せいなるよるに
2017/10/15
「クラッカーは?」
「さっきお前買ってたじゃねーか」
「違いますよ、そっちのクラッカーじゃなくて」
紐を引く方です、という後輩にあー、と返事とも呻き声ともつかぬ声を返した。「……買ってねえ」「ああー」同じように後輩はそう言って、ちょっとだけ眉間に皺を寄せた。
雪が降ったらいいのに、というそれを聞いたのは多分半年くらい前、最早どの愛人が言っていたのか覚えていない。半年前からよくもまあ年末のことなんぞ考えてられるもんだな、とその時は思った。実際に年末がきた今になっても、ザップ・レンフロは雪なんぞ降らなくていいと思っていた。降雪量によっては、移動が億劫だ。
「大体なんっでクリスマスにパーティやんだよ。忘年会もやるじゃねーか」
「毎年やってるんでしょう?」
去年はどうだったんですか、と後輩のレオナルド・ウォッチはそう言った。糸目の表情はいま一つ何を考えているのか分かり難いと思われがちだが、意外にも表情は結構豊かだ。くしゃくしゃの黒い髪はあちこちに跳ねていて、ザップはたまに陰毛頭と酷い呼び名で呼ぶことがあった。つい一年くらい前に、自分の勘違いで入社してきた年齢が近い少年だった。幾つなのかザップは知らないが、多分少年というよりは青年に近い年齢なのだろう。けれど青年とはどうしても言えないし、見えなかった。
「やったようなやらんかったような」
「どっちですか」
ザップの答を聞いて苦笑しながら、レオはさっきスーパーで買った食品類をひょいと抱え直し、信号が赤になったので横断歩道で足を止めた。息を吐くと白く霧のような靄が上がっていく。寒いのだ。レオの鼻は真っ赤になっていた。
雪が降ったらいいのに。
その言葉を思い出してふと空を仰ぐ。確かに空は曇っていたが、雪が降りそうという程ではない。そんなに上手いこと雪が降ってたまるか、と肩を竦めてザップは信号を見つめた。
ザップはクリスマスというその行事に余り思い入れが無い。思い入れというか、その行事をザップは成人するまで知らなかった。幼い頃から思春期に至るまで、世界各地の僻地を修業と言う名のそれで連れ回されていたせいで、感謝祭も復活祭も収穫祭も知る由も無かった。だからクリスマスだって知ったのはつい最近のことで、周りに流される形でめでたいんだろうなとは思ってはいるが、別段心境の変化だとかそういうものはなかった。大体神すら信じていないのに、その神の子の生誕祭を祝うのも何だか変な気がした。辻褄が合ってない。
そのせいなのか、それとも元々興味がないのか――恐らく後者だ――ザップはクリスマスだからと言って気分が高揚することもないし、雪が降らなくても全く構わなかった。ただ祭りの一環ではあるから、酒を飲める機会が増えるなという程度にしか考えていない。雪が降るクリスマスをホワイトクリスマスというらしいが、だからと言って一体何がどうなるのか、さっぱり理解できなかった。どちらでも結局クリスマスはクリスマスじゃねーか、と思っている。
聞くところによれば、クリスマスには家族と過ごすのが主流らしい。日本じゃ恋人と過ごすらしい、と聞いた時は心底ほっとした。年末まで流血沙汰は勘弁してほしかった。ここはアメリカなのだ(厳密に言えば違うけれど)。
そんな訳で、ザップはついこの間レオに聞いた。年末オマエどーすんの、と。つまり実家に帰るのかどうかと聞いたのである。レオはきょとんとした顔をして、帰らないですと端的に言った。
――でもクリスマスだろ。妹ちゃん待ってんじゃねーの。
――んー、まあトビーもいるし。何か逆に帰ったら邪魔になりそうで。
そう苦笑して言うレオを見下ろして気が付いた。嘘を吐いている。そんなことを彼の妹であるミシェーラ・ウォッチが僅かたりとも思うわけないし、その婚約者であるトビー・マクラクランだって同様だ。そしてそれに気が付かない程、分からない程、レオは愚かではない。だから何か別の理由で帰らないのか、とザップは思った。何故なのか聞こうかとも思ったが、その時丁度何かでタイミングを逃して聞けなかったのだ。
