ナイトゲーム
2017/09/17
夜は余り好きではない。ヘルサレムズ・ロットに限ったことではないが、夜の喧騒と鬱屈とした雰囲気、それから陽の光が見えない空は余り好きではなかった。人工的な光に頼らないと何も見えない。月明かりは道しるべになると言うが、ザップ・レンフロにとっては頼りたくもない、薄らとした弱弱しい光にしか思えなかった。ヘンゼルとグレーテルはよくこんなもん頼りに帰ったよな、と職場の後輩に言ってみたところ、こちらを見もせずに貴方と違って彼らは敬虔な良い子達だったからでしょうね、と憎々しいことを言われたことを、覚えている。
この映画はハズレだった、と思いながら欠伸をする。やはり物語は単純明快なものが一番性にあっている、とぼんやりと画面を見つめた。画面の中では男女が透けている人間(つまりゴーストである)と対峙しながら逃げ回っている。叫びながら斧を振り回す女を見て、ゴーストなんだから意味ねえだろうに、とザップは思ってまた欠伸をした。
腕を掴まれる感覚に目を遣ると、友人で後輩のレオナルド・ウォッチが画面から目を離さずにザップの腕を掴んでいた。顔が白い。こんなんで怯える奴もいるのか、と呆れながらザップはそろそろと自分の手の中でライターを取り出す。かちん、という蓋が開く音がしたが映画に集中しているレオナルド――通称はレオと言った――は気が付かない。笑い出したくなるのをなんとか堪えて、血液をそっと伸ばした。
画面の中ではどうやらいよいよクライマックスだ。ゴーストが館に纏わる謎をつらつらと述べながら男女に向かって、つまり画面のこちら側に向かってのろのろとやってくる。
画面の中が動き始める、僅か前。
レオがごくん、と唾を飲んだ。
瞬間、ザップが伸ばした血液がレオの項から服の中に入って背中をさっとなぞった。
「ぎゃあああああああ!!!」
ばしゃ、がた、ばたばた、という音が聞こえて直後爆笑が部屋には響いた。画面の中では男女が仲良く絶叫しながら走り回っている。壁をすり抜けるだろうに、そんなゴーストから走って逃げられるもんかね、とザップは同じような場面を見ていつも思うのだが、ともかくとして隣に座っていたレオを見て再度爆笑した。
ソファに座っていた筈の彼は既に床に落ちていたし、弾みで蹴飛ばされたらしい小さなテーブルは斜めになっている。眠っていたらしい音速猿のソニックがびっくりした表情でその辺をうろうろと駆け回っていた。
「…大丈夫だよ。何でもねーから、寝てろ」
笑いながらそう言うと、ソニックは少し首を傾げたものの、ぴょんと跳ねてクッションの上に丸まってまた寝息を立て始めた。あいつもこの部屋に何だか馴染んだな、と思いながらザップは床にまるで亀のように突っ伏している後輩のことを笑いながら、呼んだ。
「レオ。おいレオ。生きてるか?」
「…な、…なに、……、す、」
口が回らないらしい。のろのろと顔を上げたレオはなにするんですか、とやっと言ってそのまま這うようにしてザップの足元に近寄った。「…し、死ぬかと思った…」こんなので死んでちゃここじゃ生きていけないだろうに。そう思って更に笑うと、笑わないで下さいよとやっとレオは怒った様に言って、立ち上がる。
「あー…コーヒー零しちゃいましたよ」
「どーせ冷めてたんだろ。いいよ」
「あんたはよくても俺はよくないです」
ていうか何すんですかマジで、とレオは頬を膨らませて言うと、コーヒーの染みが付いた上着を脱ぐ。「あー…びっくりした…」「オマエ一体さっきのアレの何が怖かったんだよ。つまんねー映画だった」ザップさんが選んだんじゃないですか、とレオは更に顔を顰めて、上着を籠へ置くべく、バスルームに歩いて行った。
映画は既にエンディングが流れていて、ザップは結局結末がどうなったのか見こじってしまった。別段構わないとも思ったが。
普段は映画など見ない。面倒だからだ。映画を見ている時間があるなら女を口説く事に時間を使いたいし、女を抱くことに時間を使いたいし、はたまた酒を飲んだり博打を打ったり、ともかくもっと有効な使い方をしたいとザップは思う。つまり趣味じゃないのだ。じっと二時間近くも動かずに画面を見ているのは苦痛に近い。
それがどういう訳か分からないが、最近映画を見るようになった。
さっきまで隣にいた後輩と一緒にだ。
ここも映画って借りて見られますか、とレオはある日首を傾げてザップに聞いてきた。そりゃ見られるよ、とザップは答える。『てゆか外より多いんじゃねーの。あっちにゃ出回ってねーの多いし』そう言うと、そうですかとレオは矢鱈にこにことして嬉しそうにしたから、お前そんなに映画見たいの、とザップは話の流れでそう聞いたのだ。見たいですねえとレオは笑って答えた。どうも外界にいた時は妹とよく見ていたらしい。元々映像を見るのは好きなのだ、とレオは言った。物語と言うよりは、カメラワークだとか演出だとかが気になるらしかった。
その日の帰り、ザップは(親切にも)レオを近くのレンタルビデオ屋の場所を教えてやった。その日ザップのスクーターは修理中で、レオのバイクについでとばかりに乗って帰る予定だったからだ。でないとそんなことをしようとすら思わないだろう。しかも丁度ザップの目的地はビデオ屋の先だった。通り道ならばまあいいだろ、とザップは思って場所を教えたのだ。
