その隙間に落ちる
2016/02/10
ドアの音が聞こえた。ぱっと顔を上げて音の方向を見ると、見慣れない格好の先輩が手を上げたのが見える。「…お帰りなさい」いつもより神妙な声色でそう言ったレオのことを、ちょっとだけ先輩はおかしそうに、見つめた。
外はいつもの霧の街だった。はたしてこの街に雪だとか雨だとかが降るのかどうか、レオナルド・ウォッチは全く知らない。いつも晴れてはいるが、霧が濃くなれば物理的に空は見えにくくなる。先輩の肩が濡れているのを見て、外界は雨だったのかとレオは知った。雨も暫く見ていない。そんな気がした。
「あー濡れた濡れた。最悪だ。傘っちゅーのは何で大昔から進歩しねーんだ」
「大昔から生きてた訳じゃないでしょ」
そう言った後に、あ、と変な顔をしたレオをきょとんとした様子で先輩は見つめた。「…何だその顔」どうした、と言って首を傾げるザップ・レンフロはいつもと全く遜色ないように、レオには見えた。
今日は組織の人間の葬儀だった。
レオは出席していない。ヘルサレムズ・ロットではなく外界で命を落としたらしいその構成員は、そのまま外界で葬儀を行うことになったらしい。だから今日は僕もクラウスも外に行く、と言っていたスティーブン・A・スターフェイズの言葉を思い出しながら、レオはタオルをザップに押し付けるように渡した。「…肩拭いて下さい」そう言った後俯いたレオのことを、ザップはまたきょとんとして見下ろすと、サンキュと一言だけそう言った。
上司であるスティーブンと、それから組織の長であるクラウス・V・ラインヘルツが出かけるのであれば、勿論執事であるギルベルト・F・アルトシュタインも供として外界に出かけることになる。するとその日は三人いないのか、とレオは話を聞きながら思った。分かりました、と頷いたその時に。
隣でそれを黙って聞いていたザップが珍しく会話に口を挟んだ。
―――俺も行っていいすか。それ。
その言葉に呆気にとられたような、びっくりした顔をしたのはレオだけではない。午後には帰るから、とレオに言っていたスティーブンも驚いた様子で口を閉じた。それを見て、何ですかとザップは顔を顰めてそう言うと、葬式終わったらすぐ帰るからいいでしょう、と食い下がってスティーブンの顔を見つめた。
―――…何かあったらすぐこっちに戻ってこれるか?
そう言ったスティーブンに苦笑して、そりゃアンタも旦那もでしょ、とザップは返事をした。それもそうだ、とやっとそこでスティーブンは肩を竦めて応じるとわかったと端的に返事をした。待ち合わせ場所に遅刻したら置いてくぞ、と彼が言うのを最後にその話はそこで、終わった。
いつも白い服を着ている割に、ザップは喪服が似合った。けれど似合って喜べるようなものじゃなかったし、つまりこの人はスーツが似合うのだと気が付いてレオは結局それを口にしなかった。黙っていれば俳優と言えるくらいは格好良いとレオは思っている。けれど一生言うつもりはない。幾ら何でもそれは、贔屓目に過ぎるのだ。
何となく霧がかった外を見つめる。事務所の部屋には自分とザップしかいなかった。長椅子に座りながら見た時計は午後二時を示している。今日はいつもより霧が濃いせいなのか、陽の光は見えなかった。
「…雨でした?外」
「あ?ああ、うん…そーだって。雨だった。最悪だぜ墓穴の中まで水浸しで」
ありゃすぐ腐るな、とザップは何でもないことのようにそう言った。そんな言い方をすることはないと思う、とレオは言いたかったが、そう言うのも何だかお門違いな気がする。結局その人は死んでしまったのだから。
燃やされようが腐ろうが埋められようが、もうその人の心はそこに無いのだ。
心と言うものがどこにあるかは、レオだって知らないけれど。
たぶん、墓の中にはないだろう。
