変身!

2016/12/03

ぷは、と毛布から顔を出して枕元にあるスマートフォンを手に取った。「………朝だ………、」そう言いつつ画面を適当に弄って、その後またぱたんとベッドにうつ伏せになる。「…………起きないと……」それを二、三回繰り返したところで、やっとレオナルド・ウォッチはよし、と声を出した。
「起き、」
起きる、とレオは宣言するつもりだったのだ。しかしその言葉は途中で遮られてしまった。声にではなく、音にでもなく。
物理的に口が塞がれた。


もごもごと呻いて暴れているレオの背中に体重がかけられた。そのせいで余計にレオは声を出そうとしたが、口内を弄っている指がそれを許してくれない。「んん…っ、うむ、ん、」そう呻くとやっと指がずるりと抜けたので、ほっと息を吐く。
「………ちょっともー……」
何すんですか、と言いながら後ろを振り向くと、そこには先輩であるザップ・レンフロが当たり前のように寝転がっている。くあ、とまるで猫みたいな顔で欠伸をすると、ねみいと言いながらまたレオの上にぱたんと乗っかってきた。無論レオは呻く。重い。
「重いっすよザップさん。てか俺もー起きるから」
「…………まだだいじょーぶだろ」
「だめですよ。最低十分前には着いておきたいでしょ」
そう言ったレオを丸きり無視して、ザップは眠いと同じことを呟く。意味もなく自分の髪が掻き回されたのでくすぐったいとレオは顔を顰めた。いつもだったら笑っているところ、今はそんな余裕がない。何しろ遅刻はどこであっても厳禁なのだ。
「ほら早く降りて。俺バイトなんすから」
「………んー」
んじゃあと五分、と言われてレオは怪訝な顔になる。五分がなんだと言うのだ。というより、それを言うのはこういう状況だったら普通俺の方だよね、とそう思った。「?なにがあと五分?」「………五分間だけ」そこまで言われたあとにザップがやっとレオの上から退いた。身体が軽くなってほっと息を吐いたのも束の間だ。ぐいんと途端に上向きにされたのでわあとレオは声を上げた。
「な、ななっ…び、びっくりしたぁ…」
なんですかもう、とレオは言いながら目を擦った。自分も寝起きなのは間違いないので、急激に身体を動かされたら驚くのだ。「そいじゃ」「?」自分の上にいる先輩は半端に毛布を被っている。そのまま、五分間なと言いながら瞼にキスされてわわ、とレオはまた小さく声を上げる。焦った。
「…そんだけちょっといちゃついてけよ」
「…いやそーいうわけには」
いかないんですけど、と言おうとしたが無駄だった。その時は既にザップの口のせいでレオの口は、利けなくなっていたからだ。