ありがとうございます、といつものように律儀にお礼を言うレオのバイクから降りて、そんじゃなとザップは手を挙げる。はいそれじゃお疲れ様ですという声を背中に受けて目的地の方に足を向ける。目と鼻の先だったからここまでという約束だったのだ。
しかし、そこで少々問題が起きた。
平たく言えばレオが絡まれたのだ。ビデオ屋に入ろうとした瞬間、出てきた”何か”と接触事故を起こしてしまった、らいし。ザップは声しか聞いていないから断定できない。ともかく背後から後輩がわわわわとかぎゃあとか叫んでいる声が聞こえてきた。それを聞いてからでは、流石に立ち去るのも後味が悪い。それでも二、三分は振り返るかどうか、悩んだのだ。だってもう帰宅中だしあいつがどうなろーと俺にはぶっちゃけ関係ないし。そんなことを思いながらのろのろと足を進めていた、のだが。
目の前に小さな白い何かが現れた。
はっとした時には既に肩の上に見慣れた音速猿が座っていた。ソニック、と名まえを呼ぶ前にぐいぐいと髪を引っ張られていててて、と小さく悲鳴を上げる。『ちょ、いてーよコラ止めろよアホ』そう言うとソニックは大きな目で何かを訴えかけるようにして、ザップを見つめた。う、と少しばかりその視線にたじろぐ。前も似たようなことがあったな、と以前のことを思いだして、ああもう、と仕方なくそこでザップはやっと後ろを向いた。
後輩は既に一発殴られているらしく、頬が僅かばかり赤くなっている。ちょっと止めて下さいよ謝りますから穏便に穏便に、などと言いながらぱたぱたと手を振っているが、襟元を掴まれて吊り上げられていた。ちっと舌打ちをして、ザップはそのまま勢いを付けて、道を走った。
二秒後にはレオのことを吊り上げていた形容し難いその”何か”はその辺の店のガラスを突き破って昏倒していて、レオはげほげほと咳き込みながらビデオ屋の入り口辺りで座り込んでいた。
『す、すいま、せん…あざっす………うえ、げほ』
『………あのなー』
オマエなんでそこで助けてとか言わねーんだよ、とザップはそのままレオと同じ目線にしゃがみ込んで、言った。そうだ、とその時気が付いた。だから何だか助けに行くのが嫌だったのだ。自主的に俺はそういうことをする人間じゃねえんだよ、と思いながら葉巻をくわえる。火を点けた。
『…?だって、今絡まれたのは俺のせいですから』
『だとしても俺がめちゃくちゃ近くにいただろ。フツー俺に助けて下さいくれー言うべ』
煙が上る。レオはきょとんとして、こほんとまた咳を一つした。『だってザップさん、こういうの好きじゃないでしょう』
それが何だか癪だった。
そもそもその”こういうの”とは一体何なのだ。あとからザップはそう思った。どういうのだよ。もっと具体的に言えって。しかしそう思ったときは既に時間が経ち過ぎていたから、何だかもう聞く雰囲気ではなくなってしまっていた。だから、一体レオが何をもってそう言ったのかザップにはまだ分からない。もしかしてこれからも分からないのかも知れない。
無性に腹が立ったので、そのままきょとんとしている後輩と一緒にビデオ屋に入って、勝手に自分が映画を選んで金を払わせた。俺も選びたいんですけど、と文句を言いつつもレオは素直に金を払い、にこにこしながらビデオ―――というか、DVDだ―――を受け取っていた。たぶん他人が選ぼうが何だろうが、映画を見られることが嬉しいのだろう。ザップは嬉しそうなレオの顔を見ながらそう思った。
それじゃあ色々すみません、と言いながらバイクに跨ったレオの後ろに更に跨る。え?何ですかと言われて何故かまた腹が立った。『いいから出せよ。お前ん家行く』『え?なんで』『何でもだよ』常套句とも言えるそれを言ったところでレオは再度首を傾げたが、結局バイクは発車した。拒否しても無駄だということを既に学んでいるのだろう。レオの家にそのまま行って、DVDを見た。
レオの家は狭かった。そりゃ一人暮らしなのだからそうなのだが、ともかくくっ付いて映像を見る羽目になって少しザップは閉口した。隣に座るレオの体温はやたらと高くて、子供みたいだった。閉口はしたものの、嫌悪感はなかった。途中レオが一々映画にびくりと反応したり、身を乗り出したりするからそれの方が面白かった。試しにぐいぐいと寄りかかってみたりすると、ちょっと真面目に見て下さいよ、と怒られる。『映画を選んだのはザップさんじゃないですか』それもそうだった、とザップは今更のように思い出した。足と胸を強調したドレスを着ている女優がパッケージにいたから選んだだけで、別段他意はなかったがどうもラブストーリーらしい。キスをしている男女のシーンになると、露骨にレオが気まずそうにするのだから画面より思わず隣を見てしまった。
その時真っ赤だったレオの耳を、ザップはなぜか今でもありありと思い出せる。
耳だけじゃなくて、体温だとか視線だとか、そういうのも何故だか全部思い出せる。
