てのひらのち
2017/04/08
それを見るのは初めてではない。
げほ、と咳き込みながら口を拭った。が、またしても胃の中からせり上がってくる感覚に口を押さえる。吐いた方がいいわ、と後ろから聞こえてきて呻きながら何とか頷いた。そんなことより、と後ろから背中を撫ぜられた。指の中に自分の指を突っ込んだが手元が狂ってがり、と爪で口内を引っ掻いてしまった。げほげほと更に咳き込んで、口を押さえる。
――――初めてじゃあ、ないのに。
口元をタオルで拭きながらよろよろと部屋に戻ると、大丈夫か、という声が聞こえて顔を上げた。「気分は」大丈夫です、と小さな声で答えながら口を更にタオルで拭うと、自分の上司は心配そうな顔でこちらを見下ろした。
「…ソファで休みたまえ。今ギルベルトに何か―――」
「い、いえ。そこまでは。大丈夫ですから」
「………無理をするものではない」
え、と思った時にはひょいと抱えられて、いつの間にかソファに座らされていた。「休みたまえ」そう言ってくるりと部屋の奥に引っ込んでいくクラウス・V・ラインヘルツの後姿を呆然と見つめて、はい、と小さく返事をした。聞こえないだろうとは分かっていたが。
人が死ぬところを見た。
初めてという訳ではない。ここ、ヘルサレムズ・ロットでは毎日一体どれくらいの死者が出ているのか、レオ―――レオナルド・ウォッチも知らないけれど、ともかく外界を遥かに凌ぐ数の死者が出ていることくらい、レオも分かっているし、知っている。
―――けれどそれを目の当たりにするのはまた別物だった。
向かいのソファに座っていた、同僚というよりも、先輩のK.K.という妙齢の美女がだいじょうぶ、と小さく声をかけてきた。大丈夫です、と言ったが顔が青かったのか、K.K.はそのままこちらに歩いてきた。
「ちょっと横になった方がいーわよ。顔真っ青だわ」
そう言いながら口元をごしごしとタオルで更に拭われた。流石にこれは、と思いながらいいですよと慌ててタオルを彼女の手から奪う。子供扱いも甚だしかった。
「いいからほら。クラっちが戻ってきたら同じこと言うわよ」
「あ……、…はい…」
確かにそれはそうだ、と思いはしたがどうしてもそれが嫌で、タオルを握って俯いた。K.K.はそれを察したのだろうが、それでもレオに更に寝なさいと少し強めにそう言った。「別に眠らなくていいわ。横になるだけ。また吐くわよ」
「………………………はい…」
小さくそう頷くと、丁度そこにクラウスが戻ってきた。水が入ったコップを手に持っている。慌てて立ち上がろうとしたレオだったが、呆れた様子のK.K.に押し留められた。そのまま流れでソファに寝かしつけられる。
「…大丈夫か」
「寝た方がいいって言ったんだけど―――ああでも水は飲んだ方がいいわね」
ごめんねレオっち、と言いながら起き上がらせられる。いえこっちこそ、と言いながら水を受け取った。「…すみません」何度言ったか知れないその言葉を言うと、いいからと二人に同時に言われた。K.K.がさっきしてくれたみたいに背を撫でてくれたが、やはりこれには少し抵抗があった。もう子供でもないのだ。
「…さっきも言ったけどねーレオっち。いいから寝てなさい。流石に昨日今日で連日血界の眷属が出ることないでしょ」
まーこーいうこと言うと来ちゃうんだけど、と苦笑しながらK.K.はレオからコップを受け取ると、くるりとクラウスの方を振り向いた。「…じゃ、私コップ片付けてくるから」話があるならどうぞ、ということだろう。ありがとう、とクラウスが彼女にそう言うのがレオの耳に入った。
「…すみません」
かつんかつんというヒールの音を背景に、レオはそう言って俯いた。どうしてこうなんだ、と自分を呪う気持ちが強かったが、如何せん自身の肉体は自分の心を全く汲んでくれなかった。
俯いたレオの前に、そっとクラウスがしゃがみ込んだ。身体が大きい方である彼がしゃがみ込むと何だか奇妙な感じがした。謝らなくていい、とクラウスは言うと、本当に大丈夫なのか、と重ねてそう聞いてきた。自分を心配しているとはっきりと分かる声で、それを聞いた途端にまた申し訳ないと思う気持ちが強くなった。
「ああ、横になった方が―――いいのだったな」
「あ、いや。そんなに……さっき吐いたので、もう」
吐くものもない、という意味でそう言ったのだが、クラウスは顔を少し顰めるとやはり寝たまえ、と言ってレオを再度ソファに無理矢理寝かしつけるようにした。いいですとも言い難かったから、仕方なくはい、と言いながらソファに転がる。皮肉にも確かに寝転がった方が気分がまだマシになった。思っているより身体のダメージが大きいのだろう。そのまま、ソファの背にあったブランケットをそっとかけられた。