隣に座るザップに視線を戻す。黒いネクタイを辟易したように解きながら、ザップはタオルを投げるようにレオに寄越してきた。「イテ」小さくそう呻いたレオをおかしそうに見ながら、なぜかザップはレオの頭をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でた。いてて、とレオは更に呻き声を上げた。「や、止めてくださいよ。髪が」「陰毛なんだからどっちにしろ一緒だろ」「いや、でも今日なんか霧が濃いからいつもより湿…ってオイ。その呼び方止めろって言ってるじゃないすか」顔を顰めたレオのことを見下ろしながら、ザップはまた、少しだけおかしそうに笑った。
余り見慣れない笑い方だった。
疲れているのかな、とレオはそれを見ながらそう思った。
行って帰ってで四時間程度しか経っていないのだから、押っ取り刀でこちらに戻って来たのだろう。クラウスとスティーブンはまだ戻って来ていない。ギルベルトもそうだし、三人は立場上色々と他にやる事があるらしい。ザップは本当に式に参加してすぐ帰って来たのだろう。何しろいつもいる構成員が三人もいないのだから、今血界の眷属が現れたら大変なことになる。一応そこここに協力員や構成員は待機しているとは言え、常駐するメンバーは一人でも多い方がいい。
「……今日の方は」
ん、とザップがレオの頭から手を離す。眼が合った途端に少したじろいだ。聞いていいものかどうか、一瞬だけ頭の中で逡巡する。けれど結局レオは口を開いた。
「…仲がいい人だったんですか?」
「……いや」
知らねえ奴、とザップは淡々とそう言って、ソファの背凭れに寄りかかった。「し、知らない?」思わずそう聞き返したレオにオウ、とザップは頷いた。
スティーブンの話に口を挟んできた下りから、てっきり知り合いなのかと思っていた。何しろザップのあの時の口調は、いつもよりも差し迫っていたからだ。絶対に出席したい、という何かの。
意思が見えたから。
「…知ら…え、あの。じゃあなんで」
思わずそう言った後、慌てた。別段知らない人の葬儀に出てはならない訳ではないし、知らないとは言えライブラの構成員であったことは変わりないのだ。無神経だった、と泡を食ったレオのことを横目で見ながら、ザップは何慌ててんだよと変な顔をした。
「あのなー、別にいーよ気ー使わんで。めんどくせーだろそーいうの。見りゃ分かんだろ。俺が悲しみに打ちひしがれてるように見えるか?」
「……それは見えないですけど」
でも、と続けたレオのことを、ザップは今度は目だけではなく顔を傾けて見つめた。訝しげな視線を受けながら、言葉を選びつつレオは口を開く。
「…なんか、そういう……ザップさんそういうの、顔に出さないでしょ。だから」
「アホ。悲しかったら俺だってもー少し悲しそうにするわ」
呆れたようにそう言って、またザップは視線をレオから離して今度は天井を見上げた。そう言えば煙草を喫ってない、とレオは気が付く。大抵事務所で待機する時、ザップは煙草を口に咥えている。何故か今日はその素振りすら見せなかった。
「…知らねー奴だけど、一回だけ一緒に仕事したんだよ。二年前くれーに」
「え」
天井を見上げたまま、ザップはそう言って一度言葉を切った。続きを聞いていいものか、それともこのまま黙っていた方がいいのか判断がつかず、レオは結局黙ったままという守りの体勢に入った。よく分からない。レオだって別に近親者や知人を亡くしたことが無いわけじゃない。腫れ物に触るように扱われる居心地の悪さだって重々分かっている。けれども、だからと言って全然気を使わないのも嫌だったし、しかもザップに対してだったから、どうしていいのかレオには分からなかった。
レオにとってこの先輩はどうにも度し難いのだ。量り難い。何を考えているのか分かり易い癖に、変なところで好意を隠すし、かと言って物凄く恩着せがましいこともある。だから、付き合ってから大体三か月くらい経つけれど、色々なところで戸惑うことが多い。怪訝な顔をしてから、何だその顔、とザップに言われるのはザラだった。
ただし分かっていることもある。
多分この人は俺のことが物凄く大事なんだろうな、というそれだ。
