神の焼くクッキー
2020/07/16
出会ってからそんなに経ってない
この世には神がいるのだという。
人間と動物と植物と吸血鬼。その程度しか当時のザップ・レンフロは知らなかったけれど、それでも唐突に聞いた「神」というその単語には違和感を抱かざるを得なかった。今までそんなものに遭ったことなんてなかったからだ。
聞けば、「神」というのは何もないところから何かを作ったり、特に見返りもなく他人を救ったりもするし、かと思えば酷い目に合わせたりもする。とにかく色々なことをしているらしい。幼かったせいもあるのか、何だかよく分からなかった。あまりにも多くのことをやりすぎていて、把握しきれなかった。どうせなら無限にクッキーでも焼いててほしいね、とその時ザップは思った覚えがある。当時いた街でよく行った店で出しているクッキーが無性に美味かったからだ。子供に限るといってウエイトレスに渡されたジンジャー・クッキーは、一度だけ砂糖の塊が混じり切らず入っていて、悲鳴を上げた。
ウエイトレスに「ごめんね」と言われたけれど怒ったのは確かだ。お詫びにとその日チョコチップ・クッキーを五枚追加で渡されて、漸くザップは怒りを解いた。
その一週間後、店ごと何かに吹っ飛ばされて跡形もなくなくなってしまい、酷くザップはがっかりした。
あのクッキーが二度と食べられなくなってしまったせいなのか、それともあのポニーテールのウエイトレスに二度と会えなくなってしまったせいなのか。
普通は後者だろう。けれどおかしなことに、ザップは彼女の顔は全然覚えていなかったのに、あの時のクッキーの味だけは覚えていた。彼女が渡してくれたあのクッキーは、いつだって美味しかった。
じゃあやっぱり、クッキーの方が目当てだったのだろうか。そうなると、子供だったとはいえなんとも遣る瀬無い気持ちになった。自分のことなのに。
それこそ神なんていないと彼女の方が言うだろう。もう、声すら覚えていないのだけれど。
ジンジャー・クッキーを睨んでいるザップの隣で、後輩がフライ・ポテトを追加した。
「あ、あとこの人にもおなしゃす」
あいよ、とカウンターの中で店主が言った。「…………。」黙って後輩の皿の上にクッキーを置いたので、「あ」と後輩は呟いた。
「食わないんですか?」
「要らねえ。お前にやる」
「元々僕のなんですけどね」
肩を竦めた後輩は、「ケチャップがついてる」とちょっと不満そうに続けたものの、結局ジンジャー・クッキーをぽいと口の中に放るようにして、入れた。ばりばりとクッキーを噛み砕く後輩を横目で見たあとに、ザップはグラスを手に取って、無意味にがらがらとそれを揺らした。露がカウンターに零れ落ちる。
「ザップさんてクッキー嫌いなんですか?」
「あ?」
もぐもぐと大口を開けながらハンバーガーを頬張る後輩に、ザップは返事とも取れない返事をした。
後輩はザップを怪訝そうな顔で見た後、ハンバーガーを持ち直した。
「何怒ってんすか。機嫌悪いなあ」
「ああ?悪かねえだろ別に」
「はあ。まあいいんですけど」
煮え切らないことを言った後輩は、レオナルド・ウォッチは――――口元を紙ナプキンで拭うと、「だってザップさん、たまにクッキー見ると嫌そうな顔するから」とそう言った。その指摘に少なからず動揺する。自分では、そんなこと意識したことがなかったからだ。
ザップが動揺したのに気が付いたのか気が付かないのか、後輩は再びハンバーガーに齧りついた。すぐにまた、感服感嘆万々歳、といった表情になる。ザップこそいつも思っていたが、こういう時の後輩はまるでいつも溶けそうな顔だ。『間抜け面』とザップは評しているし、そう言ってよく罵る。
「あ〜〜美味。めっちゃ美味い…」
感動した様子でハンバーガーを食べている後輩を見て、ザップは確信する。気が付いていない。ほっとした。
