時刻表通りには進まない
2016/11/23→2020/05/09 rewrite
予期せぬ出来事が起きた時、大抵の人間がそうであるように、レオナルド・ウォッチもそうだった。
抱き締められたせいなのか、それとも「好きだ」と言われた状況に脳と身体がついていかないのか、どちらなのかは、今となってはさっぱりわからない。
ただしその日、レオは好きな人を手に入れた。
ドーナツを齧りながら、何とはなしに窓の外を見つめる。
この不可思議な街は毎日霧に覆われているが、日によってその濃度は異なる。『永遠の虚』に近付く度に濃くなっていく霧は、このヘルサレムズ・ロットの象徴でもあった。
「…人間って順応性高いよなあ……」
自分のことを棚に上げてそう呟いた時だ。ただいま、という声が聞こえた。
「お帰りなさい」ソファの背凭れに手を置きながら事務所の入り口を振り返る。目当ての人物がそこに立っていた。
「おー」
お前もう帰ってたんか、と言いながら、まっすぐこちらに先輩が歩いてきた。
「帰ってました。ザップさんそっちどーでした」
「どーもこーもねえわ。もうとっくにどっかに飛んでた」
「ああ」
ですか、と言って眉を下げたレオの手にあるドーナツを見て、先輩の――――ザップ・レンフロは怪訝そうな顔をした。
「お前とっくに飯食ったじゃねえか」
「…クラウスさんがお土産だってくれたんですよ」
まさにその通り、とちょっとレオも言い淀んでしまう。確かに昼飯はきちんと食べていた。
一方ザップは、返答を聞いて口を尖らせた。
「ずりーよ。何でお前ばっか」
膨れてそう言ったザップに、俺ばっかってことはないでしょ、とレオは苦笑してしまう。特段ドーナツが好きな訳でもないのにそう言うのだから、ドーナツだって可哀相だ。平たく言えばがめつい。平たく言わなくても、がめつい。
「何笑ってんだテメーは」その声と一緒に、ドーナツを持つレオの手が引かれる。「あ」
当然、レオはすぐにその意図を察する。強奪だ。
(……ちゅーかいつもこの人俺のものばっか奪うよな)
自分で食いたいなら買やいーのに。それでいて全部あげようとすると、そんなに好きじゃない、とかわけわかんないこと言うし。そんなに好きじゃないなら奪う必要ないじゃんか。今日の昼だってそーだったし、とつい二時間ほど前に一緒に取った昼食のことを回想した。
「……………。」
しかしザップは、突然途中で自分の手をぴたりと止め、それから珍しく何事か考え込むような表情になった。
「?」
どうしたんだ、とレオが怪訝な顔をした直後、もう一回腕は引っ張られた。「わっ…」背凭れを挟んで先輩と向き合っている状態だ。当然、そのままだと背凭れの向こう側に落下する。ソファから落ちないように、慌てて左手で背凭れを掴んだ。大して高さは無いとはいえ、落ちたら痛い。
「ちょ、っとザップさん、危な――――」抗議しようと顔を上げる。
そしてレオが止める間もなく、口の隣が先輩の舌で舐められた。
「――――、―――っ、ぎゃあ!?」
その感覚はきっと、レオじゃないと説明ができない。
この男はレオに触る時、色々な触り方をする。変に丁寧だったり、常日頃のように乱暴だったり、戦闘中のように雑だったり、それからたまにレオもびっくりするくらい、優しい時がある。
その基準が一体どういうものなのか、レオにはさっぱりわからないけれど、基本的には乱雑だ。だからこそ余計、優しい時は緊張する。彼が一体何を考えているのか、わからなくなるからだ。
自分も大概だと思うことは多かったが、ザップだってそうだ。お互い、素直じゃないせいなのか、大事なことは口にしない。好きだからといって以心伝心であるということは全くなく、むしろそういう面での意思疎通は互いに苦手分野だった。
だからこそ、言うべきなのに。言わなきゃわからないことだらけなのだから。
今のザップの舌は、まるでレオの口を削ぐような勢いだった。優しさは微塵もないが、けれどそのくらいの方がレオにとっては楽だったりする。「な、ななな」口を押さえてそう叫んだレオを見下ろした後、先輩はおかしそうに笑った。
「食うのが下手過ぎんだよ。お前は」
「今のは食い終わった後に、」
レオの抗議は、すぐさま唇にされたキスのせいで中断された。キスというより、口に軽く噛み付かれた感じがする。「う、」ドーナツの気持ちがわかる気がした。
呻きながら、慌てて目を瞑る。いまだ掴まれている手が熱くなってきたことに気が付いて、自分の身体が恨めしくなる。いつもこうだ。
「………。」
口が離れた後、そっと目を開けると、ザップはじっとレオのことを見つめていたから非常に困った。
「…あ、あのう。なんすか」
「……なんっか慣れてきたなお前も」
「な―――慣れてねえっすよ」
だから突然はやめてくださいよ、と俯いたレオの手がまた引っ張られたので、慌てて顔を上げる。たぶん今、自分の顔は真っ赤だろうから、顔を見られるのは嫌だったのだけれども。
そして今度こそというかのように、ザップはレオの食べかけのドーナツを齧った。
「………うえー。あめえ」
「……………。」
最初に予想していたことをされただけなのに、なぜかレオは口が利けなくなってしまった。そこで漸くザップは調査内容を報告するためだろう、すたすたと執務室の方に歩いて行く。
手が解放された瞬間、レオの時間は漸く動き出した。溜息を吐いて背凭れに額をくっ付けると、身体の力が抜けていったのがありありと分かった。
「……………あ〜〜〜………」
何だよあれ、と言いたかったが言う相手もいないので、脳内で叫ぶに留めた。
独り言でも構わなかったが、どうせ文句を言うなら直接言いたい。
大体二週間ほど前、レオはあの先輩と付き合うことになった。
レオはレオで元々彼が好きだったのだが、どうやらあちらもそうだったらしい。好きだと突然言われてレオは硬直してしまった。両思いという言葉を使うのは物凄く抵抗があったが、ともかくその可能性を考えてすらいなかったし、大体、レオは一生涯この気持ちを彼に伝えるつもりがなかったせいだ。
だから返事をするまで二日ばかり時間を要した。
考えさせて下さい、と絞り出すような声で言ったレオのことを見下ろして、ザップは不思議そうな顔になった。何を考えるんだよ、と言われたがレオはそれには答えず、ともかく待ってくれとだけ繰り返し、言った。
二日間考えた。
妹のことだとか、義眼のことだとか、仕事のことだとか、それから故郷のことだとか。
自分の気持ちのことだとか。
ザップを好きであることは事実だ。けれど、だからと言って、互いの気持ちが同じだからといって、一朝一夕に決めていい問題ではないとレオは思ったし、何より自分の眼のこともあった。だから、レオはどうしてもすぐに返事ができなかった。
そして二日目の夜、まだレオが返事を決めかねている最中だと言うのに、ザップがレオの家にやって来た。寝かせろよと言われて呆気に取られたレオは、けれども素直に彼を自宅に入れた。ベッドの上でいつもの如くだらだらと寝転がっているザップを見て、あのうとレオは恐る恐る話しかけた。
――――俺まだ返事できないですけど。
――――マジかよ早ようせい。この俺を焦らすなんざ百万年はえーよ。
――――…………。
ふざけた言い方に困惑した。なんだかレオがどっちの返事をしてもいいように聞こえたからだ。だから思わず、レオは困惑したままザップに聞いてしまった。
――――俺がもし断ったらどうするんですか。
そうぽつりと言うと、ああ?とザップは眠いせいか非常に機嫌が悪そうな様子で、そう返事をした。それでもレオは引かなかった。そんなに簡単に引けるような問題じゃなかった。
――――…そん時はそん時だよ。暫くおめえの顔見ねーかもしんねーけどそこはお前が空気を読めよ。
――――顔?
――――そーだよ。億が一フラれたとしても俺お前が好きだから、
だからたぶん暫くお前の顔見てたらつれーじゃん、とザップは一気に言うと眠そうな顔で欠伸をした。もう寝るわ、と言われて慌ててレオは立ち上がり、ベッドの上に乗る。おわ、と既に寝そべっているザップは驚いた声を上げた。
なんだよ、と言われる前にレオは口を開いた。
――――でも、…でも俺、…俺だってザップさんが好きだけど、
――――ん?
マジで?と言いながらそこでザップはがば、と思い切り起き上がった。マジかよと驚きと喜びが一緒くたになったような声を聞きながら、レオは徐々に顔を俯かせる。でも、と小さく言った後逡巡したが、結局レオはそれを言った。
―――でも一番にはできません。俺の一番は一生、ミシェーラです。
そう言った後恐る恐る顔を上げた。怒られるかな。それとも、そんじゃいーわとか、言われちゃうんだろうか。そう思っていたレオだったが、ザップは明らかに呆れた表情をしてレオを見ていた。
――――あんだよそんなことかよ。
――――そ、そんなことってアンタ。
――――別におめえがミシェーラちゃんを一番にしてることを言ってるんじゃねえよ。別にいーよそんで。
――――べ、べつに?
いいの?と子供っぽい口調で言いながらシーツを握り締めたレオを見て、いいよとザップは眠そうに言うとまた欠伸をした。既に時刻は日付が変わる頃合だったのだ。
――――…てゆか俺は、
そういうお前だから好きになったんだけど、とザップはまた呆れたように続けた。ぽかんとしてしまったレオを見て、そんでよ、と言いながら首を傾げる。
――――お前俺のもんになんの?なんねーの?どっちだよ。
――――え。あ、ええと。………な、なりたいです。
僅か混乱したまま、早口で言ってしまったレオを見て、ザップは黙っていた。レオは口を衝いて出たそれにはっとして、あ、いやええと、と訳の分からないことを呟いた。否定するつもりはなかったが、つまり照れたのだ。話の流れについていけていない。
レオがわたわたとしている間に、ザップはゆっくりと口を開いた。
――――…なるじゃなくて、
――――え?
