手を繋いでから1,2,3
2017/10/30
せーの、と言ったのは自分だけだった。
「ぐっ………、ぬぬぬぬ……!!!」
「………………………。」
必死に腕に力を込めているレオナルド・ウォッチの前には先輩が座っている。ぎゅっと目を瞑って俯きながら力を込めているレオとは違って、先輩は怠そうな顔で明後日を向いていた。ふわあ、という声がしたところを見るとどうやら欠伸をしたらしい。舐めやがって、とレオはもう一回腕を動かそうとしたが、自分の右手は面白いくらい微動だにしなかった。「……………飽きた」その声が聞こえたと同時に、レオの腕が漸く動き始める。
ただしレオが望んでいる方向とは全く反対に。
「…んじゃ負けた方が昼奢りな」
「は!?そんな約束はしてな、あっ」
顔をあげたその一瞬で、レオの右手がテーブルの上に倒された。手の甲にテーブルのひんやりした感覚が伝わってくる。決して乱暴ではなかったが、それが優しさではなく怠さからきているとレオは知っていたので、嬉しくも何ともなかった。
「っあ〜〜〜〜〜…!また負けた…!!」
「…てゆかお前マジで俺に勝てると思ってんの?」
マジで思ってるとしたらめでてー通り越して狂ってるぞ、と酷いことを言いながら、先輩であるザップ・レンフロはソファの背凭れに寄りかかった。それを聞いてテーブルに突っ伏す様に身体を倒しているレオは口を尖らせる。「…万が一ってことがあるかもしれないじゃないすか」「ねーよバカ。あったらその日人類滅亡だわ」もっと酷いことを言われた、とレオは思いながら漸く身を起こして、ソファに座り直した。
霧の街はヘルサレムズ・ロット―――元紐育であるこの都市は、今日も今日とて霧の都ロンドンもかくやという有様で、事務所の外の風景はまるでというよりも本当に異世界だ。ただ住んでいるだけでも外界と比べて致死性が非常に高い。
そしてそんな街でも外界と変わらないことがある。
人間であってもそうでなくても、暇だと退屈するということだ。
退屈というものは罪深く、たとえばどこかの王様が暇潰しに神様と呼ばれる存在を召喚したり、ベーコンエッグが焼ける間に意味不明な生き物を生み出して一般人を拉致ったりする。果たしてそれが普遍的なものかどうかはさておいて、レオもザップも本日七日目になる待機時間に暇を持て余していた。
世界は何でも起こるのに。
起こる筈なのに―――なのに何故かずっと事務所待機が続いている。それこそ世界が遂に疲弊してしまったのかもしれない。小競り合いはあるものの、事件という程の出来事は起きていない。
だから待機二日目には、既に二人は遊び始めた。たまに後輩であるツェッド・オブライエンや同僚チェイン・皇を巻き込みながら、オセロだのUNOだのトランプだので遊んでいる。二人でやるババ抜きには三回目で飽きた。そこで昨日から二人の間で腕相撲が流行り始めた。つまりカードゲームとボードゲーム、ついでに言えば携帯ゲームにも飽きたのである。
昨日、退屈が極まったのでレオは遂に事務所で寝てしまった。仕事中だということはわかっていたが、うっかり睡魔と友達になってしまったのは油断と普段の疲労からなのだろう。十分も眠ってはいなかっただろうが、はっとレオが目を覚ました時、最初に目に入ったのはザップの腕だった。
どうやらいつの間にか横に座っていたこの男に寄りかかって寝ていたらしい。その割に、ザップはレオが起きても一言も文句を言わず、だらだらと一人でモンスターを刈っていた。かちゃかちゃというボタンを連打する音が、天井のサーキュレーターの音と一緒にレオの耳に入ってくる。
『…うでずもう』
腕を見たからなのかもしれない。最初に言ったレオのそれに、ザップがは?と当たり前だが不審げな声を上げた。『…あー、いや……昔よくやったなーって…、………はざすザップさん…』おう、という先輩の声を聞きながら、レオはふと思った。気まぐれに、無作為に、特に何の意図もなく。
『…ザップさん、腕相撲しましょう』
『―――――へ?』