レオってよお、というその男の声にへ、とレオは首を傾げながらそちらを見る。「めちゃくちゃ今の女に振り回されてるよな」そう言われて、自然に顔が引き攣った。
ピザ屋である。結局、あの後五分どころか十分ザップに身体を弄繰り回され、もう無理っていうか普通に遅刻するからとレオは何とか彼を振り切って、バイト先にやって来た。タイムカードを切ったのは定時の一分前で、よく間に合ったとレオは自分でそう思いながら慌ててロッカールームで制服に着替えた。配達を一通り終え、閉店時間になったので今はレオも含め店員は皆帰る支度をしている。
そこで言われたのが先ほどの一言だった。
「アレだよな?年上のめちゃくちゃ我儘な女なんだろ?」
「…………………………えーと…」
男と付き合っていますと言えるわけもなく、そして今更誰とも付き合っているわけではありません、と言える状況ではなかった。既にレオはザップにつけられた歯形もキスマークもバイト先で何度も見られているし、しかも誰かと付き合っているというのは見ていて何となくわかるらしい。確かに飲み会を途中で切り上げたり、女の子がたくさんいる店に誘われてもいやちょっとと言いながら断っていたから仕方のないこととも言えた。レオも必要以上に隠そうとしていなかった(歯形とか痕も隠してはいたのだが)。
「…まあ大体。そんなかんじっす」
そうレオがもそもそと言いながらシャツを脱ぐと、周囲からなぜか口笛の音がした。「?」怪訝な顔で振り向くと、同僚たちの一部は爆笑し、一部は口笛を吹き、一部は呆れ半分同情半分とでも言うかのような目でレオを見ている。「え?な、なに……、」クエスチョンマークを浮かべながら、慌てて背中を見ようとしたが、当然見える訳もない。ふと気が付いてロッカーを開け、扉側についている鏡に背中を映す。
「…………げっ」
背中には真っ赤な痕がこれでもかという程ついていた。「…………。」げえ、という顔をしてはっと気が付く。そのまま腹を見下ろすと当たり前のように腹にも胸にもキスマークがついていた。「…………ッ!!!」うおお、と慌ててシャツをぽいと放り投げるように置くと、いつも着ているその服を被る。くしゃくしゃの髪は更にくしゃくしゃになった。更に周囲から爆笑が聞こえる。
「いーよなぁオイ。情熱的じゃねえか」
矢鱈と声が大きな先輩はそう言ってレオのことを小突いてきたが、レオは真っ赤になって黙っていた。あ、あの野郎。絶対わざとだ今日俺がバイトあるって知っててこーいうことするんだからホントに最低だ。帰ったら蹴ってやる、と思いながらレオはピザ屋の制服から私服に着替え終わった。
「…あのー。ついでなんで聞きますけど、なんでそんで僕が振り回されてるっちゅー話になるんですか」
そう情けない顔で言いながらゴーグルを首から提げる。そりゃあ、と先輩は自分も着替えながら肩を竦めて言った。「今日もそうだけど、お前ウチ来る時大抵時間ギリじゃねーか。今の女と付き合う前はそんなことなかったろ」そうずばりと言われてレオはまたしても情けない顔をする。ぐうの音も出なかった。
「…………そ、……そー………ですよね………」
げんなりしながらロッカーに手をついて俯くと、何だよと先輩は爆笑交じりにそう言った。「いーじゃねえか。私色に染められたっちゅーやつだろ?」「……………。」レオが無言のまま、思わずずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。途端に周りから爆笑が起きたので、おいおいと横で着替えていた先輩がそう言い始める。
「やめろよ。コイツも見た目はガキだけど男なんだって」
「……………。」
そこですっくとレオは立ち上がった。いまだ顔は真っ赤なままだったが、急いでロッカーの中にあるリュックを手に取る。「…そいじゃ僕は上がります…!お疲れ様でした!」そう逃げるように言ってドアを出ると、お疲れ、とか今度女紹介しろ、とかそういう雑多な先輩や同僚たちの声を背中に受けた。じょーだんじゃねえっつの、と思いながら廊下を通り抜けて店を出て、バイクに跨った。とん、という感覚に横を向くと、ソニックが肩の上でいつもの如く大きな眼でレオを見つめている。
「………あー、だいじょーぶだいじょーぶ」
そうは言ったものの、レオは一つ大きく溜息を吐いてしまった。
ソニックが不思議そうに大きな眼を揺らしたのが、見えた。


―――まあ。
そうなんですよねと思いながらレオはアイスコーヒーを飲んでいる。「…どーしたんさレオ。…っていうか今日」ザップは?と馴染みの店”ダイアンズ・ダイナー”の看板娘、ビビアン・ヒルに言われてレオはごほごほと咳き込んでしまった。「うわ。なんだよもー」ほら、と言いながら水が入ったコップを手渡されて慌てて飲む。ふうと息を吐き出して、やっと落ち着いた。
「…なんかあたし悪いこと言った?」
「い、いやビビアンさんはなんも…ちゅーかその、なんでそこでザップさんなんすか」
そう言ってコップをカウンターに置いたレオに、きょとんとしてビビアンは首を傾げて両肘をカウンターについた。すとんとそのまま手に顎を乗せる。「だってあんたらいっつも一緒にいるじゃん。ここ来る時だってほっとんど一緒だし」「…殆どでしょ。んじゃ今日はそうじゃないん………」そこまでレオが言った時だった。ばん、という大きな音が店の入り口から聞こえる。
「いらっしゃ………あ、」
ほら、と言うビビアンの声にレオは怪訝な顔で店の入り口を見つめる。「………げ」ようと言いながらのこのことレオの横にやって来たのは、お約束のようだったがレオの先輩であるザップだった。
「おーやっぱここだったか。おめー午後の時間変更になった件聞いてんのか?返事が来ないってスターフェイズさんが言ってたぞ」
「あ、やっべ。そういえば返事してなかった」
調査中に見たから、と思いながら慌ててスマートフォンをポケットから出したレオを他所に、ザップはビビアンちゃん俺注文ー、と言いながら手を上げる。「はいはい。ご注文は?」「ミートソースとプレートワンどっちも大盛り。あと大コーク」あいよ、と言いながらビビアンが厨房に引っ込んでいく。レオは返信を打ち終わり、ふうと息を吐いてスマートフォンをポケットにしまった。
「…そっちどーでした?」
「どーもこーも。二か所目でエビ型のポンコツロボットに絡まれてクソめんどくさかったわ」
「エビ型?…………え?どうやって歩くんすかソレ」
そこかいと突っ込んで笑いながら、ザップは何でもない様子でレオの口に手を伸ばした。いつもだったらぽかんとしてしまうところ、レオは思わずそれを後ろにちょっと身体を傾けることで、避けていた。当然ザップの方がぽかんとした顔になる。いつもと反対だ。
「?…なんだよ」
「え。………あ、や、ど――――どこですか?自分で拭きますよ」
そう言いながら慌てて袖で口元を拭う。「うわ。これ使えよ」そう言いながら備え付けの紙ナプキンをザップから手渡され、やっぱり慌ててレオはそれを受け取って、口元を拭った。案の定ミートソースが口周りにはついていたらしい。紙ナプキンにはべったりと朱色のそれがくっ付いていた。
「あー……落ちました?」
「ああまあ大体……、」
ザップはそう言ったが、ちょっと考えるような顔をしてまたレオにひょいと手を伸ばしてきた。「わわっ」そう言って再度仰け反ってしまったレオを見て、ザップは変な顔になった。「………なんだよ。どーした」「え。や、…自分で取りますって」「…………。」そう言って手で適当に口を拭ったレオを益々変な顔でザップは見つめた。
「?なんだよ。どーかしたんかおめえ」
「え。な、………なにが?」
だから、と言いながらひょいとまたザップの腕がレオの方に伸びる。今度はどこなんだと慌ててレオは口の周りを指で押さえるようにして拭ったが、ザップはそれを見てちょっとおかしそうに笑った。「?」その表情に気が付いたのでレオは顔を上げる。
なぜか頭がぐしゃぐしゃと撫でられた。「わっ。わ!?ちょ、あぶな…」いつもと同じく適当なところでぱっと手が離れたのでレオは何なんすか、と言いながら頭に手を置いて顔を上げる。カウンター席だったからバランスを崩しかねないのに。
「…いや、おめえを見てたら」
触りたくなっただけだって、とザップはまたおかしそうに言って笑った。それにレオはぎくりとして固まってしまう。「……なんだよ」その顔、と言ってレオのことを見つめてきた先輩のたまに見せるその表情がレオは苦手だった。柔らかい。穏やかといっていいその表情をザップは滅多に見せることがない。付き合う前からたまに見ることがあったけれど、付き合いだしたら益々見るようになった。
「…………あー…」
もう、と意味不明なことを言ってカウンターに額をごつんとぶつけたレオの横で、あんだよオイ、という先輩の楽しそうな声がする。そして直後、お待たせー、というビビアンの声がした。
ちなみにレオの額は真っ赤だったが、それはカウンターにぶつけたせいで。
額以外も赤かったが、そこは別段カウンターにぶつけちゃいなかった。