恐らくそう言ったらそんなわけねーだろバカ、と否定されるに決まっているが、多分そうだ、とレオは思っている。多分どころか絶対、そうだ。実際のところそれは、付き合い始める前からそうだった。その上ザップのそれはレオに対してだけじゃない。例えばクラウスだって、スティーブンだってギルベルトだって、同僚のチェイン・皇だってツェッド・オブライエンだって、はたまたK.K.やドグ・ハマー、エイブラムス・T・ブリッツ、武器屋のパトリックやニーカ、その他沢山いるライブラの構成員全員に対して、ザップは”そう”なのだ。大事にしている。本人どころか多分同じく構成員にそれを言ったところで否定されるだろうが、レオは勝手にそうだと確信している。口にも態度にも全然出すことがないけれど。
――この人って仲間を大事にする人なんだ。
付き合い始めたら、益々大事にされるようになった。別に他のメンバーに対してその気持ちが薄くなった訳ではない。ただ単にレオが特別になっただけで、他のメンバーだって前と変わらず大事にしている。そうだとレオは思っている。やっぱり言ったら否定されるだろうし、最悪怒られかねないからレオは今後も絶対言うつもりはなかった。
別段、他の構成員が仲間を大切にしていないわけではない。ただ、レオはザップがそういう人間であると知った時ちょっと意外だと思ったのだ。勝手な話だが、レオは彼のことをもう少しシビアな方だと思っていた。もう少し、現実派かと思っていたのだ。そんなことは、結果的に全然無かった。照れ屋で意地っ張りで面倒臭く、その上全然素直じゃないし分かり難いこの男は、レオが思っていた以上に優しかったし、他人に対して結構気持ちを寄せる方だった。ただ、それを顔にも態度にも殆ど出さない。その上他の色々な箇所で破綻しているせいで、余計にそれは分かり難くなっている。
そういうところが好きなのかと言われたら、それは違うとレオは思った。
ザップが優しかろうが性格が悪かろうが、そういう理由で好きになったわけではない。じゃあ何故だと言われても困るが、ともかくその理由は違う。どこが好きなんだと言われたら答えることは出来るけれど、それは好きな理由にならない。その命題に対して逆は成立しないわけだ、とふざけたことをレオは思った。
上手く言えない。
それは好きな理由の一部にはなるけれど、理由にはならない。変な言い方だった。けれどそうとしか言いようがない。何だか分からない。ただ単に。
一緒にいる間に好きになってしまったのだからレオにもよく分からない。
好きだからと言って全部を知っている訳でもないし、それは勿論ザップにだって言える。レオのことを一から百までザップが知っている訳ではない。だから。
だからたまにレオも戸惑うのだ。たまに―――あの時、葬儀に自分も出席したいと言った時のような。
レオが知らない顔を見せる。
そんな時だ。
結局レオは黙っていたが、ザップはそれを気にもしていないのか、肩を竦めて話を続けた。「…まあ、そん時な。仕事してる時俺が一瞬な。一瞬。マジで一瞬だぞ。ちょっとミスったんだよ」
はあ、とレオは言いながらちょっとだけ呆れる。そこは格好を付けるところではない、と思った。
「…そんなに強調すると余計気になりますよ」
そう言うと、うるせえとザップは悪態を吐いてレオの額を見もせずに手で小突いた。軽くだったせいで痛みは感じないが、ザップの手が思っていたよりも冷たくてレオはぎょっとした。どうも外の雨は思っていたより冷たかったらしい。
「ちょ、手、めちゃくちゃ冷たいじゃないすか。大丈夫ですか」
「あ?…そーか?」
自分だとよくわかんね、と呑気なことを言っているザップの手に触ると、やっぱり物凄く冷たくてレオは慌てた。「わわ。外寒かったんでしょ。コート着てかなかったんですか?」「持ってねーし」「借りて下さいよ。このスーツだってレンタルでしょ」あんなさみーと思ってなかったんだよ、と言ったザップの手を掴んだまま、レオは顔を上げる。
