好き勝手コンフュージョン

2017/06/11

腹減ったな、という第一声に溜息しか出なかった。


もうちょっと、と言いながらよろよろと男の下から這い出ると、なんだよ、と上から声がする。「…いや、も、もーちょいなんかほら…余韻とかそういう…」「ああ?」なんだそりゃ、と言いながらもレオナルド・ウォッチの先輩はなぜか自棄に嬉しそうにレオの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。普段だったら文句を言うが、疲れていたせいでレオはその時文句を言う気になれなかった。
「なんだよ。お前そーいうのに憧れてましたとかそーいう口か?分かり易いやっちゃなー」
「憧れるとかそーいうのを別として、あの、…いや待って。その前にちょっと、」
抜いてくださいよ、と言った自分の声は最中と同じように熱っぽくて、レオはげんなりしてしまった。


「…ザップさんは俺と会う時いっつもこーですけど」
愛人ともそうなんですか?と言ってレオはぐったりと寝転がりながら先輩の顔を見上げた。開けている窓から風が少し吹いてきたせいで、隣に座っている男の前髪が棚引く様にして揺れたのが目に入る。レオの先輩であるザップ・レンフロは黙っていれば以下略と言えるのに、とレオは思うことが多い。多過ぎて最近慣れてきたから、あんまり思わなくなってきたというパラドックスが起きている程度には多い。つまり口を開けば悪口雑言罵詈雑言の嵐しか出てこない男なのだ。ちなみにその言語能力は小学生並みになることもある。割にレオと仲がいいのは、互いに口にはしないが気が合うからなのだろう。照れ臭いし、そもそもそんなこと、友達というのは一々口にしない。
「………、」
ザップは煙草を喫っていたから、レオのその質問にはすぐに返事をしなかった。五秒後くらいに、ふう、と一気に煙を吐き出してレオの方を見下ろしてくる。灰色の眼が不思議そうな色のまま、きょとんとレオの方を見つめていた。
「そらヤってるかヤってねーかって意味か?」
「………大局的に言えば」
思わず顔を引き攣らせてそう言ってしまった。即物的ですね、と彼の弟弟子だったら言うかもしれない、と一瞬考えてしまって慌ててそれを脳内から追い出した。何となく、こういう時に友達のことを思い出すのは悪い気がする。ザップにではない。レオの友達かつ後輩、件の弟弟子であるツェッド・オブライエンにである。
「大局的ってなんだよ。分かり易く言えや」
「…あー、…えーと。つまりですよ。こないだもその前もそのまた前も、そんで今回も僕は部屋に入った瞬間キスされてそのまま犯されてそいでベッドまで引きずられてきたわけですが」
「オウ」
そーだなとザップは何でもないように言って美味そうにまた煙草を咥えた。「…………。」ああ、オウとかフツーに肯定する程度には認識してるわけですか、とレオは悲しくなりながらごろんとザップに背を向ける。「?」なんだよ、という声が背中の向こうから聞こえてきたがレオはそれに返事をしなかった。

言った通りだった。仲がいいは仲がいいが、こんな風に仲がよくなるとはレオだって予想だにしていなかった。酔った勢いだとか無理矢理犯されただとか、たとえばここヘルサレムズ・ロットならではの呪われただとか囚われたとか、そういう理由だったら納得のしようもまだあったろうに。
なぜかレオとザップがここまで”仲良くなった”のはそういった理由じゃない。ザップがレオの家に泊まった時、ふざけてばたばた遊んでいたらなんだかこうなってしまった。たとえば若気の至りとでも言えばいい、遊びのようなそれだったら一回きりで終わるだろうに、なぜか二回、三回、そしてさらには四回目でレオは童貞より先に処女を喪失することになった。訳が分からない。朝起きて横で全裸で寝ている先輩と、それから自分の身体を見下ろしてレオは絶望して顔を覆った。俺は一体何をしているんだろう。果たして自分が何に絶望しているのかも説明し難かった。混乱していたのだろう。今となってはそう思う。四回目にして漸く混乱するってどーいうことなんだか、とも思えるけれど。
―――が、かと言ってレオもザップもお互いに付き合っている訳ではない。恐らく傍目からすればそう見做していいことを何回かしているのだろうが、互いにそういう認識はないし、そもそもザップはレオとこうなる前から複数人愛人が随所にいるのである。女の子たちが沢山いる店の常連でもあるし、ついでに言えば道で好みの女性を見つけたら即落としにかかる。落とせなかったら何度も何度も言い寄って頑張るのをレオも見てはいるので、意外なことに彼は好きな相手に対しては一途らしい。勿論『意外なことに』なんて言ってしまうと怒られるから、レオは黙っている。
けれどレオも別段それで構わなかったのでそれについて言及したことは愚か、文句を言ったことはない。大体言ったところでこの男がレオの話を聞くとは思えなかったし、レオ自身も別段ザップを独占したいだとか自分一人にしてほしいとかは思ったことがなかったからだ。なんだかそういうのは違うような気がする、と漠然としたことを思っている。それじゃ一体どういうのがしっくりくるんだと言われたら、このままでいいですとレオは答えるだろう。別段。
このよくわからない関係を変えたいわけじゃあないのだ。
ザップはどうなのか知らないけれど、レオはなんだかこうなってしまってからザップとの関係が曖昧になったと思っている。今までは友達だとか、同僚だとか、先輩ですとか言えたのに。
今や何て言えばいいのか少し戸惑う。結局同僚ですとか、友達ですとかそうは言ってはいるけれど、果たしてその時レオは自分が一体どういう顔をしているのかわからない。けれど、自分が一体何に戸惑っているのかもわからないのだ。―――もしかして。
”こう”なったから自分が彼の中で特別だとでも思ったのかもしれない。
ふとそれに気が付いてしまい、レオは自分自身に落胆した。一回ヤっただけで恋人気取りかコラとでも言われるような未来が目に見えている。だからそこからレオは考えるのをやめた。一体いつまでこれが続くのかはわからないが、ともかく都合が悪くなるまでこのままでいいや、とレオはそう思っている。別段ザップに触られるのも抱き締められるのも、勿論抱かれるのだってレオは嫌いじゃなかったからだ。無駄に上手いんだよな、と思いながらいつもレオは事後コーヒーを飲んだりしている。