お前と俺が?というその時のザップの声は驚きより呆れの方が勝っていた。
ぼーっとそれを回想していたレオを他所に、ザップが立ち上がる。「ほれ飯行くぞ。お前の奢りな」「だからそんな約束してないですよ」そう言い合いながら二人で事務所を出た。
確かに腕相撲じゃ勝てる見込みがない。「……一体いつ勝てるのかなぁ」「だから」勝てる見込みはねえよ、とザップは笑って言うと、レオの皿にあるミートボールにフォークを突き刺した。あ、とレオが非難する前にすぐにミートボールはザップの口の中に消えてしまった。
「俺の貴重な動物性たんぱく質が!」
「分かり難いボケはやめろ」
いやボケじゃねえし、と顔を顰めたあとに自分でもミートボールを口に入れた。ミートソーススパゲティも美味しいけどこっちも美味しい。そう呑気なことを思いながら、ねえザップさんと横にいる先輩に話しかけた。
「なんだ」
「なんか必勝法とかねーんすか。腕相撲」
「それを俺に聞くのかよ。お前」
噴き出す様に笑ってそう言われてしまった。確かにそれもそうだ、と気が付いたが、どのみちザップでなくとも勝てる見込みのある相手はあんまりいない。悲しい事実には気が付かないふりをして、レオはいいじゃないですか、と半ばやけになってそう言った。「ザップさん狡いから裏道知ってそうだし」「おいコノヤロウ」褒めてねえだろ、とザップに側頭部を小突かれた。
「…必勝法ねえ。ぶっちゃけ俺フツーの人間よりつえーじゃん。腕相撲に限ってっつーわけじゃねえけど、力使う系じゃフツーにやってりゃ勝てるんだよな」
真面目な返答が返ってきたことにちょっと驚いた。まさか本気で考えてくれるとは思ってもみなかったからだ。「………。」だからびっくりした顔をしているレオを見て、なんだよとザップが不審げに言った。「あ、いや。真面目に考えてくれるとは思ってませんでした」反射的にそう言ったレオは、まずいとすぐに思ったが、ザップは暇なんだよと毎日の空白染みた時間にほとほと飽きたらしくそう言った。そういえばこの男はずっと事務所で退屈だ退屈だと零していたのだ。仕事が好きと言うより、身体を動かしたいらしい。
「ん〜〜〜〜…でもほら、ザップさんクラウスさんには負けるじゃないすか」
そう言った瞬間思い切り頭を殴られた。「いって!」ごん、という音が脳髄から身体の奥底にまで響いた気がして、ついでに目の前を星がちかちかと舞った。「っだ…なに……、……あ」分かり易く拗ねた顔で先輩はカウンターの奥を睨んでいる。「…………。」確かにこれは俺が悪い、とレオは思うとごめんなさいと素直に謝った。毎度毎度挑んでいる先輩を見飽きているから慣れてしまっていたが、よく考えたら、毎度毎度ということはつまり毎度毎度勝ちたくて挑んでいるのだ。俺が口にすることでもなかった、とレオは反省すると、ごめんなさいともう一度言った。
「…二度言わんでも聞こえるわボケ」
「ごめんなさいってば。怒んないで下さいよ」
そう言ってはい、と言いながらフォークでミートボールを突き刺した。「…………怒ってねえよ」そう言ってザップは拗ねたまま口を開けた。「怒ってるじゃないすか」そう苦笑いしてひょいと彼の口にミートボールを入れると、素直にザップはそれをもぐもぐと食べたが顔はまだ不貞腐れていた。
ちょっと驚く。怒る時は一気に怒る、火山のような男だったから、こういう怒り方は珍しいのだ。不貞腐れることも拗ねることも勿論あったが、余りレオの前ではそういう顔をしない。
ミートボール一個じゃ誤魔化せないか、とレオはもう一回同じことを繰り返してみる。ザップはまだ拗ねたような顔をしていたものの、結局無言で口を開けた。俺の動物性たんぱく質、と思わないでもなかったけれど、ミートボール三個でこの男の機嫌が直るならそれはそれで儲けものだ。
そうしている間に、食後と思しきコーヒーが運ばれてきた。
「お待………、………あんた達さあ」
ビビアン・ヒルは呆れ半分苦笑半分と言った様子でコーヒーをレオとザップの前にそれぞれ置いた。