なりてーときたか、とそこで先輩は嬉しそうに笑うと、レオの頭に手を伸ばしてぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でた。あたたたた、と呻き始めたレオの腕が引っ張られて思い切り抱き締められる。悲鳴を上げるよりも、痛いと文句を言うよりも、ザップの身体が矢鱈と熱いことに気が付いてレオはごくんと唾を飲み込んだ。同時に自分の身体も熱いということに気が付く。いつの間に、と驚愕する暇もない。
触れられている背中も、腰も、それから自分が顎を乗せている肩だって何もかもが熱い。
―――――そんじゃ俺のもんにしてやるよ。
そう言ったザップの声はやっぱりひどく嬉しそうで、レオは益々顔を赤くした。まるで好きだと言われた時以上に、好意を露わにされているような気がしたからだ。
今に至っても、正直レオはこの状況が信じられない。ふわふわしている。雲の上を歩いたことは無論ないが、たとえて言うならそんな感じだ。足場がしっかりしていない。酔っているような気分に近い。建設中の地面を千鳥足で歩いているような、危ない状況であることこの上なかった。
「レオ」
報告が終わったのだろう。ザップが執務室から戻って来た。
「え、あ、はい?」
なんすかと言いながら残りのドーナツを無理矢理飲み込んだレオの横に、ザップが乱暴に腰掛ける。ソファは悲鳴を上げたがザップはそれを無視して、もー帰っていいってよ、と言いながら今度はレオの肩を引っ張った。
「わっ」
痛い、と文句を言う前にまた口の横が舐められて思わず目を瞑る。性懲りもなくびくりと震えた身体は先輩の手に掴まれたまま、解放されなかった。
「…おめえホンット食うの下手だな。何食ったかすぐわかんぞ」
「え?あ?そ、そいじゃちょっと鏡見て………」
「来なくていーって」
きっぱりとそう言われた後にまた口の横が舐められた。「わっ!?ちょ、ちょちょちょいいっすよ!やめ、てやめてやめて!ここは事務、」「うるさい」「ぐ、」結局今度は口が塞がれて、何も言えなくなった。
(…………この人結構接触するの好きなんだなー…)
頭の中ではちゃんとそうやって冷静に考えている自分がいるのだ。けれど、現実の自分はなぜかそれすら言えず、どころか口も利けなくなり、文句を言っても無駄だということしか学んでいない。けれど本気で嫌だったらそう言えるのだから、レオだって満更でもないのだ。そこまで考えて、レオは自分に辟易した。−――やっぱり、どう考えても、どう贔屓目に見ても。
(………浮かれてる…)
大体二、三分そうやっていたのだと思う。口が離れた後、ぐったりとレオが息を吐いた音にザップはへらへら機嫌よさそうに笑った。
「……何すかその顔は…」
アホみたいですよ、と言おうとしたが、その前にまたおまけとばかりにキスされたので硬直した。状況に追いつけていない。ちゅっと言う音の後にやっとそれに気が付いて、レオは慌てて両手で口を押さえる。
「だ、ちょ、だからザップさん、ここは事務所で」
「誰もいねーじゃん」
「いやそーいう問題じゃねーから」
言い合っているその時だった。がちゃりという音と一緒に執務室から上司が二人とも顔を出したので、レオは慌ててザップから這いずるように離れる。ザップは明らかにムカついた顔をしたが、どうも、と上司の方に顔を向けた。クラウス・V・ラインヘルツとスティーブン・A・スターフェイズの二名がそこに立っている。
「ん?ああなんだ少年。残ってたのか」
「すまないザップ。先ほどの件で今一度確かめたいのだが」
確かめるも何も変わんねえって、とザップはソファから立ち上がり、上司二人の許に向かっていく。
「…………。」
一方レオは顔に残っている熱を引かせようと手で頬を軽く叩き、それから袖で口を押さえた。これは、余りどころか、さっぱり意味はない。熱は引かない。
ちらりとザップの方を見てみたが、いつもと全く遜色ない態度で上司と会話していた。いいですね余裕で、とレオはそんな彼をちょっと恨めしく思いながら、ふうと一回、息を吐いた。
結局その日、今調べている案件は殆ど前に進まなかった。そもそも情報が巷間に流れていないし、詳細を知っていると思われる人物はなぜか殆ど舞台から姿を消している。しかもそれが意味深な消え方ばかりだったので、誰かが邪魔をしているのは明らかだった。どうにもきな臭いな、と言ったスティーブンの表情は歪んでいて、いたく億劫そうだった。
「…見つかりませんでしたね」
「まあこの感じじゃどこ探っても無駄だな。どっか別筋から辿んねーと一生無理だわ」
そういうもんなんすか、と言ったレオにそーいうもんだよ、とザップはおざなりに返事をする。そしてすぐ、ウインカーを出した。「あ。マジで送ってくれるんですか?」「あとでガソリン代払えよ」善処します、と言って笑ったレオの声はちゃんとザップに届いたらしい。
「コラ。せめて愛してます先輩、くれー言えよ」
ふざけた返答がやってきて、レオは笑ってしまった。「はいはい。愛してます愛してます」「雑なやっちゃのー」ザップさんに言われたかないですよ、とレオが言う前に、ザップが口を開いた。
「んじゃ店前横づけすっかんな。すぐ降りろよ」
切符切られたらお前が払え、と言われてレオは嫌です、と笑って返事をした。
今日は遅番のバイトが入っていて、事務所から直で行く予定だった。
――――が、信じがたいことに、ザップがレオをバイト先まで送ってきてくれていた。絶対にそんなことしてくれるような男じゃなかったから、レオは物凄く驚いてしまった。ひどい言い草だったが、レオの中でザップという男はそういう男なのだ。
店に着いてから、どもっす、と言ってスクーターの後ろから降りる。カチカチというウインカーの音を耳にしながら、レオはリュックをちゃんと背負い直し、はい、とザップにポケットの中の鍵を手渡した。ザップはきょとんとしてそれを受け取ると、何じゃこりゃと言いながらわざわざゴーグルを外した。
「鍵っすけど。俺の家の」
「そりゃわかるけどよ。何で今寄越したんだよ」
「?だって俺の家にいるんでしょ?」
そう言った後首を傾げると、ザップはきょとんとしたままへ?とそう言った。「俺んなこと言ったっけ?」「え?」そう言ってあれ?とレオは考える。
―――そんなこと――――言ったっけ?言ったような?言った―――言ってない?あれ?
混乱した頭で、今からの時系列を朝まで逆戻しして考える。
言って――――言った―――いや―――言ってない。
言ってないじゃん。
「…………………い」
言ってませんでした、とレオは引き攣った声で言うと、ザップの手にある鍵に再度手を伸ばした。
冷却された脳をフル回転させると、どうやらレオは家に帰ったらザップがいることが当然だと思っていた、らしい。何でそんな思考になってしまったのか、自分でもさっぱり分からなかったが、なぜかレオの脳はそう図面を引いた。結果として鍵を渡したのだろう。浮かれていることこの上ない。
レオが伸ばした手は、鍵にまで届かなかった。
「え」
鍵を掴むはずだったレオの手は、反対にしっかりとザップの手に掴まれた。はっとする間もない。気が付いた時には、先輩の灰色の眼がレオのことをじっと見つめていた。
「―――――あ、」
唐突にキスされる時、大抵レオは文句を言う。いきなりするのはやめてください、と何度言ったのか覚えてない。するとザップは口を尖らせて、やはりこちらも大抵同じことを言う。そんじゃいきなりじゃなきゃいーのかよ。
そりゃ心の準備ができてれば俺だって、全然大丈夫ですよ。
そう言ったのは一体どのくらい前なのだろう。あの時別に、レオは嘘なんか吐いたつもりはなかったし、実際にそうするつもりだった。
――――何が全然大丈夫なんだ。
目をぎゅうと瞑りながら、握られている手首を意識しながら、そして自分の耳が徐々に周囲の音をシャットアウトしていることを意識しながら、レオはそう思った。
こうしていることが全然大丈夫なんてそんなこと。
きっとこの人とこの世界に立っている以上、起こり得るわけない。
「………、」
口が離れた後、なんとかザップの肩を押そうとしたが、当のザップはそれを無視してもう一回レオの口に噛みついてきた。当たり前だが、レオは更に焦る。それしかできない。心臓がまるでロックミュージックのそれみたいに早鐘を打ち始め、瞑り過ぎた眼は地味に痛い。噛み付かれた割に先輩の唇は、レオのことを愛おしむみたいに軽くキスを繰り返してきたので、益々困った。
唇が離れたあと、漸く周りの音が自分の耳に入ってくる。
「……上がり何時だ」
静かに言われたその声が、レオの耳に侵入してきた。いつもこうだ、と思う余裕すらその時はなかった。低くもない、いつもみたいに乱暴じゃない声を出す時のこの人はずるい、とレオは思う。
レオから全部奪っていくからだ。
「………、……じゅ、…じゅうじ…」
息も絶え絶えに紡ぎ出したその声は震えていたし、それはレオの手も同様で、身体全体が酷く落ち着かなかった。十時です、とも十時ですよ、とも言えなかったのがその証拠と言える。辛うじてたどり着いたのは、『十時』というその単語だけだった。
「……………んじゃ今日は素面で待っててやるよ」
飲もうと思ってたんだけどな、とザップは不満を不満じゃない口調でそう言うと、笑ってまたゴーグルをつけた。レオの家の鍵がポケットに滑り込むのを目にしながら、レオはぼーっと先輩のことを見つめる。心臓はまだどこぞのロック・ミュージシャンのバックバンドを性懲りもなく続けていた。
「…あとでな」
そう言ってザップは笑うとスクーターを発車させた。「…………。」エンジン音と一緒に車の群れの中に混じっていく彼の愛車を見ながら、レオは意味もなく手をひらひらと振る。そして完全にランブレッタが車の洪水に巻き込まれていった後、よろよろとその場にしゃがみ込んでしまった。
「……………あ〜〜〜〜〜………」
クソ、と意味不明な悪態を吐いて頭を抱えたあと、一分後に漸くレオは立ち上がる。自分自身を殴りたい気分だった。
理由は一つ。緊張していても、胃が痛くなるほどの混乱に巻き込まれても、身体がどんなに熱くなっても。
彼のことが好きだという気持ちが真っ先に出てくるからだ。
おはようございますと言いながら店のバックヤードに入ったあと、おまえ顔真っ赤だぞ、と不審げな顔で開口一番同僚に言われたことだとか。
ピザの注文を受けながら、そーいえばこのピザザップさん好きだったなあと考えてしまったことだとか。
お疲れ様ですと言った自分の声がいやに弾んでいたことだとか。
そういう諸々はあったものの、レオは電車に飛び乗るように乗り込んで、それから自宅に向かった。
「…………マジで待ってるのかなぁ」
そう呟いて空いている車内の天井を見つめる。というよりも、本当にザップがレオの家にいるのかどうかも謎である。いないとレオは家に入れないから困ってしまうのだが。
「……………はー…」
なんだかずっと熱が出てるみたいだ、とレオは思いながら目を瞑った。
ザップさん起きてるかなぁ、とまた同じことを思ったことは覚えている。
年上だからだとか、こういうことに慣れているせいだとか、いろいろと理由はあると思う。そういう余裕は自分に一生縁が無いのだろう。レオはよく、そう思う。
手を繋いだり、一緒にどこかに出かけたり、お互いの家に行ったり、というのがレオが考えている一般的な付き合い方だったから、今の状況はそれらを全てすっ飛ばしている。何しろこうなったその日には、もうレオはザップと一緒にベッドの中にいた。何度キスされたか覚えてないし、いやに浮かれていたらしいザップには好きだと何回も言われてレオは死ぬかと思った。もう何度も聞きました、とレオが言ったにも関わらず、知らんとザップはやっぱりそう言って、矢鱈嬉しそうにレオを抱き締めてきたので益々困った。そんなことをする人だと思っていなかった。しかし流石に翌朝になってからザップは暫くレオの顔を見ようとしなかったので、どうやらテンションが高かっただけらしい。酔ってたみたいだったしなあ、とレオもそれに触れはしなかった。レオだって彼と同じ気分だったので都合がよかった。微妙にぎくしゃくしながらの朝はすぐに終わり、昼頃には二人ともいつもと全く同じに戻っていたのだが。