「…あのー、ぶっちゃけた話ですね。僕はザップさんみたいにこーいうことに慣れてるわけじゃないんです。だからもーちょいこう、何て言うんですかね。…いや言ってしまうと、ザップさん」
そう長々と話しながらぐるりとザップの方を向くと、ザップは面倒臭そうな顔で煙草を喫っている。煙を吐き出しながら、レオの方を見た眼は何だか眠そうだった。確かに現在時刻は最早無きニューヨーク時間で言えば、深夜二時である。
「…あんだよオイ…さっさと話せや回りくでーな」
「………、…僕のこと喋る性欲処理機みたいに思ってません?」
そう言った瞬間ザップがぼろ、と煙草を取り落としたのでぎゃあ、とレオは慌てて手を伸ばして煙草を掴もうとした。火がシーツにでも燃え移ったらことである。が、レオが煙草を掴む前にザップが手を伸ばしたので、レオの手に灰や煙草そのものは落ちてこなかった。反対にザップがいてっと小さく声を上げて眉を顰めたので、レオが慌てた。勢い起き上がる。
「わ。わっちょっと。何してんすかあんた」
「ば…っかおめえが手を、……、…あー」
あーあ、と言いながらザップは手をひらひらさせながら再度煙草を咥えた。「わわわだいじょぶですか?手は?」そう言ってレオはがしりとザップの手を引っ張って掌を眺めた。ザップはちょっと驚いたように目を見開いたが、煙草は口から落とさなかった。
「……うわこえー。傷一つついてないんですけど」
「…おい。そこはよかった幸い無事でしたね、って言うとこだろーが」
そう言ってザップは顔を顰めた。それもそうか、とレオも思ったので一応もう一度まじまじと彼の掌を眺める。さっき見たとおりだ。ザップの手のひらに傷はついていなかったし、火傷一つしてもいない。たまたま火がぶつからなかったのか、それともこの男の手の皮が分厚いかのどっちかだ、とレオは思うとそっと先輩の手を離した。
「……てゆかおめえな」
俺はそんな人でなしに見えんのかよ、と言いながらザップはやれやれとでも言いたげな顔でごろんとベッドに寝そべった。寝るなら煙草はやめて下さい、とレオは言うともう一度毛布をもそもそと被った。そして言われたことを考える。火事になると思って慌てていたが、直前にレオからザップに質問していたのだった。
「…見えるっていうか…いや人でなしでしょ。フツーに俺のこと都合がいい抱き枕兼宿泊所の管理人兼性欲処理係だと思ってますよね?」
そうレオが流れるように一気に言うと、今度こそザップは煙草をぼとりと落としてしまった。「あっ。ちょ、ちょっとちょっとちょっと!」火事、とレオは慌てて言いながら落下していた煙草をぱっと取り上げる。全くもう、と言いながらザップが持ってきていた携帯の灰皿に無理矢理押し込んだ。
危ないじゃないですか、と言いながら灰皿をベッドに置くと、レオはまた毛布を手に取った。「火事になったら大事ですよ」「……………。」ザップからは返事がない。どーせ返ってくるとしたって文句だろうし、とレオは思うとよいしょと毛布をかき上げた。
「…ちょっと待てよ」
そう言いながらザップも毛布をかき上げたので、レオは灯り消して下さいと冷たく言った。正直な話疲れていたし、他人に優しくできる余裕は今レオにはない。疲労が勝っている。「…………。」ザップは不満そうに顔を顰めたものの、わかったよとも言わず血を使って灯りを消した。ぱちん、という音と一緒に部屋の灯りは消えたが、外は明るい。常にこの街は夜にも関わらず昼間のような明るさなのだ。
「……おやすみなさ、」
「おいだから。待てって」
「え」
待てよ、と言いながらザップが少し身体を起き上がらせた気配がした。「?」寝るんじゃないんですか、と言いながらレオはザップの方に向き直った。寝るけどよ、とザップは低い声で言うと溜息を吐いた。何で溜息、と思いながらレオはきょとんとする。
ぎしりという音が聞こえた。どうやらザップは肘だけベッドについてこちらを眺めているらしい。なんです、とレオは言うと首を傾げようとしてやめた。寝転がっているから変な体勢になりかねない。
「…あ、さっき俺が言ったことを怒ってますか。もしかして」
「………いや怒っちゃいねーけど」
「え?怒ってないんですか?」
「…怒ってほしいのか。お前」
そうじゃないけど、と言いながらレオは変な顔になった。暗いけれど幾ら何でも光がないわけじゃないから、ザップにだって見えるだろう。「…そんじゃなんすか。寝ましょうよ。俺はぶっちゃけ言うだけ言えたからもういいっす」「おい。自己満かコラ」そうですよ、とレオは投げやりに言うともう一度毛布を肩まで引き上げた。自分自身でも子供っぽくて嫌になってしまったが、投げやりになってしまった理由は、自分の言っていることをザップが聞くわけがない、と思っていたからだ。別段付き合ってはいなくとも、こういう理由であればレオだって拗ねることくらいはある。基本この男はレオの話を聞きはするが、意見を聞き入れてくれたことはない。
ザップさんもいい加減寝た方がいいっすよとレオが続けると、不満そうな顔をした先輩はレオの額をぴんと指で弾いてきた。あた、と小さく声を上げる。
「ちょっとなんですか?怒ってないならなんなんすか」
「…………別にそこまで思ってねえよ」
「え?…あ、さっきの話?…俺を?」
性欲処理機だ、と訴えた件だと気が付いたのでそう言いながら自分を指さした。ザップは仏頂面でレオを見ている。
「おめえ以外に誰がいんだよ」
そう言って先輩はやっとベッドにぼすん、と頭を落とすと、毛布を引き上げる。俺の分がなくなるっつーに、とレオは思いながら慌てて自分も毛布を引っ張り返した。最終的に朝起きるとザップが殆どレオの分の毛布を使っているのはザラなのだ。
「いや思ってるでしょ」
そう、ベッドに潜り込んだレオは言った。別段他意はなく、いつもするようなツッコミと同じノリでしたと自分は思っていた。しかし横に寝ているザップはいまだ仏頂面のまま、思ってねえよ、ときっぱりと言った。ついさっきは変に動揺していた癖に、とレオは不審に思う。突然彼が怒りだした意味がよく分からない。
「…や、思ってるじゃないすか。俺のこと性よ、」
「思ってねーっつうの!」
突然、しかも言葉を遮られた上に大声を出されたので、わあとレオは声を上げ、次いで横の部屋からドン、という大きな音が聞こえてきた。ザップがうるっせえよと怒鳴った挙句壁を蹴り返したのでレオが慌てた。「やややややめやめやめ!俺が怒られる!壁に穴が開く!」ザップはレオの制止を無視したものの、それ以上は何も言わずに黙ってまた頭をベッドに戻しはした。しかしすぐに不満げな顔のままレオに向かって口を開く。
「あのな、おめえ俺の脳内覗けるわけでも心が読めるわけでもねえんだろ?んじゃ何で分かるんだよ。流石にそこまでは思ってねえよ」
「そこまでっていうのが微妙なとこだと思うんですけど…そんじゃどこまで思ってるんですか?」
「どこまで?」
そう聞き返されて、確かに漠然とした言い方だなとレオは自分でも思った。だからええと、とちょっと考える。しかしその前にザップの方が口を開いた。「…どこまでっつーか。…なんかこう…、…呼べばすぐ来るわけでもねえしうるせーし俺の言うこと全然聞かねえなとは思ってるけどよ」それを聞いてレオは黙った。いやそりゃーあんたのために生きてるわけじゃないんで呼ばれてもすぐは行かねーし、煩いのはあんたがひどいことばっかするからだし、言うこと聞かないのはザップさんが無茶ぶりばっかりするからですよ。そう思ったが、反論しなかった。眠いし面倒だと思ったのだ。
「…なんつーか。…まあ、……具合がいいっつーか…」
「…………………………つまりザップさんは」
俺の身体目当てなんですね、と言ったあと頭を叩かれた。「あたっ。何…何すんすかちょっと!」「だーもうちっげえよやめろこのバカ!てゆかおめえなんだよ!俺に何求めてんだ!」ザップのそれを聞いて、レオはへ、と小さく声を上げる。
―――何を?
「なんだ?ヤるならヤるでもーちょいムードを盛り上げろとか丁寧にしろだとかそーいうことか?」
「……………。」
――――そういう―――ことなのかな。黙って考え始めたレオを他所に、ザップは苛々したように喋っている。恐らく眠気のためもあるのだろう。彼の口調は早口だった。
「あのなおめえは愛人でもなんでもねーし女でもねえんだぞ。ついでに言えばお前とヤるのにそーいう雰囲気要るか?要らねえだろ。お前俺に、」
今日も可愛かったよダーリンとか言われてーのかよ、とザップは怒った口調でそう言った。
ちょっと沈黙が起きる。
「…………そーいうわけじゃないけど」
そうレオが小さく呟くと、だろ、とザップは言った。怒りはどうやら引いたらしい。けれどもその口調はわざとらしいくらい、淡々としていた。「…もー寝ろ。俺も寝る」アホなこと言ってねーで、とついでのように言われたが、レオはそれに返事をしなかった。

そういうわけじゃない。確かにそれはその通りだったけれど、レオは毛布に潜ってからそのことばかり考えていた。天井には窓から差し込んでくる光が映っていて、ちかちかと光っている電飾はむしろそのせいで、今が夜であるということを思い知らせてくる。
「………………。」
そっと横で寝ている先輩を見つめる。もうとっくに寝ているらしいレオの先輩は、レオの方を向いてすやすやと寝息を立てている。レオが壁際に寝ているのは、寝ぼけたザップに数回ベッドから蹴飛ばされて落ちたことがあるからだ。「…………何って言われても」そう言ったあと、レオは黙ったが眼は瞑らなかった。眠ってる先輩の見慣れた顔をじっと眺めている。
ついさっき言われたことを反芻する。―――今日も可愛かったよダーリン、とか言われてえのかよ、とザップは言っていた。つまりそれは、愛人と会う時はそう言っているということなんだろうか。そうなんだろうな、とレオは勝手に結論付けてやれやれと目線を下に落とす。恐らくたとえではあるのだろうが、彼は彼で愛人相手にはそうやって気を使ったりムードを盛り上げたりはしているようだ。
そりゃそーだよなあとレオは思う。「……俺はそうじゃないし」大体、自分がそういう扱いをして欲しいのかと言われるとそれもなんか、と思う。ただなぜかきっぱりと否定はできない。やめてくださいそういうの俺は望んでません、とついさっきもなぜかレオは言えなかった。そーいうわけじゃないけど、と言った通りお茶を濁すような言い方をしてしまったのは何故なのだろう。自分自身に問いかけたが、答えは出なかった。
女の子みたいに扱ってほしいのだろうか。
―――そうじゃない。
そうじゃないけど、ともう一度脳内で同じことを考える。けどたとえば、ドアを開けてから開口一番ヤろうぜだとか、文句を言う間もなく押し倒されたりだとか服を脱がされたりだとか、シャワーを浴びる間もなく無理矢理ベッドに連れ込まれたりとか、そういう。
―――そういうことばっかりだから。
「………………。」
結局レオも何が何だか分からなくなり、考えるが嫌になった。なんだかこの人のことになるとわけわかんなくなる、と自分に呆れながら漸く目を瞑る。おやすみなさい、と小さく呟いて毛布を引き上げた。
ザップはレオの方を向いていたが、レオは天井の方に顔を向けて眠りに落ちた。


起きろ、という声にはっと目を覚ます。「わっ!?あっやべ遅刻、」「今日はおめえ全休なんだろ」その声を聞きながらも慌ててカレンダーとスマートフォンを確認し、次いで時間を確認したあと勢いレオは窓を開けた。「レオ」そう呆れた声で名前を呼ばれて、漸く我に返る。そうだ。今日は全休だ、と思いながら息を吐いてのろのろとベッドに戻った。ザップは眠そうな顔でコーヒーを飲んでいた。
「……あ。おはようございます」
「ちゅーてももう昼だけどな」
「………あー、ほんとだ…」
もっかい寝よ、と言いながらレオはベッドに潜り込んだ。「…ザップさん出る時起こしてください。鍵かけるから」「めんどくせーなぁ。んじゃ今出るわ」「え?」マジすかと言いながらレオは起き上がって目をこする。それならそれで手間が省けて一石二鳥、とよくわからないことを思う。することは同じなのだから別に一石二鳥でもなんでもないのだが。
ザップは別段それには突っ込まず、普段通りに上着を羽織りながらオウ、と頷いた。
「だからおめえも支度しろ。顔洗って着替えろや」
「ええ?なんで?」
「昼食いに行こうっつてんだよ」
あー、とレオは言いながら小さく欠伸をする。「……、いや俺、眠いし…」もーちょい寝る、と言って毛布を掴んだレオの横に、先輩が乱暴に座ったのでベッドはすぐに悲鳴を上げる。わっとレオこそ悲鳴染みた声を上げて、ちょっと仰け反った。いつのまにかザップはレオの手首を掴んでいたので、何つう素早さ、と思わず舌を巻きそうになる。
「…つまりお前は」
そこでぐい、と自分の顎にザップの指がかけれられたので、レオは一瞬で背筋が粟立つあの感覚を思い出した。主に夜中に、次いで言えばこの部屋で受けることが一番多い、その感覚だった。
「…もーちょっと俺といちゃつきたいと」
そーいうことか、と言いながら耳を舐められるように噛まれたせいで、レオはにゃあと声を上げた。「や、ちょ…っば、バカなんすかマジで、ひ、」昼間から、と言った自分の声もなんだか夜頻繁に聞くその声みたいに思えてレオはげんなりする。昨夜と同じだ。
「…昼間とか夜とかさー、」
大して関係ねえだろ、とおかしそうに先輩は言うと今度はレオの肩を引き寄せてきたので、レオは慌ててばたばたと手を揺すった。「わ、ちょ、ちょま、……っかりましたよ!!わかりました!行きます!行きますって、…っあ、」こら、と言いながらザップの肩を思い切り押したが、先輩の腕から解放される前にレオは軽く一回キスをされて、起きたばかりだということは関係なく、何だか嫌になってしまった。
果たしてそれが何に対してなのかはよくわからなかったのだけれど。
キスされたこと自体ではないというのが、レオの気分を落ち込ませた。加えて言うならば、早よしろとさっきからレオのことを追い立てている男のことでもない。「…………はあ」うるせーなとレオは言い返し、足を軽く蹴られそうになったのでそれを器用に避けながら着替える。嫌だって言えたら、とパジャマを脱いだ後そう思った。
「……楽なのになあ」
そう独り言を呟いたあと身支度を整えて、ザップと一緒に昼飯を食いに外に出た。