たまに。
レオみたいに悪意と全然縁が無い人間もいるんだよな、と思うことがある。
多分本人に言ったら否定されるだろうし、言うつもりは毛頭なかったが、ザップからしてレオは”そういう感じ”だった。はなはだ曖昧だったが、話していたり遊んでいたり、はたまた任務の最中でもそう思う。悪意と無関係という訳ではない。レオにだって悪意を向ける者はいるし、特にこの街、ヘルサレムズ・ロットではそれが当然のように跋扈しているから、無関係というわけではないのだ。ただ、レオ自身が悪意というものを持っていない。話していて不快に思ったりだとか、嫌な気持ちになることが一切ない。そりゃあ普通に小突いたりだとか怒ったりだとかすることはあるが、それはザップが知っている悪意とは全然違うものだった。どちらかと言えば、レオにムカつくときは悪意とは真逆のものを抱いている時の方が多い。
そういう人間に会ったことが殆ど無かったので、ザップはたまに呆気にとられることがある。しかもレオはそれを当たり前だと思っているから余計だった。そういう類の人間に会ったことや会話したことがないわけではないが、こんなに近くでこんなに仲良くなったのは初めてだった。だから戸惑う。
かと言ってレオがそんなにおめでたく幸せな環境にいるのかと言えば、それも違う。結構崖っぷちで生きているとザップは思う。しかも、レオの欠点としてその崖っぷちにいても中々助けを求めないことがあるから、それにも苛立つことがある。そしてやっぱりそれも、悪意とは正反対の理由からくるのだ。やっぱりそれにも、ザップは戸惑っている。そんなことを思う男ではないと自身を評していたからだ。
「また一回出なきゃなんないすよね。それじゃ」
「めんどくせー。もー誰かに任せようぜ」
「ええー?だって誰に」
誰って、と言われて候補を考える。クラウス・V・ラインヘルツに頼むわけにもいかないし(多分頼めば意気揚々と向かうだろうが)、勿論スティーブン・A・スターフェイズにだって同様である(こちらは怖くて言うことすらできないだろう)。クラウスの執事であるギルベルト・F・アルトシュタインは恐らく今料理の手配中だし、すると事務所待機している人員で残っているのは自分かレオ、それからチェイン・皇にツェッド・オブライエンだ。しかしチェインは朝から出かけていていないし、ツェッドに頼んだらレオも行くに決まっている。それはそれで面白くないから自分もついて行くだろう、とザップは思った。つまり結局二度手間だ。
溜息を吐いて、大人しくもっかい行くか、と言うザップにそうですねとレオも素直に返事をした。何となく考えていることが分かったのだろう。それくらいは仲良くなっている、らしい。認めたくはなかったのだが。
はくし、と小さくレオがくしゃみをする。マフラーもコートもつけていないのだから当然とも言えたが、もしかして少し寒がりなのかも知れない。寒いすね、と本当に寒そうな声でレオは言った。やっぱり雪が降らない方がいい、とザップはまた空をちらりと仰いだ。さっきより少し雲が厚めに見えて、げ、と思わず顔を顰めてしまった。
信号がまた赤になる。
足を止めて、ぼーっと信号が変わるのを待った。そこで思い出した。そういえば、どうしてレオは実家に帰らないのだろう。恐らく申請すれば一日か二日程度は受理される筈だ。それに一応クリスマスだから血界の眷属も出にくい”のではないか”という推測も毎年出るには出ている。実際、統計的には少ないらしいが、それがクリスマスのせいなのか別の理由なのかは解明されていない。そもそも奴らが十字架如きに怯える訳はない、とザップだって知っていた。
ただ、そういう理由があろうがなかろうが、何かがあったら全速力でライブラはレオを呼び戻すだろうし、確かにリスクは大きいがいつまでもレオを拘束するような組織でもない。特にクリスマスは日にちが決まっているのだから、前々から依頼をしておけば余程のことが無い限り休日申請は受理されるはずだ。だから余計ザップは不思議に思った。クリスマスというのは、家族と過ごすものだと愛人に以前聞いたせいだ。
