fish・and・date

2017/07/25

2022/03/25 改題

お願いがあるんです、と言った後輩の顔を見上げながら、お願い、とザップ・レンフロは首を傾げた。いつもはそんな言い方しないのに、この後輩は稀にそういう子供っぽい言い方をする。「そ、…、あ、…お願いが、……っあ、」びくっと身体を震わせた後輩が自分の上によろよろともたれかかるようにして倒れ込んでくる。「おいへばんなよ。もーちょい動けるだろ」「あ…、……や、も、…もーむり……、」やだ、と言ったあとに首を振った後輩をちょっと睨んだ後、しゃーねえなとザップは後輩の腰を掴む。にゃあ、と小さく悲鳴が上がった。


ほんで、とザップは後輩であるレオナルド・ウォッチの髪を乾かしている。「んー…そいでー、……あーきもちい…」ふわふわする、と眠そうな声でレオは言うとザップに背中から寄りかかって来た。俺は背凭れじゃねえ、と言おうとして、しかしそこでザップは後輩がへらへらと笑っていることに気が付いた。「……………オラもー終わるぞ」だから結局ザップは文句ではなく、そう言ってレオの髪をくしゃくしゃと掻き回してやった。レオはくすぐったいですよ、と言いながら笑ったので、何となくザップは狼狽えてしまった。理由はよくわからない。
後輩のレオナルド・ウォッチと付き合ってから大体一か月くらい経った。たぶん、世間からしても自分たちからしても順調なお付き合いですと言っていいのだろう。何しろザップは最近とんと愛人のところに顔を出していない。複数人いた愛人は、今や指折り数えているかいないか程度にしかいなかったし、しかもその愛人達とだって大していちゃついていないのだから、驚天動地と言っていい。金を借りに行くことはあるので関係を切っていないだけだと説明したザップに、レオは微妙そうな顔をした。理由は嬉しいらしいが、手放しに喜ぶには流石に彼の人格は”きちんとしていた”のである。
が、そんな彼女達とも最近じゃ殆ど会っていない。偶然街中で出会うとか、彼女たちの家に私物を取りに行ったりして会うことはあったが、大抵その時レオが横にいるので、彼女たちの方から良かったわねと笑って言ってきたりする。ザップさんは女の人の趣味がいいですねえ、と帰りの道すがらレオはいつも言うのだから、どうやらザップが目を離している隙に彼女たちにレオは何事か吹き込まれているらしいのだ。一体何を言われているのかわからないが、嫌な予感しかしなかったのでザップは聞いたことがなかった。これまでの人生で幾度も藪を突いている。
「そんで……、あ、そーだそーだ」
そう言いながらレオはぱたんとベッドに寝転がった。「おいなんだよ。なんか話があんじゃねーの?」「ありますよ。ほら」寝て下さいって、とレオはにこにこしながら言うと、ぱたぱたと自分の横を手で軽く叩いた。「……………。」顔が引き攣りそうになるのを自覚しながら、なんだよとザップは大人しくレオの隣にのろのろと横たわる。付き合った頃、こういうことをするのは大抵ザップの役目だったが、今や殆どレオがしてくることが多かった。教育の賜物、とふざけたことを思いながら仰向けのままレオの方に顔を寄せる。レオはうつ伏せの体勢で雑誌を捲っていた。
「ここ行きませんかここ」
「ああ?どこだ?」
「ここっすよ」
ほら、と言いながらレオが指を指したので、仕方なくザップはごろんとレオの方に転がる。「わっ」どす、と腕を彼の背中に落としたせいかレオはそう声を上げた。「重いっすよザップさん」「どこだよ」レオの抗議を無視してそう聞いたが、レオはここです、とすぐにはしゃいだ様子で雑誌の一ページを指さした。
雑誌はどうやらヘルサレムズ・ロットの観光ガイドらしい。無法地帯が基本のこの街だが、”外”にある民間企業がツアーを企画するのは稀なことではない。街の中では生命の保障は致しませんという文句から始まるツアーなんぞ誰が参加するんだ、とザップは常々思っているが、それでも毎回黒字らしいと聞くのだからつくづく人間は物好きなのだ。
そして御多分に漏れず、レオの指先にはヘルサレムズ・ロットの観光地の一つが掲載されていた。最近オープンしたらしい。
「………水族館?」
そう言ったザップに、そーですとレオは矢鱈とはしゃいだ様子でそう言うと、行きましょうよとザップの方を向いた。「明日仕事終わった後でいーから行きましょ」「仕事の後だあ?」ヤダ、とザップは言うと身体をくるりと動かして、ぱたんと仰向けに戻った。ええー、というレオのブーイングが横から聞こえてきたが、もう眠くなってきてしまったので目を瞑ってしまう。仕事の後に飲みに行くのは大歓迎だったが、水族館などという自分に全く縁のない場所に行くのはごめんだったのだ。
「いーじゃないすか。俺明日バイトないし」
「ヤだっつーのめんどくせー。酒飲みに行くんならともかく何で魚なんぞわざわざ見に行かなきゃいけねんだよ」
「いーじゃないすか。綺麗ですよ」
夜だしライトアップされてるんじゃないですか、とレオは言うとまた雑誌を捲ったらしい。頁の擦れる音を耳にしつつ、嫌だとザップは三度目のそれを言った。「めんどい。どーしてもっつーんなら魚類でも誘って行けよ。仲間がいっぱいだぞ」そう、半ば以上ふざけたことを言ってザップは笑った。どーしていつもツェッドさんにそーいうこと言うんです、とレオが怒るのを見越して言ったのだ。
―――が、予想に反して隣からは何も聞こえなかった。
ん?と不審に思って目を開ける。「……レオ?」そう言った自分の声が、何だか少し上擦っているように聞こえた。自覚はなかったが、どうやら本能が嫌な予感というものを覚えていたらしい。
「……………そーですか」
んじゃいいです、とレオは言うと雑誌をぱたんと閉じてぐるりとザップに背を向けた。「おやすみなさい」きっぱりとそう後輩が言ったのが聞こえたが、ザップはちょっと待てよと言いながら身体を起こした。「…おやすみなさい」レオはまた同じことを言ってこちらを振り返ろうともしない。
「何だよオイ。何怒ってんだよ」
「別に怒ってませんよ。眠くなったんです」
「はあ?さっきまではしゃいでたじゃねーか」
「はしゃいでねーよ」