「仲良いよね。ほんとに」
レオが反論する前に、彼女の父親の声が奥から聞こえてきたせいで、ビビアンははーいと返事をしてすぐに厨房へ戻って行った。「……、」無意味に差し出した手をのろのろと下ろした後、少し気まずく思ってのろのろとフォークを戻そうとする。
が、それよりも先にザップがレオの手首を掴んでいた。「へっ」声が裏返った理由はびっくりしたからだと思いたい。そして直後、レオのフォークに刺さった四つ目のミートボールがザップの口の中へと消えた。
「……………あ〜〜〜…」
俺のミートボール、と言ったレオに、ザップはごっそーさん、とふてぶてしくもそう言って、少し首を揺らして笑った。「…………。」なんなんだ、とレオは思いながら今度こそ自分の分のミートボールを口に入れる。突然先輩の機嫌がよくなった理由はさっぱり分からなかった。
必勝法ねえ、と言いながら本のページをぱらぱらと捲った上司は呟いた。「暫く僕はやってないからなあ。腕相撲」「へえ。そうなんですか」意外だなあ、という思いが口調に表れていたらしい。そりゃどういう意味だ少年、と言いながらスティーブン・A・スターフェイズが顔を上げた。
「いや、スティーブンさんホームパーティーとか沢山してそうなので、そういうのやってそうだなって」
「そーかあ?俺そーいうイメージねえよ」
そう言ったザップに、まあなあ、とスティーブンは頷いた。「あんまりやらないな。前にクラウスとやったことはあるけど」それを聞いた途端、ザップががば、とソファから勢いよく起き上がった。彼は寝転がってだらだら雑誌を読んでいたのだ。ちなみにレオは向かいのソファに座って庶務をしている。
「マジっすか。そんでどっちが」
「引き分けた。僕もあいつも若かったからな。机が割れた」
苦笑しながらそう言ったスティーブンに、なんだと言いながらザップは再度ばたんとソファに寝転がった。「………。」よっぽど勝ちたいんだなあ、とレオはちょっとおかしくなって笑ってしまう。何笑ってんだと目敏く先輩に指摘された。
「や、な、なんでも………うーんそれじゃーやっぱり力をつけるしかないっつーことですかね。腕相撲の勝利条件は」
「それしかっつーこたねえだろ。ただそれが一番分かり易いし勝った気になるっつーことじゃね?」
「勝った気?」
どういう意味ですか、と首を傾げたレオに、だってよ、とザップは言いながらぱらぱらと退屈そうに雑誌を捲った。「だまし討ちして勝ったとこで大して嬉しくねーし勝った気にもなんねーじゃん」「…………。」部屋に無言が起きる。あまりにその沈黙が長かったせいか、ザップが不審げな顔をひょいと上げた。
「なんだよ」
「い、いや……デスマッチ戦に上司を騙してエントリーさせた人の言う台詞がそれかよと思いまして…」
引き攣った顔でそう言ったレオにあわせて、僕もそう思う、とスティーブンがこちらを見もせずに呟いたのが聞こえた。途端にザップは顔を顰めて再度雑誌に顔を戻してしまう。
「るせーなバカ。勝てば官軍だ」
「うおう…ここまで勝手な人中々会えねえな…!!」
何だとコラ、と言いながら遂にザップが立ち上がった。げっとレオはホチキスを持っていた手を止める。「大体てめーが必勝法だのなんだの聞いてきたからじゃねーか。それを俺はこうやって真面目に考えてやってんだぞ」俺に一生勝てるわけねえかわいそーな陰毛クンによ、というその一言が余計極まりなかった。悪かったなとレオは眉根を寄せて、そらすんませんねと肩を竦めた。
「いーですいーです。ツェッドさんにでも聞いてみます。頭脳作戦があるかもしれませんし」
「ねーよボケ。あのなどー考えても腕相撲にそれはねえだろ」
てゆかおめえ誰に勝てるんだよ、というそれにレオは顔を上げた。「そりゃ誰かには勝てますよ。誰かには」「誰なんだよそれは」「だから誰かです」べえ、と舌を出してそう言った瞬間だ。ザップがテーブルを身軽にもひょいと飛び越えてきたのでレオはぎょっとした。「わっ!?」テーブルががたんと音を立てたせいか、ザップ、とデスクの方からスティーブンの声が聞こえてくる。
