轟きの電光石火
2015/12/04
がしゃん、という音と同時に悲鳴が聞こえる。「…ッレオくん!」やばい、と思う時は大抵遅いのだ。慌てて振り向いた瞬間にレオナルド・ウォッチが宙を舞っていた。「ぎゃあああああ!」その悲鳴を聞くのは一体何度目なのだろう。ヘルサレムズ・ロットでは普通のことだとは言え、それが聞き慣れた人の声となると話は別だ。
「ほっとけバカ!死なねえよあの程度じゃ!」
その声に反論する余裕もない。びゅん、と風が舞う音が耳に入ってすぐに頭を下げた。途端、周囲にあったコンクリートの破片が路地裏に落ち葉のようにざらざらと巻き上げられた。風圧、と気が付いたのは立ち上がってからだ。ざく、という音と同時に自分も頭を上げた。
「………死ぬかとおもった…」
20分後。瓦礫の中から小さな先輩が咳き込みながら現れた。「レオくん!」慌てて駆け寄ると、しゃがみ込んだまま先輩はどうもと言いながらよろよろと手を上げる。ゴーグルを外した顔は、埃だらけだった。
「だ、大丈夫ですか?頭打ってません?」
「さっき壁に…いってー…」
そう言った途端だらりとレオの目元に血が落ちてきた。まるでホラー映画のような光景に、思わずツェッド・オブライエンは呆気にとられた。先輩であるレオは唐突に視界が真っ赤になったことにきょとんとしたらしい。あれ?と言いながら首を傾げた。血がぼた、とコンクリートに零れる。掌に血が溜まったのが目に入った。
途端に後ろからガン、という大きな音と共に瓦礫の中からもう一人の先輩がやって来た。「んっだよモー…昼もまだだっつーのに…」げほ、と咳き込みつつやってきたザップ・レンフロはおーいと言いながらこっちに歩いてきた。
「レオー、昼飯食いに行くから金………っておい」
何固まってんだお前ら、とのこのことザップがこちらに近寄ってくる。そこでやっとツェッドは覚醒した。「びょ、病院に!」「あ、え?…あっ…うお…すっげー血…………、………。」右手についた血を見てそう呟いた後、レオがきゅうと呻いてぱたんとその場に倒れた。同時にアスファルトに血がだらだらと流れ始める。
「れ、レオくん!?……病院!」
「おーいだから何してんだって。ちゃっちゃと帰ろうぜー」
「だ、な、何を馬鹿なことを、」
レオをそっと抱き上げながらそう言ったツェッドを眠そうに見ながら、あり?とザップは首を傾げた。「何。どーしたのそいつ」「どーしたのじゃありませんよ!ほら!」レオの前髪をかき上げると真っ赤だった。どうも頭を切ったらしく、まだ血が流れている。
「げ!?嘘だろそんな重症だったのかよ!?死んでる!?」
「だから毎度勝手に殺さないで下さい!いーからさっさと病院に!」
そう言いながら慌ててぱたぱたと二人でレオを抱えてクラウス達の許へ向かった。
今日の任務も任務で非常に熾烈を極め、ツェッドはほぼ無傷ながらもレオは開始早々頬に擦り傷と裂傷を負ったから、たぶん今日はついていなかったのだ。いつももう少しうまく避けたり躱したりする。特に彼のゴーグルに瓦礫が当たった瞬間に聞こえた悲痛な声をツェッドは忘れられない。『ぎゃああ!やめろまだローンが残ってんだよちくしょー!』
毎日小さく傷は負っているものの、この規模の怪我は久々に見る。また派手にやったなあ、とスティーブンはレオを見てそう言ったが、その口調には慣れが滲んでいた。ザップとは違う意味で呑気な対応にはどうにも脱力してしまう。冷たい訳ではなく、これが普通なのだ。
病室から戻ってきたレオを認めて立ち上がる。「…ツェッドさーん」小さくそう言って手を振りつつこちらにやってきたレオは、いつもより元気がなかった。常であれば大抵、こういう時は元気なのだ。恐らく心配をかけずと思ってそうしているのだろう、とツェッドは勝手に思っていたが、ザップ曰くただ単にレオは治療が苦手なだけで、それが終わったからだろ、ということらしい。本当かどうかは知らなかった。
「レオくん。大丈夫でしたか」
「痛いです。見た目ほどひどくはないみたいなんですけど」
そう言って顔を顰めたレオは前髪をかき上げる。どうも元気がない原因はこの痛みらしい。彼の額には包帯が巻かれていたが、まだ僅かに血が滲んでいるように見えた。赤黒い箇所が諸所に残っている。やっぱり結構派手にやったんだな、と今更のようにツェッドは思って、とりあえず事務所戻りましょう、と促した。はい、とレオは情けない顔で頷くとツェッドと一緒に病院を出た。
病院の駐車場に行くと、ザップがスクーターに座りながら煙草を喫っていた。どう見ても看護士と思しき女性と相好を崩して話している。顔つきがいつもと違うところを見ると、ナンパしているらしい、とツェッドは察した。そっと隣に並ぶレオを見ると、困ったような顔をして頭を掻いている。「…これ今行ったら完全に俺たちが空気読んでないじゃないすか。うーん」そう言って、肩を竦めたレオがツェッドの方を見つめる。
「…バスで帰りましょ。ケータイ入れとけばいいと思います」
「…はあ。いいんですか?」
そうツェッドは首を傾げる。レオはきょとんとした様子で、いいでしょと不思議そうに言った。「下手に言って怒られるのも嫌だし」「はあ」そうなのか、と思いながらレオと並んでバス停に向かった。
結構縫いましたよこれ、と言いながらレオが額を撫でて苦笑した。一周してしまってもう笑い話になったらしい。お大事にして下さい、とツェッドは言ってレオとバスを待った。
―――最近ツェッドは気が付いた。この先輩は自分の兄弟子が好きらしい。
そりゃ、自分だって好きか嫌いかと言われたら、非常に抵抗はあるし口に出して言う事は一生無いと思うが、一応兄弟子のことは好きな方に、入るのだとは思う。自分でそう思ってげんなりした。嫌いじゃない筈なんだ。そうなんだ。言い聞かせるようにそう呪文みたいに唱えて、隣に座るレオをそっと見つめる。自分と違って、この先輩の好意はそういう意味ではないらしい。付き合うとか、付き合わないとか、つまり友人を越えた意味での、好意だ。
