storm
2018/04/15
しっかりと握られた手を意識する暇なんか一切なかった。
走る走る走る。春一番もかくあらん、言わば嵐が巻き起こる中走っている。「……っ、い…っ!」「おいどーし…、…げほげほげほ」口を開けばうまく呼吸がし難いくらいの突風のせいで二人して咳き込んでしまう。げほげほ、と咳をしたあと何とか息を整えたらしい先輩がこっちを振り返った。
「ちゅーかおめえもたもた走ってんじゃねえよ!逃げ足と眼だけだろ!」
得意なのは、と付け加えられて勿論レオナルド・ウォッチがむっとしないわけがない。悪かったな、と言い返したかったが今はそんな状況ではない。そんなことよりもと思いながらなんとか一歩先に進む。
「ざ…っぷさんが、俺を、…っげほ、ちゃんと連れてかないから…!って!」
「あー!?なんだ!?」
聞こえねえぞ、と言いながらザップが一歩前に進んだ瞬間、一瞬風が弱まった。あ、と言いながらザップに手を引っ張られる。乱暴なそれに悲鳴を上げつつ、レオも一歩先に進んだ。どうやら丁度台風の目のような場所に入り込めたらしい。丁度スクランブル交差点の真ん中だった。
息を整えながら足を止めたレオのことを引っ張っていた男がおわ、と声を上げた。いきなりレオが止まったからだろう。
「あっ…ぶねえな!突然止まんなよ!」
「……、………………って、……はー…」
疲れた、と言ってよろよろとしゃがみ込もうとしたが、ザップにまた手を引っ張られた。「あたっ」「バカてめーもたもたしてっと…、」ザップがそこまで言った時だ。二人の後ろから巨大な爆発音が聞こえてきた。ぎょっとした顔で振り返ったレオに、ザップがほれみろ、と疲れた様子でそう言う。
「おめーがノロノロしてっからだっつーの。オラ行くぞ!」
「だ、ま、…っ待って、ストップ…!!」
足が死ぬ、とぜいぜいと息をしながら訴えたレオにザップは舌打ちをすると、しゃーねえなと言いながらライターを取り出した。「あっ…、だ、だいじょう、だいじょぶですそこまで、」ライターに気が付いたレオはそう言って止めようとしたが、既に時遅かった。既にライターをぎゅっと握り絞めたザップの手から血がびゅんと伸びていくのが見える。
「す……っ、…すんません……」
ぐったりとしたレオがそう言ったのを聞いているのかいないのか、ザップは面倒臭そうな顔をしてその辺の手摺に血を巻き付けた。「行くぞ」そう言ってそのまま手摺の方に向かって足を蹴ったので、レオは慌ててザップの腕に掴まった。「わ…っ」身体が浮く感覚はどうあがいても慣れないが、先輩はそうでもないらしい。面倒臭そうな顔のまま、ひょいと手摺の下辺りにある看板の上に着地した。
「…ったくよー…なんで俺がんなめんどくせーことを…」
「すんません…」
ぐったりしながらそう言ったレオは、そっと看板の下に着地した。跳んでいる途中でいつの間にか先輩はレオのことをきちんと抱えてくれていたのだ。荷物のようではあったものの、レオにとっては十全だった。
「………逃げきれますかね…」
「逃げ切るんだよ。俺はおめーと心中なんざごめんだかんな」
それは俺もですよ、と苦笑しながら立ち上がる。少し足が縺れたが、ザップの腕には掴まったままだったので落ちることはなかった。「……、」ふう、と息を吐いたレオを眇めるように見下ろして、んじゃ行くぞとザップは再びライターを取り出した。
「あ、だ、大丈夫ですよ。もう走ります」
「ぬゎーにがもう走ります、だよ。間に合わねえだろおめえの鈍足じゃ」
亀なんだから空くらい飛べよ、と言われたが意味が分からない。亀は泳ぐもんだと思うんですけど、と思っているレオの身体がひょいと抱えられた。「わっ!?」「遅え。ほら行くぞ」「わ、だ、ちょ、」ちょっと待って、と言いながらじたばたと暴れようとするよりも先に、ザップが看板を蹴飛ばしていた。びゅん、という音と一緒に自分の身体が正面にあるビル向かって動いていくのを感じる。振り子にでもなった気分だ。
「わ…っ!!ぎゃああああああああ!」
「だーもううるせーなぁ!何度目だよ!」
慣れろっつーの、と文句を言っている割にザップの声は楽しそうだ。こんな時に、とレオが嘆く前にぶつんという音が聞こえた。「へ」そう言って上を向くと、ついさっきザップが巻き付けていた血が手摺からぶっつりと途切れている。「…えっ」小さく悲鳴を上げたレオの身体がしっかりと抱えられた。「わ、ざ、」ザップさん落ちる、と言ったレオはレオでザップの右腕に慌てて掴まった。お前後ろ頼むわ、というまるで明日起こしてほしい、とでもいうかのように呑気な先輩の声を聞きながら、レオナルド・ウォッチはビルの上から先輩と共に落下した。