「…すまないが、事後処理があるため私もK.K.も出なくてはならない。…そろそろ誰か戻ってくるとは思うが、何かあったら呼びなさい」
そうクラウスは言うと、けれども心配そうに眉根を寄せた。大丈夫ですよとレオは慌てて言うと、本来ならこんなことまでして貰う謂れもないのだ、と思って非常に心が痛んだ。
今日の任務はもう終わったも同然だったが、先にクラウスが言ったようにクラウスと、それからもう一人の上司―――スティーブン・A・スターフェイズはそれの帳尻合わせをしなくてはならない。特にスティーブンは腕を負傷していたから、余計一人では間に合わないことも出てくるのだろう。ねえ本当に大丈夫なのレオっち、と言いながら後ろからK.K.がやってきた。「…残ろっか。私」
それを聞いて、慌てて上半身を起き上がらせながら大丈夫ですとそう言った。同時に二人に押しとどめられてまたソファに転がる。「…まーいないほうが」いいってこともあるけど、と小さくそう呟いたK.K.はレオの枕元近くにしゃがみ込むと、お水ここに置いとくから、といつもの如く笑顔でそう言ってテーブルにコップを置いた。
――――そういうわけじゃない。
そう思ったのが顔に出たのかも知れない。わかってるわよ、とK.K.は苦笑したあと、ごめんねと小さくそう呟いた。なぜ謝られなくてはならないのか、しかも今どう考えてもそう言わなくちゃならないのは僕だ、と思ったレオの目にぽん、と手を置くとともかく休んでて、とK.K.はそう言って立ち上がった。
「万が一眷属が出たら嫌でも何でも呼び出すことになるんだから。それまでに元気になってちょーだい」
「…はい」
そんじゃ行きましょクラっち、と言いながらK.K.が事務所出口に向かう。うむ、と頷いたクラウスは再度レオの許に歩いてきた。「よく休むように。…悪いが彼女の言った通りだ。万が一の時は君を呼ぶことになる」すまない、と言うクラウスに何と言えばいいのか分からず、レオは結局彼の目を見ながらこくんと頷くことしかできなかった。ここで力強くはい、と返事しようがしまいが、どちらにせよクラウスに気を遣わせてしまうことは明白だったからだ。
クラウスはでは行ってくる、と一言言うとくるりと踵を返すとK.K.と共に事務所入口に向かって歩いていった。それじゃねー、というK.K.の明るい声の後、ぱたんとドアが閉まる音が聞こえた。
「…行ってらっしゃい」
小さくそう呟いたが、やっぱりこれも聞こえてないとは分かっていた。
目を瞑るのは嫌だったから天井を見ていることにした。目を瞑ると暗闇しかないからだ。暗闇が怖いという年齢はとっくに通り越してはいたが、そういう怖さではない。今日見た出来事が再度脳内で再生されてしまうからだ。ここに来るまで、何度も何度も繰り返された、目の当たりにしたそれを。
鮮血が自分の服と顔にべったりとついた感覚が忘れられない。
――――それとも。
忘れない方がいいのだろうか。
いつ自分がああなるともわからないのだから。
少なくとも自分で決めたことだったから、覚悟はある。あるが、それとこれはまた別問題―――というより、とレオは思いながらぼんやりと天井を見つめる。
やっぱり、人が死ぬを見るのはぞっとした。
「……………はあ」
小さくため息を吐いた。
既にその時事態はほぼ収束しかかっていて、レオがはっとした時には誰かに襟首を掴まれて皆が集まる広場に引っ張られていた。大丈夫かスティーブン、というクラウスの声、煩く鳴り響く救急車の音、レオっち怪我したの、というK.K.の慌てた声、警察のサイレンの音、ふざけんな冗談じゃねえとばかりに騒いでいる警察官の声、周りをさざ波どころか大波のように取り囲み喚いているいつものヘルサレムズ・ロットの住民の声、そんなのが一緒くたに、まるでミックスジュースみたいにざわざわと混沌を作っていた。気が付いたらアスファルトにしゃがみ込んだまま口を押さえていたレオの隣に、ツェッド・オブライエンが片膝をついて立ち止まってくれていた。
その後はクラウスとK.K.がギルベルト・F・アルトシュタインの運転する車で事務所に連れてきてくれた。元々一度戻らねばならないのだ、と言っていたクラウスとは対照的に、そのままついてきてくれたK.K.は恐らく本当にレオが心配でここまで来てくれたのだろう。申し訳なくて大丈夫ですと何度も言ったのだが、それでも彼女はついてきてくれた。多分、クラウスも本来ならば事務所に戻る予定などいつでもいいものだったのかも知れない。レオに気を使わせないための方便だ、とレオは思っていた。本当のところがどうなのかは知らないけれど。