ぎくしゃくしている時間が勿体ない。
その時のレオがそう思っていたわけじゃない。あとからふと、そうだったということに気が付いたのだ。別に時間がないとか、そういう訳じゃないのに。
だからもう、思考まで熱に浮かされていると言っていい。
知らない自分に作り変えられたみたいに。
「…………、ん…」
眼が覚めてふわあと欠伸をする。寝てしまった、ということに気が付いて、慌てて抱えているリュックを確かめる。財布もスマートフォンも無事だったのでほっとした。
「てゆかやっべ乗り過ごし、……て、…ない………、………ん?」
駅に着いたから目を覚ましたのかと思いきや、違った。レオの眼前には、眠る前に見ていた車内の光景ではなく、暗黒が広がっていた。
「…………宇宙?」
益体もないことを呟いて、慌てて後ろを振り返る。そこにはついさっき座った座席と全く遜色ないものがあって、しかも長椅子だったからずらりと横に伸びていた。ただしなぜか吊り輪はない。
「………………。」
どういうことだ、と焦りながらゴーグルを装着する。”神々の義眼”をゆっくりと開くと、先ほどまで見えなかった何かがレオの眼には映り始めた。
窓が見えた。正確に言えば―――窓の外が見えた。
「…………、」
ごくり、と唾を飲み込んだ。いつもの街並みが並ぶヘルサレムズ・ロットの光景とは違う。既に外は夜だったが、レオの”眼”には全く関係ない。
「………………ユグドラシアド中央駅…」
異界の穴に一番近いと言われるその駅に向かっている、とレオはなぜか直感した。
過去、ザップとクラウス、それからエイブラムス・T・ブリッツと共に向かったその場所に向かう際、レオは殆ど気絶していたも同然なので、外の光景を見ていない。帰りは帰りでスマートフォンの画面を見つめていたから、景色を殆ど見ていないも同然だ。けれど分かった。この電車はあの駅に向かっている。
行き先は確かめて乗ったはずだ、とレオはつい十数分前のことを反芻しながらそろそろと辺りを見渡す。大体、車両にいたのは自分だけじゃなかった筈だ。辺りは暗いが、漸く眼が慣れてきたのか、それとも義眼のためなのか、車内が見えてくる。レオは黙って立ち上がった。
「………………。」
慎重に動かなくてはならない。何しろここは世界の中の魔窟と言われるヘルサレムズ・ロットだ。一歩動いただけで、細切れにされていてもおかしくない。
「…………っわ!」
何かに足を取られた。辛うじて転ぶのは免れたものの、よろけたせいで四人掛けのボックス席らしきところにつかまった。「あっぶね…」なんだろう、と恐る恐る足元を見つめる。
別段何もない。
「…………。」
けれど、嫌な感じがした。黙って義眼でその場所を見つめると、緩々と何かが浮かび上がってきた。―――何となく予想はついていたし、さっきからレオの鼻はその匂いを告げていた。ある意味危険信号として。そしてある意味、この状況の象徴として。
そこにあったのは死体だった。
「…っわあ!!」
いかにレオもこの街に慣れてきたとはいえ、唐突に死体が現れれば流石に驚く。どうやら自分はこの死体の流す血に足を取られてしまったらしい。バイトの直前とは別の意味でどきどきしている心臓を押さえると、慌てて二、三歩後ろに下がる。
「………お、落ち着け……」
言い聞かせるようにしてそう呟くと、深呼吸した。
――――いつの間にこんなことに。
スマートフォンの時間表示を信用するならば、少なくとも10分前に乗り込んだ時はこんなこと起きていなかったし、行き先だってまともな場所だった。降りるべき駅には今頃到着している筈だったし、万が一、寝過ごして降りるべき駅を乗り過ごしたとしても、こんなことになるわけがない。
「…………やっべぇな…」
冷や汗をかきながらなんとか身体を動かして、自分が座っていた場所に戻った。
やっぱり椅子ははっきり見える。「………。」何でこの椅子だけはっきり見えるんだ、と思ってレオはそろそろと椅子に座った。座ったあと、もしこの椅子自体が罠だとしたらジ・エンドでは、と気が付いたがもう遅い。ただ、予想に反して椅子には何の仕掛けも施されていなかったらしい。先ほどと同じく、窓の外が流れていくその光景を見ながらレオはほっと息を吐いた。
「………連絡しよう」
流石にこれは一人でどうにか出来る範囲を越えている。第一、本当にこの電車の行き先がユグドラシル駅なのかどうかも怪しいし、今レオが信頼できるのは最早”神々の義眼”だけだ。ソニックを家に留守番させていてよかった、とレオは小さな友人のことを思って息を吐く。そして頼むぞ、と念じながらスマートフォンを取り出した。電池表示は満タンに近い。電波も問題ない。あとはこれが通じるかどうかだ。
連絡先から上司の名前を選び出す。通話ボタンを、タップした。
「…………。」
コール音は聞こえたが、クラウスは電話に出なかった。留守電にもならない。それに、恐らくこの電話自体クラウス宛にかかっていないとレオは判断して電話を切った。続いてスティーブンにも連絡したが、やっぱり同じことが起きる。
「……もしかしてこれは結構ピンチというやつなのでは」
小さく呟いたそれに返事はなかった。あったらそれはそれで怖いけど、とレオは思いながら、うーんとスマホの画面をスワイプする。
「…数撃ちゃ当たるかなあ」
とりあえずライブラの構成員に電話をかけてみたが、やはり結果は同じだった。
「…ぐぬぬ」
繋がらない、と息を吐いてひょいと最後の一人に指を伸ばした。”Zapp Renfro”というその名前に今の今まで電話をしなかった理由は、今一自分でもよくわからない。名前の順だからかも、と思ったがだったらツェッドの前にかけている筈だった。
「………。」
そんなことを考えている場合じゃないっつーに、と自分で自分にツッコミを入れた。
電話番号の横にある電話のボタンをタップする。さっきからずっと試しているそれと同様、コール音が鳴り始めた。
「………………ここで奇跡が起きたら愛の力だよな」
ふざけたことを呟いたのは、それなりにこの状況に不安を感じていたからだ。十回目のコール音を数え終えた後、ですよね、とレオは肩を竦めて電話を切ろうとした。
『もしもし?』
しかし直後、信じ難いことが起きた。
「―――え?」
『もしもしって言ってんだろオイ。どーした』
レオ、というその声は、つい数時間前に聞いたばかりの先輩の声に他ならなかった。
「な――――なんで?」
『あ?いやそりゃこっちの台詞だろ。なんだよ。まだバイト中か』
「あ、いや。終わりました」
聞かれたから、反射的にそう答えてしまう。普通の会話をしている場合ではない。
『なんだよ終わってんのか。んじゃ早よ帰って来いよ』
おめえのクエスト進めておいてやったぞ、と偉そうに言った声は、どう聞いても先輩のそれに相違ない。俺のデータを何で勝手に進めてんだよ、と怒る気分には流石になれなかった。
「ま、待ってザップさん。その、俺今なんか変なとこにいて」
『は?』
「知らない電車なんすよ。そんでなんかわかんないけど駅に向かってるっぽくて。ユグドラシアド中央駅に」
『あ?いやおめえ一体何、』
「フツーの電車だと思ったらフツーじゃなかったんすよ。起きたら知らない場所で、そいでなんか人が」
死んでるんです、とそこまで一気に言った後、レオ、という鋭い声が電話の向こうからは聞こえてきた。
「は、」
はい、となぜかそこで姿勢を正してレオは返事をする。
『落ち着け。…おめえ今身体は何ともねーのか』
「あ、俺はべつに」
なんともないっす、と言うと、「ならいい」とザップはきっぱりと言った。
『俺以外に連絡は』
「つながりません。コール音しか聞こえません」
『…全員か』
全員です、と言ったあと、ザップがどうやら立ち上がった音がした。
『スマホの電池は』
「あ、ええと」
一応再度画面を確かめると、スマートフォンの電池は殆ど変わらず満タンに近い。それを告げると、ザップは「そんじゃ電話切るな」と端的にレオに告げてきた。思わずぎゅっとスマートフォンを握りしめてしまう。
『そのままにしとけ。…………そこ、』
”何か”いるか、と聞かれてごくんと唾を飲み込んだ。
「………今のところは何も見えないです」
『…おめえの眼は誤魔化しようがねえだろうしな』
ヤバくなったら電話は無視してどーにかしろ、とザップの声が電話の向こうから聞こえる。どうやら既にレオの家は出たらしい。走っているらしい音や、街の喧騒がレオの耳に聞こえてきた。
「…………あの」
すみません、と小さく言ったがザップにはきちんと届いたらしい。『ああ?なにがだよ』そう言っている声は少し息切れしていたから、やはり走っているのだろう。
「…や、面倒かけて」
『今更何言ってんだおめーは』
散々迷惑かけといて、という意味だとレオは気が付いて、「すんません」と更に恐縮して謝った。そういえば、ついこの間も任務中に窓から落ちそうなところをザップに助けてもらったばかりだった(ただし原因はザップがかけた足払いだったのだが)。
基本的にレオは前線には出ないが、前線にいようがいまいが、命が幾つあっても足りないこの街にいるせいで、命の危機には何度も瀕している。その度に、ザップが文句を言いながらレオを助けてくれたりくれなかったりするのだが、考えてみれば恐らく彼に手を引かれている回数が一番多いのだ。
『………俺が今、』
今更って言ったのどーいう意味か分かってんのか、というザップの呆れた声が電話の向こう側から聞こえてきた。
「え」
そりゃ、と言いながらレオはちょっと首を傾げる。相変わらず辺りは真っ暗で、夜よりも暗黒と言った方がいい。暗い部屋の中よりも酷いその空間は、本当に宇宙みたいだった。
「…いっつも俺が迷惑かけてるから、今更何言ってんだっていう、」
『アホか』
自分の声はザップに思い切り遮られた。思わず口を噤んだレオの先輩は、何でおめーはいつもそーなんだとやっぱり呆れたように続けた。
『あのな、おめえもし俺がその辺で倒れてたらどうすんだよ』
「は?それは修羅場で刺されたとか、金がなくて飢餓のあまりとか」
原因はどーでもいいんだよってかオイてめえ、と言ったザップの声は低くて、こんな状況だというのにレオは笑ってしまった。「笑ってんじゃねーよバカ」と言った先輩の声は怒っていた。
「…えーと、そ、そりゃ助けますよ。ザップさんが困ってたり倒れてたりしたら」
助けに行きます、と言いながらちょっと照れた。なんだか、助けるっていう言い方は余り自分には似合わない。どれと言われたら『手を貸しに行きます』とか、そういう風な言い方の方がよかったな、と思いながら頬を掻いた。
しかしザップは「そーだろ」と言い方については別段言及することなく、あっさりと言った。
『…おめーがやばかったら俺も旦那もスターフェイズさんも、ついでに言えば犬も魚もおめえのこと助けに行くっつーの』
ギルベルトさんも姐さんも檻の中の二人組もな、と付け加えられてはあ、とレオは戸惑いながら返事をした。そうなのだろうか。そうですか、とも言えない。
『…何でだかわかるか』
「?そ、そりゃあ…俺もその、…一応」
ライブラだし、と言ったそれは「アホか」というザップの怒声でまたしても遮られた。あまりにその声が大きかったので、「わっ」とレオは声を上げて目を瞑ってしまう。
『そりゃおめーはライブラだし俺もそーだよ。だけどな、今はそれ関係ねえだろ』
「は…え?か、関係って、」
『いいか。今みてーな時に』