そして翌日。
いつもよく聞くぎゅる、という擬音が聞こえたので、レオはその光景を横目で見る。「レオナルドくん。ではこれを」「あ。はい」けれどすぐ、そう返事をしてクラウス・V・ラインヘルツから書類を受け取ってぱらぱらとレオはそれを捲る。後々使うことになる会合の資料だった。
「ザップさーん。もう書類読みました?ちょっと聞きたいとこがあるんですけど」
そう言いながらとことこと先輩のもとに近づいたが、先輩は今や床と足の裏の間に挟まれて這い蹲っていた。「…………。」「ザップさんザップさん。起きて下さいって聞いてます?」そう言ってレオは彼の横にちょこんとしゃがみ込んで首を傾げた。
「おい………おめえこの状況でよくもまあそんな口が利けんなクソ…」
「?あ、チェインさんども。お疲れっす」
ザップの頭の上に――正しくは側頭部に着地しているチェイン・皇は無言でひょいと手を上げて、更に自身の体重を変化させたらしい。あだだだだという呻き声がザップから発せられた。「い、ば…っかオイこのクソアマ退けよ!!乳でけーからっていい気になってんじゃ、」直後更に床にめり込み始めたザップを見て、あのねえとレオは呆れてそう言った。
「どーせまた余計なこと言ったんでしょ。今みたいに」
「い、ってねーよバカ!あだだだだだ、俺はただ立ってただけだ!」
「…………ただ立ってただけでもさー」
不愉快な存在っているんだよね、というその声にこのアマぶっ殺す、という低いザップの声が聞こえた。レオはそのやり取りを聞いて、あ、そうなんだとちょっと顔を上げる。珍しく何もしてないのか。…今日は。
「…チェインさんチェインさん。そいじゃ今日はもう勘弁してあげてくださいよ。この人今日朝飯から食ってないから元気もないんすわ」
ね、と言ってちょっと眉を八の字にすると首を傾げる。「………それと私が今正しい行いをしてることはさあ」あんまし関係なくない?と言ったチェインに、どこが正しいんだこの暴力女、というザップの声が床からする。「…そーかもしんないんすけどね。お願いしますって」そう言って困ったように笑ったレオを見て、仕方なさそうにチェインがその場からぴょんと飛び上がる。途端にザップはがば、と起き上がった。
「てっめ犬女コラ!!美人で乳でかけりゃなにしても許されると思ってん、」
「何でそこで学習しねえんすか。また踏まれますよ」
そうレオが言っている最中にも普通にザップは一回蹴るように踏まれていってえと声を上げた。ほら、とレオは呆れて肩を竦める。毎度のことながら飽きないなあ、とそう思った。自分とザップもそうなのだから、人のことを言えないは言えないけれど。ちなみに既にチェインはその場から去っていた。
「おめーもおめーで何でもっと早よ先輩を助けようっちゅー気になんねーんだ?むしろ俺が踏まれそうになったら庇うくれーしろや」
「いやそこまで俺も聖人じゃないんで。遠慮します」
「聖人とか聖人じゃねえっつー問題じゃねーだろーがてめーコラ。俺がひでー目に遭ってていーのかよ」
そう言って首に腕をかけられた挙句ぐりぐりと側頭部を拳で突かれた。「…………。」いつもだったら文句を言う筈なのになぜかその時レオは無言になってしまい、当然ザップも怪訝に思ったらしい。ぱっと突然失せた衝撃に、レオは慌てて顔を上げた。
「あ、………そりゃあ、」
嫌だけど、と小さく言ってレオはなぜか俯いた。「…………なんだ」どーしたんだ、とザップは言って首を傾げる。ひょいと手が離されて、代わりにザップは煙草を咥えた。かちんという音の後にライターの音も続けて聞こえ、そして煙の匂いがする。
「……………、」
無言でザップを見上げる。「?」どうしたんだ、と言いたげな表情でザップはレオを見つめていて、思いの外大きな彼の目にレオの姿が映っている。「……や、あの」書類読みました、とレオはわざと話題を逸らしてそう言った。「……あ?………いや待て」俺貰ってねえよ、というザップのそれにレオはまた、先輩の顔へと視線を戻す。
なぜかその時は自然に笑えた。
本当は笑うよりも困惑していたのに。
「…んじゃ貰ってきてくださいよ。俺わかんない箇所あるから」
あとで教えてください、と言ったレオのことを一瞬だけ、ザップは変な顔で見つめたけれど。
結局オウ、と頷いてすたすたとクラウスの許へ歩いて行った。