「……っわ――――――!!!!」
「喚くなバカ!死なねえよ!」
お前誰と一緒にいると思ってんだ、というザップの声と一緒に風を切るような音がする。死ぬ死ぬ死んじゃう、と喚きつつもザップの腕にしがみついているレオを、ザップはまるで荷物のようにきちんと抱え直した。「…よっ」どこかに血が巻き付けられたらしい。そのまま振り子のようにザップに抱えられたレオはびゅんと空中を滑空した。
「……っ、ざ、…っぷさん、ですけどね!でも怖い!怖いもんは怖いんです!」
普通の人間は空飛ばないの、と言ったレオにザップは笑って答えた。「この街で普通が通じると思ってんじゃ、」ねえって、と言ったザップの後ろから追手が見えた。「あ…っ」来ました、と言って少し身を乗り出したレオに、おうとザップはどうでもよさそうに言った。
「んじゃー派手にやっちまえ。首一つ残すんじゃねえぞ」
「怖いこと言わんでください」
そう言った後に両目を開く。ゴーグルをしている暇がなかったせいで、眼が少し痛かったがそんなことを言っている余裕もない。ビルの屋上に複数の人影を認めた瞬間、レオは小さく呟いた。「…視野混交」「馬鹿叫ばなきゃ意味ねーだろうが」必殺技はよ、というザップの声に苦笑してしまう。けれど直後ばたばたと屋上に見えた人影は転んだ。
すとんとアスファルトに着地する。「…風がやみましたね」「…いやこりゃーまたエアスポットだな。すぐ行かねえとまた二の舞だ」「ええ〜…」またかあ、と言いながらやれやれと後ろを振り返ったレオに、そーだなとザップは言って葉巻を咥えた。かちんという音と一緒に火が灯り、煙が漂う。
「……みんな事務所にいればいいですけど」
「はー…しっかしおめえの家に泊まっといてよかったわ」
そう言ったザップに、はあと言いながらレオはゴーグルをきちんと装着する。また同じことが起きないとは限らないからだ。「それはどーいう意味で?」「ヤれといて」「ぶっ」あのねえ、と顔を真っ赤にしながら言ったレオに、わはははとザップはおかしそうに笑った。
「じょーだんだよ冗談。ヤろうと思やどこでもヤれんだろ」
「そーいうことじゃありませんよ!何呑気なこと言って、あ、」
突然風が吹いたので慌ててしゃがみ込んだ。飛ばされそう、と眼を瞑ったレオの横で煙草を喫っていたザップは、怠そうな顔で血の刃を作り出した。「えっ…」なんで、と言ったレオの目に巨大な刃が振り下ろされたのが映る。ざくん、という音もせず小さな竜巻が真っ二つに切り裂かれた。風って切れるのか、と驚愕の表情をしたレオの手がしっかりつかまれた。
「オラ行くぞ!振り落とされんなよ!!」
「わ…っ」
待ってくださいよ、と叫んだレオを引き摺るようにしてザップが走り始めた。慌ててレオも転びそうになりながら足を動かす。「…っ、だ、ざ、ザップさん、うで、腕大丈夫です!」走れますよ、と言ったレオに、馬鹿ちげーよとザップが怒鳴り返してきた。
「ここではぐれたら一生会えねーぞ!飛ばされてーのか!?」
「そ…っえ!?そ、そうなんすか!?」
「どう見てもそう…っだ、」
危ね、と言ったザップがこっちを振り返ったのでレオはわっと声を上げる。しかも走っていたせいで当然足は止められないから、そのまま先輩に激突しそうになった。ブレーキをかけようとしたレオをザップはそのままぼすんと受け止めると、手に持っていた刃を思い切り投げた。ちょうど槍を投げる様子に似ていたが、レオはザップに正面からしっかりと抱き着くようにして掴まっているところだったから、その光景は見られなかった。刃を投げた格好のままザップは足の力を抜いたのか、レオを掴まえたまま後ろに倒れ込む。
「わ…っ」
「…ふん」
