雲の上
2020/10/23
蟻を殺したことすらなさそうだ。
「んなわけないでしょ」
ありますよ、と呆れたように言った後輩は、すぐに窓の外に蜘蛛を投げた。「もう来るなよー」そう言って無意味に手を振る後輩を、ザップこそ呆れてじっと見つめてしまう。そーか?マジか?俺はやったことねーからよく知んねーけど、ガキの頃って蟻の巣に熱湯流し込んだりとかするんだろ?そう思ったのが顔に出たのかもしれない。レオは「あの」と言ってこっちを振り返った。
「言っておきますけど、蟻を殺したことはありますけど熱湯とか入れたことはないっすよ」
「何も言ってねえだろ」
思ってたけど、とは言わなかったが、レオは「だってそういう顔してますよ」と澄ました顔で、そう言った。どんな顔だよ。ツッコミを入れたかったが、それより先にスマートフォンが着信を告げる。はっとして画面を見ると、愛人の名前が表示されていた。
部屋に蜘蛛がいた。
毒蜘蛛だとかヘルサレムズ・ロットによくいるようなヤバい蜘蛛とか、そういう類のものではなかった。ただ単に外からちょっと飛び込んできてしまったような、『外』でも見るような、何の変哲もないただの蜘蛛だ。
別にあえて殺そうとしたわけじゃなかった―――というよりも、ザップはそんなことに気が付かず、ただベッドで寝がえりを打った。ぱたん、と腕が何かにぶつかったと気が付くよりも先に、「いてっ」と誰かが悲鳴を上げた。
誰かも何もなかった。悲鳴の持ち主は、ベッドの持ち主であり、なおかつ家主であるレオナルド・ウォッチだった。くしゃくしゃの髪があちこちに跳ねている様を見て、ザップは思った。
――――なんでコイツがこんなところにいるんだ?
何でも何もない。このベッドはレオの部屋のベッドで、何度も言うようだがこの部屋の家主はレオなので、むしろザップがここにいることの方がおかしいのだ。レオが「痛い」と顔を押さえて呻いているのを見ながら、そういえば、とザップは昨夜のことを思い出した。
――――泊まったんだっけ。そういえば。
愛人が誰一人としてつかまらない夜なんてそうそうない。なのにその『そうそう』が昨晩起きてしまった。何で誰も繋がんねーんだよ電波障害かなんかか?とスマートフォンを睨んでいたザップの視界の端に、ピザ屋のバイクが映った。信号待ちをしていたバイクは、信号が変わるなりすぐさま発車してザップの視界からは失せてしまったが、連鎖反応的にザップは後輩のことを思い出した。ピザ屋といえば、宅配人、宅配人と言えば、陰毛頭、陰毛頭といえば。
その唯一の酷い愛称で呼んでいるのは、たった一人しかいない。
愛人と後輩じゃ雲泥の差だとザップは愛称よりも酷いことを思って、連絡もせずに後輩の家に向かった。後輩はバイトなのか何なのかで家を留守にしていたが、ザップにとって安いアパートの鍵など無いも同然だ。勝手に中に入って勝手に食料品を平らげて、勝手にゲームを進めてだらだらと遊んでいた。
深夜になるかならないか、そのくらいの時間に後輩は帰ってきたらしい。「嘘だろ」という声を聞いた気がするが、ザップはその時既にシャワーを浴びてレオのベッドですやすや眠っていた。愛人の家のベッドとこのベッドじゃ雲泥の差、とまたしても酷いことを考えていたザップだったが、幸いにしてその時眠っていたので口にはしていない。その後、たぶんレオもベッドで寝たのだろう。ザップは寝ていたから、後輩がその後いつどのタイミングでベッドに潜り込んできたのかは、分からなかった。正直に言えば、興味もなかった。寝袋も替えの布団もないこの家では、どうせ同じベッドに寝ることは決まっているのだ。彼の穏やかな執事風に言えば、『確定事項』か。いつ眠ろうが眠るまいが、後輩と一緒に眠るということは、この部屋に来ると決めた時点で、分かっていた。
分かっていたのになぜこうやってきたのかと言えば、ザップがそれをどうとも思っていないからだ。男だろうが、後輩だろうが、クソガキだろうが陰毛頭だろうが童貞だろうが、ザップからすればレオナルド・ウォッチは猫の子と大して変わらない。むしろ暖房器具―――ユタンポというものだと後々思い出した――みたいで丁度いい。そうとすら、思っていた。
思っていた筈だったのに。
ザップが腕で押しつぶそうとしていたらしい蜘蛛を、レオナルド・ウォッチは手の平で掬い上げた。
「あぶねっ」
そう言って、ザップのことを飛び越えた後輩を見て、ザップはぼーっと眼を覚ました。こいつ男の癖にモチみてーな足してんなあ。食えそう。食いたい。腹減ったな。寝ぼけ頭でそんなことを考えながら、もそもそと起き上がった。レオは床に転がったらしい蜘蛛を必死に手で掬い上げようとしていた。
それから、ザップはレオに言ったのだ。「蟻も殺したことねえんじゃねえのか」と。