それが何だかんだで、続いた。これで多分五回目くらいだとザップは記憶している。レオの家で見ることもあれば、今日のようにザップの家で見ることもあった。どちらでもいい。気分で決めている。場所もそうだったが、何を見るのかはザップが決めていた。レオがそうして下さいと言ってきたのだ。『俺だと同じようなのばっかり選んじゃうんで』映画を見ることが目的なのだから、別にそれでもいいだろうに。そう言うと、それじゃあザップさんが選ぶ映画が見たいってことで、と適当に返事をされる。割にその答えが何となく気に入ってしまった。だから―――だから、それからザップは映画を適当に選んだ。今日はホラーだったのだ。
「あー…ちょっとマジでどーすんすか。俺これから家帰るんですよ」
「何がどーすんだよ。フツーに帰ればいいだろ」
「怖いじゃないですか」
怖い、とザップは繰り返してまた笑った。「何が怖いんだよ」あんたのせいじゃないですか、とレオはまた頬を膨らませてソファに座った。スプリングがぎしりと軋み、ソニックが寝返りを打ったのが視界に入る。
「何だよ今更。ここにどんだけ住んでんだって」
「そういう怖さじゃないです。ゴースト的な怖さですよ」
つまりゴーストと異界は別物だと言いたいらしい。「今の俺はぶっちゃけ吸血鬼よりゴーストが怖いです」真顔でそう言うのだから笑うのを止められなかった。堂々と言う事でもなかろうに、と思いながらザップは時計を見る。時計は夜の十一時を指していた。
「…んじゃ、いーよオマエ。泊まれば」
「え」
えってな、とザップは立ち上がって伸びをする。「いーよ別に。どーせ寝るだけの部屋だし」俺はシャワー浴びてくるから、と歩き出そうとするザップに、待って待って待って、とレオは慌てたように言うとがし、とまたザップの腕を掴んだ。何だと言うのだ、と訝しげな眼を向ける。
「ま、待ちましょう。俺はもう寝ます。寝ますから寝たらシャワー浴びて下さい」
「はあ?何でだよ。………おいお前、まさか怖いとか言わねーよな」
「怖いです」
やたらきっぱりと言われて脱力する。「ザップさんがシャワー浴びてる間ここで一人とか耐えられませんいて下さいお願いします」句読点を全く挟まずそう言う姿は真剣そのものだった。もしや仕事の時より熱心なのでは、とザップは疑う。はあ、と溜息を吐いてそのままバスルームに足を向けた。
「ちょちょちょちょマジでマジでマジで!ザップさんお願いしますって!」
「やだっつの。さっさとシャワー浴びて寝るよ俺は。お前ソファな」
「や、や、待って下さいって俺床でいいんで部屋同じがいいです!隣!隣がいい!」
「オイ嘘だろ。さっきのでどうしてそこまで怯えられるんだっつの」
「だって怖いものは怖いですよ」
堂々と言うなよ、とザップは呆れてとりあえず上着だけ脱ぐとぽいとその辺に放った。「…で、お前どーしたいのとりあえず」「俺が熟睡しはじめたらシャワーを浴びて下さい。でも音がして俺が起きて隣に誰もいなかったら怖いのでなるべく静かにシャワーを浴びて下さい」「ふざけんなコラアホか」真顔で一気にそう告げてきた後輩の額を小突くと、ザップは再びバスルームに向かおうと足を向ける。当然レオは物凄く慌てた様子で、今度はザップの足を掴む。うお、と小さく声を上げると床に這いつくばる様にしている後輩を睨んだが、後輩は後輩で必死な顔をしていた。
「や、ややややちょっと待ちましょう待ちましょう。分かった。分かりました。む…向こう、三日。三日間昼代持ちます。常識の範囲内で」
――――そんなにか。
呆れて思わずその場にのろのろとしゃがみ込んだ。胡坐をかいて肘を自分の膝の辺りに乗せて黙ると、レオは正座しながらまるで拝むみたいに両手を合わせてきた。それを見ながら、再度ため息を吐く。一体なぜ俺がこんなことを。そう思いながら口を開いた。「…五日間」
呟いたそれにレオは少したじろいだが、僅かな沈黙の後、わかりましたと項垂れて頷いた。別段こちらは何も悪い事をしていないのに、無意味に罪悪感を覚えてしまう。
「…で、お前風呂はいーのか」
「え?怖いからいいです」
罪悪感を誤魔化すためにそう聞いたのだが、レオは至って真顔でそう返事をしてきた。だってじゃねえよガキみてえなこと言いやがって、とザップは顔を顰めてそう思う。実際自分より年下であることは間違いないのだが。
「でもお前さっきコーヒー零しただろ。風呂入れ」
「はい?零したのはザップさんのせいなんですが」
「そうかそうか、じゃあ責任持って風呂を貸してやる。シャワーだけでいいから浴びてこい」
へ、とレオがぽかんと口を開けて言った直後にひょいと担ぎ上げる。軽い。「わっ!?ざ、ザップさん何ですかなんですかちょっと」何ですかも何もない。ザップからすればコーヒーの匂いを毛布につけられるのが嫌だったのだ。煙草だけならいいが、それとコーヒーの匂いが混じるのは好きではなかった。
ちょっと待って下さい怖いこれ怖い、などと喚いているレオを無視してそのままバスルームに連れて行く。ぽいとそのまま投げるようにして後輩をドアの向こう側に押し込んだ。
「ちょ、ちょっとま、」
「そこ回すと湯ー出るから。シャンプーソレ使え。んじゃ」