「なーレオ。何でオメー実家帰んねーの」
「へ」
唐突なザップの質問にレオはびっくりした様子でこちらを見上げた。「だってアレだろ。クリスマスじゃん」首を傾げてそう聞いているうちに信号が青になった。二人で同時に気が付いて足を動かす。
「こないだ言ったじゃないすか。トビーいるし、なんか悪いからって」
「ソレ嘘だろ」
そう言うと、隣で息を呑んだ気配がした。何でそこでそんなに動揺する、とザップは怪訝に思いながら、荷物を抱えて人を避けながら歩く。「オメーの妹ちゃんがそーいうこと思うか?思わねーだろ。あの婚約者だってそうだろ」レオからは無言しか返ってこない。それに少しだけ不審を覚えつつ、だろ、と再度同意を求めた。しかしレオからは返事がなかった。無視かい、と思いつつ隣を見る。
隣にいる筈のレオがいなかった。
え、と慌てて後ろを向く。二、三歩ばかり後ろにレオが突っ立っている。鼻の頭を真っ赤にして、さっきマーケットで買ったばかりの茶袋を両手で抱えてこちらを見ていた。雑踏の中で立ち止まっているので行きかう人々がちょっと迷惑そうな顔をしたり、はたまた不審な顔をしてレオを避けていた。
「…っておいコラ何してんだよ。置いてくぞ」
少しほっとしながらそう言ってレオを見つめる。無表情ともいえる顔で、レオはこちらをじっと見ていたが、はい、と言ってこちらにとことことやって来た。声は聞こえなかったが、口がそう形作っているのをザップはしっかりと見た。
「…なんだよ。どーした」
流石に怪訝に思ってそう聞いたが、いえ、とレオは小さく返事をしてこちらを見上げた。その表情がいつも見るそれと全く遜色なかったから、ザップはどういうわけか安心した。ほっとする。たとえば不機嫌そうだったりとか悲しそうな顔をしていたら焦っていたのかと問われると、そうとも言えない。たぶん、こちらを見つめてきたことにほっとしたのだろう。ただしザップがそれに気が付いたのはずっと後だった。
その後また人混みにまみれたり、信号に立ち止まったり、聖歌隊に遭遇したりして再びザップはレオに質問の答えを聞きそびれてしまった。けれど確実に、レオが言った理由は嘘なのだろう。そうじゃなきゃ、あんな態度を取る訳がなかった。
そして夕刻。
満を持してクリスマスパーティーが始まった。最近任務が立て込んでいたせいで殆ど顔を合わせていなかった構成員がそこここにいたから、ザップは都度都度話しかけられて都度都度馬鹿な話をして酒を飲んだ。これが終わったらニューイヤー・イブが来て、それからニューイヤーだ。大体今日だってクリスマス当日ではなく、二、三日前なのだからイブだってまだなのだ。イブやクリスマスはそれぞれ家族や恋人や友人と過ごすだろうから、とクラウスが気を使って今日になったと聞いたが、ザップからすれば何でもよかった。ともかく今日から数日は酒を飲んでも余り咎められない。めでたい、とザップは思ってその辺りのテーブルをのこのこ回った。
ふと薄暗い部屋に異彩を放っているクリスマス・ツリーに目を向ける。毎年毎年違うものを買って来るんだから旦那もバカだと酷いことを思いながら今年のツリーの下に歩く。プレゼントボックスが大量に置いてあったが、これがオーナメントなのか本当のプレゼントなのか、ザップには判断できなかった。試しに一つ開けてみようか、と思ってツリーに近づいたのだ。
「…ん。あり?レオ?」
ツリーの影にちょこんとレオが突っ立っていた。手に持っているグラスの中に泡が立った液体が入っている。珍しくシャンパンか何か、ともかくアルコールの類を飲んでいるらしい、とザップは気が付いて驚いた。通常レオはこういう場で酒類を口にしない。バーに行ってもそうなのだから、恐らく下戸なのか好きではないのかのどっちかだろう、とザップは思っていた。興味が無いから聞いたことがない。
「何してんだオメー。こんなとこで」