別にザップが動揺したのがバレていようがいまいが、正直どっちでも構いやしないのだ。けれど今、『なぜ動揺したのか』と聞かれてもザップには答えようがなかった。自分でもどうして動揺したのか、うまく説明できる自信がない。
普段、自分で説明できないことを問われたら、大抵ザップは「知らん」とか「わかるか」とか言うし、もしくは無視するか、相手を殴るか蹴るか斬るかしてしまう。
だから今回のこれもそうすればいいのだが、どうしてかそんな気になれなかった。
後輩は、ザップの横で無邪気にハンバーガーを頬張っている。
追加のポテトの皿が目の前に並ぶ。自分が空にしたばかりの皿とグラスが下げられたので、ザップはビールをもう一杯注文した。隣に座る後輩は、「えー」となぜか不満そうに言った。
「あんだよ。別にお前の財布を頼る気はねえぞ」
「頼られても困りますよ。金ないんだから」
「俺もねえよ」
「威張るとこじゃあないでしょ」
笑ってそう言ったレオは、フライド・ポテトを二、三本程まとめてフォークで貫いた。それを見て、ザップも自分のフォークを手にしてポテトに突き刺す。そのままばくんとポテトを食らった。塩気が効いていて、美味かった。
「いやまあ、僕にはあまり関係のないことなので、良いとは思うんですけど」
後輩は回りくどくそう言った。良いならいいだろうが。そう思ったザップの横で、レオもまたポテトを齧った。
「でも酒に八つ当たりすんのって、誰でも分かる程度にはあんまりよくないでしょ」
「……………………どーいう意味だそれは」
その時自分でも気が付いた。あ、本当だ。俺はどうやら機嫌が悪い。自分で気が付くよりも先に、自分のそれに気が付いた後輩は、ザップの低い声にも全く怯まなかった。どころか、興味がなさそうにケチャップに手を伸ばしている。
「なんかあったんでしょ。でも僕が聞いたところで、ザップさん素直に言わないじゃないですか」
「…………………。」
そこで初めて後輩は拗ねたように言うと、ケチャップをポテトの横にどばどばと出した。世界的に有名なその食品メーカーの名がでかでかと書いてあるケチャップを、同じ会社のマスタードの隣に置く。その時ふと思い出したが、ザップは、この後輩がマスタードを使っているところを見たことがなかった。
レオは小さく息を吐くと、「本当はちゃんと聞きたいですけど」と言ってフォークを置いた。
「聞いたら聞いたで怒るし。いや、怒るのはいいんですけど。僕の聞き方が悪かったんでしょうから。でもそうやって友達が自分のこと殴ってるの見るのって、嫌でしょ」
少なくとも、とレオは言ってハンバーガーを手にする。「僕は嫌です」そう続けた後、後輩は再びハンバーガーを齧った。
「………………。」
ザップは黙ってフォークをぐるぐると手で回す。「危ないっすよ」レオはそう言ってちょっと背を反らした。
カウンターの中では店主が料理を作っている。ザップが頼んだビールは、いつの間にかザップのテーブルに置いてあったし、ついでに言えばレオが頼んだオリーブが二人の間には置いてあった。ピクルスにしなかっただけ褒めてやってもいい、とザップは思った。褒めないのだが。
店内に流れている曲は、ザップでしても知っているクラシックで辟易した。
「…どーでもいい話すっけどよ」
「はい」
「独り言だぞ」
「はい」
「独り言だかんな」
「分かりましたよ」
そこでちょっと後輩は笑った。それに少し、ほっとする。
「……昼間行った愛人とこで、クッキー出されたんだよ」
ザップのその返答は、どうやら予想外だったらしい。レオはちょっとだけ間を置いてから、「はあ」とふわふわした返事をした。
「それがまあ、すげー美味えの。ジンジャーとかチョコチップとかバタースカッチとかよ。色々あんだろ」
続けて言ったそれに、レオからの返事はなかった。独り言と言った癖に、無視かいと苛立ってザップはつい、隣を見てしまう。今の今までカウンターに向かって喋っていたのだ。