レオのそれを聞いてびき、と青筋が浮かんだのが分かった。何だコイツ。明らかに怒ってんのに怒ってねえとかクソめんどくさいこと言うし、てゆか寝る時ぜってーこっち向いて寝る癖に何で壁の方向いてんだコイツ。女の方がまだ分かり易いわ、とザップはその時脳内でごちゃごちゃ考えた後、コラてめえ、と言いながらレオのことを蹴飛ばした。「いって!」当然レオはそう悲鳴を上げて何すんすかと言いながらこっちを振り返る。
「ひ、人が言うこと聞かねえと暴力とか!そーいうやり方やめた方がいいですよ!?」
「おめえは都合悪くなるとすぐそーやってだんまりじゃねーか。言いたいことあんなら言えや」
そう言ったザップに、レオはうぐ、と図星を指されたような顔になる。やはり怒ってはいたらしいが、怒っている理由を言いたくなかっただけらしい。ガキめ、とザップは思うとほらと言いながら無理矢理自分の方にレオの身体を動かした。意外なことに、レオは抵抗しなかったが、どう見ても情けない顔をしているのでザップは怪訝に思う。さっきから感情がくるくるとよく動く少年である。
「………すんませんでした。わかりました。いいっすよ」
「……あ?待てよ。何が」
「いやだから。水族館ですよ」
もう大丈夫です、とレオは自棄になったかのように言うと、もーいいでしょと溜息を吐いた。「…寝ましょう。明日仕事だし」「…………。」その態度を見て、ザップは違和感を覚える。さっきまで怒っていた癖に、どうやら今は落ち込んでいるらしい。しかもその原因は、どうやらザップだ。
「……なーお前何がっかりしてんだよ。あんなんいつも言ってんだろ」
「…………別に…」
がっかりしてないです、と言ってレオはまた壁の方を向いてしまった。「オイこら。何でそっち向くんだよ」「………。」レオからは珍しく返事がない。無視か、と思いながら仕方なく手を伸ばして後ろから抱き締める。レオはまたしても別段抵抗という抵抗はしなかったが、やっぱりいつもより落ち込んでいるようにザップには見えた。基本この後輩は感情が沈んでも隠す傾向にあるが、どうも今日はそれすらする気力がなくなってしまったらしい。
「………なーオイ。レオー」
「………なんすか…」
俺眠いんですよ、と言った割に、レオの声は全然眠そうじゃなかった。やはり落ち込んでいる。
「……何怒ってんだって。イヤ今はくれーけど」
そう言ったが、レオは返事をしなかった。どうも寝ていると主張しているらしい。「…………。」つまり無視じゃねーか、とザップは忌々しく思った後、ふと枕元に放置してある雑誌を手に取った。がさがさという音のせいでレオがぴくりと眉を動かしたが、ザップからは見えない。部屋の灯りはいまだに点いていたから、勿論雑誌は容易に読めた。「……………。」無言でさっきレオが指さしていたページを見つめる。ごちゃごちゃしていてよく分かり難かった。元々ザップは本というものにそんなに手を触れないし、読むとしてもオッズが載っている新聞の一ページくらいだ。雑誌ならまだ読むこともあったが、この類のものは初めてに近い。
水族館の紹介が書いてあった。こんなにごちゃごちゃ書いてあんじゃこれ読みゃ充分じゃねえの、とザップは酷いことを思いながら、写真と共に書いてある文言を追う。確かにレオが言った通り、夜間はライトアップされていたりバーがオープンされていたりするらしい。水族館なんぞ行ったことがなかったが、たぶんこういうのも進化してんだろうな、とザップはぼーっと思った。
ぱたんと雑誌を閉じる。一通り読んだものの、一体何がどうなってレオが水族館に行きたいと言い出したのかわからなかった。「…………。」魚がそんなに好きだったのかコイツ、と思いながら枕元に雑誌を戻そうとする。そしてそこで。
ザップは気が付いた。
雑誌のタイトルは、『ヘルサレムズ・ロット デートスポット100選』という、いたく分かり易いタイトルだった。
「………げっ」
嘘だろ、と思いながら慌ててレオの方を振り返る。「…ってめオイ、レオ!」「…………。」レオからは返事が聞こえない。しかし寝ている訳がない。
代わりにレオが身体を丸めるようにしたので、ザップは珍しく青くなった。レオは大抵泣く時そうやって泣くからだ。どうやら自分は世間一般で言うデートに誘われていた―――らしい。が、基本こういうことに察しが良いザップにしては、珍しくめちゃくちゃ的外れなことを言ってしまっていた。確かにレオの前に何人も何人も付き合った女性はいたが、基本的に二人でどこかに行く時はホテルか彼女の自宅か、大穴でバーくらいだったからだ。デートというものをしたことが皆無に近い。だからザップにはそんな発想自体が無かった。しかも相手は後輩で、友人でもあるレオナルド・ウォッチである。基本的に受動的なレオからそんなことを言われるなんて、全く予想だにしていなかった。
行かないというだけならまだしも、ツェッドと行けなどと言ったのがまずかった。というより最早誘われた意味を理解してしまったからには、口が裂けてもザップはそんなことをレオに言わないだろう。むしろ一緒に行ったら殺すとでも言うところだ。
「わ…悪かったって!オイ起きろバカ!行くって!行く!行くから!」
水族館だろ、と言ってレオのことをゆさゆさと揺さぶったが、いいですよとレオからは返ってきた。「…ツェッドさんと行きますよ」「はあ?ふざけんなコラてめーそれは浮気っつーんだぞ!行ったら俺が魚類を殺すかんな!?」「…ツェッドさんは強いから殺されません」てめえ、うるさい、という悪口雑言はそれからぼちぼち続いて。
明け方になるころには二人ともすっかり疲れて眠っていた。問題は微妙に解決してそうでしていなかったのだが。


悪かったっつーに、と横にいる後輩に何度目とも知れぬそれを言ったが、レオはいまだに拗ねていた。「…だからいーですってば。ツェッドさんと行ってきますよ」「おいお前それはぜってー駄目だ。やめろよ。行くなよ。行く前にてめーを監禁する」そう思わず言ってしまったザップを、そこでやっとレオはきょとんとして見上げてきた。流石に言い過ぎた、と思ってザップは顔を顰めて口を噤む。
「…俺監禁されちゃうんすか」
「………してたまるかバカ。そんなんしたらうるさくてしゃーねえ」
「……………。」
レオは黙っていたが、そこで横断歩道の信号が青になった。周りの人々が歩き出したのに合わせて二人も歩き始める。人ごみにレオが連れて行かれそうになったので、ザップは忌々しくなり、無言でレオの肩を引き寄せた。わっという声が耳元で聞こえる。これだからガキは、と思いながら横断歩道を渡った。