ライブラは理由になんねえんだよ、とザップは言って足を止めたらしい。ぜいぜいという息を切らしている音が聞こえたのち、信号が赤になったらしい音がする。横断歩道を人々が渡らない代わりに、道路には車が溢れ始めたのだろう。後ろからは車の排気音がした。
『…レオ』
おめえはライブラだろ、と何度目とも知らない問いかけに、レオは一瞬逡巡してしまう。面と向かってそう聞かれたことは、今までに一回もなかった。
「……………はい」
声は小さくなってしまった。けれど、しっかりと返事をした。少なくとも自分ではそう思った。
ザップがすう、と息を吸ったのが分かる。
『……だったらわかっとけ。―――俺たちがお前を助ける理由にライブラは関係ねえ。それを理由には使うな。…お前がここにいる意味を見誤んな』
ザップはきっぱりとそう言った。
正直なところ、ザップが言っている意味は半分くらいしかわからなかった。自分もライブラで、ザップもライブラで、だけどそれはレオを助ける理由じゃないらしい。じゃあ、一体何が理由なんだろう。
レオがそう思っているのを察したのか、「あのなあ」と言ってザップはまた走り出したらしい。電話の向こう側の声は、怒っている。
『お前今言ったじゃねーか。俺が倒れてたら助けに来るんだろ?』
「そ、そりゃ行きますよ。すぐ」
『…んじゃ、』
俺の理由も、という声と共に、ドアが開いた音がした。次いでエレベーターが到着した時の、ポーンという聞き慣れた音が聞こえてくる。タイミングがいい。どうやらザップは無事事務所の入り口までたどり着いたらしい、とレオは察した。
ザップが息を切らしながら、けれどはっきりと言葉を発した。
『……レオと一緒だよ』
ごくんと唾を飲み込んだ。
「………あ、」
それ、と言いたかったが、スマートフォンの向こう側からは、「旦那」というザップの焦った声が聞こえてきた。ばたばたと走り回っている音もする。
『…いやもー旦那はとっくに帰っ…、あ、』
スターフェイズさん、というザップの声の後、「なんだザップ」というぐったりした上司の声が遠くから聞こえてきた。ぐったりしているのに声が聞こえたということは、恐らくまた事務所で長時間デスクワークにあたっていたのだろう。レオはスマートフォンを握り締めながら、耳に当てて必死に声を聞いた。
『あーもうわかった!わかったよ!落ち着けザップ!とりあえず代われ!』
『ちょっと待ってください!…あーもしもし?レオ?』
「あ、はい」
レオです、と分かり切ったことを言った自分に、スターフェイズさんに代わるとザップは端的に告げた。
「はい」
『あと』
酒は飲んでねえぞ、とこんな時だというのにザップはふざけた口調で続けた。「酒?」と聞き返そうとして思い出した。ザップがレオの家で、レオを待ってる、とそう言っていたことにだ。
『…鍵、まだ俺が持ってるかんな』
その声のあとにザップ、というスティーブンの声がした。「回しますよ」というザップの声のあと、がちゃがちゃという音がする。どうやらザップがスティーブンにスマートフォンを手渡したらしい。
『一体何がどうなってるんだまったく………ええと少年?』
そのスティーブンの声にあ、とレオはもう一度声を上げる。「もしもしスティーブンさ、」しかしその瞬間だった。
――――――ぶつん。
面白いくらい綺麗に電話が切れた音がした。
「……………………え?」
ぎょっとして慌ててスマートフォンを耳から離す。変な言い方だったが、通話はしっかりと切断されていた。
「………な、」
なんで、と電池表示を見たが、数分前に見た時と遜色なかった。残り僅か、ということもない。「…………、」再度電話をかけてみたが、遂にザップの電話にかけても、コール音しか聞こえなくなった。
「あ〜〜〜〜…」
なんで、と言いながらがっくりと肩を落とす。
「……いや、もー原因を考えるだけ無駄だよな…」
世界は何でも起こるわけだし、と半ば自棄になりながら言って深く溜息を吐く。ついさっきまで繋がっていた世界とは、何らかの力で切断されてしまったようだ。
レオはとりあえずもう一度最初に座っていた椅子に戻った。先ほどと同様、座っても何も起こらずとりあえずは安心した。
「………なんで切れたんだよもー……」
俺が何をした、と呻きながらリュックサックを抱え、スマートフォンを掲げるようにする。画面は時刻とそれから今の天気を表示していた。電波は通っているらしいが、通話ができないのであれば意味がない。
ちなみにメールを送ってみてはいるが、いまだに返事はないし、本当に送信出来ているのかどうかも怪しい。ネットには繋がるが、そこからの連絡も様々な理由ですることができなかった。お手上げだな、と肩を竦めてスマートフォンをおろすと、電車の天井を仰ぎながら溜息を吐く。
「………なんでこーなったんだっつーのもー…俺はただ、」
ザップさんに会いたかっただけなのに、と言ってずるずると背もたれに寄りかかる。二秒後、自分の発言の違和感に気が付いた。
「―――ん?俺今、」
なんて、と言いながらきちんと座椅子に座り直した。
――――ザップさんに会いたかっただけなのに?
いやいやいや、とレオは誰もいないがひらひらと手を振った。そうじゃないだろ俺。そーじゃなくてフツーに家に帰りたかったんじゃん。そりゃ、家に帰ったら今日はザップさんがいただろうけど、別にそれが第一の目的じゃないしってゆか、むしろそれは副次的な…お土産みたいな?副産物的な何かだし?
一人で問答とディベートを繰り返す、という非常に稀有なことを三分ほど行い、ふと自分の行動に虚しさを覚える。無言で再びきちんと座席に座り直した。
「…………バカみてー」
これは本当にその通りだったので、論議はどうやら冷静な自分が勝利したらしい。そこまで思って、本当に馬鹿馬鹿しくなってしまった。マッチポンプ。…ではなく、一人芝居だ。
その時だった。
巨大な電子音が電車の中に鳴り響いた。
「ぎゃあ!??な、ななな、」
何だよ、と叫んで腰を浮かせる。音源を探しているうちに、電車の宛先表示がちかちかと見慣れない光を放っていることに気が付いた。
「…………え?」
ついさっきまで、終点の駅名を表示していた車内表示の電光掲示板は、全く違うことを表示していた。
――――What you want is?
「…………し―――」
したいこと?とレオは電光掲示板に映っている質問文を繰り返し呟いた。「………いや、」何それ、と混乱してレオは溜息を吐き、頭を抱えて無意識に椅子に座り込んだ。
「…………待てよ…」
もしかしてたった今電話が切れたことと何か関係しているのだろうか。流石にそう断じるのは早計ではあるし、脈絡がない。けれどこの状況と関係しているのでは、と考えるのだって無駄ではない―――。なにしろ、世界は何でも起こる。
「…したいこと…えーと………あー、…」
ミシェーラと喋りたいなぁ、と小さく呟いて背もたれにずるずると寄りかかった。「…元気かなぁ。あいつ」そう言って溜息を吐いた途端だった。レオの電話が着信を告げ始めた。
「おわっ!!?」
びくりとしてスマートフォンを手にして画面を見つめると、メールではなく、電話だった。けたたましいその音に顔を顰めることもなく、恐る恐るスマートフォンを睨んでしまう。ディスプレイに表示されている名前を見て、予想外のそれに息を呑んでしまった。
「………ミシェーラ?」
呟いた名前の通り、スマートフォンのディスプレイにはミシェーラ・ウォッチという名前が表示されていた。通常ならば携帯電話で会話をすることがないから、殆ど彼女の名前が表示されることはない。スカイポならわかるんだけど、と思いながらスマートフォンを目の前に持ってきた。
「……………。」
罠なのか、それとも試練なのか。悩んだ末、レオは電話に出ることにした。どちらかと言えば慎重派ではあるのだが、つい考えてしまった。
―――ザップさんなら。
どうするかな、と思った時にはすでに指が通話ボタンを押していた。
「……、も、」
もしもし?と言いながら恐る恐る電話に出る。
『………………、』
しかしスマートフォンの向こう側からは何も聞こえてこなかった。「…ミシェーラ?」小さくそう言ったが、ぶつんと音を立てて先ほどと同様、電話は切れた。
「……………期待させといてこれかよ」
なんだよ、とレオはスマートフォンをスリープにする。電池は長持ちさせておくに越したことはない。
罠でも試練でもなんでもいいから、妹と会話したいのは事実だった。そりゃあ勿論、会いたい。けれど今この状況でレオが思ったのは、妹の声が聞きたい、ということだった。
―――それが一体。
何から生まれたものなのか分からないけれど。
「……………。」
会いたい、と思うよりも声が聞きたい。…それはつまり、とレオは思って溜息を吐いた。まだ自分は”そこ”から動いていないのだ。いや、動いてはいるのかもしれないけど。光は目に映っているけれど。
「…………………いや、そーいうのはこっから帰ってから考えよう」
今じゃなくていい、とレオは自分自身に言い聞かせる。ちらりと目をやると、電光掲示板には未だ先ほどと同じ文言が表示されていた。
「………今…」
腹減ったから飯食いたい、と何の気もなく呟いたが何も起きなかった。そりゃそーだ、とレオは肩を竦めて考え込む。むしろ、ここでフランス料理のフルコースが現れても不気味過ぎて食う気も起きない。万事休すにもほどがある、と思いながら手持ち無沙汰に電話を眺め、それからもう一度掲示板に目をやった。
「……早よ帰って寝たい」
羽毛布団でも出てくるか、と身構えたが何も起きなかった。てゆかさっきと同じで、出てきても俺だってそこで眠るほどアホじゃねえし、と自分自身にツッコミを入れる。
「………どうしよっかなぁ…」
そう呟きながらレオは立ち上がった。
「…先頭車両まで歩いてみるとか」
返事がないのはわかっているが、そう言いながらのろのろと先頭車両へと足を進める。先ほど見た死体を避けて見ないようにしながら、レオは先頭車両まで歩いた。レオの他に乗っている筈の乗客もいる筈だが、その姿は一切見えない。
「………やだなぁ」
もし、レオが百戦錬磨の猛者であったとしても、この状況は嫌がっただろう。首謀者が何を企んでいるのかわからないし、辺りは暗いしよく見えないし、しかも自分以外の乗客は死んでいるかいなくなっているかのどっちかだ。戦闘力の問題もあるが、この状況で諸手を挙げて喜べるほど、レオは異常者ではない。
「…………お」
先頭車両にようよう辿り着いた。どうやら運転手は在席らしい。がたんごとんという電車の音と共に、ブレーキや警笛の音が聞こえてきたからだ。かと言ってこちらは丸腰なので、のこのこ近づいて行ってぐさりと刺されたのでは堪らない。
「…………。」
けれど、近づかないという選択肢もなかったので、レオはそっと背後から運転席に近づいた。運転席が見える位置まできてから、驚愕に口を開く。
「…………嘘だろ」
マジかよ、と言いながらがくりと俯いた。運転席には脳味噌に似た運転手も、かと言って顔が見えない車掌も誰もいなかった。勝手にハンドルだとか、速度計だとか、警笛の紐が動き回っている。ずるずると溜息を吐いてその場にしゃがみ込んだ後、レオは立ち上がった。
「…何なんだこのトンデモ現象。世界は何でも起こるったってさー…」
起こり過ぎでしょ、と無意味にびしりと一人ツッコミを入れたあとに気が付いた。
運転席の上に何か乗っている。
「………………何だこれ」
そう言って身を乗り出し、座席の上を見つめるとどうやらそれはメモ帳らしい。メモ帳と言っても一冊丸ごと乗っているわけではなく、メモ帳の一枚が半分ほどに引き裂かれて、待ち針に似たピンで留めてある。メモ帳に何やら文言が書かれていることに気が付いて、レオはクエスチョンマークを出しながら、身を乗り出してメモ帳を見つめた。
―――――Answer!