レオは唖然とした様子でザップを見ていた。こいつ、今の今まで俺のことを見ていたんじゃねえだろうな。そう思って少し焦る。別段焦る必要はなかったが、決まり悪さを覚えた。
「なんでそんなにクッキーに詳しいんすか。バタースカッチなんてザップさんが知ってるわけないじゃないですか」
「オイコラふざけんなよ。どういう意味だバカ」
ずい、と顔を近づけてレオを睨むと、「だって」とそこでレオは今度こそおかしそうに笑った。
「クッキーとか、嫌いじゃないんですか。甘いし」
「なんでだよ。俺嫌いっつったか?」
事務所に差し入れとしてクラウスから届けられたドーナツも、K・Kがお土産に買ってきてくれたケーキも、ギルベルトが作ってくれたシュークリームも、ザップは全てレオのものを奪って平らげてきた。どう考えても甘いものが不得手だとは思えない筈だ。
ザップの考えにすぐさま辿りついたらしいレオは「だって」と口を尖らせる。さっきから、百面相だ。
「ザップさん、俺のもんだと甘かろうが苦かろうがしょっぱかろうがすぐ奪うじゃないですか」
「そうだな」
「そうだな、じゃねえっすよ。だから」
「いやなんでだよ。だからって俺が甘いもん嫌いだとは限らねえだろ」
「え?」
そう言ってレオはきょとんとした後、少し考えるような顔になり、それからなぜか気まずそうにした。やっぱり、百面相だ。少しばかり居心地が悪そうにしたあと「まあそれはいいとして」と話題を無理矢理転換させられた。なんなんだ。ザップは不思議に思ったが、聞くより先にレオが話題を元に戻した。
「そんでそのクッキーが美味くてどうしたんすか。よかったじゃないですか」
「……まーな。不味いよりはいいよそりゃ。まあ不味くても食うけど」
「はあ。どうしてその優しさを少しでも僕に向けてくれないんですか?」
「あのな。愛人とお前を一緒にできるわけねえだろ」
べえ、と舌を出したザップの横で、レオもなぜか嫌そうな顔で舌を出した。自分で自分の言っていることに引いてしまったらしい。アホかコイツは、とザップは呆れた。自分で自分に引くようなことを言う気持ちが分からない。
「美味しいクッキーが嫌なんですか?……じゃなくて、えーと。クッキーが美味しいとなんか嫌なんですか?」
「………………。」
ちょっと目を瞠った。言われた二つは似ているようで違うし、それにレオが気が付いたことにも驚いた。ただ確かにレオはこういう感情の機微には敏いようだったし、強いて言わなくても普通の少年だった。ザップよりもザップの感情に早く気が付くことだって、今日じゃなくたって今までに散々あったのだ。
それを忌々しいと思えないことが忌々しかった。
どころかむしろちょっとだけ、ほんのちょっとだけ嬉しいような気になってしまうのだから、それがザップは忌々しい。
レオじゃなくて自分自身を忌々しいと思ってしまうことも、もう忌々しいのだ。この後輩は、ザップの感情を見つけて引っ張り出して主張することが、嫌に上手い。
「……すっっっっげー昔に」
「はい」
そこで再び『独り言』が再開したとレオは判断したらしい。お互いの間に置いてあるオリーブを一つ、フォークで突き刺した。
「…………クッキーが美味い店があったんだよ。ここじゃねえ、どっかの街で。北欧の方だったかどこだったか…忘れたけどよ」
嫌そうな声だ、と自分でも思ったが本当に嫌だったらザップは絶対に話したりしないので、本当のところは嫌だと思っていないのだろう。自分でそう思った。ややこしい。嫌じゃないならもっと軽快な様子で話せばいい。
「…別に俺もその店ばっか行ってたわけじゃねえし、大体その辺にいたのも一か月とかそこらだった気がすんだけどな。覚えてねえけど。…でもガキだったからよ。行けばクッキーくれたんだよ。そこのねーちゃんが」
「店主さんが?」
「いや。ウエイトレス」
そう言うと、ザップもオリーブにフォークを伸ばした。丸っこいオリーブにフォークを突き刺す。