『―――はいそれでは今回の質問はリスナー名…おーっと書いてないですねー。けれどそんなのはさしたる問題じゃあないのでこのままコーナーを進めますねー』
軽快な口調でDJが話している。街中に流れているそのラジオを聞かない日がないせいか、なんだか顔馴染みにでもなった気分だった。『――えーと、…”遂に大好きだった女性と両想いになれました。けれど一体付き合うってどうしたらいいんでしょうか?”………おっとどうもティーンズからの質問のようですねー』聞いてくれてありがとう、というその声に思わずレオはボリュームを上げてしまった。
『別に特別なことをする必要はないと思いますね。そりゃあ勿論相手のことを考えたり、思いやったりすることは大切だけど、それは大前提としてあることだからね――――』
―――特別なこと。
それはたぶん、デートだとか遊びに行ったりとか、それからキスをしたりとか―――とそこまで考えてレオはラジオのボリュームをもとに戻す。「………アホかよ」そう言ってがくりとハンドルに凭れかかり、後ろからクラクションが聞こえて慌てて顔を上げる。信号は青になっていた。

別に付き合い方を戸惑っているわけではないのだ。
というより、レオはザップと付き合っているという感覚が余りない。所謂デートと呼ばれるものもしたことがないし、というか別段したいと思ったことがない。お互い好きだと分かったからキスをしたり、セックスをしたり、それから一緒にいるようになっただけなのだ。ただ、多分そういうのを一般的に言えば付き合っているというのだろう。
「………………。」
何に戸惑っているのかと言われると、―――きっと自分自身になんだ、とレオは溜息を吐く。また信号に引っかかったのでバイクを停車させた。
顔を見るだけで一々緊張している訳じゃないし、大体そんなことしていたら生きていけない。ただふとした時にそういうことは、まるで予想もつかない形でやってくる。だからかもしれない。
「……………………………だから」
自分じゃ分かんないのかもな、と言いながら信号を見つめた。


