いわね、と言ったのでトビーはまたしてもきょとんとしたらしい。「二番目かい?」「二番目くらい。…一番目くらいが」あなたね、と言ったあと、流石に少しだけ照れたから正面を向く。「…………。」隣からは特に何も返事はなかった。くらい、とか言ったのがまずかったかなと考えている最中だった。隣にいるトビーが少し動いた気配がする。けれどやっぱり特に返事はなかった。
――――――あれ?
そこで気が付いた。そろそろと無言で隣に顔を動かすと、どうやらトビーも顔を動かした、らしい。ミシェーラではなく、通路側の方を向いた気配がする。「………トビー」「……なんだい」「…ひょっとして」照れてる?と言ってしまった後にちょっと後悔した。ああ、こんなことを言ったら。
「………そう…だね。…照れていると思うよ」
――――その声もいつもと同じだった。感情を読み取り難いし、真意がつかみにくい。それはヘルサレムズ・ロットに行くまでの日常で、徐々に生まれていった違和感と、理由も分からない焦燥感と、毎日思い出す様になった兄の背中が理由なのかと勝手にミシェーラは思っていた。けれど違った。たったいま、それに気が付いた。
隣に座っている彼の顔は見えなかったけれど。
どんな顔をしているかなんてすぐに分かる。
「………私、あなたが好きだわ」
そう言った声は自分でも頭を抱えたくなるくらいは緊張していた。ただ、勢い任せで言ってしまったせいかそれなりにその声は大きかったし、少なからず隣にいるトビーもぎょっとしたようだった。救いは夜だったせいか、機内の中にいる乗客たちが殆ど眠っていたことだろう。ただし、どうやら前の席に座っていた乗客は起きていたらしく、ばさりと何かを取り落とす音が聞こえた。
「………………、……ええと、……いや、………実は」
僕もそうだよ、と言ったトビーの声もミシェーラと同じだった。ひどく緊張している割に堂々としていて、まるで世界中に宣言しているみたいにミシェーラには聞こえた。ああ、なんて馬鹿なことをしたんだろう。だって私がそう言ったら、彼だってそう言うに決まってる。―――そう、そういう人だから。
ミシェーラ・ウォッチはトビー・マクラクランのことが好きなのだ。
きっと理由は要らないし、わざわざ考える必要もない。ただ、傍にいる時にたまに覚える緊張や、手を繋いだ時に心臓が跳ねる感覚とか、一緒にいるだけで楽しいと思えるその気持ちを一言で言うならそれしかない。感情が読みにくいんじゃなくて、真意がつかみにくいんじゃなくて、そんなに一生懸命彼の言葉を聞いていたら緊張しすぎてしまうからだし、感情を掴んだりすることや、どんなことを考えているかなんて気にするよりも、もっと先に動いてしまう感情がある。だから仕方ない。たった一人にだけ、ずっとそうだった理由なんて、今更考えるようなことでもない。
「……えーっと……、トビー。……コーヒー、…飲む?」
結局一分くらいして最初にミシェーラが言った一言はそれだった。もうちょっとマシなこと言えたらよかったのに、と言った後に珍しく後悔する。基本そういうのは兄の役割で、ミシェーラはどんどん先に進む方だった。そしてそのあとを全速力で兄は追いかけてきて、前に回るわけでもなく、後ろにいるわけでもなく、隣で一緒に進んでくれるのだ。
「え?……飲みたい?」
そうトビーは不思議そうに言った。どうしてそんなふうにミシェーラが言ったのか、分かっていないらしい。照れ隠しという言葉が彼の中にあるかどうかも怪しいわ、と何気に酷いことを思いながら、ミシェーラは正面を向く。
「…………そうじゃないけど」
そうじゃないわよ、と同じことを繰り返してすとんと彼の肩に寄りかかると、トビーは恐らく不思議そうな顔をしたのだろう。どうしんだい、というきょとんとした声が聞こえてきて少し膨れる。「……ミシェーラ?」不思議そうに名前を呼ばれたけれど、ミシェーラは返事をしなかった。
笑みを堪えるのは結構大変だったけど。
終