くしゃくしゃの頭に糸目をした穏やかな性格の先輩は、窓の外をぼーっと見つめていた。外はいつもの霧の街が広がっていて、人間だったりそうじゃなかったりする人々がうろうろとうろついている。ぱっと見た限りでは毎日ハロウィンみたいな街だった。
窓に映っているレオの表情はいつもと変わらないように見えたが、たぶん、とツェッドは思った。たぶん、落ち込んでいるのだろう。
―――そりゃあ好きな人が誰かを誘っていたら元気も無くなる。
そう思って前を向く。いつもと変わらない混雑した道路が目に映った。
これを言ってしまうのは自分でも凄く申し訳ないとは思うのだが、ツェッドからすればレオのそれは非常に不毛だった。何しろ自分の兄弟子は女癖が悪い。色々な意味で人格も破綻しているし、そりゃまあ、仕事には一応真面目に当たっているかもしれないし、悪いところばかりじゃないのだが、恋愛相手としては絶対に向かない。しかもレオみたいに真面目で性格も良く、上に優しい少年が何であんな人好きなのか、ツェッドはさっぱり理解できなかった。
ただ、いつもレオはザップと話している時楽しそうだった。
愛人が修羅場状態だとか、借金が嵩んでいるとか、たとえばそんな楽しくもない話題だろうと何だろうと、レオは苦笑しながらも怒りながらも、結局は楽しそうにツェッドには見えた。いつも柔らかく笑っている彼を見ると、自分にはさっぱり理解できないけど好きなんだろうなあ、と思ったりする。
傍目でそれを見るのは何とも言い難いものがあった。自分の兄弟子のことは素直に褒めたりだとか、好意を表明するのは自主的にし難いものがあったが、レオのことは普通に好きだったからだ。温厚だし、優しいし、謙虚だし、何より格好良いと素直に思う事が多い。レオ自身はそれに気が付いていないみたいだから敢えて言うことはなかったが、ともかくレオはツェッドからすればそういう人間だった。だから―――だから、結果的に彼が傷付くのは嫌なのだ。不毛だ、と言えたらどんなにいいか、と思いながらバスの電光掲示板を見つめる。次が最寄りのバス停だった。
レオは未だぼんやりと外を見つめていたが、一瞬だけ前を向いた横顔を見る限りでは、やっぱり普通の表情をしていた。
バスを降りてからのこのこと事務所まで歩いていると、自分の携帯が着信を告げた。失礼、と言いながら画面を見ると、何の事はない。兄弟子である。さっき先に戻るってメールしたのに、と思いつつもしもしと言いながら電話に出る。
「なんですか」
『なんですかじゃねーよバカ!何帰ってんだっつーの!』
俺まだ駐車場にいんだぞ、という低い声が受話口からぎゃんぎゃん聞こえてきて、スピーカーにしてもいないのにレオにもそれが聞こえたらしい。隣を歩いていたレオがきょとんとした様子でこちらを見上げて来たからだ。げんなりした目線をレオに送ると、おかしそうに幼い先輩は笑った。
「…お忙しそうだったので、お先に失礼したんですよ。先ほどメールしたじゃありませんか」
『ああ?あのな、あれは雑談…いや、んなことはどーでもいいんだよ。レオは?診察終わったんだろ?』
それを聞いてちらりと横にいる先輩を見る。さっきから笑いが止まらなくなってしまったらしい。レオは笑いながらツェッドの腕に寄りかかって歩いている。「………僕の隣で楽しそうに笑ってます」人の気も知らないでね、と言いたくなったが我慢した。その程度の軽口を叩けるくらいに仲はいいが、余りに楽しそうなので言うのを止したのだ。
ザップは一瞬言葉に詰まったようで、ああそう、と投げやりに言うと今どの辺だよとぶっきら棒に聞いてきた。「今ですか?もう事務所近くです」『歩いてんのかよ』「バスで戻って来たんですよ。で、今は歩いてます」『おまえな、俺が何でわざわざ愛車を出してやったと思ってんだよ』「知りませんよ」そう言うと怪我人がいるからだろーが、とザップは怒った様に言った。つまりレオのためだ。
実際怒っているのだろう。ナンパしてた癖にな、と思いつつツェッドは肩を竦めつつ、それじゃどうします、と伺いを立てる。
「…レオくんに代わりますか?」
そう言って隣で笑っている先輩を見たが、まだ笑っている。ツボに入ったらしい。一体なにがそんなにおかしいのか、と思いつつ兄弟子の返答を待った。
『…いい。オマエ代わりに殴っとけ』
「するわけないでしょう」
そう言ってそれじゃまた、と結んで電話を切った。殴れと言う割に拗ねた言い方をする、と少し自分もおかしくなってしまった。いまだ笑っているレオを引き摺る様に歩いて、事務所までたどり着いたところでやっとレオの笑いが収まったらしい。ぜいぜいと息を吐いてすいませんとレオは息も絶え絶えにそう言った。
「…なんか、…あ、あの広い駐車場に、…ぽつんといるザップさん想像したら………、…わ、笑えて来ちゃっ……、…」
「あ、はい分かりました分かりました。さっさと行きますよ」
「つぇ、ツェッドさんが、…つめたい……、…」
笑いが再発しそうなレオの手を引いて、事務所に戻った。お帰り、とにこやかに笑うスティーブンに心配そうなクラウスとK.K.、それからいつもの如くクールな様子のチェインが揃っている。ギルベルトもすぐにやって来て大丈夫でしたかと穏やかにそう言った。レオは、すみませんでしたといつもの如く一通り謝った後、ツェッドに礼を言った。ありがとうございます、と笑ってそう言うレオの包帯がどうも痛々しい。笑っていたから忘れていたが、結構重症だったのだ。
そういえば、と昼を食べていないことを思いだした。「…昼どうします?」そう言って時計を見ると、三時を回っている。ああ、とレオも思い出したように言って時計をつられたように見つめると、もうおやつですよねと子供みたいなことを言った。
「近場で済ませます?俺買って来てもいいですけど」