そしてその日もいつものように。
昼飯はダイアンズ・ダイナーだった。カウンター席に二人で並んで座ると、看板娘のビビアン・ヒルがひょいとカウンター奥から顔を出し、よういらっしゃい二人とも、と朗らかに笑った。
「ご注文は?」
「えーと、ハンバーガーにミートソースに大コーク…全部大盛でお願いします」
あんた最近いつもそれだよね、とビビアンは苦笑しながら言うと、ザップは?と言ってレオの先輩の方にくるりと顔を向ける。「俺も同じで」「あんたも一緒だよね」いいんだけどさ、とビビアンは笑うとまた店の奥に戻って行った。
一連の注文をするに大して時間はかからなかったものの、ここにきて一気にレオに眠気が戻って来た。昨夜何度も何度もザップのせいでひどい目に合わされたし(しかしこう言うとザップは大抵怒る)、しかも寝たのは恐らく深夜二時半くらいだ。確かに今は昼過ぎだったが、いつもと違う時間に眠ったり起きたりしたせいか、非常に眠かった。
「……やっぱもーちょい寝てればよかった…」
眠い、と言いながらぺたんと頬をカウンターにくっ付けると、ザップが横から肘打ちしてきた。「痛いです」「痛いですじゃねーよ。折角人が飯に誘ってやったのになんだその態度は」「…うー…でもザップさん俺の家泊まった翌日は大抵一人でどっか行っちゃうじゃありませんか…」競馬かパチンコか愛人とこに、と言った後レオは目を瞑った。眠い。
「…なんすか今日は……仕事でもないのに…」
「そりゃお前一人で飯食うよりはお前でもいた方がいーだろ」
そう言われてレオは黙ってのろのろと顔を上げた。「なんだ」きょとんとしながらザップがレオのことを見たので、いや、と言いながらレオは少し首を傾げる。
「ザップさんでもそーいうこと思うんですね」
「?どーいうことだよ」
「一人で飯食うよりってとこです」
そう言うと、ザップは少し怪訝な顔をしたもののうん、と口には出さず首肯した。そこで何で怪訝な顔なんだ、とレオは思ったものの、そうですかと言いながら目を擦ってぼーっとカウンターの奥を見つめる。厨房からは料理をしている音や、食器が掠れる音が聞こえてきた。
「……俺そーいう風に見えねえのか」
ぽつりとそう言われたので、見えないっていうか、とレオは眠気でぼーっとしたまま口にした。「…思っててもザップさんはそーいうこと言わないなって思ってましたよ。俺は」「今言ったじゃねえか」「だからびっくりしたんすよ」そう言っていると、店の奥からひょいとビビアンが顔を出した。サービス、と言いながら笑ってレオの方にコーヒーを出してきたので、レオは驚いてビビアンを見つめる。
「眠そうだから。眠気覚ましになるでしょ」
ザップはフツーだから要らないよね、と言って奥に引っ込んでいくビビアンの背中に、ずりーよとザップは一応声をかけたものの、大して感情が込められているようにはレオには聞こえなかった。そういえば、ついさっきこの先輩はレオの部屋で自分で入れたインスタントコーヒーを飲んでいた。
ぼんやりしたまま反射的にミルクと砂糖を探そうとしたが、その前にほれ、と言いながら横にいたザップが砂糖とミルクを寄越してくれた。「あ。どもっす」「眠気覚ましならそのままのが俺はいーと思うけどな」「苦いっすもん」それは、と言いながらレオは砂糖とミルクをコーヒーに入れる。レオがスプーンでぐるぐるとかき混ぜている間、レオもそうだったが、ザップも無言だった。

―――やっぱりこの人といると。
はっきりしていたことが曖昧になってくる。ついさっき話したばかりだったが、レオはまさかザップが自分にそんなことを言うとは思っていなかったのだ。たぶん、彼の中では最早レオは壁がないし、気も使わなくてもいいし、傍にいるのが普通の存在なのだろうということくらいは、レオにだってわかる。レオも基本そうだ。彼に気を使うことは殆どないし、文句を言うのは日常茶飯事だし、加えて言うならば二人で取っ組み合いになる程度に揉めたことはある(原因は冷凍庫にあったレオのアイスをザップが勝手に食べた挙句不味いと言ってきたからだった)。けれどそれはそれで、ついさっき言われたような、彼の本音みたいな―――深奥にあるようなことをレオに言ってくるとは、レオは思っていなかった。ややこしい。ややこしいけれど実際そうだ。
――――だからこれだって突き詰めれば昨晩と同じで。

レオは自分がこの男にとってどういう存在なのかよくわからない。
自分だけじゃない。自分自身でザップのことをどういう存在なのかと言われて返事ができないと同時に。
ザップだってレオのことをどう思っているのかなんて、レオにだってわからない。

レオ自身がこの男を嫌いじゃないのは確かだったし、好きか嫌いかの二択で言えば前者であることも間違いなかったが、それじゃあ、と自分で思うこともある。
二択じゃなかったら。
――――俺は何て言うんだろう。

コーヒーを掻き回していたスプーンを持った手が止まる。コーヒーの香りが天井に向かって流れていく間にも、店内には食器が擦れる音や、ラジオのBGM、それから外を歩く人々や人々じゃない人の話し声や足音が聞こえてくる。
ビビアンはまだ戻ってこない。
「………ザップさん」
「んー?なんだ」
腹減ったな、と言ったザップの声はいつもと変わらなかった。
更に言えば、口を開いたレオのそれだっていつもと同じトーンだった。

ザップはレオではなく、カウンターの奥を見つめていた。
レオと同じ眠そうな瞳のまま。

「………もう、…あーいうことすんのやめませんか」

そう言って横を向いたレオの方を、ザップがのろのろと見返してきた。
コーヒーの色は漸く黒からミルクと砂糖が混じった白っぽい色に変わり始め、渦を巻いていたミルクはコーヒーと同化していて、もうどこにいってしまったのかわからなかった。



何であんなこと言ったんだろう、と思いながらぼんやりと外を眺めている。地下鉄だから何も面白くないし、いつかみたいに赤い光が見えたら困るな、とレオは思って目を車内に戻した。車内を見ていたとしても、万が一眷属が現れたとしたら結局レオの眼は勝手に感知してしまうだろうが。
―――なんでもなにも。
そもそもああいうことはザップが仕掛けてきて、それからずるずる始まったことなのだ。レオも嫌がらないというだけで、流されるままにしていたことだから、自主的に続けたいわけじゃあ―――なかったし、と思いながらがたんがたんと揺れる電車に身を任せる。車内アナウンスが次の降車駅の名まえを告げた。
カウンターのすぐ横に座っていた先輩の眼の色は、いつもと同じ灰色で綺麗だった。
それだけレオははっきりと覚えている。
駅に着いたので、電車からすとんとホームに降り立った。改札を潜ってから、息を一つ吐き出して家に向かう。ザップとダイアンズ・ダイナーであの話をしてから既に一週間経過した今日はライブラに顔を出した帰りだった。レオはちょうど今最寄りの駅に着いたところで、仕事が終わったところだった。夕飯どーすっかなと思いながら冷蔵庫の中身を思い出す。「…あ、そーだ。アスパラが残ってるんだ…」早く使い切らないと、とレオは足を速めて家に向かった。速めたところでアスパラの鮮度は大して変わらないだろうけれど。

ただいま、と小さく言いながらドアを潜って施錠する。「………ふう」息を吐いて部屋に入ると、リュックを乱暴にベッドに落として手を洗いに洗面所に向かう。ソニックはリュックと一緒にベッドにすとんと軽くジャンプして着地していた。
一週間、ザップと会話をしなかったとか顔を合わせなかったということは勿論なく、ダイアンズ・ダイナーでのあの問答があった当日も翌日も、レオは普通にザップと会話をしたし、仕事もした。ついでに言えば一緒に昼だって何度か食ったし、仕事帰りに夕飯だって食べに行っている。別段、今までと何ら変わりはない。
ただしザップはこの一週間、レオの家には来なかった。
それもいつまでもつかな、とレオは思いながら水が入ったペットボトルのキャップを開けた。「…俺の家都合良い場所にあるっぽいし」そう一人ごちてごくんと水を飲んだ。何回か送り届けたり迎えに行った愛人の家はレオの家を挟んだ位置にあったりなかったりして、ともかくこの場所は非常にザップにとって有用な場所だったらしい。そもそも、とレオは思いながらやれやれとペットボトルを冷蔵庫に入れる。
「…だからあーいうことしてたんじゃないかな」
そう言って肩を竦め、立ち上がった。「…アスパラ」何に使おうかなあ、と言いながらぱたんとベッドに寝転がったので、ソニックがびっくりしたように一回ジャンプした。「あ、ごめんごめん」おいで、と言いはしなかったが手を伸ばしたので、ソニックはすぐにレオの方にやってきた。ぺたぺたと頬を触られたので、くすぐったいとレオは笑った。
「…眠くなってきた…」
そう言うと、ソニックがちょっと困ったような顔をした。寝るとあとで困るのがレオだと知っているからだろう。「…でも腹減った…」そう言うとソニックはぴょんぴょんとレオの周りを跳ねた。起きろということらしい。わかったよ、とレオは言うと、けれどもごろんと天井を見上げた。
煙草の匂いはしない。
「………重畳じゃねえか」
そう言って息を吐きながら起き上がる。「…なんかザップさんの口調がうつったな。俺」そう言いながら冷蔵庫の方に足を向けた。


レオが夕飯のアスパラと冷凍合成ベーコンのパスタを食べ終わった時だった。ガチャガチャという鍵穴を弄る音にぎょっとして顔を上げる。音源は、明らかに―――というか物理的にそうでないとおかしいが―――部屋の外からだった。「………、」声はしないけど、とレオは思いながらげんなりした顔をする。深夜にはまだ早い時間だったが、それでも常識的に考えてこんな時間に普通は知人の家に来たりしない。しかもピッキングをしようとしている時点で犯罪である。またかよもー、とレオは呆れながらも立ち上がった。
歩きながら思った。
「……やっぱり」
来るんだよな、と言いながらドアを開錠した。
――――俺の気も知らないで。
その考えが一瞬頭を過ったことに戸惑った。けれど次の瞬間。