「…じゃあ明日」
スクランブル交差点の向こう側に到達した時だった。レオがぽつりとそう言ったので、ザップは怪訝な顔になる。「…明日?」「…水族館」行きましょ、と言ってレオがザップの方に顔を向けた。
「…………なんだよ突然。行かねえんじゃなかったのか」
そうザップは当然疑問に思って聞いたが、レオはなぜかそこでへらっと笑って首を振った。「行きましょーよ。明日俺全休だし」ザップさんもでしょ、と言ってレオはちょこんと首を傾げる。「…………オウ」そう言って何かを誤魔化すかのように、ザップはレオの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。いててて、という悲鳴を聞きながら明後日に目を向ける。「……………。」この後輩の笑顔が可愛いと思うのは何百どころか何千回すら超えていると自分では思ったが、口にしたことは一回もない。ただ基本的にザップはレオのことを可愛いと常に思っているので、今更の話でもあった。勿論レオはそんなこと露程も知らないし、ザップだって知られたくはない。冗談ではない。
レオはその後もずっと機嫌がよかった。書類で指を切ったと言いつつへらへらと絆創膏を巻いていたレオを訝し気に見たスティーブンは、どーした少年と何度も聞いていたし、何もないところで躓いて転んだあともにこにこしていたので、チェインにも心配されていた。だいじょーぶ、と言いながら倒れ伏しているレオの横でちょこんと座ったチェインは、変な顔でレオのことを見つめていた。レオは大丈夫ですとにこにこしながら立ち上がると、本棚の方に向かってちゃんと歩いていく。しかし足がどう見ても千鳥足だった。「…ねえ銀猿」あんた薬とか教えてないよね、と真顔でチェインに言われてザップは顔を顰めてしまった。何でも悪いことは自分のせいだ。
ただし、レオがそうやって浮かれているのはかわいーなとザップはやっぱり思ったし、その原因が自分であるというのも非常に気分が良い。しかもそれを知っているのは自分だけなのだ。レオと同じくにやつきそうになるのを必死で堪えるのは結構大変だった。
ただ、たかだか水族館に一緒に行く程度でレオがそこまで楽しそうにする意味は、今一ザップには分からなかった。


待ち合わせ場所に早く着いてしまった。
「………あーあ…」
めちゃくちゃ楽しみにしていたとか、眠れなかったとか、そういう理由だったら可愛げもあっただろう。が、無論ザップとはそういう男ではない。ただ単に前日泊まった愛人の家から早々と追い出されただけだった。仕事なの、と言いながらシャワー室に追い立てられて不承不承シャワーを浴び、鍵くれりゃーいいじゃんというザップの訴えは勿論無視された。あの子に言いつけるわよ、と愛人に言われてザップはむくれた。言いつけたからってどーだっつーんだ。そうは思ったが、言いつけられるよりもむしろ彼女とレオが接触することに何となく嫌な予感を覚えたので、ザップはそれ以上何も言わず無言で出された食事を食べた。
「…………。」
溜息を吐く。その辺にあった時計を見たが、待ち合わせ時間までは間違いなくゆうに三十分はある。中途半端なんだよな、と思いながら仕方なく近くの店に入った。店に待ち合わせ場所に面した大きな窓があったので、そっちを向いて座る。「………何してんだ」そう独り言を呟いたあと、自分に呆れた。やっぱりこういうのは性に合っていない。仕事以外で人と待ち合わせをしたことなんて、ザップの記憶にはなかった。
待ち合わせをしたいと言い出したのはレオだった。じゃあここに昼過ぎに、とにこにこしながら言ってきた後輩に、無論ザップは難色を示した。いやフツーにお前の家泊まるから一緒に行きゃいいじゃねえか。そう主張したにも関わらず、そんじゃあんまり意味ないじゃないですかとレオも主張した。一体その『意味』が何なのかザップには全くわからない。んじゃ愛人とこ泊まるぞと自棄になって言った後、レオははいそれじゃそれで、と淡々と言ってきたのでザップは唖然としてしまった。言わば浮気するぞと言っているも同然なのに、レオはと言えばむしろ嬉しそうににこにこと件の雑誌を眺めているからだ。どういうこっちゃ、と思いつつも愛人の家に泊まりはしたが、結局ザップは彼女に指一本も触れなかった。珍しいのね、とおかしそうに笑っていた彼女はそれについて不満すら言わず、何だかそれにもザップはむしゃくしゃした。
「………はあ…」
やっぱりこんなやり慣れないことなんかやめときゃよかった。今更そう思うとカウンターに肘をつく。眇めるようにしてぼんやりと待ち合わせ場所の時計の下を見ていたが、その時隣に誰かが座ったことに気が付いた。そういや昼前だし混む頃合か、とザップはぼーっとしたまま何ともなしに隣を見た。
「えっ」
小さく上がったその声を聞く前に、その少年の顔がザップの眼には思い切り飛び込んでくる。
「あ?………レオ?」
なぜかそこにはレオがいた。「えっ!?ざ…」ザップさん、とぽかんとしてレオが言った。「なんで?」「……いやそらこっちの…お前座れば?」混みあってきた店内を見てそう言うと、はいとレオは慌てたように言うと手に持っていたカップをカウンターに置いて、少し高めの椅子に腰かけた。
「どーした。あと三十分はあんぞ」
時間、と言いながら親指で窓の向かいにある時計を指さすと、レオは決まり悪そうな顔ではあ、と一応頷いた。「…っすね」「なんだよ。楽しみで早く来ちゃいましたとか言う口か?」からかうつもりでそう言ったあと、自分で頼んだコーヒーを手に取る。レオはどうやらカフェオレらしかった。
返事がない。「…………。」嫌な予感を覚えて恐る恐る横を見ると、レオは無言でカップを口につけている。しかしその耳が真っ赤だということにザップは勿論気が付いてしまった。すぐ隣に座っているのだ。嫌でも見える位置にレオの耳がある。「………おい…」ふざけんなよ、と思わず詰ってしまった。しかし自分の声は誰がどう聞いても居た堪れなさに溢れていたと証言されるだろう。面映ゆいというか、照れ臭いというか―――そんなことを気にしているよりも、ザップは色々な意味で帰りたくなった。
レオの家に。