よくよく見れば、先輩の髪も少し濡れている。風邪を引く、と顔を顰めてレオはさっき投げられたタオルを手に取ってザップの頭に被せた。「うお」びっくりしたような声が上がったが、それを無視して片手で彼の頭を拭うようにぐしゃぐしゃとタオルを押し付けた。「わわわわ。バカいてーよオイ」「濡れてるんですよ」風邪引くでしょ、と言いながらそこで掴んでいた手を離そうとする。両手の方が拭き易い。
けれど手を離した途端、ザップが焦った様にレオの手を掴み直した。冷たい手に思わずひえ、と小さく声を上げる。
「…あ」
悪い、と珍しくそこでザップは決まり悪そうにそうレオに詫びた。唖然とした。そんなことで謝られるとは思ってもみなかったせいだ。「…ど、どうしたんですか。大丈夫ですよ別に」冷たかっただけですから、と何となく焦ってレオはそう、弁明した。本当にそうだっただけで、嫌な訳ではない。そう言いたかった。
「…や、……うん…」
どうにも要領を得ない返答だった。「…あの、寒くないすか」そうレオが言うと、ちょっとだけな、とザップは肩を竦めてそう言った。
手は掴まれたままだった。
ザップはじっとレオのことを見つめていたが、そんでな、とタオルを被ったままさっきまでしていた話を再開した。「あ。ハイ。すんません腰折って」そう言ったレオのことをまた見つめながら、ザップは口を開く。
「…んでまあ、今日死んだ奴が」
「そ、そういう言い方は無いでしょ」
「いいんだよ言い方なんざどーでも。…そういうので決まるもんじゃねーだろ」
何が決まるのかレオは聞かなかった。哀悼とか昔年の思いとか、悼むことだとか、そういう色々な何かだと勝手に思った。確かにそんな言い方一つより、もっと大事なことは別の場所にある。
「…そいつがまあ、俺のこと庇ったんだよ。庇ったっちゅーか、撃ち返したっつーんか。跳ね返したでも何でもいーけど。庇われたけどソイツも怪我した訳でも何でもねーんだ。結果的に俺もソイツも無傷で、眷属は旦那がその五時間後ぐれーに封じた」
「…………。」
黙っているレオを気にせず、だからなとザップはそこで気まずそうに眼をレオから逸らした。「…俺はそいつに一つ貸しがあったんだよ。そんなんこないだ名前聞くまで全然忘れてたし、つーか名前も殆ど憶えてなかったんだけど」カオは覚えてたからな、とザップは言ってふうと息を一つ吐いた。
「……あっちはどーだか知んねーけど。俺は覚えてたし、上に貸しも返せてねーしってことで」
だから葬式なんざ気が重い式典に参加してやったんだよ、とザップは一気に言って疲れたようにまたレオの方を見つめた。「…そんだけだ。だから別にオマエがそんな気にすることじゃねえ。俺も顔は覚えてたけど名前はぶっちゃけ曖昧だったし、そん時の一回しか会ってねーし、任務の時だって殆ど話してねーから」悲しいかって聞かれると微妙だ、と複雑そうにザップは言った。
「…オメーは怒るかもしんねーけどさ」
そう前置きされてレオは少し身構える。わざわざザップがそんなことを言うのだから余程のことかと思ったのだ。それを見ながら、先輩は濡れた髪に被さっているタオルを引っ張りながら、言った。
「ああいう…葬式とかって何かイミあんのかな。常々思ってたけど俺は今日改めて思ったわ」
「……え」
思っていたこととは違う方向からの問いかけが来て、レオはきょとんとした。「…葬儀の…意味ですか?」「オウ。…なんかさ、例えば俺が死んだとするだろ」そう言われて顔を顰めたレオのことを、ザップは一瞬呆気に取られた様子で見つめると、直後爆笑し始めた。そこは笑うところではない、とレオは益々顔を顰める。
「…、っ、ば、バカかおま…だから例えばって言ってんじゃねーか…!んっだよその顔……」
ウケる、と笑っている先輩の腕をぺしんと軽くはたいて、笑い事じゃないすよとレオはむっとしたまま言った。「喪服着てする話じゃありません」――本当に冗談じゃなかった。レオも、ザップも、ライブラの構成員は本当に死と隣り合わせの仕事に他ならなかったから、特にこんな日には、それは冗談になり得ないのだ。