だせー真似しやがって、と苛立ったように言ったザップの声が耳に入った。「なに――」「向いてもいいけど自己責任だな」そう言ったザップは、怠そうにレオの顔を自分の胸にぎゅうと押し付けた。「むぐ、」息が苦しい、と思ったレオの耳に今度は肉を切り裂く音が聞こえてきた。どしゃどしゃ、という音と共に血と肉塊が辺りに散らばる。ひっとレオは息を呑んで顔を青くさせた。次いでぶん、と頭上を何かが動いた音が聞こえる。「なに…」「だから」頭上げんなって、とザップは言うとアスファルトにレオを思い切り押し付け、すぐに自分は反動をつけて立ち上がった。レオが押し付けられた割に余り痛みを感じなかったのは、恐らくザップが殆どの抵抗を受け流し、かつ衝撃をレオの代わりに受け止めてくれたからだろう。はっとして上空を見たレオの顔に影が映る。ザップではない、と思うと同時にザップが葉巻を咥えながらぼそりと呟いた。
「二秒後」
「……っ、」
ウス、と返事をするより先に何かと何かがぶつかりあった音がした。すぐに起き上がったレオの目に、団体と思しき何かがやって来るのが眼にはいる。「……っ、視野、」
混交、と言いながら目を開いたその瞬間、ばたばたとまるでスケート初心者のように団体がその場に転がった。「…上出来」笑ってそう言ったザップがかちんとライターの蓋を開けた音が聞こえる。慌てて立ち上がったレオの腕がまた掴まれた。
「おわっ」
「転けんなよ」
そう言ったザップがぽいと後ろに煙草を投げるよりも先に、二人の背後からはぼんという爆発音と一緒に何かが燃える音が聞こえた。「…………うわ…」火事になりませんか、と言ったレオになるかよとザップは呆れたように言う。「なったところでどうしようもねえだろ。今更」「はあ…」それはそうかもですけど、と言ったレオはしっかりとザップの手を握り返した。
「お。なんだダーリン。世界の終わりに抱いてほしいってか?」
「ひとっこともそんなこと言ってねえし世界が終わるとは決まってませんよハニー」
顔を顰めてそう言ったレオにザップは爆笑した。まあこんなやり取りができるだけマシなのかもな、とレオは思いながらザップと一緒に走る。後ろからやってくる追手は恐らく徐々に増えていくだろう。世界が一体いつこんな風になってしまったのかは定かではないが、少なくとも昨日の夜はこんなことなかった、とレオは回想する。バイトから帰る途中でザップとたまたま一緒になり、あとはさっきザップが言った通りだった。レオの家でいつも通り一通りいちゃついた後、世間話をして明け方眠った。翌日レオは全休だったし、ザップは夕方辺りにライブラに行く予定だった、と後から聞いた。
起きたら世界はよくわからなくなっていた。
竜巻がその辺で起きていたし、突風はまるで刃のようにその辺を切り裂いているし、なぜか知らないが覆面を被った怪しい団体が誰彼構わず殺人しているし、どこからやってきたのか分からない電車の中からはゾンビたちが溢れていた。テレビはいつも通り機能していると思いきや、アナウンサーはキョンシーだった。血色の悪いアナウンサーが今日の天気はスモモのちポタージュスープでしょう、と言っているのを聞いてレオは口を開けてしまった。本当にポタージュスープが降ってきたらどうしようと思っていたが、降ってきたのはポタージュよりも血の雨だった。
「…ったくよー。電話は通じねーしその辺は血の海だし…サメが降ってきたらどうするよ」
「それはこないだ俺が見ていた映画じゃないですか…」
クソつまんねー映画だったなとザップは酷いことを言うと、足を止めた。ぜいぜいと息を吐いてレオは顔を上げる。信号が赤を示していた。「…こんな時に信号守るんですか?」相も変わらず周りでは叫び声と突風と爆発音、それからなぜかかのホルストの組曲『惑星』が延々と流れていた。一体どこから流れているのかさっぱり分からない。
「……んー…なんっか今行かねえ方がいい気がするんだよな」
多分、とザップが言ってじっとスクランブル交差点の中央部を睨む。ちょうど二人でさっきとは違う交差点に辿り着いたところだった。「?でも後ろから―――」何か、と言ったレオの目の前、ちょうど交差点の真ん中あたりから巨大な鯨が顔を出した。
「げ…っ」
嘘だろ、と引き攣った顔をしたレオの横で、ほらなとザップは言うと再びポケットからライターを取り出した。「え…っこ、殺しちゃうんですか!?」「バカ見ろよ。ありゃあ捕鯨団体じゃなくても文句言わねえわ」「へ…」びゅんとザップが血を伸ばしてそのまま鯨を一刀両断する。途端に鯨は爆発炎上した。
「うええええ!?ロボット!?」
「……ソニ・ロッソんとこの実験体だな…」