「いや、だったら僕が行きますから。傷開きますよ」
「でも縫ったし」
「縫ったのが開くんでしょう」
そうなんすか?そうでしょう、などと話しているところでばんとドアが開いた音がしたので自然にそちらを向く。「あ」兄弟子がずかずかとこちらに向かって歩いてきた。レオは瞬間またしても先ほどの件が再発したらしく、途端にツェッドの腕に掴まって笑い始めた。だから、とツェッドは再度呆れる。何がそんなに面白かったんだ。
「オイコラ何先帰ってんだ!何のために俺が病院まで行ったと思ってんだよ!」
ザップがそう言いながらこちらにずかずかと歩いてきた。お帰りというクラウスの声にただいまと兄弟子は一応手を上げたが、すぐに剣呑な視線をこちらに寄越す。
「いや、ですから病院を出てすぐ僕ら連絡したじゃないですか。というよりわざわざ僕もレオくんも空気を読んで話しかけなかったんですよ」
「だからあれは別にそう………、……何でコイツこんな笑ってんだ」
怪訝に思ったのか、変な顔をしてザップがレオを指差した。レオは未だに顔を背けて肩を震わせて笑っている。ツェッドはいい加減掴まれた腕が痛くなってきた。「分かりませんよ。置いてきぼりのあなたがよっぽど面白かったんじゃないですか」「何が面白いんだっつうの」そう言ってレオの頭をザップが小突いたので、ツェッドが慌てた。傷口が開いては元も子もない。
レオはイテ、と小さく言ってやっと笑いを収めた。息を吐いておかしそうに顔を上げると、目に涙が浮かんでいる。「……、…はー…何で俺あんな笑ってたんでしょうね…」「いや、僕が知りたいです」そう真顔で言うと、レオはそーすねえと困ったように言って頭を掻いた。深夜にはよくある現象である。
「…と、そんな訳ですいません先帰って来ちゃいました。邪魔だと思ったから」
「あのなーオマエそれはねーべ。俺が何の為にわざわざ足出してやったと思ってんだ」
「だってあの場でザップさんとこ行ったところで先帰れって言うでしょ」
あのな、とザップは呆れたように言うと頭を掻いた。「言わねえよバカ。オマエは俺を何だと思ってんだ」「ザップさんだと思ってます」きっぱりとそう言ったレオの頬を一回抓って、ザップは不貞腐れたように腕を組んだ。そこは不貞腐れるところなのか、と思いつつツェッドは再度時計を見る。レオもあ、と気が付いたように声を上げた。
「飯どーします。やっぱ買ってきます?」
「だから君はここにいて下さい。行くなら僕が行きます」
「だって」
子供じゃあるまいし、と思いながらいいからとツェッドはレオを押しとどめて無理やしソファに座らせた。歩けてはいるが別に傷が軽い訳ではないのだ。実際、包帯にはやっぱり見間違いでも何でもなく、血が滲んでいる。
「…ハンバーガー買ってきますから、レオくん見てて下さい」
「あ?あー…いや、」
なら俺も行くわ、とザップが信じられないことを言ってきたのでぎょっとした。それはレオも同様だったらしく、え、と上擦った声を上げて口をぽかんと開けている。何だよと怪訝な顔をしたザップはツェッドとレオを交互に見つめるとまた腕を組んだ。「…どーいう意味だ」いや、とツェッドはレオと恐る恐る顔を見合わせる。
わざわざ他人の買い物に同行する男ではないし、しかもそれが昼飯なら余計だった。確かに三人分はそれなりに持ち運びが大変ではあるが、ツェッドからすれば大した量でもない。なのにそんなことを言い出すなんて、とツェッドはその点で驚いたのだ。多分レオも同様である。
「…何だっつーの。あーもういい。オラ行くぞ魚類」
そう言って煙草を口に咥えた兄弟子の横顔を見たあと、ぽかんとしたままのレオを見下ろす。多分自分も同じような顔をしているのだろう。「……ええと。行ってきます」「…あ、ハイ」そう言ってレオはお願いしますとぺこりと頭を下げた。そんなレオを見て、ザップは何か言いかけたが、結局何も言わずにさっき入ってきたばかりのドアに向かった。
二人で使いとはぞっとしない、とついこの間あったことを思い出して、ツェッドは少し憂鬱になった。
「えーと。一つはダイエットコークでお願いします」
「またアイツそれなの?」
言われてないけど多分そうでしょう、と言いながら店員がハンバーガーのセットを準備するのを待った。「軽い癖に」そう言っておかしそうにザップは笑うと煙草を咥える。自分がカウンターの方を向いているのとは対照的に、兄弟子はカウンターに寄りかかって店の入り口の方を見つめている。ここは禁煙ですよ、と一言ツェッドが言うと、ちっという小さな舌打ちが聞こえた。
「…何か話したいことでもあったんじゃないですか」
「あ?」
「じゃなきゃ一緒に来る理由がわかりませんよ」
そう言ったツェッドに、ザップはちらりと目を向けると黙って煙草をしまった。「…なんか言ってた。アイツ」「誰ですか」幾ら何でも分かったが、それでもその言い方はあんまりだよな、と思ってそう聞いた。
兄弟子はまた舌打ちすると、レオだよと面倒臭そうにそう言った。ああ、と分かり切ってはいたものの、今初めて理解したような素振りを見せて頷く。カウンターの奥を見ると、三人分のハンバーガーセットを準備するのはそれなりに時間がかかりそうだった。昼時が過ぎているせいか、店員も少ないためもあるのだろう。
「…そのなんかというのが一体いつのことなのか分かり難いですけど。バスで帰ってる時は何も言ってませんでしたよ。外を見てました」
「…オマエ一々俺に嫌味言わねーと気ィ済まねーの?」
「お互い様でしょう」
そうは言ったものの、確かに言わなくてもよかったなと自分で思ったので、すみませんと素直にそう言った。途端に兄弟子は変な顔になって黙ってしまったから、何だろうと思う。やっぱり、この人のことは理解しがたい。
「……つーかさ、マジでお前ら何で先帰ったんだ」
「ですから、あなたが駐車場で看護士の方を誘ってたからですよ」