ぱたん、と音を立ててドアを閉めるとええええちょっと待ってちょっと待って、とレオは騒いで再度ドアを開けた。「ま、まっ、や、ちょ、ちょっと待って下さいあの」「アーもううるせーなコラほら服脱げよ」「えっ、ま、待って待ってシャワーって浴びてる最中誰か後ろにいるみたいで」「るせえって」呆れたまま無理矢理黒いインナーを脱がすと、にゃあとまるで猫みたいな声で悲鳴が上がった。突然生身の身体が外の空気にさらされたせいなのか、レオはくしゃみを一つだけした。薄い肉が見えて、少しザップは目を眇めた。細い。通りで簡単に担げたはずだ、と何だかやるせなくなった。
ぽいとその辺の籠に衣服を放り投げ、あとはお前自分でやれよ、とザップは溜息を吐いてそう言った。そもそもここまでしてやる謂れも無い。
レオは死にそうな顔のままマジで、と一言言った。「…マジだって。ていうか一瞬でいーだろ水浴びるだけだし」「……一瞬が、」怖いんですけど、と呻き声のようなトーンでレオは言ったが、ザップの意志が固い事は悟っているのだろう。結局ため息を吐いて顔を押さえると、観念したように口を開いた。
「…わかりました。わかりましたよ。シャワー借りますよ」
物凄く含みのある言い方をされたが、諦めてシャワーを浴びることにしたらしい、とザップは判断した。それじゃなんか必要なもんあったら勝手に使えよ、と告げてバスルームから出る。死にそうな顔をしたレオは扉が閉まる前に、ザップさんあの、と必死そうな声でザップを呼び止めた。何、と怪訝な顔でザップは首を傾げる。
「…そこ、いてください」
「はあ?」
なんだそりゃ、と呆れたままザップがそう聞くと、せめてドアの前いてくださいよとレオは暗い声で言った。「怖いんです」一体今日何度怖い怖いと同じ事を言えば気が済むのだ、とザップは溜息を吐きたくなる。そんなにあのホラーが怖かったのか。
いたって姿が見える訳でも何でもないのだから、意味ないだろとザップはそう言ったがそんなことはない、とレオは主張した。そもそもがこんな状態になったのはザップが選んだ映画、それからザップの行動にも責任の一端があるのだから少しは譲歩すべきである、というようなことをレオは主張し始め、何だかもう面倒になってしまってザップは分かった分かったと了解することにした。
その時のレオの顔はまるで地獄に仏を見つけたようだった。もう基準が結構低くなっている、と思いながらザップは葉巻を咥えてバスルームのドアの前にしゃがみ込んだ。
水音が聞こえる。シャワーの音だ。やっぱりいたって水音で何も聞こえないのだし、そもそもいるだけなのだから姿だって見えやしない。意味なんかないだろうとザップは思いながら、煙を吐き出した。
「……………。」
別段大きな意図があった訳ではない。ただからかっただけなのに何だか面倒臭いことになってしまった、と天井を見つめてそう思う。今まで見てきた映画はラブストーリーだったりアクションだったり、ファンタジーだったりして、ホラーは今回が初めてだった。自分の家だったからいいが、レオの家で見ていたら多分帰らないで下さいと泣き付かれていただろうとザップは苦笑した。その時はいったいどうしたのだろう、とぼんやりしてたら突然ザップさん、という声が聞こえた。扉の向こう側だ。
「あー?なんだよ。どーした」
向こう側にそう返事をすると、よかったいますね、という極めて分かり易い返事が寄越された。自転車の練習じゃあるまいし、とザップはいるよアホ、と端的に告げて少し笑った。果たして返事をしていなかったらどうしていたのだろう。
「…レオー、お前ホラーだめなの?」
気が付いたら暇だったせいか、ドアの向こうにそう話しかけていた。シャワーの音で聞こえないかと思いきや、意外にもレオにはきちんと声が届いたらしい。ドアが薄いのだ。
「得意ではないっす」
「…今日、一応俺これでいーかって聞いただろ。何でいーって言ったんだよ」
そこでシャワーの音が大きくなった。聞こえねーか、と背中の向こう側、更に扉の向こう側を気にしたが返事はなかった。やはり聞こえないのだろう、とザップは思って続けて煙草を喫った。そんなに気になった訳ではないが、ただ何となくふとそう思ったのだ。こんなに怖がる程嫌なら嫌だとあの時言えばよかったではないか。
こんこん、というドアを叩く音に立ち上がる。少し間が空いてからドアがゆっくりと開いた。そのタイミングで葉巻を口から、取る。ぽたり、と水滴が零れる音がする。当然は当然なのだが、レオの髪はしとどに水に濡れていた。
「――――だってザップさんがいるじゃないすか」
ドアを開けてから開口一番レオはそう言って、笑った。「だから大丈夫でしょ」
かなりの質量だった。
その言葉は、かなりの質量でザップに思いきり、ぶつかってきた。喩えだ。勿論、喩えなのだけれども。だろ、だとかそーだろうなあだとかいつものように簡単に答えられる言葉だったと思う。なのに、なのにどういう訳かその時のレオの言葉はザップにとって衝撃だった。そんな、まるで。俺がいれば絶対安心だから、なんて。
言われることなんかあるわけないと思ってた。
「…どーしたんすかぼーっとして。灰、落ちますよ」
レオはきょとんとしながらひらひらとザップの方に向けて手を振ってくる。「あ、つーか俺上着無いんすよ。貸して下さい」そう言ってぱたんとドアを閉めると、とことことレオはタオルを頭に乗せたままリビング兼寝室へと歩いて行った。
