愛の力
2015/09/02
おはようございます、という声に目を向ける。先輩かつ同僚の、レオナルド・ウォッチがこちらにとことこ歩いてくるところだった。
「おはようございます」
「あ、ツェッドさん。はよっす。なんかもー寒くなってきましたねえ」
「外はそうなんですか?昨日今日って外に出ていないものですから」
ぼちぼちそうなってきましたよ、といういつもの無難な会話をしながらレオがリュックを手にすとんとソファに座った。「ちゅーか僕、昨日もそーだったんですけど電車乗ろうとして二回もドア挟まれちゃいましたよ。意外に痛いんすよね。アレ」「二度も?大丈夫だったんですか?」そんな風に会話しつつ、ツェッド・オブライエンも彼の隣に座った。音速猿のソニックがひょこりと顔を出すとぴょんと跳んでテーブルに乗る。わ、と小さく声を上げた。
秘密結社ライブラの朝の始まりはまちまちだ。会合があればとりあえず事務所へ行くし、無くても行くし、ただしレオやツェッドは殆ど毎日事務所に顔を出す。ツェッドはそもそもここに住んでいるからそうだけれど、レオもレオでほぼ毎日顔を出してはいた。世界は何が起きるかさっぱり分からないからだ。
今日の集合は午前九時半、世間一般からすればとりあえず朝と言っていい時間だろう。今日の昼どーしますかねー、そーですね、となどと話をしていた時だ。奥のドアがガチャリと音を立てて開いた。
「ああ、少年。おはよう」
「あ、スティーブンさん。おはようございます」
「…あれ?一人かい?」
首を傾げながらスティーブン・A・スターフェイズがこちらへ書類の束を持ちながらやってくる。「ザップは」そう言われて、レオは少し気まずそうにしたものの、結局ええと、と口を開いた。
「…昨夜はフツーに帰ったはずなので、たぶん何もなければフツーに来るはずです」
「何もなければ、ねえ」
アイツがそんな芸当できるかなあ、と苦笑しながらスティーブンは書類を揃えてデスクに座った。そうですねえ、とレオも苦笑して少し首を、傾げた。
ザップというのは、フルネームでザップ・レンフロという、ツェッドとレオの先輩だ。年齢は24歳、白髪に褐色の肌、グレーの目を持つ見た目は綺麗な青年だった。ツェッドにとっては、悲しいかな同じ師を持つ、いわゆる兄弟子だった。
彼が普通の人間で、たとえば素行に少しばかり問題があるといった程度だったら別段何も問題はない。悲しいことなんか何もない。ただし、”少しばかり”ならだ。つまり彼は”かなり”問題がある人間だった。素行も性格も人格も、色々な意味で破綻していると言っていい。実際、初めて会ったときツェッドは爆笑されたし、レオに至っては顔を踏まれたとそう言っていた。初対面の印象としてはこれほど最悪なものはないだろう。
レオいわく、基本的にはいい人なんですよということらしいが。
それにしたって必要以上に関わりたい人間ではない。
そして何を間違ったのかツェッドにはさっぱり理解できないのだが、この先輩二人は、付き合っている、らしい。友人としてとか同僚としてとかそういう意味ではない。恋愛的な意味で付き合っている、らしい。最初に聞いたときは冗談だろうと思っていたがそんなことはなかった。エイプリル・フールでも何でもなく、二人は本当に付き合っているらしかった。
いったい彼の何がよかったのか、といういつかのツェッドの質問に対して、レオはそうですねえ、と困った様に首を捻った。
――――わかんないです。最低だし駄目だしクズですもんね、あの人。