そんなことに構っている場合じゃなくなった。

刃の切っ先が頬をかすめる感覚は恐らくこの街に来てから飽きる程度には浴びている。「……ッ」反射的に玄関先に尻餅をついたレオの眼前には、知らない異界人がナイフをこちらに突き付けていた。押し込み、という言葉を頭の中の辞書から探索するまでもない。ページを捲る前に相手の方が先に動いていた。
「…っと、う、」
嘘だろ、と言いながらぐるんと転がった途端、男が持っていたナイフが床に深々と突き刺さった音がする。ついさっきまで自分がいた場所だということを気が付く余裕もない。ソニックがこちらに跳んでくるのが見えたので、バカ来るな、とレオは焦って部屋に向かって叫んだ。声に驚いたのか、ソニックがびくりとした様子でそのままレオと男を飛び越して、ドアの向こう側に出ていく。それを見てレオは気が付いた。―――そうだ。ドアは半開きでついでに言えばこのアパートは壁が薄いんだから。
大声で喚けば誰かに届くかも、と思ってレオは思い切り口を開けた。すう、と息を吸って思い切り強盗です、と叫んだ瞬間だった。外から巨大なサイレンの音が聞こえてきてレオはびくりと身体を震わせる。ついでに言えば、目の前にいる男も驚いたように一瞬レオから目を離した。――――救急車のサイレンの音だ。日常茶飯事であるその音が、レオの家の目の前から聞こえてくる。つまりすぐそこの道路に搬送されるべき誰かがいるということなのだろう。マジかよと顔を引き攣らせたレオの上にいる男が、ぎゅっとナイフを握り締めたのが目に入って来る。「……意地張ってる場合じゃねーか」レオは観念したようにそう言うと、両目を開いた。


大丈夫だったのレオナルドくん、という声にああ、とレオは顔を上げる。「大家さん」「怪我は?」大丈夫です、と言いながらちょっと髪を掻き上げる。頬に少し擦過傷ができていたので、あらあらとのっぺりした顔の大家は不憫そうな顔になった。
「救急箱持ってこようかしら」
「あ、いや。このまま警察一緒に行くんで。そこで治療してもらえると思います」
「お猿さんは?」
連れてきますよ、と言ってひょいと肩を叩くと、もごもごとレオの服と首の間辺りに隠れていたソニックが顔を出した。「無事でよかったわねえ」「や、すんませんそれより。騒がしちゃって」そう言って恐縮したように頭を掻いたレオに、それにしてもと大家は少し不思議そうな顔になった。
「…レオナルドくん、案外強いのねえ。犯人全然起き上がれなかったって話じゃない」
「あ。えーと、いや。俺がそのー…足滑らせて犯人転がして、そんで起き上がった拍子にたまたま頭突きが」
よくわかるようなわからないような説明だったが、大家は納得したらしい。よかったわねえ、と言いながら小さく欠伸をしたので、レオは慌てて部屋戻って貰って大丈夫ですよとそう言った。「あと僕警察言って話聞くだけなんで。ほんとすんません煩くして」「あらそう?それじゃ何かあったら明日の朝にね」そう言って大家は恐縮しているレオにひらひらと軽く手を振って、猫のパトリシアと共に自室に下がって行った。ふう、とレオは息を吐く。どうしても大家相手だと腰がいつも以上に低くなってしまう。今月の家賃まだ払ってねーしな、と思いながらさてとパトカーの方に顔を向けた。すぐそこに見知った顔を見つけて、レオはありゃ、と驚いてそちらにのこのこと足を向ける。
「……………なんだ。お前か」
「どもっす。警部補さん」
どしたんすか、と言いながらパトカーの傍に立っていたダニエル・ロウ警部補の許にレオはとことこと駆け寄った。「どーしたも何もねえよ。こっちは仕事だ」「こっちは被害者っす」そーか、とダニエルは非常にどうでもよさそうに言うとひらひらと手を振った。さっさとパトカーに乗れということなのだろう。
「あっ。待って下さいよ。何かあったんですか?こんな遅くに」
そう言ったレオのことをじろりとダニエルは睨み付けると、あのなガキ、と面倒臭そうに言った。「そもそもお前みてえな一般市民と俺が知り合いっつーことからしておかしいんだよ。少しは空気読めや」「あー…いやでもその辺はほら、」世界は何でも起こるわけだし、と言ったレオにダニエルは物凄く嫌そうな顔になった。何もそこまで、と呆気に取られたレオに向かって、またダニエルがひらひらと手を振る。
「やめろやめろ。それは俺が今思い浮かべたくねえ顔の奴がよく言うやつじゃねーか」
「はあ。……うちの上司と仲悪いんですか」
「悪いよ」
当たり前だろ、と言いながらこつんとレオの額がダニエルの手によって小突かれた。「あて」仕方ないかもしれないけど子供扱いだな、とレオが思った丁度その時だった。
ぐい、とレオの肩が思い切り掴まれて無理矢理後ろを振り向かされた。「っわ、」すわさっきの強盗が、と思ったがダニエルが全くの無反応であったことから、勿論それはないだろう。ただしその時のレオはそんなことに気を払えている余裕がなかった。慌てて肩に置いてある手を振り払おうとしたが、反対につかまれていない右側の手首が、握り締められるように掴まれて引っ張られた。
その時レオはあ、と思った。
何回も何回もこうやって掴まれて引っ張られてついでに言えば。
ベッドや玄関に無理矢理押さえつけられた覚えがある。

「…ザップさん」

最初にそう言ったのはレオだった。レオのことを庇うようにしてそこに立っていたのは、今日も昨日も顔を合わせたばかりの先輩だった。明らかに傍目から見れば抱き寄せられている状況に相違ないことに気が付いて、慌てる。「ちょ、な、」何すかという前におい、と言ったのはザップの方だった。ただしレオに向けてではなく、どうやら彼の視線も言葉も矛先はダニエルに向かっているらしい。
「…警察っつーのはホントにボンクラだな。無害が服着て歩いてるようなこのクソ陰毛糸目しょっ引こうたあ、」
ヤキが回ってんじゃねえのか、と嫌に剣呑な口調でザップが言ったので、ダニエルの額に見えるはずもない青筋が浮かんだように、レオの眼には見えた(むしろレオだからこそなのかもしれないが)。だから慌ててちょっとちょっとと言いながらザップの服を引っ張る。なんだよ、と乱暴に先輩は返事をした。
「ちょっと待ってくださいよ。違うんです。そうじゃなくて僕は事情聴取で」
「んじゃやっぱりそーじゃねえか。てゆかお前何パクられそうになってんだよ」
「だから違うってば!捕まったのは俺じゃないっていうか、むしろ俺は被害者なんですって」
「はあ?」
なんじゃそりゃ、と言ったザップに、ええととレオは頬を掻きながら説明する。「あのー、つい一時間くらい前なんすけど。ちょっと俺の家に押し込み…っつーかまあ、物盗りが来て」空き巣的な、と言ったレオにはあ?とまたザップは同じことを言った。ただついさっきのそれよりは、驚きが格段に増している。
「ちょ―――ちょっと待てよ。オイマジかソレ」
「マジっすよ。そんで今警察が」
「マジなのかよ。何してんだよオイ…ってかお前、」
大丈夫なんか、と言ったザップの声が僅か焦っているように聞こえたのでレオは不思議に思った。何で今更こんなことで、と思いながらもちょっときょとんとしながら、返事をする。
「へ?…あ、眼ですか?それは別に、」
問題は、と言ったところでがしりと両肩を掴まれたので、レオは怪訝な表情になってザップを見上げた。一体なんなんだ。その時レオは、心底そう思っていた。
「っじゃねーよバカ!!お前の身体だよお前の!怪我してねーのかって聞いてんだ俺は!!」
「…………………、……お、」
俺、と繰り返したレオに、そうだよとザップは苛立ったように言った。「…あ、や、えっと。頬…」ちょっと、と言いながら髪を寄せる。「…ナイフが掠ったんで傷が」「…………、」はあ、とそこでザップはやっと安心したように息を吐いて脱力して俯いた。
「…っだよも〜〜〜〜、…おま、…心配させんなっつーにこのバカ…」
「……し、心配?」
繰り返した自分の声はなんだかちょっと引き攣っているように聞こえた。ザップがそこで思い切り顔を上げて口を開いたが、丁度同じタイミングでそれで、と言う声が後ろから聞こえてきた。
「俺はいつまで青春ドラマ見てなきゃなんねーんだ?ABCだったら間に合ってんだよ」
早よ乗れ、と言いながらパトカーの天井をがんがんと叩いたので、運転席にいた男がやめてください、と悲鳴のような声を上げたのが聞こえる。ザップは舌打ちしてダニエルを一瞬睨んだが、ダニエルも負けじと苛立った様子で煙草を咥え、早くしろともう一度同じことを言った。警察と秘密結社の構成員というよりは、マフィアとチンピラの睨み合いに見える。
「……あ、えっと…俺、そんじゃ警察」
行ってきます、と言った後にパトカーの中にレオは無理矢理押し込まれるようにして入れられたので、わわわ、と悲鳴を上げた。すぐにザップが横に乗り込んできたので、レオはぎょっとする。
「な、ちょ、ひ、一人で大丈夫ですよ。幾ら何でも」
「アホかお前は。一応こっちと警察は仲わりーことになってんだからおめえ一人行かせてボロ出されたら堪ったもんじゃねえんだよ。それにスターフェイズさんに報告したらどーせ誰か寄越すことになんだろ。じゃねーとまた前みてーに二日拘留されんぞ」
「ぐっ…」
それは嫌だ、と言って俯いて顔を覆うと、ふんとザップは鼻を鳴らして運転手にオイ乗ったぞコラ早よ出せや、と文句を言い始める。「…………。」相手は警察なんですけどね、とレオは思いながらついさっき言われたばかりのことを思い出していた。
丁度ダニエルの声と被ってしまって周りにはよく聞こえなかっただろう。
けれどレオにはよく聞こえた。当たり前だろ、というその一言が。

―――当たり前なんだ?

