世界の秘密を知りたくないか?
2015/06/18
そろそろ夏だなあ、と思いながらとことこと薄暗い道を歩く。ネオンサインが立ち並ぶ街路は昼間も夜もどちらも怪しく見える。実のところ、見た目が怪しいだけでこの辺は健全な部類だよな、と今更のようなことを考えていつもの如く帰途についている。残業も過ぎるとやっぱり体に毒だよなあ。社会人はつらい。そんな事を考えていたらどこからか話し声が聞こえた。
「―――、から、…って」
「いじょ………ってば…」
何だか揉めているな、と敏感に察知して声の出所を探す。何のことは無い。これから通り過ぎるホテルの入り口からだった。大方カップルが知り合いに見られるのを恐れているのだろう。確かにあんまり見られたい光景ではない、と苦笑しながらスティーブンは努めて自然にホテルの前を通り過ぎようと足を向けた。
「こんなとこで知り合いに会うわけねーだろだから。大丈夫だって」
「じゃ、じゃあ会ったら責任とって言い訳考えて下さいよ!」
しかしその声に思わずぴたりと足を止める。この、声。毎日のように聞いている、その声。思わず足を止めたその途端に、カップルが漸くホテルの入り口から、現れた。
「…ほら誰もいねーじゃん。お前意識しすぎだって」
「あんたがしないから俺がしてんでしょーが!」
そう会話しているのは、紛れもなく自分の部下二人だった。ザップ・レンフロとレオナルド・ウォッチ。その二人が文句を言いあいながらもホテルから、出てきた。問題なのは二人が一緒に出てきたホテルが、通常のビジネスホテルとか旅行用のホテルではない、という点にあった。
―――――なんで。
二人が出てきたのは所謂ラブホテルだった。
翌日。おはよーございます、と異口同音のそれを聞いて顔を上げる。新聞を閉じて、おはようと二人に笑顔で返事をした。特に変わった様子は見られない。いつもの如く眠いだとかもう暑いとか、世間話をしながらソファに座って二人は話し始めている。
――――いや。
そもそも、ホテルから一緒に出てくるんだから最早”そういう”付き合いは結構長い筈だ。そういえば最近ザップが全く遅刻しなくなったのもそのせいかも知れない。目覚ましが一緒に寝起きしているのなら納得だ―――そこまで考えて慌てて新聞に目を戻した。
―――…社内恋愛ってどうなんだろう。
禁止されてたっけ?いや、そんな決まりそもそもなかったような…そう思いながら目を新聞に走らせたがどうも集中できず頭に何も入ってこなかった。株価が上がろうが下がろうが、国連が何を決議したか何を揉めているのか、今やそんなことよりも重大なことが圧し掛かっている。
「………いや、そもそもまだそうとは決まった訳じゃない」
小さな声だったが、丁度目の前を通り過ぎたギルベルト・F・アルトシュタインには聞こえたらしい。何か御用ですか、とにこやかに話しかけられて慌てた。「あ、いえ。何でもないんです」上擦った声でそう言うと、少しばかりギルベルトは驚いたように目を瞠ったが、結局にこやかに会釈をして去って行った。彼からすれば自分も子供のようなものかもしれない、そう思ってため息を吐く。
そう、まだ”そう”だとは決まった訳ではない。二人がラブホテルから出て来たからと言って、二人がそういう関係だとは決めつけられない。もしかして美人局にでもあったザップが無理矢理レオを呼び出してカツアゲをしたのかも知れないし、たまたま揉め事にでも巻き込まれて二人一緒にホテルに入る羽目になったのかも知れない。どちらにせよ、何にせよ、このヘルサレムズ・ロットではありがちな出来事だった。
「………………。」
新聞を読むのを諦めることにした。今読もうがどうせ大勢に影響はない。夕刊で補完するよと珍しく投げやりなことを思って新聞を畳んだ。窓の外には霧の海、そして部屋の中には仲のいい部下達が楽しそうに喋っている。キッチンからはケトルが湯を沸かす音がして、自分の時計はカチコチといつも通り時を刻んでいた。
―――――けれど。
「…クラウスー」
なぜか迷子のような気分に陥った。
のろのろと彼の机まで歩いて行くと、そこには今朝挨拶した時と寸分たがわぬ様子で座っているクラウス・V・ラインヘルツがいる。スティーブンの呼び声に気付いて顔を上げたが、直後きょとんとしたように少し首を傾げた。