「程ほどにしろよ。あんまり苛めてやるな」
苛めてってあのう、と反論しようとしたレオよりも先に、ザップの方が口を利いた。「わーってます。……おしそんじゃ俺がその誰かかもしれねーもんな。やってやらー」
「へ?」
なにそれ、と言う間もなく手を掴まれて無理矢理立たせられた。「わっ」悲鳴を上げた自分も、それからばさばさと音を立てて落ちた書類は放置され、無理矢理テーブルに肘を付かされる。あ、と思う間もない。すぐにザップは再度テーブルの向こう側に戻ると、身を乗り出してがしりとレオの右手を掴んだ。
「……………。」
どう考えても嫌がらせだ、とレオは思って顔を顰めた。絶対にレオが勝てないと分かっているからこそ、この男はこうやって腕相撲をスタンバイしたのだろう。「………大人げねえ」そう呟いたレオの声は、幸いザップには聞こえなかったらしい。何か言ったかと言われて慌てて首を振った
「おしんじゃー頑張れよ百戦目」
「流石にそんなには……、……あ、ま、待って待って!ザップさんハンデ!ハンデくださいよ!」
「ハンデだあ?」
お前そんなんつけて買って嬉しいのかよ、とザップは呆れたように言った。「嬉しいです嬉しいです。ハンデ下さい」そう主張したレオに、ふうんとザップは呆れた様子で言うといーけど、と雑に頷いた。
「ハンデっつってもどーすんだよ。どうつけんだ」
「え?えーっと……あ、ザップさんの手の甲をもうテーブルすれすれにしとくとか」
「別にいーけど」
あっさりとそう言われてレオはぎょっとした。「え?いいんですか?」「いーよ別に。勝てるし」「………。」あっさりとした了承は、どうやら絶対に勝てるという自信の表れらしかった。むうと膨れた顔をしたレオを見て、ザップはなんだそれとおかしそうに言った。
「はははなんだお前フグかフグ。クッソ可愛くねえ」
「………そうは聞こえないけどな」
遠くからスティーブンがぼそぼそと言った声が聞こえたので、レオもそうだがザップも同時に振り返った。「何か言いました?」「何か言いましたスターフェイズさん」しかしスティーブンは、いいやなんでも、と何を考えているのかよく分からない声で返事をしたうえ、顔を本で覆っていたので一体彼が何を思っていたのか全く分からなかった。
「……んじゃはい。ここですよここ。本当にいいんですか。俺一秒で勝っちゃいますよ」
「はいはいいーよいーよ。勝てるもんなら勝ってみろよ」
「……………。」
舐めやがって、と流石にむっとしながらザップの腕を傾ける。彼の手の甲は、本当にあと少し押したらテーブルにつくであろうと思しき位置になった。むっとしているレオとは裏腹に、ザップはどうでもよさそうに、むしろ欠伸でもしそうな勢いで外を眺めている。自分からやろうって言いだした癖に、とレオは益々むっとした。
「……んじゃ始めますよ。……いーですか」
「いつでも」
はっと明らかにバカにしたように笑ったザップに、益々レオはむっとしてんじゃ始めます、ともう一度同じことを言った。「…っせーの!」その号令をかけた瞬間、思い切り右手をテーブルへと向けて動かした。つまりザップの右手の甲を、テーブルの上に倒すことが目的だ。――――が、恐ろしいことにこの男の手は全くぴくりとも動かなかった。嘘だろ、とレオは脳内でぎょっとする。―――ま、
「マジか………!!もうここまでくると怖え…!!化物じゃん!モンスターじゃん!怖っ!動かなさ過ぎて怖い!」
「オイテメーさり気に失礼なこと言ってんじゃねー!!フツーに傷付くわ!!こんくれーはフツーなんだよ!」
窓の外を見ていたザップがレオの方を振り返ってそう怒鳴ったが、それでも腕は微動だにしない。俺はもしかして鉄を相手にしてるんだろうか、とレオが怯えたのもやむなしと言える。それくらい動かなかった。
「っだ、も、…マジで……?も〜〜〜…もしかしておれ、…こ、これっ、…両手でやっても、……」