「…死なねえよバカ。例えばって言ったろ」
「……たとえでも」
俺は聞きたくないですよ、と思わず暗い声で言ったレオのことを、ザップは黙って見つめる。その後結局また頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。今度は文句を言わなかった。
「…俺は死んだらさー、そーいう…葬式とかあんまして欲しくねーわけ。嫌じゃね?死んだ後身体他人に弄られてその上土の中埋められんの」
「……考えたこともないです」
「…だからさー……オイ。レオ。怒んなよ」
ちょっと間が空いたあと、またザップはそうおかしそうに言って笑った。頬に手がそっと寄せられて額がぶつけられた。だから笑い事じゃない、とレオは益々顔を顰めて俯いた。隣には、今は向かい合っているから前かもしれないが――ともかく、いつもと変わらない先輩がそこには座っている。ちゃんと。
「……生きてるからいーじゃねーか。今」
そう言ってちょっとだけ顔を傾けて笑った先輩の顔を見て、何となくレオはザップに両手を伸ばした。きょとんとしたザップは、何だどーした、と言いつつもそのままレオの手を引っ張って抱き寄せる。髪から雫が一滴落ちて、レオの頬に当たった。冷たい。
さっきレオが触った時冷たかったザップの手は、だいぶ熱を取り戻していた。
「…分かってますよ。けど、なんか………俺よりも、」
そういうところに近いのはアンタでしょ、と言ったレオに対して、少しザップは考えるように黙った。「…そーか?オメーじゃね?戦闘力からして」それはレオの戦闘力がほぼゼロに近いという意味に他ならなかったが、怒りが湧く筈も無かった。事実だし、ザップの口調には悪意も揶揄も含まれていなかったからだ。
「…だからですよ」
「あ?」
「……たとえばですけどね」
なんだよお前もか、とザップはなぜかそこで嬉しそうに笑った。今一ツボが分からない、と思いつつレオはのろのろと顔を上げる。ザップの顔がすぐ近くにあった。
「…たとえば俺がギリギリ、死にそうな感じになったとして、近くにザップさんがいたら絶対俺のこと庇うでしょ」
「はあ?アホか。しねーよバカ。勝手に何とか自分でどーにかしろ」
「…………いーすけどね」
口だけでしょ、と拗ねたように言って益々抱き付いたレオを困惑したようにザップは抱き止めながら、しねえってと同じ事を言った。「………。」嘘ばっかりだ、と思いながら目を瞑った。…そんなのぜったい。
嘘に決まってる。
――たぶんこの人は命をかけられるくらいは俺のことが好きだ。
それが分かってから怖くなった。死ねない。俺が死んだらこの人も死ぬかも知れない。大袈裟な言い方だ。けれど、大袈裟じゃないかも知れない。元々死ねないのは妹のことがあるからそうだったが、益々そうなった。こんな。
こんな人を残して死ねるわけがない。
もっと怖いのはそれをザップが認識していないことだ。自分のことを、彼は見縊っている。そんな人間じゃないと勝手に決めつけている。…そんな。
自分のことを優しい人間じゃないと思っている。
レオにはそれが怖い。それは色々な意味で致命的なのだ。
「………そんな、…そんな大事にしなくていいんすよ。別に。…俺だってそんな簡単に死ぬわけじゃないんだから」
「…別に俺はオメーをそんな大事大事にしてるつもりはねーんだけどな」
レオからすればそーなのか、と言われてちょっと黙った。肯定しても否定しても余りいい結果を招くとは思えなかったからだ。「……なんか、…何つーんすかね。…俺に」
あんまり置いてかないで下さい、と言ったレオをザップは変な顔で見つめた。
「…?文法おかしくね?それ言うなら、俺”を”じゃね?」
何でそこで”に”なんだよと言ったザップに、レオは神妙な顔で続けた。「…それでいいんすよ。…あんまり俺にそういう、何つうんすか?ええと…その、心とか?…わかんないけど色々、置いていくと辛いでしょ」「…辛いって」誰が、と怪訝な顔をしたザップに、そりゃザップさんがですよ、とレオは当然と思いながら言った。