「だから多分あのクッキーもあのねーちゃんが作ってたわけじゃねえんだろうな。聞いたことねえし」
「へえ〜。初恋ですか」
それを聞いて思わずむせた。隣でぎょっとした気配の後、すぐに「すいません水ください」という声がする。すぐさま手渡された水を煽るようにして飲むと、やっと一息吐いた。はあはあ、と息を吐くザップの横で、レオは怪訝そうな顔をしている。
「僕も子供の頃、幼稚園の先生とか近所のお姉さんとか好きだったんで、ザップさんもそうじゃないかと思ったんですけど」
背中を擦られながら聞いたそれに「お前と一緒にするな」とかそういうようなことをザップは言った。レオは「ひでー」と言ったものの手を止めようとはしない。こういうところも、とザップは思う。忌々しい。
忌々しい、と思えない自分が忌々しいのである。
「大体お前、今でもガキじゃねえか。何が子供の頃だよ」
「はいはいそうですそうです子供ですよ。てゆか、そこはいいんですって」
おざなりに流されてしまったそれに「けっ」と小さく悪態を吐いた。
目から鱗とでもいうのか。初恋という概念にすら、今の今まで思い至ったことがなかった。確かに、幼いザップはあの店を通りがかるたびに扉を開いていたが、彼女が目当てではなくクッキーが目当てだったきらいがある。何かを注文した折に出されるクッキーが一番美味いと思っていたのだ。だから―――初恋というなら彼女ではなく、むしろあの店のクッキーだ。
反対から考えるなら、つまりそれは初恋じゃなかったということになるのだが。
そのくらい、あの店のクッキーは美味かったのだ。今でも覚えているくらい。
息を整えたあと、「んでまあ」とザップは言ってから途端に物凄く馬鹿馬鹿しくなった。なんだこの話。らしくもねえ。
そう思ってザップは「その店が俺が通いだしてから一か月後くれーになんかで吹っ飛ばされてなくなったんだよ。中の店員ごと。んで神なんざいねえんだなバカ、っつー話。終わり」と一気に言った。
直後にポテトを思いきり突き刺した。数本を一気に刺して一気に口に入れる。ケチャップがない方が、ザップは好きだった。
「…………あ〜…その、それは」
隣からは戸惑いと、申し訳なさがまじりあった声でそう反応があった。悲しそうな声を聞いて、なんでだよとザップは言いたくなる。お前が悲しがることじゃねえだろうが。そういうのは、一番ザップが苦手とするところだった。
「その、ええと。すいま、」
「お前が聞いといてお前が謝んなバカ。俺も言いたくなきゃ言わねえっつの」
そう言った自分にもちょっと嫌気が差した。誰かに対して、フォローなんて一生涯入れることない、と思っていたのに。
「…そっかぁ。んじゃ嫌ですね。クッキーが美味しいと」
しみじみとそう言ったレオに、ザップは思わず言ってしまう。「嫌じゃねえよ。クッキーがまじー方が嫌だろ」
それは真実だったし、嘘じゃなかった。別にクッキーが美味いからと言って、ザップは一々あの店で出されたクッキーを思い出すことはない。当然、忘れたわけじゃないから思い出すことだってままあったが、かと言って全世界にあるクッキーを不味くしろだなんて思ってすらいない。美味い方がいいに決まっていた。
そう言うと、レオはそれでも「はあ」と困ったような声で言った。困ったような、というかもう困っている。どういう返事をすればいいのか、悩んでいるようだった。普通の反応だ。
普通の少年なので、それはそうだろうとザップも思う。特にこの少年は、絵に描いたような普通の少年だった。
「………神がいるとかいうだろ」
「え?」
途端に全然違うことを言いだしたせいか、レオは驚いたらしい。明らかに今までとトーンが違う声を聞いて、ザップはグラスを手にしながら隣を見る。
レオはハンバーガーもフォークも手にしていなかった。両手は膝をぎゅっと握っていて、服に皺が寄っていた。