「………答えろ?」
何を?と言いながら乗り出していた身を引っ込める。
「…ここに慣れてきたって頃にこれなんだから自信失くすよなぁ…」
そう言って、何度目なのか分からない溜息を吐き、それから腕を組む。「…でも普通に考えたら…まあ、…さっきのアレだよな…」
――――What you want is?
「………したいこと」
こっから出たい、とさっきのように試しに言ってみたが、何も起きなかった。「………いやまあ、このままポイって感じで放り出されても俺だって困るけど」そう言ってふと気が付いた。このまま乗っていたら、ユグドラシアド中央駅にいつかは着くんじゃないだろうか。
「…でも着いたら降りればいいって問題なのかな」
そう言って何となく運転席を見て、ぎょっとした。メモに書かれている『Answer!』という文字が先程より大きく、しかも太字になっていたのだ。
「な、…なんで?ちょ、……ちょっと」
待てよ、とレオが泡を食っている間だった。その言葉の下にじわじわと何かが表示され始めたのだ。自然にも、人為的にも、絶対に起こらないその現象を目の当たりにして、レオは絶句してしまった。
そりゃ、勿論こういった現象にぶち当たったことがないわけじゃない。けれど何度見ても、この自然法則や物理法則を完全に無視している出来事は、驚かざるを得ない。
―――――In until you reach the station!
「…え、」
駅に着くまで、と呟いた自分の声は引き攣っていた。「…着くまでに答えろってこと?」そうレオが言ったあと、メモの英文が徐々に消え、”Yes!”という言葉に変わった。
「…………メモ紙が喋ってる…」
本が喋ってるよりマシか、とレオはずるずるとその場にしゃがみ込んだ。「………もー何だこれわけわかんねぇ…」そう言って笑ってしまった。当然、現実逃避だ。
「………………目的はなんなんすか」
試しに、とばかりメモ帳に話しかけてみた。しかしメモ帳は最初に書かれていたとおり、"Answer!"というそれに戻ってしまい、答えようとはしない。あとは自分で考えて行動しろってことですか、とレオは頭を抱えたくなった。
―――したいこと。
「……だから…ミシェーラと話したい……し、…えーと。あとは…あー、…ビビアンさんとこの新メニューが食いたい………、……えーとあとは…」
はっとそこで思い至った。思わず立ち上がる。
「そうだ俺こないだ新しいソフト注文したばっかで、えーと、ソレ!それが明日届くはずだからそれがすっげえやりたい!!」
恐らく今までで一番勢いよく言った『したいこと』だったはずだ。しかしレオの情熱虚しく、変わったことは特に起きず、がたんごとん、という電車の音が耳に入ってきただけだった。
「………いやまあ、ここにいきなしゲームが現れても困るけど」
テレビないしね、というちょっとずれたことを思いながら、レオは仕方なしに最初にいた場所に戻ることにした。別にこのままここにいてもよかったし、むしろその方がいいとも思ったが、何となく―――本当に何となくだったが、ここにいない方がいい気がした。理由はさっぱりわからなかったから、直感としか言いようがない。元居た車両に戻る間にも、空席ばかり見かけたし、ついでに言えば死体もいくつか見かけたが、なぜか元々座っていた座席以外に座ろう、という気にはならなかった。
最初に座った座席のところまで辿り着いてほっと胸を撫で下ろす。なぜかその場所は、最早レオにとっての安全地帯だった。
「…………さて」
マジでどーっすっかな、と言いながら座席に着席して伸びをする。あのメモ紙が表示した通り、駅に着くまでに答えを言わなくてはいけないのならば、そろそろタイムリミットの筈だ。前回の経験からして、駅にはもうすぐ到着するはずだ。
「…今頃だったらもうとっくに家でザップさんと飯食ってる筈だったんだけどなー…」
はあ、と溜息を吐いて何となく顔を上げる。電光掲示板が自然にレオの眼に入ってきた。
「………え?」
――――More?
「…も――――」
もっと?と呟きながら背もたれから身を起こす。「…も、…もっと?な、…なにが…」そう言いながら、ふとスマートフォンを握り締めていたことに気が付いた。
無言で画面を眺めたが、ミシェーラと電話が繋がった時から別段変化はない。ただ、電話の通信履歴には彼女の前に会話をした男の名前が表示されていた。
「……………、」
まじまじとその名前を見つめて、それから顔を上げる。既に掲示板の表示は最初と同じ、”What you want is?”というそれに切り替わっている。それを眺めながら、ごくりとレオは唾を飲み込んだ。
「………み、…ミシェーラに、…その、…ざ―――、…ザップさんを紹介したい」
ちゃんと、とレオが恐る恐る呟いた直後だった。車内には、電車が駅に接近した時に流れる音が鳴り響いた。
「…………う、」
嘘、と呟いたレオを他所に、メロディは車内に鳴り響いている。普通だったらホームで聞くはずのその音を車内で聞く、という奇特な体験をしている。そうやってレオがぽかんとしている間にも、音楽は途端に発車のメロディに切り替わった。しかし実際のところ、レオが乗っている電車はとっくに発車しているし、しかも停まる気配がない。
まさかこれは、と嫌な予感を覚えつつものろのろと口を開く。まさか。いや、やめてくれ。まさか。
「………、……えーと。…あー、えっと、あの、ゲーム届いたら…べつにザップさんと一緒じゃなくても、…いーけど…」
そう言いながら、自分で自分に嫌気が差してすとんと座席に着席した。
「…よ、…横にいたら楽しいなって思います…」
そう言いながら俯いて顔を覆ってしまった。何で俺はこんなことを一人で喚いているんだろう。いやでもなんかそういう感じじゃん。脈絡も、そして益体もないことを思いながら黙っていると、先ほどと同様電車の接近音が鳴り、そしてその後すぐに発車音が鳴った。
何なのこのシステム、とレオは思いながら顔を上げる。電光掲示板には、またしても”More?”という文字が表示されていた。まだかよ、と泣きたくなりながらレオは俯いて溜息を吐く。
「……夕飯を、……えーと。…ザップさんと食いたい」
そう言った途端、案の定接近音に次いで発車音が車内に鳴り響いた。「………マジっすか」何度目とも知らずそう思い顔を引き攣らせてレオはがっくりと俯いた。
「…だ…ってもー、…なん…何この羞恥プレイ…」
俺しかいないけど、と頭の中で付け加えたが、そういう問題でもない。はあ、と深々と溜息を吐いて、レオは仕方なく顔を上げて掲示板を見つめながら、嫌々口を開く。
「………ビビアンさんとこの新しいメニューをザップさんと食いたいです。別に一緒に新メニューじゃなくてもいーすけど。…横に座ってたらまあ、その、」
ベスト、と言った後俯いた。死にたい。何これもう意味わかんない何で俺はこんなとこで一人で告白みたいなことをしてるんだ。いや厳密に言えば死体が転がってるから一人じゃないかもしんないけど。いやでも死んでるんじゃやっぱり俺一人なの?どうなの?もうわかんない。
そう思っている間にも、先ほどと同様の電子音が二連続で鳴り響いた。レオはぐったりしながらもう一回顔を上げる。
「……他にしたいことって………」
ええと、と言いながら考えた。
そもそもレオはそんなにしたいことがあるわけじゃない。目標はあるけど、それと”したいこと”は微妙にニュアンスが違う。むしろしたいことができないから目標があるようなもので、つまり日常的に生きていて、やりたかったり欲しかったりすることがすぐには思い浮かばないのだ。先輩にもよく言われるが、そんなに欲がない方らしい。
『お前そんっなストイックに生きてて疲れねえ?』
そう言われたのは記憶に新しかった。『…ストイックっちゅー言葉を知ってたんすね…』思わずそうザップに言ってしまったので、頬を抓られた挙句頭を叩かれたのも覚えていた。どういう意味だコラ、というその声を聞きながら、だって、とレオは思っていた。
―――だってなんかまあ、こうやってるの楽しいし。
だいたい、自分のせいで妹がひどい目に遭ったというのに、欲を追い求めるのもなんだかおかしい。そう思ってはいる。口にしたらザップは怒るか呆れるかのどっちかだろうし、妹は絶対に烈火の如く怒るだろうから言ったことはない。けれど常に思っていることはある。幸せに。
―――幸せを求めるのは間違ったことじゃないけれど。
なりたいと思ってはいけない気がしていた。この”気がしていた”、というのが微妙なところで、幸せになってはいけないと思うと、必ずレオの脳裏に妹が現れて、しかもレオのことをめちゃくちゃに怒るのだ。だから断言するとなると、別の罪悪感が鎌首をもたげてくるので上手くいかない。欲を追い求めることがイコールで幸せになるということじゃないとは思うが、近いことではあるのだろう。だからなのかもしれない、とレオはふと思った。
だからあんまりしたいことがないのかも。
一方、レオの先輩は真逆だった。したいことどころか欲しいものも大量にあるらしい。しかも思い立ったが吉日とばかり、すぐにそれを実行に移す方だったから恐ろしかった。競馬がしたければすぐに競馬場に行くし、任務中パチンコがしたくなれば帰り道に寄り道するし、好みの女性を見かけたらすぐに口説き始めてセックスまで持ち込むし、ともかくやりたい放題なのだ。結果は如何ともし難いものがあったが、ザップからすればそれはどうでもいいことらしい。ともかくやりたいことをやることが重要なのだ。
だから、彼がレオの告白のの返事を待っていたのは奇跡に近い。
レオはそう思っている。
ある日、ふとそのことをK・Kの前で呟いてしまったことがある。
その時、彼女に頼まれてレオはおもちゃ屋での買物に付き合っているところだった。この間みたいなことはごめんだけど、と一日以上拘束されたことを思い出しながら、彼女とおもちゃ屋の棚を物色していた。
普段人前でそういう話をしないように意識している筈が、なぜかつい、気が緩んでそうぽつりと言ってしまった。家族の話を聞いていたからかもしれない。謎ですよねえ、と言った後レオははっとして、なんでもないんです、と持っていたおもちゃを振り回してしまった。
『ちょっと落ち着きなさいよレオっち。てゆかそれはそーよ。当たり前じゃない』
『は、はい?』
振り回していたぬいぐるみをK・Kは器用にも受け止めて、これはいーわ、と元にあった場所にぬいぐるみを戻した。『そりゃーあの男だって嫌でしょ。待たなきゃレオっちに嫌われるんだから』それを聞いてぽかんとしているレオを見た後、K・Kは別のぬいぐるみを手に取った。じっくりとそれを見分しながら、ザップっちだって、と話を続ける。
『…レオっちが待ってくれって言うんだったら待つでしょ。無理矢理なんかしたら嫌われるに決まってるんだし』
『だ、いやでもあの人俺に対していっつもそんな感じっすよ』
『そりゃーいつもはそうでしょ。でもそれとその時は話が別じゃない』
そう言うと、K・Kは「これもいーわ」と手にしたぬいぐるみを棚に戻した。『…別?』なにが、と呟いた自分は、どんな顔をしていたのだろう。レオの顔を見て、K・Kはおかしそうに微笑んだ。
『…レオっちのことそのくらい欲しかったってことでしょ。幾ら何でも、無理矢理じゃあレオっちが頷くわけないってあの子だってわかってたのよ。…それにそもそも、』
レオっちが嫌がるところなんて見たくないんでしょーねザップっちは、とK・Kは言うとこっちどーかしら、となんでもないことのようにひょいと高い位置にあるぬいぐるみを手に取った。
『…………………。』
硬直しているレオを見て、ちょっと何よ、と言いながら彼女はおかしそうに笑い始めたので、レオはそこでやっと身体を解凍させた。「それはちょっと子供っぽ過ぎるのではないでしょうか」と言っている自分の声も、それから解凍させたはずの身体も、更に顔だって色々な意味で爆発しそうだったけれど、それと同時に考えていたことがある。
―――――レオっちのことそのくらい欲しかったってことでしょ。
そんなことあるわけない。そう思いながら、恐る恐る事務所に戻り、けれどレオは一時間くらいザップの顔がまともに見れなかった。お陰で先輩はいたく機嫌が悪くなり、レオが家に帰宅した後散々ベッドでいじめられた記憶がある。問い詰められたがレオが口を割らなかったからだ。俺が口を割ったらてめーもこうなるからな、と思いながら、拗ねてしまった先輩と一緒に、レオは眠った。
だから今、この状況は自分自身を見つめ直している作業のようで非常に苦痛だ。欲を曝け出すと言うのは、内面を曝け出しているに相違ない。
「…あー、…ええと…ね、……寝たいけど………」
そう言った後掲示板を見たが別段表示は変わらなかったし、接近音も発車音も
鳴らなかった。マジかよ、と言いながらのろのろと俯く。
「………あ、あのー…ざ、…ザップさんと………えーと。…べ、ベッドで寝たい…」
そう小さな声で言ったあと思い切り顔を上げて、しかもレオは立ち上がった。
「ね、ねねね寝たいっつーのは違いますよ!そ、そーいう、あの、隠語的な意味じゃないですからね!フツーの意味ですよ!フツーの!!睡眠!!そ、その、睡眠じゃねー方じゃじゃねーから!」
レオが無意味に一人でじたばた言い訳をしたあと、先ほどと同様電車の接近音と発車音が鳴った。よかった、とほっとしながらずるずるとまた座席に座り込む。一人で喚いただけだったのに、ほんのりと顔に熱が集まって来たことに気が付いて、呆れてしまった。
「…てゆかマジでこれ出られる手掛かりに―――」
そう言いながら顔を上げた時だった。レオがよく聞く、聞き覚えがある音楽が車内に鳴り始めたのだ。
「―――え」
この音楽、と言いながら立ち上がる。「…なん…だっけ。よく…」聞いてるんだけど、と呟きながらくるりと振り返る。暗かったが外がうっすらと見えた。霧が益々濃く立ち込めているのを見ると、更に異界の穴に近づいているのだろう。こんなに濃いの久々に見た、と茫然としている間にレオははっとした。
「……これ…」
もしかして、と気が付いたことにぞっとしながら振り返る。電光掲示板の表示は、ついさっき見ていたそれから、見慣れた文章へと変わっていた。
―――Soon arrive at station.