言っとくけどな、と言いながら館内に入った。「俺はおめーと違って半端に時間余っただけだぞ。勘違いすんなよ」「分かってますよ!」しつけーな、と言われて普通にムカついたので後頭部を殴ると、痛い、とレオは声を上げた。
ザップは今まで水族館に来たことがなかった。魚屋か寿司屋に行けば見れるものを何でわざわざ見に行くんだ。大体魚って見ておもしれーか?泳いでるだけじゃねえか。そう思っている。無論、実際に来てしまった今もそれは変わらない。何が面白いのかさっぱりわからない。
しかしレオは既に最初の巨大な水槽の前にとことこと歩いて行ってしまった。「………………。」遠足の引率みたいな気分だ、と思いながらザップはその後を追った。館内はぼちぼち混雑していたが、最近オープンしたという割には人が少ないように見える。巨大な水槽は恐らくこの水族館のメインでもあるのだろうに、別段人で囲まれているわけではないのだ。経営はだいじょーぶなんか、と余計なことを思いながらザップはレオの後を追う。巨大な水槽の中には知っている魚と知らない魚と、それから魚なのか怪しい生き物も入っている。流石はヘルサレムズ・ロット、とザップは今更のように思った。
「……………どーだ」
ひょいとレオの横に顔を出すと、綺麗っすよとレオは非常に普通の感想を言った。「………。」綺麗ねえ、とザップも水槽を見つめる。言っていることは分かったが、同意することはあっても自主的にザップがそう思うことはまずないだろう。「あ、ほら」エイがいます、とレオは言いながらザップの袖を引っ張った。エイ、とぼーっとしながらザップも水槽の中を見つめる。確かにエイがいる。特徴的な平たい身体の裏側に、怒ったような形の顔のような模様が見える。昔はアレを顔だと思ってたな、と幼い頃をザップは思い出して、らしくもないと顔を顰めてしまった。大体、知った時には既にエイはザップの手で刺身にされていた。
「……エイねえ…」
ぼそりとそう呟いた時だった。水槽の下から突然巨大というには言葉が足りないエイが顔を出したので、レオがわっと声を上げてザップの腕にしがみついてきた。「おわ」バランスが崩れるが勿論転ぶほどではない。マンタよりも巨大なそのエイは悠々と水槽を泳いでいたが、サメにすら勝てそうに見えた。絶対この街じゃなきゃお目にかかれないだろう。「…び…びっくりした…」「…ありゃ最早魚っつーか怪物だよな」食うのに時間かかるわ、と呆れて言うとレオがこちらを向いた。
「え?食うんすか?アレを?」
「食えるだろ。魚だぞ」
「いや確かにエイって食えるエイもあるって聞いたことありますけど」
あれは食いたくなくねえっすか、と言いながらレオはまた水槽を見上げる。さっきの巨大なエイは既にいなかったが、余りに巨大なせいか水槽のどこにいても目に付いた。さっきはたまたま水槽の底付近にいたせいで見え難かったのだろう。
「食いたい食いたくねえじゃねえよ。食えるか食えねーかだよ」
「判断基準が雑ですよ」
苦笑したレオが上を見上げたので、つられて上を見る。身体が宝石のように輝いている魚が群れを作って泳いでいた。光が反射して水槽の中にステンドグラスが反射したような光が溢れている。「…ありゃー食いたくねえな。硬そうだ」思わずそう言ってしまった。すぐにレオがおかしそうに笑った声がする。
「だから。食うんですか?」
「だから。食いたくねえよ」
そう言うと、レオはまた笑った。「…………。」こんなどーでもいいことで笑うのか、と思った後にもう一度二人で水槽を眺める。レオはザップの腕をまだ掴んでいたが、水槽の前が混んできたこともあって大して不自然ではなかった。それに別段ザップも離してほしいわけじゃなかったから口にしなかったのだ。自分もそうだが、基本レオはこういうことを外でしない。
そろそろ行きますか、とレオはどうやら満足したらしくそう言ったので、オウとザップも頷いた。「いーですかもう」「いーよ」正直いつまでいようが見ようが見まいがザップからすれば何も変わらない。むしろレオを見ていた方が面白いのではないかと思った。無論、口にはしなかったが。
「んで次どこ行くんだ」
「あ、んじゃあっち見ましょう。イカがいます」
レオはそう言って人ごみから抜けるべく、今度はザップの手を掴んだ。「………。」手を掴まれるのは、と人ごみから抜けながらザップは思った。
「………初めてか」
「え?イカを見るのが?」
怪訝な顔をして後輩はそう言ったので、ザップは無言でレオの額をぱちんと叩いた。


イルカショーがあとちょっとでやるみたいです、とレオがストローから口を離してそう言った。「…やたらまともなショー出してきたな」フツーじゃねえか、とザップは言うとアイスコーヒーを飲む。水族館のドリンクだからなのだろうか、レオが飲んでいるのはどう見てもただの青いソーダだったが、ペンギンジュースという謎の名称だった。矢鱈悩んだ挙句レオはそれを注文していたが、ザップは普通のアイスコーヒーを頼んだ。いつもと同じじゃないすか、ときょとんとして言ったレオに、それが何なんだとザップは思いながら、いーんだよべつに、とメニューを閉じた。他にクラゲジュースだとかクジラジュースだとかいう名称のものもちらほら見えたが、鯨はここにいねーじゃねえかとザップは首を捻る他ない。クラゲは何だか本物のクラゲが入っていそうで嫌だった。嫌いじゃないが好んで食べたくはない。
「フツー…ではないみたいですね。なんかシャチみたいなのも一緒に入れるみたいですし」
「なんだそりゃ。イルカショーどころか殺戮ショーじゃねーか」
見たくねえよそんなん、とザップがげんなりして言ったと同時にレオも顔を顰める。「飯食ってる時にやめてくださいよその手の話題は」「何が飯食ってる時だ。おめえこないだ内臓ミンチ系の仕事の後でハンバーガー食ってたじゃねーか」そう言うと、レオはべえと舌を出した。
「あれは仕事でしょ。それとこれはまた別っすよ」
「意味わかんねー」
それはともかく置いといて、とレオは言うとぱくんとシーフードカレーを口に入れた。「てゆかシャチってイルカ食うんすか?」「食うだろ。クマ食うんだから」「え。マジで?」レオがびっくりした様子で顔を上げる。
「俺見たことあんぞ。食うって」
「……いちおー聞きますけど」