邪魔しちゃ悪いでしょう、と真面目にそう言ったツェッドに、別にあれは喋ってただけだろ、とザップは呆れた様子で言った。「声くれーかけろよ」「…一体何にこだわってるんですか。さっきから」珍しく分かり難いし回りくどいですよ、と言ったツェッドに無言が返ってくる。多分図星だったのだろう、と思いながらカウンターの中をくるくる動きまわっている店員をぼーっと見つめた。大変そうだなあ、などと呑気にもそう思う。
「…レオってさあ」
俺が好きだよな、と唐突に兄弟子は言って溜息を吐いた。「………、…。」無言で隣を見ると、何だよ、とザップはじろりとこちらを睨むようにして、そう言った。
気が付いていたのか、と思ったが、ツェッドで気が付くのだから、確かにザップが気が付かないのもおかしい話だった。第三者で分かるくらいなら、好意を向けられている側は余程鈍くない限り気が付くだろう。しかもザップはそういうことに恐らく敏感な方だ。何しろその方面にかけては百戦錬磨と言っていい。
「…僕もそう思いますよ」
そう言うと、だよな、とザップはそう言って煙草をまた咥えた。火を点けるつもりはないらしい。咥えたままぼんやりと天井を仰いでいる。
お待たせしました、という声が聞こえて目をカウンターに向ける。店員が袋を抱えてやってきたので、それを受け取り一つはザップに押し付けた。わざわざやって来たのに手ぶらで帰るのも何だ、という理由でザップはそれを受け取った、らしい。聞いてはいないが多分そうだ。本当に素直ではない。
どうもと店員に礼を言ったツェッドより先に、兄弟子はすたすたと店の入り口に向かって歩いていた。
歩道を歩きながら、いつの間にか煙草を口から離していたザップに話しかけた。「…あなたはどうなんですか。レオくんのことを」「…そりゃ、嫌いじゃねーけど」別に、と続ける様子は非常に困っているように見えた。嫌いじゃない、というその言い方すら言い難そうだったのだから、この人本当に素直じゃないな、とツェッドはさっきと同様に呆れた。僕の前でこうなのだから、レオくんの前じゃ絶対言う訳ない。そう確信する。
「…でもアイツと同じ意味かどーかって言われるとな…そーいう感じじゃねーんだよなー…たぶん」
「ああ」
そうなんですね、と分かっていたと思しき結果に少し肩を落とした。何と言うか、世界は本当に不平等だなと溜息を吐きたくなる。そもそもレオがザップを好きになってしまったのが間違いだったのだと言われてしまったらそれまでだが、ツェッドとしてはレオには幸せになって貰いたかったので、そうはっきり聞くとがっかりするところはある。ただ、例えば二人が付き合うことになったと言われたら言われたで、絶対に納得しがたいところも出てくるのだろう。つまり複雑なのだ。兄弟子は兄と言うよりは兄弟子、という自分でも何だかよく分からないカテゴリではあったが、レオは自分にとって兄みたいだったから、家族みたいなところがあるのかも知れない、とその時ツェッドは気が付いた。
家族だろうが友だちだろうが、どちらにしろレオが泣くのを見るのは、嫌だ。
「何でオマエががっかりしてんだ」
「…いや、まあ。…そりゃあなたと付き合って幸せになるかどうかは微妙なところなんですけど」
そう言った後で、またこういうことを言ってしまったな、と少し後悔する。事実だとは思うが、わざわざ事を荒立てなくてもいい筈なのだ。なぜかこの兄弟子相手だと攻撃的になってしまう。反りも馬も合わないから、仕方ないのかも知れないが。
しかしザップはそうだろ、となぜか簡単に納得して頷いた。「…え」思わずぎょっとして横に並ぶザップを見つめると、兄弟子は正面を向きながら胡乱気な眼差しでそうだろ、と繰り返した。
「…だって俺多分レオのこと幸せにできねーもん。絶対浮気するし大事にも優しくもしてやれねーし、でもそんで別れるって言われたら多分ボコボコにするわ」
「……………。」
物凄く勝手なことを言っていると自分でも分かっているらしい。ザップは溜息を吐いて、俺は多分そーいう奴だろ、とそう続けた。「…わざわざこんっな意味不明な土地まで来て、しかも来たくて来た訳じゃなくて来て、そんで何で俺を好きになんだよアイツ。バカじゃねーのホント」そう言って背中を丸めたせいか、袋の中身が少し音を立てた。
「…あなたもそういうこと思うんですか」
「あ?なにが」
いや、と考え考えツェッドは口を開いた。「…幸せにしなきゃとか、そういうことです」「当たり前だろ」そりゃそーだよとザップは言うと、つうか、と続けた。
「そーいうもんだろ。あーいうのって」
酷く曖昧な言い方だったが、何となく言っている意味は分かった。そうですね、と一応相槌を打つ。そうか、一応この人そういうことも考えているのか。そう思った。
ただその言い方だけ聞くと、ザップもレオが好きみたいに聞こえた。傍目から見ているだけの感想を言わせてもらえれば、ザップのレオに対する接し方は友だちではあったが、友だちというだけでは収まりきれない何かも、偶に顔を出す。レオが怪我をしたりとか、顔を見せないとか、喧嘩をしたりとか、そういうイレギュラーなことが起きた時ではないのが変なところだった。
たまに、ふとした時にそれは起こる。例えば一日調査で歩き回って帰ってきてソファで死んでいる時だとか、一緒に昼を食べている時だとか、はたまたレオがいない時にだってそういうことがある。それを何て呼べばいいのかツェッドは適切な言葉を知らない。恋愛と言うそれではないように見えるが、かと言って家族だとか、親愛だとか、友情だとか、そういう言葉でもしっくりこない。恐らく、それはツェッドどころか当人にも分かっていないのだろう。ただそういう時のザップは大抵見たことないくらい柔らかく笑うから、いつもツェッドは戸惑う。多分、自分では意識してないのだ。
「…それじゃ、どうするんですか。この先」