「そりゃ俺は嬉しいけど、…その、…だから………俺が」
万が一死んだときに、と一気に言った瞬間に思ってもみないことが起きた。べしん、と思いきり頭を殴られたのだ。「い、」呻き声を上げた次に身体ががば、と引き剥がされて頬を思い切り抓られた。
「いひゃひゃひゃひゃひゃ!い、いってえ!やめ、やめやめ…っいひゃい!」
「……おーよく動くなテメーの口は。ホンット無駄な事ばっか言いやがって」
直後手がぱっと離されて頬の痛みは楽になった。けれど痛いことに変わりはない。いってえ、と小さく呻きながら頬を押さえる。じんじんした。
「じ、自分だって俺が死んだらとか言った癖に。何で今俺に暴力を」
「俺とお前じゃ意味が違う」
そう言ってプイとそっぽを向いたザップのことを恨めしげに見つめた。子供か。自分はよくて他人は駄目な子供か。意味同じだって。頬は微妙に熱を持った痛みに襲われているし、頭も結構強く叩かれたから地味に痛い。
「…オマエは死なない」
「い、いやそれは。そんなこと無いでしょ」
「るせえ」
死なねえっつったら死なねえんだよ、とザップはまた子供みたいにそう言ってもう一度レオの方に手を伸ばした。またぶたれる、と身構えたレオの方に伸ばされた手は、予想外にもレオの肩を引っ張ってきた。ありゃ、と思った直後もう一回抱き締められた。ぎゅうと不安げに抱きしめられた後、背中を撫でられて呆気に取られる。「…少なくとも」
俺の近くじゃ死なねえよ、と思いの外暗い声で言われて焦った。そんな事を言わせるつもりも、ましてやそんな声を出させるつもりもなかった。ヤバイ、と慌ててばたばたとザップの広い背中を叩くと何だよという嫌そうな声でザップは身体をちょっと離した。
「空気読めよ。完全にこの後キスして俺に愛してますって言うとこだろ」
「すげーブーメランだなオイ。…もー、ザップさんこそ空気読んで下さいよ…」
呆れてそう言ったあと、ぺちんと先輩の頬を軽く叩くとザップも呆気に取られたような顔になった。「…何だ。DVか」「これがDVだったら俺は毎日家裁に通います」そう言い合った後、そんな顔しないで下さいよとレオは困ってそう言った。実際のところザップの表情は普通だったが、眼が少しだけ揺らいでいた。不安げな何かが目の奥にあるのが分かったから、レオは更に焦る。だから、違う。そんな顔をさせたい訳じゃない。
――そういう訳じゃない。
「…あの、ええと。不安にさせたなら謝ります。すいません。そんなつもりは俺にありませんでした」
「……………………………。」
ザップは顔をむっとさせた後、プイとそっぽを向いた。なぜこう子供っぽいことばかり、と思いつつすいませんってば、と再度言ったレオに視線を戻してザップは黙った。その後またしてもぐしゃぐしゃと頭を撫でられたが、今度は最初と違って余り痛くなかった。
「……なんかこー、アレか。やっぱ暗くなるわな。こーいう服着てんじゃ」
「え」
喪服、とザップは肩を竦めてそう言うとばさばさとスーツを脱ぎ始めた。「つか俺スーツ好きじゃねえし。着替える」「え?今?ここで?チェインさん来たらどーすんですか」「知らん」どうでもいい、と言わんばかりにワイシャツを脱ぎ始めたので、慌ててレオは預かっていたザップの服を持ってくるべく隣室に行く。いつもこうだ、と思いつつも服を手に取る。見慣れた先輩の服からは嗅ぎ慣れた煙草の匂いがした。それに矢鱈と安心しつつ部屋に戻る。ザップが一つくしゃみをしたのを見て、ほらやっぱりとレオは顔を顰めた。風邪を引く。
「だから言ったじゃないすか。風邪引くって」
「いーから寄越せ」
服を手渡してから、脱ぎ捨てられたスーツとワイシャツ、それからベルトなんかを一式片付ける。ハンガーにかけないと皺になるな、と思いながら床に落とされていたそれらからぱたぱたと埃を払った。レンタル品の割に扱いが雑だ。