「何だねスティーブン。…どうも元気がない…ように見えるが」
「…よく分かるね」
それは分かる、と言われて後、クラウスが再度どうしたんだと聞いてくる。「…どうしたんだろう」恐らくこれは戸惑いと混乱だ、と思いながらずるずると隣室にクラウスを引っ張った。当然、相談をしたかったのだ。
―――いや。
待てよ、とそこで思い直す。クラウスにこんな話をしていいのだろうか。いや、勿論彼だっていい大人だし、幾ら純粋だからと言ってそういう話が出来ない訳ではない。ちゃんと素人じゃない人とは普通に遊べる(彼には遊ぶと言う概念が無いが)んだし―――や、いや?それでもいいのか?クラウスにこんな話、しても。
「…わかった。俺がしたくないんだ」
「?どうしたんださっきから。体調が悪いのかね」
違うんだけど、と言いながら振り向いて友人の顔を見上げる。彼のきょとんとしている顔を見ていたら矢鱈と安心した。
「…なんでもない。悪かった。何でもないんだ」
「いや、何でもないことはないだろう。どうしたんだ」
「何でもない何でもない。本当に」
「…らしくない」
分かり易い嘘だ、と指摘されて頭を掻いた。どうも変なところは鈍いのにこういうところはいやに鋭い。「…何でもないことはないんだが、あー、その……言いたくは、無い…話なんだ」自分から呼び出しておいて一体この言い草は何なんだ。そう自分でも思ったのだからクラウスでもそう思うだろう。そう思ってちらりと友人の顔を見上げると、クラウスはそうか、と一言だけ言って頷いた。
「…それなら、君が言いたくなる時まで待とう」
言いたくないのなら、と付け加えてクラウスはぽん、とスティーブンの肩を叩いて少し口角を上げた。恐らく励ますつもりで、フォローのつもりで叩かれたのだろうがその重みが罪悪感となって心に負担をかけた。何でこの男はこんなにいい奴なんだ。たまに思うけど君はもう少し狡く生きるべきだと思うよ。そう思ったが口にしても無駄なのでやめておいた。
「…………………ありがとう」
にしても少しは負担が軽減された。根本的な問題は解決してはいないのだが、クラウスと話すとやはり、落ち着く。それは昔からそうだったし、恐らくそういう気持ちにさせてくれる男なのだ、とスティーブンは思ってつられたように笑った。だからこういう話をするのが嫌なのかというと多分そういう訳ではない。自分がクラウスに負担をかけるのが嫌なのだろうとスティーブンは思った。胃に穴を開けさせるわけにはいかない。
「………グ―――モ――――ニ――――ン…」
日本語で言えばおはよう、ドイツ語で言えばグーテンモルゲン。それはともかくとして気怠そうな声で二人に声がかけられた。「…来たわよ―――、そんでー?今日は何用なのクラっちー」ドアに寄りかかりながら腕を組み、眼光鋭い美女がそこに立っている。低血圧なのだろうか、少しばかり顔色が悪い。ただし欠伸をする姿もどうしてか様になっていた。「…あらオハヨ。あなたもいたのね」見れば分かるだろうに、そう言って手を上げる彼女を見てスティーブンは気が付いた。―――あ。そうだ。
「おはようK.K.。足労かけて悪かっ―――」
「君がいた」
思わず友人の言葉を遮ってそう言った。「……ハ?」指を指されたK.K.は左目をぱちくりとさせつつも、こちらを睨むように見返している。「…そうか。そうだな。君がいるじゃないか」一人でそう納得してうんうんと頷いているスティーブンを少しだけ不思議そうにクラウスは見下ろしたが、結局K.K.に話の続きを話し始めた。友人が元気になったようだからいい、と判断したらしい。
一方K.K.と言えば、クラウスの話を聞きながらも疑心に満ちた目でスティーブンを睨んでいた。そんなに睨むことないじゃないか、と心外に思う。何も言ってないのに。
何も言っていないからだ、ということが原因の一端を担っているとは気が付かない。
かつんかつんというヒールの音に目をやると、朝と同じ出で立ちでこちらに歩いてくる同僚を見つけた。にっこりと笑顔で手を上げると、顔を顰めたままカウンターの席に乱暴に座られた。何をそんなに怒っているんだ、とは思ったが口にしなかった。答えてくれないと分かっているからだ。