ともすれば嫌味に聞こえてしまう。けれど、レオはそれを嫌味ではなく雑談と受け取ったらしい。いつもと何ら変わらない口調で、レオは「んなわけないでしょ」とそう答えた。
恐らく窓の外に放り投げた蜘蛛を眼で追った後、レオは再び室内に顔を引っ込めた。
「ザップさん電話。大丈夫っすか」
そう言われて、慌ててスマートフォンを手に取った。愛人からの不在着信を見て、そういえば昨日電話したな、と思い出す。すぐさま折り返しをかけ始めたたザップの後ろで、レオは「ふわあ」と大きな口を開けて欠伸をしていた。
たかだか蜘蛛一匹だと言われたらそうかもしれない。一つ一つの命の重さは平等だ、などとザップは口が裂けても言う気がしないし、特にこの街では余計にそう思う。そんなことを言っている間に、自分のそれが消えてなくなっている可能性は、大いにあり得た。
ただどうしてか、蜘蛛を外に放り投げたレオを見て、ザップは『嫌な感じ』を覚えた。うまく説明ができないから、こうとしか言えない。本当にざっくりと、『嫌な感じ』だ。
レオが関わっているのは間違いないが、レオが嫌なのかと言われればそうでもない。けれど恐らくこれがレオナルド・ウォッチでなければ『嫌な感じ』とも思わなかったろう。つまりレオがこの『嫌な感じ』に対して重要なファクターであることは間違いない。けれどその理由も、その曖昧な感情の正体も、ザップはよくわからなかった。
灰皿にぐしゃぐしゃと葉巻を押し付けたせいか、「ご機嫌斜めね」と愛人がおかしそうに笑って言った。鋭い指摘に呻きたくなったが、「んなことねえよ」と軽い調子で返答をする。下手なことを言えば、今この時を楽しんでいないと思われかねない。
けれど愛人は本日はこれ以上もうザップの相手をする気がないらしかった。伸ばした腕をするりと抜けて、「シャワーに行くから」とにべもなかった。ザップが何かを言うより先に、さっさとバスルームへと歩いて行ってしまう。
「………………。」
こうなると、葉巻をぐしゃぐしゃにしてしまったことが惜しまれる。ヤらしてくんねーんじゃステフんとこにでも行った方がいーか、などと最低なことを考えながら、ベッドにある巨大な枕に寄りかかった。やはり、雲泥の差、と後輩の部屋のことをふと思い出す。つい今朝方のことなのに、まるで遠い記憶みたいだった。
猫の子だろうが蜘蛛の子だろうが――――蜘蛛の子は違うな―――とザップは自分が何らかの諺か言い回しを混同していることに気が付いたが、まあいいや、と思考を放棄した。土台、考えることには不向きだ。
ともかく、今朝引っ掛かったあの『嫌な感じ』がずっと脳裏にこびりついたままだ。別にレオは何ら悪いことをしていないし、あの後も特に建設的な会話をすることはなく、ザップはレオの家を後にした。深夜勝手に部屋に侵入していたことに少々文句はあったものの、それもいつものことだった。レオは「次やったら絶交だから」といつもと同じことを言っていた。この調子だと、彼の後輩と絶交することは永遠にない。
本当に蟻のを殺したことがあるんだろうか。
ふと、再びあの疑問が生まれた。いかに幼いとはいえ、あのレオナルド・ウォッチが、そこにすくすくと息づいている蟻を殺したりするんだろうか?ザップには想像がつかない。子供こそ無邪気だから恐ろしいとはよく言ったものだが、それをレオがしている図が、ザップには思い描けなかった。
大体、初対面時もそうだったじゃねえか、とふとザップは思い出した。曰く、『持ち込み企画』の時だ。
あの時はまだ名前がなかった音速猿を銃で撃ってしまえばことはすぐ済んだのに、レオはわざわざ術式が埋め込まれていたノミを指で潰して解決を図った。堕落王の目論見をまんまと外させたことには溜飲が下がったが、ザップからすれば『何考えてんだコイツ頭おかしーわ』案件である。確かに、義眼保有者のレオでなければあれはできなかっただろう。けれど「できるからやる」と「できるけどやらない」だったら、あの状態で考えるならザップは間違いなく後者を選ぶ。その方が速く済むし楽だからだ。
けれどレオはわざわざ義眼を使ってソニックを助けた。―――ああ、とザップはそこでやっとあの『嫌な感じ』の正体に気が付いた。蟻を殺さぬような顔をしているあの少年は、もしかして本当にそうなのかもしれない。自分に助けられるものは全部助けたいとそう思っているのかもしれない。
それが果たして彼の妹の件のせいなのか、それとも生来の性格のせいなのかはザップにはわからない。けれどそのやり方はこの街では命とりだ。元々自分のことしか考えていないような連中が生きている街で、あの少年はひどく異質だ。だから。
だから蜘蛛を部屋の外に逃がしたレオを見て、嫌な感じが――――したのだ。