いつもの格好になった先輩を見たらやっぱりほっとした。見慣れた格好の方が落ち着く。喪服も似合ってはいたが、こちらの方がレオは好きだ。
ハンガーにスーツを引っ掛けてこようとした時だ。ぐいっと思いきり腕が引っ張られてわあと声を上げる。「な、」何すかと言う前に無理矢理長椅子に座らせられて、もう一度抱き締められた。「…………、……。」声が出ない。びっくりしたというのもあるが、こんなに短時間で何度も彼が自分を抱き締めることなんかなかったからだ。腰に回された腕が不安げに動くのに気が付いて、ちょっとだけ困った。
――――やっぱり。
さっき自分が言った件が尾を引いているのだろうか。だとしたら嫌だな、と思ったレオのことを抱き締めながら、ザップが口を開いた。「…死ぬとか死なねえとかさ」けれどその声は普通だった。いつもと同じ、ザップの声だった。
「…めんどくせーじゃん。なんか、そんな。先のこと考えて生きるより」
レオも俺もここにいんだからさ、とザップは続けた。さっきも似たようなことを言われたな、と思いつつ思わずレオは唾を飲み込む。「…だからさ」
死ぬとか言うなよ、とザップは言うとレオの背中をぽんと軽く叩いた。
それはこっちの台詞だとレオは言いたくなる。自分だって言った癖に。
…面倒臭いとザップが言う事は、大抵嫌なことだ。したくないこと。やりたくないこと。見たくないこと。考えたく―――ないこと。それを避けて生きるのは多分褒められたことではない。ないけど、けれど別段それは悪い事ではない。考えなくていいのなら、考えない方がいい。別にそんなことしてもしなくても、結局それは平等なのだから。平等に誰にでも訪れるものなのだから。
「…大体、オマエは死ぬよりつれーこと」
もうあったろ、と言ったザップは少し躊躇ったようだ。その点を突かれるのは、初めて会った時以来だとレオは気が付いた。死ぬよりもつらいこと。
―――ミシェーラ。
妹の名前を呼んだが当然返事は誰もしない。脳内ので呼んだのだから当然だ。口に出したところで、今ここに彼女はいないのだから、やっぱり返事なんかある訳ないけれど。
「……、……。」
黙ってのろのろとザップのことを見上げたレオのことを、ちょっとだけザップは首を傾げて見つめた。「…悪い」「……や」それは別にいいんですけど、とレオはやっぱりのろのろと返事をした。妹の件をザップと話したことは殆ど無かった。レオは構わなかったけれど、ザップはそれに殆ど触れようとしたことがない。多分、彼なりに気を使っているとレオだって感付いたから、敢えてこちらからも言うことはなかった。
「…それがでも、何なんですか。そりゃ、…それは辛いし、てゆか今も辛いけど」
「オウ。だからだって。…だからオメーはもう少し軽く考えろ。死んだらどーするとか死んだときとか、そんなこと考えるより」
妹ちゃんのこととか考えて生きろよ、とザップは言った。「妹ちゃんにガキが生まれたら名前どーするかとか、あとはあー、その前に結婚式か。後は給料の使い道とか、ビビアンちゃんの店で次何食うかとか、それから」
俺といちゃつくこととか、と続けられてぽかんとした。何だその顔は、とザップはむっとしたように言うとぺたぺたとレオの頬を触った。「…今そういう流れでした?話」「流れなんざ知るかボケ。どーでもいいっつの」そう肩を竦めてザップは言うと、だからオメーもさ、と呆れた様子で言った。
「…そやっていっつも先のことばっか考えなくていいって。ちったー黙って俺に愛されてりゃいいだろ」
思わず絶句したレオのことを一瞬だけ気まずそうにザップは見つめて、そこはスルーしろよと照れたように言うとプイとまたそっぽを向いた。どうもレオがこういうカオをするとは思っていなかったらしい。なにそれと思いながらじっとザップのことを見上げていると、根負けしたようにザップは視線をレオに戻した。顔が地味に赤いことに気が付いて、レオははっとした。あ、あれ?もしかして。
――もしかして今俺も顔が赤いんじゃね?