「………、……。」
何も答えられなかったことが無性に悔しかった。何でだ。何で今、俺は動揺したんだ。聞こえてたのかよ、とか水零れてんだよとか、言いたいことはたくさんある筈なのに、なぜか。
今言われたレオの言葉が頭を離れない。
ザップさん、と呼ばれて慌ててレオの方に足を向けた。煙草を灰皿に押し付けて何か服貸して下さいよと言うレオの頭を無意味に小突く。何するんですかというレオの声を背中に受けながら、自分の心臓が早鐘を打っているのを意識した。
「………てゆかだいじょーぶじゃねーじゃん。めっちゃびびってんじゃん」
小さくそう言ったザップに、レオが不思議そうな目でこちらを見てきたから何でもねえよ、と誤魔化した。
袖が余ると悲しげに言っていたレオはザップのパーカーの袖を何とか手繰って、無理矢理自分のサイズに合わせていた。シャワーを浴びるというザップに意味ありげな視線を寄越してきたレオに、叩き起こしたソニックを押し付けてバスルームに入った。怖いから何か歌うか喋って下さい、とドアの向こう側から聞こえてくる声を無視して、シャワーを浴びる。
―――――なんだ。
――――――今の、感じ。
嫌な感じだった、とザップは思う。この場合の嫌なというのは嫌な予感とか嫌な雰囲気とか、そういう意味の嫌ではない。自分が経験したことがないという意味の、不安さの”嫌”だ。自分じゃ制御できない、自分ではどうすることもできない類の感じだった、とザップは思って冷水を浴びる。浴びたからといってこれが無くなる訳ではないが、冷静になるには一番いいと思った。
「…あー…………」
何だか分からないこのもやもやした感情には殆ど覚えが無い。遠い昔、本当に片手の指に収まるくらいの年齢だった頃に経験した事があるような気もするが、それが果たしていつくらいのことなのか、一体誰相手に思ったことなのかザップは覚えていない。物心ついたころには既に修業の日々だったし、ヘルサレムズ・ロットに来たときにはそんな段階はとっくに通り越していたから、好みの女の子を口説いて口説いて偶に懐かれて寝る毎日だった。嫌な予感しかしない、とザップは目を薄く開けてシャワーを止める。適当に身体を拭いてドアノブを掴むと慌ててそこから退いた気配がしたから、少し間を空けてドアを開けた。
レオはソニックのことをぬいぐるみのように膝に抱えてそこに座っていたらしい。だから子供かよと思ってソニックの方をちらりと見ると、ソニックはうとうととと眠そうな表情をしていた。眠かったがレオのために無理矢理起きていたのだろう。友達思いなことで、と肩を竦めてタオルを頭に乗せて着替えに向かった。
「…で、お前はソファだ。いーな」
着替え終わってついでに髪を乾かし終わってからそう言うと、床でいいので隣がいいですとレオはきっぱりと言った。隣とは恐らくベッドの横の床と言うことだろう。あのな、とザップは呆れて床を指差す。
「オマエいーの?ベッドの隣だよ?ベッドの下から何か這い出て来るかもしれねーよ?」
「ぎゃああああ!!何でそんな怖いこと言うんですか!!」
顔を引き攣らせたレオは悲鳴を上げてザップに抱き着いてきた。任務でもよくくっつかざるを得なくなることは多いが、こういうくっ付かれ方は新鮮だ、と思いながら目の前にある頭をがし、と掴む。なぜか緊張した。
「…だ、からなお前。ソファでいいだろソファで」
「や、や、ソファは嫌です怖いです」
「なんでだよ」
「さっきの映画!オチ!」
「はあ?」
そんな風に言われても、とザップは回想する。映画の最後は見ていないのだ。丁度その時自分はレオをからかうので一生懸命だったし、そもそも途中から真面目に見ていなかったからストーリーもぼんやりとしか覚えていない。ソファなんか関わる場面あったっけ。そんな風にレオに聞くと、ソファの中にゴーストの身体が入ってたじゃないですか、とレオはまるで忌まわしいものを口にしてしまったとでも言いたげに、身を震わせてそう言った。つまり幽霊になった人間の身体―――遺体だ―――がソファの中に入っていたのだろう。どこぞの推理小説染みている、とザップは顔を顰める。悪趣味である。
「だからソファはヤです怖いです」
「………そんで床か」
「で、でも今床も怖くなりました。どーしてくれんですか」
確かに今ザップが余計なことを言ったせいで、床に寝るにしても恐ろしいことがあるかも知れないことになった。今日は何だか後手後手だな、とザップは頭を掻いてさて、と考える。すると残りはソニックが寝ているクッション(つまり床である)とザップのベッドだけだ。
「……わーったよ。そんじゃ俺がソファで寝てやるからお前ベッドつかえ」
「え」
「えって何だよえって。そんかわり一週間に延ばせ。昼代」
「え、え、ま、待って。待ちましょうザップさん」
掴まれている腕の力が少し強くなって何だよ、とザップは嫌な予感を覚えながらレオに聞く。さっきからずっとこの後輩は必死そうな顔をしはなしだ。糸目でも分かるものは分かるのである。
「ベッドを俺が使うのは流石に申し訳ないです」
「はあ?だってお前ソファも床もやなんだろ?んじゃさっき言ったみてーにするしかねーだろ。ただし一週間飯代奢れよ」