そっか、と今更のようにレオは思うとそろそろと顔を上げた。「……いや、まあ…そう…それは、」そうだ、と小さく自分自身に言いながら横に座っている不機嫌そうなザップを見つめる。
ザップが丁度こちらに手を伸ばしてきたのでレオはぎょっとした。「え。な、」なんですか、と言う前にぐいと髪を掻き上げられた。「わっ」「……あー…」血は止まったな、と言われて傷のことだと気が付いた。ナイフが掠ったせいで皮膚が切れ、血が流れていたのだ。この程度の傷で済んで僥倖だった、とレオは通報した時にそう思った。
「…、ギリで避けたんで……、……えっと…はあ、…」
そうです、とよく分からない受け答えをしたレオからぱっと手が離された。「おわ」「…何緊張してんだ」そう言ってザップは漸くほっとしたように力を抜いて、座席のシートに寄りかかった。はあ、と小さく息を吐いたその顔を見てレオは何も言えなくなった。そんなに彼がほっとした表情を見たことがなかったせいだ。
安心したように笑っている先輩の横顔を見てなんだかレオは変な気分になる。
――――なんか。
なんかそういう顔はやめてほしい、と思いながら正面を向く。「………。」そういう顔をしている先輩を見るのは嫌だった。別に常にレオだってそんなことを思っているわけじゃない。というより、先輩の笑った顔についてはレオは好きなのだ。やっぱり笑っている方がいい。けれど、そんな風に。
レオのことでそういう表情をされるのは嫌だと思った。


開放されたのは幸いなことに一時間後だった。よかった、とほっとしながら廊下を歩いていると、廊下にある安っぽい長椅子に座ってザップが煙草を喫っていた。「ザップさん」そう言いながらぱたぱたと彼のところに駆け寄ると、おせーよとザップは顔を顰めてそう言った。
「俺のせいなんすか?それは」
「おめえのせいだろーが。何押し込まれてんだよ」
「だ、そ、それはそーすけど。だってこないだまでこの時間にザップさんが来ることが多かったから、」
そこまで言って気が付いた。げっという顔をした後慌てて口を噤む。「…………。」「…………。」無言でザップを見上げると、ザップも無言でレオを見ていた。お互いに黙ってしまったので勿論沈黙が起きる。気まずい、とレオは思いながらそっとザップから目を逸らした。
が、すぐにザップががしりとレオの頬を掴んできたのでぎゃあとレオは声を上げた。片手で両頬を掴まれるという非常に分かり易い制止方法は、ザップがよく使う。両手ならばまだ口が利けるがこれだと頬が潰されるから上手く喋れなくてレオは嫌だった。腕力が駄目ならば、レオのような立場からすれば口で喚くしか防衛方法がないのである。
「……………………。」
ザップは何か言いたそうな顔でレオを睨んでいたが、結局何も言わずぱっとレオの頬を放したので、レオはむしろ呆気に取られた。あ、放しちゃうんだ?このまま文句を言われるのかと思ったが、その時のレオはそれが一体何に対しての文句なのかとか、本当に自分がそう思っているかどうか疑う暇がなかった。
よく考えればわかるはずだったし気が付くはずだった。

本当にその時自分が思っていたのがそれだけなのか。
自分にしょっちゅう触っていた手が離れていくその感覚を、名残惜しいと思っていることだとか。
ザップが一体何に対して文句を言おうとしているのか、と自分で考えていることだとか。
そういうごちゃごちゃしたややこしい何かを、けれどその時のレオは考えられなかったのだ。

「………、」
勿論レオがそんなことを思っているとはザップは知らない。だからそのままザップは黙ってプイとレオから目を逸らして、反対側の手に持っていた煙草をぐしゃぐしゃと灰皿に押し付けた。
「………帰るぞ」
「あっ。はい」
小さくそう返事をした後とことことザップの横に並ぶ。「………あのー、でも俺今日は事務所行きます。俺の家鑑識まだ入ってて」ちょっと眠れそうにないし、とレオは言って頭を掻いた。たかだか押し込み強盗や空き巣ならこの街じゃ日常茶飯事ではあったのだが、たまたまあの空き巣が最近出回っているらしいヤバイ粉薬をポケットに入れていたらしく、そのせいでレオの部屋に痕跡が残っている可能性がある、と鑑識を入れられる羽目になってしまった。ダニエルが来ていたのは恐らくそのせいだ。一晩借りるぞとあっさり言われたが、警察がホテルを手配する訳がない。
「…なんだ。そーなんか」
ザップはちょっと驚いたように目を瞠った。その表情はついさっき見たものとは違って、いつもと全く遜色ない表情だった。変わらない。さっきの出来事なんか、全く気にしていないように見える。
「…はい」
そうです、とレオはこくんと頷くと、だから事務所にと同じことを繰り返した。「…んじゃお前、こっち来るか」「え?」どっちですか、と言いながらとことこと廊下を二人で歩いた。警察を出ると、勿論もうとっくに深夜も深夜なのだがヘルサレムズ・ロットの街中は明るかった。
ザップは足を止めてひょいと指先を事務所とは違う方向に向けた。
「すぐ近くにヤリ部屋あんだよ。来るか」
「え」
「ちょーど誰もいねーし」
「………。」
愛人のことだろう。ザップは基本的に根無し草なので、愛人の家を渡り鳥のように毎日渡り歩いて暮らしている。基本的に給料は振り込まれたその日に全て使ってしまうらしいが、それは家賃や生活費ではなく殆ど賭け事や飲み代なのだ。それを初めて知った時、クズじゃないですかとツェッドと真顔で二人で同時に言ってしまったので、お互いに顔を見合わせて爆笑してしまった。勿論そのあとザップに斬りかかられたのでツェッドがそれを受け止めてレオは床にごろごろと転がった。
そしてザップの愛人は複数人いる。そのうちの一人が借りている部屋か何かが近くにあるのだろう。確かにここから事務所まで行くのは少しだけ億劫ではあった。遠くはないが近くもないのだ。
「……や、いいっす。事務所だったら出勤楽だし」
けれどレオはそう断りを入れていた。当然ザップはちょっとだけむっとした表情になる。「めんどいだろ。でも」「そこまでじゃないですし。電車乗る距離でもないから」「したら俺もそっち行かなきゃなんねーだろ」だりーんだよ、と言いながらザップは既にそちらの方面に向かっているようだ。そしてどうやら、このままレオを道中一人にさせるつもりは、既に彼の選択肢に無いらしい。「………。」しかしレオはザップとは違って動かなかった。
「………………。」
黙ってその場に佇んでいると、数歩歩いたところでザップが立ち止まった。
「………レオ!」
早く来いという意味だろう。ザップが半分だけ身体を振り返らせてそう言った。「…事務所行くんで」いいっす、とレオはもう一回言うと踵を返した。あ、というザップの焦った声が聞こえたが、レオは振り返らずにすたすたと事務所につながるドアがある方向に歩き出した。
周りからはまだサイレンの音がするし、まだ開いている店のネオンサインがきらきらと光っている。
「―――っから、おい!レオ!」
その声のあとにぐいっと手首を掴まれて無理矢理立ち止まらせられた。「っ……、」びくりとして顔を上げると、少し焦った表情をしたザップがこちらを見つめていた。
ダイアンズ・ダイナーで見た時と全く同じ瞳の色をしている。灰色のその色を見るたびにレオは綺麗な色だとそう思っている。そういう時に限ってなぜかザップの顔は真剣そのものといったもので、なんだかそのたびにレオは決まり悪くなる。悪いことをしているわけじゃないのに。
なぜか彼に責められている気分になる。
むしろ責めたいのは。
――――責めたいのは、
「…来いって。お前今日は疲れてんだろもう」
「だ―――だから。いいですってば。疲れてはいますけど事務所の方が」
慣れてるし、と言いながら自然に俯いた。なぜかザップの顔を見たくなかった。
「マジですぐそこなんだって。フツーの家と変わんねえから大丈夫だっつーに」
「…いえ、事務所行きますって。愛人帰ってきたら悪いし」
「帰ってこねーって。だから、」
来いよ、と言いながらぐいと手首を引っ張られた。あ、と思った時にはすでにレオは無意識にザップの手を振り払っていた。ぱしんという、手と手が軽く触れあうようなそんな音がする。
ぽかんとした表情でザップがこちらを見ていた。
けれど負けず劣らずレオもびっくりしていた。あれ?なんで?―――なんで俺今、
――――手を。
「………………、」
顔を上げる。ザップが僅か傷付いた顔をしていたのでレオはぎくりとした。まさかそんな顔をしているとは思わなかったというのもあるし、ザップが言うところのヤリ部屋に行きたくなかったのは確かだったが、レオもそれを自分自身の意思でしたわけじゃなかったからだ。全くの無意識だった。
けれど別に、ザップにそんな顔をさせたいわけではない。
彼が自分のことを心配してくれているのだって、気を使って事務所より近い場所を貸してくれようとしていることだって、しかも警察まで付き添ってくれた意味だってレオにだってわからなかったわけじゃない。本当に、そんなこと意識する以前の問題だった。いつもそうだ。本当は。

本当はこの男はレオにだって優しいのだ。

「………何もしねえよ」
そう言われてレオはのろのろと顔を上げる。ザップはレオから目を逸らしてアスファルトの地面を見つめていた。
「…お前がしたくないっつーんなら」
俺はしねえよ、と言いながらザップは煙草をポケットから引っ張り出した。かちんというライターの音と一緒に、嗅ぎ慣れた煙の匂いがレオの鼻孔に入ってくる。レオはそれでもまだ無言だった。彼と同様、アスファルトを見つめている。
「……、………そうじゃないです」
そう言ったのは一体何秒後、はたまた何分後だったのだろう。自分がそう言った声が泣き声じゃなかったのは本当に僥倖だった。何しろレオはその時もう泣きたくて泣きたくて仕方なかったからだ。気を抜いたら一気に涙が零れ落ちそうになる、直前もいいところだ。
ザップが怪訝な顔をしてレオを見下ろしたが、レオはまだ俯いていたからその顔を見ることは出来なかった。「………、……そ、…そうじゃないです……、」「………んじゃなんだよ」何でヤなんだ、と聞かれたがレオはそこで首を振った。ザップは益々怪訝そうな顔になったが、当然レオには見えない。
「……………あんたが嫌だからじゃないです…」
そう言って顔を上げた途端にザップがぎくりとした顔になった。「な、」なんだよオイ、と狼狽えた様子でついさっき喫い始めたばかりなのに煙草をぽいと道端に捨てる。いつもは怒るレオも、その時ばかりはそんな余裕がなかったので違います、としか言えなかった。
「……ちょっ、…と待てよ。なんだよ。なに…待て今俺らアレだよな?何でお前がヤリ部屋行きたくねえかって話、」
「…俺は、…俺はそうだけど、」
話を遮ってレオがそう言ったのに、ザップは珍しく怒るどころか、びくっとした様子で黙ってしまった。遠くから救急車とパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。そしてその隙間を縫うような自分の声にレオは溜息を吐きたくなった。どう聞いても泣き出す直前の声だったからだ。
「……俺はヤじゃないし、…でもべつにそんな、…大事に……、……してほしいわけじゃないし、」
「あ?え?ちょ、ちょっと待てなんの話してんだお前は」
「でもザップさんは、」
そこでレオは顔を上げた。ぱたぱたと言う音と一緒に涙がこぼれおちる。ザップは途端に引き攣った顔になった。