そうザップは嫌そうな顔をして言うとポケットにライターを戻す。その名前、とレオは顔を上げる。「だってそ、そこは確か先週、」「だからあれがフェイクだったんだろ。俺らのとこまで下りる前に潰されたっつーのがなんかきな臭えと思ってたんだよなー…あーあ」スターフェイズさんが何て言うか、と言ってザップは頭を掻いた。
音楽が切り替わる。組曲―――惑星の中で一番有名な、『木星』が流れ始めた。「……木星だ…」「?なにが」「曲ですよ…」そう言ってレオはぐったりと息を吐くとその場にしゃがみ込む。「も〜〜〜〜〜…気が狂う…」「発狂すんなら一人でしろよ。俺はそこまで面倒見きれねえからな」にしても疲れるわとザップは言うとがりがりと頭を掻いた。
「………あーあ。なあ俺今日キャサリンと会う約束あったんだよなあ。会えると思うか?」
「知りませんよ…夜までに何とかなるなら会えるんじゃないですか…」
そう言ってレオは溜息を吐いた。なんだか世界が大変なのに、この人はいつもながら呑気だなあと呆れてしまう。確かに修羅場は何度も何度も潜っているだろうし、その深度はレオと比べ物にはならないだろうが、それにしたって呑気すぎる。ザップはいつの間にか咥えていた葉巻を口から離すと、ふうと息と共に煙を吐き出した。
「…んじゃ今日もお前ん家か。いい加減お前の朝飯飽きたんだよな」
「人が作ってやってんのに何すかその言い草は。もう明日から作りませんからね」
そう言いながらおかしいなあとレオはふと思った。今、こんな状況だというのに、明日の朝食の心配だなんて。明日の朝食どころか今日の生命の危険がまず心配だ。「そこはお前、じゃあザップさんの為に頑張って朝飯作りますね、とかかわいーこと言えよ」「ザップさんの考える可愛いが都合のいいって意味だって分かりました」そう言ってレオは立ち上がる。どーいう意味だよと顔を顰めたザップに、そのまんまの意味ですとレオは肩を竦める。
「…てゆかいい加減どっか腰落ち着けたらいいんじゃないですか。家くらい借りた方がいいっすよ」
「家賃払う金があんなら馬券を買うね」
「クズだなー…」
はあ、と溜息を吐いたレオにおめーなとザップがじろりと睨んできた。「そーいうこと言うと次万馬券当たった時何も奢ってやんねーかんな」それを聞いて勿論レオはふんと鼻を鳴らして腕を組む。「当たったところでザップさんはすぐ破産しますからね。大体そーいうこと言う人に当たりがくるわけないんですよ」レオがそう言ったせいか、ザップはんだとコラと言ってレオの背中を蹴飛ばした。いてっと小さく悲鳴を上げる。
「お前もーちょい可愛げがある妬き方しろよ」
「どの辺から俺が妬いていると思ったのか理解に苦しむんですけど…嫌なら俺は嫌ってはっきり言いますよ…」
そう言ってレオは立ち上がった。
「はい」
そう言って手を差し出すと、ザップは目を瞠った。「なんすか。はい」そう言ってずいと手を差し出す。「…………オウ」そっかそっか、と意味不明なことを言ってザップはそのままレオの手をしっかりと握る。直後思い切り掴まれたレオの手が引っ張られたので、わっとレオは声を上げた。
「何――――、」
文句を言う前にぎゅうと抱き締められたので、レオはわあと声を上げてしまった。「な、な、なんですか!?」「…………、」さあな、とザップは間を空けて言った後に物凄く嬉しそうに笑うと、ぱっとレオから離れた。ただし手はしっかりと握られたままだ。呆然としているレオの手を握ったまま、んじゃ行くかとザップは言って再び走り出した。
「わ…っちょ、ちょっと、」
待って、と言いながらレオも走り出す。「て、てゆかどこに向かってるんですか!?どの方面!?」ライブラに繋がるドアの位置は日によってまちまちだ。だからそう聞いたレオに、しかしザップは知らねえよと爆笑しながらそう返事してきた。
「はい!?事務所じゃないんですか!?」
「知らん!いーからお前はちゃんとついてこいよ!」
基本は自己責任だ、と言ったザップにレオはそれはわかってるけど、と泣きたくなりながら返事をする。ガラガラという音が聞こえたのではっとして後ろを振り返ると、ビルの中から現れた巨大イカが屋上に設置してある貯水槽を破壊しているのが見えた。
「……………ザップさーん…」
「ああ?なんだよ」
レオ、というそれに前を向く。「……明日の朝食は外行きませんか。ダーリン」「怠けてねえでお前が作れやハニー」その答えを聞いて、レオは今度こそ深く深く溜息を吐いた。
終