首を傾げて壁によると、レオはのろのろとこちらを見上げた。顔が赤い。今日外で見た顔は、鼻の頭だけが赤かったが、今は顔全体がほんのりと赤かった。酒のせいか、と合点する。「祝い事なんだからもーちっと景気いい場所行けよ」そう言って顔を覗き込む。レオは無言でじっとザップのことを見上げていたが、結局はあ、と小さくそう返事をして俯いた。益々ザップは怪訝に思う。返事も中途半端だったし、俯く意味もよく分からなかった。
「ちゅーかオマエ珍しく飲んでんだな。シャンパンか?」
「わかんねっす。パトリックさんがテキトーに注いでくれたんで」
「アイツ酒よえーからな。近くにいると際限なく注がれんぞ」
「そうなりそうだったんで逃げて来ました」
また前みたいにぐるぐる回されそうになりましたよ、とレオは苦笑してグラスを揺らした。泡が浮かんで弾けて、消える。「………。」なんか、とそこでザップは気が付いた。
「…なんかオメー、落ち込んでね?」
「え」
ぎくりとした様子でレオがザップを見上げる。顔に図星と書いてあった。嘘が下手な奴だ、と思って肩を竦め、手にしていた酒瓶を煽る。「分かり易いな」そう、口から瓶を離して言うと困ったような顔をして、レオは頬を書いた。
「…そんな顔してます?」
「してるしてる。すげー落ち込んでる」
「………あー…」
そうですか、とやっぱり困った様にレオは言ってまた俯いた。実際のところ、そんなに表情に変化はなかった。ただザップは毎日見ているそれと少し違うな、と思っただけだ。マイナスの方向に傾いている。そんな表情に見えた。
部屋はジャズ調のクリスマスソングが流れている。メジャーな曲もあればマイナーな曲もあった。ぼんやりとそれを耳にしながら、壁に寄りかかってずるずると床に座り込む。レオは突っ立ったままだったので、座ればとちょっと目を上げて言った。はあ、と小さく返事があったがレオは立ったままで、何となく会話が途切れる。ジャズが耳に入ってきた。
ずるずると言う音に目を向ける。隣にレオが座り込んでいたのでちょっと驚いた。自分で言ったものの、本当に座るとは思ってなかったのだ。
だからなのか、なんですかとレオが怪訝な顔をする。「なんでもねーよ」そう言って正面を向いた。正直に言うのはちょっと悔しかった。
「…あのー、見てすぐ分かります?落ち込んでるって」
そう言われて、やっぱりそうなのかと思った。レオは落ち込んでいるのだ。「いや?慧眼の俺だから気が付いただけで、糸目陰毛に変わりはねーからわかんねーだろ」「色々突っ込みたいんですけどスルーします。陰毛言わないで下さい」「突っ込んでるじゃねーか」そう言って笑うと、レオはるせーな、と言ってまたシャンパンらしきそれを口にする。ちょっとだけ不貞腐れた顔をしていた。
「めでてー日なんだから暗いカオすんなよ。見ててこっちが通夜になるだろ」
そう、乱暴ともいえる言い方をすると、レオはきょとんとした後苦笑した。「…そりゃどーも。すいません」言い方は大人びていたが、顔はよくスティーブンが少年と呼ぶそのものの顔だ。恐らく童顔なのだろう。笑顔になると益々子供っぽかった。
「…どーした」
そう、少しだけ躊躇いつつ聞くと、レオはちょっとだけ困った様子で首を傾げてザップの方を見た。「…言わないと怒ります?」その言い方を聞いて違和感を覚える。普段そんな言い方をするような奴ではないとザップは知っているからだ。そんな、狡い言い方をする男ではない。手にあるグラスを見て、酔っているせいか、と気が付いた。
「……うん、でも、うん……。まあ、いーか」
ザップが返事をする前に、レオは意味不明なことをそう言って、グラスを揺らしながら自分の顎を膝頭に置いた。「…ザップさんだし」そう付け加えられたそれになぜか変な気分になる。友達だから、という意味だろうと解釈することにした。
「…昼間、聞いたでしょ。俺が何で実家帰んないのかって」
「あ?あー…ああ、聞いたな。そーいや」
それがどうした、とでも言わんばかりにレオを見ると、そういうレベルですか、とレオは苦笑した。一体何だと言うのだと不思議に思う。実際、確かに気になってはいたが、今は既に今日の宴会でどれだけ飲めるか食えるか騒げるか、の方が頭を占めていたのだ。何しろ年末の上月末だからいつも厳しい財布は更に厳しい。