「え―――」
駅に着く、と言いながら後ろに一歩下がろうとする。が、そこには座席があるのでレオはバランスを崩して、もう一度座席に腰掛ける格好になった。「あ、…ぶね、」そして音楽と一緒に、こちらも聞き慣れたアナウンスが流れ始めてレオははっとした。ついさっきから聞いているこの音楽、これは。
「………と、到着音…」
間もなく駅に到着します、そのアナウンスと共に流れている音楽だと気が付いてぞっとした。
「ちょっと待てよ…、到着する前に俺が答え終わらなかったら、」
どーなんだよ、と悲鳴のように叫んだが無論返事はない。慌ててナップザックを背負い直し、それからスマートフォンを手に先頭車両までレオは走り始めた。―――あのメモ紙に賭けてみるしかない。
先頭車両に到着する。運転席にあるメモは、何ら変わらなかった。強いて言えば”Answer!”という文字が更に大きくなり、しかもピコピコ点滅していることくらいだ。
「…………。」
なんかヤバイってことはわかるんだけど、とレオは泣きたくなりながら電光掲示板を見つめる。もうすぐ駅に着く、という表示と共に、外の景色がみるみる変わっていくことに気が付いた。外は駅に向かっている筈なのに、ゆっくりと暗くなっている。レオの義眼を以てしても何も映らない。霧どころか、景色すら見えなくなりつつあった。
「…や――――」
やばい、と言いながら考える。したいこと。したい―――したいこと?
「えー…えーとえーとえーと。き、…キス…はさっきしたし。いや別にだからって今したくないわけじゃ…ち、ちがうこんなことどーでもよくて、」
更に音楽が大きくなり、しかも警笛が鳴り始めた。つまり駅の到着が近いということだ。「ひえ、」泡を食って正面の窓を見つめる。直後、息を呑んだ。
暗黒だった。
何も見えない。行き先はユグドラシアド中央駅、その筈なのにホームも看板も、更に言えば駅舎もない。駅のホームにあるベンチ、電灯、それから巨大なあの樹すら見えない。明らかにおかしかった。駅どころか行き先には何もないのだ。このまま進めば永遠の虚の真上にあるあの駅、一直線の筈なのに。
「……………や、」
ヤバイ、と呟いたそれと一緒にぽたりと一滴冷や汗が落ちた。このまま進んだ先が天国でも、ましてや地獄でもないのは明らかだったが、一体どこに進んでいるのかさっぱりわからない。わかったところで一体自分がどうなるのかも予想がつかないし、予想がついたとしても――――最悪待っているのは。
死ぬことよりも酷いことかもしれない。
「…………ッ」
どうする、と思いながら掲示板を見つめる。案の定間もなく駅につくという表示と一緒に音楽が流れている。
「…し、したいことって…!!」
わかんねぇって、と言いながらふと手に持っているスマートフォンに目をやった。ライブラから支給された二代目の携帯には、構成員の連絡先と、それからたまに撮った写真が収められている。
「…………。」
こんな時だというのに、レオはのろのろとスマートフォンの画面に指で触れて、そっと画面を動かしていた。
「………なんだこれ」
見知らぬ写真が入っていた。どうやら自分と、それからザップらしいが見切れている。場所は最近たまに行く公園のベンチで、時間からして恐らく自分はハンバーガーを食っている筈だ。ザップは目から上、レオは髪しか映っていなかったので、むしろ背景にある花壇がメインのようだった。
―――そう言えばツーショット撮ったことがない、とかいう話になって無理矢理ザップさんがシャッター切ってたような。
かなり前のことだったので、すぐには思い出せなかった。けれど、またしてもこんな時だったのにレオはちょっと笑ってしまった。
「…シャッター切り替えっちゅー機能を知らないのかよ。あの人は」
てかスマホより俺のカメラがあるでしょーに、と呟きながら、画面から目を離して息を吐く。聞き覚えがある音楽が耳に入ってきた。そろそろこの音も止む筈だ。電光掲示板の表示が遂に切り替わる。
ユグドラシアド中央駅と出るはずの掲示板は、真っ黒なそれに切り替わった。
「………………あー…」
どこに行くのかもわかんねーのかよ、と言いながらスマートフォンを握り締める。「…はあ」したいこと、と呪文のように呟いていたはずだったのに、レオはそれをやめていた。
ちょっとだけ苦笑いしながら、もう一度画面を見つめる。
見切れている自分とザップが映っていた。それを見つめながら、レオはそっと、口を開いた。
「………こっから出て、……ザップさんに会いたいなぁ…」
その、瞬間だった。
無音ではあったが、まるでその瞬間、世界が切り替わったようにレオには思えた。
「…な、」
なんだ、と言いながら反射的に顔を庇うように腕で押さえる。運転席の前にある窓を見ると、ついさっきまであったはずの暗黒は失せていたが、なぜか眩しさは一切感じなかった。
「……………な…」
なんで、と言いながら思わず一歩後ろに下がる。ふと運転席を見つめたが、そこにあったはずのメモ紙は跡形もなく消失していた。ピンを留めていた形跡すらない。はっとして後ろを振り返ると、そこにはいつも見ている電車の中が広がっていた。がたんごとん、という音と一緒に徐々に電車が速度を落としていく。
ぽかんとしているレオを放置して、電車はユグドラシアド中央駅のホームに滑り込むようにしながら、到着した。間もなく一番線に到着します、というアナウンスはレオがいつも聞いてる音声と全く相違なく、そして徐々にレオの眼には、以前見たことがある霧の駅が飛び込んできた。
「…………よかった…」
そうぐったりしたように言ったのは、レオからすれば信じられないことにスティーブンだった。
「…や、えーと。なんかすいません…」
そう言って頬を掻いたレオのところに、世界を救った一人であるスティーブンがつかつかと歩いてくる。
「心配したんだこっちは…!」
スティーブンに強めに両肩を掴まれて、俯かれてしまったのでレオはびっくりした。
「…す、スティーブンさん……。まさか泣いてませんよね…」
「泣いてるわけないだろ!僕は怒ってるんだ!」
そう言ったスティーブンは、けれどすぐにレオの肩を離してずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。
「あ〜〜〜〜…本当に無事でよかった…心配したんだぞ俺は…!!」
「いやなんかほんと…すいません…」
「あー!!レオっち!ちょっとだいじょーぶ?」
心配したのよ、と言いながら、ひょいと高い場所からK・Kがジャンプするようにして降りてきた。
「モーこの人ったらひっどいのよ。連絡がいきなり切れたっていうのに電波が悪いんじゃないのか、とか言ってたらしくてサー」
「だからその後すぐクラウスを呼んだし君にも連絡したじゃないか!」
この子だっていい大人なんだから、というそれを聞いてレオは微妙な気分になる。それじゃあ僕を少年って呼ぶのは何でなんすかスティーブンさん。ぶっちゃけ僕は青年っちゅー年頃だと思うんすけど。てゆかこの子ってそれもー完全に俺は子供扱いっすよね。
そうは思いつつも、ともかくすんませんとレオは言ってぺこりと頭を下げた。
「レオ!」
その聞き覚えがある声に顔を上げる。先ほどK・Kがいた場所から、今度はクラウスが飛び降りてきた。
「大丈夫か!」
続いてレオの後輩でもあり、友人でもあるツェッド・オブライエンも飛び降りてくる。
「あ、クラウスさん…」
ツェッドさん、と言って手を上げると、彼も手を上げる。「あっち側も終わりましたよ」とスティーブンにツェッドが告げる。
既にツェッドとは先ほど会っていたからよかったが、クラウスとは”久々に”会う。
「…すみません……お手を煩わせてしまって…」
「いや、無事で何よりだ。よくやった」
「いや僕は大したことは何も…ってかむしろ巻き込まれてたのに何も出来なかったっていうか…」
「レオくんが場所を連絡してくれたから見つけられたんですよ」
そこは誇っていいでしょう、とツェッドに言われても、何とも言い難かった。明らかにただの偶然で世界を救う手助けをしてしまったからだ。
信じれないことに、レオがザップと電話で会話したのを最後に、車外ではなんと三週間もの時が経過していた。
レオにとっての継続時間は15分そのものだったので、疲労や空腹、ましてや睡魔なども全くない。時の流れが違うというサイエンス・フィクションもかくやと言える出来事に、流石に茫然としてしまった。今更ながら、恐ろしい街だ。
あの後、レオはとりあえず車内に残ったままスマートフォンで電話をかけた。「もしもし」と言った電話の向こう側でスティーブンが驚いた声を上げたので、レオはきょとんとしてしまった。ザップの携帯に架電したという理由もあったが。
『ど――どこにいるんだ!?今までどうしてた!』
いつも飄々としている彼がそんな風に自分に言ってくるのは初めてのことだったので、レオは当惑しながらも「はあ、それがよくわかんないんですけど」と状況を説明した。
状況を聞いた後のスティーブンの行動は迅速だった。
電話をしながら気が付いたが、レオのいる車内の床には死体がごろごろと散乱していた。げっと思わず顔を引き攣らせて仰け反った後に気が付いたが、運転手は座席の下で血を流して死んでいた。
『………!!』
更に顔を青くしてレオはそこから遠ざかり、とりあえず最初にいた場所に戻った。そこにも勿論といえばいいのか、死体は転がってはいたのだが、先頭車両よりはマシだ。
ともかく自分の位置を説明した10分後、電車本体がざくざくという音と共に破壊された。最初に飛び込んできたツェッドの合図の後、チェイン・皇がレオを車外へと連れ出し、レオがぼーっとしている間にもことは粛々と進んで、そして決着した。
電車の中にいたのは、今ライブラが関わっている案件にことごとく関係する人物だった。その電車が一体どういうシステムで、どういうメカニズムによって普通の路線に現れたのかは全く分からないらしい。もしかして異次元からやって来たのかもしれないし、誰かが普通の電車をそうなるように改造したのかもしれない。一応調査に回すらしいが、解明の期待はしない方がいいだろう。
何にせよ、関係ない者は殆ど死体となっていたから、生きているものは大多数が事件の犯人グループという有様だった。数人しかいなかったのだが。