「…………、………。」
それを見て戸惑う。「神様ですか?」そう言われて、はっとした。なぜレオが膝を握っていたからといってザップが戸惑うのか、自分でもわからなかった。
「…あー、えーと。ああそう。神だよ神。なんか色々作ったとか破壊したとかいるだろ」
「どの神なんすかそれ。神つっても色々いるでしょ」
苦笑交じりにそう言ったレオは、そこでやっとグラスを手にした。それを見て、なぜかザップはほっとした。
「なんでもいいんだよ。どーせいるなら美味えクッキーを焼く神とかよ。そーいうのが欲しくねーか」
「へ?」
流石にそれは予想していなかったらしい。グラスを持ったままのレオの手が止ぴたりと止められた。
「だってよ。俺が好きなクッキー出す店をどうにもしてくんねーわけじゃん。んじゃ俺に美味えクッキー焼けっつう話」
「全然わけわかんないっす」
てゆか、とレオはそこで眉を下げた。「普通そこ、店を救えって言うべきでしょ」「だから」「は?」だから、というそれにレオは益々困惑したらしい。ザップはグラスを傾けた。
「神なんぞいねえんだなって思ったんだよ。そん時」
「…………………。」
レオは結局、グラスを持った手を再び元に戻した。手つかずの中身を保ったまま、グラスが再びテーブルに置かれる。
別に、文句を言うつもりはなかった。神にあの店を救って欲しかったとか、本気で美味いクッキーを焼けよとか思ったわけではない。神もそんなことを言われたら迷惑だろうと思う。
ただ、あの店が無くなったことによって、あのジンジャー・クッキーは二度と食えなくなった。
それにザップはどうしようもなくムカついたのだ。
そんなことがまかり通ってしまう世界にムカついた。
レオはちょっと黙っていたが、カウンターの奥に呼び掛けた。「すいません。ブルーベリータルトひとつ」それに「はいよ」という返事があった。
「ザップさんは?ケーキ」
今の今までのことを全然気にしてもいない様子で、レオは首を傾げた。「…要らん」ポテトを咥えたままそう言ったザップに「はい」とレオは言う。その声を聞いて、肘をつきながらザップは隣に座る後輩を横目で見た。
伏し目がちに座っている後輩が手を伸ばした。ケチャップではなくマスタードであることに驚きを覚え、けれど直後に気が付いた。
「おい。それマスタードだろ」
「え?……あっ」
ほんとだ、とレオは慌ててマスタードを元に戻して、入れ代わるようにケチャップを手にする。ポテトの小山の隣にあったケチャップは、いつの間にか少なくなっていた。
黙っている間に店内のBGMが切り替わった。クラシックが、やっぱりまた有名なクラシックへ。辟易する。
「………なんっでお前が動揺すんだよ。暗いわ。いつもぎゃーぎゃーうるせえんだからこーいう時も煩くしろよ」
「無茶苦茶言わないでください。流石に俺だって気ぃ使いますよそれは」
軽く頭を小突いたせいか、レオは嫌そうにザップの手を退けた。「…でも、クッキーが嫌いってわけじゃないんですね」「そこでクッキーを嫌いになんのはおかしーだろ。だいたい、」そこまで言ってグラスを手にする。なるほどこういうのを自棄酒というのは、分からなくもなかった。
「クッキーだって好きで俺に好かれたわけじゃねえだろうが」
「あ」
途端にレオがそう呟いたので、「なんだ」という気になって手を止める。ビールを飲み損ねた。
「なんだ。好きなんですか」
「は?」
「クッキー」
「………………、」
自分で自分が言ったことに、今更気が付く。『クッキーだって好きで俺に好かれたわけじゃ』と一気に言ったことを、すぐに反芻できた。
のろのろとレオを見ると、「よかった」とレオはほっとしたように言って、笑った。
「…なにが」
「や、それでクッキーが嫌いになったのかなって思ったんすよ。でも、そうじゃないならよかったです」
「………何がいいんだよ。別に何もよくはねえだろ」