レオはそう言ったものの、余り気にしていない様子でグラスを床に置くと、帰らないっていうか、と口を開いた。口調が眠そうなのは酔いが回ってきたためだろう。
「…帰りたくないんです」
「あ?家に?」
はい、とレオは小さな声でそう肯定した。「…つーか。会いたいけど会いたくないっつーか」ザップにとっては意味不明なことを言ってレオはぼんやりと部屋のイルミネーションを見つめた。ちかちかと色が瞬いている。
「…何じゃそりゃ。どーいう意味だ」
「…そのまんまの意味ですよ。ミシェーラに会いたいけど」
でも会いたくない気もするんです、と言ってレオは顔を上げた。「…たぶん、俺一回くらい、…責められたいんですよ。……ミシェーラに」そう言うと床に置いたグラスを持って残ったシャンパンを一口飲む。泡がまた弾けて消えた。
「でも、俺をあいつが責めるわけないでしょ。それはトビーもそうだし。…ほんとはすげー会いたいですよ。妹だし。…今はもうトビーがいるけど、その前は」
俺がずっと守ってたんだから、と言ってレオは黙った。少し間があった後、まあ守れてないからここにいるんですけどねと自嘲気味に言ってまたレオは黙った。
「……………そーいうこと」
オマエずっと考えてんの、とザップが呆れてそう言うと、ずっとじゃないです、とレオは言ってまたシャンパンを口にした。「…たまに。なんか、凄い…ふとした時に。今日だってクリスマスだから」毎年のこと思い出したらなんか、とレオは続けて困ったような顔で俯いた。「…なんか、こう……ぐわってきてんすよ。色々。今」そう言われてふうんとザップはあぐらをかいて酒瓶を床に置いた。どん、と音がする。
ザップからすれば全く及びもつかないし、考えもしないことだからさっぱりその気持ちは分からなかった。後悔とか、悔恨とか、そういう感情にザップは殆ど無縁と言っていい。過去は殆ど振り返らないし、思い出すこともない。大体、自分の過去と言えば師と一日中どこぞの辺境で非人道的な修業をしていたのが主なのだから、思い出しただけでトラウマものだ。だから基本ザップは後悔とは無縁である。
ただ、レオは別にザップと違って望んでここにいるわけではない。来たくもないのに、人外の、異界の、別世界の何かのせいでここに来る羽目になってしまっただけなのだ。たまたま利害がライブラと一致したから一緒に働くことになったが、それにしたって普通の生活を送っていれば、恐らくレオとザップは一生会うことすらなかっただろう。
何だかそう思ったら少し怖くなった。
―――一生会えなかったら。
どうなっていたのだろう、と思ってはっとする。どうなっていたも何もない。別にどうにもなっていない。ザップはザップで粛々と眷属をボコボコにする鍛錬を積んでいただろうし、レオはレオで普通に普通の生活を外界で送っていたに決まっている。どうにもならない。ただ、お互い出会っていなかっただろう、ということだけだ。
けれどそれが今や物凄く怖いことのように思えた。
「……よくわかんねーけど」
そういうのぐだぐだ考えんのめんどくねーの、と聞こえ様によっては酷いことをザップは言った。言ったあとであ、これは流石にヤバイかと思ったが、レオは苦笑して面倒とかそういう感じじゃないんですよ、とそう言うだけだった。ザップの性格を把握しているせいなのか、それとも傷ついているのを隠しているのかは分からなかった。
「……ミシェーラのことは、ほんと、もうどうしようもないっていうのは分かってます。あの時の俺が動けなかったせいだっていうのは、もう、死ぬ程分かってるんですけど」
だけど、とレオは言うとまた黙った。何を言えばいいのか分からなくなったから、ザップも無言で酒瓶を手に取る。ピザか何か持って来ておけばよかった、と思った。間が空くからと言って気まずいわけではないが、手持無沙汰だった。
「…けど、俺、今こーやってここにいるの、好きなんですよ」
「あ?」