「…きもちわるい…」
小さくそう呟いて手で口を押える。胃液の酸っぱい感覚が喉元までせり上がってくる感覚がした。さっき散々吐いたのに、と思いながらうえ、と小さく呻いてのろのろと起き上がる。やっぱりもう一回吐いてこようか。でももう今朝の朝ご飯まで全部吐いてしまったと思うのに、とコップを手に取った。
水を飲んだら少しマシになった。
ぼうっとしながらコップをテーブルに置く。はあ、と溜息を吐きながら目を押さえて俯いた。暗い。目を瞑れば、暗闇しか見えない。
べた、という感覚と。
知らない誰かの腕がレオの足元に転がっていた。
「……………、…」
ぶわ、とせり上がってくる感覚に思わず口を覆って慌てて立ち上がる。ぐらりと視界が揺れる。あ、やばいと思った時にはぱたんと床に転がっていた。いってえと呟きながらのろのろと起き上がる。ブランケットがソファからずり落ちて床に落ちていた。吐き気は未だにあったが、立ち上がる気力もなかったからもう一度水を飲もうとそう思った。が、やはりそれをする気力も同じく無かった。口を押えて蹲る。
ばたん、とその時音がした。
「ただい……、あり?旦那も姐さんもいねーの?」
何だよ、と言いながらかつんかつんという足音がレオの耳に入る。あ、帰って来たんだと思う間にも足音がどんどん近づいてくる。あー疲れた、と言いながらその声の主が、レオの近くにやって来た。
「ってうお。レオじゃん。何してんだそこで」
口を押さえたまま顔を上げる。そこにいたのは先輩で同僚で友達の、ザップ・レンフロだった。現場から戻ってきたばかりだからだろう、少しだけ顔に埃が付いていた。
白い服に返り血が少しだけ付いているのが見えた。
「…………………、……おかえりな、…」
最後まで言う前にそれが来た。やばい、と思いながらずるずると這うようにテーブルの上にあったコップを手にとる。無理矢理水を嚥下すると運悪く気管に入ったのか、げほげほと咳き込むことになった。死ぬ、と思いながらごほごほと咳き込んでいる間、いつの間にかコップが自分の手を離れていた。
ことん、というコップがどこかに置かれた音がする。
「……………、……お、かえり、………げほ、…なさ……」
「そこまで俺はお帰りを求めてねーよ」
死にそーだな、と呆れた声で言いながらザップがレオの横に突っ立っていた。コップはいつの間にかテーブルに置いてある。いつの間にかどころか、恐らくザップが置いてくれたのだろう、とレオは思った。口を手で押さえながら顔を上げる。お疲れ様ですと青い顔で言うと、呆れた顔でザップはレオの隣にしゃがみ込んだ。
「カオすげー青いぞ。二日酔いか?」
「…そ、……うだったら、」
よかったんですけど、と言い終わる前にひょいと抱えられた。視界が揺れてうわ、と小さく悲鳴を上げた。さっきクラウスに抱えられた時はそうでもなかったのに、どうも酷くなっているらしい。思わずザップの服を掴んだがその拍子に血が僅かに自分の手に付着してあ、と思った。
――――――血だ。
「吐くなよ。吐いたら捨てるかんな」
返事もできなかった。こくこくと頷くとそのままソファに下ろされる。礼を言うと床にいたら邪魔だからだよ、とザップはすげなくそう言った。その割にこちらを見ないのだから、恐らく嘘だ。レオの先輩は、こういう分かり易い嘘を頻繁に吐く。しかも吐く時は絶対にレオの顔を見ないのだから、判別も非常に分かり易かった。
「…すみません」
ソファの背凭れに寄りかかりながらそう言うと、いーから寝ればとザップはまた呆れたようにそう言った。「寝てた方がまだマシだろ。つーか吐くとこだったんじゃねーの」そう言いながら葉巻を引っ張り出して口に咥えたあと、あ、という顔をしてザップはレオを見下ろした。何となく言いたいことを察して、レオはのろのろと口を開いた。
「…だいじょーぶですよ。煙草くらい」
「…何も言ってねーだろ」
じゃあ俺が勝手に言いました、とレオは言うと床に落ちていた毛布を引っ張り上げて自分の隣に畳んだ。レオの言葉を聞いて不貞腐れた顔をしていたザップは、結局煙草をしまった。大丈夫ですよ、とレオは再度言ったがうるせえと言われて軽く小突かれた。
「喫う気分じゃなくなったんだよ」
「……そーすか…」
また嘘だ、とは思ったが最早ザップが喫煙するとは思えなかったから、結局そう言うに留めてレオはまた息を吐いた。視界の揺れは勿論治まったが、まだ僅かばかり吐きそうで吐けないあの感じがぐるぐると渦巻いている。先ほど水で無理矢理収めてしまったのがいけなかったのかも知れない。