ただいま、と言いながら自宅のドアを開けると、お帰りという返事があった。「あれ」来てたんですかとレオはちょっと驚いて部屋の中に入る。「オウ。?外で灯り見てたんじゃねーのか。何でおめえただいまっつったんだよ」そう言ったザップはだらだらとベッドの上で寝転がりながら雑誌を読んでいた。聞いた割に興味はなさげだ。
「え。…………えーと………」
挨拶は大切なことなので、と嘯いたことを言って洗面台で手洗いを済ます。やはり興味なさげにザップはふうんと返事をした。聞いているのかも怪しい。その相槌を聞いて、レオはほっとした。突っ込まれたら困るな、と思っていた。
「…ザップさん飯は?」「食った。おめーは」「俺まだっす」「あ」なんだそうなんか、とそこでやっとザップは雑誌をぱたんと閉じて伸びをすると、ベッドから降りた。
「…んじゃーどっか行くか。なんか買って来たんかそれとも」
「へ?や、べつになんも」
「じゃ」
やっぱ外行くかと言って一回ザップは欠伸をし、そしてその辺に放置してある自分の上着を着始める。たしかに時刻はちょっと遅めの夕飯時ではあったのだ。
―――けれど。
「え。ま、待って?でもさっきザップさんは」
飯食ったんでしょと言ったレオに、うんとザップはやっぱり眠そうに言った。腹が膨れたから眠くなったのかもしれない。返事も含め、そういうところはまるで子供みたいだった。「んでもおめえは食ってねーんだろ」「………………。」ぼーっと黙ってその場に立ち尽くしているレオを見て、どしたいとザップは変な顔になった。「腹減ってねーんか」「…い、いえ。腹は減ってます」そんならいいだろとザップは不思議そうに言った。
―――――だから。
こういうとこだ、とレオは思わず顔を押さえてぐるりとザップに背を向けた。「あ?なんだそりゃオイ」「………なんでもねえっす…」「なんでもねえって態度かよそれが」そう言いながらザップが近づいてきた気配がしたが、レオはその場から逃げなかった。本当は逃げたい。逃げたいし、顔を見せたくなんかなかった。つまりレオはこの後起きることの予想がとっくについていたのだ。
肩が掴まれる。引き寄せられてすぐに後ろを向かされた。
「…………………なんだよ」
どーした、と笑ってザップは言うとまた、ついこの間したみたいにレオの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。半分くらいは痛かったけれど、半分くらいはもう慣れてしまっている。慣れるどころか。
触られるのが嬉しいなとすら思ってしまっているのだ。
情けない顔を真っ赤にしているレオを見て、どうしたんだってとザップはまたおかしそうに言った。「なんだよ。何で今赤くなんだって」「……………。」俺だって知らねえよ、と脳内で返事をしながらぼすんと先輩の胸に頭をぶつけると、ザップがどーしたんだってと言いながらまたレオの頭を軽くぽんと撫でた。
「…こないだ飯食った時もそーだったけどよ。なんかあったろ」
明らかなるそれを言われて、レオは呻きたくなった。嘘を吐くのは苦手だったし、隠し事をするのは不得手だから仕方ないといえばそうなのだが、けれども隠し事をこうもすっぱりと指摘されるときまり悪い。特に。
この男相手だと余計だ。
「……………………………………………飯」
ん?とそこでザップは変な顔をしたらしい。けれどレオは俯いたままだったから分からなかった。「…外行くのめんどいからピザ取りましょ」「………そら俺はいいけどよ」飽きねえのかよ、と言ったザップに、レオは溜息を吐きたくなりつつもちゃんと答えた。
「…俺は飽きたけどザップさんは飽きないでしょ」
「……………。」
まあな、というなぜか少しだけ上擦った先輩の声を聞いて、ようやくレオは顔を上げた。