「…で?呼び出したからには重大な事なんでしょうね。アタシも暇じゃないの」
「わかってるよ」
一日はつつがなく終わった。珍しく何も起きなかったから特に出動することもなく、事務整理をするレオと、それを邪魔するザップ、それから事務処理を教わるツェッド・オブライエンを見つめながらスティーブンはスティーブンで仕事を終えた。久々に夜六時でレオとザップとツェッドが帰社する(厳密に言えばツェッドは違うが)運びとなった後の夜八時。それじゃあとクラウスに笑顔で手を上げてそのままたまに行くバーに向かった。カウンターに座ること十四分。呼び出した相手がたった今やってきたところだ。
「…で?何したの?ミスタ・クラウスには言えないことなんでしょ」
「…………、…。」
少し驚いて隣に座るK.K.に目をやると何よと呆れたように返事をされた。「アタシじゃなくても分かるわよそれくらい。わざわざこんなところまで呼び出すくらいなんだから、よっぽどでしょ」そう言い終わった後、バーテンダーにカクテルを注文するK.K.を見てぱちくりと目を瞬かせる。そうなの?そういう――ものなのか。
「…そんなに分かり易いかな」
「分かり難いわよ。でも動揺すると行動パターンが同じでしょ、あなた」
「……そうなのか」
勉強になったよと苦笑するといいから早く話して頂戴、と怒った様にK.K.は言った。「さっさと帰りたいの」正直である。まあしょうがない、とまた苦笑してスティーブンは続けた。「…いやあの、君の私見を聞かせて欲しいだけなんだけど―――」そう切り出す。
三分後。
「バカなの?」
面と向かって女性からバカと言われることは無い訳ではないし、むしろ結構あるのだが、こうも甘くない、辛口のバカを言われたのは何年ぶりだろう。ふとそんな風に思ってしまうくらい彼女の口調は厳しかった。厳しいというか当たりが強いというか。
「ていうかアタシそんなことで業務時間外に呼び出されたの?バカなの?」
「そんなに怒らなくても」
「怒ってないわよ。呆れてんの」
ホントバカね、と繰り返してK.K.は続いて二杯目のカクテルをバーテンに頼んだ。呆れてる割に怒った口調だ、と思いながらスティーブンは皿に乗ったクリームチーズを一つ掴んだ。包装紙が擦れて音を立てる。
K.K.はグラスを傾けて一口カクテルを飲むと、面倒臭そうな顔をしてスティーブンの方を見た。何もそんな顔をしなくとも、と何度目とも知らぬことを思った。
「あのサー、レオっちはともかくとして、ザップっちが男と付き合うなんてあると思う?」
「………可能性はゼロに近いと思う」
「近いどころかゼロでしょ、ゼロ」
今年に入ってあの男何度問題起こしてると思ってる――?と聞かれて思い出す。確か冬の頃に二度、春に入ってからも三度程刃傷沙汰を起こしている。いずれも軽症で済んだので入院はしなかったが、調査途中だったので地味に任務に影響が出た。知っているだけでそれだけあるのだから、スティーブンが知らない、痴情の縺れも幾つか他にあったのだろう。
確かに、と納得しかけたがいやいやと慌てて首を振る。「でも少年……レオが来てからそういうことは起きてないように思えるが」「そんなことないわよ」きっぱりとK.K.は否定すると、無いわよと再度同じことを言った。
「数が少なくなっただけでしょ。ま、あの二人確かに気は合うみたいだから、今まで女の子と遊んでた時間をちょろっとレオっちに回すようになったんじゃないの?ま、言えばザップっちは絶対否定するけどねー」
グラスが傾けられる。チェリーがピンク色の液体に沈み始めたのを見つめながら、ふうんとスティーブンは考え込んだ。そう言われてしまうと確かにそうも思える。というより、二人が付き合っているというよりもその考えの方がはるかに現実的だった。
「………それからザップも遅刻をしなくなったし。ここ最近だけど」
「そりゃ考えを改めたんじゃないの」
「それは無いだろ」
思わず真顔でそう言うと、一瞬K.K.は虚を衝かれたような顔になったがすぐにくすくすと笑いだした。自分といる時の彼女がこんな風に笑うのはひどく珍しかったので、変な感じがする。顔を上げて、同僚はそうねとまた笑顔のまま肯定した。「それはあなたの言う通りかも」