ザップはそんなレオを見下ろしていたが、いいから寝ろよ、と言ってレオの肩を掴むと無理矢理ソファにばたんと倒した。うえ、と思わず口を押えたが吐くまでには至らない。ただまた視界が揺れた。
どさ、という音に目を向ける。ソファに横たわったレオの横にザップが腰を下ろしていた。つまりソファの背凭れとザップの背中に挟まれた感じになる。狭い。
狭いけれど退いて欲しいとは思わなかった。
レオの手にはまださっきの血が付いていた。
ザップはレオの腹の前あたりに座っていたが、お前さー、と小さくそう言ってレオの方を振り返った。
「…もー帰れば。どーせあと反省会だし。報告書は魚類にでも押し付けとけよ」
「…………………、……そのほうが、」
いいすかね、と小さくレオが言うとなぜかザップは虚を突かれたような顔になった。どうしたのかな、とぼんやりとレオが思っている間、ザップは何か逡巡した様子を見せたが結局口を開いた。
「…残りてーのか」
「……、……だって」
なんだか今帰ったら益々自分が嫌になりそうだった。
帰らなくても結果は同じだけれど。
けど、それとこれは一切関係していない。自分の意地と仕事のスムーズな遂行は全く別物だ。因果関係も一切ない。だから、本当にこれはただの我儘だ、とまた心の奥底で自分が溜息を吐くのを意識した。たとえばここで自分が帰ったとしても、誰も逃げたとは思わないだろうし誰からも怒られないだろう。
それが嫌なのだ、と思った。
なんだかまるで。
――――――――まるで。
その次を思い浮かべる前にぎしりと音がした。先輩がいつの間にかソファから立ち上がって、レオの枕元近くの床にそのまますとんと座り込んでいた。
血の臭いと煙草の匂いがした。
「…………休んどけ。帰んなくてもいいから」
「……、………でも眠りたくないんです、よ……」
「んじゃ目ェ瞑るだけでいーだろ」
「…………、眼、開けたら誰もいないってことないですよね」
それは言外に誰かが戻ってくるまでザップにここにいろ、と言っているようなものだったが、ザップはそんなことあるわけねーだろと呆れたようにそう言った。珍しく、こちらを向いたままだった。
「いるよ」
そう言われてそうですか、と小さくそう返事した。何がそうですか、だよと言いながらも裏腹にそう思った。言った通り眠りたくはなかったし、ザップが言った通り目を瞑りたくも無かった。暗闇しかないからだ。
やっぱり、暗闇が怖い訳ではないのだが。
怖いことは他に山のようにある。
返事をしてからぼうっとザップの顔を見つめていると、何だよと怪訝な顔になった先輩は首を傾げた。彼の頬と首の間辺りに僅か血が付着しているのにレオはその時気が付いた。誰かの血なのか、それともザップの血なのかは分からなかったが、恐らく誰かの血なのだろう。返り血だ。
真っ白な髪が、さらりと揺れた。
「…寝ないのかよ」
「……、眠りたくないんですって…」
ザップはそれを聞くと呆れたように両手を床につくと少し息を吐いた。「…オマエたまにイミわかんねーよな」「………そ、…」そうですか、と言う前にいいよとザップはそれこそレオにとってはよく分からないことを言った。
意味が分からないというなら、レオにとってこの人こそ意味が分からなかった。理不尽な要求ばかりこちらにしてくる割に、変なところで面倒見はいいし、かと言って優しいわけではない。基本的にはいい人だと思うのだが、本当に基本的だ。だから、それこそこの街みたいな人だとレオは思っている。
考えていることは分かり易いのに、接し方がよく分からない。
適当でいいのだろう。
いいのだろうけれど、その適当が―――どの程度が丁度いいのかよく分からない。距離感がどういうわけか掴めない時がある。そんなに自分も彼も繊細という訳ではないだろうに。なぜか。
「…何そんながっかりしてんだ」
たまにこういう風だから困る。
「……がっかりっつーか、調子が悪いんですよ…」
「………………オマエさー」
今日ははぐらかすの好きだな、と言われて呻きたくなった。それってさ、分かっても普通口に出したりしないだろ。俺の空気を読めよ、と思ったがそんなことをザップがする訳もない。空気を読むのは出来てもレオに対して気を使うことは無い。一切ない。レオが何を思おうがどうしようが、こちらを慮るということをしてこない。――線引きが。
線引きが無いんだよな、と苦々しく思う。こちらの引いた線を軽々しく蹴散らしてくる。跨ぐどころか蹴飛ばして、粉々にして、まるで何事も無かったかのように接してくるのが苦手だった。