「どーもしねーよ俺は。レオが別の奴好きになるの待つだけだって」
「……それ」
いいんですか?と思わずそう聞いてしまった。「なにが」そう仏頂面でザップは言いながらこっちを向く。「え、いや。ですからレオくんが他の人を好きになってもいいんですかって」「………それはレオの自由だろ」俺が何か言うことじゃねえし、とそう言った割に兄弟子の声は少し上擦っていた。自分で言った癖に自分でダメージを受けているのだから、ブーメラン甚だしかった。受け取り損ねている。
「…なんかさー…こう、…そりゃあんだけ分かり易いと、…俺だって情が移るわ。犬みてーな感じで」
「犬って」
酷いですよ、と言うとだってマジでそーなんだよとザップは嘆くように言った。「…バカなんだよ。マジで。何でよりによって俺なんだっつーの」そう言ってまた、ザップは珍しく溜息を連発してぐったりと前に視線を向ける。
「俺の顔はそんなにいいのか?」
「何でそこに結論持ってくるのかわかりませんけど。つまりあなたはレオくんを幸せにする自信がないということですよね」
そういう言い方はやめろ、とザップは顔を顰めてそう言ってきたが、つまりそういうことだろとツェッドは思った。その前に恋愛感情の有無の問題もあるが、たとえザップがレオを好きだったとしてもそこはいずれネックになるのだろう。
幸せにしたいけど幸せに出来るか自信がない。
だから付き合いたくない。
何だか本末転倒もいいところだ。それじゃあんまり意味ないんじゃないだろうか。折角上手くいきそうだというのに。そう思ってそう言ってみたが、だからそういう言い方はやめろとザップは繰り返した。「俺がすげーチキンじゃねーか」そうだと思ったが流石に肯定するのはやめた。怒られて話が破綻したら元も子もない。
「…大体」
そう言ってザップはポケットに片方の手を突っ込んだ。「…俺を好きになった時点でもうなんか、違うだろ。…ああいう奴は本来そういうところにいなきゃいけないのに、わざわざ地獄見ることねーんだ」
低い声でそう言った兄弟子は、息を一度吐くとさっさと戻るぞ、と言ってこちらを睨むように見た。「…はい」そう相槌を打って、兄弟子が言う”そういうところ”とは一体どういうところなのだろうと考える。曖昧だ。ただ、それはとツェッドは思った。兄弟子の後姿を見ながら考える。
――――それはレオくんが決めることだと思うんですが。
それを言うべきか言わないべきか、悩んだ挙句結局ツェッドは言わなかった。言っても無駄だと思ったし、きっとそれは彼らが先にぶつかる問題だろうから、自分が言わずとも勝手に時が解決するだろうと思ったのだ。
早足になったせいか、袋の中のハンバーガーががさりと音を立てた。
ドアを開けた途端にぴょんとソニックが肩に下りてきたので、わわ、と声を上げる。「お帰りなさい」そう言ってレオがとことこと歩いてきた。「最近そいつツェッドさん好きなんですよ」苦笑してレオがこちらに手を伸ばしてきた。ソニックはそれを見るとぴょんとレオの方に跳び移って彼の肩にすとんと落ち着く。
「つかオマエ血ィ滲んでんじゃん。どーすんだソレ」
ザップは袋をテーブルに置きながらレオの額のそれに気が付いたらしく、そう言った。あんまり酷かったらもっかい病院行きますよ、と言ってレオはツェッドが持っていた袋を半分引き取ってテーブルに向かう。本当かな、と疑いつつツェッドもその後を追った。何しろ余り彼は自分に頓着しないのだ。ザップもそう思ったのか、本当かよと疑わしげにそう言った。レオは困ったような顔になると、行きますよと言いながらテーブルに袋を置く。「痛いの嫌ですから」その言い方だけ聞くと子供みたいに聞こえた。
「…あ、なんですかそれとも俺が心配ですか。どうもありがとうございます」
「言うようになったなコラ。歯を食いしばれ」
そう言ってまた頬を抓られたレオが痛いすよとちょっと笑いながらそう言った。多分いつもより軽いのだろう。ザップはアホ、とやっぱり笑って言うと手を離した。こうしてみると兄弟みたいにも見えるのだから不思議な話だ。
――なんだかんだ言ってレオくんが心配なんだろうな。
それはツェッドじゃなくて見れば誰にだって分かる。わざわざ兄弟子が病院までスクーターで向かったのも、レオが心配だったからなのだろう。今更だ。
「あ。言ってなかったのに俺の分ダイエットコークにしてくれてる」
「あ、ハイ。いつもそれだったので。合ってました?」
ぼうっとそんなことを考えていたが、レオが袋から顔を上げてこちらを見つめたので、ツェッドは慌てて首肯する。どもっすとレオはにこやかに笑った。
「あってますあってます。こっちがいーです」
そう言ってにこにこしたレオを見たら少し安心した。さっきの件でなぜかツェッドが罪悪感を抱いてしまったので、地味に落ち込んでいたのだ。
一方ザップは既にがさがさと自分の分のハンバーガーを袋から出して包みを開けていた。ソニックが今度はザップの方にぴょんと跳び移ったので、ザップは顔を顰めて肩からぽいとソニックを落とした。ソニックはキュッと目を瞑るとすとんとソファに着地した。
「オマエずーっとそれ飲んでるけどさー、そっちのがぜってー不味いだろ」
さっきの様子は微塵も顔を出さない。兄弟子はいつもの如くアホな顔でむしゃむしゃとハンバーガーを齧っている。あれも素なんだろうけど、と思いながらツェッドは自分が買ったハンバーガーとポテトとコーラを袋から出した。レオはそんなことねーすよと言いながらハンバーガーを袋から出して包み紙を開きだした。
「いや、不味いって」
「不味くないです」
「不味いだろ」
「不味くないですってば。ちゅーかザップさん飲んだことないでしょ」
飲んでないのにそーいうこと言わないで下さいよ、ともっともなことを言いながらレオがもぐもぐとハンバーガーを齧り始める。いつも思うけど、とツェッドは思いながら自分もハンバーガーの包み紙を開けた。