そう言って肩を竦める。今度こそとばかりにビールをごくごくと飲んだ。
「いいでしょ。クッキーって大抵は美味いんだし。嫌いより好きな方が、得じゃないですか」「得だあ?」そういう問題かよ、と思ってグラスを置いた。店員がちらりとこちらを見たが、ザップは手を振る。追加で飲みたい気分ではなかった。
「だって今日食ったクッキーだって美味かったんでしょ?」
確かに言われた通り、愛人が出してくれたクッキーは美味かった。味は―――美味かった、ということしか思い出せなかったが。昔食べたあのクッキーの味は、鮮烈なまでに思い出せるのに、今朝食べたばかりのクッキーの味は思い出せなかった。
「……美味かったよ」
そうぼそぼそと呟くようにして言うと、「じゃあ」とレオはなぜかそこで苦笑した。
「よかったんじゃないですか。好きなもん食ったら美味かったっつーことで」
「………………………。」
黙ってしまう。発言の意図が分からなかったせいだ。
それをどう解釈したのか、レオは「ええと」ととても困ったように続けた。言葉を選んでいるらしい。
「その、僕今まで身近にヴァンパイア・ハンターがいなかったので」
聞こえようによっては物凄くふざけた言い方だったし、ザップ達の職業を知った今でも、物凄くふざけた言い方だったように思える。けれどザップは突っ込まなかった。たぶん、レオはふざけていない。
「…あんまり…何て言うんですか。そっちの業界の厳しさとか、怖さとか、まだ全然、わかんないんで。どの辺が普通なのかとか、どの辺までが知っていいとこなのかとか。多分、僕に言ってないことだってたくさんあるんでしょうし」
それはそうだろう、とザップも思う。ただ、レオに知らせていない情報があるのは、レオに危険が及ばないようにするためだとも知っている。多分、レオだってそれくらいは分かっているのだ。
大体、レオどころかザップにだって下りてきていない情報だって山ほどあるに決まっている。情報というのは、氾濫させることと秘匿させることで全く同じ意味を持つことがあるから、やむを得ない。
「…だからその、…こう、人が移動したとか、空が晴れたとか、AがBした、みたいなことしか言えないので、…言い訳ですけど。でもぶっちゃけて言うと俺、ザップさんがクッキーを嫌ってたら、それはそれでなんか、悲しいなって思うし」
「…………俺がクッキー嫌いで何でオメーが悲しいんだよ。関係ねえだろ」
そう言った後間が起きた。
「………………。」
自分で言っておいてなんだったが、なぜかザップはそこで隣が見られなくなった。一体何が引き金だったのか、うまく説明はできなかったが、自分自身で言ったことに何らかの違和感を覚えている。何か――――、
言わなくてもいいようなことを言ってしまったような気がした。
「……関係ないことないでしょ」
「え」
はっとする。大して時間は流れていなかったろうが、気が付けばレオの皿のポテトはきれいになくなっていた。
対してザップの皿には、まだポテトが山ほど積まれている。
「だから、関係ないことないでしょ。友達なんだから」
そうきっぱりと言った後、レオは拗ねたように「ポテトもう一皿」とカウンターの奥に向けて言った。ぼーっとしながらそれを聞いていたザップは、慌てて「キャンセル!」と店員に告げる。レオが眉間に皺を寄せた。
「なんすか」
「自分で言ってたじゃねえか。ポテトに八つ当たりすんなよ」
「…………………、」
虚を突かれたような顔をされた。けれどザップも自分でぎょっとする。それは今日、本当についさっき、レオにザップが言われたことと非常によく似ていた。
――――酒に八つ当たりすんのって、誰でも分かる程度にはあんまりよくないでしょ。
「……………ほら」
レオが黙っていたので、ザップは自分の皿をずいとレオの方に押し出した。「……やる」ついでにケチャップもレオの方に押し出す。オリーブが入った皿を、反対に自分の方へと引き寄せた。