「……はぐらかしてるつもりも、別に、……うえ…」
「…だからそれだって。オマエのキャラじゃねーよ。そーいうの」
ザップは呆れたようにそう言うとレオの額を軽く指で小突いた。いて、と小さく呻いて隣に座るザップの方を見つめると、別にいーだろその程度、と彼は続けた。その程度、とレオは復唱する。意味は無かった。
「誰だって最初はそーだろ。俺だって別にヒトの内臓見るの好きな訳じゃねーし、腕とか足とかぶった切られてんの見んのもヤだよ」
「……、……そ、…れは…」
「つかフツーに俺も目の前で人間がミンチになったら気持ち悪くはなるわ」
「…………、…いや、なんか…そういう…」
ことじゃない、と言う前にまたその感覚が来てやべ、と思いながら慌てて口を手で押さえた。水、と思う前にぐらりと再度視界が揺れる。呻きたかったがそれすらも胃は許してくれないらしい。喉から酸っぱい味がするのがまた更に気持ち悪さを加速させて吐き気が増した。ヤバイ吐く、と思っていたらいつの間にかザップが自分を抱えてバスルームに向かっていた。
喋る気力も体力も余裕もなかったから仕方なかったかもしれない。ただ、レオは運ばれている間どういうわけか先輩の服を掴んだままだった。真っ白い。
真っ白な服には真っ赤な血が地味についている。
気持ち悪い。今日一体何度それを思ったのだろう。うえ、と言いながら胸を押さえて嘔吐いたが余り変わらなかった。オマエちょっとカオ上げろ、という声が遠くから聞こえてきたが理解するまで時間がかかった。レオ、という声にやっと脳内に言葉が浸透する。はい、とふらふらしながら返事をするとぐい、と無理矢理顎を掴まれて口の中に指を突っ込まれた。
「っうえ、」
やべ、と思った途端に指が引っこ抜かれる。せり上がってきた感覚に今度こそ俯いた。げほ、という自分の声と吐瀉物が落ちる音がして更に気持ち悪くなった。それを何度か繰り返したらやっと、漸く、本当に何も吐ける気がしなくなった。気分が悪いのは変わらないが、とりあえず胃の中は空っぽになったみたいだ。
「…うえ……」
にしても口内はめちゃくちゃどろどろで、しかも一回自分で指を突っ込んだ時に引っ掻いてしまった傷口が開いたのか、僅かに鉄の味がした。最悪だ、と思いながらよろよろと立ち上がると、とん、と何かにぶつかった。
何かどころではなかった。ザップがそこに突っ立っていた。
「…あ、………」
何かを言おうとしたが言う気力が無かった。ザップはそのまま自分の手を適当に洗うとレオにタオルを押し付けた。「…口濯いどけ。胃液の臭いひでーぞ」
「…………ども…」
有難うございます、と言う前に目の前がふらついた。おい、というザップの声に目を瞑りたくなったが耐える。一瞬だけ目の前が真っ暗になった。はっとしたらザップが両脇の下に手を入れて、自分を支えていた。
「っぶねー…ちょ、お前もーいいわ。歩くな。ほら」
「…、……、…でも」
何がでもだよ、と呆れた声と一緒にザップに抱き上げられた。軽々とよくもまあ小柄とは言え男一人を抱えられるものだ、とその時レオは考えながら、ぐったりしてザップの胸辺りに頭を寄り掛からせる。客観的に見てそれはお姫様抱っこというものに他ならなかったのだが、そんなことを気にしていられる余裕はその時のレオに全く無かったのだ。
けして優しくはなかったが、恐らく彼なりに最低限気を使ったと思われる様子で、ソファに下ろされた。水持ってくるから寝てろ、と何度と知れない言葉が耳に入ってくる。目を瞑っていたから分からなかったが、なぜか先輩の手が、レオの額にそっと触れた。まるで熱を測る時のように。
「…………ザップさん…」
無視されるかとその時うっすら思った。水を取ってきてくれるのが先かなあ、と。大体がどんな時に於いても、ザップがレオを無視したり話をきかなかったりするのはよくあることだったから、その時もその可能性が無い訳じゃないと思っただけだ。
「…なんだよ」
けれどザップは意外にもすぐに返事をした。言いながらまたレオの枕元付近にしゃがみ込んだらしい。声がすぐ近くで聞こえた。自分の体調に気を使いながら、そっと頭だけ横に倒して、目を開ける。やはり先輩はすぐ隣に座っていた。
「…どーした」
「…………、……すんません、指とか、服…」
汚れたでしょう、と言うとザップは少し逡巡した後いーよそんなの、と普段の彼を知る者からすれば信じられないことを言った。通常、そんなことが起きたら鬼の首を取ったようにぎゃんぎゃん文句を言うような男なのだが。