素っ頓狂な声を上げたせいか、レオが苦笑してこちらを向いた。「…こうやってザップさんと話してるの、俺は好きなんです」その言い方に違和感を覚える。いつもより言い方が幼かったせいだ。酔ってるのか、とレオの手からグラスを取ろうと手を伸ばした。レオが酔うと大抵ザップが送るように言われるからだ。
しかしなぜか伸ばした手にレオの手がぶつかった。ぶつかると言うよりはザップの手がレオの手に掴まれるといった方がいい。握手というより、手を組んだ形になった。
「おい。宇宙人でも呼ぶのかよ」
呆れてそう言うと、レオは火星人がいいなとそう言って笑った。火星に生き物がいるわけねえだろ、とザップが言う前にレオはさっきの話の続きを始めた。
「……だから、…余計になんかこう、…困るっていうか…」
レオの声が徐々に眠そうになってきた。もう飲むなよ、とザップは呆れて再度レオの手からグラスを奪おうと反対の手も伸ばしたが、レオはそれを避けてぐい、と残りのシャンパンを全部飲んでしまった。「あ」思わずそう声を上げたザップとは対照的に、あーあ、となぜかレオはおかしそうに笑った。
「…つまりおまえ」
俺と話す度にそーやって悪いなーとかだめだなーとか思ってんのかよ、と呆れてしまった。そんなの一々考えて生きていたら死んでしまう。流石にそれはないですけど、とレオは言った。「…そうやってかんがえる前に、ザップさんが」俺のこと呼ぶから、と続けられたそれにきょとんとする。自分がレオを呼んだからって一体何が起きるのだろう。別に何も起きない。大体、しょっちゅうザップはレオのことを呼んでいる。
それだって一々気にしていたら死ぬほど疲れる。そう思った。
「…ザップさんから、名前呼ばれんの、…俺、」
そう言ってレオはのろのろとこっちを向いた。そっと手が床に下ろされたが、ザップの手はレオに掴まれたままだ。傍から見れば手を繋いでいるみたいだったが、都合がいいのか悪いのか、ツリーの陰になっていて誰も二人に気が付いていない。―――今は冬で、レオだって鼻を赤くするくらい外は寒かったのに。いくら、今この部屋に暖房が入っているからと言って、とザップは思わずごくんと唾を呑む。―――握られた手が熱い。
「……好きだから…」
そう言って、レオは酔っ払い特有の締まりがない表情で笑うと、ザップの肩に寄りかかった。硬直していたザップはそれを受けてびく、と思わず背筋を引き攣らせる。レオのくしゃくしゃの髪があたってくすぐったかったが、それは何だか今やどうでもいいことになってしまった。それより。
それよりも、もっと意識することがある。
普段だったらここで揚げ足を取るようにからかうところだったが、なぜか出来なかった。レオが酔っているからかと思ったがそういう訳でもないらしい。ただ、自分の手もレオの手と同じように熱くなってきたのに気が付いて慌てた。さっきから酒を飲んでいるとは言え、こんなに急に熱くなるなんてありえない。
「……………、……レオ」
何か言おうとして、結局何も思いつかなかったので名前を呼んだ。レオはそっと顔を上げると、ちょっとぽかんとしていたが、真っ赤な顔のままへにゃっと嬉しそうに笑った。ザップが呆気にとられるくらいには嬉しそうな顔をしていた。
思わずもう一回ごくんと唾を飲み込んだ。なぜか身体が強張ると同時に緊張に襲われる。一体何に緊張しているのか、認めたくないが恐らく目の前にいるこの後輩に対して緊張している、とザップは気が付いた。高々あんなたった一言で、ただ手を掴まれただけで、たかが。
こんな笑った顔を見ただけで。
その時気が付いた。ザップとレオが寄り掛かっている壁を飾るモールやオーナメントの間に、小さな植物が見える。ヤドリギだ、と気が付いた。修業をしていた頃はその辺にあるものを自分で勝手に摂ってくるしかなかったので、少しだけ植物には詳しくなった時期がある。今や殆ど忘却の彼方だったが、見れば思い出すことだってある。そして連鎖反応で思い出した。
――ヤドリギの下では誰とでもキスをしてもいい。