付き合っている当事者からしてその答えなのだから、ツェッドに取っては理解の埒外の出来事だった。わけがわからない。
そんなことを考えながらレオと世間話に興じていたが、ばたん、という音にぱっと二人で入口に目を向けた。件の人物がそこに突っ立っていた。おはようございます、とツェッドはぺこりと会釈をする。
一方レオは、ぎくりとしたように顔を強張らせるとなぜか俯いて身体を縮こまらせるようにした。したところで消えないのだから意味はないと思うが、ともかく、ツェッドが怪訝に思う程度には、小さくなった。
「…どうしたんですかレオく、」
「……………おい」
ツェッドの声を遮ってザップがドアから一直線にここまで歩いてきた。一体何なんだ、との意を込めて上を向いたが、彼はいつもの如く全くそんなの意に介さなかった。レオに対しても怪訝に思ったが、ザップに対しても同じように思った。何だろう。なんか二人とも変だな。そう思った。
「おやザップおはよう。珍しいな」
「…俺を何だと思ってるんですか」
顔を顰めて一瞬スティーブンの方を見たが、すぐにザップは顔を顰めつつ俯いているレオに向かって、低い声で言った。
「…何やってんだオマエ」
「………おはよーございます…」
「おはよーじゃねえよバカ。今日何で来た」
「………………電車で…」
「バイクで来なかったことは褒めてやる」
何してんだよ、とさっきから似たようなことを言いながらザップがレオの隣に座った。狭い。そもそも既にツェッドが隣に座っていたのだから、長椅子とは言え男三人は少し狭かった。それに気が付いたからなのか、それともただの意地悪なのか、魚類お前向こうへ移れ、とザップは向かいにあるソファを指差してそう言った。
「…何ですか朝から騒々しい。さっきから何を言っているのかさっぱりわかりません」
「ああ?」
何がだよ、と言いながら、どういうわけかザップは立ち上がってひょいとそのままレオを抱え上げた。当然ツェッドはぎょっとする。え?いったいどうしてそんなことを?飲み会ならともかく今は二人とも素面じゃないですか。そう思ったのが顔に出たのかも知れない、ザップはなんだよと顔を顰めてツェッドを見下ろした。
「…ていうかお前気が付いてねーのか?わかんだろ」
「はい?あの、一体何がですか?」
「何がって」
コイツだよ、と言いながらほら退けよと再度ザップに言われて、仕方なく立ち上がった。そのままひょいとザップはレオをぱたんとソファに寝転がした。「え」再度ぎょっとする羽目になる。え?ど、どうして?ここは事務所で別に貴方の家ではないんですが。一体何をする気なんだ、と身構えて気が付いた。
――――あれ?
いつもならここまでされてレオが黙っていない訳がない。そもそも抱き上げられた時点でいつもだったらやめろとか下ろせとかわめいている筈だ。なのに今日は何も言わず、大人しくされるがままになっている。変だ。
「……やっぱり」
ひでーじゃん、と顔を顰めてザップが言った。「…ひどくねーす…」ひどいだろ、と溜息を吐いてザップはレオの顔近くにしゃがみ込むと、やっとツェッドの方を、見上げた。
「…熱あるわコイツ。めちゃくちゃ」
「…………え?」
そうなんですか?とツェッドが思わず聞き返すと、ないですないです、とレオの方から答えが返ってきた。そんなに簡単に否定されると逆に疑わしい。
「…もーいいオマエ喋んな。眠っとけ」
そう言って溜息を吐くとザップは立ち上がった。スターフェイズさん、と言いながらのこのこと彼のデスクに近寄って行く。
―――熱?