元々さっきまでやりあってたから返り血ついてるだろ、とザップはそう言いながら頭を掻くと、それよりと続けた。「お前口ん中切れてるぞ。血ィ混じってた。何をどーしたら今の状況でソコ切れんだよ」
それを聞いてはあ、と小さく頷いた。頷くような会話ではなかったのに。
「…それよりですか」
そう聞き返したら、またザップは顔を顰めてそれよりだろ、とレオの言葉を復唱した。最初にそう言ったのは、ザップだったのだが、何にせよ復唱だ。
―――俺の口に指突っ込んだことより、俺の口内が傷付いてる方が。
大事なのか、と思いながらよろよろと目を向ける。怪訝な顔をしたザップがすぐ近くにいた。
「………、……ザップさん」
意味もなくそうやって名前を呼んだ。
「…あのな、だから」
いるって、とレオのそれを聞いたあと呆れたようにザップは言うと、今度はレオの両目を掌で覆った。わあ、と小さく声を上げたレオに構うことなく、ザップは口を利いた。
「オマエ置いて帰んねえよ。信用ねえなほんとに」
「………、……だ、…だってその、…」
言いながら嫌気が差した。この言い方は何だか子供みたいだ、とそう思った。幾ら何でもそれはもうとっくに通り越した年齢の、言い方だった。もう少し真面な、どうせなら格好いい言い方は無いモノだろうか。今の現状を鑑みて格好も何もないが、自分を恨めしく思いながら口を、開いた。
開いたけれど結局何を言いたかったのか分からなくなった。
先輩の手が、さっき手を洗ったせいなのか冷たくて矢鱈と気持ち良い。
「………あのなあ」
先に口を利いたのは結局ザップだった。どんな表情をしているのか、目を塞がれているからレオには見えなかった。
「…多分お前のことだろーからこういう時に吐いたりして悪いとか申し訳ないとか、そーいうこと考えてるんだろうけど」
―――ちがう。
そうじゃない、とそう思ったが口を開けなかった。ザップは恐らくレオの目を押さえているからか、そんな自分の様子に全く気が付くことなく、言葉に迷いながら話を続ける。「…さっきも言ったけど慣れてねえんだからしゃーねーだろ。別にこのまま慣れろとは言わねえけど、そのうち平気になるっつーの。嫌でも」
―――そうじゃない。
とりあえずここで寝とけよ、とザップは言うと手をレオの目からぱっと離してすたすたと歩いて行った。恐らく水を入れて来てくれるのだろう。ただ、そんなことよりレオは自己嫌悪に陥って目を瞑ったまま、今度は自分の手で目を覆った。
―――そうじゃないのに。
そう言いたかったが言えなかった。
言ったら軽蔑されそうな気がした。
恐らく、そんなことをする先輩ではないとレオも何となく思ってはいたけれど、それでも言いたくなかった。レオが”そんな風に思っている”ことがばれたくなかったのだ。
ことん、というコップをテーブルに置く音がしたが手も退けなかったし目も開けなかった。気分はさっきよりはまだマシになっていたが余り口を利きたい気分ではない。身体的にもそうだったし、精神的にも嫌だった。
「レオ。一回起こすぞ。水飲んどけ」
「…………のみたくないです…」
小さく呻くようにそう言ったが、ザップは先ほどとは違ってそれを無視した。ぐい、と背中とソファの間に手を入れられて無理矢理起こされた。視界は揺れたが先ほどのように吐き気は来なかった。少しだけ胃液の味が蘇った気がするが、恐らく気のせいだと自分に言い聞かせる。くらくらした。
「おら。飲め」
「………いいです…」
「何がいーですだよバカ。ほら飲めよ」
ぐい、とコップを押し付けられたが飲みたくなかったからいいです、と同じことをそう言った。掌に当たるコップは冷たくて気持ちが良かったが、さっきのザップの手の方が気持ち良かったな、とレオはぼんやりとそう思った。
ザップは顔を顰めて何意地張ってんだよ、と呆れたように言いながら何故か自分で水を飲んだ。「毒入ってねーぞ」別にそういうことじゃない、とレオは思いながら顔を上げる。久々に先輩と目が合った気がしたが、目が合った途端ザップは怪訝な顔になった。
「…何でオメーそんな顔してんだ」
そんな顔がどんな顔のことを言っているのか、果たしてレオにはわからなかったが。
「…二日酔いです……」
そう答えた。嫌味とも皮肉とも取れる言い回しだったことに言った後に気が付いたが、ザップはそれに全く気を悪くした様子もなく、呆れた顔のままアホかと続けた。
「んじゃ尚更水を飲め」
ほら、とコップを押し付けられる。いいです、だから何がいいんだという問答がそこから更に何度か続いた。何度目かの後に、やっとザップがあのなあと呆れたようにそう言ってまた自分で水を飲んだ。