勝てないんじゃ、と息も絶え絶えに言ったレオに、そーだなあとさっきとは打って変わってザップの楽し気な声が聞こえた。「勝てねえと思うぜ。ははは」力ねーなあ、と言った声が非常に嬉しそうに聞こえたが、レオは嬉しがるどころではない。この野郎、と普通に益々ムカついた。
「―――あ、そうだ少年」
しかしそこで突然デスクの方からスティーブンにレオは呼ばれて顔を上げた。「え…?ちょ、ちょっと待って下さいスティーブンさん……!僕今、」「ああいやいいんだ。そのままで聞いてくれ」そうは言われても、と思いつつレオもレオでその言葉に甘えてまた顔を下に向け、必死に右手を倒す作業に没頭する。まだザップの手は微動だにしない。
スティーブンが少し考えるようにしてにっこり笑って口を開いたが、レオどころかザップですらその表情を見てもいなかった。
「…この間一緒に行った店だけど、気に入ったならまた連れてってあげよう。また部屋はスイートでいいだろう?」
途端だった。瞬間、思い切りレオはがくんとつんのめるようにして身体全体でテーブルの上に倒れ込む羽目になった。がしゃんがしゃん、というテーブルにぶつかる音と共に、ばらけて落ちていた書類が更にばらける。勢い余ったせいで頭をテーブルにぶつけてしまい、いってえとレオは悲鳴を上げた。
「い……っ、……、…たた、……あれ?……なに――――」
なんだ、と思いながら起き上がった。そこで気が付く。自分の右手はいまだにしっかりと先輩の右手を掴んでいて、しかもその右手は、自分の右手を上にしてテーブルの上に倒れていた。それを見れば、誰にでも理解できるだろう。まさに一目瞭然だ。ザップの右手の甲は、しっかりとテーブルの上にくっ付いていた。
「………勝った」
そう言ってレオはぱっと先輩の手を離して立ち上がった。「や……っ……!!勝った!やったー!!よっしゃ勝った!よっしゃー!!!」そう叫んでガッツポーズしたあとに万歳し、ついでにデスクにいるスティーブンの方にレオは駆け寄った。
「やったー!!スティーブンさん!勝った!俺が勝ちました!!」
「はいはい良かった良かったおめでとう少年。はい」
非常にどうでもよさそうにスティーブンはそう言うと、レオとは裏腹に座ったままひょいと右手を上げる。ぱしん、とハイタッチした後レオはふと気が付いた。「………あれ?なんすかさっきの」店?と言ったレオに、何でもないよ、とスティーブンは溜息を吐きながら言った。
「………こういうのは趣味じゃないんだけどなあ。……おい。おーいザップ」
生きてるか、というそれに疑問を抱いてくるりと振り返る。レオの先輩は座り込んだまま固まっている。というかさっきの体勢のまま固まっていて、腕相撲中とは全く違う意味で微動だにしない。何だありゃ、とレオは不審に思った。誰も凍らせてないぞ。
「………駄目だなありゃ。少年、行って来い。さっきの僕のあれは冗談だったときちんと説明しておけよ」
痛くもない腹は探られたくないからな、とレオにとってスティーブンはさっぱり意味不明なことを言った。「?はあ…」分かりました、とレオは頷いてとことことテーブルへと戻る。俺に負けたことがよっぽどショックだったのか、と思いはしたものの、にやにやと笑ってしまうのはやむを得ないと言えた。何しろ初勝利だ。
「ザップさんザップさん!見ましたか俺の実力を!」
普通の人間でもやれることはあるんですよ、と言いながらすとんとザップの隣に座り込んだ。「やっぱり人間の可能性をバカにしちゃーダメってことですね。つまり俺にもザップさんに力で勝てる可能性が、」そこまでレオが言った時、漸くザップが動き始めた。まるでロボットのような動きでぎしぎしと腕を戻し、更にレオの方を振り返った先輩の表情は今まで見たことがないものだった。流石にレオも驚いた。まさかここまでショックだったとは。それはそれで俺的にはムカつくんだけど、と思いつつも笑顔は引っ込められない。
「……、…あるってことですよザップさん。見ました俺の」