そんなの全然気が付かなかった。朝から普通に挨拶して、普通に会話をしていた。レオも全くそんな素振り出さなかったし、いつもと全く変わらないように見えたからだ。そうなんですか、とそっとレオに聞くと、いやそんなことは、とレオはもごもごと言ったが既に何だか説得力がなかった。顔が地味に赤いことにツェッドも気が付いたからだ。
怒られるかな、とは思ったが手を額に当ててみると確かにいつもより熱い。「…うわ。本当だ。熱あるじゃありませんか」「い、いや?人間誰しも熱はありますよ」何を馬鹿な、と思っているとザップがスティーブンと一緒に戻ってきた。
「…熱があるんだって?少年。大丈夫か」
いやそれは、と言いながらレオががば、と起き上がった。おい、と言いながらザップが顔を顰めてレオの額を小突く。「起き上がってんじゃねーよバカ。寝てろってば」「だ、だって」もうそろそろ会議でしょ、とレオは額を押さえながらそう言った。
「まあ、僕は少年が大丈夫って言うなら大丈夫でいいと思うんだけど。社会人なんだし、そのくらいの判断は自分でできるだろう。…でも熱はあるんだね?」
「…………あ、ええと…はい…」
ちゃんと測ってないんですけど、と困った様にレオは言った。「八度超えてます八度」「そこまでじゃないです」隣でザップが顔を顰めたまま割り込んだが、わかったわかったとスティーブンはそれを適当に躱した。
「…うーん。ギルベルトさんに頼んで薬出してもらおうか。置き薬あるだろう」
「え、あ、いや。そ、そんなことまで」
「いや、薬も使わないと期限切れるからね」
いいから休んでなさい、とスティーブンは言うとすたすたと奥の方に歩いて行った。恐らく上司のクラウス・V・ラインヘルツとその執事のギルベルト・F・アルトシュタインに報告に行くのだろう。それのついでに薬を持ってくるのかな、とツェッドはぼんやりと思った。
一方、先輩二人はごちゃごちゃとソファで言い合っていた。
「…おまえなー、来るなよ。熱上がるだろ」
「…だって今日は大事な会合だって言ってたから」
「あのな、大事大事って言うけどオメーはいようがいまいが大して関係ねーだろ。こーいう日は休んどけよ」
「そ、そりゃそーかも知れませんけどいちおう社会人としてそこは」
「熱上がってぶっ倒れたら何もイミねーだろ。アホ」
「う、そ、そりゃあ…」
そうかもしれませんけど、とレオは俯きながらもそもそとそう言った。結構落ち込んだ声だったからツェッドは聞いていて不憫に思ってしまった。しかもこの人に責められるってなんかどーも納得いかないよな。そうとも思った。
「…まあ、いいでしょうそのくらいで。レオくんは責任感が強いんですよ」
そうツェッドが言うと、既にザップによってソファに寝かせられていたレオは、困った様な顔ですみませんとなぜか謝罪してきた。反対にザップはじろりとこちらを睨むように見つめると、うるせえよといつもと全く変わらないその口調で、そう言った。
「あのなーお前わかってんのか?コイツがブッ倒れて迷惑被んのはこっちだろーが。そんなんなるんだったら家で大人しくしてろっつってんだよ。大体風邪だったら他人にうつんだろ。完治させてから来るのがフツーだろうが」
思いの外真っ当なことを言われて少したじろいだ。この人こんな真面な思考回路持ってたのか、とばかりに目をぱちくりとさせると何だよとザップはいつもの機嫌が悪そうな顔になると、煙草を引っ張り出して、そのあと何かに気が付いたように舌打ちしてまたポケットにしまった。
――――あ。
レオくんに気を使ったのか、とそこで気が付いた。病人の前で喫煙することが余りよくないことだということくらいは分かるらしい。
「………すんません」
はたとソファを見つめると、レオは物凄く沈痛な面持ちで俯いていた。とりなした結果、とりなすどころかレオが責められるという結果を作り出してしまったことに気が付く。もう少し上手い言い方はなかったものか、と慌てた。
一方隣にいたザップは少し変な顔をしていたが、結局決まり悪そうに頭を掻くともう一回レオのことを見下ろして、直後ひょいとソファの隣にしゃがみ込んだ。
「……あー……いや、……そんっな落ち込むなよ。…べつに俺もそこまで思ってねーから」