だろう、と言う前にバーテンがK.K.の前に花が乗った白いカクテルを置いた。きょとんとして顔を上げると、形容しがたい表情のバーテン(つまり人間の容貌をしていなかった)は、あちらのお客様からです、とK.K.に淡々と告げてすいと端に座っている客の方を示す。宇宙人とも異星人とも人間とも言い難いスーツの男性が二人座ってひらひらと手を振っていた。
「…悪いけどこの後の予定はいっぱいなの、とでも言っておいてくれる?」
そう言うK.K.にバーテンは会釈で返すと、カウンターの端に去って行った。一応俺がいるんだけどね、と呟くとやめて頂戴とK.K.はまるで苦虫を噛み潰したような顔になった。
「…一応こうとでも言っておかないと。幾ら何でも格好がつかないじゃないか」
「ホントいつでも格好を付けることばかり考えてるわよね。男って」
「君たちにそう望まれてるからね」
憎たらしいことしか言わない男、とK.K.は嫌そうに言ってため息を吐くと、カクテルの上の花をちょんと突いた。花が揺れる。「…ま、そーいうことでしょ。ザップっちだって」
え、と聞き返したがK.K.はそれを無視して自分が頼んでいたカクテルの方を手に取った。
「…で?他になんか疑問点はあるわけ?納得いかない点は」
「え。えーと…あの、ほら。そもそも僕が見たそれは何だったんだろうって」
「それはあなたが考えた通りでしょ。レオっちがザップっちに無理矢理呼び出されたのよ」
どーせまた美人局にでもあったのかそれとも金が足りなくなったのかどっちかでしょ、と続けてK.K.はため息を吐いた。しょうもないとでも言いたげなのがありありと分かる。
「…レオは矢鱈とホテルを出る時に気を配っていたけれど」
「そりゃ見られたら現行犯だからでしょ。ザップっちはそーいうの気にしなさげだけどレオっちはけっこー気にしそうじゃない?あの子、どー見ても初心じゃない」
それ以外に何かある、と聞かれて少し考えた。しかし別段何も思いつかない。確かに、その可能性が一番高いような気がした。「…それもそうか」そう言って自分もやっと注文したロックを一口口に入れる。氷はとっくに砕けてしまっていた。
「大体サー、あなたどーするのよ。それ」
「え?」
K.K.は呆れた様子を隠そうともせずにだからあ、と続けた。
「二人が付き合ってたからってどーすんの」
「え。…………、……えーと……どう…しよう…?」
その不安定な回答に、K.K.は胡乱げな瞳でスティーブンを見つめてきた。「…バカなの?」
それはさっきも聞いたよ、とスティーブンは肩を竦めてそう言った。
どうしてか少しだけ、落ち着いた。
会計をするタイミングでスティーブンは財布をすぐさま引っ張り出したが、K.K.はヤメテ頂戴と顔を物凄く顰めると自分の分を支払った。「あなたに借りを作りたくないの」何もこのくらいで恩着せがましいことをするわけないじゃないか。そう思ったが、恐らくそういう問題ではないのだろう、と判断して何も言えなくなった。何で本当、こんなに嫌われているんだろう。よく分からない。
送ろうと言ってバーが入ったビルの手前の道を二人で歩いた。大通りに出られればタクシーを捉まえられるが、バーは少しばかり込み入った場所にあった。K.K.は案の定眉間に皺を寄せていいわよと断ったが、そこはスティーブンも譲らなかった。いいから、と何がいいのかよく分からない漠然とした決まり文句を言うと、K.K.は面倒になったのか黙って歩き出したので、その隣を慌てて歩いた。かつんかつんというヒールの音が道に響く。
「…多分ね」
遠くから人混みの喧騒の音、救急車の音、パトカーの音が聞こえてくる。いつもの夜だった。K.K.は何も言わなかったが多分聞いているのだろう、とスティーブンは判断した。
「……その…プライベートなことを一々報告する必要はないだろう。僕もそうだし、君もそうだ。言いたいこともあれば言いたくないことだってあるしね」
やはりK.K.からは返事は無かったが、構わず続けた。
「…………僕は冷めてると思われがちだけど」
「ていうか、そうでしょ」