テレビで?と言ったレオが首を傾げる。「いや。ガキの頃ロシアだか南極だかで見た」「うっわ」マジすかとレオは益々びっくりした顔になった。マジだよ、とザップは心底どうでもいいことだと思っていたので雑にそう返し、スパゲッティをぐるぐるとフォークに巻き付けた。シーフードスパゲッティならここではなくても食べられるが、スパゲティはこれしかメニューがなかったのだ。そしてザップは今、饂飩、蕎麦、拉麺以外の麺類が食べたかった。
「…んじゃふつーに今まで見てきた魚とか見たことあるんすか」
「覚えてねーけどまあたぶん見たんじゃねーの。ここ特有の魚は見たことねーけど」
「………そーですか…そんじゃ」
なんかすんません、と言ってレオが眉を下げたのでザップは戸惑った。今一体どういう理由で謝られているのか全く分からない。自分が今まで魚を見たことがあるからと言って、今この状況がなんの不利益を自分にもたらすのだろう。全然わからない。強いて言うなら魚が食いたくなったことくらいだが、今や食事をしているのでそれは解消された。スパゲッティには魚ではなく貝がふんだんに入っていたが。
「?」
明らかに怪訝な表情をしたので、えーと、とレオは困ったような顔で頬を人差し指で掻いた。「退屈かなあっていう」「あー」そういう意味か、と言って箸でアボカドの欠片を掴んだあとレオの方に突き出した。「なんすか」「俺これ好きじゃねえんだよ」「好き嫌いあったんですか?」そう言ったもののレオはちゃんとそれをぱくんと口に入れた。クラゲと一緒だ。食べられないわけじゃないが好きではないのだ。
「……んでどーすんだお前。似非イルカショーは見てくんか」
「ん〜〜〜……、……ほんじゃちらっと。一瞬。ちょっとだけ」
そこまですんならちゃんと見たいって言えよ、とザップは笑ってしまった。「だってザッ……、あ、いやちょっと待って下さいよ。さっきの話題は?」「あ?」なんか話してたか、と言ったザップに、話してたでしょとレオはまた情けない顔をして言った。
「…まあその、元々ザップさんはここ来るのそんなに乗り気じゃなかったでしょ。だから悪いなって話です」
「は〜〜〜?お前何今更言ってんの?バカなの?」
思わずそう言って身を乗り出したので、肘がテーブルにぶつかってがつんと音を立てた。タバスコだのチーズだのがぐらぐらと揺れたので、レオが慌てた様子でテーブルを押さえる。「わっ。あぶね」「…あのなーお前よ、俺がしたくねーことはしねーって知ってんだろ」「…はあ」そっすね、とレオは言ってテーブルから手を離し、コップに入っているストローをぐるぐると掻き回した。氷がぶつかってしゃらしゃらと音を立てる。
「そりゃーそうですけど。…でもその、…えーっと。一応俺ら…え〜〜〜っと…、いや、その…せ、世間的にはつ……付き合ってるよーなもんだし…だからその、…ザップさんも一応俺に気を使ったのかなーって」
「オイ待てよ色々突っ込むとこが多過ぎんだろバカ。世間的にはってどーいうことだよ」
思わずまた身を乗り出して言ってしまったザップに、レオはきょとんとした顔を上げた。「え」「え、じゃねえよ。俺は付き合ってると思っ、………、オイまさか」俺とは遊びかよ、と言いながら自分を指さしてしまったザップを見て、レオは益々ぽかんとした顔になった。そしてはっとしたように慌ててぱたぱたと両手を振り始める。
「な…っちょ、っと待ってくださいよ。お、俺にそんなこと出来るわけないでしょ!?」
「いーやわかんねえ。俺が知らねー間に遊んでるかもしんねーもんな」
「してませんよ!怒りますよ!?」
そこまで言われて思わず吹き出してしまった。途端にレオは握り締めていた手をテーブルに下ろして、もう、と拗ねたように言いながら椅子を揺らした。「…遊んでんのはザップさんの癖に」口調はやっぱり拗ねていたので、ザップは笑うのをやめられなかった。


イルカが圧勝しているイルカショーを引き攣った顔で眺めてしまった。「………………。」血まみれになっていくプールを子供がじっくりと見つめているので、ザップは柄でもなく世界の行く末を心配した。ガキにこんなん見せんじゃねーよ、とどこにいるのかわからない親を詰ってしまう。イルカつよいねー、と言う別の子供の声が聞こえてきて、ザップはげんなりしてしまった。
プール自体は普通のプールだった。ステージをぐるりと囲むように配置されている観客席にはベンチが設置されていて、間あいだに通路がある。しかしなぜかステージに近いベンチになればなるほど人が少ない。最前列から二列、三列目に至っては誰もいなかった。おかしくねえか、とレオに聞くと、水がすごく跳ねるから嫌なんじゃないでしょうか、とレオも不思議そうに言っていた。確かに濡れるというアナウンスはされていたが、それにしても三列目まで誰もいないのは異常だ。物好きはどこにでもいる筈なのだ。
ステージとプールが合体しているような特有のそれは、まさにイルカショーをやるために作られたものだった。すぐ近くでイルカやシャチが泳いでいるのを見るのは久々で、流石にザップも懐かしいとは思わなかったが、ちょっと驚いた。そーいえばあんな生き物だった、と最初は思っていた。最初は。
「…つえーってかあれはどー見ても改造されてんじゃねーか…!!賭けにもなんねーぞオイ…!」
「う〜〜〜〜〜ん……」
そうっすね、と言ったレオの顔も引き攣っていた。パンフレットで口元を隠しているところを見ると、やっぱりスプラッターがそんなに好きなわけじゃないらしい。仕事中とプライベートはやっぱり別なのだ。「…おめーどうすんだこれ。最後まで見てくのか」「う〜〜〜〜〜ん…イルカはともかく…あのシャチはこの後どーなってしまうんでしょう…」「いやーありゃどー見てもシャチが死ぬだろ。何考えてんだこの水族館」顔を顰めたままそう言って足を組んだザップに、うーんとレオはまた似たようなことを言ってパンフレットとイルカショー”らしき”何かを交互に眺めている。
「…自然ならやむなしと言えるけどわざわざ水族館でそーいうのは見たくないなあ…」
「だろ?オイもーいいから次のゾーン行こうぜ。ペンギン見てえっておめえ言ってたじゃねーか」
「ん〜〜〜…」
そうですねえ、と言いながらレオが顔をパンフレットから上げて、こちらを見た時だった。