――――思ってないのか。
思わず心の中でツッコミを入れてしまった。実際に口を出すのは、何だか悪い気がした。
「…いや、でも、マジでそーです。体調管理ができてなかったのは俺のせいなんで」
「…しゃーねーだろ最近いきなし寒くなったし。オマエん家冬は寒いじゃん」
――――さっきまで凄く責めていたのにその掌の返しようはいったい。
そう思ったがやっぱりこれも口にはしなかった。レオはちょっと困った様に首を傾げると、少し息を吐き出した。熱が上がって来たのかも知れない。
「……誰かにうつしちゃうかも知れなかったですもんね。ザップさんの言う通り」
「あ?別にいーようつしても。つーかむしろうるせー奴にうつしとけ。そんで治れ」
――――いやよくないでしょ。何を言っているんだ。
レオはそれはダメでしょと少しおかしそうに笑ったあと、ごめんなさい、とやっぱりちょっと沈んだ様子で小さく呟いた。「…心配かけて」
ツェッドの位置からザップの表情は見えなかったのだが、彼は少しレオの顔を見つめながら何事か考えていたようだった。少しばかりの沈黙のあと、いいよ、とザップはツェッドが聞いたこともない声でそう言った。
「………いいよ。かけてもいいから、ちゃんと治せ」
そうツェッドには聞こえた。
どうしてなのか、少し泣きそうな声に聞こえた。
そこではっとしたようにザップががば、と顔を上げてこちらを瞬時に振り向いてきた。「え」ぽかんとしてツェッドがそう言うと、ザップはあからさまに焦った様子で魚類お前何でずっとそこにいんだよ、と意味不明なことを言ってきたから、呆れた。
「…いや、いるもなにも、僕は最初からレオくんとここで喋ってたんですけど…」
「く、空気読んでそこは出てくだろーが!つーか今!今出てけ今!」
どうもザップは照れているらしい、と気が付いたところで奥からおーいという声と一緒にスティーブンが戻ってきた。「薬持って来たぞー」どうもとよろよろとレオが返事をして、ザップはまた焦った様にだから寝てろってば、とそう言った。
その日の午後、結局レオは事務所でずっと寝ていた。帰らせる話も出たが既に熱が高くて下手に動かさない方がいいという結論に達し、ギルベルトがずっと看病をしていたらしい。らしい、というのはツェッドはザップと一緒に外に調査に行ったからよく知らないのだ。
ただ調査中ずっと先輩は携帯ばかり見ていて溜息ばかり吐いていた。真面目にやってくださいよ、と辟易しながらそう言うと、真面目にできねえよと確信犯の答が返ってきて閉口した。
「というか、思ったんですが」
「なんだよ」
スクーターの後ろに乗りながら先輩にそう問いかける。「…なぜあなたはレオくんの体調が悪いって分かったんですか?」そう言った直後、信号に引っ掛かった。ザップの舌打ちが聞こえる。
「?だってどー見てもアイツ体調悪そうだったじゃん」
「はい?」
そんなことはなかった。全然、そんなことはなかった。いつもと同じようにツェッドの目には見えたし、いつもと全く変わらない様子で会話をしたし、声の調子も見た目も何もかも、全然何も変わっていなかった。だからそう言うと、ザップはああそう、とどーでもよさそうに返事をした。
「別にいーんじゃね。オマエはわかんなくても。俺は分かってるし」
「はあ…」
そんなもんですか、とツェッドが聞くと、そんなもんだってとザップは適当そうに、言った。信号が変わる。スクーターが発車した。果たしてこの街はいつもの通り、喧騒と霧に包まれている。
「…でもまあ強いて言うなら、アレだ」
「はい?なんですか?」
「愛の力だよ」
そのふざけた答えと直後に爆笑が返って来て思わず脱力した。
素直に心配するのを見られるのは恥ずかしい癖に、そういうことを言うのは全然恥ずかしくないのか。価値観の相違って恐ろしい、と思いながらスクーターに掴まりつつ、溜息を吐いた。
――――まあ。
――――別に。
「…愛で風邪が治れば世話無かったですけどね」
「…ほんっと口が減らねえガキだな。マジで」
その不貞腐れたような兄弟子の声に、少しおかしくなって笑ってしまった。
ちなみにレオの風邪は二日後無事完治した。
愛の力なのかどうかは、ツェッドは知らない。
終