「…オマエこれ俺からじゃなくて旦那とかスターフェイズさんとかからだったら受け取ってたべ。差別すんなよ」
「……そんなことないっすよ…」
「そんなことあるだろ」
俺は傷付いたぞ、とザップは嘯いてコップをレオの前に置くと、レオの隣に座った。ぼすんという音と共にソファが揺れる。少しぐらぐらしたが、喋っている間に気分はかなりマシになってきた。
「…………オマエさ」
なんですか、とぐらぐらした頭のまま隣を見つめる。ザップは珍しくこちらを見つめていた。灰色の目と目が合うのが嫌でレオは目線を逸らそうとしたが、ザップはそれに気が付いたのかコラ、と怒った様に言うと無理矢理レオを自分の方に向かせる。う、と小さく呻く羽目になった。何しろ乱暴だ。
「…そんっな嫌か。俺から慰められるのが」
「………え?」
思わず上擦った声を上げてしまった。ザップは顔を顰めてあのなあと今日何度となく聞いた事を言うと、また呆れたような顔になった。
「だから、さっきから目を逸らすわ話はぐらかすわで全然オメー俺の話聞いてねーじゃねーか」
幾ら温厚な俺でも怒りたくなるわ、と明らかなる嘘を言うと、やっとザップが手をレオの顎から離す。突然解放されたせいか何だか変な感覚がした。
「…いや、そういうわけじゃ…………ないんですけど…」
「んじゃどーなんだ。どーいうわけだ」
拗ねたように年上であるはずのザップはそう言うと、煙草を引っ張り出したが、喫うつもりはないらしく手で弄び始めた。別に喫ってもいいのに、とレオは思ったが言及するのも変な気がしてそれには触れなかった。
ザップは結局煙草をポケットにまたしまいこむと、立ち上がった。「寝ろ」そう言われて有無を言わせずまたソファにばたんと倒された。今度はさっきより乱暴だった。けれどレオの体調もマシになってはいたから、余り影響はない。
また枕元に先輩は座った。
別にいいのに、と思ったがなぜか言えなかった。
そう言っても恐らくザップはそのまま座っているだろうが。
「…………、………だって、あの」
「なんだよ」
「……俺、そういう理由で落ちてるわけじゃないから」
そこまで言うとザップは黙った。黙ったあと、なにが、と心底意味が分からない様子でレオに問いかけてくる。「……ザップさんが、思ってるような理由じゃない、……んで…」言いながら先輩の方を向いた。ザップは怪訝な顔をしている。また手にコップを持っていた。
「…おれ、…そんなにいい奴に見えますか」
「…………そういう言い方すんな」
似合わねえよとザップは言った。
実際、それは落ち込んでいる理由の一つではある。何でこうなのかな、とか。一々こんなに倒れてたら仕事に影響が出るどころではない、とか。皆に心配をかけるのが嫌だとか、それも理由ではある。もう自分はライブラの一員なのに、倒れてる暇はないと思う。
けれどたぶん、とレオは思う。
――――それはメインじゃないんだ。
「……なんかこう、…俺が倒れたとしても、」
「ん」
「…………あんまし、大勢に影響はねーっつーか」
「………ん?」
「…俺が」
別に努力して手に入れた力じゃないから、と目を瞑ってそう言った。当たり前だが目を瞑ったせいでザップの顔は見えなくなった。
暗闇がある。
怖くはない。
「……この……眼が、これが、……なんか俺が頑張って会得した、能力とか、そういうのだったら…なんかもっと………俺も胸張れたんだと思うんですけど…」
そういうのじゃないから、と呟いたがザップから返事はなかった。聞いてはいるんだろうと判断して、続ける。そもそも聞いていなくても構わなかった。
「…べつに欲しくもなかったこれで…人の役に立てるのは、嬉しいです。嬉しいです、けど……ミシェーラの…こととか、なんか、さっき言ったこととか考えると、……何て言えばいいのか…分かんないすけど…」
そこまで言って口を噤んだ。また気持ちの悪さがじわじわと胸の奥から迫ってくる。嫌だな、と思いながらものろのろとそっと目を開けると、ザップは呆れたような顔でこちらを見ていた。レオが目を開けるのを待っていたのかも知れない。
「…引きました」
クエスチョンマークを付けもせず、語尾も上げずにそう言ったのにザップには問いかけだと伝わったらしい。引いてねえよと先輩ははっきり言うと、溜息を吐いた。呆れられたのだろうか、とも思ったがそうでもないらしい。
「…つまりアレか。眼ェなけりゃライブラにとって全然自分に価値なしとか思ってる訳か」
「………まあ、そこまではっきりとは思ってないすけど」
そうは言ったものの、多分心の奥底ではそう思っていた。ただ、そんな風に他者からきっぱりと断言されると逆に笑えた。自棄かどうかと言われたら、そうかも知れないが、絶望するよりは笑えた方がいいなと自分では思った。