その有名な伝統を教えてくれたのは、一体いつの愛人だっただろうか。確かその時ザップはそんな面倒臭いことしなくてもいつだって出来るじゃねーか、とか何とか言ってベッドの中でひとしきりその彼女といちゃいちゃした、覚えがある。別にそんな理由を付けなくてもいつだって出来ることだったのだ。
なぜかそれを回想しながらすぐ近くにいる後輩を見つめると、赤い顔をしながらいまだにこにこと笑っている。酔うのが早いのか、それともザップが見つけた時点でもう結構酔っていたのかのどっちかだろう。どちらにせよ酔っている。「…レオ」何となくもう一回名前を呼んだ。レオはまたきょとんとしたが、もう一回さっきみたいに笑った。はい、なんですかとレオは続けてちょっとだけ首を傾げる。小首を傾げるという言い方がぴったりだった。
「…ザップさん」
その瞬間を何て言えばいいのか、ザップにはわからなかった。
ただ、緊張していた筈の身体は勝手に動いてレオの頬に手を伸ばしていた。やっぱり真っ赤な顔をしているだけあって、頬は熱を孕んでいる。けれどそれは自分の手も同じだったから触れたところでそんなに驚かなかった。頭の中ではヤバイヤバイヤバイ、と具体性が全くないことをもう一人の自分が喚いていて、落ち着けバカと前頭葉が煩く言いだした。一方でレオはまるで猫みたいにくすぐったそうにちょっと身を捩る様にしたが、結局また嬉しそうに笑った。
それを見たら脳内の自分がぴたりと喚くのを止めて、前頭葉は大人しくなってしまった。ぼーっとしたままレオの頬に添えている手を肩にずらす。そのままぐい、とレオの肩を引っ張った。
―――唇が。
触れるか触れないか、そのくらいだったと思う。かくんとレオがそのままザップに体重を預けてきた。はた、とそこで我に返る。一人分の人間の体重のためか、意識がはっきりしてきた途端にぱっとレオの肩から手を離した。
「うおおおおおお!!?あ、あああああっぶねえええええ!!!」
思わずそう叫んで顔を青くした。完全に雰囲気に呑まれていたことにぞっとする。ヤドリギが何だっつーんだ、とヤドリギに責任を思いきり転嫁すると、次に自分にくたっとよりかかっている後輩に目を向ける。「ってオイコラ!起きろバカ!」そう言って肩を揺さぶったが、レオはむにゃむにゃとよく分からないことを呟いただけだった。
「…あー、…あー………あっぶねーマジで………何やってんだ…」
そう言いながらレオを押しのける。真っ赤な顔をした後輩を壁に寄りかからせて自分は立ち上がった。シャンパンが入っていたグラスが床に転がっている。レオはすやすやと寝息を立てて眠っていた。
「…このクソガキ」
そう言ってその場を離れる。「…知らねーぞ俺は。知らんマジで。風邪でも何でも勝手に引け」そう悪態を吐きながらすたすたと肩を怒らせて部屋を突っ切り、別の酒を探す。さっきの変な感覚はまだ抜けていないし、レオが矢鱈と嬉しそうに笑った顔もきっちり覚えていた。特に一番残っていたのは、なぜか自分を呼んだ時の声と顔と、それから言い方だった。しょっちゅう名前を呼ばれている筈なのに、どうしてか心臓が早鐘を立てている。
「……………。」
知らねーぞマジで、と言いながらソファに引っ掛かっている毛布を手に取って壁際まで戻った。「…オメーが風邪引くと飯に困るからだ」誰も聞いてないのにそう言って毛布をレオに投げ捨てるようにしてかけて、今度こそその場を離れた。
パーティがお開きになったあと、レオを送って行くことになったのは結局ザップだった。別段誰かに命じられた訳ではないし、みな三三五五に帰って行く流れになったのだが、レオはその刻限になってもまだ寝たままだった。このまま事務所のソファに寝せておきますかねと言うギルベルトに、思わず俺送ってきますと言ってしまったのはつい数分前、ギルベルトはしまったとでも言いたげなザップの顔をおかしそうに見た後、それではお願いしますと深々と頭を下げてきた。その時点で最早断る術を失った。
男にしては軽い後輩を背負いながらのこのこと道を歩いている。スクーターの停車場所まで酔い覚ましがてら歩くことにしていた。「…おいレオー。レーオー」無意味だと分かってはいたが、一応名前を呼ぶ。眠ったままではスクーターに乗せられない。このまま起きなかったらマジで捨てて帰ろうとザップは思っていた。自分でそう思っているだけで、実際その場面になったらどうするかは分からなかったが。