真骨頂、と続けようとする前に突然両肩を掴まれた。「わっ!?」びっくりした、と言いながら顔を上げる。「……、……え…ええと…」ど、どうしたんですかと言った自分の声は混乱していた。目の前にいる先輩がなんだか死にそうな表情をしていたからだ。ゾンビみたいなんですけど、とレオが言う前にザップが口を開いた。
「…………おいレオ……店ってなんだよ……」
「……………え?」
みせ、と繰り返したレオに、スイートってどういうことだとザップは呟いた。しかし、それこそゾンビのような地の底から響くような声でレオはぽかんとしてしまう。てゆか何の話だ?と疑問に思い、そしてすぐに気が付いた。ついさっきスティーブンが言っていた意味不明なことだ。
「あ。ああ、さっきの…いや俺もよくわかんないんですけど、」
「よくわかんない?おま…おまえソレどーいうことだよ…よくわかんないまま流されたっつーことかオイ…」
「は?いやちょっとザップさんが何言ってるかもわかんないですけど…ともかく俺も知りませんけどなんかスティーブンさんが、」
「知りませんってなんだ待てよ。説明しろよスイートってどーいうことだ。お前まさかマジであの人と泊まったんじゃねえだろうな」
「え、いやあのーザップさん…ちょっと全然ザップさんが言ってる意味わかりません。泊まるって…確かに先月仕事押したから泊まりはしたけど…」
それはここでみんな一緒だったじゃないですか、と言う前にザップが手の力を強めたので、いってえとレオは悲鳴を上げた。「いたたたた!痛い痛い痛い!ちょ、ざ、ザップさん手!手の力!強い!痛い!死ぬ!」ザップさん、と涙目になりそうなレオではなく、すぐ目の前にいるザップの頭がごつんと本の背で叩かれた。がくん、とザップが頭を下げると同時にレオの肩を掴んでいる力が緩む。
「……だ、か、ら、説明しろと言っただろう少年。おいザップ。言っておくけど僕は少年と一夜を共にしたことも個人的に食事を一緒に食いに行ったことも泊まったこともないからな!?」
引き攣った顔でそう言ったスティーブンは、本を持つと仏頂面ですたすたと奥の部屋に歩いて行った。レオからすれば一体今言ったそれがどういうつもりの発言なのかはわからなかった。いや確かにないですけど。ソレなんか地味に傷つくんですけど俺も。
「……やっぱり馬に蹴られるな」
スティーブンはそう言ったあと更に、余計なことをするとこれだ、と辟易した様子で言いながらドアノブを掴んだ。けれどもぼーっとしているレオの方を振り返って、仏頂面のまま一言言った。
「…いいか少年。僕のあれが、必勝法だ」
「………へ?」
なんすかソレ、と聞く前にスティーブンは執務室に入って行ってしまった。クラウス、というその声が少し疲れていることに疑問を抱く。一体何に疲れたんだ。むしろ疲れたのは俺だ。
「………あのー」
ザップさん、と言ったレオの肩からぱっと手が離された。「………っだよも〜〜〜〜〜…」そーいうことかあのクソ番頭、と訳の分からないことをザップは言うと、だらんとソファの座席に項を乗せるようにして寄りかかり、眼を腕で覆った。
「…クッソ……やられた…」
「えーっと……何が起きたか俺には全然わからないんですけど……」
そう言って頬を掻いたレオに、ザップは腕を自分の眼から退けてちらりと目線を寄越してきた。なんだか拗ねているような顔だった。今日はこの手の顔をよく見るな、とレオは思いながら、はたとその事実を思い出した。
「あ。ほらザップさん、俺も勝てましたよ!ね!」
えへへ、と笑ってちょっとふんぞり返ったレオを見て、ザップははあ、と溜息を吐いた。「……そーだな。えらいえらい」「…………。」思っていたのと違う言われ方だった上に、思っていたのとは違うリアクションだった。なんかもうちょっとこう、と具体性のないことを考えているレオに向かって、そんでとザップが言った。
「優勝賞品は何がいいんだ」
「え?優勝商品?そんなのあるんですか?」
「あるんだよ」