ドギモ以外のピザ食うの久々だわ、とザップは言いながらレオの口元をぐいと拭った。「わっ」「下手くそ」チーズがついてんだよ、と笑って言った先輩の顔をまたレオは情けない顔で見つめて、そらどーもとよくわからない返事をする。口を拭ってくれたお礼と言えばそうなのかもしれないけど。
「んでなんだ。おめーは最近どーしたんだよ」
「……最近俺は、」
周りの人に言われることが多くなったんすよ、とレオは言いながらぐいと自分でも親指を舐める。「なんて」「…付き合ってる女の子に振り回されてるって」「………ん?」どーいうこっちゃコラと言いながら唐突に頬が抓られた。ぎゃあ、と当然レオは呻き声を上げる。突然だけれどいつもされているのに、一回も避けられたことがない。
「いひゃ…っいへへへへへへ!はにふるんへふは!」
「おいどこのどいつだその女っつーのは。俺に惚れさせてやるから教えろ」
「ちょ、ば、ばかなほほひっへないへ、」
はにゃして、と喚いたところでやっとザップは渋々と言ったように手を放した。「…いって、ば、バカっすかあんたは。どう考えてもザップさんのことでしょ」「あ?」俺?と言いながら首を傾げてザップはピザをぽいと口に入れた。
「…どっちかっちゅーとおめえだろ。それは」
「いろいろツッコミたいですけどスルーします。…と、ともかくそんで」
なんかそれ微妙でしょ、と言ってレオもピザをひょいと手に取る。むぐむぐとそれを食べながら、確かにザップさんが言う通り俺のとこはチーズは絶品だな、と今更思った。
「微妙っつーのはどういう意味だよ」
「……なんか、…ヤ、やだなって」
「ああ?」
なんでだよ、と言うザップにレオは黙った。つまり一言でいえば―――それだ。嫌なのだ。別に振り回されるのは前からだし、影響を受けるのも構わない。けれどそれによって自分が変わるのがレオは嫌だったのだ。―――なんだか。
俺ばっかり変わるみたいで。
だから最近ザップを見る度に思っていた。この人全然変わんねえなあ。初めて会った時からずっとこんな風にクズでクズでクズでクズだったし。そうぼーっと思いながら見た後姿は、けれどひどく格好良かったのでレオは自分に溜息を吐いてしまった。そこも変わんないよな、と思ってしまったからだ。
「………なんだ」
そんなクソどーでもいいことかよ、とザップは呆れたように言うと、床に座り込んだままレオのベッドにだらんど寄りかかった。「………。」クソどーでもいいことで悪かったな、とレオは当然むっとしながら彼の横でピザを食べる。珍しく普通のペプシを頼んだのでそれも一口口にした。
ごくごくとむっとした顔でレオがそれを飲んでいるのをちらりと横目で見た先輩は、あのなあ、と呆れたまま言って、肘をベッドについてレオの方を向いた。「…そりゃおめえもそうかもしんねーけどよ。俺もだろ」「………、」ストローを口から放す。
「え?…どこが?」
何を言われているかよくわからない、という顔をしたのだろう。ザップも自分で頼んだコーラを手に取った。「おめーも変わってんだろ?んじゃ俺もなんだろ」「…?変わってないでしょ」「………てか俺はむしろ」おめえのが変わってねえと思うけど、と言いながらぐいとまた口を指で拭われた。
「にゃっ」
「………ああ」
んでも前より声はエロくなったよな、と真顔で言われてレオはごほごほと咽てしまった。何をバカな、と思いつつ耳が赤くなったことに気が付いて首を振る。いい加減に慣れたい。慣れない。
「…俺も言われたわ。スターフェイズさんに」
ザップはくさくさした様子でそう言うと、ピザを咥えたまま血でぐいんと窓を開けた。横着しないでくださいよ、と言ったレオの額はかるくこつんと小突かれる。窓の外からはいつものヘルサレムズ・ロットの喧騒が渦巻いていた。
「……なんて?」
「…………おめえが来てから」
変わったって、と言ったザップの口調はレオほどではなかったが、それでも嫌そうだった。嫌そうというより―――気まずそうな、言い難そうな、とレオは思って首を傾げる。「………そーすか?」「知らんわ俺も。しかもその後こっちから手綱が握り易くなったっつわれたしよ」「……………。」扱い易くなったという意味だろうか。とはいえレオが来たからといってザップがそうなる理由は、レオにはよくわからなかった。むしろ俺たち揃ってると大抵ケンカしてるか煩くしてるかサボってるかだし、悪化してんじゃね?とすらレオは思ってしまう。つまり改善する気がない。
「…だから別にいんじゃねーの。てか今も言ったけど」
おめえは大して変わっちゃいねえよ、と肩を竦めてザップは言った。「…最初っからそうじゃねーか」「さ、最初はもうちょっとザップさんのことクズだなあとか最低だなあとか死ねばいいのになあとか思ってましたよ」「…………。」途端に先輩の眉間に皺が寄ったので、レオはあれ?ときょとんとした顔になり、そして瞬時に気が付いた。
「あっ。…え、えへへ?ピザ美味しいですね?」
「笑ってごまかすな何がえへへだボケ」
そう言ってぺしんと頭を叩かれた。「イテ」そう呻いたレオの頭上でふんと先輩が鼻を鳴らした音がする。「クズで悪かったな。おめえも最初からクソガキで煩くて矢鱈泣いてばっかいるじゃねーか」否定はしないんだ、とレオはちょっとおかしくなってしまって顔を上げる。ザップは不貞腐れた顔でピザを食べていた。
「………だから別におめえがそこまで気にするこたねーだろ。俺もそうなんだし」
「………………はあ」
なんだよその不満げな返事は、とザップは言ってまたレオの額をぺちんと叩いた。「あた。…だ、だってなんか」俺ばっか、と言ったレオにああ?とザップは苛々した口調で言った。
「だから何がどーなっておめえばっかなんだよ。俺もそうだって言ってんだろ。おめええが事務所にいなきゃつまんねーわ夜は愛人じゃなくておめえの家にばっか泊まるわ、しかも飯はピザが去年の倍になったんだぞ?どー考えても、…………、………あ」
言い過ぎたと思ったらしい。ザップはぱっとレオから目を逸らしてむすっとした顔になりピザをぱくんと口に入れた。「………ま、ほーひうほっは」もごもごと言われたそれを聞いて、レオはぼーっと考えていた。

―――俺ばっかり。
―――――変わるみたいで。

――――――――、

「………あれ?」
違う、とその時レオは気が付いた。…そうじゃない。自分が恐れているのはそこじゃない。自分が変わることなんかじゃなかった。たしかに、ザップを好きになってから変化したことは沢山ある。バイトにギリギリで出社したりとか、自業自得だなと思っていた毎日のチェインとザップのやり取りを見て、今日みたいに庇うようになったりとか、家にザップがいるのが当たり前のようになってきたせいで無意識にただいまと呟いてしまったりとか。
口を拭われることだとか。
触られてから心臓が一気に早鐘を打ち始めることだとか。
笑ってる顔を見ると矢鱈と安心するとか。
―――――あ、
「…………………………俺ばっかり」
「あ?」
ザップの声はレオの耳に入ってこなかった。だからそのまま、まるで堰を切ったようにレオは呟いていた。「…俺ばっかりザップさんのこと好きになってて、もし、」ザップさんが俺のこと好きじゃなくなったら、と言ったそこでレオは顔を上げる。
ザップは唖然とした顔をして、しかもピザを取り落としていた。