「……………別に俺じゃなくてもいい癖に………」

そう言った後もう一回、まるで氾濫とでも言わんばかりに涙がやって来た。「……っ、」小さく声を上げて袖でぐいと顔を拭う。「………付き添い有難うございました」泣き声になったのは仕方のないことだったが、自分自身でとても困った。踵を返して勢いよく走り始めたレオの後ろからは、レオ、という先輩の声が聞こえてくる。けれどもレオは足を止めない。止めて堪るかと思った理由はわからなかったが、とにかく今、ザップの顔を見たくなかった。
結局同じだ。彼の顔を見ようが見まいが、部屋に泊まろうが事務所に泊まろうが。―――キスされようが抱き締められようが手を取られようが笑顔を向けられようが。
さっき言ったことが全部本当のことだから。



夢を見た。
内容は覚えていない。けれど夢を見たのは確実だった。「…………、」頭が重い理由は寝る直前に泣いたからなのか、それとも泣きながら寝たからなのか、どっちにしろ、と思いながら顔を上げる。「………あ〜〜〜……」やってしまった、と思いながら溜息を吐く。レオの腹の上で寝ていたらしいソニックが眠そうな声を上げてごろごろと転がったので、そっと抱え上げてクッションの上に移動させた。
「…顔洗ってこよ…」
そう呟いてのろのろと洗面所に向かう。もう朝かな、と思いながら洗面所に向かう道すがら、窓の外を見たがどうやらまだ夜も明けていないらしい。眠りが浅かったのか、それとも夢のせいなのか、はたまた昨夜の出来事に興奮しているのかよく眠れていない。「………、…あー……」最悪、と呟いた後にタオルでごしごしと顔を拭った。鏡の中の自分は酷い顔をしているとしか言いようがなく、疲労困憊というそれがしっくりくる。
「…なんであんなこと言ったんだ………」
しかも泣きながらその場を去るってマジで、とずるずるとその場にしゃがみ込む。膝の上にタオルを置いて、そこにぼすんと顔をくっ付けた。タオルはギルベルトがよく洗濯、乾燥していると見え、柔軟剤のいい匂いがした。「…シンデレラでもやんねーっつの…」そうふざけたことを言ったのは、少しでも自分を励まそうと思ったからだ。少しだけそうしていたが、その後レオは何とか立ち上がって眠るためにソファに戻ることにした。

結局あの後にやって来た事務所は勿論、一室を除いて無人だった。たまにスティーブンが泊まっていることもあるらしいが、最近は落ち着いてきている為か彼も本日は自宅へと帰ったらしい。たったひとり、ツェッドだけは彼の部屋の水槽の中にいるとレオにも分かっていたが、深夜だから眠っているだろう。起こしたら悪いな、と思いながらレオは広間のソファで眠ることにした。毛布はその辺から適当に持ってきた。
ソファに戻ったら驚愕すべきことが起きていた。
「…………………は?」
そう言ったレオの眼には、ついさっきまで自分が寝ていたソファの上に転がっているザップがいた。「……え?…な、…はあ?」そう意味を為さないそれを呟いたレオに、ザップは何も言わなかった。と、いうより言えない。寝ている。この短時間で、と驚愕しながらのろのろとソファに近寄ると、クッションの上で寝ていたソニックは、ザップの横に移動してすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。
「………………、……なんでだよもー……」
そう言ってそろそろとレオは長椅子から離れる。反対側のソファに置いてあった別のブランケットを手に取ると、更にそっと移動し始めた。ツェッドに申し訳ないとは思ったが、最早この場で眠れないことは確定した。だからツェッドの部屋の隅を借りよう、とそう思ったのだ。執務室もありはありだが、一応クラウスの仕事場だったから何となく遠慮した。しかしどうしてザップがいきなり現れたのかも、どうしてレオが寝ていたソファにて熟睡しているのかもレオにはさっぱりわからなかった。帰ったんじゃなかったのかよと嘆きたくなる。
ドアノブに手をかけた時だった。びゅん、という風を切るような音が一瞬聞こえたような気がしたが、レオがそれに気が付いた時は既にもう始まっていた。自分の身体にぐるぐると器用に赤い血液が巻き付いていくことに気が付いて、はっと顔を上げる。後ろを振り返った。
「ざ、」
ザップさん、と叫ぶ前にぐいん、と身体が思い切り動いた。「あ゛っ、」悲鳴を上げそうになったが慌てて口を手で押さえる。ばしん、という口を押えたと同時くらいに天井が目の前に迫ってきて、ひっと小さく息を呑んだ。しかし次の瞬間すぐに自分の身体が落下していく感覚がする。今度こそ悲鳴を上げそうになったレオの身体は、そこでやっと着地した。まるでボールが飛んできたように、ひょいとザップがレオを受け止める。いつの間にか先輩はソファに座っていたので、レオはちょうど彼の膝の上に落下する形になった。ぎゃあ、と小さく悲鳴を上げて手をばたつかせたが、すぐにその手がザップに捉まれたのでレオは口を噤んだ。
「………お目覚めか。あ?」
「……それはこっちの台詞なんですけど……」
「………………ふん」
ザップは不貞腐れた様子でそう言うと、レオのことを軽々と抱え上げて自分の横にすとんと座らせた。「………、」そこで逃げることもできたが、レオは逃げずに黙っていた。最早逃げるのは不可能だと思った。ザップは黙っているレオを見ながら、やっぱり黙って頬を抓ってきた。ただしいつもと違って物凄く軽い力だったので、全然痛くなかった。むしろただ触られているだけと言った方がいい。「……あのう…」なんでここに、と言う前にザップがぱっとレオの頬から手を離した。そのせいかどうか、レオはその質問をしそびれてしまった。
「……さっきまでびーびー泣いてたくせに」
そう言われてげっとレオは顔を引き攣らせる。ザップが不貞腐れたままそっぽを向いていたのが幸いだった。レオもぱっと先輩から目を逸らす。「……、す、…すんませんっした」「………そこで謝るのかおめーは」そう言われたがレオは顔を戻さなかった。ザップはいつもと違ってこっちを向けとも言わなかったし、無理矢理レオのことを振り返らせようとはしなかった。
「…何で謝んだよ」
「……面倒だろうなって」
そう思って、と言った後だ。レオの顔が今度こそしっかりと掴まれた上、ザップの方に無理矢理向けられた。「にゃっ」反射的に変な声を上げたレオに、おまえさ、とザップは苛立った様子で言った。
「…結局なんだよ。お前俺にどーして欲しいんだ。……俺はお前が、」
やめたいって言うからやめてやったんだぞ、と言われてレオはごくんと息を呑む。つい先日あった、ダイアンズ・ダイナーでのことだ。

――――………もう、…あーいうことすんのやめませんか。

そう言ったのは確かにレオだった。
そう望んだのは確かに。

レオ自身なのだ。

どうしてほしいと言われても、とレオはその時ですら考えていた。どうしてほしいとか言われても。だって、俺が”そんなこと”言うのはおかしくないか?そしてレオはそう思う。俺―――”レオナルド・ウォッチ”が”ザップ・レンフロ”にそんなことを言うのは辻褄が会わないんじゃないか?―――だから、だから本当にレオが望んでいることは、そんなことじゃない。優しくしてほしいとか、一番にしてほしいとか、特別扱いしてほしいとか。
そんなことじゃなくて。
本当の、本当に一番一番レオが望んでいることは。

――――俺がザップさんにして欲しいことは。

「…………俺のこと、…好きになってほしいです」

ぽつりと言った一言は自然に出たそれだった。知らない何かが、知らない誰かがレオの中にいるわけでもないのに、レオはその言葉を全くの無意識で呟いていた。自分を抱きかかえているザップがびっくりしたような表情になる。「…………、」何か言いたげに口を開いたが、それを聞くよりも先にレオの方がザップの方に手を伸ばしていた。戸惑った様子でザップがこっちを見つめている。
「…別に優しくしなくていいです。…そーいうのは…俺じゃない人にしてあげて下さい。…や、もうとっくにしてますかね」
そう言ったあと自然に苦笑してしまった。「………。」ザップはまだ何か言いたげな顔をしていたが、黙っている。「…俺はザップさんのこと、」そこで少し言葉を切る。伸ばした手を、そっとザップの頬に寄せたあと、レオはやっと普通に笑った。
「…好きだから。…だからザップさんもちょっとでいいから俺のこと、……好きになってくれたら嬉しいです」
そう言った後に気が付いた。自分の視界が歪んでいる。「……あ」うわ、と言いながら慌ててばしんと手で顔を覆った。しん、と沈黙が起きる。「…………お前」意外に涙腺緩いな、というザップの声が呆れていなかったので意外に思う。のろのろと手を下にずらして先輩を見上げたが、ザップは変な顔で正面を向いていた。
「……そんだけでいーのか」
「そんだけって」
結構大事なことじゃないですか、と笑って言ったあとに一滴だけ涙が零れたので、慌てて拭った。「………そんだけでいいっすよ」ザップの言い方でそう言った後に、レオはちょっとだけ伸びをする。「…以上でした。…んじゃザップさんどーしますか」俺は眠りたいんですけど、と言ったレオを無言で見つめたあと、ザップはそのままレオをばたんとソファに押し付けるようにして倒した。わっと小さく声を上げながら反射的に目を瞑る。
「び、びっくりした…なん、…どうしたんすかザップさん」
「………………………………お前は俺が好きなんだろ」
「え?…あー、…ええと、はい。好きですよ」
正直なところそれがどういう意味の好きなのかは、レオにはよくわからなかった。友達として好きなのか、それとも恋愛対象として好きなのか、はたまたもしかして兄弟みたいに思っているのかもしれない。けれど最早断言できる。レオはザップが好きだと言えた。
「……んじゃ何でやめたいなんつったんだよ。俺とヤるの」
「え?…今聞きますソレ」
「いつでも答えは同じだろ。どーせ」
レオのことをソファに押し付けるようにしたまま、仏頂面のザップは低い声で言った。割にそんなに怒っているようには見えない。少しだけ、どうしてなのか分からなかったが傷付いているようにレオには見えた。「……そりゃ、…えっと……、…す…好きだからじゃないですかね…」「なんだよそのふわっふわした感じは」そう顔を顰めて言った先輩に、だってとレオは言いながら眉を下げる。
「ザップさんはそんなに俺のこと大事じゃないでしょ。…いや、えーっと。そりゃ俺も別にザップさんが俺のこと嫌いだとか、そんなことないのはわかってますよ。…でもなんかそれ、…そーいうのじゃなくて…」
「?」
ザップが怪訝そうな表情をつくる。レオもレオでうまく言えなかったので、当然とも言えた。「…そういう……あの、…愛人に向けてるのと俺に向けてるのは、全然……違う感じでしょ」「……、」曖昧な言い方だったがなんとなく伝わったらしい。ザップは神妙な顔で黙っている。それを肯定と受け取ったレオは、だから、と考え考え子供の様に口にした。
「……そーいうのが欲しいわけじゃないんですけど。……あ〜〜…えっと……んー…あー、だめだ。すんません」
「は?」
唐突に謝ったら誰だって驚くだろう。ザップもきょとんとした顔になった。「俺にもわかんないっす。でもあの時もうしたくないなって思った訳じゃないです」「………。」途端にまたザップは黙る。ずっと何か言いたそうな顔をしていたが、結局彼は何もレオに言わないままだ。
「……さっきも言いましたけど、…ザップさんのことが好きだからですよ」
そんだけです、と言ったレオをじっと見つめた後、ひょいとザップはレオの上から退いた。「………意味わかんねえ。俺は好きだったらぜってー誰にもやんねーし放り出しもしねえし逃げねえぞ」「ザップさんはそーでしょうね」そう言ってレオはまた笑うと、毛布をずるずると引き上げる。ザップはそのまま床に座ってレオが寝ているソファにそのまま寄りかかった。
「………おめー俺のこと好きな癖にもう俺とヤんねーのかよ」
「やんないっす。それはそれです」
すんません、と一言だけ言ったあとに目を瞑った。「…迷惑かけてすんませんでした。おやすみなさい」ザップさんも早よ寝た方がいいですよ、と思ったがそれは口にしなかった。ザップに言われた通り疲れていたし、泣いたせいもあるか体力も使っていた。ついさっき天井を見ながら飛んだとは思えない。ピーターパンはよく疲れないなあ、と益体もないことを考えながらレオは眠ることにした。
「……………………。」
だからその後ザップが立ち上がったのをレオは知らないし、このバカ、と小さく言った先輩の声も聞こえていない。「…早よ言えやそーいうことは」苦々し気に歪んだ声でそう言った後、ちゅっという音が部屋には響いたが、それを見ていたのは寝ぼけ眼のソニックだけだった。