やっと返事がきたと思えばそれか、とスティーブンは苦笑する。「…そうなんだけどね。クラウスがああだから」「クラっちのせいにしないで」やっとこちらを見たかと思えば口を尖らせている。ていうかむしろ彼女のこういう顔の方が見ることが多いな、と思った。
「…まあ、その―――、…何というのかなあ。もしあの二人が付き合ってたりとか、したらさ」
少し言葉を切って考えた。K.K.は無言でこちらを怪訝な瞳で見つめている。自分が考えも固まっていないのに話を続けるのが珍しいからだろう。
「……意外、というか。慮外…っていうのかな」
「淋しかったって言えばいいでしょ。知らせてくれないんだー、的な」
「そう、…そういう言い方は……」
僕らしくないだろう、と少し焦って言うと、そーねとK.K.は肯定した。ご丁寧にもこくこくと目を瞑って頷いている。そのあと突然こちらを振り向いた。なぜか気まずかったので目を逸らすと、今度は彼女の楽しげな笑い声が聞こえたから、何なんだと怪訝に思った。ついていけていない。
「そーいうとこ」
「え」
「そーいうところよ。アタシがあなたの嫌いなとこ」
逆に好きなとこはって聞かれても言えないけどね―――、とK.K.は言うとすたすたと先に歩き出した。一体何がどうなって、とも言えずその後を追う。いつもはこんなに狼狽することはないし、動揺することもない。どうもこの問題は調子が狂って仕方ない。
少し先を歩いていたK.K.がくるりと身体を反転させて後ろを振り向く。ぱっとコートが風に舞うように翻った。両手を後ろに組んでいる姿を見て、どうしてかいつもより無邪気に見えた。とっくの昔に酸いも甘いも噛み分けている、大人なのに。
「ま、いーでしょ。結局付き合ってないんだろうし」
「…そうだね。君をこんなことに付き合わせて悪かった」
「全くね」
口調の割に、同僚は怒った様子ではなかったし苛立った様子でもなかった。悪戯っぽく笑っているそれはたまにクラウスの前で見えるものと同じだ。
「…ま、あなたがそー思えるようになったんだからいーことかもね」
「え?」
「べっつにー」
帰るわよ、と言って笑った同僚の顔を見て、つられて笑顔になった。あら珍しい、それは君もだ、そんな風に会話していた――――のだったが。
ぴたり、とK.K.の動きが止まった。
「?」
首を傾げたスティーブンの後ろ――だろう。そこに、K.K.の視線が固定された。しかしそれも一瞬のことで、恐らく普通の人間であれば気が付かなかっただろう。残念、いや幸運なことにスティーブンは普通の人間ではない。秘密結社ライブラに所属している、人間だった。
後ろを振り向こうと足を止める。途端にぐい、と思いきり顔を掴まれた。
「い、っ…だだだだだだだ!痛い!?痛いんだけけど!?」
「るっさいわねー夜中に大声出さないでよ!!」
「それは君も…っていうかなんだい!?痛い!耳!耳掴まれてるよね!?」
「気のせいよ!」
絶対そんなことはない、いいえそんなことはあるわ、そうやっていい大人だったがぎゃあぎゃあと騒いだ。雑踏で響いているのは自分たちの声だけで、殆ど人通りが無い。訝しげな眼でもって見られたが、すぐにそそくさと離れていく住民を見つめながら、気が付いた。そうだ。今立っているのは、バーの入っていたビルから二、三軒目の前。そこに来るまではたしか小さい、そう、確か―――、
「おーいレオ―、はよ来い」
その声。
あー、とK.K.がしくじった、とでも言いたげな顔になる。そして唐突に手がぱっと離された。耳がじんじんとしているが、ともかく解放された。痛いよ、と一言だけ伝えて、くるりと後ろを振り向く。K.K.は肩を竦めてそりゃ悪かったわ、とやはり一言だけ返してきた。
「ちょ、あの、あんた…少し俺を労るっていう、…あー、いってー…」
その声も、毎日のように聞いている部下の声だ。青年というよりは少年で、そして今日も朝から聞いていた、その、声。目を眇めるようにしてその建物の入り口を見つめる。
すとん、と入口の階段から街路に降り立ったのはザップ・レンフロだった。
「体力ねーの」
笑ってそう言いながら腰に手を当てて誰かを待っている。誰か―――などと言う言い方をするのもおかしいくらい、誰がその建物から出てくるのかはわかり切っていた。