「…んー…」
聖夜だからという訳でもないだろうが、奇跡が起きた。レオがそう呻くような声を上げてはい、と返事をしたのだ。起きたのか、とちょっと驚きながら、やっと起きたなと顔を顰めて背中にいるレオに言う。レオは少しぽかんとしていたらしいが、ザップさん、と眠そうな声でザップを呼んだ。
「あんだよ。オマエ次の昼飯奢れよ」
「………ザップさん」
「だからなんだっつーの。用ねーなら呼ぶなバカ」
「…………ザップさんですねえ…」
えへへ、とレオの嬉しそうな声が聞こえる。何だ一体、と思う間もない。背中にぎゅうとレオが抱き付くようにして体重を乗せてきた。今までもそうだったが更に密着する体勢になる。「だーもうオイ!んっだよだから!」「…ザップさん」「ああ?んだよモー」コイツ酔うと結構面倒なんだな、とその時やっと気が付いてげんなりする。しかし返事はなかった。まさかまた寝たのか、と思いながらも焦って口を開く。いつもと同様に、全く同じように後輩のことを呼んだ。おい聞いてんのかよ、と言いながら。
「レオ」
「…はい」
今度はすぐに返事が来た。一体さっきから何なんだ、と思いながら後ろを振り向く。さっきまで寝ていたから狸寝入りされても区別がつかないのだ。背中にいるレオを見上げた。
さっきみたいな顔をしていた。さっき、パーティ会場で見たような顔だ。嬉しそうに、まだ酔いが醒めきらない真っ赤な顔で笑っている。
「…はい。何ですかザップさん」
レオはそう言ってへにゃ、とまた相好を崩した。
なぜかそれを見たら文句が言えなくなった。また少し自分が緊張してきたことに気が付いて思わず舌打ちしてしまう。レオは対照的にきゃらきゃらと楽しそうに笑った。酔ってやがる、と今更ながら思って前を向く。レオにも自分にも溜息を吐いて、帰途についた。
翌日以降、何となく名前を呼ばれるたびに身構えてしまうようになった。一々こんなことしてたら面倒で死ぬ、と本当に自分に辟易したが、何故かそれはレオも同じみたいだった。パーティの飾りつけを一緒に外しながら、モールの間にヤドリギが挟まっていることに気が付いて思わずげ、と言いながら落としてしまった。
「あー、何してんですか」
そう言ってレオがヤドリギを拾い上げた。「これって燃えるゴミでいーんすよね」「あ?え?…あ、えーと。おう。そーじゃねえの?」そう、泡を食って言ったザップのことを変な顔で見上げると、レオは自分の手に握られているヤドリギを不思議そうに見つめた。ちょっと間が起きてから、レオがはっとしたような顔をする。へ、とザップが思うと同時にレオの顔が真っ赤になった。
「………え?」
「や、やや?な、ななな何でもありません!追加のゴミ袋持ってきますから」
そう言って身を翻したレオの後姿を見つめて、まさか、とザップは手に握られたモールをそのままに考えた。―――覚えてるのか?
ただし万が一そうだとしても、今更聞けないし、聞きたくなかった。藪蛇だ。自分だって何であんなことをしたのか分からないのだから。
「………………なんかヤバイ」
小さくそう言って自分もその辺に置いてあるゴミ袋にぽいとゴミを放り投げる。だからこんな行事嫌なんだ、と思いながらゴミ袋を掴んで歩き出した。
ザップさん、と言う声に再度身構えてしまうのは大体30秒後で、
レオ、というザップの呼び声にレオがまた身構えるのは、大体5分後で、
それから二人が付き合う間では大体半年くらいかかった。
次のヤドリギを待たなくてよかったのは僥倖だ、とレオが思ったかどうかは定かではないが、少なくともザップはそう思った。
「…まあ、ヤドリギなんざに頼らなくても俺は全然いけるけど」
「な、何がですか?ていうかここ事務所なんでストッ、むぐっ」
もう、と怒った声でレオが怒るのを聞いてザップが笑うのは前からあったけれど、恐らく次のクリスマスまでには更に回数が増えるだろう、とザップは思った。
終