あぶね、と言いながら慌てて棚に捉まったが梯子は倒れた。「あっ。うわちょ、あし、」足場が、と言っている最中に手が外れたので、当然レオの身体は重力に従って落下する。「っとわ―――!!!」落ちる、と思わず目を瞑ったと同時にどこかに着地した。「………ありゃ」「…レオくん…」危ないじゃないですか、というその声に目を開けると、ツェッドが自分を呆れた顔で受け止めていた。「ツェッドさん…!!た、たす、助かりました…!!」「だから僕が梯子を押さえてるって言ったでしょう」全くもう、と顔を顰めている後輩を見ながら、さーせんとレオは苦笑いする。棚の整理という非常に地味だが厄介な仕事をしている最中だった。
「おいおめーら何遊んでんだそっ………、」
「ああ」
そっちは片が付いたんですか、と言いながらツェッドがそろそろとレオを床に下ろしてくれた。隣室からやってきたザップは埃対策のためのマスクをぽいとその辺に放り投げると、こちらにずかずかと歩いてくる。そのまま非常に不自然にレオとツェッドの間に割り込んできたので、レオもツェッドもわあと声を上げた。「何するんですか。驚いた」「……いーからお前は叩きをかけろ」そう言ってザップは手に持っていた叩きをツェッドに手渡す。似合わないもの持ってますね、とツェッドは真顔で言うとそれを受け取り、すぐにぱたぱたと本棚にそれをかけ始めた。
「……はーびっくりした…あっぶねー…」
やっぱこの梯子ガタがきてんだなあ、と言いながら倒れた梯子を元に戻そうとしゃがみ込んだレオの横に、一緒に先輩もしゃがみ込んできた。「?ザップさん」そっちは終わったんですか、とレオは首を傾げる。ザップは隣室の小さな本棚の方担当になり、レオとツェッドでこちらの部屋の巨大な本棚を担当している。じゃんけんの結果こうなったのだが、ザップは役割が決まった後も決まる前もずっと文句を言っていた。業者を雇えよとぶつくさいいながらマスクをつけている先輩のその姿は、確かに全く似合っていなかった。
「……………。」
仏頂面の先輩はそのままいつかのようにレオの頬をぐいっと引っ張ってきた。「うにゃっ!?」いたたた、と言いながら頬を押さえるとすぐにぱっとザップは手を離す。「いっ…ちょ、な…何すんすかもー!!」痛いでしょ、と訴えたレオのことをじっと睨んだ後に、ザップは立ち上がった。そのまま無言で踵を返すと隣室へと戻っていく。「……………。」何しにきたんだ、と唖然としているレオと同様、ぱたぱたと叩きをかけているツェッドも怪訝そうに言った。
「…何をしに来たんですかね」
「…………さあ…」
そうぽつりと呟いた後、レオはしゃがみ込んだままぼーっと部屋のドアを眺めていた。

あれから既に一週間経った。あの日事務所で目覚めたレオは、何だか憑き物が落ちたような気分で朝を迎えた。ちゃんと洗顔をして、身支度をして、それからコンビニに行って歯磨きセットと朝食を買ってまた事務所に戻った。九時になる前にツェッドが顔を出し、更にクラウスがやって来て昨晩の話になり、次々に出社してきたメンバーにレオは非常に心配されることになった。チェイン・皇にまで大丈夫だったのソレ、と呆れた顔で言われてレオは思わず苦笑してしまった。
ザップは普通に午後に出社してきたし、レオとも普通に接してくれた。俺が付き添ってやんなきゃコイツマジで大変だったんすよ、と普通に言われてレオは一瞬呆気に取られたが、結局笑ってそーでしたね、とちゃんと返事ができた。
謝った方がいいとは思ったのだ。
思ったけれど、レオは結局謝らなかった。自分が勝手なことを言ったりやったりしたという自覚はあったし、ザップに酷いことばかり言ってしまったと思いはしたけれど、謝ったところで自分の救済にしかならないと思った。それに謝ってもたぶんザップもいいよとは言わないだろう。というより恐らく彼はなぜ謝られているのかわからない、と言いそうな顔をしそうだった。
「ザップさーん。そっちどーですか」
終わったらこっち手伝って下さいよ、と言いながら本を抱えて隣室にやって来たレオにザップが気が付いた。「なんだそれ」「こっちもう入りきらないです」「こっちも隙間ねえよ」そう言いつつ、ザップがレオの抱えている本の一番上にある一冊を手に取った。ぱらぱらと捲ったが内容はどうも頭に入ってこないらしい。変な顔をしたあとまた元に戻してきた。
「何冊か処分しないと駄目ですね。しゃーないけどクラウスさんにそう言いましょ」
「スターフェイズさんが本棚買うって言いそうだけどな」
確かに、とレオは笑って言うと本を床に下ろした。ふう、と言ってそのまましゃがんでいるレオの横に立っていたザップは、ふと何かに気が付いたような顔をして同じようにしゃがみ込んでくる。本の山を挟んで二人で座り込んでいるような体勢になった。
「?」
きょとんとしたレオの頬がぐいとザップの指で拭われた。「わっ」「……どーしたらこーなんだ」煤かなんかか、と言いながらザップがごしごしとレオの頬を拭っている。どうも本棚を整理している間に顔が汚れてしまっていたらしい。
「……、……ねーザップさん、……飯、…いたた、…どーしますか?」
「…ビビアンちゃんとこでよくねーか。近いし」
「たた、…そっすね…、……ちょ、っとあのっ、引っ張るのは、」
やめてください、と言った後にぱっとザップが手をレオの顔から退けた。「わっ。…あ、どーも…」顔洗ってきますわ、と言ってへらっと笑ったレオをじっと見ながら、あのさー、とザップは淡々とした口調で言った。
「はい?」
「なった」
「は?」
なった、と突然言われてすぐに理解できる人間はそんなにいないだろう。現にそう言われてレオが思い浮かべたのは、りんごの実が木に実っている図だった。そーいえば最近りんご食ってないな、と思っているレオを他所に、だからよとザップは言うと、本の山の上にすとんと手を置きながら、レオを見上げて言った。

「お前のこと好きになった」

同時にりんごはレオの頭の中からいなくなってしまった。「……………………へ?」長い長い間を空けてそう言ったレオに、何度言わせんだよとザップは嫌そうな顔で言うと、だからよとレオから目を逸らしてもう一度言った。
「なったんだよ。お前のこと好きになったんだ。………ちゅーか」
多分前から好きだったんだよ、と早口でついでのように言われてレオは益々脳内にあったりんごがどこか遠くへ歩いて行ってしまうのを自覚する。かーちゃんがたまに作ってくれていたりんごのコンポートは美味かったし、ミシェーラが前に作ってくれたりんごジャムも美味かった。そんなことを考えているどころではない。思わずすとんとその場に尻餅をついてしまった。ザップが怪訝そうな顔になる。
「…なんでそこでビビってんだおめーは。キャーヤッターウレシー抱いてくださいってなるとこじゃねーのか」
「………………、……な、……なったって……、や、い、いや今なんか、」
前からとか聞こえましたけど、と言ったレオに、ザップはまた嫌そうな顔になった。「…だってよ。フツーに考えてこの俺が男とヤってるって時点でそーじゃね?……ちゅーかフツーに俺、今」
お前とヤりてーし、と言った先輩の顔が微妙に赤い。しかしレオの顔は微妙どころではなかった。物凄い勢いで真っ赤になった自分の顔をまじまじと覗き込むようにした先輩は、なんだソレ、と言っておかしそうに笑った。
「…りんごみてー」
「………、……………り、……、……いや俺、りんごは、」
暫く食ってないです、と意味不明なことを言った後俯いたレオの頭をザップがくしゃくしゃと掻き回したので、顔が上げられなくなった。けれどレオはザップにそうされるのは好きだったし、やめてくれとは言えない。言う余裕もない。「…だからお前さあ」もうヤんねーとか言うなよ、と言われた後にレオは返事をしなかった。レオ、と言うそれと共に今度は軽く頭が叩かれる。けれどやっぱりレオはまた、返事をしなかった。いや、出来なかった。
「……そんで?」
「え」
ちょっと経ってからそうぽつりと言ったザップの声はなんだか少しおかしそうだった。「…お前のこと好きになってやったけど」「…………。」その言い方、と思いはしたものの、レオはそれを指摘はしない。そろそろと頭を上げたが、ザップはレオの頭上から手を離さなかった。
「…次は?」
「え?……つ、…つぎ?」
「そーだよ次だよ。…好きになったら俺は、」
次お前に何してやりゃーいい、と言ってそこでやっとザップは笑った。ずっと前からレオが見ていた先輩の笑顔は、なんだか久々に見たような気がしたし、そして恐らくその通りだったろう。暫くレオはこの男とまともに顔を合わせていなかったのだ。
「………つぎ…、…え、……えーっと………、……、え、…えーっと…?」
いきなりのことで脳が追いつかない。真っ赤な顔でそう言いながら狼狽えているレオをじっと見つめながら、んじゃ次は俺だなとザップが言った。「え」次ってそういう、と言いながらレオは顔を上げる。そして次の瞬間レオの顎にザップの指がくい、とかけられた。まるで流れるように自然な手付きのそれを、レオは何度も何度も何度も何度もされたことがある。
なのにその時、レオはごくんと息を呑み込んでいた。
「……………、」
ちゅっと口が離れたあと、ぼーっとしているレオにザップがちょっとだけ首を傾げた。彼の髪が揺れたのを見たのも、何だか久々だとレオは思った。「……練習はさせてやったぞ。ほら」出来んだろ、と言いながらザップが自分の口をとんとんと人差し指で突くように叩いた。それを見てレオは意図を瞬時に察したが、無論目を瞑って首を振った。