「あんたがおかしいんすよ……」
「なに言ってんだアホ。俺はご希望に添ってやったまでだっつーの」
「俺はそんな希望言ってねーよ!」
ほら、と笑いながらザップは再び件の建物の中に戻って行く。しかしすぐに”誰か”の手を引いて戻ってきた。最早、考えるまでもない。
「…もー俺ホテルですんのヤなんすけど。ザップさんテンション矢鱈たっけーし」
「だってお前ヤリ部屋やだって言ってたじゃん」
「あそこはもっとヤです」
顔を顰めたレオに、そんじゃどーすんだよ、と笑ったザップが首をかしげている。「あー、事務所か」「はあ?じょーだん止めてくださいよ」「だって社内恋愛じゃん。ヤるしかないだろ」そーですけどそれは絶対ヤですよ、と言ったレオの顔は赤かった。
「あ、て、ていうかちょっと誰もいませんよね!?」
怯えたようにそう言ったレオが、慌ててザップの陰に隠れながら辺りをきょろきょろと見渡した。神々の義眼も使いそうな勢いだ。つまり二人が出てきたその建物はこの間と同じそれだった。そして、この間は丁度見つからない位置にいたが、残念なことに。
「またかよー。オマエさー、一々気にし過ぎ……………、………………。」
たった今スティーブンは道の真ん中にK.K.と一緒に突っ立っている。
「…………………………。」
「………………………。」
「…………………………。」
「………、……えーっと。こんばんはーザップっちー。レオっちー」
場違いに明るいK.K.の声が、路地に響いた。
ヘルサレムズ・ロットは霧の街だ。毎朝毎晩どころか、昼日中だって街は霧に包まれている。その光景をぼんやりと見つめながら事務所でいつも通りの朝を過ごす。ギルベルトに入れて貰ったコーヒーはすごく美味しかった。毎日の事だ。
「…そーんなにさー」
怒ることないじゃなーい、と溜息を吐きながらK.K.が手に顎を乗せてスティーブンに声をかけた。恐らく呆れたような顔をしているのだと思うが、スティーブンは窓の外を見ているから分からない。彼女の分のコーヒーも同じようにギルベルトが入れてくれていた。
「…別に怒ってはないけれど。君に嘘を吐かれたなあ、と思って」
「嫌味な男ね。あのさー、名誉の為に言っておくけど、アタシだって好きであんなコト言ったわけじゃないからね。頼まれたんだから」
「頼まれた、ねえ」
昨晩も聞いたそれを聞きながら肩を竦める。くるりと後ろを振り向くと、K.K.は澄ました顔でコーヒーを飲んでいた。「私もあなたと同じでサー、ちょーどあーやって出てくる二人と鉢合わせしちゃったの。そっからよー、レオっちが矢鱈気にするようになったの」なのにまた同じことを繰り返しているのだから世話は無い。そう思ってコーヒーを一口また口に入れた。
「……あのう」
そこで恐る恐るといった様子で声がかけられた。つまり、この場にはもう二人人間が揃っている。レオとザップ、二人も並んでソファに座っていた。レオはもう朝来たときから緊張しきりで俯きつつ、膝をぎゅうと掴んで黙っている。ザップとは言えば最早どうにでもなれといった様子で、だらだらとソファに寄りかかって葉巻を喫っていた。寧ろいつもより酷いかもしれない。
「…お、おおお、怒ってますか?」
「怒ってないって。と、いうより少年。君は一体何をそんなに怯えてるんだ」
胡乱げにそう言うと、だってあの、と慌てたようにレオはやっと顔を上げた。目の下に隈が出来ている。眠れなかったのかも知れない。やっとザップが天井に向けていた顔を元に戻す。しかし、スティーブンの方に視線は向けてこなかった。
「だ、だ、だってその、つまり」
「落ち着きなさい。何も言ってないだろうに」
「そ、そ、そのあのえーっと」
緊張なのか焦燥なのか、ともかく言葉が全く出てこないレオを見かねたのかザップが葉巻を灰皿に押し付けて、もーいいよオマエちょっと黙ってろ、と呆れたように言った。「…そーいう訳なんすけどスターフェイズさん。俺ら付き合ってます」「あ」あう、とレオは意味不明なことを言って俯いた。耳が赤くなっていた。
「…社内恋愛は禁止ですか」