飽きないのだろうか。その手の軽口は毎日のように叩き合わされていたが、内容は今回みたいにどうでもいい内容のものが殆どで、真面目な内容のものはついぞ聞いたことがない。任務中にだって、襟ぐりを掴むなだとかオマエの陰毛頭が邪魔で視界が悪いだとか言い合ってぎゃあぎゃあ騒いでいるのだから、最早病気にすら思える。今回もそれと同様だから、ツェッドはまた隣にやってきたソニックにポテトを一本あげて黙っていた。
「飲ん……あー、うん。ねーな」
「ほら。んじゃわかんないでしょ」
「分かる。ちょっとオマエそれ寄越せ」
「ええー?」
はい、と言いながらレオが自分が飲んでいたコーラを手渡した。ザップがぜってー不味いよと執拗く言いながらそれを飲む。ストローから口を離すと、変な顔をした。「………ん?味変わんなくね?」「いや、味は変わるでしょ。不味くはないけど」「いやぜってー味一緒だって」「味は違いますって」そう言いながらレオはまた一口飲んで、ほらやっぱり味は違う、とそう言った。再び違うことで揉め始めた二人を肩を竦めて見ながら、黙々とツェッドはハンバーガーを齧った。ピクルスっていつも思うけど変な味だ。ぼーっと考えながらポテトを食べきったらしいソニックにもう一本ポテトを渡す。ソニックは嬉しそうにツェッドのことを見上げてきたので、何となく頭を撫でた。
「いやもーぜってー味は違いますから!ちょっと待って下さい。…ねーツェッドさん、」
突然呼ばれたのでへ、と変な声を上げてしまった。「なんですか?」そう言ってぽかんと目の前のソファで揉めている二人を見つめる。ソニックはもしゃもしゃとツェッドの指先辺りでポテトを齧っていた。
「ダイエットコークと普通のコーラって味違いますよね?」
そう、非常にどうでもいい話題だと思ったがレオは真剣そのものという口調でそう言った。隣に座るザップはポテトを口に放り込んでいる。
「えーと、実は僕もダイエットコークは飲んだことがなくて」
「あ、そうなんすか。じゃーちょっとこれ飲んでくださいよ絶対味違うのにこの人が、」
そう言ってさっきザップに渡した自分のダイエットコークをおもむろに持ったレオを、ザップの目が追った。レオは多分気が付いていない。気が付く様な速度ではなかったし、レオの位置的に見えないだろう。けれどツェッドには見えた。正面だったし、ツェッドには追える速度だったのだ。
がし、と途端にザップがダイエットコークの紙カップをレオから奪った。「え」怪訝な声をレオが出した瞬間、ツェッドが呆気にとられた瞬間、なぜかザップはレオのダイエットコークを一気にずるずると飲み干した。
「ええええええ!?」
俺のじゃん、というレオの悲痛な言葉もむなしく、ごくん、とザップの喉が何度目かに動いたあと、ストローから口を離したザップがはあ、と息を吐いて俯いた。げほ、と少し咳き込んだ後何でもなかったみたいにもぐもぐと自分のハンバーガーを食べ始めたから、いやいやいやとレオもツェッドも思わずツッコミを入れてしまう。
「え?ま、待って?俺のじゃん!ていうか何で今全部飲んだんすか!?」
「レオくんの飲物なくなっちゃったじゃないですか」
それを聞いてザップは嫌そうな顔をしながら、んじゃ俺のやるよと雑に言ってレオにぐいと自分のコーラを突き付けた。「ええー…意味がわかんねーし…」何すか、とレオは変な顔をしながらコーラを受け取った。
それを見ながら、ツェッドはあ、気が付いた。
今だ。たまに自分がふと感じる違和感。―――友だちなのに友だちじゃないみたいに、見える時だ。
「……………。」
無言でツェッドがじっとザップを見つめていると、何だよとザップはまた嫌そうな顔をしながら、しかし結局気まずそうにツェッドからは眼を逸らしてしまった。拗ねているみたいだ。
たぶん、と今度は自分でコーラを飲みながらツェッドは思った。矛盾していることに気が付いているのだ。兄弟子は。自分が言ってることとやってることに矛盾がある。それに気が付いているのに、どうしてか何度も矛盾を繰り返している。
難儀だな、と思いながら食事を続けた。
その後も他愛ない会話が続いたが、さっきみたいなことは起こらなかった。
「あーいう目で俺を見るのをやめろ」
唐突にザップにそう言われて顔を上げて、首を傾げた。果たして既に仕事は終業時間が終わっていて、レオはバイトだからと帰社している。自分は本を読もうと本棚を物色していたのだが、そこにやって来たのがとっくに帰ったと思っていたザップだった。どうも帰ったのではなく、外回りの用事があったらしい。
「…視線に意図を含ませているのはあなたでしょう」
そう言って本を本棚から取ったツェッドを睨んで、口が減らねえよとザップはそう言った。自分もそうじゃないか、と思ったが口にはしない。そんなことを一々言っていたら話が進まない。
「…多分あなた、レオくんがほかの人を好きになったら発狂すると思いますけど」
「するかボケ。なんだよそれ」
そう言ってザップは溜息を吐きながら煙草を咥えた。「…しますよ。だからその前にいい加減言ってしまった方がいいですって。好きだと」「好きじゃねえよ」執拗いくらいにそう言うと、ザップは肩を竦めてソファに座った。視線を向けたがライターの音が聞こえただけだ。
多分まだそういう危機感はないんだろうな、とツェッドは思った。今はまだ、自分を一番に見てると分かってるからそんな態度が取れるのだろうが、実際にレオが誰かを好きになってしまったらどうするのだろう。絶対に今のような余裕が表れるわけがない、と勝手にツェッドは思って本をまた本棚に戻した。
そして別にそれが事実であったとしても、ツェッドからすればどうということもないのだ。正直に言えばザップが言っていたことは本当だと思っていた。何度も言うようだがツェッドはザップが嫌いでは、ない。ないけれどそれとこれはまた別の話なのだ。