分かり難い音だった気がする。びきびき、という何かにヒビが入った音が聞こえた時に既に嫌な予感はしていたのだ。「?」その音にレオも不審を覚えたらしい。なんだろう、とでも言いたげな顔でザップからプールの方に目を戻した。瞬間びしびし、といういたく分かり易い音とともにプールと隣接している床にヒビが入ったのがザップの眼に入った。
「………ザップさん」
「…なんだよ」
そう言いながら立ち上がってレオのフードを掴む。レオは引き攣った顔をしたまま立ち上がった。びし、という音が益々酷くなる。
「……あのシャチってもしかして、」
そこまでレオが言った時だった。ついにびしびしという床にひびが入り切り、何かが砕け散る音がした。ざざ、というノイズの音と共に場内アナウンスが流れ始める。『えー、毎度恒例になりましたがただいま大変危険な状態です。お客様各位におかれましては、ご自身の責任の上で―――』そういえば、とザップはそれを聞きながら思い出した。入場時に別途サインをさせられたことが今更のように頭の中に浮かんでくる。
――――バンジージャンプじゃあるまいに、と思っていたが、もしやあれは。
遂にプールを飛び越えてシャチが観客席にまで躍り出るように現れた。
「………ッ!!」
同時にがたんと席を立ったザップとレオの周りでも、とっくに観客たちははしゃぎながら出口に押し寄せている。やべえまたかよ、とか今日はどっちだろうな、という会話を聞きながらザップはレオの腕をしっかりと掴んだ。「…おしいーか。ぜってーお前俺から離れんなよ」「あっ、そ、ソレ結構ときめいたんで、もっかいお願いします!」「呑気か!?」びし、とレオの額にチョップをした後にステージに背を向けて走り出す。観客に押し潰されそうになったレオを見て、舌打ちしながらちゃんと腕を掴み直した。「あ、ざ、ザップさんザップさん、アレ」「ああ?どれだよ!てかてめーちゃんと走れよ!死にてーのかコラ!!」ぎゃあぎゃあと喚き合う観客たちの中でもちゃんとレオの声が聞こえたことに少し驚愕しつつ、一応ザップは振り返る。反射的にステージに目を向けた。レオもザップに引き摺られるようにして歩いていたせいか(観客が多過ぎて走れないのだ)、呑気にもステージの方を見つめている。
「シャチがいきなし優勢になりましたよ。ほら」
「………いや、てゆかおめーよ。あれ、」
ほんとにシャチかよ、と言いながらまじまじとその生き物をザップは見つめる。
シャチにはどう見ても足のような何かがついていた。


お約束らしいんですよね、と言いながらもぐもぐとクレープを食べているレオの横で、ザップは今度こそペンギンジュースという謎の液体を飲んでいる。普通の青いソーダである。「?お約束ってなんだよ」「アレ。さっきのイルカショー…っていう名称に疑問が残る何らかのショー」「細けーな」でもイルカショーじゃなかったでしょ、とレオは言って笑うとぐいと口元を拭った。この後輩は食い物を食べるのが下手なので、何を食べても絶対に口元に何かが残っているのだ。拭ったわりに、いまだ口の端には生クリームがくっ付いていた。
「最初にイルカが圧勝気味になって、それから陸地に場所移して戦うんだそーです。するとシャチが優勢になるけど、シャチもさっきまで負ってたダメージがあるから勝てたり勝てなかったりっていう」
「……そーいうのをなんつーか知ってるか」
「?」
なんすか、と言った後輩の口にはまた新たにクリームがついていた。「やらせっつーんだよ」そう言ってザップはぐいとレオの口にくっ付いていたクリームを親指で拭った。「うにゃ」そう変な声を上げた後輩は、思わずというように目を瞑ったが、すぐに開いたらしい。見てもよくわからない。
「やらせ…っつーんすかね。でも一応勝敗は毎度変わってるみたいですけど」
「そこは大して問題じゃねーだろ。…んでおめー次どこ行くんだ。ペンギンか」
矢鱈ペンギンを押しますね、とレオは笑って言うとくるりと手摺の向こう側に身体を反転させた。丁度海の方面に面している側はバルコニーのようになっていて、そこから外が見える。外と言っても勿論ヘルサレムズ・ロットの街には変わりないのだが、レオは一瞬タコ足が見えた、と言ったからどうもそちら側に面して作られているらしい。レオの眼だから見えたのかどうかはザップには分からない。遠くでサイレンが聞こえたが、これはいつものこの街のバックミュージックに相違なかった。
街は既に陽が落ちていたから、夜景が美しく煌めいていた。
「………ザップさんは愛人とこーいうとこに来たことないんですか?」
そうぽつりとレオが呟いたので、げほ、とザップは少し咳き込んでしまった。動揺したのだ。「…な、…なんで」明らかに狼狽えたという言い方をしてしまったので、レオの方がきょとんとした様子でこちらを向いた。「…聞いちゃまずかったですか」「まず…くはねーけど…」別に、と言いながらも何となく顔を顰めてしまった。別に聞かれるのは構わないが、それを聞いたのがレオだということが問題なのだ。
「…ねーよ。口説いてヤるのが俺のセオリーなんだよ」
そう肩を竦めて言った後にもう一回ソーダを飲んだ。「…ふうん」レオは興味があるような無いような、どれと言われれば感情を押し殺したようなそんな声でそう言うと、黙々とクレープを齧る作業に戻った。「………………。」ずるずるとソーダを飲んだ後に、横にいるレオにごす、と肘打ちした理由は説明するまでもなかっただろう。いて、とレオが小さく声を上げた。
「な、何すか。痛いでしょう」
「…お前自分で聞いといて自分でへこむなよめんどくせーな。何でわざわざそーいうことすんだ」
「うっ」
そう言ってレオは少しザップから距離を取った後、けれどもすぐにまた元の位置に戻った。「…だって俺はザップさんが…その、…まあ、…色々したりされたりすんの初めてだけど、…ザップさんは違うんだろーなーって、…思うじゃないですか。こーいうとこ来たら」そう言われてそーいうもんか、とザップは不思議に思った。こーいうとこ来たらそー思うもんなのか?来たがっていたのはレオだったのに。
そう思ったのが伝わった訳でもないだろうが、すんませんというレオの声がした。黙って横を見る。
「……………。」
レオは無言でもそもそとクレープを食べていた。「……、」レオ、と名前を呼ぼうと思ったがザップはやめた。黙ってひょいとレオの右手をつかんだので、当然わっと小さく声が上がる。