「それはおいおい、いえ、そーじゃなくて。あの、ザップさんはベッドに寝て下さい」
「そんで」
それで、とレオは言い難そうに口を開いた。
「俺もベッドに寝ます。解決」
「ああなるほど」
解決。
――――する訳がない。
当然ザップは顔を顰めて冗談じゃねえよ、とそう言った。「俺は男と同衾する趣味はねえ」そう言ってもそもそとベッドから毛布を引き剥がしてソファの方に行く。しかしそんなザップの腕を、再度レオががしりと掴んだ。何だよ、とザップは嫌々顔を向ける。悲愴な顔つきをしている後輩がいた。
「…お願いします」
「いやだ」
「マジで、お願いします」
「い、や、だ」
「お願いしますお願いしますお願いしますザップさん」
「……………………。」
何でも言うこと聞きますから、とまで言われたところでわーったよ、とザップは諦めてそう言った。頭をがしがしと掻きながら、腕に掴まっているレオを見下ろす。
泣きそうな程嬉しそうな顔をしていたからぎょっとした。そ、そんなに?そんなに嬉しいのか。思わずそう言うと、そりゃそーですよ、とレオは言った。ザップの腕に掴まったまま、こくこくと頷く姿はなぜかリスに見えた。
何がそりゃそう、なんだ。
一体その”そりゃ”が何にかかっているのか、ザップには分からなかった。
ベッドはシングルだったがとりあえず二人が寝れる分の大きさではある。ただしやっぱり狭い。レオも男ではあるが小柄だったから何とか一緒に寝られるといった具合だった。
「そいじゃーおやすみなさい。ありがとうございます」
「待て」
なんですか、とすぐ横にいるレオが怪訝な顔になった。「…お前なんでこっち向いてんだ」え?とレオはきょとんとしてもそもそと身体を少し動かした。肩が痛かったらしい。
「だって壁を見てたら怖いじゃないですか。何か出てきそうで」
「お前マジいー加減にしろ。んじゃ天井見りゃいーだろ」
「て、天井に謎の染みがあったら怖いでしょ」
「………………………。」
なんか悪化してね?とザップがうつ伏せになって肘を付き、隣のレオを見つめながらそう言うとぎくりとしたようにレオは引き攣った笑みを浮かべた。「そ、そんなことは」ないですよともそもそ言う様子はどう見ても大嘘付きだった。エイプリル・フールはまだ先だよ、と思いながらザップはため息を吐く。
「だ、だってもうなんか外が徐々に静かになってきたし、もう12時回ったからそろそろ幽霊時だし、それにさっきから上の部屋からがたがた音がするんですよ」
「アーそりゃ上に住んでる奴がただヤってるだけだ。いつものことだから無視しろ」
「………、……あ、そ、そーなんすか…」
レオはそう言うと困った様な顔になり、もそもそとやっと上を向いて、毛布を口まで引き上げた。何だか頬と耳が赤くなっていて、ザップも変な気分になる。何でそこでお前が照れるんだ。そう思ったが、突っ込むと余計気まずくなるような気がしたから、言わなかった。
「…や、で、でもやっぱり怖いんですって。なんか天井に染みがあるじゃないですか」
「はあ?どこだよ」
「ほら、」
あれ、と言いながらレオが指で示した方向を見上げたが、何だかよく分からなかった。白い天井にはそこここに染みがあるから、レオがどこを指してそう言っているのかが謎だった。どこだって、あそこですってば、というやり取りをしながらわざわざ起き上がって二人で天井を見つめたが、結局ザップにはどれのことなのかよく分からなかった。
「…結論だ。そんなものは無かった」
「あるんですってば!だから!あれだってば!」
「……んじゃーもしかしてお前だけに見えてんじゃねーの」
「ぎゃああああああ!!」
途端にレオが悲鳴を上げてがし、とザップにしがみ付いた。うお、と小さく声を上げる。さっきから近くにいるせいか、それとも任務の時によくこうなるからなのか、男なのにしがみ付かれても全く嫌悪感はなかった。ただ、代わりにどうしてか、さっきみたいにまた緊張に襲われる。ざわざわと心臓が嫌な感じに騒ぎ始めた。
「な、な、何でそーいうこと言うんですか!?も、もう俺は天井が見られないじゃないですか!」
「……お、ちつけ。落ち着けレオ。深呼吸しろ深呼吸」
「怖い怖い怖い怖い怖い」
そう言いながら子供みたいに抱き付いてくるレオの頭に、仕方なく手を乗せる。うう、と呻きながらレオはまるで呪文みたいに怖い怖いと呟いている。何が怖いんだってば、と思いつつも、どうしてかまだ心臓はぎゃあぎゃあと煩く喚いていた。ぽん、と頭を撫でるとやっとレオの唱えていた呪文は終わった。詠唱は終わりか、とふざけたことを思いつつもぐしゃぐしゃと頭を撫でると、やっとレオがのろのろと顔を上げる。青い顔をしていた。
「……………怖い…」
「お前それしか言えなくなったんじゃねーだろーな…」
そっちのが怖いんだけど、と言うとやっとレオはザップさんのせいで、と呪文以外のことを呟いた。「ね、眠れなくなる…」そう言ってますます子供のようにザップの服を掴んできたから、また変な気分になった。
怯えている後輩を見つめて心臓が騒ぐのは、変な気分と言って相違ないのだろう。