「…だいたい」
そう、疲れたような声が聞こえたのでソファの方を向く。こちらに背を向けて座っている兄弟子は煙草をふかしていた。「…何で俺なんだ。マジで」はあ、と溜息を吐く様子は迷惑そうと言うよりは困惑だった。
「もっと他にいるだろ。絶対」
「それには同意しますが」
「同意されるとフツーにムカつくけどな」
それじゃどーしたらいいんだ、と思ったがその気持ちも分からないでもなかった。自分で言うのと他人が言うのでは意味が違う。
「…まあ、いいんじゃないですか。あなたが言う通り、このままずーっとこうだということは絶対ないでしょうし」
そう言うとぎしりとソファが鳴る音が聞こえた。恐らく兄弟子がこちらを向いたのだろう、と思ったがツェッドは振り向かず本棚を見上げていた。「…レオくんが外界に帰るってことだってあるでしょうし」息を呑んだ音が聞こえたのでそこでやっと振り向いた。兄弟子は虚を衝かれたような顔をしていたから、何だそれは、と思わず呆れてしまう。レオがここに来た目的を考えれば、それは予想してしかるべしである。
だから、とツェッドは思った。だから、何でいつまでも自分の隣にいるとか思ってるんだ。そんなことはない。世界は不変ではない。いつかはレオだって誰かを好きになるだろ、とか自分だって言ってたじゃないか、と思いながら本を閉じた。
「…何ですかその顔」
そんなことあるわけないとか思ってましたか、と言いながら向かいのソファに座ると、ザップは煙草を手で持つと眼を逸らして思ってねえよと言った。嘘だと思ったが指摘したところでまた争いの火種が蒔かれるだけなので言うのはやめる。やっぱり兄弟子が言うことは色々なところで矛盾があるのだ。言葉と態度が一致していない。本を開きながら、それにレオくんは人に好かれますから、と何の気なしにそう言った。
「僕も彼のことは好きですし。…だから今すぐにっていうのは無いと思いますけど、何年かしたら恋人が――――、」
そう言った直後だった。待て、という低い声が聞こえたので何となく顔を上げる。
「………オマエ今何つった?」
「は?いやですから、今すぐは無いとは思いますけどレオくんだって将来恋人作ったりとかそーいうことがあるんじゃない、」
「ちげーよバカ!その前だ前!」
言葉を遮られたことより、質問の内容が気になった。前?何か言ったっけ?記憶をたどってああ、と目を兄弟子に向ける。ザップが喫っていた煙草は既に灰皿に投げるように置いてあった。白い煙はまだのろのろと天井近くに上っている。
「…?ですから僕も彼のことは好きですよと言いました。つまり彼は誰にでも好かれるような性格だと―――」
言いたいんですけど、と言う前にザップが立ち上がった。聞いておいてなぜ最後まで話を聞かないんだ、と思いながら立ち上がった兄弟子のことを見上げる。なぜか青い顔をしていた。自分じゃあるまいしと自虐めいた冗談を思う。
「…どうしたんですか?」
そう首を傾げると、ザップは何かを言いかけたが結局何も言わなかった。「…帰る」小さくそう言うとつかつかとそのまま事務所の出入り口に向かっていく。え、と思う間もない。ぱたんという音と共にドアが閉じられた。
「………お疲れ様です」
小さくそう言って、首を傾げた。何なんだいったい、と思いながら息を吐いた。やはりどうも反りが合わない。別段仲良くする必要性はないかもしれないけれど、どうせ一緒に働くのだからどうせならもう少し、とそこまで思って考えるのをやめた。意味が無い。
そしてふと気が付いた。今日は週末だ。
翌週の早朝、水槽から上がって着替え、それから集合時刻になる少し前にツェッドは事務所に入った。おはようございます、とスティーブン、それからクラウスとギルベルトに挨拶をする。そのままソファで定刻まで本を読むことにした。
どたどたと音が聞こえたので顔を上げる。途端にばたん、という音と一緒にドアが開いてぜいぜいと息を吐いた先輩がそこにいた。
「…おはようございます……」
よろよろとそう言いながらこちらにレオが歩いてくる。「おはようございます」「ま、間に合った…」そう言ってレオがぐったりした様子でソファに座った。
「あー…よかった……絶対間に合わないと思った…」
「お疲れ様です。寝坊ですか?珍しい」
そう言って隣に座ったレオを見つめると、そうなんですとレオはぐったりしたまま顔を上げてツェッドを見た。彼の額には既に包帯がなかった。代わりに巨大な絆創膏が張ってある。週末の間に怪我は少しずつ快方に向かったらしい。ほっとした。よくなったんですねとツェッドが言うと、レオはきょとんとした。
「…ってああ。これですか」
「?それ以外に何か怪我でも」
「え、あ、いや?そ、そういうわけじゃないんですけど」
なぜかそう、微妙に引き攣った顔でレオは焦って言うと額をぺたんと触った。巨大な絆創膏には流石にもう血は滲んでいない。見た目は派手だったがどうも思ったよりは傷が浅かったらしい、とツェッドは思った。
再度ばたん、という音が聞こえて再びツェッドは目を向ける。途端にレオがぎくりとした様子で固まった。「ザップ。おはよう、よく間に合ったな」「…はよっす」そう言いながら手を上げてこちらにやって来るのは、兄弟子であるザップである。つかつかと不機嫌そうな顔をしながら一直線に向かってくる。
「…おはようございます」
そう言ってツェッドがザップを見上げると、よう、とザップは不機嫌そうだったが一応そう挨拶をした。つかつかとそのままソファに歩み寄ると、俯き加減で座っているレオの隣に思いきり座る。お陰でソファが悲鳴を上げた。
「…………お、おはよう、ございます…」
「今朝言っただろ」
「起きてたんですか!?」
「寝てたよ。つかオマエ先行くなよ」
そうザップが言ったあと、レオはぽかんとした様子を見せたが結局黙ってまた俯いてしまった。そこでツェッドはやっと気が付いた。―――あれ?