クレープはひどく甘かったので少し閉口した。こんなあめーもんよく食うよ、と思ったザップを他所に、レオは変な顔でこちらを見ている。「…甘いのそんな好きじゃねーでしょ」「そーだな」大して好きじゃねえ、と言いながら気が付いた。またレオの口の端にクリームがついている。子供じゃあるまいに、と少し呆れて、そのままひょいとレオの顎を掴んだ。
声が上がる前だったと思う。
水族館には背を向けていたから誰も見ていなかっただろう。むぐ、というレオの声が耳に入る。ちゅっと音を立てて口を離した後、レオがびっくりした様子でクレープを落としそうになった。何してんだか、と再び呆れながらレオの手毎クレープをしっかりつかんで、それからもう一回、今度はただ単に何となく唇を舐めた。クリームの味はさっきと変わらない。当たり前だ。
「…………………、……なっ、」
何すんすかこんなとこで、と小さな声で後輩は言った。
真っ赤な顔を何度見たか覚えてない。ただ見るたびに、同じことばかり思っている。
「…したくなった」
そう言って笑うと、レオは真っ赤な顔を明らかに狼狽えさせたので、ザップは余計に笑ってしまった。泣いた顔は嫌だったけれど、笑ってなくても、顔が赤かろうが白かろうが同じだ。―――いつも同じことばかり思っている。


ペンギンは普通のペンギンだった。可愛いですねえ、と言いながら水槽を眺めている後輩の横で、そろそろ煙草が喫いたくなってきた、とぼーっとしながらザップはきょろきょろと看板を探す。喫煙所の看板と矢印を見つけたので、おいレオ、とレオのことを軽く小突いた。
「あたっ。はい?」
無言でひょいと喫煙所の方を指さしたので、ああ、とレオは頷いた。「わかりました。んじゃ俺ここにいるから」「おー」迷子になんなよ、と言いながらぐしゃぐしゃと頭を掻き回したので、レオがいてててと悲鳴を上げた。やめてくださいよもう、と怒った声を耳にしながら、その場を後にして喫煙所に向かう。殆ど人はいなかったが、にしても生きにくい世の中になったとザップは溜息を吐いた。恐らく外よりもこの街の方が煙草や薬についてはまだ柔らかい対応の方なのだろう。外がどうなってるかなんて考えたくねーわな、と思いながら一服した。世界がどんな風に変わったとしても、こればかりはやめる気がしなかったが。
喫煙所から出た後のこのことペンギンの水槽の方に足を向ける。「…さーて」次は何だったか、と言いながらレオを目で探した。あんな陰毛頭じゃ速攻見つかる筈なんだけど、と酷いことを思いながらペンギンの水槽まで辿り着いた。しかしレオの姿は見えない。子供かよ、とついさっきまでいた後輩のことを脳内で詰ると、フロアをぐるりと目で探した。流石にこのフロアからいなくなるということはないだろう。
レオは案の定すぐに見つかった。フロア内の中央辺りに突っ立っている。何してんだあのバカは、と思いながらそちらに足を向ける。そして気が付いた。レオの横に見知らぬ男が立っていた。
「………………………。」
見た目からすると、ザップと同じくらいかもしくは少し下だろう。異界人のようには見えない。ごく普通の男に見えた。レオと何事か会話しているらしい。基本、あの後輩は人見知りをしないので、相手が礼儀正しければきちんとした態度で接している。ちょっと困ったような笑顔で笑っているのが見えた瞬間、自分が少し足を速めたことにザップは気が付いたが、その理由には気が付かないふりをした。
もうあと数メートルでレオとその男がいる場所には到達するだろう。その時だった。
ほんの少し、その男がレオの方に身を寄せた。「……、」あ、と思う間もない。なぜかレオの方も少しそちらに身体を寄せたのがザップの眼に入る。
口を開けたのが自分の意思だったかどうかは怪しい。
「――――レオ!!」
びっくりするくらいの声だった。大きいというよりは通りが良い、誰と言われればクラウスがよく発するようなやり方だった。フロアが一瞬ぴたりと静まり返ったので、げっとザップは慌てて口を押さえる。当然名前を呼ばれたレオの方は驚いた表情でこちらを振り返り、反射的になのか、彼の横にいた見知らぬ男もこちらを振り返った。やはり知らない男だった。
「……っくりした…!なんすかもー…!」
静かにしてくださいよ、と言いながらレオが少し顔を赤くしてザップの方に歩いてくる。「……悪い」小さくそう言った後、後輩の腕を掴んで引き寄せたので、わあとレオは声を上げた。「ちょ、ちょっとちょっとなんですか?…あ、すいませんえーっとそれで」たぶんこっち側から出れば亀のゾーンだと思うんで、と言いながらレオは手に持っていた水族館の地図を男の方に向けた。
「亀のゾーンと鮫のゾーン隣り合ってたから、そっちだと思いますよ。ここからだったら外側の階段…あ、あそこの。あれ降りたらたぶんショートカットできますから」
そうレオが流れるように言った後、男はどうもすみませんでした、と笑顔で言うと頭を下げた。有難うございます、と言いながらフロアの端に歩いていく男の後姿を見ながら、けれどザップはいまだレオの腕をしっかりと掴んでいる。
「……あのー。なんですかいきなり。てゆかペンギンがびっくりしちゃうでしょ」
だめですよ大きな声出しちゃ、と言いながらレオが顔を上げた。「……あ。オウ」「彼女とはぐれたんだそーですよ」そう言いながらレオが手に持っていた巨大な地図を折りたたんでいく。
「で、亀と鮫を見た辺りまでは一緒にいたっていうから」
地図を見て確認してたんですよ、と言いながらレオはひょいと今まで自分がいたところを指さした。よくよく見れば、レオと男が立っていたのは案内板の前だったらしい。「………あ」そっか、とレオを見下ろすと、そーですよとレオは言って地図を鞄に突っ込んだ。
「ちゅーかソレ以外なんだっつーんすかもー。あんなでけー声出されるほどのこと俺はしたんですか?」
「……………うるせーな」
大してでかくもねーだろ、と言いながらぺちんとレオの頭を叩いたので、いてっとレオが小さく声を上げた。「?わけわかんないなあ…んじゃほら、ペンギン見ましょうペンギン」「ああ?さっきも見ただろ」ザップさんは見てないでしょ、と言いながらレオが歩いていく。そこで気が付いた。自分が掴んでいた腕はいつの間にかレオの手にシフトされていて、しかもちゃんとレオの方もザップの手を掴んでいた。
「………………………。」