「…そーかもしんねーけどそーでもねえよ」
どっちだよ、と思ったレオの目がまたぱたんとザップの手で塞がれた。何だ一体、と怪訝に思うレオの耳に、ザップの声が聞こえた。
ライブラの人で最初に声を聞いたのはこの人だったな、とぼんやりと思い出す。
目を瞑っていると余計だが、綺麗な声だった。
「……俺は思ってねえよ。他は知らねえけど。少なくとも俺は思ってねえ」
その言葉がザップからくるのは意外だった。だから少し驚いて息をつまらせると、その様子に気が付く事もなくザップは続けた。
「…俺が思ってねえっつーことは、旦那もギルベルトさんも思ってねえ。番頭はどーだか知らねーけどそこまで鬼じゃねえだろ。姐さんは言わずもがなだろ、じゃなきゃオメーのこと心配してここまでついてもこねーし、魚類はさっきまでオメーのことでぎゃあぎゃあ煩かったぞ。犬女はどーだか知んねーけど」
アイツそう思ってる奴とは口も利かねえから、とザップは結んだ。
―――それって。
――――いや、それって。
「…………ほぼ全員じゃないすか……、…他は知らないけどって、今、」
「るせえな。パトリックとかエイブラムスのおっさんとかは知らねえよ俺だって」
言葉を遮られてそう言われた。言葉を止める時くらいもっと優しい言い方は出来ないものか、と頭の片隅で思ったが、そんなことは二の次三の次だった。だから、と先輩は言葉を選ぶようにして、口を開いた。悩んでいるのがありありと分かる口調だった。
「……そーいう言い方すんな。…オマエのその眼があろうがなかろーが、…俺は」
そこまで言ってザップは黙った。黙ったというよりは、思わず口を噤んだと言った方がいい。怪訝に思ったが目が塞がれているから彼がどんな顔をしてるのかは分からなかった。
少し沈黙が流れた。その間ザップの手はレオの目から離れなかったし、それについてレオも何も言わなかった。
そこからまた少し時間が経って、のろのろと手が除けられた。あの、とそこでレオは漸く口を開く。あんだよ、とザップの声がすぐ近くで聞こえた。目を開けるとやっぱり先輩はすぐ隣にしゃがみ込んでいた。
「…水、飲みます」
「だから言ったろーが。さっさと飲めよほら」
そう言われてのろのろと起き上がる。コップを見たら殆ど水は残っていなかった。「…水もうほぼねえっすよ」「うるせーなオメーが飲まねーからだよ」そう言って、ザップは立ち上がると、レオのことを見下ろしてどういうわけかほっとした顔になった。
大体そこから30分後、最初に戻ってきたのはツェッドとチェインだった。ただいま、と言われるまでレオはどうもソファで眠っていたらしい。というのもそこに至るまで記憶がないからだ。隣にいる誰かに寄りかかったまま寝ていたらしいが、目を開いた時には誰もいなかった。じゃあ一体自分は誰に寄りかかっていたのだろう、と怪訝に思ったが答えはたった一つしかない。けれども指摘するのも野暮な気がしたから礼は言わなかった。
さらに30分後、戻ってきたクラウスとK.K.に散々心配されたが大丈夫です大丈夫です、と何度も繰り返してそのまま報告会と事後処理の話になった。10分程しかしなかったが、ミーティングはそれで終了して散会になる。ソニックが肩にすとんと着地したところでレオ、とザップに呼ばれて、そのまま何となく一緒に帰宅した。
「………ザップさん」
外は暗い。今日の事件の影響か、殆ど対向車もいなかった。信号で止まったスクーターの前に座っている先輩の背中にそう呼びかけると、何だよとザップの返事がすぐに返ってくる。
「…ありがとーございました」
何だか照れ臭かったから軽くそう言って、ごつんとヘルメットを被っている頭を、彼の背中に押し付けた。ザップからは何も返ってこない。聞こえなかったのかな、と思ったが、直後先輩は後ろを振り向いた。
え、信号はと思う間もない。
「…アホ」
小さくそう言うとザップはおかしそうに笑って、またレオの額を小突いた。彼が前を向いた瞬間に信号が変わって、すぐにスクーターが発車する。アホって、と思いつつも何だか自分もおかしくなって、思わず笑ってまた背中に頭を押し付けた。
掌の血は、いつの間にか消えていた。
だからと言ってあの光景を、忘れたわけではなかったけれど。
ネオンサインと霧に反射している光が、きらきらと自分たちの周りを踊る様に光っていた。
結局、あの時ザップが何を続けたかったのかレオは知らない。
いつかもう少し、もう少し経ったら聞いてみようと考えては、いる。
終