会話の内容もさることながら、レオの耳が。
くしゃくしゃの髪の隙間から見えている耳が、やけに赤い。
「…………………。」
まさか、と思いながら恐る恐る兄弟子を見遣る。さっきまで不機嫌そうだったのに、打って変わって楽しそうな顔になったザップは、視線に気が付いたらしい。ツェッドの方を向いた。
その顔がにやり、と凶悪そうに笑うのを見るのは初めてではない。ごくんと唾を飲んだツェッドを尻目に、ザップはぐいと横に座っているレオの肩を無理矢理掴んで引き寄せた。いつもだったら絶対に文句を言うであろうレオは、なぜか無言で俯いたままだらりとザップに寄りかかっている。やっぱり耳は真っ赤だった。
「…つーわけだ。ま、見ればわかるな?」
そう言って笑うザップを見て、絶句した。
―――嘘だろ。
そんなふうに思ったのも束の間、スティーブンがおーいそれじゃ皆こっち来い、と言いながら立ち上がった。ふと見れば既にチェイン・皇やギルベルト・F・アルトシュタインも控えている。はい、と返事をしながら気が付いた。自分の声が上擦っている。
まさかこんなに早くこんなことになるとは、と虚しさを覚えながらぼーっと対象を見つめていると、オマエ何余所見してんだよと上から兄弟子の声が聞こえてくる。「…してません」そう呟いて兄弟子を見上げると、ひょいと自分より高い位置にいたザップが飛び下りて隣に着地した。「…駄目だな。動く気配ねーわ。もう死んでんじゃねーのか?」「……確認すべきでしょうね」「つってもレオがまだ来ねーからな。入った瞬間蜂の巣だ」そう言って肩を竦めたザップが壁に寄りかかる。仕事中は確かに真面目だし、真面なことを言うんだよなと思いながら自分も腕を組んで視線を前に向けた。
夜のヘルサレムズ・ロットは昼間とは少しだけ違う。混沌と狂騒に溢れているのは変わらないが、それにしてもやっぱり違う。危険度とか、闇の深さだとか、色々と違う箇所はあるけれどそれを一言で説明するのは難しい。ただ、ツェッドはそんなにこの暗さは嫌いではなかった。星の光は全くと言っていいほど見えなかったが。
「…とにもかくにも、あなた、決断が早過ぎますよ」
「あ?何がだよ」
そう、にやにやして言うのだから始末におけない。分かってる癖にな、と溜息を何とか堪えながらレオくんのことですとツェッドは言った。何だか拗ねたような言い方になってしまった、とそう思う。兄弟子はどうもそれがおかしかったのか、やたら憎らしい笑みを浮かべてそーかよと言った。
「オメーのアドバイス通りにしてやったんだろ」
「アドバイスというか…いや、まあ、そうなんですけど。まさかその日に実行するとは思いませんでした」
そう言って眉間を押さえると、善は急げっつうじゃねーかとザップはまたおかしそうに笑って、ポケットに手を突っ込んだ。「…善、ねえ。本当ですか」「善だろ善。ちゃんとレオの顔見てんだろ、オマエも」それは確かにそうだけれど、とツェッドは今朝見たレオの顔を思い出す。真っ赤な顔をしていたが、ふわふわしている様子に見えた。実感が無いのかも知れない。ただしザップに話しかけられるたびに、いつもと違って過剰に反応するから、ザップは毎度爆笑していた。
―――正に電光石火。
あの日散々悩んだ態度を出していたし、しかも好きかどうかも曖昧みたいなことを言っていた癖に。一体何がきっかけでレオと付き合う気になったのか、ツェッドはさっぱりわからなかった。本当に分からない。多分自分が言った中の何かなのだろう。でもそれが何なのか分からないのだ。
「……何でいきなり付き合う気になったんですか?」
分からないし、調べられるようなことではないなら聞けばいいのだ。そう思って半ば投げやりになりながらそう言った。ザップからは返事がない。だよな、と思いつつ対象に視線を固定して黙る。暫く自分とザップの間には沈黙が降りた。ただし、これはよくあることだから別段気まずい訳ではない。いつものことなのだ。
「…おまえが」
思わず目を向けそうになったが慌てて堪えた。窓の明かりはまだ点いているが、目的対象の動きは見えない。黙ってザップの言葉を待った。「…レオのこと好きだとか言うから」そこまで聞いてん?と一瞬思考が停止した。
「…だからだって」
そう、ザップが嫌そうに呟いた瞬間だった。窓の灯りが消える。「!」「きたか」お互い瞬時に反応してそのまま駆けだす。「そのまま突っ込むぞ!」「了解しましたが無茶はやめてくださいよ!」そう言いながらアスファルトを蹴って、鉄柵を飛び越えた。
結局仕事が終わったのは深夜もとっぷり過ぎた頃合いで、ツェッドもザップもぐったりしながら何とか事務所に戻った。こんな時間まで警察を撒く工作をしなくてはならないのは、非常にしんどい。ザップのスクーターの後ろに乗って流れるような夜景を見ながら、思わずため息を吐いた。
事務所に戻ってから適当に今回の帳尻合わせを聞いてすぐに散開する。お疲れ様でしたとかご苦労だったとか、労いと別れの挨拶がそこここで飛び交い、ぐったりしながら三三五五に皆帰宅する。ツェッドも皆に挨拶をしたあと手を振って自分の部屋に向かおうとした。
何となく後ろを向いたら、ザップとレオが二人で事務所のドアに向かうところだった。レオは頭をぐしゃぐしゃとザップに撫でられているが、今朝見られたような態度ではなく、いつもみたいにやめてくださいと言わんばかりの表情をしていた。
けれど、結局、ザップと同じようにおかしそうに笑って、自分でも頭を押さえながらドアを潜っていく。レオの笑顔は何度も何度も見たことがある筈だったが、その笑い方はどうしてか、ツェッドに初見を思わせた。――あんな顔初めて見た。
―――あんなに嬉しそうな笑い方、初めて見た。
それからぱたん、という音と一緒にドアが閉じられる。
閉じられたドアをちょっとだけ黙って見つめたが、別段何も起こらない。当たり前だ。それから日本で言うところの丑三つ時が迫っている、と気が付いて肩を竦め、部屋に入った。着替えてそのまま水槽に入る。ぱしゃん、と小さな泡が浮かんだ。
それが幸せなのかどうなのか、それからこの先彼らが幸せになるのかどうか、ツェッドにはさっぱり分からない。多分今日兄弟子と相談したことは後々障壁となっていくのだろうし、大体がザップが言った通り、彼がレオを幸せにできるかどうかは未だに断言できかねるところがある。わからない。わからないのだ。
―――けれど、と思いながらぼうっと浮かぶ泡を見つめた。
(…だったら、あの人がレオくんを幸せに出来ないかどうかも、わからないし)
(……できないかも知れないけど)
できるかも知れないのだ、と思いながらツェッドは微睡みに自身を任せることにした。泡が浮かぶ。どっちになるか、はたまたそれ以外の結果になるのか、それすらわからないけれど。ただ。
(……あんなに嬉しそうなら)
まあ、とりあえず今は幸せなんだろう。
そう思って眠りについた。
やっぱりその時も思った。この街の夜の暗さは、嫌いじゃない。
終