何か言うべきだと思ったが、結局ザップは何も言えなかった。そろそろ焼きが回ってきた、と益体もないことを考えながら、レオと一緒にペンギンの水槽まで歩く。ペンギン達は水の中で優雅に泳ぎまわっていた。


外はやっぱりとっくに暗かった。「あー楽しかった」そう言ってとことこと出口に歩いていくレオの後をのろのろと歩いている。楽しかったねえ、と少し後ろを振り返った。思い出に残っているのはイルカとシャチの殺し合いくらいである。
「ザップさんどこが楽しかったですか?俺タコ楽しかったっす」
「タコ?…あー、不味そーだったなー。やっぱ寿司の状態じゃねーとあれは食う気しねーわ」
それでも修業時代に何度も何度も刺身にした覚えはあったのだが、そう言ったザップにレオは何すかソレ、とおかしそうに言った。「最初の大きい水槽でもなんかそんなこと言ってましたよね。アンタ」「俺にとって魚は食いもんなんだよ」そう言った後に漸く水族館から出た。よくもまあこんなスポットをこんな街に作ったもんだ、とザップは今更ながら呆れる。いつ壊れるとも知れぬ街に作るには、少々リスクが高いものに思えた。
何となく黙って二人で道を歩いた。既に夕飯時ではある。寿司が食いたくなった、とザップは酷いことを思いながらぼーっと歩いている。「…あのー、今日あざっした。一緒に行ってくれて」「いい加減しつけーぞオイ」そう言ってごす、とレオの足を蹴飛ばしたのでぎゃあと横から悲鳴が上がった。
「ちょ、ちょっともー!何すんすか痛いですよ!」
「何すんすかはこっちの台詞だハゲ。俺は行きたくなきゃ行かねえって言っただろ?あ?」
分かってんのか、と言いながらじろりと横にいる後輩を睨んだので、レオはうっと怯んだ顔をした。「…その、…そ、それはそーなんだけど…」最初嫌がってたから、と言われて少し眉間に皺を寄せた。どうもそこに引っかかっているらしい。
「…あのなー、いーか。たとえば今日みてーなとこに女に誘われてたら俺はどーしてたと思う」
唐突にそう言ったからだろうか、レオがきょとんとした顔になる。「…え?そりゃー…そりゃわかった行こうか愛してるよって言うんじゃないですか?考える余地もなく」「オウそーだよ。基本応えはイエスしかねーんだよ」女が相手ならな、と言ったのでレオははあ、と言った後にちょっと眉を下げた。むしろ平気そうな顔をされたらそれはそれで腹が立つので、この結果は問題ないと言える。
「んでもおめーは女とはちげーだろ。たとえば万が一でも俺が嫌なのに嫌じゃないとか言ったらどー思うんだよ」
「そりゃー嫌ですよ。俺が」
「だろ」
そーいうことなんだよ、と乱雑に言った後に、向かいから人が来るのに気が付いた。レオの腕を引っ張るとわっと声は上がったものの、後輩は大人しくザップの方に身を寄せた。すれ違った後も、何となくザップはレオの腕を離さなかった。けれどレオからは文句は来なかった。
「……そーいうことなんすか」
「そーいうことなんだっつーに。一々めんどくせーから気にすんなそーいうことは。…ちゅーかお前は基本そーいうこと言わねえだろ」
「?そーいうこと?」
どーいうことですか、と聞かれたのでザップは少し溜息を吐く。そーいうことだとかどーいうことだとか、さっきから抽象的な物言いが多過ぎた。そもそも何でこんなこと言わなきゃなんねーんだか、と自分に呆れた。「…俺にしてほしーことだよ。いきなり来るなとか酒飲み過ぎんなとかそーいうこと以外で」「はあ…今言ったことをぶっちゃけ凄く守ってほしいんですけど…」レオはそう不承不承と言った様子で言ってきたので、ザップはそこには触れるのをやめることにした。藪蛇だ。
「…ともかくだな。お前もーちょいアレだ、…なんつーか…してーこととかやりてーこと言えよ。出来ることだったらやってやるから」
そう一気に言ったので、少し沈黙が起きた。だから嫌だったんだ、と数秒前の自分の発言を思いながら、足を自然と速める。レオの腕を掴んでいるので、レオも自然に足が速まったのだろう、わわ、という声が聞こえた。
「………そーなんすか」
「しつけーなそーだよ。…だから」
そこで信号が赤になったので、仕方なく足を止める。人ごみの中、横にいる後輩のことをやっと見下ろせた。
「……どっか行く時は俺にしとけよ。別の奴じゃなくて」
そう言ってからすぐさま正面を向く。当然さっき変わったばっかりだったから、信号はまだ赤だ。車がびゅんびゅんと人をひき殺しそうな勢いで道路を走っていくのを眺めながら、信号が早く青くなることを祈った。何でこんなことこの俺が、と思っていたのと同時くらいだった。ぐい、とザップの腕が引かれる。
「…………………。」
無言でちらりとそちらに目を向ける。当然そこにはレオがいた。
少しだけ顔が赤い。「……………。」だからそーいう顔は、とザップは自分自身を忌々しく思いながら、なんだよ、と小さな声で聞いた。人ごみの中だったが、レオにはちゃんと届いたらしい。
後輩の小さな口がそっと開いた。
「……夕飯、…寿司にしませんか」
「……………………。」
その顔で言うことがソレかよ、とツッコミを入れようとしたザップよりも先に、レオの方が再び口を開いていた。ただし、ザップにはそれが見えない。レオが言いながらのろのろと顔を俯かせてしまったからだ。
ただし、くしゃくしゃの髪の隙間から見える耳は酷く真っ赤だった。
「………そ、のあと、…俺の家来てくれたら、」
嬉しいと思うんですけど、とまるで他人事のように言われたので一瞬呆気に取られてしまう。途端に信号が青になったらしく、周囲にいる人々や異界人たちが歩き出した。慌てた様子でレオが顔を上げる。
「………あ」
眼が合った。けれどそれは大して問題じゃない。寿司を食う間も惜しい気もしてきた、と思いながらザップは笑って、そーするわ、と一言呟くように言った。「……はい」そう言った後輩の声は水族館に行くと決まった時みたいに何だか嬉しそうに聞こえたので、ザップは何だソレ、と思いながら歩き出した。
「…どこでもいーんじゃねーか。このバカ」
そう言った自分の声も、まるでレオみたいに浮かれていたから話にもならない。寿司屋に着くまで、ザップはやっぱり何となく、レオの手を離さなかった。






旧題は某少女漫画から頂いてましたが改題しました。そこまで意味はないです。