そう思いながら、いいからほら、と何だかよく分からない言葉を口にした。後々思うに何がいいのかさっぱり分からない。レオは青い顔のままザップのことを見つめている。
「………そのままでいーから寝るぞ」
「え。…え?その、」
最後までレオのそれを聞かずにベッドに引っ張り込んだ。ぎゃあ、という小さな悲鳴がしたがさっきよりはマシだ、と思いながら目を瞑る。「ざ、」少し上擦ったレオの声がしたが、無視していーから寝ろよとそう遮る様に、呟いた。
腕の中にいるレオが、小さく声を上げる。当然すぐ近くに顔があるのだが、抱きしめるようにしているせいでレオの顔は見えなかった。わざと見えないようにしているせいもある。こんなの、後輩の男に対して素面でやることではない、とザップは自分自身に呆れた。
「…こ、のまま?」
レオの小さな声が聞こえる。そーだよ、と嫌々返事をした。
「だっててめー怖い怖いうっせーんだよ。どーせこのまま寝ても途中で起きるし、そんで俺に先に寝るなとか言うだろ。俺が寝たら起こすだろ」
「…………………………ハイ」
そーですね、と腕の中からもそもそと後輩が言うのが聞こえた。「…んじゃいーだろもう。これならそんな怖くねーだろ」「…………ハイ」寒くもないですね、というレオにそーだろ、とそこで何だかおかしくなって笑ってしまった。確かに寒くは無い。
「…お前あったけーから俺はお前を防寒具だと思うことにする」
「あ、あったかい?そーですか?」
「子供みてーだな」
もそもそ腕の中で動いているレオにそう言うと、そーですかね、と困惑したレオの声がした。「でもザップさんも、」心臓の音がしますよ、と当然のことをレオは言ってきた。そりゃしなかった死んでるんだから当たり前だ、とザップは一瞬きょとんとして、そらそーだべと間を空けてそう言った。一体何が”でも”で”ザップさんも”なんだ。意味が分からない。
「人の心音は聞いてて安心するとか言うじゃないですか」
「あ?そーなのか?」
「少なくとも今俺はめちゃくちゃ安心してます」
よかった、とレオは丁度ザップの鎖骨辺りに頭を擦るようにして口を開いた。
「…一緒にあの映画見たのがザップさんで」
ざわ、と変な感覚に襲われた。
さっきと全く同じその感覚に心臓がざわめき始める。何だこれ、と思う前にレオがお休みなさい、と小さく言うのが耳に入った。条件反射でおう、とやはり小さな声で返事をする。腕の中にいる後輩が大人しく眠りにつこうとしている気配がした。
今日は何だかおかしい、と思いながら自分も目を瞑った。どういう訳かザップさんザップさん、と矢鱈と後輩が自分を呼んでいる声が耳にこびり付くように残っている。ザップさんいるから大丈夫でしょ、だとかついさっき言われたそれだとか、それから。
―――だってこーいうの好きじゃないでしょ。
その時のレオが一体何を思っていたのか、自分が一体何を思っていたのか。
ザップにはさっぱり分からなかった。
ただ、腕の中にいる後輩が大人しく寝息を立て始めたその頃になってもザップは起きていた。腕を動かしてレオがすやすやと眠っているその顔を見つめる。やっぱり子供みたいな顔をしていた。
腕を少し動かしたせいか、ん、と小さくレオが身じろいだ。そのままぼーっと顔を見つめていたがレオはそのままむにゃむにゃと意味の無いことを呟いてまたすやすやと寝息を立て始めた。それから、ザップの方に少し身を寄せて来たから少しぎょっとする。それでも黙って見ていると、やっぱりレオはそのまますやすやと健やかな寝息を立てた。
「……………、……。」
何か言いたかった訳ではない。ぼんやりしながらその顔を見つめていたが、さっきまであれだけ怖い怖いと言っていたことが嘘のように、レオはすやすやと寝こけている。あんだけ喚いてた癖にな、と思いながら頬を突いたが起きなかった。熟睡している。
黙ったまま、そっと手を頬に寄せた。別段何か考えていた訳ではない。ただ、レオの顔を見ていたら何となくそうしたくなっただけだった。後輩の髪でも、服でも、眼でも何でもなく、レオの肌に触りたくなった。
頬は思っていたより温かかった。やっぱり子供だ、と思いながら寝顔を見つめる。起きる気配は一切無かった。「………人の気も知らんでこのクソガキ」そう自然に呟いた後、そっと手を頬から離す。「………人の気?」しかしすぐにそう自問自答した。何が―――人の気なのだ。
「…………………。」
無言でのろのろと天井を向いた。やっぱりレオが言っていた天井のシミはどれのことかわからなかったし、上の階の住人は煩い。外からの騒音を耳にしながら、もう一度子供みたいに眠っている後輩の方に視線をやった。
小さく寝息を立てて寝ているレオはこっちを向いている。「………。」その時、なぜかザップはもう一回レオの頬にぺたりと自分の手を置いた。そっと、まるで愛人にするかのように、いやそれ以上に優しい手つきであることに自分で気が付いてしまい驚愕する。
「…………レオ」
小さく名前を呼んだ。勿論レオは眠っている。返事はない。「………、……好きじゃねえことねーっつうに」そう、忌々し気に言った後だった。