「………………そん時俺がどーなるかわかんないのが怖いんだ」

その一言を呟いた途端に、目にも止まらぬ速さでそれがやってきた。ぎゃあと言う暇もない。べしんとレオの額にまず一発手刀が入り、額を押さえようとしたレオの腕が引っ張られた。そのせいで手が動かせなくなる。「な」何、と呟いた途端思い切り額に頭突きがやってきた。
ただしいってえと言ったのはレオではない。レオの先輩が悲鳴を上げた。
「…………、」
ぽかんとしながらザップを見つめているレオの前で、いってえと再度呻きながらザップが額を押さえて俯いている。「て、め…どんだけ石頭だよオイ」「………あ、」すいませんと言いながらザップの額にぺたんと触れたレオを、ちょっとびっくりしたようにザップは見つめ返してきた。「?」何で、とレオは不思議に思ったが―――よくよく考えれば不思議でも何もなかった。はたとレオは気が付く。なんで俺が謝ってんの?
「………………。」
ザップはレオのそれに何だか毒気を抜かれてしまったらしい。ただし仏頂面にはなった。「いい」そう言ってプイとそっぽを向かれてしまったので、レオが焦った。
「あ、や、えーと。………ん?」
何で怒ってるんですか、と言ったレオのことを今度こそザップは睨むと、もう一度レオの額にびしりと手刀をかましてきた。「いて」軽くではあったが痛いことに変わりはない。何をするんだ、という顔をしたレオにむかってザップは偉そうに、けれど不貞腐れた顔で腕を組んだ。
「…てめー今何つった。あ?言ってみろコラ」
「………………。」
これが好きな人、もとい付き合っている相手に対する態度だろうか。いや前からずっとこうだし、途端に俺に対する態度が変わったら怖いけどさぁ、とレオは思いながらそろそろと手を額から下ろした。「……その、…ザップさんが俺のこと……、……その、…す、好きじゃなくなった時、…俺が、」そう言った瞬間またばしんとレオの額に手刀が落とされたので、レオは痛い痛いと悲鳴を上げた。
「ちょ、い、痛い痛い痛いってば!ざっ…や、やめ、」
「…ってっめーはこの、ざけんなバカ!!」
「やめろってば、ちょ、い、」
いてーよ、と言っている間にもつれてばたんと床に二人で転がった。後頭部を床にぶつけてしまったせいでレオは呻き声を上げ、更に痛みと衝撃で涙が出てきた。あんまり頭の方に痛みは感じなかったので、身体の方がびっくりしてしまったのかもしれない。
「………………………ふざけんなよ」
レオの上に乗っている先輩がそう言ったのがレオの耳に入って来た。「………、」はっとして上にいる男の顔を見る。逆光で先輩の顔は影がかかっていたが、幾ら何でもレオにだってその表情は見える。室内の灯りはそれほど弱くない。
「…なんだよそれ。好きじゃなくなったらってなんだよ。……おめーさ」
俺はな、と言いながらぐいとザップがレオの頬に手を寄せた。口調の割にその手付きが優しかったので、レオは思わず息を呑んでしまった。ザップの顔が、とてもまじめだったからという理由もある。
「……お前が好きなんだよ。知ってんだろそんくれー」
「…………………、……えーと、…あ、…あー、……………、はあ…」
自信なさげに呟いたのが悪かった。先輩は眉を吊り上げると、レオの頬をぐいっと抓って来たのでレオは悲鳴を上げる。「い、」「…………好、き、な、ん、だ、よ!!」「いひゃ、ごめ、…っすいまへ、」いたい、と言った拍子にさっき出てきた涙がぼたりと頬に零れ落ちた。途端に手がぱっと離れたので、レオはほっと息を吐く。頬を抓られたせいで泣いたわけじゃなかったが、ザップはどうもそれが原因だと思ったらしかった。
仏頂面のまま、ザップはあのなあ、と低い声で言った。それを聞いて、レオははい、と慌てて神妙に返事をする。怒っているのは分かったが、なんでこんなに怒っているのか、未だにレオは理解していなかった。
「んでよ、おめーも俺が好きだろ。あ?そーだろ?」
「え?あ、はあ。そ、それはそうですけど」
「んじゃよ」
何でその先がバッドエンドなんだよ、とザップは言ってぺちんとレオの額をまた叩いた。痛い、とレオは言った後に、言われている意味を考える。―――バッドエンド。…バッドエンド?「…バッドエンド?」脳内で二回呟いたあと、一回口にもしてみる。そうだよとザップは怒った口調で言うと、今度はレオの頬を乱暴に拭った。涙が頬を伝っていたのだ。
「…おめーはアレか。俺を好きじゃなくなる予定でもあんのか」
「な、ないですよ。あるわけないでしょ」
そう言ったレオに、だろ、とザップは言った割に半分くらいほっとした顔になったからレオが戸惑った。何でそういう顔になんの?逆ならともかく、俺がザップさんを好きじゃなくなるっつーのはないと思うんだけど。だからそう言うと、ザップは途端に真顔で黙ってしまった。
「?」
どうしたんだ、という意味でレオが首を傾げると、ひょいとザップはレオの上から退いた。「……………。」黙ってそのまま座り込むとレオに背を向けたので、レオはわけがわからず、けれど起き上がった。ぼさぼさの髪を整えたあと、あのうと言いながら、ひょいと何の気なしに背中越しにザップの肩に顎を乗せた。
「おわっ!?」
「わっ。……ん?」
何で顔が赤いんですか、と言ってレオはひょいとザップの肩から顔を除けた。「ば、…そ、そりゃ…っ……てかよ、そーだよ。それだよバカ」「は?」さっきから何で俺はこんなに罵られてるんだ、と思いながらレオは益々戸惑った。さっきから会話がかみ合わないこと甚だしい。
「おめーがそうなら俺もそーに決まってんじゃねーか。……俺が、」
お前を好きじゃなくなるわけねえだろ、と言ってザップはプイとまたレオに背を向けた。「……………………。」拗ねているのか怒っているのかはレオにはわからなかった。だから黙ってそのまま、もう一回先輩の背中越しに、今度はレオはそっと抱き着いた。
「っ、」
レオから今までこういったことをしたことは、全くと言っていいほどなかったせいかもしれない。ザップが息を呑んだ音が聞こえた。「…………ほんとに?」そう言った自分の声は、口調のせいもあって子供っぽく聞こえた。
「…マジで?」
だからそう言い直してみたものの、なんだかこれはこれで変な気もする、とレオは思いながらぎゅっと目を瞑った。あんまり意味はない。ザップからは何も返ってこなかったので、レオも何となく、そのまま黙っていた。
「…………………………………………信頼ねーよな、俺は」
そう、小さく呟いた声が聞こえたのはどのくらいあとだったのだろう。時間にして一分も経っていなかったようにも思えたし、もしかして十分くらいは経過していたかもしれない。けれどその声を聞いて、レオはぱっと目を開けて、それからそっとザップから離れた。
「…………俺のせいだけどよ」
そう言った先輩の声は苦笑と、それから拗ねた声交じりだった。はあ、と小さく溜息を吐いたあとにザップがレオの方を振り返った。そのままぱっと手を広げたので、レオはきょとんとする。
「なんすか」
「何がなんすかだボケ。早よ来い」
そう言われてやっとその意図を察した。いつもだったら嫌ですと言うところだったが、レオにも空気は読める―――というよりもそれが特技だった。「…………。」けど何で今なんだ、と思いながらのろのろとザップに近づく。そしてそのままぼすんと先輩に寄りかかるようにして抱き着いた。そっと背中に腕が回されて、漸くレオは息を吐く。緊張した。いや、今もしてはいるけれど。