この『嫌な感じ』が『不安』であるということに気が付けなかったのは、ずっと無沙汰な感情だったせいだ。自分のことしか考えていない住民が多いというのはご多分に漏れず、ザップもだ。一々他人のことなんか気にかけて生きていないから、気が付くのに遅れた。いざという時誰かを蹴飛ばして生きていかなくてはいけないこの街で、あの少年はギリギリの崖っぷちのところでなんとか生きている。
「は―――――………」
やってらんね、と思いながら火を点けようとしていた葉巻をぽいと放り投げる。ベッドから下りてその辺に放り投げてあった服に着替えると、シャワールームにいる愛人に、声をかけた。
「行くわ」
そうとだけ言ったのに、「またね」と愛人はあっさりとそう言った。「………。」自分から言った癖に、こうもあっさり来られるとどことなく寂しいものがある。そう思ってちょっと二の足を踏んだザップに、愛人はおかしそうにくすくすと笑った。
「あの子のところでしょう」
「は?」
ぎょっとしてガラス越しにそう言ってしまう。
「あの子よ。不法侵入の」
素直で可愛かったわね、とおかしそうに言われて、気が付いた。そういえばあいつを愛人トラップに初めて引っ掛けたのは、彼女の――――シャローンの家だ。
「…また来るわ」
最早返事をしないことが肯定だとは思ったが、結局何を言ったところで肯定になるから無駄だと思った。女と言うのは、こういう時矢鱈と勘が働くということを、ザップは嫌という程知っている。
ええ、という声を背中に受けながら、溜息を吐いて深夜の街に繰り出した。既に深夜も深夜、東洋でいう『丑三つ時』という時間帯に当たる。バイトだと言ってはいたが、恐らくあの後輩はとっくに眠りについているはずだ。あの、硬い狭い冷たいベッドで。
正に、今までいた場所とは雲泥の差だ。
けれどこうも思った。きっと世界にあの少年がいるといないじゃ、雲泥の差なのだろう。
いなくなってから気が付いた、遅かった、とよく言う。けれどザップからすれば、レオと出会って暫く経った今でももう遅い。もっと早く気が付けばよかった。珍しくそうやって後悔した。
流石に深夜のせいで昼間よりは人通りが少ないヘルサレムズ・ロットの街並みを歩きながら、思い出す。
大して大きくもない手の平の上に乗せた蜘蛛を、窓の外に逃がしたレオナルド・ウォッチのことを。
あの少年が、本当に蟻を殺したことがあるのかないのか、最早そんなことはどうでもよくなってしまった。きっと彼が「そんなことはない」と言っているのだから、きっと本当に殺したことはあるのだろう。それが不慮のものか意図的なものかは、別として。
ただ、きっとあの少年はそれをしてしまった時にひどく嘆くのだろう。流石に彼も『一つ一つ命は平等なので』などと言うとは、ザップには思えない。けれど、誰かがどこかにいなくなってしまったとき、ザップは泣かないだろうけれどあの少年は泣くのだろう。涙を流して。
クソ、と何かに悪態を吐きながら、急ぎ足で後輩の家を目指した。とりあえず勝手に家に入ったら、勝手にベッドに潜り込んで一緒に眠ってやる。多分ベッドに入った時点でレオは悲鳴を上げるだろうが、知ったことではない。「絶交だって言ったのに」と言う癖に、翌朝後輩はザップの分も不味いコーヒーを入れてくれる。そこまで一気に予想がつく。ああやっぱりな、とザップは息を吐く。この世界にレオがいるといないじゃ、雲泥の差だ。泥の底には落ちたくないし、これからだって埋まりたくはない。多分あの少年の性格はこれからも変わることがないだろうし、ザップのこの『嫌な感じ』は恐らく地味に、嫌な感じに続く。泥の底に引きずり込もうとすしてくるのだろう。
息を切らしてアパートを見上げる。レオの部屋に明かりが灯っているのを見て、そういえば明日全休だって言ってたな、とザップはちょっと笑ってしまった。明日休みだから夜更かしをしているとは。分かり易すぎる。素直ともいうが、ザップからすれば「やっぱガキだな」という一言で終わってしまう。
どたどたと音を立てて階段を上る。レオの部屋まで、あと十五歩くらい。十歩。五歩。三歩。
鍵穴に突っ込んだ血を戻して、ドアノブに手をかける。中からばたばたという音がして、またザップは噴き出してしまった。分かり易い。
ガチャリと音を立ててドアが開いた。
「ザップさん!次やったら絶交だって俺言ったじゃないですか!」
眉を吊り上げてこっちを睨む、レオナルド・ウォッチがそこに立っている。いつの間にか息を切らしていた自分のそれを整えながら、ザップは「ぶは」と吹き出してしまった。レオの眉がぴくりと動く。
やっぱりそうだ、まさに世界は雲泥の差。そう、泥の中に沈む前に、いつもみたいにザップが吊るしてやっていればいいのだ。気が付けて良かった。これから先のことなんざ知ったこっちゃないが、今決めた。
泥の底に引きずり込まれるより先に、雲の上に吊るしておけばいい。
何笑ってるんですか、と怒った様子で言う後輩を見ながら、ザップはそう思った。
終