意識していなかったと言ったら嘘になる。脳内で自分自身に悪態を吐きながら、幼い頃覚えたあの感覚を思い出しながら、そっとレオの前髪をかき上げtあ。「……一言くれー言やいいんだ」そう言った自分の声は不貞腐れていた。
誰かの額にキスしたのは久しぶりだった。ここずっと愛人とはなるべくキスしないようにしていたし、それは別の愛人に口紅の痕が見つかると厄介だからという理由からだったが、誰かの額どころか、唇にすらザップは暫く触れていなかった。
音もしないキスの後、レオがむにゃむにゃと意味を為さない寝言を言った。「……ふん」そう一言だけ言って、ザップは今度こそ眠るために再度天井を向いた。隣から聞こえてくる寝息に少しだけ緊張しつつ、徐々に眠りに落ちていく。
ザップさん、という声にのろのろと眼を開けた。すぐ目の前にレオの顔があったので、よう、と反射的にそう呟く。
「…なんでお前がここにいんだ」
「昨日泊まったからっすよ。おはよーございます」
起きてください、と言った後ひょいとレオが上から退いた。「………ああ」そうだった、と昨夜のことを思い出してのろのろとベッドから起き上がる。伸びをして窓を見ると、すっかり外は朝の様相を呈していた。ぼんやりしながら隣を見ると、レオはどうやらぼちぼち前に起きたらしい。既にベッドは熱を失っていた。
「コーヒー淹れていいですかー?」
部屋の向こうからレオの声がしたので、うん、と返事をしたが恐らく聞こえていないだろう。既に湯が湧いたような音が聞こえる。そのまま暫くぼーっとしていたが、ザップさん、という声に顔を上げた。レオがドアの向こうから顔を出している。
「朝飯食いましょ。トースト焼いたから」
「………あー…」
うん、と寝ぼけ眼のままベッドから下りた。はい、と言いながらカップが渡されたので受け取る。「…顔洗ってくる」そう言ってもう一度カップをレオの方に押し付けたが、はいはいとレオは素直に頷いた。少し意外に思ってしまったのでまじまじと後輩を見つめると、なんですか、と不思議そうにレオは言った。
「…もー怖くねーのか」
ふと昨夜のことを思い出したのでそう言うと、レオは途端に気まずそうな、恥ずかしそうな顔になった。「……その節はすいませんでした」「…約束守れよ」飯、と言いながら洗面所に向かったザップの後ろからは、わかってますよ、という少し拗ねた声がした。
洗顔をしながらぼーっと鏡の前にいる自分を見る。「…あーあ…」気が付かなくてもいいことに気が付いてしまった、と思いながらタオルを乱暴に籠に突っ込んだ。ぼさ、という音と一緒に欠伸をして再び部屋に戻る。レオはソファに腰掛けてトーストを齧っていた。
隣に座るとレオは無言でコーヒーを再び手渡してきた。黙って受け取ると、すぐ前にある小さなテーブルに置いてあった皿の上にあるトーストを手に取る。少し焦げていた。「……食パンなんかあったのかよ」「ありましたよ」いつのか知りませんけど腐ってないからいけるでしょ、とレオは肩を竦めて言うと、カリカリと音を立ててパンを齧っている。
自分の服を着ているレオを見るのはなんだか新鮮だった。「……。」そのまま無言でごす、とレオの頭に側頭部をぶつけて寄りかかったので、わあとレオからは声が上がった。「び、びっくりした。なんですか?」当然レオにそう質問されたが、ザップはべつに、と答えにならないことを呟いた。
レオからはコーヒーの匂いと、トーストの匂いと。
それから自分が喫っている煙草の匂いがする。
「…………なんでもねえ」
そう言って溜息を吐いたザップにレオは怪訝そうな顔をしたものの、そのまま黙ってもぐもぐとトーストを齧った。普段だったらくすぐったいとか重いとか文句を言うくせに、なぜその時レオが文句を言わなかったのか、ザップには分からない。けれどザップもそのまま黙ってトーストを齧った。
「………お前さ」
「はい?」
なんですか、と言いながらレオはカップを持っていた手を止めた。「…また泊まってけば」そうぽつりと言った後、レオからはえ、と言う声が聞こえた。「なんで?」「………ホラー見た後だよ」そう言った自分の声が苦々し気に歪んでいるのに気が付いて舌打ちしたくなる。しかしレオは驚いた様子のまま黙っていた。ただしザップはレオに寄りかかっていたので顔が見えない。
「………泊まっていいんすか?」
「…いーよ。…だっておめーさ」
俺がいるなら安心なんだろ、と言うとげっとレオは小さく悲鳴を零した。「そ、…それはそーだけど」呻いた割にそうやって簡単に肯定するところも性質が悪い、とザップは思ったが指摘はしない。藪蛇にもなりかねないからだ。
「………んじゃまたそーいう時は泊まります。……毎回飯は奢れないけど」
拗ねたような声でレオはそう言ったが、誰がどう聞いても照れているというのは明白だった。「…………。」それが一体何に対しての照れなのか、ザップには分からない。けれどそっか、と言って少しだけ笑ってしまった後、レオが息を呑んだ音が聞こえてきた。
「…なんだ」
そう言ってちょっと目をレオに向けたが、レオは何でもない、とさっきのザップのようなことを言って、またトーストを齧った。
それを見て何となくザップは思った。夜は好きじゃないとずっと思っていた。けれど、もしこの後輩がいるならば。
話はまた別なのかもしれない。
終