「…マジに決まってんだろ。バーカ」

それを聞いて。
「…………………もーちょい優しく言えないんですか」
そう言った自分の声は拗ねているかと思いきや、半ば以上照れていたから、レオはちょっと驚いた。それはどうやらザップも予想外だったらしく、少しだけ二人の間に沈黙が起きる。―――それから。
「…で、…あのー。こっから俺はどうしたら」
「………………………おし。ヤるか」
「ヤらねえよ!!」
思わずそう言って真っ赤になってしまったレオを見て、ザップはおかしそうに笑うとぐしゃぐしゃといつもみたいにレオの頭を撫でた。いつも乱暴なそれに文句を言うのに、なぜかレオはその日文句を言うことができず、真っ赤なまま黙りこくってしまった。


翌朝になってから、もごもごとザップの腕から逃げ出そうともがいているレオのことを、昨日と同様ザップは後ろからぎゅうと抱き締めてきたから物凄く困った。「…ザップさん」俺バイトなんですけど、と言った後に寝息が聞こえてきて、レオはあーあと溜息を吐く。割になんだか自分の顔がにやけていたから呆れてしまった。
「…ザップさーん。起きてください」
俺遅刻しちゃいますよ、と言った声は明らかに照れていたので、自分自身ですら思った。―――ねえそれってさ、もしかしてさ。………満更でも。
「…なかったり……」
しちゃうんですよねこれが、と思いながらその日もレオはギリギリでバイト先に滑り込んでタイムカードを一分前に押すことになり、更に着替え中にまたしても先輩や同僚にからかわれる羽目になるのだが。

「…ヒーローの変身には代償がつきものですからね」
「どこにヒーローがいんだよ」

そう言ったザップの不思議そうな表情を見て、さあ、とレオは適当なことを言って笑った。