「…………………あ、あああ、あの。く、くら…クラウスさんたち帰ってくる、まえに、な、なんか仕事、してます?」
「…え?あ、あー、オウ。そ、そーだな。そーすっか。なんかあんだろ事務」
こくこくとお互いに高速で頷き合った後、何となく顔を見合わせて黙った。ザップの気まずそうな顔を見ながら、レオはさっきのことを思いだした。―――空気。
「…あの、空気」
「あ?」
読みましたよ、と言ってぐいと先輩の襟元を引っ張る。一瞬びっくりしたようにザップの灰色の目が見開かれた後、おかしそうな顔がレオの目に入った。
唇が離れたあと、愛してますとは流石に言えなかった。大体、そんな言葉は自分たちに似合わないのだ。キャラじゃない。だから言わないし言えない。
ただ、言えなかった代わりに先輩にまた抱き付くと、今度はザップは嬉しそうに笑ったらしい。髪はもう濡れてなかったし、触れた肌は温かくてレオはやっと安心した。
だからたぶん、本当の安寧はここにある。こうやって一々触らないとレオにはまだ分からない。触らなくても分かる様になるには、もう少し時間が要る。
ザップの肩越しにふと、窓の外を見る。いつもと同じ霧の街が見えた。
「…あの、ザップさん」
「ん?」
何だ、と言いながらザップが首を傾げる。顔を上げてじっとザップの顔を見つめると、灰色の目はまるで宝石みたいだった。綺麗なのだ。人生って不平等だよな、とぼーっと思いながら口を開いた。
「……、……飯、何がいいすか。今夜」
「あ?え?…や、…まあ…オマエ作んだろ」
「はあ。まあ一応。焼いたりするだけですけど」
んじゃ何でもいいわとザップは言った。「焦げてなきゃ」「…そーすか」分かりました、と言ってぐいと今度はザップの顔を掴んで引っ張った。うお、と言う声にちょっと溜飲が下がる。そのまま頬にキスを一つ落として、ひょいと先輩の腕から離れた。
「あーあ。スーツ皺になるんでハンガーかけてきます」
「………、……………あ、…オウ」
呆気に取られた様子でザップがそう言うのを聞いて、やっとレオは笑えた。溜飲が下がる。「…そんじゃ今日は魚で」「え?…あ、飯?」そうすよ、と言いながらすたすたと歩く。あ、オイ待てオマエなんださっきの、という先輩の声を無視しながら隣室のドアを開けた。…まあこんなもんだ。こうやって徐々に日常に戻る。たまに穴に落ちるし隙間に落とされるけど、けどそんなの一々気にしてたら生きていけない。だから。
「…魚は何にしようかな」
「何でもいーけど生魚がいい」
後ろから聞こえてきたザップの答えを聞いて、レオはまた笑った。
終