だいたい、と言いながらハンバーガーを齧っている先輩の横でレオはポテトを齧っていた。「お前が分かり難いのがわりーんだよ。俺のことが好きなら好きで別にあのまんまでよかったじゃねーか」「………………。」謝らなきゃ謝らないでやっぱり怒る、と思いながら無言でレオはもそもそとポテトを齧る。しょっぱいな、と呑気に思っていると、ザップに肘で小突かれた。
「オイコラ聞いてんのか。人が決死の覚悟で手前の言うこと聞いてやったんだぞ」
清水の舞台から飛び降りるつもりだったんだからなと言われたが、レオにはキヨミズノブタイというものが一体何のことだかさっぱりわからなかった。聞こうと思ったが、たぶん今の話には大して関係ないことだろうと思い、やめる。手に持っていたハンバーガーをぱくんと一口齧った。
「……ちゅーか俺はよ」
レオが黙っているせいか、さっきからずっとザップばかり喋っている。昼の時間になったから、ツェッドと三人でダイアンズ・ダイナーに行く予定だったのだが、急にスティーブンから用向きを言われてツェッドはクラウスと一緒に出掛けていった。昼はお二人でどうぞ、と丁寧に言ってきたツェッドに言われんでもそーするわ、と言ったザップの顔はいつもと同じ表情だったが、声がなぜか弾んでいたのでクラウスもツェッドも怪訝そうな顔で行ってきますと事務所から出て行った。ちなみにレオはその間も本棚の整理整頓を続けていた。
だから二人でダイアンズ・ダイナーにやって来た。いつもの如く流れるように注文をした後、ビビアンはこの間みたいに同じことを言った。
「あんた達ホント最近そればっかりだよね。別にいーんだけど」
そう言って出されたハンバーガーとミートソースに大コークはいつものダイアンズ・ダイナーの味だったし。
ついでに言えば二人がカウンターに座ってそれを食べる図もつい二、三週間ほど前にやって来た二人と何も変わらなかっただろう。
「……お前だから抱いてたんだけど」
そう言ってぱくんとハンバーガーを齧ったザップが言ったので、レオはコーラを咳き込んでしまった。ごほごほと咽ているレオを無視してザップはひょいとレオのポテトを奪った。自分で頼んでるじゃないですか、と普段レオは文句を言うが、今回は咳き込んでいるので無理だ。「…おめーは誰でもいいみてーなこと言ってたけどさー…」ひでー話だよマジで、とやれやれと言いたげな口調で先輩が言ったので、レオは漸く息を整え終わり顔を上げる。先輩は仏頂面で黙々とハンバーガーを齧っている。
「だ…、…誰でもいいとは言ってませんよ。俺じゃなくてもいいでしょって言ったんですよ」
「似たようなもんじゃねーか。おめえじゃなきゃ誰でも同じだろ」
「俺じゃな……、………、………は?」
違うでしょ、と真顔でびしりとツッコミを入れたがザップは珍しく文句を言わなかった。「愛人いっぱいいるじゃないですか」「あのなだからよ。そりゃーマリーもアリスもステフもちげーけどよ」そう言った後にぐいとザップは自分の口元を拭った。
「……でもレオじゃねーじゃん。そんで俺はおめーがいいんだよ。…んじゃ」
同じだろ、と言った後にばくんとハンバーガーが齧られた。「………………。」ぽかんとして黙っているレオを気まずそうにザップは見ると、だからおめーな、と呆れたように言った。ただし少しだけ顔が赤い、ということにレオは頭の隅で気が付いていた。意識は出来なかったが。
「……もーやめるとか言うなよ。今度言われても俺はやめねーかんな」
「…………………、」
そう言われてレオは益々何も言えなくなった。真っ赤な顔で横にいる先輩をぼーっと見つめていたので、りんごが食いて―なとザップはふざけたことを言って、またレオのポテトを抓む。固まっているレオを放置してザップは食事を続けていたが、レオはいまだに状況がつかめなかった。食事を再開したものの、速度はいつもの二分の一程遅い。
「…………んで」
次は決まったか、と言われてレオはのろのろと顔を上げる。ザップはコーラのグラスに入っているストローを手持ち無沙汰にぐるぐると回していた。からからと氷が擦れる音と一緒にコーラの泡がぶくぶくと上に向かって動いている。
「つぎ?」
「そーだよ。次だ次。して欲しいことあんならさっさと言えよ」
「し、……い、いや別に…」
ないですよ、と言いながらハンバーガーを齧ったので、何かあんだろとザップは言ってまたレオのポテトをパクった。「………。」ポテトをパクるなって言ったら怒るだろうな、とレオは思いながら少し皿を自分の方に引き寄せる。大体何で自分のがあるのに俺のを食う必要があるんだ、と思った。
「俺はあるぞ」
「え」
俺に、と言いながら顔を上げる。そーだよとザップは呆れた様子でまた言うと、今度はレオの口元をぐいと親指で拭った。「わっ」「下手くそ」そう言って先輩は自分の親指を舐めている。慌ててレオも自分で口を拭ったが何もついていない。ただしょっぱかったのでどうやらポテトの塩が付いていたらしい。「…………………。」まさか塩ごときで、と思ったが先輩はそんでよと話を始めてしまったのでレオは一体ザップが何を舐めたのか、聞きそびれた。
「今日の晩飯奢れよ。あと明日の朝飯はサンドイッチがいい。それからピザが、」
「ちょっと待って下さいよ。して欲しいことってそんなことなんですか?」
「そんなことってなんだよ」
そんなことじゃないっすか、と顔を顰めて言ったレオに、どーいうことだとザップも眉間に皺を寄せる。「そんなのいつもやってたじゃないですか。愛人トラップで俺が何度ピザを奪われたと思ってるんです」「ちげーよバカあれはピザだけだろ。じゃなくて」夕飯とか朝飯とかもだよ、と言われてレオは益々顔を顰める。結局同じことじゃないか。
だからそう言った。しかしザップは違うだろとむっとしたままそう反論してくる。
「…じゃなくてよ。……あ〜〜もうまだるっこしーな。…だから、……、……………、……つ、」
付き合おうやっつってんだよ、と言った先輩の声は誰がどう聞いても照れていたし、耳も赤い。まるで今のレオと同じだった。
「…………………は?」
思わずそう言って手に持っていたポテトを取り落とす。ぼと、とハンバーガーの上にポテトがすとんと落ちたが、レオの手はポテトを抓んでいたその形のまま停止している。これもまた、わざとらしいくらいだった。ザップはそれを見て呆れたようにレオのことを見つめる。
「…おめえそればっかだな」言語能力使えよ、とザップは言うと何かを誤魔化すかのようにもぐもぐとハンバーガーの残りを齧っている。ぽいと落ちたポテトが彼の口内に投げ込まれるのを見ながら、レオは思わず自分のハンバーガーをぎゅうと握り締めていた。お陰でチーズが皿に零れている。
「………、……あ、あのーザップさん」
「なんだよ」
「………………、…………それだと、」
俺のして欲しいことと同じなんですけど、と言ったあとにザップもぎし、とロボットのように動きを止めた。ぎしぎしとそのまま先輩はこちらを振り返る。灰色の眼はレオのことをびっくりした様子で見つめていた。「…お前、……さっきは無いとか言ってたじゃねーか」「………言われたら思い出しました」「…………。」なんだよそれ、とザップは言ったもののそこで漸くはあと息を吐き出して、あーあと言いながら天井を仰いだ。しかしその顔は物凄く笑顔だったし、その声はひどく安心しているようにレオには聞こえた。
「…あ〜〜〜つっかれた…お前ホンットめんどくせーなマジで。言いたいことあんならさっさと言えよ。俺はそんなに心狭くねえよ」
「だ、…大体ザップさんが俺のことをテキトーに扱うからいけないんですよ!もーちょっといたわりの心を、」
「おめえふざけんなよ。俺程お前のこと大事にしてやってる奴いねーだろーが!」
「いっぱいいます」
「い、……、……てっめこの、」
ふざけんな、と言った後に抓られたのも毎度のことだったし、レオがその後悲鳴を上げたのだって普段と変わらない。ただその日の夜レオの家にやって来た先輩の手をレオはちゃんと自分から掴んでいたし。

玄関先で抱き締められても文句を言う気になれなかった。
乱暴に腕を引っ張られるのも、抱き締められるのも、息を吐く前にキスされるのも、漸くレオは理由を知った。だからこの男の手付きは優しかったし、手付きどころかやっぱりこの男はずっとずっと、レオに優しい。時間が惜しいとばかりに触れてくるその手をちゃんと握り絞めながら、レオはやっと息を吐く。それからザップさん、と目の前にいる男の名前を呼んだ。
「……あんだよお前空気読めよこれから、」
「つぎ」
「あ?」
次して欲しいことがあるんですよ、と言いながら腕を伸ばす。「………。」ザップはちょっと驚いた顔になったが、なんだよ、と言いながらちゃんとレオのことを抱き締めてくれた。髪を弄ってくる指を少しくすぐったいな、と思いながらレオは苦笑する。

「…ベッドに行きたいです」
「…………。」

ここでいーじゃん、ベッドがいいです、という話し合いは三十秒も続かない。ただし結局その後レオはベッドに連れて行って貰ったし。
実を言えば玄関からベッドへ運ばれる時抱き上げられるのも、レオは嫌いじゃなかったりする。
まだ口にはしないけど。




(2017/06/11)