そう言ってザップはまたやれやれとでも言いたげに天井を仰ぐ。「…はー焦った」一体何に対して、とも思ったレオだったが、とりあえず希望の優勝商品を考えることにした。こんなことをザップが言うなんて青天の霹靂だ。
「……ん〜〜〜…あ、それじゃあ飯食いに行きましょ」
「は?そんなんでいいんかお前」
一食分ねえ、と言ったザップにレオは慌てて首を振った。恐らく彼が考えている意味とは違う。「あ、奢りとかじゃなくて、ただ単に今日の夜飯食いに行きませんかってことですよ」「あ?」なんじゃそりゃとザップは言って顔を上げた。眼がぱちくりとしている。
「昼はよく行くけどザップさん夜はあんまり付き合ってくれないじゃないですか。だから行きましょ。今日」
アーティさんとこ、と言うとザップは変な顔をした。「……そりゃーいいけど。マジでおめーがそれでいいのかよ」「いいです。それがいいんですよ」俺の勝ったお祝いしてください、とレオは笑ってそう続けた。
基本的にザップは夕飯を愛人ととるかもしくはバーかキャバクラに行ってしまうかで済ませてしまうので、レオと夕飯を共にすることは仕事の後くらいだった。しかしここずっと仕事がないせいか夕方くらいにみんな解散してしまうし、するとレオもレオでバイトに行ったり帰宅したりするからザップとは夕飯を食っていなかった。昼は一緒に食べているけれど、夜は夜でまた話は違うのだ。
「……昼も俺と食ったじゃねーか」
「あれはあれです。……ザップさんが嫌ならいいすけど」
後半の声が地味に拗ねてしまったということに気が付いてちょっと慌てた。けれどザップはヤじゃねえよとすぐにそう否定してきたので、レオはきょとんとして顔を上げる。「…わーったよ。んじゃ優勝商品は」俺とのディナー券だな、と言った後にザップが立ち上がった。
「……なんかそーいう言い方は遺憾です」
そう言ったレオに、どういう意味だよ、とザップは言うとそこでやっとおかしそうに笑ってこちらに手を差し出してきた。「……。」すぐに意図を察して、その右手を掴む。途端にぐい、と思い切り腕を引っ張られていてててと悲鳴を上げた。腕が抜ける、と慌てる前に。
一瞬だけだった。けれど確実に、ザップにぎゅっと抱き締められた。
腕相撲の時とは全然違うようにも思えたし、全く同じようにも思えた。ザップの手が、レオの腕をしっかりと掴んでいる。
「…………、」
ぱっと身体が離された直後、先輩はそのままぼすんとソファに思い切り腰掛けた。「…そろそろ腕相撲も飽きただろー。何やんだよ次」「……………、……え、あ」ええと、と言いながら先輩の横に腰掛ける。突然自分の身体が熱くなってきたことに困惑した。
「………えーっと……あ。大富豪」
なんじゃそら、というザップの怪訝そうな声を聞きながら、自分の心臓がどきどきと大きく音を立て始めたことに更に困惑する。あれ?なんで?いや何でって言うなら、何で今抱き締められたんだ?え?いや、だ、
抱き締められたよね?
「……………。」
「?なんだよ。顔あけーぞ」
どうした、と言いながら先輩が覗き込むようにしてこちらに顔を近づけてきたので、レオはぎょっとして少し仰け反った。「あ、い、いやいやいや!?なんでもないですけど!?」「?そーか?」ならいーけど、とザップはどうでもよさそうに言うと、クロスワードも飽きたんだよなあと言いながら手持ち無沙汰そうに雑誌を捲った。
「……あ、…あのーザップさんそういえば」
「あ?なんだよ」
そう言いながらザップが雑誌を捲る音が聞こえる。「……腕相撲の必勝法って」けれどそうレオが言った途端、彼が雑誌を捲っている手が止まった。
「……なんだったんすかね?」
そう言って首を傾げたレオを見ずに、ザップは今度こそ苦虫を噛み潰したような顔になった。
「………知らん」
終
どうでもいい補足
とてもそうは見えませんが私が書くスティーブンさんは結構ザップさんが好きなので(犬かなんかのように思っている気がする)、このスティーブンさんもどっちかというとザップさんをからかうのが楽しくてやってます。