「…つーことは俺も危なかったってことっすよね」
今更、ぞっとしながら胸を撫で下ろしたレオに、いや、とスティーブンはよろよろと顔を上げてそう言った。
「たぶん―――お前は無意識に危険な場所を避けて座っていたんだろう。…義眼がそうさせたんだと思うよ」
「え?」
そうなんすか、と言ってきょとんとしたレオに、「そうだな」とクラウスが同意した。
「…恐らくあの電車では座る位置が最初から決まっていたのだろう。決まっていない者だけ―――つまり誤って乗り込んでしまった者だな。…それで判別されていたのだろう。レオは無意識に義眼を使って”決まっている座席”に座っていたのだ。だから助かった」
「………。」
そう―――なんだろうか、とそっと目に触れる。今までこの目に対して抱いてい感情はなんとも言い難いものがあったが、今回ばかりは流石に感謝した。それが何者かの意思によるものかはレオの知る由もなかったが、それにしても死にたくないのは当然だ。
今でもあの暗闇を見つめた時の感覚は覚えている。
背筋を撫でられるような、氷を無理矢理服の中に突っ込まれたような、そんな感覚すら生ぬるい。
もう二度とこうやって口を利くことすらできないと思った。
「…そろそろ警察が来ます」
「お。そうか」
ふっと現れたチェインはスティーブンにそう告げると、ちらりとレオの方を見つめて首を傾げた。
「…三週間前にドーナツ奢るって約束したの覚えてる?」
「してないでしょ」
そんな約束は、と苦笑したレオのことをチェインは見つめると、安心したように笑った。そんな顔を、まさか彼女がするとは思わなかったので、レオはびっくりしてしまった。チェインはそんなレオの顔をおかしそうに眺めると「上にも報告しておきます」と端的にスティーブンとクラウスに告げた。人狼局のことだろう。
「ああ、頼んだぞチェイン。…しかし正規の電車は通ってるのか?」
「さっき車掌が切符切ってたから通ってるんじゃない?時刻表通りだったらあと少しで来るわね」
「………今更ながら思いますが、…なんとも…変な街ですね…」
ホントそれ今更よツェッドっち、と笑いながら会話しているK・Kとツェッド、それからどこぞに連絡をしているスティーブンの後姿を見ながら、「あのう」とレオはクラウスの方を向いた。
―――さっきから、つい意識的に彼の姿を探しているが、どうしても見つからない。オーラも見えなかった。
クラウスは眼鏡の奥の瞳を瞬かせると「どうしたレオ」とレオに返事をする。
「………あのー、…ザップさんは?」
「ああ」
彼は今、とクラウスが言った時だった。
「――――――――レオ!!!」
その声ははっきりと霧の駅に響き渡った。
実際のところ、レオにはそれが声には聞こえなかった。声にならない声だった。はっとして振り返ったその時には、ザップがいたと思しきそこに彼はいなかった。
「え、」
流石に、レオの眼で捉えられない速さで人間は動けない。だから単純に、レオは油断していたのだろう。
肩を掴まれる。
ごくんと息を呑み込んだのはレオだったのか、それとも相手だったのかわからない。ともかく思い切り身体を引き寄せられて抱き締められたので、レオは息ができなくなりそうだった。
「っわあ!?ちょ、―――ざ、」
ザップさん、と言おうと思ったが、思いのほか自分を抱き締めている力は強かったので、もごもごという言葉にしかならなかった。ザップの身体に顔が押し付けられているせいだ。後ろからはクラウスの「ザップ」という先輩を諫めるような声が聞こえたが、腕の力は全く緩まなかった。
「…………………、」
抱き締められた後はっとする。
「あ、あの、」
けれど益々腕の力が強くなったので、レオは呻き声を上げた。
「ザップ」
クラウスの声が耳に入ってくる。つぶれて死ぬ、と呻きながらぐいぐいと先輩のジャケットを背中から引っ張ったが、力が緩む様子はない。後ろ毛に手が這ったところで、漸くレオは「ザップさん」と先輩の名前を呼んだ。声は既に潰れている。苦しい。
「…ザップ。レオナルドくんが苦しがっている」
穏やかな声でクラウスはそう言うと、どうやらザップの肩を軽く叩いたらしい。
「…ザップ。大丈夫だ。レオは無事だ。落ち着くんだ」
「…………、」
ザップの息の音がレオには聞こえたが、その代わりなのかどうか、相変わらず彼は何も言わなかった。
先輩の荒い息を聞いてレオは驚いた。まるで全力疾走してきたような、ともかく焦っているような――――そんな風に聞こえたからだ。
「………ザップさん」
レオは辛うじてそう言って、ぐいと彼のジャケットを引っ張った。最早、彼の腕の力は痛すぎるくらいだったが、レオは痛いと言う気もしなかったし、やめろと言う気も起きなかった。
「……、ざ―――ザップさん」
三度目にそう言った時だ。漸く自分のことを抱き締めていた腕の力が緩んだ。
「………、」
ちょっと身体を離そうとしたが、ザップの腕はそれを許さなかった。「ザップ」というクラウスの声の数秒後、渋々といった様子で腕がもう一度緩められる。そこでやっと、レオは自分のことを痛いくらいに抱き締めていた男の顔を、無言のままそっと見上げた。
「………………………………っ」
びっくりした。今にも泣きそうな顔をしているザップのことを初めて見たからだ。泣いているところ自体は実を言えば結構ある。大抵、賭けに負けたとか、愛人に殺されかけたとか、好きな女の子に振られたとかそういう時だ。けれどこんな風に、泣き出す直前みたいな顔をしている彼のことを見たのは初めてだった。
「………あ、」
あのう、とレオが言う前にもう一回抱き締められた。「ぐえ」呻いてしまう。
「………お、…」
俺がどんだけ、と死にそうな声でザップは呟いたかと思うと、最後まで言わずに「このバカ」とレオを罵ってまた黙った。自分のことを抱き締めている身体が、まるで冬の最中のように震えているのに気が付いて、レオは益々驚いた。
「………でん、…電話いきなし切れるし、…な、生殺しもいーとこじゃねーかこの、」
バカ、ともう一回言われて考えた。恐らく最初になぜかザップのところにだけ電話がつながったことを言っているのだろう。
「…あ、あのな〜〜お前、俺はちゃんとおめえのこと、」
ザップはそこまで言って言葉を切る。レオのことを、まるでそこにいるのを確かめているみたいに、更に強く抱き締めてきた。「ぐえ」レオはもう一度呻いた。
「……飲まねえで待ってたんだかんな…!!」
レオからすれば20分ほど前のことを、けれど現実に即すれば三週間前と同じことをザップは言うと、ぐしゃぐしゃとレオの頭を掻き回して、さっきみたいに腕の力を強くする。
「い、いたたたた!痛いっすよ!」
「ザップ」
落ち着くんだ、とクラウスは言ったが、声はどう聞いても微笑ましそうだったから、余り緊迫感はない。案の定ザップは腕の力を緩めなかったので、レオはそれから数秒間「痛い痛い」と喚く羽目になった。
「………ごめんなさい」
息を吐いてそう言ったが、ザップはいまだにレオを離そうとしない。「このバカ」ともう一回罵られたがレオは文句を言う気にならなかったし。
なんだかとても、照れた。
「ちょっとあんたたち!電車来たわよ!」
K・Kのその声にレオは何とか振り返ると、「ザップさん」とまた彼の服を引っ張った。
「ザップ。…電車だ」
もう大丈夫だ、と何度目か分からないそれをクラウスが言った後、漸くザップはレオのことを離した。しかしレオの腕はしっかりと握られたままだったから、ここで漸くレオは本気で申し訳なかったとそう思った。まさかこんなことになっているとは思ってもみなかった。
それにまさか、こんなに心配されると思ってなかった。
乗り込んだ電車は空いていた。
ザップは、泣いているのと嬉しいのと不貞腐れているのとが全部一緒くたに混じったような顔をしながらレオの横に座り、その間もずっとレオの手を掴んだままだった。
レオが知る限り、ザップは明らかにレオよりもこういうことに慣れているし、こういうことで焦っている彼を見るのは修羅場を引き起こした時とか、今落とそうとしている女の子に別の誰かが更に声をかけているとか、そういう時くらいだった。
馴染みの女の子に別の男が出入りしている現場を見てしまったとか、付き合っているとみなしていい女の子に振られたとか、そういう時も、こんな風にはなっていなかった。大抵一時間くらい落ち込んだ後、勝手に回復してナンパに行くか別の愛人のところに行く。つまりいつだってザップには―――変な言い方かもしれないが、後ろに一歩下がれるだけの余裕があったのだ。
「……………あのー、ザップさん」
もうここにいますよ、と一応言ったレオの肩はまだ掴まれている。
「………うるせえ」
ザップの声は半分くらい機嫌が悪そうなそれだったので、レオは「はあ」と曖昧な返事をした。直後ぱしんと頭を叩かれて、「いって」と声を上げる。
「ちょ…っ何すんすかもう!痛いですよ!」
「何が”はあ”だよ何が!お前な俺が、ど………、……っあ〜〜〜〜!!!」
クソバカ、と無意味に罵られた後に肩を引き寄せられてレオはぎょっとした。
「ちょ、ま、なななやめてくださいよ!怪我もなんもしてねえんすから!」
「うるせーよそーいう問題じゃねえんだよバカ!!こ……このバカ!!」
同じこと二回言ってるけど、と思っているレオの横から「許してあげなさいよ」という苦笑交じりの声がした。慌てて声の方向を見上げる。K・Kが苦笑気味に、ボックス席の背凭れ越しからこちらを見下ろしていた。
「…ザップっちねー。ここずーっと死にそうだったのよ。あたしが到着したのはレオっちがいなくなってから五日目だったけど。もうその時には任務関係ないとこじゃ殆ど誰とも口利かなくて、ツェッドっちでよーやくってとこだったわ。お陰かどーか知らないけど、…ま、だから逆にスティーブンは理性を保ってられたのね」
「………へ」
マジすか、と思わず言ってしまったレオのことを見ながら、「マジよ」とK・Kは笑って肯定した。
「…クラっちが何度も何度も部屋に呼んで話してたわ。事務所にずーっと泊まってたし。…だからレオっちから連絡があったって知った時にね」
そこまでK・Kが静かに言った時だった。
「姐さん」
きっぱりとした声が聞こえた。