ザップはそうとだけ言って笑うと、首を傾げた。社内恋愛、という響きは何だかドラマみたいだとスティーブンは思う。そんなドラマ、しばらく見てもいないのだが。
「…そーいう決まりは今のところないね。ザップ。少年も、顔を上げなさい」
「アー、今こいつカオ真っ赤なんで駄目です」
どういうわけかすぐさまザップが断りを入れた。そうかい、と苦笑するとレオがザップの背中を叩いた。確かに耳はまだ赤かった。
「…ま、業務に支障が出ない程度に」
「ハイ」
分かりました、と手を上げてザップは頷いた。はい、と弱弱しい声が聞こえると思えばレオだった。顔を押さえて俯きながらもこくこくと頷いている。居た堪れない、らしい。昨夜もあちゃあと言う顔をしたザップと違って、物凄く混乱していて死にそうな顔をしていた。『だから言ったのにだから言ったのにだから言ったのにザップさんのバカザップさんのバカあああああああ死にたいあああああ』『うるせーなー!?ちょっと黙ってろバカ』そう言った後ザップが手刀を喰らわせて気絶させていたのだから余程である。
「オマエさー、何なの?何でオッケー出たのにそんな感じなの?」
「るせーなてめーにはわかんねーよ!」
「口調変わってるよーレオっちー」
オウてめえコラ今なんつった、るせーよという罵詈雑言を背景に聞きながら外を見つめる。案の定霧の街ヘルサレムズ・ロットは変わらない。もやもやとした光景が外には漂っては、いた。
――――まあ。
いいんだろう、こんなかんじで、と思う。外は相変わらずの霧空で、自分の気持ちはどうかと言われれば余り変わっていない。一昨日の夜、二人がホテルから出てきたところを見たところから、変わってない。それが一体何に起因するのかよくわからない。K.K.に言われた言葉も何も解決していない。さてそれじゃあどうしたいのか、と言われても。解決方法は分からない。
――――けれども。
別にそれでいいんだろう。世界は全ての問題に、回答を用意してくれているわけじゃない。納得とか、了解とか、色々言い方はあるかも知れないが。
「……あの、」
ふと声の方を見ると、レオがのろのろとソファから近寄って来ていた。うつむき加減だが耳は既に赤くなかったから、赤面は収まったのかも知れない。ソファではK.K.とザップが何やら話していた。
「…すみません。黙ってて」
「?」
別段言う必要はないだろう、そんなことをスティーブンが言うと、でもと言いながらレオは顔を上げた。顔はやはり少しだけ赤かったが、ピークは脱したらしい。
「…で、でも。フツー話すじゃないですか。こんな感じの職場ですし。しかもなんか僕とあの人組むこと多いし」
「……まあ、そうかも知れないけれど…」
あの人、という言い方に何とも言えないくすぐったさを感じる。微笑ましいと思いながら、続きを待った。
「…僕が隠したかったので、その」
すみません、と言うとレオは頭を下げた。「…あの……こ、このまま」付き合ってても大丈夫ですか、とレオは分かり切った質問をした。そんなのとっくにスティーブンの中では答えは決まっているし、そもそも二人が付き合っていること自体については別段問題の一かけらすら見つからない。強いて言えば絶倫と噂のザップと付き合っているレオの身体が心配なだけだ。
「…もちろん悪い事はないよ。結婚する時はハネムーンに中々行かせてあげられないかも知れないけどね」
「け、結婚って」
それは無いですよ、とレオは顔を上げて笑った。そうかな、とスティーブンもつられて笑う。やっぱり、と思う。クラウスと、K.K.と、それからレオナルドと話して分かった。同僚と、友人と、それから部下と話すだけだけど。
多分それが自分を作っている。
「…あー、そうだそうだ、ザップ」
はい?とK.K.と話していたザップがきょとんとした声をあげて、こちらを見た。綺麗な瞳がぱちくりとしているのを見ると、少し幼く見えた。
スティーブンはにこりと笑みを作って、口を開いた。
「事務所はNGだ」
う、とザップが決まり悪そうな顔をして、
レオはぎしりと固まって、
K.K.は呆れた顔をしてため息を吐いた。
そして今日もまた、喧騒と霧に包まれた一日が始まる。
その後ツェッドにも二人の関係がばれたりして滅茶苦茶揉めるのだが。
それはまた別の話である。
終