それからお互いなぜか無言になってしまった。ケンカをしたような空気でもなく、かと言って黙っていておかしくない雰囲気でもなく、強いて言わずとも『気まずい』とお互いに思っていたのは想像に難くない。
そうこうしている間に、レオが頼んでいたブルーベリー・タルトが運ばれてきた。どうも、と言いながらレオがタルトを受け取っている。
「……あの」
そこでレオが言った。なんだ、と返事をせず横を見たザップだったが、どうやらレオはザップではなく店員に話しかけている。返事をしなくてよかった、と心底ほっとした。
「クッキーあります?店来た時出してくれたやつ」
しかしその声にぎょっとしてしまう。店員は「ありますよ」と言ってすぐ厨房に引っ込んでいった。
「……………レオ」
暫くぶりに口を利いた気がするが、多分そんなことはない。お互いに黙っていたのは、きっと十分にも満たない短い時間だったはずだ。
レオは「なんですか」とタルトにフォークを突き刺しながら、そう言った。
その声がまだ拗ねている。それを聞いて、思わず吹き出してしまった。
「……俺は怒ってるんですよ」
拗ねたままレオがそう言ったので「わりーわりー」と笑いながら謝ってしまう。ばしばしとレオの背中を叩いたせいか、「痛い」とレオは顔を顰めて文句を言った。
他人に拗ねられて嬉しいと思ったのは、多分、初めてだった。
クッキーは五枚運ばれてきたので、ザップは二枚貰ってレオに三枚を渡した。いいのかと驚愕に目を見開かれてしまい、久々に見たレオの青い目に少し驚いてしまう。後輩の目は、義眼のせいなのかそれとも元々そうなのか、星屑が散っているみたいにきれいだった。今はまだ、ザップには後輩の本当の目がどういう色をしていたのか、どのくらい透き通っていたのか、それとも濃い色をしていたのか、それすら知る手段はない。
「いーよ。大体俺はもう今朝食ったんだしよ」
「そりゃどうも。俺ジンジャークッキー好きなんですよね」
それを聞いて手を止めた。「?」何かまずったか、とでも言いたげな顔をしたレオに「なんでもねえよ」とザップはぶっきらぼうにそう言った。ついでにデコピンすると「痛い」とレオはまた呻いた。
隣でむしゃむしゃとクッキーを頬張る後輩を見ながら、カウンターの中に言う。「おっさん。ビール」あいよ、という声がしたけれど、今度はレオは何も言わなかった。クッキーに夢中なせいかもしれない、と思ってそっと隣を見る。
レオもなぜかこっちを見ていたので、当然のように目が合った。ぎょっとしてしまうが、どうやらそれはレオも同じらしい。「むぐ」と呻いて慌てたように、食いかけのクッキーを皿に置いた。
半分以下になったジンジャー・クッキーに手を伸ばす。「あ」と言いたげな顔をしていたレオは、けれども水を飲んでいる最中だったからか、何も言わなかった。言えなかった、というのが正しいか。
クッキーを口に放り込んだ。ごくごくと水を飲んでいるレオから、非難気な視線を感じてしまう。それに笑いながら、ザップは呟いた。
「祈ったらどーだ。美味いクッキーを焼いてくださいってよ」
それを聞いてだろう。レオはグラスをテーブルに置くと、ごしごしと口元を拭う。
「祈ったってしゃーないでしょ。いないんだから」
そう言ったレオは、肩を竦めて二枚目のクッキーを手に取った。それもそうだ。カウンターの奥から運ばれてきたビールを受け取って、ザップはまた笑ってしまった。クッキーは、まだ皿の上に二枚残っている。
終
蛇足
途中レオくんが気まずそうにしてるのは、何となく「ザップさんって甘いもん嫌いなんだろうな」というイメージを抱いていたからです。
抱いていたことを気付かされて何となく気まずくなった感じです。
他人にあまり先入観持ってない子だと思うのですが、ザップさんに対してだけぼやっとした何かがあってほしいなという私の願望です。