「………、」
それは勿論、レオを抱き締めている男が発した声に他ならなかった。
「…………………。」
K・Kはザップのそれを聞いて、「しょうがないわねこの男は」とやっぱり苦笑して言うと、ちょっとだけ首を傾げる。
「…ともかくレオっちのこと、心配してたのよザップっちは。…だから今くらい」
許してあげなさい、とK・Kは言うとひょいとまたボックス席へと座り直した。向こう側から、声が聞こえる。
「…しっかしあんたクマひどいわよ。大丈夫?」
「………ちょっと寝る…」
疲れた、というスティーブンの声が背凭れの向こう側から聞こえたが、レオはそれに意識を割いている暇がなくなってしまった。
「…………ザップさん」
「………うるせー」
泣いてねえかんな、と言った後にザップは顔を傾けてレオに寄りかかった。語るに落ちてる、とレオは思ったけど口にはしなかった。首に彼の細い髪があたって少しくすぐったい。けれど、レオは文句も言わなかった。代わりに項垂れているザップの頭にそっと右手を伸ばして、たまにされるみたいに彼の頭に手をのせる。いつもだったら絶対に文句を言われるし、悪ければ蹴飛ばされるのに、今回は何も起きなかった。その代わりと言ってはなんだけれど。
ふとレオは気が付いた。ザップが何かを握り締めていることにだ。
「……………それ」
きらりと光る見慣れたそれに、レオは嫌という程見覚えがあった。
「……だから言っただろ」
そう言ったザップの声は、震えてはいなかったけれど別の意味でレオはごくんと唾を飲み込んでしまった。
「…………え?う、嘘。ずっと?」
「…あたりめーだろバカ。………待ってるって言ったじゃねーか」
その後、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回されたがレオは絶句してしまって何も言えなかった。ザップの右手の中できらきらと輝いていたのは、銀色の、見慣れた。
レオの家の鍵だった。
あの時、レオがザップに押し付けたともいえるそれを、ずっと。
ザップは持っていたのだ。
勿論右手にじゃあないだろうけど、とレオは思いながらも小さく彼の名前を呼んでいた。
「…………………………ザップさん」
酷く長い間を空けてそう言うと、なんだよ、と漸く先輩はまともに返事をしてくれた。
「…ごめんなさい」
さっきも言ったそれを繰り返したが、今度はザップから悪態は吐かれなかった。ただし返事もなかった。
「…………その、…えーと」
正直、自分はザップと別れてからほんの数時間しか経っていないから、こう言うのも違和感がありはする。けれどたぶん、ザップにとっては三週間は永遠にも匹敵する時間だったに違いなかった。
「…………ただいま」
そう言ってそっとザップから離れたが、先輩は文句を言わなかった。
「…………。」
無言でレオのことをじっと見つめている彼に、レオはへらっとした笑みを向ける。
「…俺ん家行きますか?」
「…………………………………アホ」
そういう約束だったじゃねーか、と言われたあとに、今度こそさっきみたいに抱き締められる。
だからレオはまた笑ってしまった。「笑ってんじゃねえよ」という先輩の拗ねた声を聞いても、なお。
熱を出している気分だったり。
千鳥足だったのは自分だけじゃなかったらしい。
言うなれば、熱は引いたけど変な方向から殴られたり、千鳥足は何とかなったが足場が崩れたような。…たぶんザップからすればそんな感覚だったのだろう。
「お疲れっしたー」
そう挨拶したあと、お疲れ、お疲れ様ですという同僚の声を背中に受けながら、レオは店の裏口から外に出る。「おせーよ」道路の方に顔を出した瞬間に浴びせられたその暴言に顔を顰めつつ、スクーターの停車場に向かった。停車場と言っても道路に横付けしているだけだから、乗っているとは言え警察に見つかるとちょっと面倒臭い。
「あのー。別に迎えに来なくても大丈夫っすよもう」
体裁悪いっす、と言って頭を掻いたレオにヘルメットが押し付けられた。
「いーから乗れ」
「………はぁい」
分かりました、と肩を竦めてゴーグルをした後ヘルメットを被る。ふん、とザップは鼻を鳴らした後、スクーターを発車させた。
あれから既に一週間経過しているが、その間、恐るべきことにザップはレオのことをバイト先まで迎えにくるようになった。一日目は驚いて、二日目は戦いて、そして三日目からはレオは「やめてください」と拝むようになってしまった。
「体裁が悪いんです」
「お前体裁と俺とどっちが大事なんだ」
…という、無意味な押し問答は既に何度目か分からない。どうやらザップにとって暫く電車はトラウマになってしまったらしい。電車に悪いなあ、と思いながらもレオはほぼ毎日ザップのスクーターで家に帰っている。
「あ、ザップさん。駅寄って下さい」
「ああ?このまま帰るのに何言ってんだよ」
「違いますよ。駅にほら、合鍵屋あるじゃありませんか」
「俺普段電車使わねえからわかんねえよ」
あるんですよ、とレオは言ってザップの服を引っ張った。
「そこ行きたいから寄って下さい。鍵作る」
「なんでだよ。失くしたんかこのドジ」
そう不思議そうな声でザップに言われて、レオはちょっと逡巡した。てゆか今何で罵った。息をするように俺を罵るのやめてくんねーかな普通にムカつくわ。そう思いながら、「失くしてねえっす」とレオは否定する。
「んじゃ何でだよ。俺はもう腹が減ったんだよ。どっかで飯食って帰ろうや」
「ビビアンさんとこまだ開いてるから行きましょ。あ、てゆか帰る帰るって俺の家っすからね。…あと、鍵は別に失くしてないけど合鍵が要るんです」
「なんでだよ」
何でここまで言ってわかんねえんだよ、とザップのことを脳内で罵りながら、「だから」とレオは言ってちょっと声を低くする。しかし直後、渋滞と思しきそれにつかまったせいで、スクーターは徐行し始めてしまった。当然、エンジン音は小さくなり、声も前には届きやすくなる。
「…ザップさん、い、いるでしょ。鍵。俺の家の」
「あ?」
だから、とまた言いながら、ついに止まってしまったスクーターの後ろでレオは俯いた。
「…要るでしょ鍵。俺の家の」
そう言ったレオの耳には、何も返ってこなかった。無視かい、と思いながら無意味にザップの服の裾を弄っていると「んー」という、ちょっと困ったような、悩んでいるような先輩の声が聞こえてきた。
「……………いや、いい」
「へ」
「……いい」
「え?」
だからいいって、とザップはぶっきらぼうに言うと、黙った。
「………………い――いい?」
「…あー、…うん。いい。…要らん」
「……………。」
要らんって。そこまではっきり言われると最早何を言っても無駄という雰囲気しか感じ取れない。呆気に取られているレオの前で、ザップはどうやら少し悩みながら、口を開いたらしい。
「……………なんか、…まだいい。そーいうのは」
「ま、…え?な、…そ、それって」
別れるってことすか、と思わず言ってしまったレオの前で、「はあ?」とザップがぎょっとしたように声を上げた。
「おま、誰がそんなこと言ったんだよ。別れねーよバカ」
そう言って振り返った先輩の眼も表情も明らかに焦っていたので、嘘じゃないらしい。それを目にしてレオはほっとした。ザップはレオのほっとした顔を見て、伝わったと分かったらしい。彼もほっとした顔になると、また前を向いた。車は依然として進む気配を見せない。
「…おめーがいねー間俺はずっとソレ持ってたんだけど」
そう言った声は少しだけ拗ねている声だった。むしろ拗ねたいのは俺なんですけど、と思いながらレオは「鍵ですか」と聞き返す。
「そうだよ」
ザップはそれを簡単に肯定した後、少し黙った。そして考え考えとでもいうかのように、話を続ける。
「…なんかよ、…ソレいつも使ってんのってレオだろ。レオの家の鍵なんだから」
「?そうすね」
当たり前のことだったので、無論レオはこくんと頷いた。ザップには見えないだろうけれど。
「……だから…なんつーか……………あー…ソレが俺持ってりゃおめーがさ、…取り返しにくんだろーなって俺は思ってたんだよ」
言い難そうに、気詰まりそうに、そして僅か嫌そうにザップはそう言って、黙った。エンジン音しかレオの耳には入ってこなくなる。
「………………え?」
「…だから。ソレ二つもあったらなんか……スペアがあればいいみてーでヤだろ。……一個失くしてももう一個あるっつーか。……鍵はそりゃもう一個作れるけど」
おめえは一人じゃん、とザップは言って舌打ちをして前方を覗き込むようにした。「…進まねえな」そう忌々し気に言った彼の声を耳にしながら、レオはぼーっとザップの背中を見つめていた。
「………だからまだいーよ。ソレはおめーが持ってろ。…んで俺はお前の家に行きてえ時は」
お前に会いに行くから、とザップが言った後、前方の車がゆっくりと動き始めた。「ったくまだるっこしいなオイ。もーいいわ。オイ進むぞ」そう言ってザップはスクーターを発進させる。車の間を器用にすり抜けていくランブレッタに跨りながら、レオはぽかんとして先輩の後姿を見つめている。
――――会いに行くから。
「…………………………………お、」
俺決死の覚悟で合鍵って言ったんですよ、と言った声は、内容の割にちょっと弾んでいて、レオは自分で自分に呆れてしまう。が、ザップはそれに気が付く様子もなく、早口でレオのそれに返事をした。
「だからそれはまたあとで作れよ。まあ今でも入ろうと思や入れるしな」
「それはピッキングと言うんです」
言ったがどーした、と言ったザップの声はやっとおかしそうだったので、なんだよ、とレオも笑ってしまう。なんだよもう。俺もそーだけどあんただって浮かれてんじゃん。三週間も俺がいなかったらしいのに。合鍵要らねえって言われたのに。
―――なんだかまだまだ。
まだまだだ。
「…熱ってなかなか冷めないっすね」
「そりゃーよっぽど重い風邪なんだろ」
お互いにそうみたいっすよ、とは流石にレオは口にしなかったけど。
結局二人で爆笑しながら家に帰ったのだから言ったも同然だった。
さて、熱を下げる薬はないし、頭に乗せる氷嚢もない。体温計はおかしいことに標準値、けれどもレオの手に握られている銀色の鍵はちょっとだけ。
ちょっとだけ、冷たくて気持ちがよかった。
終